2024年1月31日

福岡・大分の放送局と意見交換

放送人権委員会の「福岡・大分意見交換会」が2024年1月31日に福岡市で開催された。2県の合同開催となったのは、2020年3月に大分市で開催予定だった意見交換会が直前に大分県内でコロナ患者が確認され急遽中止となり、今回の福岡開催に併せて大分の各局にも参加を呼び掛けたためである。福岡での開催は8年ぶりで、委員会から曽我部真裕委員長をはじめ9人の委員全員に加え、大日向雅美理事長と渡辺昌己専務理事が参加した。出席したラジオ、テレビ局は福岡が9局、大分が5局で計14局、人数は45人にのぼり、3時間を超える意見交換が行われた。

●大日向理事長「ジャニーズ問題、なぜ、理事長見解を出したのか」

会議の冒頭あいさつに立ったBPOの大日向理事長はジャニーズ問題に触れて「黒子役である理事長、事務局がなぜ見解を出したか。それは、この問題が、一芸能事務所や放送界だけの問題ではなく日本の社会・文化をどういう方向に持っていくかの試金石だと思ったからだ」とした上で「放送局とBPOが忌憚のない意見交換を行って、新しい日本社会の文化の向上に寄与していきたい」と語った。

●曽我部委員長「BPOは、放送局の規制機関ではない」

続いてあいさつした曽我部委員長は「ネットの存在感が大きくなっても、公共の電波を預かる放送局は特別の使命を持っている。偽情報のあふれる中で、信頼性のある情報を届ける使命だ」と述べました。さらに「こうした使命を果たすために重要なのは、放送局の意識や努力だ。BPOは放送局の規制機関ではない。放送局の自主自律的な努力をサポートする組織だと認識している」と語った。

意見交換会は三部構成で行われた。
第一部は委員会決定第78号「ペットサロン経営者からの申立て」を取り上げ、論点を「直接取材」に絞って議論を進めた。第二部は「コロナ禍の取材、共有と教訓」、第三部は「災害報道と人権」をテーマに意見交換を行った。

<第一部 第78号「ペットサロン経営者からの申立て」>

「直接取材なしでもOA可能なケース」だったのか?

第78号「ペットサロン経営者からの申立て」に関して

申立ての対象は、日本テレビが2021年1月28日に放送した情報番組『スッキリ』で、同月12日に北九州市内のペットサロンでシェパード犬がシャンプーを受けた後に死亡した件を取り上げ、「愛犬急死“押さえつけシャンプー”ペットサロン従業員ら証言」「愛犬急死 経営者“虐待”シャンプー?」などと、サイドスーパーを出しながら放送した。これに対してペットサロンの経営者である申立人が、「字幕付きの放送をしたことで、申立人が預かっていた犬を虐待死させたかのように印象付け、事実に反する放送をすることで申立人の名誉を侵害した」として申立てを行った。

この決定の最大のポイントは「当事者への直接取材」である。日本テレビ『スッキリ』は関係者の証言を軸にペットサロン経営者を追及したが、経営者本人への直接取材はなされないままであった。決定文では「放送倫理上の問題があるとまではいえない」と結論付けたが「直接取材の重要性をあらためて認識」するよう要望が加えられた。
決定文には、直接取材が免除されうる例外ケースについての記述があり(下記カッコ内参照)、事前のアンケートではこの部分の読み取り方に多くの質問が寄せられていた。
本編VTRの短縮版(日本テレビ作成)の上映に続いて、決定文の起草を担当した野村委員が解説を行った。野村委員は「申立人への直接取材がないまま放送したことの是非に絞って議論したい」とした上で以下のように解説した。

<野村委員>

●例外が許されないとは言えない

前提として、真実性・相当性の議論の中でどのような取材をしていたのかが直接取材の要否に関わってくる。日本テレビが行った取材を踏まえると、決定では「放送で示された各事実があると日本テレビが信じたことについて、少なくとも相当の理由があった」という表現で、結論としては名誉権の侵害を否定した。
そして、放送倫理上の問題「重大な問題点を指摘する放送内容でありながら、申立人への直接取材をせずに放送に至ったことに問題はないのか」という論点が今日の本題となる。
この点について本決定では、総論として「取材・放送に当たっては、対象となる人物に番組意図を明らかにしてその弁明を聞くことが原則であるが、例外が許されないものとは言えない」としている。そのうえで、例外についてこう記している。

<人権委員会決定第78号16P11行目~>
例えば、真摯な申入れをしたが接触できない、応じてもらえない場合、適切な代替措置が講じられた場合(当事者が当該対象事実について公表したプレスリリース等の掲載や、その他の方法による本人主張・反論の十分な紹介)、緊急性がある場合、本人に対する取材が実現せずとも確度の高い取材ができている場合などは、これら内容を含めた諸事情を総合考慮して、本人取材を不要とする余地があると解される

●例外ケースの記述は限定列挙ではない

このように要素をいくつか挙げた上で、限定した列挙ではないことを示す「など」を付けた。これら以外にも考慮すべき事情がある場合もあるだろう。そして「総合考慮」としているので、列挙したうちのどれかを一つを満たせば良いという意味ではないし、逆に全てを満たさなければいけないという意味でもない。

●取材の経緯が重要になる

担当ディレクターは1月26日にSNS投稿を見て事案を把握し、その日のうちに飼い主を取材し、飼い主が聴き取った学生2名の音声テープを入手した。翌27日にペットサロン店長を取材し、さらに申立人本人への取材も専門学校へ申し入れたが、不在で連絡が取れないという回答を受けたので、折返しの連絡を依頼した。しかし、放送までに折返しの連絡はなく、別途、27日の午後に、申立人の携帯電話にも2回電話したが出なかった。そうした中、27日深夜から28日未明にかけて、専門学校のホームページに謝罪コメントが掲載された。日本テレビは以上の状況のもと、申立人が「取材を拒否した」と判断し、また、ホームページの謝罪コメントを放送することで、申立人への直接取材はしなくても放送に問題はないと判断した。26日にSNSを見てから28日の朝に放送と、ごく短期間のうちに放送に至った事案で、決定では申立人が取材に応じる意思がないと客観的に判断できる状況には至っていなかったと整理した。

●5つの判断要素で「総合考慮」

①民事紛争の対立当事者である飼い主の言い分がベース
②直接取材の申し入れ+本人に2度電話をかけた
③ペットサロン店長、従業員、学生2名に取材済+音声データ。詳細で迫真的な告白を含む確度の高い取材
④謝罪コメントの全文紹介には一定の意義あり。ただし、直接取材を全面的に代替とまでは評価できず
⑤「『しつけ』のための事故死」との申立人の主張も紹介
これらの事情を総合考慮すると、本件において申立人に対する直接取材が実現しなかったことをもって放送倫理上の問題があるとまでは言えない、というのが委員会決定となった。そのうえで、本事案が、直接取材を実現すべくもう一歩の努力がなされることが望ましい事案であったことを踏まえて、委員会は日本テレビに対し、対象者に対する直接取材の重要性を改めて認識して今後の番組制作に当たることを要望するとした。

少数意見「本件は例外に該当しない」

続いて少数意見を書いた3人の委員を代表して二関委員長代行が概要を説明した。

<二関委員長代行>

●どんな人物に描いたかも判断要素

少数意見は「本件は放送倫理上の問題がある」と考えた。
本人取材(=直接取材)の原則に対して例外があるという枠組み自体には反対していないが、「本件はその例外に該当しない」というのが少数意見の立場だ。例外に該当するかを考える際には、<本人をどのように描いたか>という点も考慮すべきだ。こんなに悪い人物だという内容で社会的評価を下げる程度が強いほどそれに応じて本人取材の要請は強くなる。ペットがぐったりして本来心配すべきような場面で「やっと諦めたか。観念したか」と申立人が言ったと番組は伝えている。スタジオシーンでは「こういったペットサロンが世に存在してはいけないんだ」、「事故じゃなくて事件でしょ」とする指摘があった。さらに刑法犯たる動物愛護法の適用可能性にも触れている。ペットのしつけに関する申立人の信念についても公正に紹介しているとは言えない。19分間にわたって申立人を一方的に批判する番組になっている。

●従業員は「虚偽供述の動機」を有していた可能性も

対立当事者間の争いを報じる際には、双方から話を聞くというのがBPOの以前からの判断だ。今回のように、本人取材を省略したうえで、もう片方からの取材結果に確度があると言ってしまって良いか?現場にいた従業員は、犬が死んだのは自分たちのせいではないと言いたい動機、「虚偽供述の動機」を有していた可能性もある。
さらに情報源の問題を指摘しておきたい。複数の取材をしているが、飼い主側、あるいはその紹介の従業員ルートでたどった人だけが取材対象であり、一つの情報源から派生した取材先だけとなっている。

●HPに「事実と異なるコメント拡散」 なぜそこを取材しないのか

ホームページの謝罪コメントは取材に対応して出したものではなく、申立人によると、たまたまその日に弁護士と相談したタイミングで載せただけという。さらにコメントの内容に「事実と異なる内容が一部のSNSで拡散されて(いる)」という言い回しもあって、申立人に事実関係で異なる言い分があることが分かる。そのコメントを見たら、いかなる言い分かを具体的に取材するのが基本ではないか。

<質問>例外項目の記述をどう理解すれば?

続いて参加者からの質問を受け付けた。

<参加者>
直接取材がマストと分かっていても、本人に接触できないケースで放送するか悩む場合もある。そうした時の指標になるかもしれないという意味で、<代替措置><緊急性><確度の高い取材>と、いくつか例外ケースを例示してもらって非常に参考になった。直接取材が免じられる例外項目を記述した意図は?

●明確な例外基準を示したのではない。判断の要素を示した

<曽我部委員長>
あくまで事案に即した判断になる。本決定文の書きぶりも、判断要素について「例えば」と付いている。事前の質問でも「ここに挙がっている要素のどれかがあればOKなのか?」という質問もあったが、そうではない。明確な基準を示したというよりは、今回の事案と関わるような判断の要素を示して、それを総合的に判断したのが今回の決定だ。

●1件1件について、向き合って、考えるしかない

<野村委員>
皆さんに「ここをこうすれば大丈夫です」と言えると安心すると思うが、やはりそれはできない。1件1件について一生懸命考えるしかない。直接取材が実現していない段階で放送する場合には、そのハードルに向き合って、これを乗り越えられるケースであると必ず判断してから放送しないと、こうした申立て事案となってしまう。

●「これさえあれば大丈夫」と思ってはいけない

<二関委員長代行>
多数意見は、「どのようなケースが例外か」に一切触れないと手がかりがないので、「例えば」と例外項目をいくつか挙げたのだと思う。ただし、それが独り歩きして「これさえあれば大丈夫」と思ってはいけない。例外にあたるかどうかの考え方として「自分が似たようなことをされたらどうか?」を考えることが大事。テレビ業界に長くいると放送される側の気持ちから乖離してしまうことがあるのではないか。

<質問>HP全文紹介は直接取材に相当しないのか?

例外ケースの「代替措置」で、HP紹介について質問が出た。

<参加者>
他局に先行される前に放送したいとなったときに、公式のホームページの文言を全文出すということで直接取材に代えることはできないのか?

●番組内容に対応しない、一方通行のコメントだった

<野村委員>
もしも、番組内容に対応して、公式ホームページで取材対象者の考えが全面的に表現されていれば、直接取材に代替しうる場合もあるかもしれない。しかし、本件の放送番組は、①申立人が犬を虐待死させたとの内容に加え、②犬のしつけに関する申立人の日頃からの考え・ポリシーに対する批判に当たる内容も含んでいるところ、ホームページに出たコメントは、①の虐待死と言われた部分に対する申立人のコメントが一方通行で載っているだけであって、②の部分には対応していない。そのため、番組全体に対する申立人のコメントとしては十分ではなく、直接取材に代えることはできないという考え方だ。

●取材意図を明らかにしていない

<二関委員長代行>
取材意図を明らかにしたうえで取材するのが原則だ。ウェブに出ているコメントは、そういったプロセスなしに出ているものなので、直接取材に代わるものではない。

<第二部 コロナ禍取材の問題点 共有と教訓>

コロナ禍、各局の苦悩

第二部は「コロナ禍の取材、共有と教訓」と題して、様々な制約を課されたコロナ禍での取材の問題点を共有して将来につなげようという視点で議論された。前半部分は、アンケートで各局が答えた内容を司会が読み上げ、回答局が説明するスタイルで進んだ。

▲「夜討ち朝駆け自粛で新人記者育成に苦慮」

<参加者>
器用な若手記者はオンライン等の新しい取材ツールを利用していた。夜回り取材を最初の段階で教えてあげられなかったことがどう影響していくのか?将来どういう記者に育っているのか見ていく必要がある。

▲「代表取材」「素材共有」が一気に進んだ

<参加者>
会見等の取材現場が密にならないように安全配慮する必要に迫られ、さらに取材相手からも「代表取材でお願いします」というケースが増えた。各局が同じ取材をするところは代表カメラとなり、5類に下がった現在も、競う必要がない取材は同じ映像で構わないと割り切っている。他局と違いを出したいところに力を入れるという流れだ。

この報告を受けて、曽我部委員長と鈴木委員長代行が次のようにコメントした。

●これからのキーワードは「競争と協調」

<曽我部委員長>
代表取材等が増えたのは直接的にはコロナがきっかけだが、社会の変化や生活様式の変化といった大きなトレンドがコロナ禍で一気に動いたという印象を受けている。夜討ち朝駆けなど「これが取材の王道」とずっと続けてきたが、コロナ禍はそれを立ち止まって考え直すきっかけとなったとも捉えられる。
総務省など放送関係の会議で出てくるキーワードに「競争領域と協調領域」というものがある。何でも競争するのではなく、協力できるところは協力して、それによって余裕が出た部分を独自の取材に充てるというメリハリが今後大事になってくる。

●状況が大変でも、一番大事なところは掴める

<鈴木委員長代行>
「ここは(他局と)違いを出さなきゃ」と皆さんが思われるところがあるはずなので、そこに力を入れていけば、人出不足など大変な状況の中でも、一番大事なところをちゃんと掴んでいける。

ラジオ局の苦悩も報告された。

▲「65歳以上と妊婦はスタジオ入り禁止」もラジオ出演者は高齢者多くて・・
▲ミュージシャン関係者のスタジオ入りも規制したが「大物」は例外となって・・

<参加者>
ラジオはテレビと比べてスタジオが小さく密になりやすいのでいろいろな制限を行った。レギュラーの65歳以上の方もリモート出演にしたり、マイクを引っ張って別室出演にしたりした。アイドルグループが来ればスタジオ入りは代表1人だけ、お付きの人もプロモーター1人だけと制限していたが、映画のキャンペーンで主役の方が来た時には、マネージャー、映画会社の方、スタイリスト等々がぞろぞろ入られて制止できなかった。

リモート取材については「効率的だ」と評価する意見が多かったが、以下のような「現場重視」の声もあった。

▲リモート取材は効率的だが、感染対策を安易な盾にせず、現場に足を運び続ける
▲現場に足を運ぶことが真実性の見極めになる

<参加者>
直接足を運んで、その人がいる生活環境に触れることで得られる情報もある。フェイク画像等があふれる中で、真実性を見極めるためには現場に足を運ぶことは大事な要素だ。

後半は、コロナ禍当時に参加者が疑問に思ったことを報告し委員が意見を述べる形で進行した。

「同調圧力」…我々はちゃんと「ノー」と言えるのだろうか?

<参加者>
マスクにしてもワクチンにしても、科学的に何かしら解明ができている訳ではないが、最大公約数的に打った方がいいであろうと我々も報道してきた。「ワクチンを打ちたくない」という方もいたが、打っていないといろんなところに支障が出てくる。政府が言ったことを国民に伝えていくところの怖さ。戦前にあれだけ「報道機関は右に倣え」だったと言われているのに、このあと我々はちゃんと「ノー」と言えるのだろうか? 他が何と言おうと「これはこうだ」と言えるのか一抹の不安を感じた。

<松田委員>
皆さんはどこでそういう同調圧力を感じたのか知りたい。視聴者の側はテレビを見て「ああ、こんなことが求められているんだ」と感じる。皆さんは、一体どこでそういう雰囲気を察知して何を番組に落とし込んだのか?

