第210回 放送と青少年に関する委員会

第210回-2019年1月22日

視聴者からの意見について…など

2019年1月22日、第210回青少年委員会をBPO第1会議室で開催し、6人の委員が出席しました。(1人の委員は所用のため欠席)
委員会では、まず12月1日から1月15日までに寄せられた視聴者意見について意見を交わしました。
教師がクラスの生徒を人質にし、刺殺するシーンのある連続ドラマについて、「学園が舞台なので中高生も見る。悪影響が心配だ」「生徒をナイフで刺し殺すなど内容が過激だ」などの意見が寄せられました。これについて、委員からは、「刺殺シーンに関しては映像的な配慮はなされていた」「ドラマとして出来栄えは良いので、次回以降を見守りたい」などの意見が出されました。
12月の中高生モニターのリポートのテーマは「年末年始に見た番組について」でした。31人から報告がありました。
モニターからは、大みそか恒例の音楽番組について「過去の映像から始まり、今までの時代を彩ってきた歌の数々に"平成最後"ということをしみじみと感じた。最も印象に残ったのは、最後のサザンオールスターズのステージだった。松任谷由実さんが一緒に歌っていた時に、この光景がどれだけ貴重なものかを実感した。歌の力は本当にあるんだなと感じた。毎年視聴者を飽きさせないための番組作りは大変だと思うが、次の放送も楽しみにしたい」「今年は今まで見た中で一番楽しめました。私は、ほとんどが知っている歌手や歌で飽きることがありませんが、お年寄りの方はどのように思うのか気になっていました。しかし、今年はどの世代も知っている歌手が多く出演していると感じ、年の瀬に相応しい家族全員が楽しめる内容だったと思います」、大みそかの長時間バラエティー番組について「年々、面白さの凄味が増しているように思う。その理由は、パターン化されたシチュエーションをさらに面白くできる芸人たちのクオリティだと思う。出演者は、長年一緒にやってきただけあって、その連携や笑いの連鎖の作り方は見事だ」、五代目三遊亭圓楽さんの生涯を描いたスペシャルドラマについて「圓楽さんのどんなに周りから妬まれようとひねくれることもなく、自分の思う落語を貫き通す姿、これは現代の人たちに不足している力だと思います。笑いで革命を起こすんだという発言に私はとても共感しました。笑いを取ることは簡単なことではなくリスクも伴うので、非常に頭を使わないと本当の笑いは取れない。その意味で芸人さんや名司会者など笑いを取れる方々を私は尊敬します」、などの意見が寄せらせました。委員会では、これらの意見について議論しました。
次回は2月26日に定例委員会を開催します。

議事の詳細

日時
2019年1月22日(火) 午後4時30分~午後6時30分
場所
「放送倫理・番組向上機構 [BPO] 」第1会議室(千代田放送会館7階)
議題
視聴者からの意見について
中高生モニター報告について
調査研究について
今後の予定について
出席者
榊原洋一委員長、緑川由香副委員長、稲増龍夫委員、大平健委員、中橋雄委員、吉永みち子委員

視聴者からの意見について

教師がクラスの生徒たちを監禁し、刺殺するシーンのある連続ドラマの初回放送について「学園が舞台で中高生も見ると思う。悪影響が心配だ」「生徒を暴行の上、殺害するのは、やり過ぎだ」「生徒をナイフで刺し殺すなどあまりに内容が過激だ」などといった意見が寄せられました。これに対し委員からは「シチュエーションとしては問題があるかもしれないが、刺殺シーンに関しては映像的な配慮はなされていた」「ドラマとしての出来栄えは良いので、次回以降も見て判断するべきだ」との意見が出されました。
バラエティー番組で、罰ゲームとしてお笑い芸人を遊園地内に設置した檻に閉じ込め、その姿を一般公開した企画について「子どもが似たような遊びを始めた場合、いじめにつながる」「視聴していた未成年者を思うと健全な倫理観を育めるとは思えない」といった意見が寄せられました。これに対し委員からは、「バラエティー番組としての許容範囲を著しく逸脱しているとは思えない」「遊園地に見物人が殺到することにまで想像力が至らなかった点については、番組担当者は反省するべきだ」との意見が出ました。
これらの件に関しては、これ以上話し合う必要ない、となりました。

中高生モニター報告について

34人の中高生モニターにお願いした1月のテーマは、「年末年始に見た番組について」でした。また「自由記述」と「青少年へのおすすめ番組について」の欄も設けました。全部で31人から報告がありました。
「年末年始に見た番組について」では、ひとりで2つの番組を報告したモニターが2人おり、全部で19番組について報告がありました。今回、複数のモニターが取り上げた番組は4番組で、『第69回紅白歌合戦』(NHK総合)9人、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!年越しSP!絶対に笑ってはいけないトレジャーハンター24時!』(日本テレビ)5人、『古館トーキングヒストリー』(テレビ朝日)と『レ・ミゼラブル 終わりなき旅路』(フジテレビ)にそれぞれ2人から報告がありました。
「自由記述」では、あるバラエティー番組が呼びかけたイベントが混乱をきたし中止になった騒動について意見を述べたモニターが2人いました。
「青少年へのおすすめ番組」では、『関口宏の東京フレンドパーク 元日SP』(TBSテレビ)を3人、『ポツンと一軒家』(朝日放送)と『祝!50周年イヤー突入 サザエさんお正月スペシャル』(フジテレビ)を2人のモニターが取り上げています。

◆委員の感想◆

  • 【年末年始に見た番組について】

    • 年末年始の番組は「定番」が多く、お決まりの番組であるからかモニターたちの報告もなんとなく安定していてわかりやすくリポートされているという印象がある。

    • 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!年越しSP!絶対に笑ってはいけないトレジャーハンター24時!』(日本テレビ)複数のモニターが、毎年放送が待ちきれないなどの表現で番組への期待感を表しているので、若い人たちにとっては大きな存在なのだろうと思う。しかし一方で視聴していてたまに嫌な気持ちになるとも言っている。つまり罰ゲームが痛々しいということらしいのだが、そこも含めてこの番組が面白いということなのだろう。

    • 『第69回紅白歌合戦』(NHK総合)大みそかの過ごし方の定番として見ている家庭が今もあるということがわかる。今回の「30年を振り返る特別感」をモニターたちも評価しているようだ。

    • ラジオの番組で「新しいパーソナリティーを発掘する」というコンセプトが気になって聴取したという報告があった。このようなキャッチーなコンセプトがあれば中学生をラジオがひきつけたりすることがあるのだと思い興味深い。

    • 今回のテーマでモニターたちの報告を読んで、多くの人が共通のものを見るということの意味を感じた。マンネリ化しているかもしれないが、みんなが見るということで一体感のようなものを持てることに意味がある。大勢の人が共感し合えるコンテンツがあるということは、それだけで価値のあることなのだと思う。

  • 【自由記述について】

    • 「番組制作スタッフの姿が番組内で映ることがよくあるが、裏方の人は表に出ずに番組を作る方がかっこいいと思う。作る人は作るプロに徹し、出演する人は演じるプロに徹している番組の方が、観ていて気持ちがいい」という意見があった。かつて80年代のテレビ論では、スタッフをテレビに出したことが新鮮だった。テレビは完璧なパッケージを見せるのではなく、進行形の過程を見せることがテレビだ、という風潮もあったが、時代は一回転して、それは古臭いというふうになってしまっている。

    • インターネットとテレビの共存について「インターネットコンテンツとの連携によりテレビはもっと面白くできる」という意見に感心した。

◆モニターからの報告◆

  • 【年末年始に見た番組について】

    • 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!年越しSP!絶対に笑ってはいけないトレジャーハンター24時!』(テレビ新潟・日本テレビ)大みそかには毎年必ず「ガキ使」を見ます。毎年笑わせてくれるので、飽きることなく大みそかを幸せに過ごすことができています。ですが、やっぱり痛々しいです。たまに嫌な気分になることもあります。(新潟・中学1年・女子)

    • 『第69回紅白歌合戦』(NHK総合)毎年、リアタイ(リアルタイム視聴)しています。もちろん家族と一緒にです。この番組はどの年代の人も楽しめるようなところが多く、工夫されているなと感じました。また、NHKと言えば何となくお堅いイメージを持ってしまいますが、いくつかの歌の間にあるコーナーはとても面白く、しかも家族みんなで笑えたりする、教育的にも全然問題のない笑いがある良い番組だと思います。年末になると「紅白派」と「ガキ使派」に分かれますが、私はいつも「紅白派」です。紅白を見ないと年が越せないような、そんな大事な番組です。(東京・中学2年・女子)

    • 『三四郎のオールナイトニッポン 2019新春初笑いSP』(ニッポン放送)新しいパーソナリティーを発掘するというコンセプトが気になり聴きました。街から中継をするコーナーでは、生放送らしくドタバタしていて面白かったです。亥年とかけた中継企画だと言っているのに、思ったよりも関係ない、そんな深夜のゆるさが楽しかったです。(岐阜・中学2年・女子)

    • 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!年越しSP!絶対に笑ってはいけないトレジャーハンター24時!』(長崎国際テレビ・日本テレビ)今回も初めから終わりまでたっぷり笑って年を越すことができる内容だった。罰ゲームは少々痛々しいところもあるが、爽快感がある。タイキックでは新たな取り組みもあり、ドキドキしながら見ることができて一視聴者というよりはその世界の中に入れたように感じた。このように面白い企画が多い番組だが、毎年私が見ないコーナーがある。芸人同士のけんかのコーナーだが、この企画は体を張ることが多く、食べ物を粗末に扱ったりもしていて下品だと思う。大みそかなので中高生だけでなく小学生も夜更かしをして見ている人が多いと思う。もちろんこのコーナーを望んでいる人もいるだろうから、せめてもう少し遅い時間に放送してほしいと思う。(長崎・中学3年・女子)

    • 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!年越しSP!絶対に笑ってはいけないトレジャーハンター24時!』(日本テレビ)年々面白さの凄味が増しているように思う。正直、パッとしない特番が続く中でこれだけの存在感を発揮する理由を考えた。まずはパターン化されたシチュエーションをさらに面白くできる演者のクオリティ。長年一緒にやってきただけあって、その連携や笑いの連鎖の作り出しは見ものだ。もう一つはギリギリの笑いを活かしたダウンタウンスタイルの魅力だろう。笑いに特化した番組構成はさすがの一言で、この番組に勝てるものはないと感じた。(東京・中学3年・男子)

    • 『ETV特集 移住 50年目の乗船名簿』(NHK Eテレ)政府に主導されるがままブラジルに移住し、労働力を雇う金、日本に帰る金もないなかで、強い覚悟をもとに、森を切り開き、家族が増えてゆき、人生がだんだんと広がっていくその姿が心に迫りました。一方で成功することなく家族も知り合いもいない異郷の地で亡くなった人もいることに心打たれました。ただただ苦難と苦闘の日々を描くだけでなく人生の悲しみと喜びと様々な感情や人間模様を感じとれる番組の構成は素晴らしく感じた。また日本人ブラジル移住の話は以前から聞いていたがその後の生活の様子や人生を聞いたことは無く、一般の関心よりも先行したテーマを取り上げているこの番組(テーマ)は、もっと多くの人に見てもらえる時間帯や、NHKスペシャルなどで放送するべきだったのではないかと残念に感じた。(神奈川・中学3年・男子)

    • 『あけましてねほりんぱほりん』(NHK Eテレ)4時間も生で見たとは思えないほど、あっという間に時間が過ぎた。今までの放送の総集編に併せ、出演者のその後や人形劇の裏側など、普段の放送だけでは知れないことも見られて、とても面白かった。特に印象に残ったことは、「LGBTのカップル」の放送回を見て、「自分はLGBTだったんだ。」と気づいた人達が、番組にお便りを送ってきたことだ。今の社会は、LGBTの人達に対して多少寛容にはなったが、一昔前の時代はそれを断固として認めようとはしなかった。差別した。そんな中、きっと誰かが勇気を出して声をあげたのだろう(誰かは知らないが)。その甲斐もあり、現在ではLGBTを認める方向へと世界が流れている。(ごく一部の保守的な人間は未だに「生産性がない」とか、「この人たちばかりになったら、国が潰れてしまう」などの思いやりのない言葉を投げ捨てているが)お便りを送ってきた人は、今回の放送を見てどれだけ勇気付けられただろうか。私たちがLGBTの人達のためにできることはなんだろう。そんなことも考えさせられた。また、視聴者からの意見では、良い意見(肯定的な意見)だけでなく、悪い意見(否定的な意見)も番組内で取り上げて、改善していく姿勢を示していたのはすごい。勇気がある。NHK深夜の看板番組になるのも時間の問題だ。(愛知・高校1年・男子)

    • お正月は家族みんなが集り、のんびりと過ごすことができる貴重な時間です。その時間を楽しく彩ってくれるテレビ。今は、趣味が細分化してきて、自分にあったものを見ようとすると、Youtubeやネット番組を見ることが多いです。しかし、家族そろって見るものとして、テレビ番組はやはり必要だな、と今回改めて感じました。年代、性別関係なくみんなが見て楽しむことができるものはとても貴重です。家族団欒の中心的役割をこれからも果たしてくれることを期待します。(福井・高校1年・女子)

    • 『第69回紅白歌合戦』(NHK総合)今回は、伝統と最先端を見たような気がしました。出演者の圧巻の歌声に、テレビにくぎ付けになりました。お年寄りから若者まで楽しめる番組ができていることに感心しました。やはりCMがないためにストレスなく見ることができるのは、NHKの強みだと感じました。(福岡・高校2年・女子)

    • 『第69回紅白歌合戦』(NHK総合)今回は平成最後の紅白ということもあってか、今までで一番盛大でかつ歌の力を感じた。オープニングは平成の紅白を振り返る「タイムトリップ」から始まる。もっとも印象に残ったのは、サザンオールスターズのステージだった。桑田佳祐さんと松任谷由実さんが一緒に歌っていたときに、一緒に見ていた母と叔母が「すごい!」と言っており、この光景がどれほど貴重なものなのかを実感した。今、日本で人気の歌はもちろん、日本の音楽シーンを引っ張ってきた曲たちの素晴らしさを改めて強く感じた。歌の力は本当にあると思えた。毎年、視聴者を飽きさせないための番組作りはとても大変なのだろうと思えた。次回の放送も楽しみにしていようと思った。(東京・高校2年・女子)

    • 『BS笑点ドラマスペシャル 五代目三遊亭圓楽』(BS日テレ)番組内で描かれていた圓楽さんのどんなに周りから妬まれようともひねくれることもなく、たんたんと自分の思う落語を貫き通す姿(これは私を含めて現代の一般人には不足している力だと思います)、圓楽さんを演じた方が言っていた「これからの日本に必要なのは笑いなのだ」という台詞など印象に残るものが多々ありましたが、私は笑いで革命を起こすんだというこの趣旨の発言に激しく共感しました。私は「笑い」の持つ意味は大きいと思います。人間の社会においては不可欠です。しかし、笑いを取るということはそんなに簡単なことではなくリスクも伴うので、非常に頭を使わないと本当の意味での笑いは取れません。そのような意味で芸人さんたちや名司会者さんたちや落語家さんたちをはじめとする笑いの取れる方々を私は尊敬します。人によってそのような仕事をくだらないなどといってみくだす方がいますが、そのような方々を中心として今一度笑いの持つ偉大な意味について考えていただきたいと思います。(埼玉・高校2年・男子)

    • 『レ・ミゼラブル 終わりなき旅路』(北海道文化放送・フジテレビ)今話題の吉沢亮さんが出ていたこともあり、吉沢さんが好きなクラスメイトも見ていました。題名や内容より、好きな俳優が出ているからと見始める人は結構多いと思うし、見始めると「意外と面白いかも」という場合もあります。いわゆる食わず嫌いのような「見ず嫌い」のような傾向が若い人にはあるかもしれません。今回のドラマのように人気の俳優を起用し、宣伝すれば番組を見てくれる人も増えると思いました。(北海道・高校2年・女子)

    • 『第69回紅白歌合戦』(NHK総合)毎年、見ています。今回は、今まで見た中で一番楽しめました。豪華な出演者の皆さんにも驚きました。私は本当に飽きることがありませんでしたが、お年寄りがどのように思ったか気になりました。しかし今回は、どの世代の人も知っている歌手の方が多く出演されていると感じ、年の瀬にふさわしく家族全員が楽しめる内容だったと思います。(東京・高校3年・女子)

    • 独特なキャラを持つ滝沢カレンが、知ってそうで知らないことや間違った常識を専門家と1対1で学んでいく、それをバイきんぐ小峠、おぎやはぎ矢作らがスタジオでツッコミながら見るという内容。結論から言うとめちゃくちゃ面白かった!特に、具志堅用高さんからボクシングを学ぶパートでのやり取りは、具志堅さんの天然さも相まって一人で大笑いしてしまった…。こういった1対1で話を聞く形には、極端な言い方をすれば聞き手が見ている自分より頭が良いと話についていけなくなる、というデメリットがあると思っている(その分、学をつければ面白いと思えることも増えていくんだろうな)。そのデメリットが、滝沢カレンさんの分かったふりをしないで分からないことはその場で聞き返す、素直に話すキャラクターのおかげで、ほとんど消えていたように思えた。見ている人が分からないことは滝沢さんが先に突っ込んで聞いてくれるので安心して見ていられる。見ている側としては、置いていかれないというのはとても重要な要素の一つだと思った。また、お勉強バラエティーと名乗っているだけあって、笑いながらもいままで知らなかったことを意外と多く知ることができたのも良かった。また見たいと感じる番組でとても面白かった!(東京・高校3年・男子)