<参加者>
私が迷ったのは「コロナが落ち着いた後でもマスクを着けてリポートさせるべきなのか?」という点。状況としてはそんなに密集しておらず、他者との距離も保てている。普通ならマスクは不要と判断するところだが、SNSでクレームが付いたらどう転がっていくか分からないので、まだ形にすらなっていない視聴者感情に判断を左右されたことが多々あった。

●少数意見も紹介して同調圧力を助長しない心掛けを

<曽我部委員長>
日本社会に同調圧力があること自体は、放送局にはどうしようもできないと思う。私が思うのは、1つは「放送局が同調圧力を助長していないか?」ということ。SNSで見つけた一部の意見を番組で取り上げることで本当に火がついてしまうようなことがあった。もう1つは「少数意見をきちんと伝えていく必要がある」ということ。ワクチンについても、打たない自由もあると、しっかり伝えていく。マスクについても、安全な場面では必ずしも着用しなくてもいいんじゃないかと。そういう意見を誰かに言わせることを意識的にやらないといけないと思う。放送法4条では「意見が対立している問題は、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」とある。ワクチンも意見が分かれているテーマなので、少数意見もしっかり伝えていく。そういう形で同調圧力を助長しないことを放送局として心掛けていく問題だ。
SNS上の意見は非常に偏っていることがいろんな調査で明らかになっている。まず、そのことを認識することが大事だ。SNSで言われていることは一部の声に過ぎない。
放送局としては、SNSで指摘されたからといって忖度するのでなく、筋を通していくべきで、必要に応じて説明していけばサイレントマジョリティーは納得する。一時的には炎上しても基本的には理解してもらえる。

●少数派の偏った意見、メディアが扱うことで広がっていく

<松田委員>
メディアの皆さんはSNSをよく見ていると思うが、例えば40代、50代では半数以下しか利用していないし、多くは書き込まない。SNSに日常的によく書き込む人はすごく少数派だ。それをメディアが取り上げることで拡散していく。ツイッター改めXなどはいろんな素材や情報が転がっていて使いやすい部分があるとは思うが、偏っている。少数の人が書いたものをどういう形で扱うのか、メディアの皆さんが扱うことで広げてしまうことに関心を持ってほしい。

感染者のプライバシー、あそこまで報じる必要があったのか?

<参加者>
感染し始めた頃は、県や保健所が感染者の行動履歴を詳しく発表して、我々もその発表に基づいて放送していた。今となって考えれば、果たしてそこまで感染者のプライバシーを放送する必要があったのだろうか?

●この経験を風化させてはいけない

<曽我部委員長>
これは難しい問題だ。初期の頃はコロナがどんな病気か分からず恐怖感も強かったので、当時としてベストな報道がいかなるものかを考えるのが非常に難しかった。今からすれば、ちょっとやり過ぎだったんだろうと思うが、当時はやむを得ない部分もあったかもしれない。ただ、この経験は今後に活かしていくことが非常に大事なので、次に感染症が問題になった時には今回の反省も踏まえて考えていくことになる。メディアの方々はそれぞれ経験値を得たと思うので、風化させることなく、きちんと総括して次の機会の糧にしてほしい。

<事務局からの報告>

第三部に先立って、BPOに寄せられる苦情・意見を踏まえて植村統括調査役が参加局に注意喚起した。

●取材時の「映り込み」に注意

<植村統括調査役>
申立ての前段階としてBPOの人権相談に苦情が寄せられることがあるが、この1年半で3件ほど「映り込み」について苦情が来た。
▲「クマの出没で子どもたちが集団登下校」というニュースで自分の子どもの顔が映った
▲「新学期に登校してきた児童」という映像に自分の子供の服装が映った。特定できる
▲取材対象者の移動の様子を撮影したら、背後を自転車で通り過ぎる女性が映り込んだ。
3件とも共通しているのは「夫からのDVで居場所を知られたくない」というものだ。デジタル化が進んで画像の精度が上がったことに加えて、民生用の小型カメラでも撮影できるので、撮影していること自体分からないケースも増えている。今後もこうしたケースは十二分にあり得るので注意してほしい。

<第三部 災害報道と人権>

このテーマは2023年7月の九州北部豪雨で各局が災害特番を放送したことから設定したものだったが、2024年は元日に能登半島地震が発生し、意見交換会開催の1月31日まで連日災害報道が続くことになってしまった。
災害報道という緊急性に紛れて気付かずに人権を侵害しているケースはないか、災害を報じる当事者として疑問に思うことはないかという角度から議論を進めた。

犠牲者氏名、なぜ非公表なのか?

まず、災害犠牲者名の非公表問題が取り上げられ、4人の委員がいずれも「公表すべき」という立場から意見を述べた。

<参加者>
犠牲者もそうだが、(九州北部豪雨の際に)大分県は安否不明者の氏名を「救助活動等に資する場合のみ公表する」とした。「救助活動に資する、とは何を指すのか?」というやりとりをしたが平行線のままだった。広く氏名が分かっていれば一般の方からの通報にもつながると思うのだが。

●見たことのないおばけを怖がっている

<水野委員>
個人的には、災害であれ事件であれ名前を知りたい。京アニ事件での実名・匿名問題をゼミで議論すると、学生の8~9割は「遺族が望むなら」と匿名を支持する。しかし、「なぜそう思うのか?」と問い詰めていくと、あまり根拠がない。実名を公表することで実態以上に甚大なダメージを受けると過剰に恐れている節がある。見たことがないからこそ余計におばけを怖がるようなものだ。報道機関の方には、実名の意味・意義を踏まえて行政と対峙してほしい。

●民主主義の基本情報。踏ん張らなきゃいけないところだ

<廣田委員>
京アニの話が出たので、事件報道についてであるが、弁護士会の中で、犯罪被害者の支援をしている委員会からは「実名にする意味がない」という厳しい意見がある。実名が出た後の二次被害がひどい、特にインターネットでいろいろ書かれると消すことが難しいという。報道機関の方々には、なぜ実名にするのかをきちんと説明してほしい。内部では議論しているだろうが外に伝わってこない。
報道の現場の方々と話し、いろいろ考え、私の考えは変わっていった。私の個人的考えだが、今は、原則実名だ。ネットが発達して真偽不明の情報が出回るときに、訓練を受けた報道機関がきちんと裏を取って5W1Hを固有名詞を入れて報じて記録することは非常に重要になってきている。「面倒だからやめておこう」「実名を言わなければ言わないで済んでしまう」とやっていったら、後で何が何か分からなくなって事件の検証もできなくなる。5W1Hを正確に報じて記録したものは、民主主義の基本情報だ。踏ん張らなきゃいけないところだ。

●防災の手掛かりとなる情報は共有されるべき

<野村委員>
東日本大震災後、3年間、弁護士として石巻市役所に赴任・常勤して復興事業に従事した。その経験から思うのは、犠牲者の情報は家族がコントロールするものだ、では済まないということだ。家族と一緒に亡くなったのか独りで亡くなったのか、津波の時にどういう避難行動を取っていたのか、といったことは将来の防災につながる話だ。個人にモザイクをかけると具体的な考察がぼやけてしまう。手掛かりになる情報は共有されるべきだ。石川県は家族の了解を公表の条件にしているが、全員の承諾は得られないので一部だけの公表になってしまう。そうなると全体像を掴むという意味では中途半端になって、逆に意味がなくなってしまう。個人的意見としては、実名の公表可否を家族の意思に委ねることはよろしくないと考えている。

●公権力が情報をコントロールしてはいけない

<國森委員>
国とか自治体とか警察とか、そういった公権力が情報をコントロールしてはいけないと思っている。メディアが情報を全部引き出した上で、それをどこまで報道するかをメディア自らが、指針・信念・説明責任を持って判断していかないととても危険な社会になる。遺族はメディアスクラムを含めた取材そのものによる被害、その後のネットパッシングなどによる被害の恐れがあるが、そうした被害を食い止める努力をメディアがすることで当局あるいは社会に対して「ここまでやっているので情報を出して」と言えるようになれば良いと思う。

「土砂災害特別警戒区域」、どう伝えれば?

<参加者>
土砂災害が起きた地域が「土砂災害特別警戒区域」だったケースが多い。視聴者から「そういう区域に住んでいるからダメなんだ」という反応が来るし、災害の専門家もマイクを外すと「本当はここに人が住んじゃダメなんだ」と言う。大雨や台風の場合は被害が予測されるので早期避難を呼びかける事前報道に力を入れているが、犠牲となった方に非難の声がいかないように伝え方に非常に神経を使う。

●悩むことが大切。それは視聴者に伝わる

<斉藤委員>
報道する方たちは本当に悩まれると思う。この問題には正解はないと思う。
同じ言葉で伝えても、AIのニュースでは伝わらないが、リポーター本人が「どう伝えるべきなのか」と悩みながら語った場合、その思いは視聴者に伝わるのではないだろうか。伝える人間が、どう伝えるか悩んでいること自体がすごく大事なことだと思う。テレビは「どういう思いで伝えようとしているのか」ということも伝えてくれる。

●リスクあることを、地域の住民も社会も共有しないといけない

<國森委員>
とても難しい問題だ。東日本大震災の津波でも、どこまで津波が来たのかを皆が強く意識しないといけないし、メディアも伝えていかなければならない。それも踏まえて「ここにはリスクがある」ということは、住んでいる人も含めて社会で共有していかなくてはならないと思う。

●背景にも触れると伝わり方も違うのではないか

<廣田委員>
ずっと昔から住んでいて後から警戒区域の概念ができて指定されたのと、危険だと分かって住み始めたのでは違うのではないか。法律上は、分かって行くと非があるとされることもある。昔から住んでいる場合だったら、背景も踏まえて伝えると伝わり方も違うのでは。「古くからある集落で」というような一言があれば住民への非難の声は出ないのではないか。

●自己責任論、バッシングが起こらない伝え方を

<曽我部委員長>
法律的には警戒区域指定の前か後かで変わるが報道はフェーズが違うと思う。全国の土砂災害警戒特別区域に住んでいる人に危険性を伝える意味で、そういう地域で大きな被害が出ていることを伝えることは非常に重要だ。被害を伝えることに躊躇する必要はないが、他方で実際に住んでいる個々人と結び付けて報道すると自己責任論が出てバッシングにもなりうる。結局は伝え方の問題で先ほど紹介してくれたように住民に配慮しながら伝える方法は大変適切だ。

被災者映像 発災直後は使用可能でも時間経過すればどうなのか?

<参加者>
メディア取材に対する被災者の心情は、発災直後と時間が経過してからでは大きく変わる可能性がある。発災直後に取材に応じてもらった映像を時間が経ってから使う場合はかなり留意が必要なのではないか。

●「肖像権ガイドライン」が参考になる

<曽我部委員長>
以前大阪の朝日放送(ABC)から、阪神大震災のアーカイブをネット上で公開したいという相談を受けた。肖像権問題を含めどういう考え方で臨んでいいのか基準が分からない、ということだったので「デジタルアーカイブ学会」の「肖像権ガイドライン」が参考になるだろうと思い紹介した。
肖像の使用権が許されるかどうかは通常は総合判断で決めるが、このガイドラインでは<被撮影者の社会的地位><被撮影者の活動内容><撮影の場所><撮影の対応>といった要素を点数化する。例えば、公人・政治家であれば許容される方向に働くし、一般人であれば許容されない方向に働く。活動内容も、歴史的な公式行事なら許容の方向で、プライベートな行事なら逆になる。点数を全部足し合わせて、何点ならいけるいけないというガイドラインを作成された。ABCはそれで判断して公開に至った。今後、災害に限らず時間が経った映像を利用する際には参考になるだろう。ABCのサイトは「阪神淡路大震災 激震の記録1995」で検索すればすぐ出てくる。「肖像権ガイドライン」は政府の知財本部などでも資料で出てくるくらいに広まった。参考になると思う。

以上

2024年1月16日

全国の放送局とオンラインで意見交換

放送人権委員会は、加盟放送局との意見交換会を1月16日に東京都内で開催し、ウェビナー参加者を含めて全国から110社、約230人が参加した。委員会からは曽我部真裕委員長をはじめ委員9人全員が会場で出席した。曽我部真裕委員長のあいさつに続き、鈴木秀美委員長代行は「みなさんの意見をうかがえる貴重な機会、率直な意見や質問をいただきたい」と参加者に呼びかけた。廣田智子委員は「人権意識が高まるなかテレビの笑いはどうあるべきか問われている。きょうは一緒に考えたい」、斉藤とも子委員は「(意見交換会で取り上げる)今回の案件は今でも心の中に蓋がのしかかっているような苦しい決定だった」、野村裕委員は「年々いろいろな基準が変化している。前回は大丈夫という判断をしたけれども本当に大丈夫なのかということが、問われているのだと思う」と、各委員からあいさつがあった。

意見交換会は二部形式で行われた。第一部は曽我部委員長が第79号「ローカル深夜番組女性出演者からの申立て」に関する委員会決定を説明し、起草を担当した二関辰郎委員長代行と松田美佐委員が説明を補足した。続いて補足意見を委員長と水野剛也委員が解説した。委員会決定とは結論が異なる少数意見について、國森康弘委員が理由を述べた。また決定通知後の取り組みについて、あいテレビから報告があった。第二部は東京大学理事・副学長で東京大学大学院情報学環教授の林香里氏が「日本の『お笑い』誰に奪われてしまったのか」を演題に講演し社会構造の側面から「ジェンダーと放送業界」について問題点を指摘した。

◆第一部
◎委員会決定第79号「ローカル深夜番組女性出演者からの申立て」の解説

<事案の概要>
申立ての対象はあいテレビ(愛媛県)が2022年3月まで放送していた深夜のローカルバラエティー番組『鶴ツル』。番組はコメディアン・俳優である男性タレント、愛媛県在住の住職、愛媛県出身で県外在住の女性フリーアナウンサーである申立人の3人を出演者として、2016年4月に放送を開始した。申立人は、番組内で他の出演者の下ネタや性的な言動で羞恥心を抱かされ、放送を通じて申立人のイメージが損なわれ、人権侵害と放送倫理上の問題が生じたとして委員会に申し立てた。

●曽我部真裕委員長
新年早々、さまざまなことが起こり、とりわけ、被災地の放送局のみなさま方には大変な苦労をなさっていると拝察しております。しかしながら、放送の公共性が、あるいは存在意義が発揮される場面でもあり、ぜひともご尽力を期待したいと思っております。
本件は、人権侵害や放送倫理上の問題があったとまでは言えないという結論です。これは事案の特殊性によるものです。実際には全国の放送局において、考えていただくべきジェンダーの問題が含まれています。委員会決定でも、みなさまに考えいただく材料として、かなり詳しく付言をしました。
きょうの第二部では、このテーマについて、さらに理解を深めるために、ジェンダー平等の問題に詳しい、この委員会の元委員でもある林香里先生にお話しいただきます。ジェンダー、あるいはその他のマイノリティのテレビでの描き方、あるいは、その制作現場での構造問題については、昨年7月に、まさにこの場で開催いたしましたBPO20周年の記念セッションでも、取り上げたわけです。本日重ねてこのテーマを取り上げるのは、その重要性を踏まえてのことです。
本日の議論を、ぜひ各局にお持ち帰りいただいて、議論を各社で深めていただき、さらにこれを実践につなげていただきたいと思っています。前置きが長くなりましたが、本日はよろしくお願いいたします。

論点ですけれども、人権委員会は、人権侵害の有無、それにまつわる放送倫理上の問題の有無というものを判断するというのが任務ですので、本件でもこれらの観点から審理を行いました。
具体的には、申立人が意に反する旨を申告したにもかかわらず、性的な言動を継続したといった事情はあったか、本件放送に許容範囲を超える性的な言動、あるいは申立人の人格の尊厳を否定するような言動があったかという観点で判断したのが一つ目の人権侵害に関してです。倫理上の問題に関しては、性的な表現がどうだったか。そして出演者の健康状態の配慮に欠けた面があったかどうかを検討しました。

本件の特徴として、通常のセクハラとは違うだろうというのが出発点としてありました。つまり、一般の社内、企業内での社員に対するセクハラのようなものとは判断の基準が違うだろうということです。番組内での視聴者に見られるやり取り、意識したやり取りであったということですので、判断基準は異なるのではないかと考えたわけです。
具体的には、判断基準として設定したのは、放送局が、申立人の意に反していたことに気づいていたか、あるいは気づいていなかったとしても、通常の注意を払えば、気づこうと思えば気づくことができたかどうかということ。それから、別な観点ですけれども、深夜バラエティー番組として、社会通念上許容される範囲を超える言動があったかどうか、ということが基準としてあります。

まず一つ目、気づいていたかどうかということですが、結論としては、当時、気づくことは困難であったという認定です。委員会としては、申立人の方が、非常に内心悩み苦しんでおられたということは否定するわけではありませんし、被害者がハラスメント申告するということが難しいということを否定するものではまったくないわけです。
けれども、局の観点からすれば、それに気づくことが困難であったということです。ご本人もそれがわからないように努めていたと言われていたこともあって、こういう認定をしました。