  • 【自由記述】

    • レーダー照射問題で韓国が公開した反論映像は、BGMを入れたり文字が出たりしてなんだか怪しく見えた。だから、ニュースで事実を伝えるときは、加工をしないほうがよいと思う。(福岡・中学2年・男子)

    • 最近、番組制作スタッフの姿が番組内で映ることがよくありますが、私は、裏方の人は表に出ずに番組を作る方がかっこいいと思います。番組を作る人は作るプロに徹し、出演する人は演じるプロに徹している番組の方が、観ていて気持ちがいいです。(福岡・中学3年・女子)

    • 平日午後の情報番組ではいつも、出演者がひとつの話題について何日にも渡り自分の想像で議論しています。時間の無駄だし、事実かどうかもわからないただのおしゃべりをわざわざ放送して何が楽しいのだろうと思います。その場にいるだれも事実を知らないのに長々と話す意味がわかりません。度が過ぎていると不愉快になることもあります。(宮崎・高校1年・女子)

    • 近年、インターネット・スマホの普及によりテレビ離れが進んでいると言われているが、私はそうではないと思う。むしろ共存の道を歩んでいると思う。例えば番組とSNSを連携させてより楽しめるようにしている番組もある。インターネットコンテンツとの連携を図ることで、テレビはもっと面白くできるのではないかと、私は思う。(沖縄・高校1年・男子)

    • 今YouTubeのliveを見ていたら、テレビに関する話が出てきたので紹介する。やはり最近は、テレビを見ない人が多いらしい。テレビではなくYouTubeを見る理由としては、前に戻って見られるから、らしい。(シークバーがあるから)テレビでは、面白かったところや聞き逃したところを巻き戻せない。その点は確かに私も不便さを感じたことはある。しかしそれによって、一瞬一瞬を聞き逃さないようにしようとして、より充実した娯楽になるのではないか。一長一短である。(愛知・高校1年・男子)

    • バラエティー番組の企画で遊園地に大勢の人が押しかけてしまった騒ぎについてですが、その放送を私も見ていて、まさかそのような事態になるとは思わず驚きました。テレビの影響の大きさに驚かされました。(東京・高校3年・女子)

    • この前、NHKで放送していた新春TV放談を見た。去年も見た気がする。テレビにかかわるさまざまな人が去年のテレビ業界はどうだったか、これからどうなるかを話し合うといった内容。テレビが好きな身としては、いろいろな番組の話が出てくるし内容のある議論も見ることができてとても面白かった。特に、ネットに比べてテレビはソフト(番組)を作ることは長けているがハードとして不便(見たい時に見られない、ワンタッチで早戻りできない、など)なので、それをネットに持ってくればもう一回爆発が起こせる、という意見があった。本当にそうだと思う。互いの良さを生かしながら、より良く面白く、より大勢の人がテレビに関心を持つようになればいいなと思った。(東京・高校3年・男子)

  • 【青少年へのおすすめ番組】

    • 『祝!50周年イヤー突入 サザエさんお正月スペシャル』(フジテレビ)ほのぼのとした家族の日常になごみました。その一方で、番組全体を通し内容が平らで大きな面白さがないようにも感じました。(東京・中学2年・女子)

調査研究について

次期調査研究について、中橋雄委員が担当することに決まりました。

今後の予定について

  • 2月23日(土)東京で開催される第2回「学校の先生方との意見交換」について、進行案などについて検討しました。

以上

第133回 放送倫理検証委員会

第133回–2019年1月

日本テレビの『世界の果てまでイッテQ!』審議入り

第133回放送倫理検証委員会は1月11日に開催された。
海外ロケをした「祭り企画」にでっち上げの疑いがあると週刊誌が報じた日本テレビの『世界の果てまでイッテQ!』について、委員会は、当該放送局から提出された追加の報告書を含めて討議した結果、「どういう制作過程を経て番組ができたのか、番組制作者から直接話を聞いて、放送倫理上の問題について確認したい」として、審議入りすることを決めた。
なお、神田委員長は『世界の果てまでイッテQ!』の討議には参加していない。

議事の詳細

日時
2019年1月11日(金)午後5時~午後8時10分
場所
「放送倫理・番組向上機構[BPO]」第1会議室(千代田放送会館7階)
議題
出席者

神田委員長、是枝委員長代行、升味委員長代行、岸本委員、斎藤委員、渋谷委員、鈴木委員、中野委員、藤田委員

1. 「海外ロケの企画をでっち上げた疑いがある」と報じられた『世界の果てまでイッテQ!』について審議入り

日本テレビの「謎とき冒険バラエティー『世界の果てまでイッテQ!』」の「世界で一番盛り上がるのは何祭り?」というコーナー企画で、2017年2月12日放送の「タイのカリフラワー祭り」と2018年5月20日に放送された「ラオスの橋祭り」にでっち上げの疑いがあると週刊誌が報じた。日本テレビは「みなさまに疑念を抱かせ、ご心配をおかけする事態に至ったことについて深くお詫び申し上げます」と謝罪した上で、当面「祭り企画」を中止にしている。
委員会は、週刊誌が報じた二つの企画のほかにも、当該放送局に追加の報告書と放送済みの番組素材(DVD)の提出を求めて討議を継続した。問題が指摘されている「祭り企画」では、本来あった“世界の「祭り」に挑戦する”という要素が希薄化し、「祭り」の舞台設定やルールを番組用にアレンジしてしまった点で、海外で行われている祭りそのものだと思っている視聴者の信頼を裏切ることになったのではないかといった意見が相次いだ。また、複数の「祭り企画」を見ると、異なる「祭り」を同じナレーションで紹介している放送があり、長寿番組になる過程で、ナレーションや作り方が定型化してしまい、そのことが今回指摘されたような問題を看過する背景にあったのではないかという意見も出された。
その結果、委員会は、バラエティー番組の演出の視点に加え、こうした点について番組スタッフがどう考えていたのか、直接話を聞いて放送倫理上の問題について確認したいとして、二つの「祭り企画」を対象に審議入りすることを決めた。

以上

2018年11月19日

意見交換会(岩手)の概要

◆概要◆

青少年委員会は、言論と表現の自由を確保しつつ視聴者の基本的人権を擁護し、正確な放送と放送倫理の高揚に寄与するというBPOの目的の為、「視聴者と放送事業者を結ぶ回路としての機能」を果たすという役割を担っています。今回その活動の一環として、岩手県の放送局との相互理解を深め、番組向上に役立てることを目的に、2018年11月19日の14時から17時まで、「意見交換会」を開催しました。
BPOからは、榊原洋一 青少年委員会委員長、緑川由香 副委員長、吉永みち子 委員と高橋宗和BPO理事が参加しました。放送局の参加者は、NHK、アイビーシー岩手放送、テレビ岩手、岩手めんこいテレビ、岩手朝日テレビ、エフエム岩手の各連絡責任者、制作・報道・情報番組関係者など20人です。
会合ではまず、緑川副委員長から「青少年委員会が出してきた青少年が関わる事件・事故報道に関する見解について」を説明したのち、(1)「青少年が関わる事件・事故報道」について、(2)東日本大震災をはじめとする「災害報道における子ども、被災者への配慮」について活発に意見交換がなされました。最後に地元放送局を代表して岩手朝日テレビの長生常務取締役報道制作局長からご挨拶をいただきました。

〈青少年委員会が出してきた青少年が関わる事件・事故報道に関する見解について〉

(緑川副委員長)これまでに、BPOの青少年委員会が、幾つかの提言であるとか要望等を発表してきているが、本日はこの中から、青少年がかかわった事件や事故報道について、青少年委員会が出した提言や要望について、簡単に概観をご説明させていただきます。
BPOの青少年委員会が発表した4つの見解については、まず1番目として、2002年3月15日に、「衝撃的な事件・事故報道の子どもへの配慮」について提言を出している。続いて、2005年2月19日に、「児童殺傷事件等の報道」についての要望を発表している。3番目に、2012年3月2日に、子どもへの影響を配慮した震災報道についての要望を出している。直近のものとして、2015年4月28日に、ネット情報の取り扱いに関する委員長コメントを発表している。
1番目の「衝撃的な事件・事故報道の子どもへの配慮」についての提言。これは2002年3月15日に発表したもので、当時、1997年の神戸の少年連続殺傷事件、この発表の前年にあった2001年の池田小学校児童殺傷事件と2001年のアメリカ同時多発テロ事件、これらの重大な事件が続発する時代状況において、衝撃的なテレビニュースや報道番組の子どもへの影響を議論し、放送関係者に対して問題提起をしたものである。
まず、ジャーナリズムの責務と子どもへの配慮ということで、テレビ報道が「事実」を伝えるのは、国民の「知る権利」に応えることであり、民主主義社会の発展には欠かせないものである。その伝える内容が暗いものであったり、ときにはショッキングな映像であったとしても、真実を伝えるために必要であると判断した場合には、それを放送するのはジャーナリズムとして当然である。子どもにとってもニュース・報道番組を視聴することは市民社会の一員として成長していく上で欠かせないということで、事実の報道が、知る権利に応えるメディアの責務として当然のことであるということを確認している。
他方において、子どもたちにはニュースの価値についての判断がつきにくく、また、ニュース・報道番組では、内容をあらかじめ予測することが難しいため、突然飛び込んできた映像にショックを受けることがある。そのため、テレビで報道するに当たっては、子どもの視聴を意識した慎重な配慮、特に子どもがかかわった事件の報道に際しては、PTSDを含めた配慮が必要になっていると考えるとして、子どもへの配慮の必要性について言及している。
その第1として、刺激的な映像の使用に関しては慎重な配慮をしていただきたい。衝撃的な事件や事故報道の子どもへの影響に配慮をすること。それから、子どもが関係する事件においても特別な配慮をしていただけるよう検討をお願いしたいとしている。
2番目として、「繰り返し効果」のもたらす影響には、特に慎重な検討と配慮をしていただきたい。映像から大きなインパクトを受けやすい子どもの特性に留意をしたときに、衝撃的な映像を繰り返し映すことによる子どもに対する効果というのに対して、特に慎重な検討と配慮をしていただきたいということを挙げている。
3番目に、展開的な要望として、子どもにもわかるニュース解説を充実させていくことを検討できないかと提案した。子どもに配慮した特別番組、それから保護者を支援する番組のための研究や検討ということで、子どもへの影響を配慮した特別番組や、影響を受けた子どもの心のケアに関して保護者を支援するような番組は、そういう状況が起こったときに急遽つくり上げることも難しいため、日ごろから専門家のチームと連携をとっておくことも検討されてはどうかという意見を出している。
次に、2005年12月19日に発表した、「児童殺傷事件等の報道」についての要望がある。これは、当時、2005年11月に広島小1女児殺害事件、同年の12月に栃木での小学校1年生の女児殺害事件、また、京都宇治の学習塾で小学校6年生の女の子が殺害された事件などが続いて起こっており、これらの事件の報道などを踏まえて、先ほど紹介した2002年の提言に加えて、特に検討を求めたい事項を要望したものである。
この要望でも、まず、先ほど紹介した2002年の要望の4点を確認しているが、さらに加えて、第1に、殺傷方法などの詳細な報道に関する慎重な配慮を求めている。模倣の誘発であるとか、視聴者たる子どもをおびえさせる影響を懸念した上での配慮を求めるとしている。これは、全裸であったとか、体中の血液がほとんどないというような描写があったり、その殺傷方法や、被害に遭った子どもの状況を詳細に報道することによって、子どもをおびえさせるというような影響があるのではないかというような点についての注意を求めるものである。
次が、被害児童の家族や友人に対する取材への配慮ということ。これは、被害を受けて心に傷を負っている子どもの心理的な影響に配慮して、取材については十分な配慮が必要なのではないかという視聴者意見が相当程度寄せられたということもあり、この点についても言及をしている。
また、委員会では、メディアスクラム的な影響について、どのように考えた上での取材だったのかというような意見も出て、検討しなければならない課題はまだ残されているという感想が出た。
この事件・事故に遭遇した当事者の心理に関しては、学術上も議論が分かれるところであって、デリケートな問題をはらんでいるということは重々承知の上で、今後も深い考察と議論を続けていくことを望むということで討論を終えている。
なお、その後、2014年4月に、栃木県で女児が殺害された事件で容疑者が逮捕される。これは事件から相当程度年数がたった後なのだが、その逮捕される直前の報道で、被害女児の当時の同級生のインタビューを顔出しで放送したことに対して視聴者意見が寄せられた。このときも青少年委員会で討論をした。「配慮が足りないのではないか」などの意見や、「事件の説明について配慮を求める」というような視聴者意見もあり、青少年委員会の委員全員が、その視聴者意見が寄せられた番組を視聴して、その上で討論した。
これについて、委員からは、当時、高校生になった被害女児の同級生のインタビューを見て、これだけ月日が経過したということを視覚的に感じられる効果があるのではないか。顔出しが一概にだめだという一律な判断ということではないのではないかというような意見が出た。また、事件の説明についても、リアリティーを出すための十分な検討がなされているのではないかという意見が出て、審議入りということにはしないで、討論のみで終わっている。
第3に、被害児童及び未成年被疑者の文章などを放送する場合については、やはりプライバシーや家族への心情などを配慮していただく必要があるのではないかという点を要望している。
3番目に発表した要望が、子どもへの影響を配慮した震災報道についての要望ということで、2012年3月2日、ちょうど東日本大震災の1年後の直前に発表している。東日本大震災以後、震災報道を視聴することによるストレスについて視聴者意見が寄せられており、震災後1年を迎える時期に、放送局に対する要望を発表したものである。震災報道についての要望事項ということで、映像がもたらすストレスへの注意喚起。2番目として、その注意喚起については、わかりやすく丁寧にしていただきたい。震災ストレスに関する知識を保護者たちが共有できることが必要である。また、震災ストレスに対する啓発のための番組制作が必要である。また、保護者に対する情報提供ということも考えていただきたいということである。
次にスポットの映像使用に対する十分な配慮をお願いしたいということ。予告なく目に飛び込んでくるスポット映像の強い衝撃であるとか、子どもへのストレス増長の危険性を協議した上で、十分な配慮をお願いしたいということをこのときに要望している。
最後にネット情報の取り扱いに関して、これは委員長のコメントという形で出している。この委員長コメントを出したきっかけというのは、2015年4月に、ある情報番組で過激映像を流すサイトを紹介するコーナーで、それが刺激的な映像であり、また子どもも見る時間であったということから、視聴者意見が相当数届いたということがきっかけになっている。
私たち委員も視聴し、討論した。テレビにおけるネット情報の取り扱いについて、テレビという公共のための放送システムがこれから抱く可能性のある問題として問題提起をした。ネットメディアの情報をテレビが紹介したり、それに触発されて新たに番組を制作したりすることも、これから増えていくことが予想される。テレビ局の情報収集力は限られているが、ネット情報には、たとえそれが吟味されたものでないとしても、無限と言ってよいほどの収集力と提供力があるからである。そして、そのときにテレビ局の独自性と責任性がどこにあると考えるべきかを問題提起としている。テレビ局の方たちも、こういうネット情報の取り扱いについては、今いろいろ考えているところだと思う。

【意見交換の概要】

(1)「青少年が関わる事件・事故報道」について

【矢巾町立中学校いじめ自殺事件】…2015年7月5日岩手県矢巾町立中学校2年の男子生徒が、列車に飛び込み自殺した。生徒は、1年生の時からいじめを受け、担任教諭にいじめを訴えていた。
【岩手・不来方高バレー部員自殺】…2018年7月岩手県立不来方(こずかた)高校3年のバレーボール部員が自殺。バレー部顧問の40代男性教諭による行き過ぎた指導が自殺につながったと遺族は訴えている。

(事務局)青少年のかかわる事件・事故報道ですが、各社県内の事件とか、これまでで青少年の事件・事故、どんな事件でも、事故でも構わないので、取材時、編集時、また放送するに際し困ったこと、悩んだ事例というのがあったらご発言をどうぞ。

(放送局)不来方高校のバレーボール部の選手が自殺したニュースは、当初の段階から高校の名前を出すかどうか、それについて我々の間でも議論をしながら、慎重に扱いつつ、でも原則は実名というところもあるので、そういった状況の中で判断をした。
その選手が高校の部活の顧問の先生との関係において、厳しい指導が原因だと訴えていて自殺したという状況で、相手方が少年ではないというところと、強豪バレーボール部で起きたというところで、高校名は最初から出すことに決めたという状況がある。
また、自殺した生徒の名前については、遺族の意向も踏まえた上で、段階を踏んだ。当初は匿名だったが、遺族の思い、意向を聞いた上で実名に切りかえた。顧問の先生は、基本的には匿名でやっている。その中で、当初の段階では、高校名をどこまで出すかというところで非常に迷いながら、いろいろと相談しながら決めたというところがある。