次に人格の尊厳を否定するような言動があったかというところです。
ここは委員の意見も分かれたところです。非常に悪質であったという意見も複数ありましたが、全体として、人格の尊厳を否定するような言動があったとまでは言えないということになりました。

次に、ある時期に、ご本人がプロデューサーとじっくり話しをする機会があって、何年かずっと悩んでいたことを告白するということがありました。そのあとの対応がどうだったかということを、ここでは問題にしております。プロデューサーは、そのご本人から告白があって、ようやく問題の深刻さを認識しました。そのあとは、かなりできることはやったということです。例えば、最終的には番組も終了になったとか、あるいはその終了前の数回、収録もかなり配慮をするという約束をしたということがありました。悩みの告白後の対応については問題があったとまで言えないということです。
以上が、人権侵害に関しての判断です。

次に、放送倫理上の問題です。結論としては、放送倫理上の問題があるとまで言えないとなりました。
まず一番目には、眉をひそめるような内容もあるけれども、深夜バラエティー番組であって、視聴者からの苦情も特に無かったというところで、表現のみを取り上げて放送倫理上問題だということは妥当ではなかろうということです。
二番目は、申立人自身も、外部から悩みが決してわからないようにしていたということです。これは先ほど申し上げた点ですけれども、そういった点を踏まえると、あとから気づけたはずだと評価するのは酷であろうということです。
三番目としては、出演者の身体的精神的な健康状態に配慮すべきことは、放送倫理上求められるわけですけれども、悩みの告白後の対応については、配慮が欠けていたとまでは言えない。結論としては、問題があるとまでは言えない、そういう判断です。

以上、人権侵害も放送倫理上の問題もあったとまで言えないというのが全体の結論です。

最後に、ここが付言、あるいは要望というところですけれども、かなり長めに書いています。
まず一つ目ですけれども、冗談としてでも、言動がくり返されることによって、言われた側が、そういうことを言ってもいい人物だというふうに役割が位置づけられてしまって、そういった立場を背負わされることになります。それが、放送を通じて公開されるということは、非常に酷な立場に追い込むおそれがあるということです。放送局としては、そういった状況を招かないようにする環境整備が望まれます。

二番目は、本件番組で問題となった言動は、一般的な性的話題にとどまらず、申立人自身が性的なことを好むかのように決めつける。つまり、「あなたが」こういうことが好きなんでしょう、「あなたが」という言い方です。一般的な下ネタと、「あなたが」こうなんでしょうというのは、やはり本人に対する影響の度合いが違う。そういう趣旨です。
そういう意味において、本件は非常に悪質な場面を含んでいるという指摘が複数委員から出ています。放送局には、こういった表現を放送することが、今日において果たして適当か否か、よくよくお考えいただきたいという意見が複数ありました。

あいテレビは、申立人は自分に意見があれば、物怖じせずに言う人だと主張しています。これは、申立人の普段の様子を見ていると、言いたいことをオープンに言える人だという、そういう印象を与えると。そういう人なのに言ってこないということは、特に不満がないのだろう。そういうことをおっしゃっているのだと思います。
確かに、普段はそういう面があったとしても、やはり立場の違いがあって、放送局とフリーアナウンサーというのは、構造的に立場が違うことを踏まえて物事を考えるべきではないか、そういうことをこちらで指摘しました。

それから、環境、職場におけるジェンダーバランスの問題です。本件スタッフ、番組のスタッフ、あるいは考査の担当者は、ほぼほぼ男性であったというところで、「行き過ぎなんじゃないか」ということが、なかなか内部から出てこない。そういうことが、あったのではないかというところです。これはいわゆるダイバーシティ、多様性の問題とつながる指摘かと思っております。

本件番組は、二カ月間の放送で用いる番組の収録を一度にまとめて、八回分の放送を一回で撮ることで、かなりタイトなスケジュールでやっていた。そういう中で、出演者間あるいは出演者と制作側のコミュニケーションの機会が非常に限られていたのではないかというところです。もちろん、そういうスケジュール自体を見直すということは必要でしょうし、仮に、ある程度はやむを得ないにしても、そうした場合には、なおさら出演者の思いを積極的にすくい上げるような必要性があるのではないかというところです。
それから、本件の事案、教訓として、降板する覚悟はなくても、悩みを気軽に相談できるような環境や体制を整備していくということが求められるのではないかという要望をしております。

最後ですけれども、これは本件の当事者である局だけではなくて、放送界全体の問題でもあるだろうということです。各局におかれましては、本事案を単に他社の事例と位置づけるのではなくて、自社のことを見直すきっかけにしていただければと思います。

●二関辰郎委員長代行
二つのルートで主に検討しました。一つ目は、人権侵害の判断基準で、申立人の内心がどうだったか、それに、放送局の立場から気づくことができたか、あるいは気づけなかったことに過失はあったか、というルート。もう一つは、表現それ自体の問題の検討。大きく分けるとその二つです。

一つ目のルートについては、(その場で表示したスライドに)「本件の難しさ」と書きました。申立人の主張でも、セクハラ的なことがあったのは収録の場に限られると言っていましたので、映像に映っている部分が問題になる。その意味では判断材料は客観的に残ってはいるのです。ところが、その映像からは分からないわけです。申立人本人も、内心で嫌がっていたことは外から分からないようにしていたと、おっしゃっていました。

しかも、本件の特殊性ということでは、ショーとして見られることを意識したやり取りでのセクハラ等が問題になっている点を指摘できます。たとえば、職場でそういうこと言われたら、それは当然、本人が嫌がるだろうというような言葉が、ショーの中でやり取りされています。こういうこと言われたら普通、嫌ですよねという判断もできない、そういう難しさがありました。

申立人の内心を外から気づけたか。放送局に責任があったか否かを問う委員会の判断においては、放送局の認識というものを、やはりベースにし、認識していたか、あるいは認識できたかという観点から検討することになるだろうということです。申立人が内心では悩んでいたということと、でも、外からは気づけなかったということは両立し得るわけです。その点は果たしてどうだったのかを判断しなければならない難しさがあります。

映像以外の背景事情とか経緯とか、いろいろなところで、申立人側とテレビ局側の主張は、対立していました。双方の主張、あるいはヒアリングで、それぞれ聞いたのですけれども、どちらも特にうそを言っている感じには受けとめられませんでした。その意味で判断が難しく、客観的な証拠とか、あるいは争いがない事実といったものを中心に、多数意見は判断しました。客観的証拠というのは、例えば、映像そのもの、あるいは申立人が当時送信していたメールだったり、ブログだったり、そういうものを中心に判断しています。

委員長の先ほどの説明にもあったとおり、自分の本心を本人が伝えにくかったということは、われわれも配慮したつもりです。言い出さなかったことが悪いなどと、ストレートな結論は出していません。本件では、言い出さなかっただけでなく、むしろ積極的に本人が番組を好意的に評価していたように見える。そういったものが客観的な証拠として残っています。それは、放送局の人とのやり取りにおける多数のメールやライン、あるいは本人のブログといったものです。

決定の中では、少しだけしか紹介してないのですけど、これが相当数あります。それだけ見ると、本人は番組を好意的に評価していたのかなと受けとめられる。放送局の認識をベースにしたときには、そういうふうに受けとめたのも仕方ないかなという状況があります。そうすると、何らかの、そういった好意的評価を打ち消すようなメッセージが、外に何か出されていないことには、放送局の責任を認めるのは難しいのではないかということです。それが、一つ目のルートです。

二つ目。表現それ自体の問題です。先ほども申し上げたとおり、ショーの中のやり取りですから、この表現はちょっと言われたら傷つくだろうという、直ちにストレートな判断はできない難しさがありました。二つ目のルートを、本人の内心を踏まえた一つ目のルートとは別問題として取り上げたので、本人が内心どう思ったかは抜きに、表現そのものの評価ということで検討しました。その際に、BPOが、この表現は「○」、この表現は「×」というふうに評価すること自体、コンテンツに関わることを言うこと自体、そもそも謙抑的であるべきではないかという発想が背景にありました。

いろいろと検討し、本件事案そのものでは、問題ありとはできなかった。「できなかった」と言うと変ですけれども、申立人を救済するという観点から、いろいろ考え、議論をしたのですけれども、このような結論になりました。ただし、申立人と同じような立場に置かれている人はいっぱいいるだろうということから、今回、通常の決定にはないぐらい要望を詳しいものとして、かつ当該局に限らず、放送局全般の問題として詳細に述べたという、そういう取り扱いにしました。

●松田美佐委員
わたくしは起草担当委員の一人として、この委員会決定に同意しております。ただし、個人的には、本件で申立人に向けられ、そして、放送された性的言動は悪質であって、放送を控えるべきだったと考えています。ただ、表現内容だけを取り上げて問題にすることは、表現の自由に対する制約につながり得るために、謙抑的であるべきと考えるがゆえに、委員会決定には賛成するという形です。
これを前提とした上で申し上げたいのは、表現の自由を行使することについて、誰かを傷つけていないのかを、もう少し考えてみるべきであろうと。今回のことで言うならば、あいテレビは、申立人を害している可能性に気がつかなかったと主張されており、委員会も、気づけなかったのだろうというところを認めております。
とはいえ、被申立人、あいテレビ側は、自らの表現で誰かを、今回の件に限らず誰かを傷つける可能性について、どの程度意識をしながら放送をされていたのか。今回の件、傷ついている可能性に気がつかなかった、気にしないでいられたということに疑問を持ちます。さらには、申立人が外部からは悩みが決してわからないように振る舞わなければならなかったことに、そもそも強く疑問を持つというか、そこに問題があると思います。

社会学者のケイン樹里安さんが、「マジョリティというのは、なにかしんどい状況とか差別が目の前にあるときに、それに気づかずにいられる人とか、気にしないでいられる人とか、その場からサッと立ち去れる人たち」と定義しています。別のところでは、マジョリティ特権というのは、「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられること」とも言っています。
今回、読み上げるにはあまりにも不快で、私自身が経験してきた嫌なことを思い出すので行いませんが、委員会決定には、具体的にどんな言動があったか書かれております。こういった言動が、個人の人格に対して繰り返し向けられることが、いかにしんどいことであるか、気づくことができず、気がつこうともせず、番組制作が行われている。放送業界が、それが当たり前であると、もし、みなさんが理解しているというのであれば強い憤りを感じます。
放送は、すべての方のためにあると思っています。ならば、マジョリティ特権である、「気づかず・知らず・みずからは傷つかずにすませられること」を常に問い直しながら、番組を制作放送してほしいというふうに思います。そのための体制づくりに取り組んでいただきたいです。

今回の決定には三人の委員から、補足意見と少数意見が出た。補足意見とは、委員会決定と結論は同じで、決定理由を補足する。少数意見は、委員会決定と結論が異なる。

●曽我部委員長
わたくしも補足意見を書きました。放送業界全体の問題として考えていただきたいことを書きました。「放送とジェンダー」に関する近年の状況について情報提供をする趣旨です。内容は第二部の林先生のお話と重なるところもあると思うので、ごく簡単に紹介します。
まず一つ目、番組の内容。テーマ選びや内容に、そのテレビ局の組織体制が影響すると言われています。ジェンダー・ステレオタイプな表現の背景には、「メディアの送り手に女性が少ない」といったことが指摘されています。
二番目です。放送の画面に登場する人物の多様性の問題です。一つ目は、制作者の多様性の問題ですけれども、二つ目は出演者の多様性の話です。これも調査があり、六割が男性、女性四割です。女性は四割なのですが、若い女性に偏っています。
それから、肩書きのある登場人物、たとえば、社長とか、教授とか、そういう人は男性が多くて、街頭インタビューは女性が多い。六割四割というと、そんなに不均等ではないという印象を与えますが、中身も見てみると、かなりバイアスがあることが指摘されています。決定文の22ページに参考文献を書いています。ぜひ、参考文献も含めてご覧いただければと思います。

●水野剛也委員
人の心の内は、外からうかがい知ることはできない。このことを肝に銘じておかない。いくら素晴らしい要望、そして対策がなされても同じような悲劇が起きるのではないか。そう思い、補足意見を書きました。

申立人の精神的な苦痛は極めて深刻です。放送局は、他方でそのことにまったく気付いてなかった。両者のギャップ、乖離、溝の深さ、距離の遠さには戸惑うばかりでした。とくに、局側の驚きようが印象的で、文字どおり、虚を衝かれた、見えてないところから大きな問題が投げつけられたような様子でした。
放送局には、このような誤解があったのではないでしょうか。申立人とは、互いに何でも言い合える深い仲だったと。そう誤解してしまう理由もなくはないのです。申立人は明るくて、前向きで、心から番組を楽しんでいるようにしか見えません。番組内ばかりか、普段やり取りするメール、番組についての宣伝を兼ねた情報発信においても、心の葛藤や辛苦の影さえ見ることができない。プロとして仕事を完遂したい。そう思うがゆえに隠し通してしまった、通せてしまったように見えます。
だからこそ、本件の教訓は、問題などあるわけがないと思ってしまったら、問題が見えるわけがないということではないでしょうか。いくら積極的に組織、環境を改善し、風通しのいい組織にしたとしても、やはり言いにくいことは言いにくいし、言い出せないことは言い出せない。ましてや、本人が、絶対に内心を隠してしまおうと思ってしまったら、どうしようもない。
ならば、常日頃から、このように意識する必要があるのではないでしょうか。
「問題などあるわけがない、わけがない」と。ご静聴ありがとうございました。

●國森康弘委員
委員会ではマイノリティになってしまいましたが、私は人権侵害と判断しました。
同じことが繰り返されないように、その願いも込めて意見を書いています。ジャニーズとか吉本とか、宝塚も含めて、いろんな問題が今、浮き彫りになっています。きょうを機会に、1人でも多くの人といろんなものを共有できればと思っています。

まず、ハラスメントは、自分に悪気がなくても、気づけなくても関係なく、自分の言動が、相手に苦痛や不利益を与えること、尊厳を傷つけることであり、これは人権侵害にあたります。ハラスメントになる要因としては、コミュニケーション不足、無意識の偏見、性別役割の分担意識、不適切な業務量、そして倫理観の欠如というものが広く指摘されています。今回の現場では、そのすべてが満たされてしまったのではないかと見受けられます。
いくつか、申立人に対する表現を挙げるとすると、「世渡り上手、床上手」、「1日中欲しがってる」、「アッチイッテエッチシヨ」などの数々がありました。これら共演者からの言動に加えて、さらに、制作陣によるテロップやイラストが追加されています。特に、ひどかったイラストと思うのは、申立人の顔写真を貼ったその体には、黒色のレオタード、網タイツ、それからSMのムチという、そういうイラストに顔写真が貼ってあるということもありました。
こうしたものがハラスメントに該当すると思っています。私たち委員会の審理の対象期間は、申立てから遡って1年以内ですが、その期間から1カ月外れたところで放送されたものでは、申立人に対して、共演者が、スタッフが用意したハンディカメラを持って、AV女優の名前を呼びながら、脇毛を見せてと言って脇を接写し、それが放送されることもありました。
別の放送では、共演者が申立人のファスナーを下ろして背中を露出させて、それを接写し放送するという場面もありました。ハラスメントどころか、性暴力的な状態だったと思っています。それらを含めて、共演者やスタッフに対する不信が高まり、視聴者からの中傷なりバッシングも増えてきたと、申立人は話していました。

表現の自由というものは、もちろん確かに大切ではあります。しかし、たとえ深夜番組のバラエティーであっても、許されない表現や演出はあると思います。今回の場合だと、申立人が性を売りに世を渡るような人であるみたいに、性的な要素を過度に結びつけて、アナウンサーである申立人のイメージを損なうなど、悪質でした。ましてや、本人の同意や承諾、納得や信頼がない中では、それは一層深刻な被害をもたらしたと言えます。

時代は変化しています。昔は1回の放送で終わっていたものが、今では、放送内容や、出演者への中傷を含む番組への評価が、ネット上を含めて、広く、長く、半永久的に公開されます。そういった点では、一般社会や職場よりもさらに深刻な損害、被害を与えると考えるべきではないでしょうか。

多数意見でも指摘されたとおり、制作現場には、ジェンダーバランスやパワーバランスの不均衡、業務量の多さ、それから意思疎通の不足などがありました。下ネタ、お色気を前提にしながらも、出演契約書も交わすことなく、出演者へのフォローもケアも不十分に見受けられました。そういった意味では、安全配慮の欠如もあったのではないでしょうか。
深刻な悩みや苦痛を申立人が告白したあと、それから申立て後の放送局の姿勢には、気づきや反省や改善の姿勢が見当たりませんでした。このままでは同じことが起きるのではないかと危惧しました。