(事務局)今の不来方高校バレー部の件では、社によって対応が分かれているという話もあるが、各局どのような対応なのか。

(放送局)弊社は、実はここ数日前というか、先週の段階で初めて高校名と、亡くなった生徒の名前を実名で報道している。原則実名報道というのは頭に置いた上で、生徒の名前等を出すことで、今高校に通っている生徒、バレー部にいる方たちへの影響がどうなんだろうという部分で、出すことで二次被害というか、そういった影響があるんじゃないかということで匿名にしていた。
以前であったら、指導で許されていたものが、今はもう行き過ぎた指導ということで、それが問題になる。時代が変わるにつれて、ニュースの中での扱いに非常に悩むところであり、それをニュースで伝えることが、どんどんその先生たちの指導を萎縮させてしまうのではないかというようなことも思ったりもして、その都度考えるが、なかなか難しいなと日々思っている。

(放送局)遺族の方が発信力があって、弁護士の方もそうなのだが、どうしてもそういった方々の声が強くて、逆に言うと、指導した先生の方の声はなかなか聞こえてこない、学校の声が聞こえてこないという中で、そういったバランスをどうやってとっていけばいいのかというところを悩みながら、放送はしている。

(榊原委員長)私たち(BPO)は報道の方法がいいかどうかを判断するところではなくて、それをどのように考え、かつ、つくり手と実際に聞く方がどういうふうに考えていくのかを検討するところなので、結論があるわけではないと思う。
小児科医の立場で申し上げると多分、皆さんがジレンマに陥られたのは2つのポイントだと思う。未成年の方の個人情報の保護というのはいつでも前提であるが、いじめという日本で独特とは言いわないが、非常に大きな問題であるのに、どうしても表面に出てこない。多分、隠匿される可能性があるいじめという問題に対して、報道としてどう考えるかということを悩まれたと思う。
もう一つが、遺族の方が希望されたという点。遺族の方が認めたから報道していいのかどうかという、なかなか難しい問題があると思われる。例えば、未成年のご本人がいじめにあって、自分が実名を出して訴えたいというように言った場合はどうするのかということと置きかえてみてもいいのかなと思う。
これは非常に難しい問題で、未成年の方が主張するということを言った場合に、いじめはあったのかもしれないが、もしかすると、いじめたとされている人の間で、片方だけの情報を出すことが妥当かというような問題も出てくる。
新聞が先行したり、SNS等でもう拡散している状況のなかで、このいじめという、放っておくと風化してしまう、あるいは出てこない問題に対して、報道というものがどういう立場を持つべきかというかなり大きな、かつ非常に難しい問題に直面しているのだと思った。

(吉永委員)いろいろ背景を考えると、例えば、その先生にも家族があるとか、この報道によって、何かまた次に苦しむ人が出てくるのではないかということを考え出すと、伝えられる情報が、大幅に制限されてしまったりしないのだろうか。その結果、我々受け手の側として見たときには、何が起きて、どんな背景があったのかわからなくなってしまうという側面がある。一体何が起きて1人の子どもが命を絶ったのかということが見えにくくなってしまうがゆえに、逆にさまざまな憶測が流れてしまって、どうなっているのか知ろうとすると、ネットしかなくなってしまうみたいな流れを作ってしまうような気もする。
例えば、子どもが自殺するということは、ある意味では命をかけた告発という側面もあると思う。それを真正面から受け止めて、学校が変わっていけるような報じた方はないのだろうかと考える。加害者もまた子どもなわけで、今度は逆に加害者がバッシングされたり、教師が叩かれたりして忘れていくのではなく、不幸な出来事を乗り越えて、いい形に生まれ変わっていけるために何が必要なのだろうか。
もうひとつ、匿名か実名かの問題。地元では匿名であってもみんな誰か知っている。私たち東京の人間とか九州の人間が、岩手で起きた出来事で「どこどこ中学校」「○○君」「○○先生」と実名であっても、ほとんど匿名に近い。全然わからない。
だから匿名というものが、ただ名前を伏せればいいのかとか、死んだ子どもについてと、加害側の生徒や先生や校長とは、また違うと思う。1人の人間が死んだときに固有名詞を出せないというのは、それまでその子の生きてきた時間が否定されるような気持ちも一方ではする。親御さんが、「その名前を出してくれ」と言ったときに、それでも匿名の死にされた時に、この子の一生というのは何なんだろうかなという思いもする。

(放送局)不来方バレー部の件に関しては、実名に切りかえるきっかけになったというのは、保護者の、お父様の意向がすごく大きくて、部活のパワハラというのを根絶したいという社会的な、言ってみれば使命のようなものを持って、弁護士とスポーツ庁に行って申し入れをしたり、鈴木長官と面談したりというような動きを実際にされている。それはもう保護者の方なり、弁護士の方なりがそのように広がりを意識して動いていて、そこに我々は引っ張られるような形で、今報道しているような状況だ。
それとはまた別に、中学生の自死のときは、振り返ってみれば、そのような広がりがないままに、ただ一方の言葉だけを追いかけざるを得なかった、忸怩たるものがあるが、既に今となってはその先生の言い分というのを、やはり最後まで、聞きたかったが聞けずに終わってしまったなというところがある。

(放送局)今回この不来方高校の件を見ていて、どうも弁護士さんに引っ張られ過ぎているなと。第三者委員会をつくる云々、申し入れた県教委、申し入れたらすぐにもう東京に行かれて、文科省に行かれたとか。そこで我々にリリースが来て、「東京へ取材に来られない社はご連絡ください」とか、そういう形になると、ちょっと待てよと。一方的に、僕らは引っ張られ過ぎているんじゃないかという、若干疑念も持った。
最近、直接取材しにくくなっている気がする。例えば、学校に行くと、校長先生ですら、もう「教育委員会に聞いてください」となると、まさに当事者の先生には、まずお会いできないような状況が多々ある。
矢巾のケースも、私は事件の後、1年半ぐらいして当時の校長先生にお会いしたら、「言いたいことは、実はいっぱいあったんだ」とおっしゃるわけだが、それがなかなか伝わっていなかったというようなところが問題で、この手の問題は両者の言い分をきっちり取材したいけれども、できないというような状況があるのかなという気がしている。

(榊原委員長)その「引っ張られるように」というのは、事実を言われたと思う。「ぜひ行ってほしい」と。ただ、そのときに、むしろこの「引っ張られるように」といっても、「この人が言っているからすぐ行く」というんではなくて、そこでどうすべきか悩まれたのだと思う。
つまり、報道というのは、加害者の親が「名前を出してもいい。ぜひ言わせてくれ」と言ったような場合を考えたとき、命を絶ったということの重みというのは、すごく大きいと思うが、主体的にどういうようになさるのかなと。

(放送局)多分、それは取材をしてみて、その発言の内容を見ながら、これが本当にそのまま放送していいのかどうか、それは周辺取材も含めて、事実なのかどうかも含めてを判断して、どうするかということだと思う。

(榊原委員長)ということは、これはいじめがあって、そのために命を絶ったんだということは、いろんな事情から明らかだろうという判断のもとに、出されたということですね。ただ、「いや、私たちのほうも言わせてくれ」と校長先生が後になって言われたそうだが、そういう場合に、裁判官であればどちらかに判断しなくてはならないが、報道の現場にいる方はどうなさるのか。伺いたいと思う。

(放送局)その言葉をなきものにするという権利はないと思うので、何かしら、やはり編集する者としての意識を持ってオンエアするしかないと思うが、そのバランスも考えつつだ。ここでシャットアウトするわけにはいかないと思うので。

(吉永委員)弁護士さんに引っ張られているのではないかというお話もあったが、こういうのは、結局は最初に学校という組織や教育委員会という組織が、個人の前に立ちはだかる。今までのいじめのパターンというのが、必ず教育委員会とか学校が否定する。組織や先生を守ろうとするところから始まっていく。
そうすると、もし自分が親の立場であったときに、どういうふうにしていいかがわからないわけです。個人として、何かいっぱい質したいことがある、聞きたいことがある、心の中に思うことがあるけれども、なかなかそのすべを持たない一人の親にとって、弁護士さんが付いてくれることで、やっと調査をしてくれたり、社会問題になる、みんなの共有する問題になるという側面もある。
素人が語れることの限界があるから、どうしても代弁者が前に出てくる。そのことが視聴者、見ている人にとって、すごく引かせてしまうというか、逆にその問題が、何かすごく歪曲されてしまう面もあったときに、どういうスタンスで臨むのか。報じるときにバランスをとりにくいのではないかという気がする。

(放送局)吉永委員が言うように、教育委員会、学校が先生を守ろうとしていると言いながら、実はあれは守っていないんじゃないかなと。守っているのであれば、言い分等々をしっかりアピールをすればいいと思う。守るというのが保身なのかどうか、そこらがどうしても伝わらないし、それを我々が、先生方の言い分をしっかり事実関係も含めて確認して、確認できたら、そこでバランスがとれるんだろうけれども、今のところ、そちらがどうも欠けているようなケースがちょっと目立つかなという気がする。

(緑川副委員長)私たちが弁護士として依頼者から受任して裁判をする場合、裁判で事実を明らかにして責任を追求する、損害賠償を請求するが、そのときに大事なのは、主張だけではなく、立証であって、その結果、最終的に裁判所に判断される。そこで初めて判決という形で結論が出るという手続きに慣れている。これから裁判をやって主張、立証をしていこうというときに、提訴の段階でメディアに公表するのを見ることが多くなってきた印象があるが、このような一方の主張を前提に公表するという方法を見て、戦略としてメディアを使うことが上手になってきているのかなというふうには思う。今回のこの件で、遺族の方の強い意向、それから弁護士の方が非常に熱心に活動されているというお話を聞いて、ちょっとそこのところを思った。メディアの方々がいろんな角度から働きかけをしていって、何かこぼれ出てきた反面的な事実があったときに、その事実を報道できるというところに報道の面白さというか、だいご味があるのかなというふうにも思っている。

(事務局)矢巾町の中学生のいじめ事件について、2016年に1時間のドキュメンタリーを制作した担当ディレクターさんが出席している。

(放送局)当時の担任の先生の声を入れられなかったというのは、やはりその一番のもどかしさというか。やはり遺族のほうが声が大きいので、どうしても我々もそっちのほうを取り上げるのだが、一方で私も先生のほうには、自宅とかに行って当たるのだが完全に取材をシャットアウトされ、もうどうすることもできないとなった中、片方の意見しか入っていないというところの葛藤というか、難しさはあった。ご遺族も息子の異変に気づけなかったとおっしゃっている中、一番近くにいた友達とか、先輩、後輩とかが本当は一番情報を持っているかもしれないというところでも、学校の「絶対話すな」という統制が敷かれて。でもそれを知るために私たちは行かなければいけないわけだが、それもどの程度行っていいのか。例えば、校門で待ち伏せをして、生徒さんが来て、それをずっと追いかけ回してもいいのかとか。その子は親友で、その子しか知り得ない情報を絶対持っているとわかっているときに、どう対応すればいいのかとか。そういったところは難しかったかなとは思う。

(榊原委員長)報道番組というのは、例えばある人が自殺したとなると、これは個人の課題であるのだが、その背景に社会的な問題があるということで、個人の問題として報道するのと同時に、社会的な問題、例えば学校のどうしても隠してしまう体質があり、それを解決するための方策のヒントになるようなことを報道することができる立場に皆さんはいるのではないかと思う。

(放送局)不来方の事案というのは、顧問の先生ということで、大人がいた。以前やった中学生のいじめ事件のほうは、学校という限られた中でのいじめ事件ということで、何となく一見似たように見えているけれども、結構、全然違うかなというところがあると思う。遺族の方が名前を出してお話をするというのは、この中学生の事件が先駆けだったのかなというような反応があるということを、まず言っておきたいと思う。やはり中学校という中で起きた事件の中で、どう本当に真実をつかむのか、事実をつかむのかというようなことで相当苦労していたということがある。警察とかいろんなところを取材していくと、どうも刑事事件になりそうだという情報を得てくると、これは中学生ということで、刑事事件になると加害者は少年法とか、いろいろなことが課題に上がって、逆に匿名性を強くしなければいけないなとか、そういうジレンマもどんどん出てくるという形になってくる。

(事務局)今、少年法という話が出たが、民法が2022年に改正されると18歳が成人ということだが、この先の少年法と報道でどのようなことが予想されるのか。

(緑川副委員長)少年法61条は、少年について推知報道をしてはいけないという規定があって、この少年法の成年年齢も18にすべきではないかとか、あるいはもっと厳罰化すべきではないかという議論は根強くされてはいるが、今のところ、少年法を改正するというような具体的なところには至っていない。
少年法61条というのは、家庭裁判所の審判に付された少年、それから少年のとき犯した罪で公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容貌などによりその者が当該事件の本人であると推知することができるような記事や写真を新聞紙その他出版物に掲載してはならないということで、氏名、住居、写真を出していないとしても、本人であることが推知されるような報道は禁止されているということになる。細かい話だが、審判に付された少年と公訴を提起された者なので、厳密に言うと、捜査中の者は入らない。ただ一般的に報道機関は、捜査中から少年法61条の趣旨に鑑みて自粛するというような対応をされているのではないかと思う。
インターネットは、現状の条文上は対象外ということになる。
また、罰則はない。したがって、この推知報道をされたということで問題になるのは、刑事事件としてではなく、通常、民事上の損害賠償請求として、その少年とか元少年から、メディアに対して、プライバシーの侵害などを理由に損害賠償請求をするという場面である。そのときに少年法61条というのが、違法性を根拠づけるものとして出されてくるという考え方になる。
結局のところ、裁判では利益較量の問題となると思われ、罰則を規定していない少年法の規定と、言論報道の自由を考えると、それは出来る限り社会の自主規制に委ねられたものであり、メディアは、日々こういう事件が起こるたびに自問自答することが、そのまま裁判所で問題になった事例において判断されていることになるのではないかと思う。

(2)「東日本大震災をはじめとする災害報道における子ども、被災者への配慮」について

(事務局)東日本大震災を経験した岩手の放送局として、青少年に限らず、被災者への取材時の苦労とか、特別な配慮、編集するに際しての苦労、対応等を聞かせてほしい。

(放送局)被災した当時、子どもたちに各局がメディアスクラム的な状態になって、それで本人も、嫌になっちゃったとかという話や、各局に出たことによって家族間で議論があって、「何で出したんだ」というようなこともあった。今、そういったことをもう一度、当時のことも含めて、それから今のことも含めて取材したいというふうに、当時子どもだったが、成人したとなると、例えば、本人は取材に応じてもいいというケースでも、親御さんが「勘弁してくれ」というふうなことで、家族間でまたそれでいろいろぎくしゃくするというような場合、やはり、なかなかこちらが取材をごり押しすることは難しい。そういう震災直後のメディアの対応が、結構今も引きずっているなというようなことになった場合に、なかなかそこはどういうふうに取材していくのかなということが、我々、現場としては悩むところだ。

(放送局)私は岩手県の宮古市というところで津波に被災したというか、取材をし続ける中で、ことしの3月まで現地にいたのだが、取材をし続ける中で、我々を含めていろいろなメディアの取材によって「もう二度とごめんだ」というのは、必ずしも子どもや青少年に限るものではなくて、それは大人にも共通していることだというのが大前提。特に子どもに関して言えば、思い切り津波をかぶったところなのだが、うまく避難をすることができて全員助かった保育所だとか、あるいは、一つの地域の中でその学校だけが残るというか被災を免れて、あとは全部やられてしまったというような所があったのだが、そういう所を、執拗にというか、当時のことを当然しゃべらせるわけなのだが、そういうことがあって、メディアの取材を学校もしくは保育所として受けないというところが結構ある。私自身も断られたのだが、それを修復するまでには数年単位の時間がかかった。取材はできるようにはなったが、結局行き着くところ、取材者の人間関係に尽きる。
被災地のそういう現状なり、事実とはまた違った真実というのをわかるためには、やはりある程度そこに住んで、あるいは接点を持ち続けるからこそできる部分というのが非常に大きくて、個人的な見解とすれば、ローカルの特色というか、そこで我々はずっと生きていくものだから、その我々がきちんとした相手との関係を築きながら仕事をしていくことが全てじゃないかなというふうに思う。
あともう一つは、自分がずっと住んでいて思うのは、東日本大震災ということに関して言えば、やはり発災当初にみんなが思っていた復興という姿が、どうやらその通りはいかないんじゃないかというものが、やや確信になる。復興というのは、震災前より当然いいものにするというのが復興で、もとに戻すだけでは復旧でしかあり得ない。そんな中で、取材していく中で、長年被災して、仮設で営業を続けてきた店なんかが再開をすると、ついつい言わせてしまいたくなるのが「復興してきましたね」とか、「前に進んできましたね」とか「希望の光が見えましたね」。作るほうも、見るほうも、そこである程度ハッピーエンドになるから、物としてはいいのかもしれないが、そこに暮らしている人に行けば行くほど、やっぱり不安というのは大きい。被災地で暮らしている我々ができるのは、本当の姿なのか。個人的には消化不良になっても、そういうものは伝えていかなきゃいけないのかなと思ったりしている。