申立人は、平穏な生活、信用、仕事、収入、多くを失い、多くを諦めながら、申立てに至っています。私は申立人の被害を認識するとともに、人権侵害があったと判断し、同様の被害を生まないことを願って、少数意見を書きました。

今回の事案をきっかけに組織的に改善策をとった、あいテレビから報告があった。

●あいテレビ
弊社は委員会決定の中で、制作現場における数々の問題点について要望を受けました。大きくは、出演者が本当に自分の心を吐露できる、悩みを相談できる環境整備、制作現場のジェンダーバランス、そういったものを指摘いただきました。審理に入った状態のところから、これらのことについて検討、改善を進めました。その中から大きなものを三つ、説明します。

一つ目です。社内体制についてです。23年7月の委員会決定から遡りまして、4月に、従来、編成報道局としていた部署をコンテンツ局に変更いたしました。それまでは1局2部で、局長、編成制作部長、報道部長、管理職3名が男性でしたが、今回1局3部に分けまして、私が女性のコンテンツ局長として着任、制作部長も女性が就任しました。報道部長と編成部長は男性が就任しております。自社制作番組については、私であったり、制作部長であったり、必ず制作部の女性の確認を経て放送に至るという体制になりました。
6月には、開局以来初の女性執行役員として私が就任しております。ただし、こういった幹部への女性登用は、以前から取り組み始めていたことです。去年の秋には、社内のプロジェクトで女性躍進や子育て支援を考えようと、部署を横断するプロジェクトチームが発足しました。これは女性が長く働き続けられる環境を整備し、幹部への女性登用を働きかけるということなど、いろいろな議論をしようというものです。

二つ目です。番組出演者の保護についてです。従来、番組出演者の相談窓口は番組のディレクター、プロデューサーとしていました。23年の4月から、総務部を窓口に加えています。担当者として、男性の部長と、女性の専任部長がおります。ハラスメントが発生した場合は、番組制作のスタッフを通すことなく、そちらの窓口を利用できることを契約書に明記をしております。

三つ目です。これがBPO講演会です。社内体制の見直しや環境整備を進める中で、現場のスタッフにも直接、BPO講師と顔を合わせて、さまざまな意見交換をする場を設けたいということで、昨年10月に、BPOの講師派遣制度を利用しました。
講演会当日は、コンテンツ局のスタッフを中心に30名余りが参加し、曽我部委員長から決定通知のポイントなど、さまざまなことを解説していただきました。そのあと、ジェンダーを意識した番組制作のあり方など、さまざまな意見交換を行いました。
作り手側の一方的な価値観を出演者等に押しつけることはいけない、さまざまな配慮が必要など、たくさん確認事項がありました。たくさんの気づきがありました。

この三点が取り組んでいる大きなものです。完全なものとは思っていません。
引き続き、時代に即した番組制作のあり方ですとか、制作現場のあり方、そういったものを考えていきたいと思っています。みなさまからも引き続き、ご指導をいただければと思っております。よろしくお願いいたします。

■主な質疑応答

Q:申立人がフリーアナウンサーという弱い立場にあり、ジェンダーの問題、男性中心社会であるということはもちろんですが、出演者が芸人やグラビアタレント、さらには男性の局アナなどであっても配慮が必要だと思います。その点いかがですか?

A:これはおっしゃるとおりで、マイノリティだから配慮が要るということではなく、すべての人に配慮が要るわけです。そういう意味では、誰に対しても配慮は必要であるけれども、ただ、とりわけマイノリティの場合、先ほど、松田委員がおっしゃったように、マジョリティが気づきにくいことがあるので、そういうアンコンシャスバイアス(無意識の思い込み)があることを踏まえながら対応しないといけないわけです。
基本的な考え方としては、すべての出演者、あるいは制作スタッフに対して、要するに個人として見るというか、人として見るということが当然、必要だと思います。
(曽我部委員長)

A:民放連が放送基準を改正し今年の4月から施行します。その中では、「出演者の精神的な健康状態にも配慮する」ということで、出演者をとくに属性やら性別、役割とかで区別せず、「出演者」一般に配慮が必要だということを前提にしています。(二関委員長代行)

Q:決定では、深夜時間帯の放送で、放送倫理上問題があると判断するのは控えるのが妥当と指摘されていますけれど、子どもや青少年が視聴する時間帯の放送だった場合は、放送倫理上問題があるという判断になったのでしょうか?

A:こちらはなかなか難しい問題で、いくつかの観点があると思います。ひとつは、今の民放連の基準なども、性的な制限について微妙な書き方をしています。もちろん、子どもや青少年が見ている時間帯に特に配慮が必要なのは当然だけれども、深夜に関しては一定程度、許容されるかのような書きぶりになっています。ですから、時間帯によって、当然、判断基準は変わり得るということはあると思います。というのが一点目です。

他方でということで二点、申し上げます。一つ目は、時間によって切り分けるのは、かなり昔の考え方で、今はいつでもどこでも見られるということです。深夜だからいいということが、昔のような形でストレートに通用するわけではないということです。
もう一つは、きょうのテーマですけれども、そもそも、その性的な内容というものがどこまで今の時代、許されるのかというところです。要するに、通常は女性だと思いますけど、極端に言えば、女性をある種の“物”として見るということに、つながるような内容です。全ての人に配慮が必要で、全ての人を尊重することが求められるという、今の世の中で、そういったものがそもそもどこまで許容されるのか、ということは考えていただ
く必要があると思います。
ただ、他方でさらに言うと、だからと言っても、一切そういうものがダメなのだと一足飛びに私は申し上げるつもりはないのです。けれども、やはり、そこはいろいろ考えていただくことで、従来の延長線上で何も考えずに漫然とやっていくことが許される時代ではないと思っています。(曽我部委員長)

Q:時間帯の話が出ました。そこまで何時に、どの時間帯かって関係なくなっているということですが、プッシュ型メディアのテレビの放送と、プル型メディアの動画配信ではいくらか異なるのではないでしょうか。放送基準42条の放送時間に応じた生活時間という言葉は、その辺りも含んでいるものと理解しています。まったく無視すべきではないにせよ、同列に語れないところがあると思いますが、いかがでしょうか。

A:おっしゃるとおりだと思います。(曽我部委員長)

Q:これはあいテレビさんへの質問です。番組は、先ほども委員から出ましたが、「床上手」、「欲しがっている」など、女性の人格を損ね、性に淫らという印象を与えるものだったと思います。社内で、このような発言は人権侵害に発展しかねないと、個人ベースでも議論するスタッフはいなかったのでしょうか?

A:当時は、番組全体として、いわゆるバーのママと常連との掛け合いということで、大人の会話として、時間帯等々を含めて視聴者に届けても大丈夫という判断のもと、放送していました。もちろん、こうして、「床上手」とか「欲しがっている」とか、言葉を切り取れば、もちろん不愉快で、いろんな思いを持たれる、出演者もそうなのですけれど、視聴者もそう思われるでしょう。
ただ、当時は番組全体を通して、娯楽として番組が成立すると考え、現場のスタッフも「この言葉は」って一言一言に立ち止まること、そういう立ち止まれるチャンスとして気づけなかったということです。今になって、こうして切り取っていろいろ考えてみると、気づけたかもしれないという立場に、今、私どもあいテレビはおります。(あいテレビ)

Q:申立人の女性がプロデューサーに心の内を明かしたのが11月で、BPOに申立てたのが2月。この期間に放送における対処というのは、意見書を読めば伝わるのですけれども、申立人に対して、あいテレビさんはどのような手立てをしていたのか。なぜ、申立てに至ってしまったのかということも含めて、差し支えない範囲で教えていただけたらと思います。

A:私どもが認知したのが2021年11月です。翌年の2022年3月で番組を終了しました。2021年11月以降、私どもから話をしようとしても、代理人を通してほしいと先方から回答がありました。ご指摘にあった私どものフォローは非常に難しかったのが事実です。(あいテレビ)

◆第二部
『日本の「お笑い」――誰に奪われてしまったのか』
(東京大学理事・副学長 東京大学大学院情報学環教授 
林香里氏)

●曽我部委員長
林香里先生は東京大学大学院情報学環の教授で、専門はジャーナリズムとマスメディアです。早くから男性中心のジャーナリズムの構造に対する問題提起をなさっています。私の補足意見でも、先生が最近出された共編著『ジェンダーに学ぶメディア論』を紹介しています。

現在は、東京大学の理事、副学長として、ダイバーシティ&インクルージョンの推進に取り組んでおられます。また、2012年度から15年度まで、BPO放送人権委員会の委員をおつとめになり、私もご一緒させていただきました。今回のテーマは、放送業界全体で考えていただく問題だと認識しています。本日、林先生の講演をうかがって、この問題をみなさんに考えていただく機会を持てたというのは大変うれしく思っております。
本日、『日本の「お笑い」――誰に奪われてしまったのか』というタイトルにて、講演をいただきます。

●林香里教授
紹介にあずかりました林香里です。研究分野はメディアジャーナリズム研究で、メディアシステムの国際比較をし、日本のメディアの下部構造、すなわち産業の成り立ちや構造、そして、そこから生まれるコンテンツを研究してきました。
その中で、日本のメディアの最も深刻な問題として挙げられるのが、ダイバーシティの欠如だと考えます。そこには女性の権利の問題も含まれます。また、私自身も、女性としていろいろな苦い経験があります。女性にとってメディアという職場、そしてメディアが生み出すコンテンツ、それぞれに厳しい現実があります。しかし、それは「女性の問題」ではなく、メディア産業全体の問題です。
この被害者の方がこうした形で名乗り出てきてくださったことについて、これをきっかけに将来に向けて、日本の放送産業全体をいかによくしていくかという観点から問題を考えていきたいと思います。

BPO放送人権委員会のみなさまからは、本日本件事案の取り扱いやご判断について、いろいろ説明いただきました。ご説明をうかがっていると、なぜ人権侵害あり、あるいは放送倫理上問題あり
しなかったのかということへの弁解を述べられているように、聞こえました。結局、結論として「問題なしとしたけれども、問題はあった」というのがBPO人権委員会の結論かと思います。

私もBPO人権委員会の委員を務めていました。私が委員だったら、おそらく少数意見を書いて、少なくとも倫理上問題ありと考えていたと思います。ですけれども、その部分は結論であって、今回の場合は、おそらくは、結論はそこまで重要ではなくて、その先の問題をもっと議論したいというのが放送人権委員会のご意思だろうと、解釈します。だから私などをこの場にご招待くださった。それはたいへんありがたいことです。

ただ、そのような見方は、なかなか難しい。やはり結論は結論なのです。放送人権委員会としては、性的嫌がらせの問題や女性の人権よりも、ひたすら、広義の「表現の自由」を抑制しないように、人権委員会の存立意義であるところの「言論・表現の自由」の部分を犠牲にしたくないから、このような結論が出ていると推察します。しかし、それをすることによって、結果的には、世の中のたくさんのマイノリティの人たちを落胆させて、そして結果的には社会の人権感覚を鈍らせてしまっていると感じます。

ただ、それは放送人権委員会の問題もさることながら、日本の放送業界全体の問題でもあります。放送産業は、放送の自由とか表現の自由によって手厚く守られているからこそ、かろうじて、こんなひどいことをしても、「問題なし」という甘い結論になったことを、非常に謙虚に受けとめていただく必要があると思っています。
例えば、今回、放送倫理上の問題があったという結論が出たとしたら、それで放送局や業界が、「ほら、放送人権委員会はまた表現の自由を制限しているじゃないか」という話になったとしたら、それは本当に放送業界、終わっていると私は思うのです。
BPOと放送局の信頼関係もゼロということです。これはそういう話じゃないですよね。やっぱり、いい放送を作るために何をすべきかということを議論しなくてはいけないと思うのです。そういう建設的なマインドセットを、この問題を軸にして考えていただきたいと、まず大枠のところで私は思います。
もし、私が本日、この場で倫理上、何かここはおかしいと言ったとしても、それが放送局への表現の自由への制限ということではないです。ぜひ、そのところを誤解のないようにお願いしたいと思います。

もう一つ言いたかったのは、松田委員が「自分の経験が走馬灯のように思い出される」とおっしゃいましたけど、私もそうです。たくさんの人がそう思っています。声に出ないけれども、こういうことで本当に嫌な気持ちになる人が、たくさんいるわけです。そこも表現の自由とはまた別の意味で、「言論・表現の責任」という観点から問題を考えていただきたいです。

この話をしたのは、放送局はヒアリングのとき、ほとんど反省がないような、「いや、何でも言える子だった」とか、「もうちょっと有名になりたかったんじゃないですか」とか、そんなことを言ったようなことが委員会決定に書いてありました。私は状況を知りませんから、コンテクスト(文脈)はわかりませんけれども、そういう記録が残っているわけです。世間的には「なーんだ。こういう受け答えをするテレビ局でも倫理上問題なし」となってしまう。局はそこを真摯に受けとめてほしいです。そして、次にどういう発信をしてくださるか、期待しています。

また、もう一つ付け加えると、いわゆる「下ネタ」が、いまだに笑いの一つの重要なコンテンツになっていることにも、驚きを禁じえません。ぜひ、いつか、テレビ局が今、どういうふうにバラエティーのコンテンツの在り方を考えているかを知りたいです。
お示ししている毎日新聞の記事にもありますように、「下ネタ=笑い」という非常識な業界の常識があるようですが、女性の芸人だと、必ずこうした下ネタを振られるという現実があるようです。

今回の、委員会決定に書いてある「エッチな話に罪はなし」というテロップや、「下ネタがいいじゃない、やっぱり罪ないよ」と、有名な芸人さんが、おっしゃっているわけです。それはどういうことかというと、下ネタがメインストリーム化しているわけです。2021年の話です。昭和の話じゃないわけです。こういう状況の中で、申立人が名乗り出たというわけです。

先ほど委員長から、日本のテレビ番組を作っている側の人の男女比と、テレビのスクリーン上に出てくる男女比という説明がありましたが、番組ジャンル別でオンスクリーンでの男女比をみると、バラエティーとお笑いでは圧倒的に男性出演者が多い。このデータは、『放送研究と調査』の2022年5月号からのものですが、現状の番組制作現場はこういう状況なわけです。
また、ツイッターで写真が出回っていたのですけれども、お笑いコンテストの審査のとき、審査員は男性で、後ろの観客のほぼ全員が女性でした。こういうイメージがお笑いに定着していることは、記憶しておくべきと思います。

では、画面に出てこない制作者たちはどうか。民放労連の統計では、例えばキー局では女性がやっぱり圧倒的にマイノリティ。地方でも女性役員ゼロの局がたくさんあります。あいテレビさんは、執行役員に女性を入れたと先ほどおっしゃっていましたが、こういうことでもないと変わらないのだとすると、非常に残念です。

実は一つ難しいと思うところもあります。BPOの見解で、先ほど委員長がおっしゃいましたように、ジェンダーバランスが悪く、圧倒的に男性ばかりの職場環境が、こうした番組を生み出す一つの原因じゃないかと、BPOも書いているわけです。
では、放送業界での「女性の視点」って何ですか。女性だったら誰でもいいですか、ということになると思います。男性中心社会で、女性がマイノリティになれば、テレビ局の常勤の女性は、「男性と変わらないような」価値観を身に着けて出世していくわけです。これは私が調査した『テレビ報道職のワーク・ライフ・アンバランス』という本の一部ですけれども、やはり女性が男性と同じように対当に頑張るためには、男性と同じような価値観で仕事をしていかざるを得ない。
例えば、きょうもBPO放送人権委員会の見解がありまして、放送倫理上問題なしとなっていますけれども、補足意見と少数意見は、いずれも男性委員のみでした。ということは、女性委員がどういうふうにここに関わっているかは見えないわけですね。

では、いったい「女性」が意味するところの内実は何のかと言うと、今回の場合は、女性というだけでなく、女性であって、さらに非正規雇用者だったということが、かなり大きなポイントだと思います。この弱さの重なり、二重の負荷を背負っている現実、これを「インターセクショナリティ」と私たち研究者は呼びます。これはもともとは、黒人の女性が、白人の女性に比べてより過酷な差別を受けているという問題提起から始まった言葉です。例えば日本の場合、女性の非正規雇用者というのは、女性の正規雇用者よりもさらに社会的な待遇が低くて、声を上げる力も機会もない人が多い。この点がやはり大きく問題になっていると思います。

翻って、放送局の主張、意見書によれば、例えば「不快な感じも見受けられなかった」、「編集で全部カットしました」、「本心を隠してきたとは信じがたい」そして、「これまでも良好な関係を築いていたのです。クレームは一件もないです」というふうに、記載されています。
また、BPO人権委員会の結論は、申立人のほうが、そういう素振りを見せていなかったから局には過失はないとして、倫理上問題なしとして、最終的に、「制作現場における構造上の問題としてとらえるのが妥当である」と結論を出しています。

では、ここで言う「構造上の問題」とは何か。きょうのこの会議では、この部分を言語化、共有化して、その後、みなさんがそれぞれの部署に戻って、制作現場の方々に伝え、話し合っていただければと思います。ということで、制作現場の構造上の問題とは何かを考えます。以下、三点あります。

第一に、「マジョリティ側の特権」を考えてほしいと思います。例えば現場で、日本人で、男性で、健常者で、正規雇用で高学歴、これが重なれば重なるほど、特権が増していきます。よく自動ドアの例えというのが言われているのですけども、前に進んでいくときに、こうした特権があればある人ほど、全く気付かずに、真っすぐドアがどんどん開いて、先に進めるのです。
ところが、こうした特権がない人、例えば体に障害がある方は、どこかでドアが自然に開かないとかですね。女性だったら、そこでまた開かないということで、マイノリティ性がある人ほど、先に進まなく、マジョリティにとっては当たり前のことができなくなる。こうした状況が、このマジョリティ特権を持つ人たちと、特権を持たない人たちとの分水嶺だと思います。

では、マジョリティの方々は誰かと言うと、大体、ここにいる人は、みんなマジョリティだと思えばいいです。男性、女性、関係ないと思います。集団の中で発言しても、内容に違和感を持たれづらく、自身も安心感がある。何か言っても、「あの人ちょっとなんかずれているよね」とか、「変わった人だね」とか、「言葉が聞き取りにくいね」とか言われない。つまり、文化や社会背景を共有する人たちが、周りにたくさんいれば、それがマジョリティです。だから、安心して何か発言もできる。

自分の属性を隠さなくてもいい人もマジョリティです。例えば、女性だと経験あると思うのですけど、やっぱり女を出しちゃいけないと思って、とにかく男性と同じように仕事をする。「女を隠す。女を捨てる」と、よく俗語で言うのですけども、それも一つの、このマジョリティの特権を持ってない側がやることです。
さらには、LGBTQの方は、自分の真のジェンダーやセクシュアリティを隠すとかですね。あるいは障害がある人も、「自分はちょっと迷惑になるから」と参加を遠慮するとか、そういうことをするわけです。自分の考えや属性を隠さなくていい人が、マジョリティ側にいることだと思ってください。

このほか、今の職場環境を自然に受けとめることができる人もマジョリティです。テレビ局の職場は労働時間が長いですよね。本当に大変な仕事だと思います。おつかれさまです。
ただ、その職場環境が、どちらかと言うと、自分たちに都合のいい職場のレイアウトだったり、働き方慣行がまかり通ったりしていませんか。最もわかりやすい話ですと、トイレの数です。男性と女性のトイレの数はどうでしょうか。あるいは、ジェンダー中立のトイレはあるでしょうか。
さらに、出勤や勤務時間、例えば小さな子どものお迎えの時間を心配しなければならない人や、介護のために長く休まないといけない人もいると思います。こうした人たちは、労働環境、労働条件をつねに負担に思い、肩身の狭い思いをしているのではないでしょうか。それは、日本のマジョリティの男性たちが、こうしたケアの義務を免除されているから、職場環境や労働条件がそこに合わせてつくられているからなのです。

最後に、マジョリティ側は、正規社員で会社にいる時間も長く、社内にネットワークがあり、いろんな情報アクセスできる。どこの部署の何さんが、あの問題には詳しいとか、あるいは、あの人は以前、こういうこと言っていたよというような情報を持っている。これもマジョリティの強みで、とても重要なことです。なぜならば、いろいろな状況で正確な判断をするためにはたくさんの情報が必要です。情報がないと不安になるし、怖いから何も言えなくなる。自分がいろんなことを知っていると思えば、意見が言えるのです。マジョリティとマイノリティの差というのは、この情報量の差が大きいのです。

本日先ほど、あいテレビの方が、本件の申立てを受けて、三つのことをしたとおっしゃっておられました。女性の執行役員を増やした、相談窓口を作った、そして、BPOの先生方をお招きしたとのこと。でも、それでは足りないです。それ以上に、こうした、自分たちはマジョリティ側にいるという意識のトレーニングをして、私たちがあたりまえに前提としているものは何か。私たちの世界観はどう規定されているかを自覚してほしいです。自分たちがどのように自分たちに有利な環境をつくり、いかにそこにどっぷりとつかっているのかを、もっともっと自覚する必要があると思います。

私は、勤め先がマジョリティの大本山の東京大学ですので、大いに反省するところがあります。そうした意味でも、大学全体でこうしたマジョリティのトレーニングを今年から始めまして、全員に研修を義務づけています。その一つとして、例えば幹部には、全員に演習を通して、自分たちのマジョリティ性を意識してもらっています。
ただし、マジョリティにいること自体がダメだと言っているわけではありません。実際、それは変えられないのです。しかも、それはありがたいことでもあるわけです。だから、そうしたポジションから、マイノリティの人へ何ができるかということを考える。それがマジョリティの責任で、それにはトレーニングが必要です。当たり前にみんながわかることではないのです。
あいテレビにも、ぜひ、こういう研修をやっていただくと良いと思います。いろんな企業がやっています。こちらにいらっしゃる局の中にはすでに実施している局もあるかもしれません。もしやっていたら、このような場でも、のちほど情報共有すればいいかなと思います。どうか考えてみてください。

第二点目として、マジョリティの意識を持つことと同時に、私たちには皆、無意識のバイアスがあるということも自覚すべきだと思います。例えばステレオタイプ、先入観で、「こういう学歴の人はああいう人だ」とか。
あるいは、正常化バイアス。「このぐらいなら大丈夫じゃないか?そんな大きな問題じゃないよ」というようなこと。
このほか、権威バイアス。偉い人の意見は全て正しいと考えがちです。売れている芸人さんが言ったんだから、あれでいいのだとなったりする。
外見バイアス。女性で、優しい感じの人だと、あのくらいなら許してくれるのじゃないかとか。これも無意識のバイアスです。
今回の案件では、男性たちがアナウンサーにこれぐらいなら許してくれるだろうと思っていたら、本人には心ない言葉が胸の奥底に溜まっていて、最終的に非常に傷ついていたということです。こういう状況を作り出した罪も考えてみる必要があると思いました。

最後に、マイクロ・アグレッションという言葉についても言及しておきたいです。
さまざまな偏見の中で、日常的に小さな人権侵害、マイクロ・アグレッションというものが近年脚光を浴びています。「女性だから喜ぶんじゃないか」とか、「いつも明るく振舞っているよ」とかを前提に、立場の弱い人に日常的に言葉を、投げていると、とくに女性などのマイノリティ側は、そのようなステレオタイプの檻に閉じ込められ、閉塞感を抱いて、傷ついたまま放置されがちです。長年にわたってそのような状況に追い詰められた側は、日常の連続性の中で異議申し立てをするチャンスも失い、絶望に追いやられていくことになります。
マイクロ・アグレッションは日常に埋め込まれているだけに、意識をしないと、どんどん組織の中で蓄積していき、集団として差別に鈍感となり、やがて集団的な差別やヘイトスピーチといった大きな問題にもつながっていきます。組織そのものが鈍感になると、誰もあえて異論も唱えなくなる。同調同化作用がますます加速して、成長や軌道修正のチャンスも失われてしまう。クリエイティブが命のテレビ局には、まさに命とりになりかねません。

きょうの話で何をすればいいのかというのを、とても迷いました。ここで、放送人権委員会の判断そのものについて、それが正しかったのかとか、何が足りなかったのかとか、そういうことも細々と指摘することもできたのかと思います。
ただ、そのような話だけでなく、私たち全員で共有したいのは、テレビ局というのは表現で勝負をしている職業だということをまずは念頭に置く。そのうえで、勇気をもってこの案件を申し立ててくれた申立人の勇気と苦労を無駄にすることなく、今後、よりよい表現、おもしろい番組をつくっていくためには、何をしなくてはいけないかということを、BPOとテレビ業界すべてが考える必要があると思います。

何度も申し上げますように、この事案は、女性の問題でもなければ、法学的な表現の自由の問題でもない。これは、テレビ業界が抱える、圧倒的なマジョリティ特権が生む、現状再生産が永遠に続き、先細る日本社会の問題の一端で、人間の想像力や創造力(クリエイティビティ)を削ぐ組織構造や人材育成の問題だということです。
そして、ここにこそ、先程の人権委員会の話に関わってくるのです。つまり、制作現場における構造上の問題。それは単に女性の頭数が少ないというだけではなくて、テレビ業界の歪んだジェンダー構造に象徴される現状維持と再生産、そして業界全体の地盤沈下につながるのです。
本日、この後に、マジョリティの特権が全く意識されていないから、この申立てのような案件が起こったという私の指摘を、ぜひ一度、考えてみてくださればと思います。「林さんはあんなことを言っているけど、うちの局は違うわ」とか、「もうそんなことはとっくの昔からわかっている」ということでもいいです。きょうの話と感想を、帰ったら各社で口に出してまわりの皆さんにお話してみてください。きっと、まわりには黙って我慢しているマイノリティの人がいるはずです。みなさんから、そういう話題を提供すれば、その方たちも思うことがあって、対話が始まるかもしれません。以上が私のきょうの発表です。ありがとうございました。

■主な質疑応答

Q:当事者にとって、こだわらざるを得ない部分、例えばLGBTQ以外にも多様な性があるという主張などでも、ニュースや番組尺の関係、また、あまりに複雑になると、視聴者の理解が追いつかないなどの理由で、簡略化や類型化しなければならない場合があります。全ての表現を取材先が納得するまでやり取りすることは、現実的でないとも思えます。どのような対応が好ましいのか日々悩んでいます。

A:そういうふうに悩んでいらっしゃるのが素晴らしいと思います。そういう方がいることが本当に希望だと思うのです。尺が短い。とくにテレビの場合は、尺が短いから紋切り型にならざるを得ない。それは確かに悩みですけれども、まず、それを意識することが第一歩です。
そして、第二歩目には、一回の放送で全部が解決できないではと思います。少し長いスパンで何ができるかということを考えて番組制作をしていただければと思います。
そして三つ目に、最後ですけども、その人だけでは解決できないと思うんです。例えば、自分はニュース制作していて、紋切り型やっちゃったよな。また、桜の映像とともに若い女性入れちゃったみたいな、そういうのがあると思うんです。でも、それはそれであったとしても、今度は別の番組、例えばドラマの人と話をして、対抗軸をつくってみるとか。これは一つの番組だけで解決することでは到底ありませんから、局内のネットワーク、あるいは番組制作会社同士のネットワークを作って、何らかの体系的取り組みを少しずつでもしていただければと思います。頑張ってください。応援しています。(林教授)

Q:メインターゲットが女性の商品を扱うときに、意図的に「女性のみなさん」と限定した呼びかけをすることはよくやっています。ユニセックスの財布を紹介する際に、女性のみなさんと呼びかけましたが、女性用の商品ではないので、ジェンダーの観点から、呼びかけは、ご覧のみなさまなどにしたほうがいいのでしょうか。

A:たくさん売れるために、みなさまって言ったほうがいいんじゃないですか。女性に限定する必要がある物だったらそうですけども、そうじゃないなら、みなさん使ってくださいと言ったほういいのではないですかね。男性、女性をそこまで意識する必要がどこまであるのでしょうか。性にも多様性があるわけだし、女性だからどうっていう紋切り型を崩すのが面白いところだと思います。お財布、いろんな人が使ってもらったほうがいいと思ったら、「みなさん」と言ったほうがいいと思います。(笑い)
(林教授)

Q:スタッフの制作現場に女性を登用することが問題解決の一つのポイントということは、もっともだと思います。ただ、いろんな問題でそれが適わない場合、どう対処すべきでしょう。女性を配置したら、それで事足りるということでもないと思いますが。

A:例えば、この度、あいテレビに、執行役員に女性の方が就任されて、私、ほんとうに大変だなと思って見ていました。女性にこの案件の反省全部を背負わせますかって。
私も東京大学で管理職をやっていますからよくわかりますけど、女性差別の問題を全部私が担いで、世界の女性のために、解放のためになんてできないです。むしろ男性側が気づいて、開かれた職場とか、開かれたテレビ番組を作ってもらわなくては。さらには、視聴者も巻き込みましょうということは、全員でやらない限りは、こうした女性差別、マイノリティ差別の問題は解決できない。
もちろん、気づきを多くするために女性を増やすのはいいことだと思いますし、私は女性が多くいることが、職場も番組も豊かにすると思います。
けれども、女性を増やすことだけで、そして、その少ない女性たちに、問題を背負わせること。それも気の毒だと思うし、そんな簡単な問題じゃないと思います。
(林教授)

Q:ストーリー性のあるドラマやアニメの中で、LGBTQに関する内容を主題にする場合、「おかま」という名称を使用する是非について、意見をうかがいたい。最終的に、LGBTQの当事者を否定しない内容で、ストーリー上必要なセリフとして、「おかま」というワードを使用することは問題があるのかどうか。また、LGBTQを主題に物語を作る場合、気にしたことがあれば教えてほしいです。

A:全部、私の意見ですからね、みなさんが考えて、そうじゃないと思われれば、みなさんで、話していただければと思いますけれども、「おかま」という言葉は過去に使われてきた言葉で、それで傷ついてきた人がたくさんいると思います。傷ついてしまうから、さっき言ったように、自分の属性を隠す。LGBTQはそのような典型的な社会グループの一つだったと思うんです。
その言葉をもし何かの形で使わなければいけないシチュエーションがあるとしたら、何らかの形で使わざるを得ないっていうことを、しっかりと留保をつけて、限定しない限り、私は使えないと思います。使うと大きな責任が発生するわけです。緊張感と覚悟をもって、どうしても使わなくてはいけない理由を説明すべきです。説明する責任は使う側にあります。
特にテレビは、公益性、公共性がとても重要な価値なわけですから。ぜひ緊張感をもって考えていただければと思います。(林教授)

Q:数年前に、イギリスのBBCで、番組に出演する人たち全員の男女比をなるべく半々にしようという取り組みが始まったときに、批判の声が上がったと聞いたことがあります。例えば専門家のインタビューだったら、その道に一番通じる人に話を聞くべきだと。その以外の人たちにも、適材適所、もっともその道に優れている人を据えるべきで、男女比を均等にすることを目指そうとして、よりよい番組作りが阻害される恐れがあるのではないかという批判があったらしく、調べた限り、人権の立場から明確にそれに反論するインタビューにまだ出合えていなくて、どう思われるか、うかがいます。

A:そういう話もよくありますね。テレビに出演するコメンテーターは、もちろん、うまく解説のできる人、その分野の一番よく問題に精通している専門家が出ることがいいわけです。しかし、現実は、必ずしもそういう判断基準でコメンテーターが選ばれているとは限らないと思います。私も研究者ですから、そういうふうに思います。
どう選ばれているかというと、テレビ局の方が一番よくわかると思うのですが、あそこであの人は前も出ていたとか、時間がないから電話番号が携帯に入っているからとか、惰性や効率で決まっていくわけです。つまり、専門家の選定基準が、現状再生産の、ジェンダーバランスを全く気にしない方法がまずいのです。
惰性で選ぶのではなく、まさに優秀な専門性を基準に、これまであまり声を出していない女性の専門家を意図的に入れることも考えていただきたいと思います。

さらに付け加えるとすれば、声を与えることによって、専門家も伸びていくわけです。
今まで機会がなかったから、女性の専門家もメディアの中で育っていかなかったところがあると思います。
みなさんの公共的な使命の一つに、よい専門家を育てるという観点をお持ちいただければありがたいです。男女含めたいろいろな専門家を育てていただければ、女性の視点とか、マイノリティの視点とか、多様な視点が自然に増えていくわけですから、三方良しで、ぜひそうした形で専門家の選定も考えいただければと私は思います。(林教授)

●曽我部委員長
(講演で使った)放送業界での女性の視点とは、というスライドに、人権委員会の意見がいずれも男性委員によるものだとあります。この趣旨が、わからなかったのですけど。補足いただいてよろしいでしょうか。

●林教授
放送業界に女性が少ないことが問題だという委員会の意見は、女性こそがこうした問題に敏感だというご意見だと受け止めました。翻って、BPO放送人権委員会には女性の委員もおられるのですが、少数意見や補足意見は全員男性で、こうした部分に敏感な女性の意見があってもいいわけですけども、それがない。あるいは、BPOという組織でも女性が声を抑制している(抑圧されている)のかもしれない。そういう意味では、男性、女性ということを組織内の数で考えることが、どこまで適切かなと思います。
ただ、内情が私にはわからないので間違っているのかもしれません。