(吉永委員)発災時、気も動転している中で、いきなり多くのメディアに来られたときに、どういう形で対応ができるのかというのは大人でも難しいので、子どもには相当難しいのではないかなというふうに思う。メディアが慣れていないのは普通で、緊張したり舞い上がったりして、精神的に追い詰められた感があったとか、あるいは、その質問されたことが、心に何か残って、それが後遺症みたいになって、いまだにそれを素直に受け入れられないものがあるのか。あるいは、とっさに言ってしまったことなので、本当は自分が言いたかったことではないところを放送されたとか、そういうことというのはあると思う。そのことによって、家族間で「おまえ、何であんなことを言ったんだ」とか、そういうことが心に影響していて、「もう二度と答えてはいけない」「そんなものは受けちゃいけない」という話になっているのか、どちらの感じが多いのか。

(放送局)例えばお父さんが亡くなったとか、そういう非常につらい立場にいる子どもがどうやって頑張っているかとか、割と前向きに、けなげに一生懸命頑張っていますみたいな、そういうタッチで描かれたケースが結構あったらしく、それに対して、どうも家族間で、描き方の問題なのか、受けとめたときに「こういう話じゃないだろう」というふうにあったのか。家族の間からいろんな意見があって「何で出したんだ」ということがあるようだ。その子どもがある種の像として描かれていくようなことに一つの違和感を感じたみたいなことはご家族が思っていたようだ。それからは「もう勘弁してください」ということで、背を向けたという。どういうことが原因になったのか、なかなか具体的にずばっと言えないが、いろいろそういう複雑な思いを持って、メディアの取材に対して感じてしまっているというのが現状のようだ。

(吉永委員)12歳ぐらいの子がもう20歳くらいになる。そうすると「あれに答えたばかりにこんな目に遭った」とか、いろんな思いがあると思うのだが、メディアとの関係性というのが、今後壊れてしまうのはとても悲しい。

(放送局)あの震災報道を経験する中で一番怖かったのは、あの福島第一原発の爆発したとき。あのとき、岩手に100人以上の人が系列取材団として応援が入っていたわけなのだが、何が起きたかわからない。けれども、すごく危険なことが起きているということはわかる。必死に携帯で、「全部の仕事をやめていいから」ということで、連絡をとっていった。そこのときに、皆さんや視聴者の方たちがおっしゃるメディアというのは、ある種の権力を持って、力を持って、取り囲んで取材してというイメージだと思うのだが、あのときは、本当にその犠牲者になるかもしれないという人がたくさんいるということ、抱えているというその心理状態においては、我々も余り変わらないと思う。地元で生きていくということの極端な例というのは、多分そういうことだと思う。我々だって被災するかもしれないし。そういう思いを持って、あのときは本当にやってきたわけで、そういうときに地元のメディアというのは、そういう権力を持ったメディアなんてとんでもない話で、自分たちも同じ立場で、自分たちの仲間の家族が亡くなったりしているということも知っているわけですから、そういう中で生きていくわけである。そういう中で、例えば中央のメディアが心ないことをして、「メディアは」ということで排除されるということもたくさん経験していますし、それを修復していくためには、多大な時間がかかると思う。ただ、我々に対して何か問題があったら、反省をしなければいけないと思う。

(榊原委員長)実際、現場におられた方からの非常に重い発言を聞いた。青少年の問題ということから言うと、子どもに対して、特に被災者である、かつ子どもであるという人への取材ということの持つ意味というのを、青少年委員会としては大きく捉えている。子どもが感じていることと家族が感じていることは、必ずしも同じではない。もちろん、子どもが大きくなって思い返してみると、自分が言ったことが不十分であった、あるいはそうは思っていなかったということもあると思うのだが、子どもの取材には、大きな課題がある。
それからもう一つは、子どもは特に心理的外傷に対して弱いという事実である。大人は子どもより、より客観的に見られる。客観的に見ても非常に大変な状況だけれども、子どもの場合は何が起こっているのかわからないということの中で、PTSDという、外傷後ストレス症候群というのが起こりやすいということもわかっている。例えば、災害の場面の画像を見るだけでも、PTSDが起きて夜寝られないとか、不眠になるとか、非常に衝動的になるというような行動が起こりやすい。被災者だけではなくて、アメリカの9.11のときの場合は、ビルが倒れるのを見た、全くその場にいない子どもたちが非常にたくさんPTSDになっている。

(放送局)ああいう大きな災害が発生した直後は、どうしても自分の頭の中で、通常のニュースをやる感覚に戻そうとする気持ちになってしまいがちになった。ただ、想像をはるかに超える被害が出ているというところで、だんだん通常のニュース報道の頭というか、規範というか、そういうものが徐々に、タガが外れるわけではないが、とにかく「見えたものはとにかく映せ」、そして「取材して、インタビューしろ」というようなことを指示していたと思う。だから遺体だらけの町や、そういう映像がたくさん残っている。最初、本当にもうどこを映しても悲惨な風景、まずそれを伝えていた時期があって、それからだんだん、避難所で凍えている人たちを取材するようになり、子どもは最初からは取材していなかったと思う。子どもに目を向けたのは、やはりちょっとずつ「毎日悲惨な風景だけ放送していても」という気持ちもあった。そういう中で、明るい話題というわけではないが、子どもを取材すると、受けがいいというのがまずあった。通常だとちゃんと両親に、あるいは学校の先生の許可を得て取材するというルールを持っていたが、やはりそのときもタガが外れて、直接子どもに話を聞いたりというような形をとっていた。
1カ月たって、あるいは1年たって、2年たってというときに、どういうふうにこの震災を伝えていこうかというときに、やっぱり思い出すのは子どもたちだった。その子どもたちと、何とかもう一度、あのときこういうふうになっていた子どもたちが、今こうなっていますよ。もう元気にやっていますよというのを伝えたいなという気持ちでアポイントを取ろうとするのだが、徐々に親御さんのほうから、やんわりと断られたり、あるいは取材を受けるのはいいけれども、テレビカメラの前でしゃべるのは嫌だというような子どもが多かったと思う。
サブで放送、映像を出しながら、あのときは泣きながらやっていた。あれほど大きなことがあって、タガが外れてしまった当時の私自身の中のニュースの報道に対する規範というのが、しばらく伸び切ったゴムのようになったまま報道してしまっていたなというのが個人的な反省でもあるし、その結果が、今なかなか心を開いてくれない当時の子どもたちの思いというのもつくってしまったのかなという自戒もある。

(放送局)7年8カ月がもう経過しているが、震災当日の状況を尋ねることは、今でも慎重にやっており、当時のことを思い出したくない方も多いし、逆に今こういう状況だというのを伝えるために、当時の状況というのを伝えなければならない面というのも当然あるし、そこは慎重に、出会ってすぐにその核心を質問するようなことを避けて、うまく人間関係をきちんとつくりながら、こちらの考えを無理に押しつけないで、引くときは引いてという形で今もやっており、今後もやっていかなければならないと思っている。
我々も被災地のテレビ局ということになるが、ただ同じ岩手でも、盛岡にいる人間と、沿岸で被災された方というのは、全然立場も違うので、もっと大変な思いをして毎日生きている方たちにきちんと寄り添って、伝えなければならないことは伝えて、被災した方たちを思いやる。風化していくのは止められない部分もあるが、それを少しでも食いとめるような報道というのは、していなかければならないのかなと思う。
子どもへの配慮だけではないが、津波の映像をしばらく使うのを避けているが、南海トラフ等が現実にいつ起きるかという状況の中で、津波の怖さというのを伝えなければならない。津波の怖さというのは、実際に被災した方たちへの配慮と、今後来るであろう大津波への備えという部分で、その映像の使用というのは、考えていかなければならないかなとは思う。

(榊原委員長)2つ皆さんに質問がある。震災のときのラジオというのは、テレビと違う働きがあったと思うが、それについての、何か思いとかがあったら伺いたい。それからもう一つ、皆さんに、先ほども津波の映像を出すことによってつらい思いをしている人がいると言いながら、風化させないために報道はされていくと思うが、その辺についての皆さんのお考えを伺いたい。まず、ラジオの方から。

(放送局)久慈と釜石に制作拠点があったので、ほぼ避難所の取材ということで動いていたが、マイクを向ける、向けないというのがあった。避難所に行って、許可のいただける避難所と、やめてくれという避難所があり、中には「頑張っている人もおられるので、そういう方ならいいんじゃないでしょうか」というお話をして、取材に出てもらったというのを記憶しているし、子どもにマイクを向けたというのはないと思う。
我々の放送は、ほぼ安否情報でつづられてしまう世界があって、来たものを読んで紹介している。「誰々さんから誰々さんへ」という形で。そうすると、その「誰々さんから」というのは明確に言っていいだろうけど、「誰々さんへ」というところを、余り具体的に言わないほうがいいんじゃないかという、そういうことは気を遣ってやっていた。
また発災の1日ぐらいのところは、支援情報みたいなものもどっと来るので、「どこどこでガソリンある」などというのもやっていたが、これもよろしくないなということで、やりながら淘汰されたみたいなことがあった。要は、そういう支援情報を届ける場合も伝えたいのだが、これをやったら、やはりいろんな混乱が起きるんだなというのが、だんだん見えてきたというような気がした。
あとは、その後からの声を聞くと、ふだんジャパニーズロックとか、そういうのをかけているのだが、こういう場合でそんなのはかけていられないだろうなというので、結局、童謡とか、アニメの子どもたちが喜ぶような曲とか、そのような曲をかけたところ、すごく反響があって、とてもそれで心が落ちつきましたとか、そういう声はたくさんいただいたという経緯があった。

(放送局)弊社では、現在も週1回のペースで被災地ネタというものを放送している。そのほかは、仮設住宅の住民を追ったシリーズというのもその週1回の枠の中に収容して放送している。年数が経てばたつほど、少しずつしゃべってくれる人が増えるんじゃないかという思いが、何となくイメージとしてあったが、逆に、思ったとおりいっていないというか、口を閉ざす人が多くなってきているのかなという印象だ。
その原因に、その取材のあり方等々に問題があったのか、あるいは、その対象者自身の生きざまか、ということはわからないが、いずれにせよ当事者にとってみれば、小学生で言えば、入学から卒業しても、なお月日が経つような長い期間を被災と地震の復興に充てているという、その人生というのは本当に大きいものなんだなということをつくづく感じいる。
仮設住宅も、いまだに人が住んでいるという状況。今残っていらっしゃる方々は、やはり経済的な部分だったり、あるいは自分の周りの家族との関係性があったりとかという形を考えると、非常に孤立感のある人たちで、我々は、「寄り添う」と簡単に言いながらも、本当はそういう人たちを取り上げなければいけないと思いつつも、そこに暮らしていらっしゃる方は、なかなかカメラの前でお話をしてもらえるには厳しいというような状況になってきている。風化させないというのは、やっぱり続けること。そして岩手に住む我々として、できることをやっていく、地道にやっていくことだとは思うが、実際問題やってみると、月日がたつからこそ簡単だと思っていたものが難しかったり、だけれどもやらなければいけないなというような、当然悩みながら日々取材をしている。
そして、今までなら復旧なり、再生の道を果たすということで、人にスポットを当てながら、その人なりの生きざまみたいなものを出せればよかったのだが、もうこの時点になってくると、もう少し大きな目で被災地を俯瞰しなければいけない。取材するほうも、どういう面から切っていくかということを考えなければいけないなという中で、続けるということが、やっぱり少しでも風化の防止につながるのかなという思いをしている。
ただ、「風化、風化」とよく言うが、少なくとも沿岸被災地の人たちにとってみれば、風化することはあり得ない。むしろ風化してしまうのは、やっぱり当事者ではない人たち。そこを含めた風化を防ぐということを考えると、この放送なり、テレビなり、ラジオの役割というのはすごく大きいなということを身をもって感じている状況だ。

(放送局)先ほどの津波の映像については、我々もずっと迷っているところで、今、弊社では「これから津波の映像が流れます」というスーパーでお断りをしてから映像を出すような形にはしているが、これは自己満足の世界なのかどうかとか、そういったところも含めて、今後、津波の映像をどうしていくのかというのは、すごく考えなければいけないなという気持ちでいる。3.11の教訓を、絶対に来ると言われている南海トラフにどう生かしていくのかとか、そういった考え方もあるわけなので、確かにあの津波の威力、津波が来たことの悲惨さというのは、やはり映像のインパクトというのはすごく強い。これはやっぱり伝えていかなければならないんだろうなと思いつつ、どうやって出していくのか、悩みどころだ。

(放送局)津波の映像については、基本的には積極的には使っていない。ただ映像の力というのがあるので、怖さ、そういった部分を伝える上で、あの映像を使わなければいけないタイミングというのは、どこかで出てくるかなと思っている。社内でも積極的に使いたい派と、まだだという派がいる。使うタイミングは、悩みどころかなとは思っている。
風化については、内陸にいる我々が風化している部分があるし、全国に伝えていかなければいけないというところももちろんある。被災3県の系列局があるが、毎月1回特集枠があり、持ち回りでやっている。3局とも同じテーマに沿った企画を放送している。福島県の原発を抱えている現状だとか、宮城県の漁業に関するテーマだったりとか、そちらのネタを岩手県で放送することにすごく意味があって、そこにヒントがあったりとか、ほかの2県のお話、なかなか全国ネットでも最近放送しないという中、ローカルで見られるというのは良いという意見も受けているので、そういった形で、岩手の局として、岩手の情報を岩手の方々に伝える。同じ悩みを抱えている被災地の2県の特集をあえて月1回放送して、それを伝えるというところにも、今、意味を見つけ始めている。

(吉永委員)外から見る災害と、うちの中で当事者として取材をしていくという、被災者であると同時に取材者であるという、その立場、とても複雑でもあり、難しいことでもあるのかなと思う。
発災から少し経ったころ、避難所から本が欲しいというリクエストがあったので、持っていった。津波の写真雑誌とか、私はそれを避けた。当たり障りのない楽しめる本を持って行ったら、避難所の人たちに、「津波の写真の本ないの?」と言われた。びっくりして「それは置いてきた」と言ったら、「それが見たい」と言われた。私たちは外にいて、全部見ているが、現場にいた人は、自分の町がどうなっちゃったのかがわかっていないと。だから「見せてほしい」と言われたときに、こちらが思っている思いやりみたいなものとか、現場の人が本当にその現実を知りたい。自分の身に何が起きたのか、この町にどんなふうに起きて、ほかのエリアはどうなっているのかという、知りたいという思いと、外から見るのと違うんだなということを感じた。
それと、「風化をさせない」という言葉が踊る度に、何を風化させないのか、風化させないとは何なのかと考えてしまう。メディアにとって1年に1回は思い出す日、終戦記念日と一緒のように、3月11日になるとキー局でも特番をやる。新聞も特集を組む。
この日にこのことがあったんだ。そこで大きな被害を受けて、大変な多くの人が命を落としたり、今まで営々と築き上げてきた生活を失ったんだというようなことを、この1年に1回思い出すことが「風化させない」ということなんだろうか。何かちょっと違うような気もする。「風化をさせない」というのは、もっとそこの現場にいた人たちの、無念というか、その中で踏ん張って生きていかなきゃいけないという思いというのを、風化させないということなのかなと考えてみたり、毎年3月が近づくたびにそのことを思う。

(榊原委員長)私たち当事者じゃない人間というのは忘れっぽい。社会をつくって生きている中で、やはりそういう人たちがいるんだということを、本当に、現地の人、被災者の方は、実際忘れようがない。毎日の現実なのだから。ただ現実でないと、やはり忘れるということがあるので、あのとき感じた共感というか、あれは何だったのかということを思い出すために、やはりやる必要があるのかなと。
もう一つ、お子さんの話が出ていた。8年たって大きくなったと。そうすると、子どもたちにとっても、そういうことがあったんだというようなことを伝えていくということは、意味があるのではないかと思う。

(緑川副委員長)災害報道ではないが、青少年委員会に来る視聴者意見で、子どもがまだ見ている時間で、子どもが見るような番組が終わって、その直後、そのままテレビをつけていたら、子どもが見て非常に怖がるような場面が、次の番組の紹介で出てきたと。こういう映像を突然出されると、「見たくなければ、見ないでいいだろう」と言われていても、避けることができないという趣旨の意見があった。事前にその辺りをテロップか何かで出してくれれば、親としては自分の子どもに配慮して、そのときにチャンネルを変えるとかできるという意見が出ることがある。これは津波についての意見ではなく、ドラマについて以前来た意見だったが、参考になるのではないかと思っている。
それから、被災者の方々のその後については、やはり私たちが日本人として知らなければいけないことだし、それを報道できるのはきっちりとした取材のできるローカル局の皆さんなのだろうと、皆さんのお話を聞いていて思った。

(事務局)最後に榊原委員長のから、まとめの一言をお願いします。

(榊原委員長)いじめに関する、あるいは自殺、その報道について、それから災害についての報道ということについて、私たちは、皆さんが非常に悩みながら、さまざまなことを考慮して番組をつくっているということを、非常に感銘を受けながら伺った。
皆さんの中には不本意と思われるような視聴者からの意見を一応お見せしたが、このような一般的な意見があることは、皆さんも知っておいていただきたい。これが必ずしもBPOの意見というのではなくて、こういうように十分理解してもらえていない人も見ているんだというのは一つの現実なので、提供させてもらった。
きょうのテーマの大切なことは、やはり社会的なミッションとして、災害報道を被災地として出していくこと。あるいは、報道にはいじめという社会的に大きな問題について、それをどうしたらいいのかということを広く社会に発信していくという、社会的な大きなミッションを持っていらっしゃると思う。
同時に、そこで対象になる子どもであったり、あるいはその被災者である、特に子どもの被災者たちを取材するときの大きな課題がある。その2つの問題を悩みながらつくっていらっしゃるということがよく分かった。私たちは本当に放送をいかによくしていくのか、国民にとっていい放送を提供するのかということを、どうすればお助けできるかという立場ですので、非常に勉強になった。きょうは最初の緑川副委員長から子どもの番組に関する私たちの要望や、少年法のお話もあったが、参考にしてもらって今後もよい番組をつくっていっていただけると、私たちの役目も果たせたのかと思う。本当にきょうは長い時間ありがとうございました。