●曽我部委員長
委員が個別に意見を書くかどうかは完全に個人の自由なので、たまたまこうなったということではあります。女性の視点か、男性の視点かは関係ないということであれば、それはおっしゃるとおりだと思います。

●林教授
はい。組織の中ですと関係のないこともよくある、と申し上げました。

●曽我部委員長
そういう趣旨であれば、了解しました。ありがとうございます。

●林教授
委員会の要望では、放送産業の女性の少なさを強調されてきていると思うのです。そういうことなら、委員会の中でも男性と女性がいるので、女性としての何らか観点がもう少しあってもいいのかなと思ったので指摘しました。
この指摘が適切かどうかは、議論のプロセスはわかりませんので委員会に委ねます。書くか書かないかは、もちろん自由だと思います。けれども、書くこともできるわけなので、そういう意味では、委員会がご指摘されているような「女性の視点」は可視化されていませんでした。

●曽我部委員長
個別意見には出ていないけれども、男女を問わず、全員の意見を自由に出し合って、意見をまとめたということです。

■オンライン意見交換会のまとめ(曽我部委員長)
長時間、みなさまにお付き合いいただきましてありがとうございます。登壇いただきました林先生、それから説明いただいた、あいテレビの方々もどうもありがとうございました。人権委員会は、構造というよりは個別の行為、個別の事案を判断するのがミッションだと認識しております。構造問題を正面から扱うのは難しいという認識がありました。
したがって、今回取り上げた委員会決定の本体では、個別の問題を取り上げ、構造問題は付言のところで扱うにとどまりました。
他方、本日この場で議論すべきは、やはり構造問題だろうということで、本日はそちらになるべくフォーカスするスタンスで、私どもは説明もさせていただいたということです。ただ、その点について、わたくしども特段専門家でもありませんので、林先生には、こういった構造問題をご説明いただきました。
マジョリティが作る特権ですとか、無意識のバイアス(アンコンシャスバイアス)の温存ですとか、マイクロ・アグレッションの問題というようなところにまとめていただいて、われわれが漠然と申し上げていた構造問題というのが可視化されたと思っています。

これは林先生からもありましたし、私も冒頭申し上げたのですけれども、こういう意見交換会の場ですと、その場で話を聞いて「ああ、そうか」とか、「いや、違うんじゃないか」とか、感想はおありかと思います。けれども、大体それで終わってしまうことがあります。あいテレビさんにお邪魔したときも申し上げたのですけれども、講師を呼んで話を聞いて終わりでは、何も生み出さないと思います。
したがって、きょう話をお聞きになった方々はそれぞれ各社にお持ち帰りいただいて、さらに議論をしていただく。議論するだけではなくて、何らかのアクションにつなげていただく。そういうことが大事だと思います。アクションする中で、さらにアドバイスが必要であれば、それぞれ、専門家がいますので、そこに相談するとか、そういう形で今後につなげていっていただきたいと思っております。
本日がその一歩になれば、大変ありがたいと思います。どうもありがとうございました。

以上

2023年12月19日

ドイツのテレビ自主規制機関FSFと交流

放送人権委員会は12月19日に開催された第322回委員会のなかでドイツの放送番組自主規制機関であるFSFとのオンライン交流を行った。
交流は、曽我部委員長とFSFミカット所長の間であいさつを交わして始まった。そしてまずミカット所長がFSFについて、ドイツの法律が定めるテレビ番組の青少年保護のための自主規制機関で番組内容によって放送時間を定めたランク付けを行っている。ドイツの民間放送37社が会員となって出資して運営されていることなどを説明した。FSFでは、全国から放送と利害関係のない教師や科学者、ジャーナリストら100人を委員として選び、一年間のうち4週間ほどベルリンに招いて1番組3から5人で審査を行っている。最近の課題として「リポーティング・プリビレッジ」(報道の権利)を挙げ、ニュース番組において“報道の自由”に基づいて放送されるコンテンツと青少年保護の在り方について議論が活発化していることを紹介した。これは世界各地の戦争や紛争における衝撃的なシーンが報道される機会が急増していることが背景にあるという。このほかFSFがランク付けの補助的作業にAI技術の導入を試みていることを紹介した。
これを受けて曽我部委員長が委員会を代表する形で、まずドイツがとる時間帯ごとの年齢別規制について録画機やインターネットの普及による変化はないかということや、日本でも議論のある性的表現の有害性に関するドイツの議論や、過激な政治的発言の扱いをどうしているかなどについて質問した。
これに対してミカット所長は「録画やネットへの対応はできない。しかし放送は、法律によって時間的規制を守る義務がある。録画等については親の責任ということになるだろう」と応じた。また性表現については「性的な表現だけで判断するわけではなく、暴力や賞賛といった要素が加わることで有害になることに注意している。ただ詳細な性描写は、理解できない幼い子供達には害になる」とドイツ国内の議論を紹介した。そして過激な政治的言動については「分類項目ではなく禁止事項としてリストアップされている」として、旧ナチスドイツのハーケンクロイツ(鉤十字)の例を紹介した。それによると鉤十字を放送で扱うことは基本的に禁じられているが、当時の歴史を振り返るといった文脈での使用は認められる。しかしそのプロパガンダを流布することは禁じられていると説明した。そして「過激な政治的発言について系統的に分類するならば“人権”ということになるのだろう」と応じた。
委員からは、FSFが試みる番組判定に関するAI補助の導入について具体的な内容を質問したのに対してミカット所長は「まずはシーンごとにタグ付けし、それぞれのリスクを判定、委員の意見を加味することを想定しているが、AIには問題シーンが出てくる文脈まで判断することはできないので、そこは人間が判断することになる」と述べ、AI導入はまだ試みの段階であることを強調した。
一方、人権委側からも活動内容を説明し、例として「リアリティー番組出演者遺族からの申立て」に対する委員会決定の概略を紹介した。これに対してFSF側からは「この番組を知っていた。委員会決定にも注目した」としたうえで、委員会決定について「表現の自由と出演者保護、どのようにバランスをはかったのか」と質問した。これに対して曽我部委員長は視聴者からは批判があるが「人権侵害は認定しない一方で放送倫理上の問題ありという決定にバランスの考慮が表れている」と応じた。

BPOとFSFとの交流は2021年には大日向理事長、2022年には青少年委員会と行い、今回の人権委との交流で3回目となった。青少年保護のための番組のランク付けを行うFSFとBPO人権委員会とでは目的も制度も違うため議論がかみ合うか心配もあったが、委員からは「直接話を聞けたことはよかった。放送事情も違い工夫がいるが、具体的な事案を通じて理解を深められると思う」という声が聞かれた。またFSF側からも「事案をめぐる議論は具体性があり、双方の考え方の違いも理解できて大変興味深かった」とのメールが届いた。
今回の交流、放送番組をめぐる問題意識や委員の姿勢など同じように取り組んでいることや、各国でも問題が起きているリアリティー番組について、BPOの委員会決定にも世界の目が注がれていることを知る機会となるなど、実りのある交流となったといえる。

2022年12月2日

北海道の放送局と意見交換

放送人権委員会の「意見交換会」が2022年12月2日に北海道札幌市で開催された。北海道での開催は2014年以来8年ぶりで、委員会から曽我部真裕委員長をはじめ10人の委員全員(二関辰郎委員長代行はリモート)が参加、北海道のラジオ、テレビ局9社からは編成、報道、コンプライアンスの担当者など39人が出席し、3時間余りにわたって活発に意見交換が行われた。

会議ではまず、曽我部委員長が、「BPOは国が作った組織ではなく、放送業界が自主的に設立した第三者機関で、今日ではBPOに象徴される放送局の自主・自律が、ネットコンテンツとは異なる放送の価値の源であるという認識が高まっていると感じている。最近の放送局の経営をめぐる環境の大きな変化の中で、放送にはそれだけの価値があるということをこれまで以上に強く示していくことが求められている。放送の価値の一つは、間違いなく放送局が放送倫理に裏付けされた安心安全な番組コンテンツを提供していくということであり、そういう意味で放送倫理の重要性はますます高まっている」と、あいさつした。
続けて植村統括調査役が、放送人権委員会が他の2つの委員会と異なる点は、申立制であるとした上で、申立てから委員会決定までの審理の流れをBPOホームページの記載に沿って丁寧に説明した。

意見交換会は二部構成で行われた。第一部は、まず「少年法改正と実名報道」と題して、廣田委員が2022年4月に少年法が改正された経緯と、特定少年の実名報道について解説した。次に曽我部委員長が第76号「リアリティ番組出演者遺族からの申立て」に関する委員会決定を説明した後、委員会決定とは結論が異なる少数意見について、二関委員長代行と國森委員がそれぞれ理由を述べた。第二部では、第77号「宮崎放火殺人事件報道に対する申立て」に関する委員会決定について、起草を担当した水野委員、鈴木委員長代行が解説した後、少数意見を書いた二関委員長代行と斉藤委員がその理由を説明した。最後は2022年4月に北海道知床半島沖で起きた観光船沈没事故について、北海道放送の磯田報道部長がVTRを交えて苦労した遺族取材やメディアスクラムの問題などを報告し、丹羽、野村、松田の各委員がそれぞれ見解を述べた。

◆第一部
◎「少年法改正と実名報道」解説と質疑応答

●廣田智子委員
少年法とは、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする法律で、「少年」とは、少年法では「20歳に満たない者」とされています。2022年4月には民法も改正されて18歳で成年となりましたが、これまで同様、犯罪を犯す者たちもいて、未だ未成熟で成長途上にあって更生が期待できるということから、少年法にいう少年は20歳に満たない者のままで改正されませんでした。
しかし、他の法律では、18歳、19歳は責任ある立場となっていますから、少年法は18歳、19歳を特定少年として、17歳以下の少年とは異なる扱いをすることになりました。
どこが異なるかというと、特定少年は原則、逆送事件が増え、逆送後は20歳以上の者と原則同様に扱われます。これが厳罰化と言われるものです。原則逆送事件にどのような事件が増えたかというと、改正前は故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪の事件に限られていましたが、改正後はこれに死刑、無期または短期1年以上の懲役、禁錮にあたる罪の事件が加わりました。たとえば、強盗、強盗致傷、強制性交、放火、組織的詐欺罪など、被害者が死亡していなくても原則逆送になり、検察官に送致されることになります。そして、検察官は原則として起訴しなければならず、特定少年は公開の刑事法廷で刑事裁判を受け、無罪とならない限り、刑罰を科せられることになりました。
次の改正点は、この起訴の段階で、特定少年の推知報道禁止が解除されたことです。改正前は、少年法61条で、少年の氏名、顔写真などの報道は禁止されていましたが、特定少年のときに犯した罪により起訴された場合、この推知報道禁止が解除されました。起訴段階の検察の事件広報で氏名が発表されることになり、改正からすでに8カ月が経ちましたが、氏名は発表されたり、されなかったりしています。
検察において、そのような運用がされているのは、この法改正には衆参両院の付帯決議があるからです。決議には、逆送されたとしても事案の内容や報道の公共性の程度にはさまざまなものがあり、インターネットの掲載で半永久的に情報を閲覧できるので、特定少年の健全な育成や更生の妨げにならないよう十分配慮しなければならないと記載されています。この付帯決議を受けて、最高検が各地検に事務連絡で、この決議内容を踏まえた事件広報をせよとして、氏名の公表をする場合の基準を示しています。「犯罪が重大で、地域社会に与える影響も深刻な事案では、社会の正当な関心に応えるという観点から氏名の公表を検討せよ。典型は裁判員裁判事件である」としたため、事案によって公表される場合と、されない場合があるわけです。
では、検察が氏名を公表した場合、報道はどうだったのか。2021年10月、山梨県甲府市で、当時19歳の男が後輩の女子生徒の両親を殺害、妹にも重傷を負わせ、住宅に火をつけた放火殺人事件で、甲府地検は法改正後の2022年4月8日、初めて起訴時に氏名を公表しました。報道について、テレビはNHKと在京キー5局がいずれも氏名を報じ、民放の多くは顔写真も放送しました。紙面で匿名にしたのは私が調べた限り、東京新聞、河北新報、琉球新報の3社でした。インターネットでは、氏名は有料・無料配信で異なる扱いがされたり、顔写真についても一部の新聞社で、紙面とは異なる扱いがされました。地元局、地元紙について見てみると、山梨放送とテレビ山梨は、どちらも当日のニュース番組で氏名と顔写真を報道し、その理由も放送しています。また、山梨日日新聞は実名で報じたうえで「本紙見解」という形で、社内での意見交換の内容などを伝える記事を併せて掲載し、論説記事も実名報道に関してでした。
このように、報道の特徴としては、実名・匿名の判断の説明のほか、判断に至る悩みや社内外での議論について賛成・反対両方の意見を報じています。この他、紙面・放送とウェブサイト、さらにウェブサイトでも有料・無料で異なる扱いをしているという点が特徴として挙げられます。
私がその後の逆送起訴事件を報道などから調べた結果、2件目の氏名公表となったのは、2022年3月に大阪府寝屋川市で起きた強盗致死事件でした。こちらは報道が分かれ、調べる限りNHK、読売、産経、日経の4社が、放送・紙面・ウェブとも実名。朝日、毎日は紙面・ウェブとも匿名でした。また、在阪民放では、読売テレビ、MBSが放送は実名、ウェブは匿名という扱いでした。あくまで私が報道などから調べたものですが、2022年12月段階で、19件の特定少年の逆送起訴があり、検察が氏名公表したのが10件、非公表が9件でした。その理由は、諸般の事情を踏まえてといった抽象的なものが多く、結局よくわからないというものになっています。この点は、報道の実名・匿名の説明でも同様と言えます。
公表か非公表かを見てきましたが、山梨放火殺人事件の新聞報道では、「初の実名解禁」という見出しもありました。法務省も「実名報道解禁」と表現しているのですが、実名報道解禁なのでしょうか。なぜ、少年事件はこれまで実名報道をしてこなかったのか。そもそも少年法61条はどのような規定なのか。少年法61条違反が問われた裁判例から見ていきたいと思います。
実は、ほとんど裁判例がないのですが、1998年、大阪府堺市で、シンナー中毒の19歳少年が5歳児を殺害のうえ、その母親と女子高校生にも重傷を負わせた事件で、雑誌『新潮45』が、事件直後に実名、写真掲載の詳細なルポを掲載したことをめぐり、被疑者の少年が、プライバシー権、肖像権、名誉権、実名で報道されない権利を侵害されたとして訴えを起こしました。一審の大阪地裁は、少年法61条は、少年の利益や更生について優越的地位を与えたものであって、それを上回る特段の公益上の必要性があって、手段方法がやむを得ない場合でなければ賠償責任を負うとして、出版社側に250万円の賠償を命じましたが、二審の大阪高裁は一転、一審とは逆の判断を示しました。その判決内容は、61条は罰則がなく、推知報道しないことを社会の自主規制に委ねたものであり、表現行為が社会の正当な関心事であり、その表現内容、方法が不当でない場合は違法性を欠くとして、この記事にそれらを認めて、一審判決を取り消しました。少年が上告を取り下げたために確定し、最高裁の判断はされていません。
ほぼ同じ時期に、集団によるリンチ殺人、長良川事件について、被告人の1人が『週刊文春』の実名をもじった仮名の記事について提訴した件では、名古屋地裁は、大阪地裁と同様の考えで30万円の損害賠償を認めました。名古屋高裁はこれに加え、少年法61条は、少年の成長発達過程において、健全に成長するための権利を保障したものと判断し、出版社側の控訴を棄却しました。
この件では、仮名記事が推知報道にあたるかどうかも争点でしたが、最高裁は、少年法が禁じる推知報道にあたるかどうかは、この記事によって不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知できるかどうかで判断すべきであって、本件仮名の記事は推知報道にあたらないと判断し、61条については、それがどういう条項であるのか、直接判断はしませんでした。結局、名誉毀損、プライバシー侵害について、通常の判断方法で判断せよとされ、最終的に少年の敗訴となりました。
これらはインターネットが普及する前の裁判例であって、少年を知らない一般市民が実名を知っても永遠に記憶しているとも思えないであるとか、情報の伝達範囲が限られているとされており、このインターネットが発達した現代において、同じ結論になるかはわからないところもあります。最高裁が少年法61条について直接判断したものはなく、高裁の判断も分かれていますが、実名を報じたとしても直ちに違法な名誉権やプライバシー権の侵害になるわけではなく、表現の自由、報道の自由との調整が必要と考えられます。
それなのに、なぜ、これまで新聞、通信社、放送は実名で報じてこなかったのか。新聞協会の方針は1958年からずっと同じで、61条は罰則がなく自主的規制に待とうという趣旨だという考えのもと自主規制し、例外的に少年保護より社会的利益の擁護が強く優先する特殊な場合は、氏名や写真の掲載をすることがあるとしてきました。放送も同様だと思います。自律的判断で報じてこなかったのであって、単に少年法61条が禁じているから報じなかったわけではないと思います。
では、改正で18歳、19歳が61条の対象から外れ、検察が氏名を発表したらどうするか、報道機関はより一層重い自律的判断を迫られていると思います。特定少年の実名報道について、社会の意見は、少年の更生という目的は同じでも考え方が真っ向から対立しており、賛成意見の中には、処罰感情や社会的制裁の観点から賛成とする人もいます。
報道機関の実名・匿名の選択は、このどちらかの意見によるものなのでしょうか、そうではないと思います。どちらの意見も大切ですが、報道は当事者の利益に従うものではないし、当事者の利益に沿う報道が良い報道というわけではないはずです。報道には、こうした賛成・反対の意見に留まらない意義があって、それがさまざまな立場の市民からの信頼につながるのだと思います。つまり、特定少年の実名・匿名の問題は、なぜ実名で報じるのか、なぜ事件を報じるのか、報道が守ろうとする社会的利益は何かという報道の根本的な存在意義につながる問いであり、それが今、市民によくわからない状況になっていると思います。ですから、それを説明すること、判断のプロセス、議論や悩みを説明することは、とても意味のあることなのです。
いろいろな考えがあると思いますが、山梨日日新聞は「実名を報道することは、社会的制裁を加えたり、処罰感情を満たしたりするためではない。事実を正確に伝え、社会として検証を可能にするために必要な要素だと考えるからである。報道機関が事件を伝えるのは、どんなことがどういう背景で起きたか社会で共有するため、事件に向き合って、問題を探り、教訓として、再発防止に知恵を出し合って、安心安全な社会づくりに役立てる。取材報道を通じて、読者の知る権利に応えるとともに、罪を犯した人を排除せず、傷付いた被害者、遺族を温かく見守る社会を目指し、記者一人ひとりが不断の努力を重ねなければならない」と報じています。
この実名報道の目的が、逆に言えば、実名報道をする基準にもなるかもしれません。こういうことは、報道機関の皆さんからしたら当たり前のことかもしれませんが、私も含め、言ってもらわないとわからないのです。判断のプロセス、議論や悩みについては、放送の場合、時間の制約などもあるので、ウェブサイトを使うという手法は良いと思います。
MBSが、寝屋川事件について「特定少年を実名で語る」というタイトルで、警察担当、司法担当、報道編集長の目線という3つのコラム(※参考)を、それぞれの方たちが実名、顔写真を出して、ウェブサイトに掲載していますが、それぞれの立場での事件への接し方、実名・匿名の考え方、悩みなどが率直に書かれています。司法担当記者の「実名報道によって、若くして道を踏み外してしまった人の、その後の人生まで左右してしまってよいのか。もし正解があるとすれば、これまで以上に取材を丁寧に重ねることしかないのだと思う」といった率直な言葉は心に届き、好感、信頼感を持ちました。報道編集長は今後の課題を挙げ、実名・匿名の判断にあたって、家裁からの情報には、少年の性格、人格面での情報が乏しく、捜査情報をもとにした犯罪内容や罪の大きさという尺度が比重として大きくなる可能性をはらんでいるという指摘をしており、それには、なるほどと思い、改善の必要があるのではないかと、問題の共有ができました。
弁護士会の中でも、実名・匿名について議論することがあり、報道機関は捜査機関の発表を右から左に報道しているだけだという批判を聞くことがあります。しかし、こうした批判に対して、報道機関から発信された記事を示すと、非常に説得力があり、役に立っています。また、もっとも説得力があるのは、取材を尽くした結果の判断であるということだと思います。
事実の正確さは、多くのネット上の言論との一番の違いであり、報道機関の存在意義だと思いますので、取材内容や苦労もできるだけ詳しく伝えていただいたほうがよいと思います。このように、実名か匿名かの説明においては、型どおりのものではなく、報道の現場を視聴者に、社会に伝えるものにしてほしいのです。あと、起訴時に実名報道をした場合には、特にその後の刑事裁判を取材し、報道してほしいと思います。
先ほどの寝屋川事件の判決が10月31日に出ましたが、懲役9年以上15年以下の不定期刑でした。改正で、特定少年には不定期刑は適用しないとなりましたが、経過措置規定により不定期刑にしています。つまり、この少年は、特定少年として扱うか、少年として扱うべきか、境界上の事案だったと言えます。報道によれば、裁判員の1人は、事件を知ったときは極悪な少年なのかと構える部分があったが、裁判の受け答えがとても素直で幼い印象を持ったとの感想を述べたということです。
こうした事実の報道が、少年法の改正が適切だったのか、検証する重要な材料になります。そして、少年の成育歴や反省など、裁判で明らかになった事実から実名報道が正しかったのか、逆送起訴がふさわしかったのかを検証し、論じてほしいと思います。何が少年を犯罪に向かわせたのか、社会に潜む問題を明らかにして、問題提起をしてほしいのです。実名報道について、見せしめ効果で少年犯罪を抑止するとの考えもありますが、真の抑止は問題の解決です。
さらに重要なのが、被害者、遺族支援です。厳しい現状を伝え、精神面、経済面の支援策について問題提起をしていただきたい。実名報道の意義に、被害者感情や制裁を挙げることがありますが、被害は被疑者の実名や顔写真がさらされることで真に回復はしません。こうした報道を特定少年について続けていくのが、実名報道を行った責任ではないかと思います。
改正少年法は、5年後に見直しがあります。改正少年法やその運用に実際に深く接するのは付添人、弁護人となった弁護士はもとより、取材により少年や事件に深く切り込んだ報道機関の皆さんです。検察が公表・非公表を振り分けていいのか。非公表の中に本来、公表すべき事案はなかったのか。検察の公表・非公表の判断基準は適切なのか。公判廷での少年の扱いは適切か。公判廷で明らかになった事実からして、実名・匿名は適切だったのか。原則逆送事件の範囲は適切か。皆さんが取材した事実から、判断材料の提供、問題提供をしていただきたいと思います。
報道機関の皆様には、これまで以上に重い責任、重い判断が課されていると思います。大変だと思いますが、よりよい報道のために頑張っていただきたいと思います。
【※参考】
 https://www.mbs.jp/news/column/scene/article/2022/05/088890.shtml
 https://www.mbs.jp/news/column/scene/article/2022/05/088891.shtml
 https://www.mbs.jp/news/column/scene/article/2022/05/088892.shtml

<質疑応答>

●参加者
特定少年の実名・匿名をめぐる問題は、メディアによって対応が違うことを説明いただきましたが、それによる影響など、何か具体的に把握されていることがありますか。

●廣田委員
対応は各社で違ってよくて、むしろ対応が違ったことで、社会に議論が起きなければいけないと思います。どうしてあの社は実名なのか、なぜ、あの社は氏名を公表しないのか、そこに何があるのかということで議論が起きるべきであり、議論を起こすべきであるのに何の議論も起きていないことが問題なのではないかと、私は思います。

●参加者
テレビ報道とネット記事に関連して、実名・匿名の判断を統一するべきではないかという考え方と、ネット記事は放送よりも閲覧性が高く、検索性も高いので分けて考えるべきという考え方がありますが、この点についてご意見あればお伺いしたいです。

●廣田委員
その2つの考え、どちらでもあり得ることで、事案によって違うかもしれないですし、私はその社で議論を尽くして決めればいいと思います。ただ、全体的な流れから言いますと、ネット上にはデジタル・タトゥーの問題もあり、紙面や放送は実名だけれども、ウェブ上では匿名にするというのが主流ではないかと思います。

●参加者
有料だったら名前が見れるというのは、名前を知るためにお金を払う。つまりは、メディアとしての収入の糧にしているというふうにも見える気がするのですが、いかがお考えでしょうか。

●廣田委員
検索しても引っ掛からないと、かなり閲覧数も変わってきて、その閲覧数を抑えるため、検索に引っ掛からないようにするために有料と無料とを分けていると、聞いたことがあります。ただ、説明の仕方によっては、名前を有料で売るみたいな、取られ方もされると思うので、(新聞社には)きちんと説明してもらうべきだなと、今すごく思いました。

●司会
曽我部委員長、このコーナー全体を通して、何かご意見あればお願いします。

●曽我部真裕委員長
一義的な回答というのはないということです。ただ、法律的に申しますと、実名・匿名の問題は、プライバシーと報道の自由とのバランスの問題でありまして、今までのところ裁判所は、実名を出しても良いという判断をしています。
直近でも、新聞報道で、被疑者の住所の地番まで出したことについて、これはプライバシー侵害ではないか、名誉毀損ではないかという訴えがあったのですが、地番まで表示することは許されるという高裁の判断が確定しています。
事件報道に関しては、法律、純法律的にいうとかなり広く、実名、住所の表記が現状、許されているというのが実際のところだと思います。ただ、プライバシー意識が非常に高まっていますので、5年後、10年後、今のようなバランス感覚で裁判所も判断するとは、私は思っていません。
別な例を挙げますと、少年事件の非常に詳細な記録を引用しながら論文を書いた元家裁の調査官に対して、プライバシーの侵害だと訴訟が提起されたのですが、最高裁はセンシティブな情報が含まれているけれども許されるとの判断を示しました。理由は学術論文だからです。学術論文ですから当然見る人も少ないわけですが、単に見る人が多い、少ないという話ではなく、学術的に必要だ、なので許されるという理屈だったわけです。
ということで、単に有料版で数が少なく閲覧者も少ないから実名、無料で広く見られるから匿名という理由は、理屈として成り立たず、結局のところ、この事件を報じるにあたって、なぜ実名なのかということをしっかり整理していく必要があるということです。

●廣田委員
今、曽我部委員長がおっしゃったように、プライバシー意識の高まりやインターネットによる拡散、デジタル・タトゥーの問題などもあり、多くの弁護士から、なぜ実名でなければいけないの?ってよく聞かれるのですが、やはり名前というのは、非常に重要な要素であると、皆さん同様に私も思います。
日本は、情報開示請求をしても全部黒く塗られてくることが多く、報道機関の報道が記録する役目をずっと担ってきたと思います。私も仕事上でいろいろな調べものをするとき、いつ、どこで、誰が何をしたかまで、すべて報道から情報を得ています。誰もがすぐにアクセスできて、見ることができるという機能を、日本においては報道が担ってきたという側面があるので、常になぜ実名なのかということを意識して発信を続けていただきたいと、しみじみ思いますので、よろしくお願いします。

◎委員会決定の解説 ①

第76号「リアリティ番組出演者遺族からの申立て」に関して

対象となったのは、2020年5月19日に放送されたフジテレビの『TERRACE HOUSE TOKYO 2019-2020』。募集によって選ばれた初対面の男女6人が「テラスハウス」と称するシェアハウスで共同生活する様子を映し、スタジオのタレントらがそれにコメントするスタイルのいわゆるリアリティ番組で、NetflixとFOD(フジテレビが運営する動画配信サービス)で配信され、数週間後に地上波で放送されていた。
この番組に出演していたプロレスラーの木村花さんが放送後に亡くなったことについて、同氏の母親が、娘の死は番組の“過剰な演出”がきっかけでSNS上に批判が殺到したためだとして、人権侵害があったと委員会に申し立てた。

委員会決定文の起草を担当した曽我部委員長(当時、委員長代行)が、SNS上で誹謗中傷が殺到し、木村花さんが自死するきっかけとなった「コスチューム事件」など、この事案を判断する上でポイントなる内容を時系列で説明した後、3つの論点を提示し解説した。

●曽我部委員長
まず本件の一番大きな論点は、本件放送自体による、視聴者の行為を介した人権侵害という申立人の主張です。木村さんが自傷行為や病院を受診するなどのきっかけとなったのは、直接的にはネット上の誹謗中傷であり放送局に責任はないように思えますが、申立人は、放送局は誹謗中傷が殺到することを十分に予想でき、放送局にも責任があるという主張です。
これについて、まず大前提として、表現の自由との関係で問題があり、ネット上の誹謗中傷の責任を放送局に帰責するということは、一般論として、なかなか受け入れられないという側面があります。ただし、本件には、特殊性がありまして、何かと申しますと、まずネットフリックスで配信が行われて、そこですでに誹謗中傷が起きていて、かつ、それによって自傷行為という重大な結果を招いてしまっているという事実です。少なくとも、先行する放送ないし配信によって重大な被害が生じている場合、それを認識しながら漫然と実質的に同一の内容を放送するということは、被害が予見可能であるのにあえて放送したという意味において、放送局にも責任があるんじゃないかという考え方です。
これを、本件に当てはめてみると、フジテレビ側は、自宅の訪問、LINEによる体調ケア、医師の紹介など一定のケア対応をしていました。さらに本件放送を行う前にも一定の慎重さを持って判断がなされていたこともわかり、決して漫然と放送したものとは言えず、よって、人権侵害があったとまでは断定できないとの判断になりました。
2つ目の論点は、自己決定権及び人格権、プライバシーの侵害があったかどうかという点です。木村さんとフジテレビ側の間では、「同意書兼誓約書」いわば出演契約書のようなものが結ばれていました。申立人は、これが出演者にとって非常に不利な内容で、制作側の指示で不本意なこともやらざるを得ず、自己決定権、人格権の侵害があったと主張しました。
この主張に対し、委員会は、若者であるとはいえ成人である出演者が自由意思で応募して出演している番組制作の過程で、制作スタッフから出された指示が違法性を帯びることは、自由な意思決定の余地が事実上奪われているような例外的な場合であると、認定しました。そのうえで、本件では、制作スタッフからの強い影響力が及んでいたことは想像に難くないが、例外的な場合にあったとはいえず、よって、自己決定権などの侵害は認められないとの判断をしました。
最後の論点は、放送倫理上の問題です。今回のテラスハウスは、いわゆるリアリティ番組だったわけですが、リアリティ番組の特殊性として、出演者に対する毀誉褒貶を出演者自身が直接引き受けなければならないという構造があります。どういうことかと言いますと、例えばドラマや映画ですと、登場人物がいかに嫌われるようなことをしても、これは演技であるということが視聴者にもわかるわけですが、リアリティ番組の場合は、素の状態でそういうことをしているというふうに見られますので、何か嫌われるようなことをしたときには直接、攻撃が本人にいってしまうということです。
したがって、出演者自身が精神的負担を負うリスクは、フィクション、つまりドラマなどに比べてはるかに高く、放送局はリアリティ番組を制作する以上、出演者の身体的・精神的な健康状態に格段の配慮をすべきであり、そのことは放送倫理の当然の内容であるとしました。しかし、本件では、こうした配慮が欠けていたと判断できることから、放送倫理上問題があったと結論付けました。出演者の健康状態に配慮するということが放送倫理の内容になるという今回の判断は結構、反響が大きいものでした。
その他、リアリティ番組の制作、放送を行うに当たっての放送局側の体制の問題を課題として指摘せざるを得ないと、委員会では判断していまして、フジテレビには自ら定める対策を着実に実施し、再発防止に努めることを要望しました。
さらに、普通は当該局に対してだけ判断を伝えるわけですが、今回は異例ではありますが、放送界全体に対しても、木村さんに起こったような悲劇が二度と起こらないよう、自主的な取り組みを進めていってもらいたいというメッセージを付け加えました。

この後、本件の委員会決定とは結論が異なる「少数意見」をそれぞれ書いた二関委員長代行と國森委員が、その理由を解説した。放送人権委員会の委員会決定における「補足意見」、「意見」、「少数意見」は、いずれも委員個人の名前で書かれるものであって、委員会としての判断を示すものではなく、その違いは以下に示すとおりである。

補足意見:
委員会決定と結論が同じで、決定の理由付けを補足する観点から書かれたもの
意見 :
委員会決定と結論を同じくするものの、理由付けが異なるもの
少数意見:
委員会決定とは結論が異なるもの