(事務局)最後に閉会のご挨拶を、岩手朝日テレビ常務取締役・報道制作局長 長生正広様にお願いします。

(長生報道制作局長)僭越ですけれども、一言挨拶をさせていただきます。
本日は委員の皆さん、盛岡までお越しいただきましてありがとうございました。貴重な意見交換ができたというふうに思っております。
我々報道機関としては、青少年にかかわるニュース番組をどう扱うかというのは、ずっと悩むところです。我々の大先輩たちも、ずっと悩み続けている問題だと思います。
ただ、ずっと悩んでいるということは、要は100%の正解がないという問題だと思いますので、都度、物事が起こったときに、どうするかというのを各局とも判断され、ニュースですから、時間もない中で非常に厳しい判断を迫られることもあると思います。そういうことだから、各局で扱い方が違うことも多々あるのだろうと思います。
ただ、我々はこれからも、やっぱりこの問題に悩み続けて、正解はないんでしょうけれども、より正解に近い答えを出しながら放送していくということだと思います。
震災報道も、非常に難しい時期に入ってくるというのも、先ほども皆さんのお話にもありました。これからますます難しくなるんだと思います。吉永さんからありましたけれども、「風化させない」という言葉を風化させないということも大事かなと思いますし、我々は、中身でちゃんと風化させないような報道もしていくということかなと思います。
きょうの話を皆さん持ち帰って、現場とも共有しながら、よりよい報道に努めていきたいと思います。ありがとうございました。

以上

2018年11月28日

長崎県内各局と意見交換会

放送人権委員会の「意見交換会」が11月28日に、長崎市で開催された。放送人権委員会からは奥武則委員長、市川正司委員長代行、二関辰郎委員が、そして長崎県内の民放6局とNHK長崎放送局から30名が参加して、2時間にわたって行われた。
意見交換会では、まず奥委員長が「放送局の現場の生の声を聴く大変貴重な機会であり、積極的な意見を言ってもらえればありがたい」と挨拶し、開始した。そして、市川委員長代行が「事件報道に対する地方公務員からの申立て」について、そのポイントを解説した。続いて奥委員長が「事件報道と人権」と題して、前記委員会決定の少数意見の説明と、「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」を取り上げて説明を行い、それを基に参加者と意見を交わした。
後半は、参加者に事前に答えてもらったアンケートで関心の高かった「実名報道や子どもへのインタビュー、顔写真の使用の際に注意すべきポイント」について、二関委員から解説があった。その後に質疑応答があり、有意義な意見交換となった。
概要は以下のとおり。

◆ 市川委員長代行

「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本)について説明します。申立人は、警察発表に色を付けた報道で、意識がもうろうとしている女性を連れ込んで、無理矢理服を脱がせた、というのは事実と異なる内容だと申し立てました。「容疑を認めている」と放送されたことにより、すべてを認めていると誤認させているという点が一つ。それとフェイスブックから無断使用された顔写真とか、職場や自宅の映像まで流され、非常に極悪人のような印象を受ける報道だったと言っています。
この報道について、時系列的に説明します。まず、警察の広報から「広報連絡」のファックスが流れてきます。「準強制わいせつ事件事案の被疑者の逮捕について」ということで、発生日時、発生場所、申立人の実名、職業・公務員、それから身柄を拘束した、これはその当日の午前10時、通常逮捕です。そして、県内の住所と準強制わいせつという罪名が書かれています。事案の概要は、「被疑者は、上記発生日時・場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したもの」です。
これを受けて、皆さんの疑問は、どういう事案なのか、容疑を認めているのか、となると思いますが、電話で取材した記者は、「被疑者は事案の概要の容疑を認めていますか」と質問し、広報担当の副署長が、「『間違いありません』と認めています」とのやり取りがありました。さらに、「抗拒不能」と書いてあるので、「これはどういうことですか」と聞きました。すると、「容疑者は、市内で知人であったAさんと一緒に飲酒した後、意識がもうろうとしていたAさんをタクシーに乗せ容疑者の自宅に連れ込んだ。それからもうろうとしていたAさんの服を脱がせ、写真を撮影した。そして1か月ほどした後に、写真の存在を知って警察に相談した」と広報担当は説明したということです。広報担当が、「抗拒不能」ということの意味だけでなく、事案の概要の前後のくだりの部分についても、問わず語りに説明したことになります。
警察の広報の内容から考えて、被疑者は何を事実と認めているのかと考えた時に、事案の概要の部分だけなのか、広報担当が言った、マンションに入るまでの「飲酒した後、タクシーに乗せて連れ込んだ」、それから「もうろうとしていたAさんの服を脱がせて写真を撮影した」の部分も含めて、事実と認めているように理解すべきなのか。ここが一つの論点となります。
「申立人がわいせつ目的を持ってAさんを同意のないまま自宅に連れ込んだ」ということと、「Aさんの服を脱がせた」ということは、事案の概要に書かれたこととは別のことです。しかも、事案の概要の事実の前の段階の「連れ込んだ」、それから「意に反して服を脱がせた」、これは非常に大きく事案の悪質性にかかわりますが、広報連絡には書かれていない。そして事案の概要について、申立人は「『間違いありません』と説明した」ということですが、広報担当は、この二つの点について認めているとは明言していません。
それからもう1点、取材時は午前10時に逮捕されてから2時間弱の、その日の正午頃です。そうだとすれば、被疑者が警察の疑いを正確に理解して、その前段階の経緯も含めて詳細に供述しているのかは疑問だと考えられます。私どもは、事案の概要に至るまでのくだりの部分と、服を無理やり脱がせたという点についてまで認めているとは言い難いのではないかと考えました。
これに対して、放送が示す事実は、a~fに分けて書くと、こうなっています。aは、「意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込み」ということが放送されています。bとcの部分はあまり争いがなく、bは、容疑、つまり広報連絡に書いてある事案の概要そのものになります。dで「容疑者は容疑を認めているということです」と言っています。
続けてeで、先ほどのマンションに至るくだりの「連れ込んだということです」。それからfで「服を脱がせ犯行に及んだということです」という説明が続けてなされています。
語尾がすべて「何々"ということです"」と、これはよく使われる言い方なのですが、その前のところも「‥ということです」、「容疑を認めている"ということです"」となっていて同じ語尾になっています。
そこで、放送が示す事実は何かということになるのですが、「容疑を認めている」と放送していることと、犯行の経緯や態様、それから直接の逮捕容疑となった被疑事実を明確に区別せずに放送していることから、このストーリーを含めた事実関係をすべて申立人が認めている、したがって、このストーリー全体が真実だろう、という印象を与えていると考えました。放送倫理上の問題としては、先ほど言ったような広報担当の説明の仕方、それから広報連絡の事案の概要の書きぶりなどを考えると、「広報担当者の説明部分のうち、どの部分まで申立人は事実と認めていることなのか、そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるのかということについて疑問を持ち、その点について丁寧に吟味し、不明な部分があれば広報担当者にさらに質問・取材をするべきではなかったか」ということです。
仮にそこまでの取材が困難であったとすれば、逮捕したばかりの段階で、被疑者の供述についての警察担当者の口頭での説明が真実をそのまま反映しているとは限らず、関係者などへの追加取材も行われていない。そのような段階で留保なしに、「容疑者は容疑を認めています」として、ストーリー全体が真実であると受け止められるような放送の仕方をするべきではなく、少なくとも先ほどの自宅マンションに至る経緯、それから「脱がせた」という、こういった事実については「疑い」や「可能性」にとどまることを、より適切に表現するように努める必要があるのではないかと考えています。
以上のところが、放送倫理上の問題の1点目であります。
放送倫理上の問題の2点目は、薬物使用の疑いの放送部分です。放送は「意識を失った疑いもあるとみて容疑者を追及する方針です」としています。この「疑い」があり「追及する」というところは、一般的に薬物使用の可能性を指摘するにとどまらず、何らかの嫌疑をかけるに足りる具体的な事実や事情があって、その疑いに基づいて警察が被疑者を追及しているのではないかという印象を与えます。そういう意味で、疑いがあるという印象を与えた放送というのは、単なる一般的可能性ではなくて、具体的疑いを示しているという点で正確性を欠くと。このような表現は慎重さを欠いていると言わざるを得ないというのが、2点目の指摘です。
放送倫理上の考え方としては、放送と人権等権利に関する委員会(BRC)決定、これはある大学のラグビー部の事案に関するものですけれども、「警察発表に基づいた放送では、容疑段階で犯人を断定するような表現はするべきではない」、それから「裏付け取材が困難な場合には、容疑段階であることを考慮して、断定的なきめつけや過大、誇張した表現、限度を超える顔写真の多用を避ける」といったことを指摘しています。
それから民放連の「裁判員制度下における事件報道について」の留意点として、予断の排斥等々が出ています。
三つ目が新聞協会の指針で、本件もちょうどこれに近いところですが、「捜査段階の供述の報道にあたっては、供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容のすべてがそのまま真実であるとの印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分配慮する」とあります。これは新聞協会の指針ではありますが、参考になるかと思い決定文の中でも引用しております。
こういったことを受けて「放送倫理上問題あり」と考えました。
結論としては、「副署長の説明は概括的で明確とは言いがたい部分があり、逮捕直後で、関係者への追加取材もできていない段階であったにもかかわらず、本件放送は、警察の明確とは言いがたい説明に依拠して、直接の逮捕容疑となっていない事実についてまで真実であるとの印象を与えるものであった」と。それから、先ほどの薬物等の使用について疑いがあるという印象を与えたと。この2点の指摘が、放送倫理上の問題です。
この決定文では引用してなくて、参考までにということですが、警察発表との関係についての参考判例で、一つは広島地裁の平成9年の判決があります。これは運転中のAさんの車を停めて、Aさんに拳銃様のものを突きつけて下車させ、近くに止めていた乗用車にAさんを乗車させ、ナイフでAさんの右手甲を突き刺したという、監禁致傷で逮捕した、というのが警察の発表でした。また、逮捕時に被疑者は覚醒剤を所持しており、覚醒剤所持の現行犯でも逮捕されました。
さて、それで記事をどう書いたかというと、逮捕の被疑事実を書いたうえで、「調べに対し、容疑者は『後ろを走っていたAさんの車がつけてきたと思い、腹が立った』と供述している」というコメントを加えています。報道側は、記者の動機に関する質問に警察は、「シャブでもやって、被害妄想でやったんだろう」と回答したことから、こういった記事を書いたんだと言ったのですが、警察は裁判になると、この警察の回答自体を行ったことを否定してしまいました。
それで判決では、犯行の動機を供述しているとして、その具体的内容が記載されていることから、被疑事実が単なる疑いに留まらず真実であるという印象を与えるとし、動機の供述の記載は、社会的評価を更に低下させ、真実性・相当性を欠き、名誉毀損になるという結論を出しています。
それからもう一つ、神戸地裁の平成8年のケースですが、広報資料の記載では、何年何月にある人の家の中で電話機を窃取しました、こういう犯罪事実でした。それで、窃盗での通常逮捕です。記事は「民家に忍び込み」というのを付け加えて、「民家に忍び込み、携帯電話を盗んだとして手配され」と書いた。この部分が名誉毀損だという主張をしたわけです。報道側としてみれば、人の家で盗んだのだから、当然、他人の住居に忍び込んだのでしょうと。通常、住居侵入と窃盗は、牽連犯と言って密接に関連するものだと言われているので、警察発表と同じだと主張したのですが、判決のほうは、住居侵入は牽連犯とは言っても、窃盗とは別の犯罪だから、住居侵入を伴う窃盗というのは全然罪状が違う。したがって、警察発表の被疑事実の範囲とは言えないとして、「民家に忍び込み」という部分を名誉毀損と認めました。こういった判例も参考にはなると思います。
最後に、肖像権・プライバシー侵害の問題ですが、先ほどのフェイスブックの写真、それから区役所の外観を撮影し、何々区役所区民課主事と言ったというところで、肖像権・プライバシー侵害だということが論点になったのですが、これは一般論として、委員会は、公務員が刑事事件の被疑者になったからといって、役職や部署にかかわらず、一律に公共性・公益性があるとは言えないだろうと考えています。被疑事件の重大性や、その公務員の役職、仕事の内容に応じて放送の適否を判断すべきだと。ただ本件の対象事件は、準強制わいせつで重い法定刑の事案である。それから申立人が窓口業務ということ、公共的な意味合いの強い場であることを考えると、こうした放送が許されない場合とは言えないだろうと考えました。
繰り返しの写真使用については、これも相当な範囲を逸脱しているとまでは言えないということです。ただし、曽我部委員は、ややこれはやり過ぎではないかという少数意見を言っていますので、後ほど(奥委員長に)説明していただければと思います。
それからフェイスブックから取得した写真の使用の点ですが、まず使用方法については、フェイスブックに公開すると同時に権利を放棄しているのではないかとも言われているのですが、こういう場面で使うことは一般論として一律に許されるとは、私どもも考えておりません。ただ本件については、その公共性・公益性という観点から考えて、こういった画像の使用も認められないわけではない、許されると考えました。
留意点としては、フェイスブックからの画像であると、通常皆、引用元として書かれており、出典を明らかにすることは良いかもしれませんが、これを書くと、視聴者はフェイスブックのその人のページに誘導されて、その申立人の画像だけではない、ほかの画像も見られるということになる。本件でも、申立人の画像以外に、親族の子どもさんの写真なども、その同じフェイスブックの中に入っていたそうで、親族の方からクレームがあり、ウェブサイトに載せていたニュースは短時間で削除した、というような経過があったと聞いています。フェイスブックの写真の利用には、このような側面があることに留意する必要があるということを付言しております。
以上がテレビ熊本で、熊本県民テレビについては、違いだけ説明します。放送が示す事実のところを見ていただきますと、熊本県民テレビは、abcdという、マンションに至るくだりや、「服を脱がせ」というのも含めて、容疑事実をずっと話して、最後にeとしてまとめて「容疑者は『間違いありません』と容疑を認めているということです」と、より端的にすべてを認めているという言い方をしています。
表現としては、テレビ熊本のほうが、やや容疑事実の違いを意識したとも言える放送だった。こちらのほうは、あまりそれは意識せずに、全体を容疑として認めているという言い方をしており、ちょっとニュアンスが違っています。あと、違うところは、放送倫理上の問題について、薬物の使用云々については、表現としては「可能性があるというふうに考えています」という程度の表現ぶりだったので、この点に関しては、熊本県民テレビについては、委員会は問題にしませんでした。
ということで、若干グラデーションが違うところはありますが、放送倫理上の問題を指摘したというのが本件の論点ということになります。

◆ 奥委員長

「事件報道と人権」という少し大きな括りになっていますが、最初に「人権」とは?ということです。難しい定義はさておき、私は「個々人が、社会にあって、幸せに生きることができること」、これが人間の人権だと考えています。放送局にとってみれば、名誉毀損とかプライバシー侵害とか肖像権の侵害とか、こういう形で具体的に人権の問題が出てくるわけです。
放送というのは、人権だけを全面的に考えると、放送できないケースがあります。そこに公共性・公益性や、真実性・真実相当性がある場合には、報道の自由があります。常にこれを人権と比較衡量して、どうなるかというふうに考えなければいけない。
今、市川委員長代行が説明された「事件報道に対する地方公務員からの申立て」事案は、容疑内容にないことまで容疑を認めているような印象を与えたということですが、人権侵害とまでは言えないけれど、放送倫理上問題があるという結論です。これに対して私の少数意見は、警察の広報連絡を基に、警察当局に補充の取材を行って、その結果を放送するのは、容疑者の逮捕を受けた直後の事件報道の流れとして一般的に見られるものであって、内容的にも、警察当局の発表や説明を逸脱した部分はないということで、放送倫理上の特段の問題があったとは考えないというものです。警察の広報担当者の説明があいまいだったということを決定は指摘していますが、新聞報道も大体同じことを書いています。そういう意味でも、本件放送に放送倫理上特段の問題があったとは考えない。
実はもう一つ少数意見がありまして、曽我部さんは、私の少数意見に基本的には賛成だが、放送倫理上問題ないから、それでいいという話ではないことを指摘しています。「もっとも、これは本件報道が良質な報道であったとするものでは全くない。申立人は一若手職員にすぎなかった者であり、本件刑事事件は公務とは無関係なものであるが、公務員というだけで、詳細の分からない段階で、顔写真はともかく、職場の映像の放送や、薬物使用の可能性の指摘、卑劣だとのコメントまで必要だっただろうか。あるいは、こうした扱いにふさわしい取材がなされたといえるだろうか」という疑問を呈して、「申立人の主張を信じるとすれば、若者が時に犯すことのある飲酒の上での軽率な行為という趣のものであった事案が、公務員による計画的な性犯罪であるかのような印象を与えかねないニュースとして報道されてしまったもので、申立人の悔しい思いは理解できるところがある」と述べています。この点は、この案件を考える時に非常に重要な問題だと私も思っています。
次に、「浜名湖切断遺体事件報道」です。これは連続殺人で二人を殺したとして容疑者が逮捕され、地元を震撼させた事件です。
「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関連を調べています」と放送しました。
申立人の訴えの内容は、「殺人事件にかかわったかのように伝えながら、許可なく私の自宅前である私道で撮影した。捜査員が自宅に入る姿や、窓や干してあったプライバシーである布団一式を放送し、名誉や信頼を傷つけられた」というものです。決定は、申立人の人権侵害(名誉毀損、プライバシー侵害)はないという結論です。放送倫理の観点からも問題があるとまでは判断しませんでした。
申立人はこの事件で捕まった容疑者の知人で、事件発覚前にこの容疑者から軽自動車を譲り受けています。さらにこのテレビニュースがあった日に、警察が申立人宅へ赴き、この軽自動車を押収した。そして申立人は、同日以降、数日間にわたって警察の事情聴取を受けている。これについては、申立人も認めている争いのない事実です。申立人の主張の前提は、この日の警察の捜査活動は容疑者による別の窃盗事件の証拠品として申立人宅敷地内にあった軽自動車を押収しただけで、浜名湖連続殺人事件とは関係ない、ということです。ところが、ニュースは「関係者」「関係先の捜索」といった言葉を使い、申立人をこの事件に係わったかのように伝え、申立人の名誉を毀損した。また、申立人宅前の私道から撮影した申立人宅とその周辺の映像が含まれ、申立人であることが特定され、プライバシーが侵害されたと主張しています。
「プライバシー」とは、他人に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄で、本人の意思に反してこれらをみだりに公開した場合はプライバシーの侵害に問われる。ここでは、「みだりに」というところが重要なわけです。本件放送の場合はどうかというと、申立人宅の映像はただちに申立人宅を特定するものではないし、布団や枕などの映像も、外のベランダに干してあるわけですから、個人に関する情報や私生活上の事柄とは言えないだろうということで、プライバシー侵害には当たらないという決定にしました。
一方、ニュースの内容がその人の社会的評価を低下させるということになると、名誉毀損という問題が生ずるわけですが、その際に公共性・公益性があって、さらに真実性・真実相当性があれば名誉毀損に問われないという法理が確立されています。この場合は、現地における大事件ですから、その続報を放送することは、公共性・公益性はもちろんある。問題は、真実性・相当性の検討になってくる。申立人宅における当日の捜査活動が浜名湖遺体切断事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車を押収した。これは本件放送の重要部分で、これには真実性が認められます。
問題は、「関係者」「関係先の捜索」という表現をしたことによって、この真実性を失わせるかどうかです。テレビ静岡は、当日の捜査活動の全体像を知っていたわけではない。リークされた情報があり、捜査本部のある警察署から捜査車両が出て行ったのを追尾していったら、申立人の家で捜索活動が行われたのですが、テレビ静岡は映像を撮った段階では、一体この申立人宅でやっていることは、全体の中でどういうことなのかは、実は分かっていなかったということです。そういう時に「関係者」とか「関係先の捜索」という表現を使うのは、ニュースにおける一般的な用法として逸脱とは言えないという判断をして、申立人に対する名誉毀損は成立しない、という決定になったわけです。
ただ、申立人宅内部の捜索が行われたのかどうかということは実は問題で、アナウンサーのコメントは、最初のニュースが「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は今朝から関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関係を調べています」というものです。申立人宅の映像は、この時を含めて繰り返し使われ、遅くなるほど詳しくなって、2階の窓の映像も加えられたりしています。実際は、家の中の家宅捜索は行われていなかったのですが、あの時点で取材陣が、捜索が行われたと考えたことには相当性が認められる。しかし、時間の推移とともに申立人宅での捜索活動は、車の押収だったことは推定できたはずです。にもかかわらず、だんだん映像が多くなってくるわけですから、申立人宅映像の使用は、より抑制的であるべきではなかったかということを要望しました。
次に少し事件報道一般についてお話ししたいと思います。
「事件報道は人を傷つける」と私はいつも言っています。逮捕された容疑者は当然、「ひどいことをする人間だ」と世間から指弾されます。ほかにその事件の関係者はいろいろいるわけです。容疑者の家族、被害者、その家族、いろんな人がいますけれど、みんな何らかのかたちで傷つくのです。こういうところは、言い過ぎかもしれませんが、事件報道の"原罪"なのかと思います。事件報道は、一方にクールで成熟した市民が受け手としていて、もう一方に熟練した職業人としての腕と情熱、そして品性を持ったジャーナリストがいる。その往還の中で、"原罪"的なものを、つまり事件報道が持っている「悪」を飼い馴らす、という方向でやっていくしかないだろうと考えています。ニュースの送り手としては、腕と情熱が非常に重要だと思います。情熱がないと特ダネが取れません。やっぱり特ダネというのは大変重要なものですが、特ダネを取ろうとすると、しばしば人権を侵害する事態になってしまうこともあります。
事件報道は、つまりは犯罪についての報道です。犯罪を捜査しているのは警察で、ニュースソースの大半は警察なわけです。だから警察が間違うとひどいことになります。この点では松本サリン事件が大きな教訓を残しました。1994年に長野県の松本市の住宅街で未明によく分からないガスが漂って7人死亡したという事件です。その第一通報者が犯人視扱いされて、ひどい報道がされました。長野県警の初動捜査の誤りで、警察情報に依存する報道が、ある意味で仕方ないところはあるけれど、結果は非常に最悪のケースになりました。
ではどうしたらいいのか。よく言われていることは、情報を多角化し、警察情報を相対化しなければいけない。そして、「特ダネ」至上主義からの脱却。松本サリン事件を見ていると、「もうよその社が書くよ」、「これ書かないと特落ちになっちゃうよ」ということがありました。そういう「横並び意識」をどこかで排除しないといけない。では何が必要かというと、私は「道理」の優先というのをいつも言っています。ちょっとおかしくないか、と踏み止まってみる。物事の正しい筋道、筋が通っていることを、しっかりと考えましょうということです。
さて、報道被害について。報道被害が大きく問題になったのは、和歌山毒物カレー事件です。事件があったのは、和歌山市の園部地区という小さな集落で、そこに全国から新聞・テレビ・週刊誌の大取材陣が来て、その地区の住民は日常生活ができなくなったという状況になりました。これはメディアスクラム、集団的過熱取材と言われて、あらためて問題になったのですが、日本新聞協会や民放連も見解等を出しています。民放連の見解を少し紹介しますと、「嫌がる取材対象者を集団で執拗に追いまわしたり、強引に取り囲む取材は避ける。未成年者、特に幼児・児童の場合は特段の配慮を行う」「死傷者を出した現場、通夜・葬儀などでは遺族や関係者の感情に十分配慮する」「直接の取材対象者だけではなく、近隣の住民の日常生活や感情に配慮する。取材車両の駐車方法、取材者の服装、飲食や喫煙時のふるまいなどに注意する」と、具体的に書いています。やっぱり具体的に非常に注意しないといけないということです。
では、メディアスクラム状況を起こさないためにはどうしたらいいのか。現場の記者クラブである種の協定をするとか、そういうことをしなければいけない。しかし、実は問題は、どこまで取材して、何を伝えるかというのが根底にあるので、それを抜きに、協定すればうまくいくという話ではないですから、難問として最後まで残るだろうというふうに思います。
ここに来ている方は、報道の現場の方が多いと思いますが、昔は「知る権利」という言葉がよく使われました。市民から付託されて、メディアは取材対象に向き合う、市民に後押しされるという存在でした。今や、メディアは挟撃されているというのが私の認識で、取材される対象からは、酷いじゃないかとかフェイクニュースだとか言われたり、一方市民の方からは、人権抑圧だというふうに言われたりして、挟撃されている。非常に難問に迫られているのですが、しかし、こうした状況だからといって萎縮してはならない。積極果敢に打って出なければいけないと思います。
新しい『判断ガイド』の前文に、私は「私たちにとって最大の武器は歴史と経験に学ぶことができる力です」と書きました。判断ガイドに沢山の事例がありますが、こういうことで活用していただきたいと思います。「人権」が強く叫ばれるようになって、ますます取材が難しくなるという状況の中ですが、皆さんいろいろ工夫しながら、いいお仕事をしていただきたいと思っています。

◆ 【委員会決定について】

○参加者
「人権」とは?という説明の中に、「個々人が、社会にあって、幸せに生きることができること」とありますが、裸の写真を撮られたこの女性は、社会にあって、幸せに生きることができたのでしょうか。私は一番人権侵害を受けたのは、この女性なのではないかと思うんです。それを許せないという思いが、報道の発露ですし、深く掘り下げて取材しようとした記者の行為は当然だと思います。当然行き過ぎた報道とか反省すべき点はあると思いますが、その被害者の女性を差し置いて、一若手の職員の方がBPOの制度を使って、自分の人権侵害を申し立てるというのが釈然としないので、こういう質問をしました。

●市川委員長代行
被害者の女性とは接触していないので、その後の経過とか、心境というものは把握していません。BPOの建て付け・枠組みは、放送された側と放送局との問題なので、その事件の背景にある被害者の方がどう思ったかなどの点の究明は、構造上どうしても限界があることはご理解いただきたい。この事案は、公共性・公益性があるので報道に値するが、真実らしいとして報道できるところだけでなく、そこまでは認められない事実まで真実らしく認められるように報道している部分が行き過ぎではないか、というのが本決定の言いたいところです。

○参加者
熊本の事案について、あれ以上どういう形で確認等、表現を考えればいいのか、非常に悩んでいるところです。当然初報の段階で、解説員がニュースを補足するような感想を言うのは、私自身もおかしいと思いました。しかし、何月何日被疑者宅で女性が裸を撮影された、というのが事案の概要で、これだけではニュースにならないし、抗えない状態というものを構成する要素として、酒を飲ませたり、連れ込んだりといった具体的な説明をすることが、倫理上問題があるのかを教えていただきたい。

●市川委員長代行
一つは、何を認めているのかという問題です。「認めている」ということは、今までグレーだったものが真っ黒になるわけで、非常に重たい言葉なんです。だとすれば、一体どこからどこまで認めているのかをきちんと吟味すべきだと思います。初報の段階で、広報担当の話を聞いたうえで、実際にどこまで認めているのかを、もう一歩踏み込んで聞けばよりクリアになるはずです。もう一つは、あれ以上の言い方はできないとおっしゃいましたが、事案の概要として書かれたことを認めていると、ここでまず切れるわけです。捜査当局がどこを疑いとして、見立てとして言っているのかは、はっきり区別すべきだと思います。新聞報道では、その辺りを区別しているなと受け止められる全国紙もありました。
また、抗拒不能の状態について聞くのは自然ですが、抗拒不能というのは、酒に酔って抵抗できない状態のことを言うわけであり、それがなぜ起きたかということについては、あの段階では警察は見立てとして考えていたとすると、車に乗せて連れ込んで裸にしたということが、抗拒不能という事実の中に含まれているというふうには受け止めないほうがいい、したがって、事案の概要以外のこともすべて認めているという印象を与える報道はしないほうが良いだろうと思います。

●二関委員
この事案の概要は、裸の状態を撮影したというものです。そのような状況に至るまでには、部屋に行ったり、服を脱いだりといったいろいろな経過があったはずなのに、撮影という一瞬の出来事だけを切り取っているわけです。
なぜその一瞬だけなのかと記者の方も思うはずです。それゆえ、メディアとすれば警察に取材することになるのでしょうが、他方、警察のほうもメディアが絶対聞きに来るなと分かっていて、文書で発表する部分と、あとは口頭で言おうとする部分とを使い分けているのではないかと思います。そのような警察の想定に乗せられてしまった事件ではないか、という気がしています。さらに、もし、無理やり服を脱がせたといったことについても被疑者が犯行を認めていたとすれば、被害者と被疑者という関係者の供述が一致しているわけですから、なおさら、なぜ撮影という一瞬の出来事の部分だけを切り取って事案の概要として公式発表したのか、疑問が生じても良い事案ではなかったかと思います。

○参加者
「肖像権・プライバシー侵害か」のところで、「区民課の窓口で一般市民とも接触する立場にあり、勤務部署も公共的な意味合いの強い場であることに鑑みれば、職場や職場での担当部署を放送することが許されない場合とはいえない」とあるが、一般市民と密接にかかわらない他の部署の一職員だと、その職場の映像はもとより、○○課というような表現をすることは疑問である、という結論に導かれてしまうのでしょうか。

●市川委員長代行
一般的には、選挙される立場の公務員や議員の方たちの、公共性・公益性というのは非常に高く、それ以外の公務員の場合には、地位や扱っている業務との関係で、公共性・公益性が論じられると思うので、今回は窓口の人であることは一つの要素として考えましたが、窓口対応しない人は公共性がないのかと言われれば、そうでもないだろうし、一概には言えないと思います。普通の区役所の職員であった場合に、すべて公共性・公益性が認められ、必ず名前や顔を出し、こういう扱いをすることが認められるかと言うと、必ずしもそうでもないだろうと思います。

●二関委員
当時の議論で覚えているのは、課長職以上のように意思決定に大きな権限を持っている人と、そうでない人とは一線を画すのが妥当であろうといった議論です。このケースでは、若手の現場の職員なので、公共性は低い方に分類されることになるけれども、市民との接点もある人だから、その点も踏まえた考え方を取り入れて、単純に公共性が低いという扱いにはしないようにしましょう、という議論をした経緯があります。

○参加者
立場や役職というものではなく、逮捕容疑の重さで判断していいのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。

●市川委員長代行
そこは仮定の議論なので、何とも言い難いですが、職務とかの要素を考えないで一律にというわけにはいかないのではないかと思います。報道するかしないかということと、どこまで突っ込んで放送するかですね。あの場合には、窓口対応のその窓口の席まで映したわけなんですけど、そこまでやる必要があったかということも関係するのかなと思っています。

○参加者
フェイスブックの写真の使用について、「その友人や家族のマスキングのない写真や情報を閲覧することができるということにもなりうる。フェイスブックの写真の利用にこのような側面があることには留意する必要がある」と書いてあり、意味は分かるが、どう留意すればいいのかは非常に悩むところです。今回の件に関して、そういった議論があったかを参考までにお聞きしたい。

●市川委員長代行
その点はおっしゃる通りで、私どもも正解を持ち合わせているわけではありません。ただ、報道後、フェイスブックの中の写真に小さなお子さんの親族の写真も写っていて、そのお母さんから連絡があったりして、フェイスブックの写真には波及効果があるなということを感じました。
また、WEB上のニュースなどの映像について、いつまで出し続けるかという問題もあると思います。フェイスブックからの引用自体が許されないということはないだろうし、その際に出典は明記するはずだと思いますし、正解はありません。ただ、SNSの写真はそういう紐付け効果みたいなものや、永続的にいろんな人がたどり着けるので、アルバムの写真を載せるのとは違う要素があることは、考えたり気をつけたりしないといけない。今の段階ではそのようなことを考慮して放送すべきだろうと考えます。

●二関委員
他からも入手できる写真があるにもかかわらず、ネットで取れて簡単だからといって、フェイスブックに流れるという姿勢は、避けることができる場合があるように思います。

○参加者
今のご発言について、参考のコメントとして言いますと、おそらく各社がフェイスブックの写真を知り合いの人などに見せて確認したり、他から入手した写真と照合したりしたうえで使っています。裏取りの作業は報道現場でも今は求められていると言えます。
さて今回の熊本の件ですが、私はどうしても奥委員長の少数意見に共感してしまいます。BPO、特に人権委員会は、メディアの人間と、法律家あるいは研究者の、ある意味価値観のせめぎ合いの場なのかなという気もします。それで、参考判例(2)の平成8年の神戸地裁の判決について、当然法律家は判例に沿って考えると思うのですが、社会通念から見て、個人的な評価というか感想を、法律家出身のお二方の忌憚のないところをお聞きしたい。

●市川委員長代行
印象としては、たしかに厳しい判決だろうなとは思います。ここで例として挙げた理由は、今回のような広報資料として出されてきている事実と、それ以外のこととは、やはり違うんですよ、ということです。法律家がこういうふうに考えることは、全く世間から乖離しているということではない。今回の件で言えば、真偽のほどは分からないが、裸の女性の抗拒不能の状態の写真を撮ったという事実と、それ以外の酒を飲ませて、連れ込んで、裸にしてということが付け加わっているのと、受ける印象はかなり大きな違いがあることを考えないといけないと思います。

●二関委員
犯罪事実というのは、午前2時35分から9時30分頃までと幅がありますよね。これが深夜だけしかなかったら「忍び込んだ」というふうに思えるが、人が起きているような時間を含んでいますから、入った経緯までは違うことがあり得ると、理屈で考えればあると思います。ただ市川委員長代行が言ったとおり、たしかに厳しいかなという感想ではあります。

●奥委員長
私は法律の専門家ではありませんが、警察の広報担当者が説明したことを書いたら、それについては基本的には責任は問われない、という判例もあるようです。

○参加者
参考判例(2)は、「忍び込み」を排除して窃盗するということは、相当広げないと常識的に難しいかなと思い、こうしたことがベースになって積み重なっていくのは、結構危険な面もあるのかなというふうに感じたので、こういう質問をした次第です。

●市川委員長代行
先ほど奥委員長が言った、警察発表を信じてそのまま書いたら、それは相当性がありというのは、決定でも引用した、平成2年の判決があります。もう一方で、平成13年の判決では、警察発表だからと言って、被疑事実を客観的真実であるように書いてはいけないというものもあります。そういう意味で、名誉毀損が成立するかどうかという観点からいくと、現在の状況で名誉毀損とまでは言えませんね、と我々は議論して考えました。ただ、違うレベルの問題として、放送倫理の問題から言うと、熊本の事件のこの事案では、放送倫理の問題を指摘できるのではないかということです。

○参加者
熊本の事案は、放送倫理上問題があるという判断で、静岡の事案は、放送倫理に問題があるとまでは判断しなかった、この違いは何だろう、そこまでの違いがあるようには自分の中ですっきりと消化ができていないところがあります。静岡の案件で言うと、軽自動車を譲り受けていた知人の家に、警察が車を押収するなどの捜査活動をしている映像が映っている。私もよく言われますが、特に田舎だと住所を言わなくても、ちょっと映像が映っただけで誰の家かはすぐ分かると。この映像が映ったおかげで、殺人事件にかかわっていないのに、犯人扱いされたという話だと思うが、むしろこっちのほうが熊本の件よりも人権侵害の要素があるのではないかと思ったりします。
静岡の件で、放送に問題があるとまで判断しなかったというところに至ったポイントは、殺人事件に関する報道の公共性・公益性などを重要視したのかどうか、補足で教えていただきたい。

●奥委員長
公共性・公益性ではなく、それはもう入口としては当然ある。問題は、あのニュースが、「関係先」とか「関係者」という表現をしているが、実際に申立人があの事件の犯人と直接かかわりがある、この事件の関係者であるという意味での関係者というふうに、視聴者に受け取られるかというと、必ずしもそうではないでしょう、という判断です。

●市川委員長代行
まず、名誉毀損かどうかを考えた時に、その放送自体がその人の社会的評価を下げるかどうかですが、浜名湖の事案の場合には、特定性の問題もあり、事件の被疑者とは描かれていません。彼の社会的評価を下げていることにはならないということで名誉毀損にはならないということになっています。熊本の場合には、犯罪報道で、申立人は特定されて社会的評価が下がっています。真実性の証明もできていない。しかし、真実と信じたことの相当性というところで名誉毀損とはならなかった。レベル感は違うと思います。

***

●司会
次に事前アンケートの中に、「事件、事故の犠牲者の顔写真を友人から入手して放送する場合、家族の了承は必要でしょうか」とか、「未成年の場合は、保護者の了承を取る必要があるでしょうか」また、「報道で名前や顔などの情報をどこまで出せるのか」といった、各局に共通して気になるところがありました。今回、二関委員にポイントを参考資料にまとめていただきましたので、資料の説明をお願いします。

●二関委員
事務局から、「実名報道」「子どもへのインタビュー」「顔写真の使用」の3件について報告してほしいという依頼がありましたので、これらについて説明したいと思います。
まず「実名報道」ですが、日本新聞協会が『実名報道』(2016年)という冊子を出しておりますので、これをベースに項目等のご説明を簡単にしたいと思います。この冊子には、「実名報道が原則だ」とする根拠が書いてあり、配付資料に挙げている項目がそれに対応しています。メディアがこのような広報をすることは重要ですが、他方、その根拠づけが一般化できるのか、どこに限界があるのかといった視点を持って読むことも重要と思います。
まず一つ目は、「知る権利」への奉仕と書いてあり、最高裁の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」を挙げていて、民主主義社会における国民の「知る権利」の重要性を書いています。「国民の『知る権利』がまっとうされるために、実名は欠かせないと考えます。実名こそが、国民が知るべき事実の核だと信じるからです」と書いてありますが、これは信念であって、これ自体は根拠ではないと思います。また、「民主主義社会において」ということですから、それと関係ない文脈に関する事実についての実名については、この理由づけで説明するのは難しいかと思います。
次に、「不正の追及と公権力の監視」と書いてあります。これは、たしかに大事なことで、今日も地方公務員の話が出ていましたが、公権力に携わる人に対する実名の問題と、一市民の実名の問題とでは、違ってくると思います。
次に、「歴史の記録と社会の情報共有」という項目で、友人や職場の同僚、地域の人々など広い意味での知人は、報道によって安否についての情報を知る、と書いてあります。報道にそのような機能なり効果はあるでしょうが、他方、報道は、全く関係のない人にも広く伝えるものですから、この理由づけによって説明できない人もそれに接するんだという点には留意が必要と思います。
次に、「訴求力と事実の重み」とあって、実名による報道は、匿名と比べ、読者、視聴者への強い訴求力を持ち、事実の重みを伝えるのだ、と書いてあります。たしかに、そういう場合も多いとは思いますが、一方で、文章で工夫することによって、名前を使わなくても訴求力を持った記事はありえ、工夫できる場面によっては実名は必ずしもいらない場合もあるのではないかと考えられます。
あと、「訴えたい被害者」の記載で、被害の事実と背景を、自らの立場から広く社会に訴えようという方もいる、ということです。これは、そういう方もいれば、そうではない方もいる、という話だろうと思います。
以上が「実名報道原則」の関係です。
続いては、「発表情報と報道情報の峻別」という問題です。これは警察に代表されるような公的機関などが、そもそもメディアに対し、実名を伝えないで匿名にしてしまうという問題です。これは本当に大事な問題です。メディア側からすれば、自分たちの責任で報道の段階で出すかどうかを適切に判断するということなのでしょうが、発表する側からすれば、本来実名が出されるべきではない場合に、ある社はきちんと対応していても、よそから実名で出てしまうという問題も生じるかと思います。他方、そうであるからといって公的機関だけが情報を握ったままというのも問題で、なかなか難しい落ちつきどころを見つけにくい問題という気がしています。
次に、「被疑者・被告人と被害者」という項目を挙げました。被疑者・被告人に関しては、裁判例を配付資料の後ろに載せておきました。この二つの事案の裁判例は、実名で犯罪を報道したことで名誉毀損となった裁判の判決です。(「福岡高裁那覇支部2008年10月28日判決」、「東京地裁2015年9月30日判決」とその控訴審「東京高裁2016年3月9日判決」)
これを見ますと、裁判所は実名報道を応援してくれている、というように読み取ることができると思います。いろいろな理由を挙げて、やはりそこには公共性・公益性があるのだと言ってくれています。ただ一方で、プライバシーも大事だと言っています。要は、事件報道に関するものであるから実名でいいと直ちに結論づける発想は、裁判所は取っていません。結構きめ細かく事案ごとに、要素を見て判断していることが分かると思います。
東京地裁で一般論を述べているところがありますので紹介します。プライバシーの侵害については、実名を公表されない法的利益と、これを公表する理由とを比較衡量するのですが、その際に考慮すべきは何かというと、「(1)新聞に掲載された当時の原告の社会的地位、(2)当該犯罪行為の内容、(3)これらが公表されることによって、原告のプライバシーに属する情報が伝達される範囲と、原告が被る具体的被害の程度、(4)記事の目的や意義、(5)当該記事において当該情報を公表する必要性など、その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由に関する諸事情を個別具体的に審理し、これらを比較衡量して判断することが必要」と言っています。
被疑者の場合と、被害者の時とは、だいぶ状況が違います。
被害者に関しましては、冊子『実名報道』の中で、二次被害防止、軽微な事件、性犯罪の被害者、亡くなった被害者本人や遺族にとって「不名誉な死」にあたるか否かを基準に判断をする社もあるとの記載があり、それも一つの考え方かと思います。
それから、「一過性と継続性」という項目も挙げておきました。これは基本的に報道する側は、報道するまでで終わってしまうのに対して、報道される側は、そこから始まる、ということです。インターネットが普及してきますと、そもそも情報が残る、そういう傾向がより顕著になってくるのではないかと思います。
あとは、「報道機関の匿名措置とネットでの実名流布」という問題です。報道機関が匿名措置を1回取っても、ネットではさらされる状況というのが、事件によっては時折見られます。これをどう考えるかということです。報道機関としては、ネットに載っているからうちも、といった情報伝達の横並びの話にはおそらくならなくて、報道機関は報道機関としての矜持を持って対応すべき場面であろうと思います。さらに、気を付けなくてはいけないことは、自分のところで匿名措置を取っていたとしても、ネットの情報と突き合わせることで個人が特定できてしまう、そういうことがあることを念頭に置かなければならない難しい時代に入ってきているという気がします。
実名報道に関しては、当委員会の曽我部委員も、朝日新聞が出している『ジャーナリズム』2016年10月号に記事を書いていますので、ご参考にしていただければと思います。
では2点目にまいりまして、「子どもへのインタビュー」という問題です。これは何がテーマかによって異なってきます。例えば地域のお祭りなどのイベントに参加している子どもを取材する場合と、事件が発生した際に同じ学校の生徒に取材するといった場合とでは違ってくるということは、お分かりいただけると思います。
配付資料に「保護者の承諾」、「本人の承諾」と書きましたが、一定の場合には本人の承諾のみならず、保護者の承諾も取るべきでしょう。「財産権と人格権」と書いたのは、民法などでは、財産権にかかわる事項の場合には、お小遣いを超えるような範囲の時には、親権者などの法定代理人の同意を得ることになっていますが、人格権にかかわることであれば、ある程度の年齢、例えば高校生ぐらいになってくれば、むしろ未成年者であろうとも自分で判断できる事項もあるでしょうから、そういう時に親の同意があるので子どもの同意がなくていい、といった考え方はとりにくいと思います。
そして、NHKの『放送ガイドライン』からの引用ですが、「未成年者の取材や番組出演にあたっては、本人だけでなく、必要に応じて保護者に、その趣旨や内容を説明し承諾を得る」とあります。これは本人からの承諾は当然としたうえでの保護者の承諾ということですね。あと「未成年者に対しては、取材や出演が不利益にならないよう、十分配慮するとともに、精神的な圧迫や不安を与えないよう注意する」とあります。これは2001年に、池田小学校という大阪の事件がありましたが、あの時に事件現場で子どもがインタビューされたことに対して、それを見た視聴者などからかなり批判がありました。そういう子どもの心のケアが大切な時に配慮が足りないとか、ショックを受けている子どもにマイクを向けるとは非常識だ、そういった批判があったことなどを受けて出てきているガイドラインかと理解しています。
あと、BPO青少年委員会が2005年に出した「児童殺傷事件等の報道」についての要望の中で、「被害児童の家族・友人に対する取材」に関する部分を、配付資料に挙げておきました。
最後に3点目の「顔写真の使用」については、今日配られた『判断ガイド2018』の顔写真の使用についていろいろと書かれた場所がありますので、該当頁だけ挙げさせていただきました。時間の都合上、後でお読みいただければと思います。(「匿名報道、モザイク映像等(27頁~)」、「容疑者映像等(42頁~)」、「肖像権(71頁~)」)
ここで言っているのは、安易な顔無しなどはしないということです。ある意味、負のスパイラルみたいなところがあって、顔無しの映像を普段見慣れた視聴者は、例えば取材を受けた時に、「一般的にそうだから自分も顔無しにしてほしい」と要望してくることが増えるでしょうし、取材する側もそのように言われると説明に窮して応じてしまい、その結果、ますます顔無し映像が増えるという流れが、最近できてしまっているような感じがします。そういった流れを、安易な顔無し映像を減らすことでコツコツと軌道修正していくといった地道な取り組みが大切かと思っています。
どの問題にしても、この場合にはこうすべきだという、カチッとした正解がある世界ではないので、なかなか難しいと思いますが、議論のきっかけとしてご報告させていただきました。

○参加者
4年前の土砂災害で高校生の男子が亡くなり取材していたら、同級生が、「良いやつだったから、顔写真を是非使ってほしい」というので、写真をもらって放送したのだが、その後お兄さんから電話があって、「何で勝手に使うんだ」とお怒りになっていた。別のデスクが受けたので、私が引き受けてお兄さんと話をしたら、その段階ではすでに怒りが収まっていて、実は抗議の電話をかけた後に、「親や周囲から怒られた。何てことを言っているんだ」と言われ、それ以上は進まなかったということがありました。
友人、知人から入手した写真、特に未成年者、子どもさんの場合に、もう時間もないし、確認もできたから使った時に、使うという判断をする前に、自分は親の承諾を取りに行くと考えているものかと思い、もし「使わないでくれ」と言われたらどう対応すべきなのか判断に迷うところです。

●市川委員長代行
問題は二つあって、同級生が未成年であり、その未成年から写真をスッともらうこと自体がどうかという問題と、その未成年の被害者の写真を使ったら、被害者の遺族にとってどうかという問題があると思います。最初の点については、その写真の性格にもよるとは思いますが、アルバムや皆さんと一緒に映っている普通の集合写真をもらう時に、その子の親の承諾を取るかと言われると、個人的な見解ですが、そうでもないと思います。被害者のほうについても、どこまでの範囲でご遺族に了解を取るかというのも、にわかに回答できませんが、私の個人的意見としては、すべて取らなきゃいけないというふうには思いません。

●奥委員長
今は写真の話ですが、実名報道の問題とも絡んできて、名前を出してほしくないという時にどうするか。基本的には、どういう報道なのか、どういう事案なのか、どういうケースなのか。先ほど二関委員も比較衡量の話をしていましたが、やっぱりこれには写真が必要なんだ、これには実名が必要なんだ、という判断を、承諾が取れたか取れないかとか、取ろうとか取らないとか、ということとは別に、報道する側でしなければいけないと私は思います。その時は崖から飛び降りてやるんです。後から文句が来たら、それは必要だったというふうに言わざるを得ない。ただし、実名は要らないケースがあるだろうし、実名を載せることによって人権侵害とか二次被害が出てくる問題の時は避ける。顔写真の問題も、要らない場合もあるだろうし、ということを常に考えないといけないのだが、よそから言われたから載せるのを止めましたよ、という話ではなかろうと私は思っています。

●二関委員
私も委員長の意見とほぼ同じですが、いずれにしても何かクレームが来たら、こう説明できるようにしようと、ちゃんと考えたうえで出すか出さないかを決める。外に対して説明できるような判断を経たか、というところが大事だと思います。

●市川委員長代行
写真の場合、どういう切り取り方をするかというのもあって、前回の意見交換で出たのは、被害者のご家族で、母親と幼児のお子さんの写真がフェイスブックに載っていて、非常に広く撮って報道しているところと、顔の部分だけが出るような形で報道しているのとでは、受ける印象がずいぶん違うなと思いました。その事案の性格に見合った形で出す顔写真のほうがふさわしいという話に、意見交換の中でなったことはあります。今回の場合もフェイスブックの写真が2回ぐらい出てくるのですが、カメラを持ってほほえんでいる全身像の写真の印象は、ただ顔写真が出てくるのとすいぶん印象が違う感じがして、報道される側からすると非常にさらされている感じがあるのかもしれないと思いました。参考までに。

○参加者
我々が自社でやるニュースサイトについては、期限を決めて閲覧できるようにしているが、意図せずインターネット上に拡散されていったものは、将来も流れて行ってしまう。我々は公共性・公益性があると判断し、一度出したものではあるが、それが長く残ることによってさらに人権を侵害してしまうおそれが出てくるとかについて、BPOへ申立てや協議になったものなどはありますか。

●奥委員長
何年か前に「大津いじめ事件」についての決定があります。テレビのニュース画像に裁判の資料が出て、いじめの加害者の名前がちょこっと出たんです。ニュースの画像を見ている限りでは全然分からないが、録画して静止画面にしてキャプチャーして拡大すると読める。それがネットに拡散して、被害を受けた方からの訴えがありました。BPOにとっては、たぶん新しい問題でもあったが、テレビ局はそういう形でネットに流れるということを想定して、ニュースなり番組なりを作らなければいけないという結論になりました。
通信と放送の融合とか、いろんなことを言われる時代ですから、それは知らないよ、勝手に向こうがやったことでしょ、という話にはならないと言わざるを得ない。そこまで注意する。これがネットに流れて残った時にどうなるか、そういうことを考えてやらざるを得ない。そういう時代に今至っているなと思います。

●二関委員
別の観点からですが、誰かが勝手に流していて今でもネットで映像を見ることができるからという申立てが来ても、元々の放送局がやっていた時を基準にしてBPOが定めている期限を過ぎていたら、審理入りはしないことになると思います。一方で奥委員長が言ったとおり、注意すべき点があるのはもちろんですが、そういうことがあるからといって、萎縮し過ぎてもいけないのであり、難しいところだと思います。そこについては、いわゆる"忘れられる権利"といった概念で対応して、消すことができるルールが別途適用されるのであれば放送局は萎縮しないで済むかなと、私としては思っていました。しかし、2017年1月の最高裁決定は結構厳しい基準で、なかなか忘れられる権利的なものは認めてくれないので、難しい状況だという感想です。

●市川委員長代行
委員会決定に、無許可スナックの摘発報道の事件というのがあって、テレビ局のサイトで被疑者の方のニュース映像がアップされ、それが約1か月、映像を見ることができる状態になっていたものがあり、事案の重さからしてもやり過ぎではないかということを指摘したことはあります。期間とか名前をどれくらい残すかは、ネットではまた別の配慮が必要だと思います。ただ、それを二次利用したりするのは、基本的にそれ自体をBPOは判断の対象にはしません。

***

こうした参加者との意見交換を受けて、最後に奥委員長が次のように締めくくり閉会した。
「いろいろと直接生の声を聞いて、考えさせられることが沢山ありました。『放送倫理』とは何か、と言われても答えはなかなかなく、どういう点が必要かについてはガイドブックにも書いてありますが、いろいろな事案を考える時には、放送倫理にどう問題があるのかないのかを、その都度事案に即して考えざるを得ないのが実態であります。
実際問題としては、番組を作ったりニュースを流したりしている方が、もっと身近に感じている問題だと思います。その際には、常にそういうことを考えていただきたい。けれども萎縮すると言いますか、当たらず障らずというのでは、報道の使命は達せられないだろうと思いますので、是非果敢にお仕事をしてほしいと、私はいつも言っています。今日は本当にありがとうございました。」

以上

第265回放送と人権等権利に関する委員会

第265回 – 2019年1月

「芸能ニュースに対する申立て」事案の審理…など

議事の詳細

日時
2019年1月15日(火)午後4時~7時
場所
「放送倫理・番組向上機構 [BPO] 」第1会議室(千代田放送会館7階)
議題
出席者

奥委員長、市川委員長代行、曽我部委員長代行、紙谷委員、城戸委員、白波瀬委員、二関委員、廣田委員、水野委員

1.「芸能ニュースに対する申立て」事案

対象の番組は、2017年12月29日に放送されたTBSテレビ『新・情報7daysニュースキャスター超豪華!芸能ニュースランキング2017決定版』。 番組の中ほどで、「14位 俳優・細川茂樹 事務所と契約トラブル」とナレーションがあり、「昨年末、所属事務所から『パワハラ』を理由に契約解除を告げられた細川茂樹さん。今年5月、『契約終了』という形で、表舞台から姿を消した。」と伝えた。
この放送について細川氏は、事務所からパワハラを理由に契約解除されたことをわざわざ強調して取り上げているが、東京地裁の仮処分決定で事務所側の主張に理由がないことが明白になっており、申立人の名誉・信用を侵害する悪質な狙いがあったと言わざるを得ないと主張し、謝罪と名誉回復措置を求めて申し立てた。これに対してTBSテレビは、意図的に申立人を貶めた事実は全くないとする一方、放送に「言葉足らずであって、誤解を与えかねない部分があった」として、申立人におわびするとともに、ホームページあるいは放送を通じて視聴者に説明することを提案し、できる限りの対応をしようとしてきたとしている。
今月の委員会では、12月の審理を踏まえ開かれた第2回起草委員会で起草した「委員会決定」案の修正案が示され、担当委員より説明の後、審理が行われた。審理では、各論点に対する評価や表現等について意見が交わされ、さらに第3回起草委員会を開いて修正を行い、次回2月の委員会に提案することになった。

2. その他

  • 1月29日に大阪で開く近畿地区での意見交換会について事務局より説明が行われた。

  • 次回委員会は2月19日に開かれる。

以上

2018年11月29日

北海道地区テレビ・ラジオ各局と意見交換会開催

放送倫理検証委員会と北海道地区テレビ・ラジオ各局との意見交換会が、2018年11月29日、札幌市で開催された。NHKと民放をあわせ放送局から51人が参加し、委員会からは升味委員長代行、鈴木嘉一委員、中野剛委員の3人が出席した。
前半は、9月に起きた北海道胆振東部地震にまつわる放送上の諸問題について、後半は番組制作におけるインターネット上の情報利用を主な議題として意見交換を行った。

北海道胆振東部地震については、参加各局から、日本で初めて発生したブラックアウト(大規模な電源喪失)によって引き起こされた、放送上のさまざまな問題が報告された。地震発生からおよそ20分後、全道ですべての電力供給がストップしたが、各局は自家発電等に切り替えることによって放送態勢を維持し、地震による被害の状況、食料や水の供給などの生活情報を伝えた。しかし家庭等への電力供給も停止し、放送はするものの視聴者がテレビをみることができないという前代未聞の状況が発生したため、テレビ各社はインターネットを使って番組の同時配信を行った。電力復旧の見通しが立たない中、発電用燃料の確保など各社の放送態勢維持のための作業は困難を極めたという。
こうしてインターネットを中心に番組や情報の提供が行われる中、SNS上では「数時間後に大きな揺れが来る」、「まもなく携帯電話が使えなくなる」、「札幌市内全域で断水」といったデマが拡散したが、発信元への情報確認ができず静観せざるを得なかったり、刻々と変わる事態に生活情報が追い付かず、情報発信がかえって混乱を招く事態も見られたという。
一方、地震による被害が最も大きかった厚真町の避難所や役場で、メディア取材が拒否されるという事態が起きたことも報告された。この状況は地震発生から3か月後、避難住民らが仮設住宅に収容されて避難所が閉鎖されるまで続いたが、参加者からはメディアスクラムというより、一部メディアの行き過ぎた取材に対する嫌悪感が長期化の原因ではないかという見方が示された。これに対し鈴木委員から、「避難所の取材には不安と混乱の生活空間に土足で入るのだという心構えが必要だ。取材に応じてもらえるよう、早い時期に各社の責任者が住民の代表者らと話し合うこともできたのではないか」との意見が出された。
また、液状化した住宅地の取材現場で、取材班が消防に救出されたことがネットで炎上したことについて、当該放送局は会社ホームページなどで謝罪したとの報告があった。これに対し升味委員長代行から、「放送に携わるスタッフも住民と同じ被災者だ。誰に対して謝る必要があったのか。無事救出されました、消防や住民のみなさんありがとう、でよかったのではないか」との発言があった。

一方、後半の議題であるネット情報の取り扱いについても、地震に関連した意見が目立った。メディアが出す情報に、ウソの情報を付け足してリツイートされるとデマ情報の拡散につながるため、情報は放送に集約して慎重に行ったとのラジオ局の報告に対し、升味委員長代行は「日ごろ行っているネット情報の精査、慎重な情報の出し方が今回のような非常時に役立つ。根拠のある、正しい、役に立つ情報を出し続けることで、デマは沈静化され乗り越えられる」と発言。中野委員は、「可能な限りの取材を尽くし、真実に近づく努力をして放送すべきだ。今回の地震では慎重な姿勢で裏付けを取るなど適切な非常時対応だった」との意見を述べた。

さらに最近、取材に関連したメールの誤送信問題が起きたことに関して、当該放送局から報告が行われ、一時的にでも未放送素材が外部に流出する恐れがあったことを重大な問題と受け止めているとし、報道機関としての再教育、ファイル転送システムの変更など、各種の再発防止策を実施しているとの説明があった。

最後に、北海道文化放送の高田正基常務取締役が、「地震の教訓からきちんと学び、日頃は競争関係にある各局が情報を共有し、次の世代に役立てていくことが重要だ。そのことが視聴者や住民の皆さんの役に立つ報道につながる」と述べ意見交換会を終了した。

終了後、参加者から寄せられた感想の一部を以下に紹介する。

  • ブラックアウトという状況の中で各局がどのように情報を伝えていたのか、取材の最前線ではどのような課題が発生していたのかを知ることができて有意義だった。参加者は皆自分たちの問題として引き付けて考えることができたように思う。

  • 地震に関する各局の報告に相当の時間が割かれ、放送倫理にかかわるテーマに肉薄できなかったのが残念。

  • 災害状況や数字も大切だが情報だけがラジオではない。ラジオはリスナーとの距離が近く、いつもの声、いつもの呼びかけが安心感につながる。「ラジオを聞いてほっとした」というリスナーの声が寄せられたことを報告し、他局からも共感をいただいた。

  • 地震の際の他局の状況を知ることができた。どのようなところで苦労したのかがよくわかった。

  • デマ情報への対応などは、正解はないものの情報共有ができ、今後の指針となるものを得ることができた。

  • SNS炎上やメディアスクラムについては、もっと掘り下げた議論や意見を伺いたいと思った。

  • 各社とも災害報道の前線では、まず伝えることが第一で、大切ではあっても倫理上の問題に配慮する余裕はあまりない。委員には、今後、現場の取材者が最低限何を意識すべきなのか、そのためには何が必要なのかを示していただきたかった。

  • 「自らも被災者でありながら放送を通じて被災した道民に呼びかけ寄り添った」という委員の言葉が印象に残った。

  • BPOのメルマガやウェブサイトの情報は参考になるが読みにくい。複雑な事実関係や対立する意見を扱っているので、正確を期すために省略やわかりやすい言い換えができにくいことは承知しているが、現場スタッフに読んでもらうには少しでも平易な表現や発信をお願いしたい。

以上

2019年1月11日

日本テレビの「謎とき冒険バラエティー『世界の果てまでイッテQ!』」審議入り

放送倫理検証委員会は1月11日の第133回委員会で、日本テレビの「謎とき冒険バラエティー『世界の果てまでイッテQ!』」について、審議入りすることを決めた。
審議の対象となるのは、「世界で一番盛り上がるのは何祭り?」というコーナー企画で、2018年5月20日に「ラオスでの祭り」として放送された「橋祭り」と、2017年2月12日に「タイでの祭り」として放送された「カリフラワー祭り」の二つの企画。
この企画内容について、でっち上げの疑いがあると一部週刊誌が報じるなど一連の報道を受けて、日本テレビは自社のホームページで、「祭り企画をめぐり、みなさまに疑念を抱かせ、ご心配をおかけする事態に至ったことについて深くお詫び申し上げます」と謝罪したうえで当面、「祭り企画」は中止にした。
委員会は、当該番組の制作の経緯を知る必要があるとして、当該放送局に対して報告書と同録DVDの提出を求めたうえで討議。さらに、二つの「祭り企画」以外にも確認したい放送内容があり、考え方を重ねて聞きたい点があるとして追加の報告書を求めて討議を継続した。その結果、『世界の果てまでイッテQ!』の二つの「祭り企画」を審議の対象として審議入りすることを決めた。
審議入りについて升味佐江子委員長代行は、「どういう制作過程を経て番組ができたのか、番組制作者から直接、話を聞きたい。番組に放送倫理上の問題があったのかどうか、事実を確認したい」と述べた。委員会は今後、日本テレビの関係者からヒアリングを行うなどして審議を進める。

2018年12月に視聴者から寄せられた意見

2018年12月に視聴者から寄せられた意見

元親方の離婚問題など、大相撲の問題を取り上げた情報系番組への意見や、芸人を檻の中に閉じ込める企画を放送したバラエティー番組への批判など。

2018年12月にメール・電話・FAX・郵便でBPOに寄せられた意見は1,351件で、先月と比較して20件増加した。
意見のアクセス方法の割合は、メール74%、電話24%、FAX 1%、郵便1%。
男女別は男性66%、女性32%、不明2%で、世代別では30歳代24%、40歳代23%、50歳代22%、20歳代21%、60歳以上7%、10歳代3%。
視聴者の意見や苦情のうち、番組名と放送局を特定したものは、当該放送局のBPO連絡責任者に「視聴者意見」として通知。12月の通知数は延べ811件【50局】だった。
このほか、放送局を特定しない放送全般の意見の中から抜粋し、21件を会員社に送信した。

意見概要

番組全般にわたる意見

去年1月に起こった大相撲元横綱の暴力事件から間もなく1年が経つ。今月に入っても、元親方の離婚問題など、大相撲の問題を取り上げた情報系番組への意見が多く寄せられた。また、芸人を檻の中に閉じ込める企画を放送したバラエティー番組への批判も多く寄せられた。
ラジオに関する意見は48件、CMについては17件あった。

青少年に関する意見

12月中に青少年委員会に寄せられた意見は100件で、前月から3件減少した。
今月は「表現・演出」が52件、「性的表現」が9件、「報道・情報」が7件、「編成」が6件と続いた。

意見抜粋

番組全般

【取材・報道のあり方】

  • 各報道機関が相撲部屋の前で、親方が出て来るのを待って取り囲みながら取材していたが、車道にはみ出したり、車が来ているのに道を開けなかったりと、交通ルールを無視してまでカメラを回していた。現場からの生中継でもルール無視し、周囲に注意を払わない。この報道姿勢はある種の暴力に見える。スクープも大切だろうが、取材方法をもう少し考えるべきだ。

  • 契約会社によって携帯電話が使えなくなる状態が続き、多くの市民生活に影響が出た。私が見たテレビでは、テロップで「現在、通信障害が発生しています」と常時表示されていたので、情報を知ることができた。しかしながら、ニュースで触れず、テロップでも伝えなかった局も多かったようだ。今回のようにライフラインの故障があった場合、災害報道と同様に、どのチャンネルでも速報として伝える必要があると思う。

【番組全般・その他】

  • 夜のニュースで、高知県沖で起こった米軍機墜落事故を伝えていたが、乗員の安否を気遣うような視点や米軍の家族のことを心配する視点が、番組側から全く感じ取れなかった。近隣住民などに被害はなかったが、自分たちの身の安全を要求する世論を伝えるだけではなく、通常の行方不明者捜索時のように、相手側の立場もきちんと理解して、乗員の身の安全を願うような報道であってほしかった。

  • 日曜夕方の番組で、東名高速のあおり運転事故について報じていた。ドライブレコーダーの映像などを確認していたが、あくまでも被害者側に立った報道のように感じた。確かにあおり運転はいけないことだ。しかしながら、このようになってしまった経緯にも触れて、今後事故が起こらないための報道もしなければいけない。あおり運転だけに焦点を当てるのではなく、事故全体の原因究明にもきちんと目を向けるべきではないか。

  • 私は、東京 としまえんの近くに住んでいる。バラエティー番組の企画で多くの人が集まり、夜中に人の声や暴走族のような音、奇声などが聞こえ、そのために2歳の子が目を覚まし寝付けなくなってしまった。私たち家族は睡眠不足になり、まる1日つらい思いをした。私たち以外にも近隣住民は多くいるので、同じような思いをした方々もいるだろう。私は、この番組は見ないが、この局は見ている。テレビで何を放送しても見なければいいが、関係のない一般人の生活環境を壊すようなことはしてほしくない。番組の問題というより、局の姿勢に対して抗議したい。

  • 日曜夕方の番組で、皇室の女性と婚約が内定している男性について放送していた。アメリカ留学先のラーメン店などに、彼の写真を持って聞き込みをしているが、生活基盤を壊す行動ではないか。テレビによるいじめ以外の何ものでもないと思う。制限はかけられないものなのか。これに類似した、人権侵害のような取材活動は他にもたくさんある中で、いい加減、度を超えていると思う。

  • 毎日のように放送されている情報系番組において、しっかり取材したとは思えない情報を基に、個人攻撃ばかりしている内容が多いように感じる。昨今、SNSでの個人攻撃によるいじめが問題になっているが、これと何ら変わりないことをテレビで放送していて良いのか疑問だ。テレビは娯楽であってほしいと思うのは間違いなのか。過ちは法が裁くものであって、人が人を裁いてはいけないと思う。各局の放送姿勢を今一度見直してもらいたい。

【ラジオ】

  • 東海地方で夜の番組を聞いていたが、パーソナリティーが自分の読む台本がないことに対し、1分以上にわたり、放送上でスタッフを叱責する場面があった。放送前に自らが確認しておくことが当たり前であり、自分のミスを棚にあげて、スタッフ1人に責任を押し付けていた。不特定多数の人が聞いているラジオ、これを通じて相手をとがめる行為は、もはやパワハラ以外の何物でもない。

青少年に関する意見

【「表現・演出」に関する意見】

  • 朝の情報番組内のドラマで、濃厚なキスシーンがあった。子どもと見ていて呆れた。子どもが登園前の時間であり、楽しみにしている番組であり、そのような視聴者の年齢層を把握し、ドラマの内容を構成してほしかった。

  • ラジオ番組で出演者が「私の娘はまだサンタを信じている。今年25日は火曜なので土日にプレゼントを置き、サンタがたまたま早く来たという設定にした」といった話をした。車で妻と我が子の三人で聴いていてが、幸い子どもは寝ていて事なきを得た。テレビやラジオは夢のあるものであってほしいと願う。

【「報道・情報」に関する意見】

  • ニュースで殺人事件や幼児虐待の詳細を放送する意味が分からない。子どもはそれを聞いてどんな想像をするか。殺害方法まで詳細に説明するのはなぜか。生々しい報道を規制してほしい。

  • あおり運転の事故報道に関して、むやみにドライブレコーダーの映像を流すのはやめるべき。遊び半分で真似をして事故を起こす者が出るのではないか。青少年への影響も考慮して報道すべきだ。

【「言葉」に関する意見】

  • 我が家では、「死ね」と「殺す」は絶対に言ってはいけない言葉だと伝えている。お笑い芸人が突っ込みで使う「死ね」「殺す」が安易な形で使われ、笑いをとっている。どうしてこの言葉が笑いとして放送されるのか、怒りがこみ上げてくる。