<少数意見>
●二関辰郎委員長代行
人権侵害の有無について、多数意見(委員会決定)は無しとしましたが、私は人権侵害については、有りとも無しとも判断せず、本件については放送倫理上の問題があったかどうかのみを判断するのが妥当という立場を採りました。
その理由として、まず、当委員会の運営規則「苦情の取扱い基準」で、放送されていない事項は、原則として取り扱わないとされていることが挙げられます。本件はこの点、放送からは知り得ない事項、たとえば、木村さんがどういった心理状態でいて、それがどのように変化したのかが判断の上で非常に重要な要素になってきますが、ご本人が亡くなっていて事情がよくわからない。また、人の精神的状況のケアにかかわる専門的知見が当委員会にはない。このような場合に結論を出すことは、結局のところ立証責任の問題になり、申立人に不利に働き、事案に即した内容に至れないおそれもあると考えました。
加えて、この問題では、内容的に違法ではない番組を放送することによって法的責任が生じるかという、表現の自由との緊張関係があります。その意味で、事実認定などが困難な状況において、本件は法的問題としては取り上げない方がよいと判断しました。
次に、放送倫理上の問題についてお話します。多数意見は放送倫理上「問題あり」としていますが、私は当委員会の判断区分でより重い「重大な問題あり」としました。何が結論の違う理由なのか、理由づけで多数意見と異なるポイントだけご説明します。
まず、同意書兼誓約書の問題です。同意書兼誓約書を締結したときに十分な説明をしたかという問題も重要ですが、締結した結果生じる、出演者と放送局との関係に着目しました。つまり、放送局は、この契約関係を通じて出演者を管理支配しうる状況を確保しており、そのような強い立場性の反映として、出演者の精神状態に配慮すべき要請が強く働くと考えました。
次のポイントは、未公開動画についてです。多数意見は、この未公開動画の配信について、フジテレビが「視聴者からの木村さんの評価を回復できるのではないかと考えた」との主張は、あながち不当とは言い難いと、積極的要素としてとらえていますが、果たしてそうだろうかというのが私の見解です。
コスチューム事件は、木村さんが命の次に大事だと言っていたコスチュームを洗濯機に置き忘れたことに端を発しており、その意味では木村さん自身にも非があったのに、自分の落ち度を棚に上げて男性出演者に感情をぶつけたことがSNS上で非難される原因だったわけです。
実際、この未公開動画の配信後、木村さんへの批判が増えました。その数日後に本件放送を行ったフジテレビの行為は、木村さんの精神状況に配慮すべき放送局のあるべき姿とはかけ離れたものと言えます。
これらのことから、本件は放送倫理上重大な問題があったと言わざるを得ないのではないかというのが、私の見解です。

●國森康弘委員
私は、本件放送について人権侵害があったと判断し、少数意見を書きました。もちろん多数意見(委員会決定)にも多く賛同する点があり、ここでは意見が異なる主な二点について説明します。
まず、番組制作過程における人権侵害の有無についての私の見解を述べます。木村さんをはじめ出演者は皆、放送局との間で「同意書兼誓約書」を結んでおり、その内容は演出を含む撮影方針に従わざるを得ないような、かつ損害賠償にも触れており、かなりある意味で圧力を感じるようなものとなっていました。それに加えて、今回のような若い出演者は制作側スタッフとの年齢差、業界歴の長さのほか、出演する側と出演させる側といった違いなどから、かなり弱い立場にあったことが見受けられます。
そのような関係性において、スタッフからの提案、指示、要請は半ば強制力を持っており、実際、木村さんは、親しい人や他の出演者に、いろいろスタッフへの不信や不満を打ち明けていました。たとえば、「これも撮る前に○○さんにめちゃ、煽られたからね」「編集では、やっぱり面白いようにいじられますね」「スタッフにも悪意を感じる」「スタッフは信用できない」「これでまた炎上するんだろうな」「炎上して話題になって製作陣は満足かな」などと心情を吐露しています。
以上のことから、木村さんには、自由な意思決定の余地が一定程度、奪われている様子が見受けられること、しかも「真意に基づく言動とは異なる姿」で自分自身が描かれ、その人物像に不満を抱き、かつ、その像によって自身がバッシングの標的になっていることから、自己決定権や人格権の侵害がなかったとは言えないのではないかというふうに考えました。
そして、二つ目は、木村さんの自傷行為後の本件放送についてです。多数意見(委員会決定)では、木村さんへのケアとか再発防止について、「一定の対応がなされたことによって再度の深刻な被害の予見可能性は低下しており、また、一応の慎重さをもって判断がなされたことがうかがえるため、漫然と放送を決定したものとは言えない」との判断を示しています。
ただ私は、漫然とまでは言わなくても、精神的ケアやバッシングの防止についての対応が不十分であったら、それは問題であると思いますし、また放送決定に至った判断材料の吟味が不十分であれば、それも問題であると考えています。確かにネットフリックスの先行配信では、直ちに人権侵害があったとまでは言えないと思いますが、現実にはこの先行配信で沸き起こったバッシングを苦にして、木村さんはリストカットをされており、同居していた友人らは、うつが見られたと話しています。
自傷行為というのは、心の痛みを体の痛みでふたをするものであって、そのふたをする効果を継続的に得るためには、さらに自傷の頻度とか強度を高めていかざるを得なくて、最終的には死をたぐり寄せてしまう傾向にあります。また、うつ病や躁うつ病というのは、心というよりは脳の働きに異常をきたして適切な判断ができなくなる病気であって、死にたいから死ぬのではなくて、死の恐怖よりも苦しみのほうが強くなることで死を求める、そのような病気です。
自傷行為を始め、それを重ね、そして自死に至るまでの間、木村さんは友人だけでなく、制作側スタッフにもLINEでいろいろ苦しい胸の内を明かしていました。「死にたくなってきた」「生きててすみませんてなって」「腹を切って詫びたい」などと連絡しています。これらのSOSを現場だけでなく、より責任ある立場の人たちとも共有しながら速やかに全社的な対応をとるべきではなかったでしょうか。ところが現実には、視聴者やネットユーザーにバッシングの自制を呼びかけることもなく、地上波放送でさらなる誹謗中傷を呼び込むことになったことから、木村さんの孤独感と苦痛を増大させたことは否めず、深刻な再被害の予見可能性はむしろ上がっていたと、私は考えます。
漫然と放送を決定したとは言えないものの、バッシングにさらされ、重大な被害を受けている出演者を守りケアする、若者の心身を預かるという視座において対応が十分でなかったために、木村さんに相当な精神的苦痛を与える形になり、それは一人の生身の人間の許容限度を相当に超えていたと考えられ、木村さんの人権を侵害したと判断するに至りました。
イギリスのように日本の制作現場においても、精神科医をはじめSNS対策専門家、弁護士らが常駐あるいは継続的に立ち会い、助言する体制が望ましいと考えます。それが出演者はもちろん、視聴者そして制作者自身を守ることにつながるからです。

◆第二部
◎委員会決定の解説 ②

第77号「宮崎放火殺人事件報道に対する申立て」に関して

申立ての対象となったのは、NHK宮崎放送局が2020年11月20日に放送したローカルニュース番組『イブニング宮崎』で、同日のトップ項目として、同年3月に宮崎市内で男性2人が死亡した住宅火災の続報を報道した。その内容は、火災は放火殺人事件の疑いが強くなり、容疑者がガソリンをまいて火をつけ住民の男性を殺害し自分も死亡した可能性があるというもので、その原因として2人の間に「何らかの金銭的なトラブル」があったかのように伝えた。これに対し、亡くなった被害者の弟である申立人が「兄にも原因の一端があるような報道は正確ではなく、放送は亡くなった兄の名誉を損なうものだ」として、委員会に申立てを行った。

本件の起草担当者は、水野委員と鈴木委員長代行で、はじめに水野委員が委員会決定文の内容を解説した。

●水野剛也委員
先に結論を述べますと、「三なし」です。人権侵害なし、放送倫理上の問題なし、そして要望もなし、です。しかし、今後の取材活動に関わり、注意しておくべき点として、「トラブル」という言葉は、立場や文脈や視聴の仕方により多様に受け取られる可能性があるため、事件報道の常套句、決まり文句のようなものとして安易に用いることのないよう留意する必要があります。
それでは、まず、人権侵害があったかどうかについて解説します。申立人は事件の被害者の弟で、本件放送により兄の名誉を毀損され、ひいては申立人の人格的利益(遺族としての敬愛追慕の情)をも侵害された、と主張しています。
委員会ではこれまで、故人が誹謗中傷された場合、故人に対する近親者の「敬愛追慕の情の侵害」としてとらえることが可能との判断を示しています。どのように判断するのかというと、本件放送が社会的に妥当な許容限度(受忍限度)を超えているか否かを、客観的、かつ総合的に判断します。総合的判断の要素には、亡くなった兄の社会的評価への影響、放送内容、公共性、公益性、そして取材方法、などがあります。
まず、本件放送が兄の社会的評価を低下させたか否かについてですが、一般的な視聴者の普通の見方をすれば、兄に非があってトラブルになったという放送内容とは受け取れないので、明らかに低下させているわけではない、と考えられます。また「何らかの金銭的なトラブル」という表現についても、申立人の兄、容疑者とも亡くなっていて、複数の捜査関係者から一定の裏付けを取った上で警察の認識として伝えており、不適切とは言えません。そして、2人が死亡した火災が事故ではなく、放火事件である可能性が強まったことを報じる本件放送には、高い公共性があり、その目的にも十分な公益性があることから、許容限度を超えて申立人の敬愛追慕の情を侵害していない、と判断しました。
次に、放送倫理上の問題があったかどうかについて解説します。申立人が問題視しているのは2点です。1点目は「何らかの金銭的なトラブル」という表現について、兄にも非があることを示唆している、と主張しています。しかし、本件放送全体を見れば、兄に何らかの非があったとはっきり伝えているわけでも、強く示唆しているわけでもないので、問題はない、と判断しました。
もう1点、申立人が問題視しているのは「何らかの金銭的トラブル」について、まったく聞いたことがないのに、警察への取材だけで自分に確認せずに放送した、という点です。しかし、すでに述べている通り、兄と容疑者はすでに死亡していること、また複数の捜査関係者への取材で確認し、警察の認識として伝えていることなどから、放送倫理上も問題はない、と判断しました。
以上が決定文の内容の解説ですが、せっかく皆さんと対面でお会いしているので、私見も含め少しお話しさせていただきます。今回、私は実の兄を亡くされた申立人の心情もある程度は汲んで決定文を書きました。結論だけ見ると、申立人の主張をまったく受け入れていないのですが、意外なことに申立人の方は納得というか、満足されているようで、通知公表のときに我々に非常に感謝してくださいました。
結果は申立人の思うようなものでなくても、人権委員会の委員全員がヒアリングで真剣に話を聞き、中には、申立人の話に涙ぐむ委員もいました。彼が十分に自分の主張を伝えることができたという点で、納得していただいたのかなと思います。人権委員会の委員として、もっともやりがいを感じる瞬間です。
次に、報道に携わる方には、被害者の人権、心情にも意識を向けていただきたいです。ヒアリングの場で放送局側は、ガソリンをまいて死亡した容疑者を犯人視しないよう気をつけた、容疑者にも人権がある、という点を繰り返しておっしゃっていましたが、被害を受けて亡くなった方、その遺族の人権については、あまり言及されていませんでした。容疑者の人権ももちろん大事ですが、被害者の人権、遺族の人権・心情も意識すると、よりバランスが取れるのかなと感じた次第です。
また、トラブルという言葉は頻出語ですから、注意喚起はしましたが、この言葉を使うこと自体を躊躇する必要はまったくないと思います。ただ、便利な言葉だけに盲点があって、それぞれの人がレンズ越しに自分の感覚で認識してしまう。人による解釈の多様性に気づきにくい、という盲点があるんだろうと考えます。
最後に、BPOのBPとは何か?とかく放送現場の方々は、BPOは怖い、厳しい、監視機関というようなイメージが強いようです。奥武則前委員長は、BPOのBPは「ブラック・ポリス」または文句ばかり言っているから「ブーイング・ピープル」だと、冗談で言っておられましたが、委員は皆、普通の人です。私たちは、皆さんの話をもっと聞きたいし、皆さんにも私たちの話をもっと聞いてほしい。これからはBPOのBPは「ベスト・パートナー」だと認識してほしいと思います。

●鈴木秀美委員長代行
水野委員とともに起草委員を担当させていただきましたが、この宮崎の案件は、私が2021年4月に、放送人権委員会の委員になって初めて扱うものでした。水野委員からもお話があったとおり、先ほどのあのニュースを見て「これのどこが問題?」と感じた方、結構多いのではないかと思います。かくいう私もそうでした。
ところが、先ほどのお話にありましたとおり「2人の間に何らかの金銭的トラブル」という表現について、私は自分に非がなくてもトラブルに巻き込まれることはあるし、お兄さんの評判を悪くするような報道との認識はなかったのですが、いや、そうではないと受け取る委員もたくさんいて、本当に見方はいろいろで、ニュースで言葉を選ぶのは本当に難しいんだなと、考えさせられました。
この案件を皆さんにもっとよく知っていただくため、私が記者会見のときにお話しした内容をここで紹介させていただきます。申立人である弟さんはもともと、この火事は本当に事故なのか疑いを持っておられました。しかし、警察が事故という前提でこの件を処理しようとしている中で、たった一人で調査を始めたんです。実は弟さん、お兄さんとは長く別々に暮らしていて、あまりお付き合いもなかったそうです。
ところが、お兄さんが亡くなって初めて、自分の兄がどういう人生を送っていたのか知りたいと思って調べ始め、その結果、これは単なる火事ではなく事件ではないかとの疑念を抱き、そしてようやく警察、検察も事件として扱うことになったので、どういう報道がされるのか、すごく期待していたようです。
ところが、期待していたところのニュースとは違っていたことで落胆し、本来は自分に確認してほしいと思っていたことも確認されず、さらに、この「金銭的なトラブル」という言葉で、お兄さんにも非があったのでは?というようなことを一部の人から言われたりもしたそうです。そうした弟さんのいろいろな思いが、申立てをするきっかけになったということを、ぜひご紹介しておきたいと思った次第です。

続いて、委員会決定とは結論が異なる少数意見を書いた二関委員長代行と斉藤委員が、それぞれ、その理由を述べた。

<少数意見>
●二関委員長代行
多数意見(委員会決定)のとおり、「トラブル」という言葉は中立的な表現ですし、本件の全体的な文脈から、申立人の兄に何らかの非があったとはっきり報道しているわけでもない。それはそのとおりなんですが、私には何か引っ掛かったんですね。その引っ掛かりが何なのかと考えたところ、本件放送では、「2人の間に何らかの金銭的なトラブルがあり」という言い回しをしています。単に「トラブル」あるいは「金銭的なトラブル」と言うのではなく、「2人の間に何らかのトラブルがあり」と。こういう言い回しを使うときは、トラブルの存在を両者が認識している場合を指すのではないかと思いました。
この点は後で補足することとしし、まずは判断の枠組み的な話を少しします。
報道番組の内容が人の社会的評価を低下させるか否かについて、BPOは、最高裁判例の考えを踏まえ、一般視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準にしています。本件放送でも、法的判断ではこの基準に従い、人格的利益(遺族の敬愛追慕の情)の侵害にはならないと判断しました。しかし、法的判断とは別に放送倫理上の問題を検討するにあたっては、その基準を用いない方が良い場合があり、本件はそのような場合にあたるのではないかと、考えました。一般視聴者は次々に映し出されては消えていく画面を受動的に視聴し、次々と提供される情報を瞬時に理解することを余儀なくされる立場にあります。他方、放送局は情報をあらかじめ準備して編集のうえ提供する側です。放送倫理の問題を検討するにあたっては、この違いを踏まえるのが妥当な場合があるのではないかと思うのです。放送倫理は、放送局に対する高度な規範ですので、少なくとも法的責任よりは厳しい面があってもいいと理解しています。そのため、一般視聴者の基準とまでは言えなくても、特定少数を超えた相当数の視聴者の視点を基準に、「このように受け止める視聴者もいるだろう」と言える場合には配慮する、より慎重な配慮が求められて然るべきであろうと考えました。
さて、冒頭で触れた内容に戻りますが、本件放送では「2人の間に何らかの金銭的なトラブル」があり、容疑者がガソリンをまいて火をつけ、兄を殺害した疑いが強まったと警察はみているという内容を報じています。人は通常、よほどの理由がなければ、人にガソリンをまいて火をつけるような残酷な行為は行わないのではないでしょうか。行為者がそういう残酷な行為を平気で行なう人物として描かれていれば別かもしれませんが、本件ではそういう紹介はなく、「2人の間に何らかの金銭的なトラブルがあり」と、それが動機であったように報道しています。
そうすると、視聴者の中には、申立人の兄が、金銭をめぐって容疑者からよほど恨みをかうようなことを行ったのではないかと受け止める人もいたのではないか。
これは、冒頭で申し上げたとおり、「2人の間にトラブルがあり」と言う場合は、トラブルの存在を両者が認識している場合が前提で、その一人が一方的に何かひどい目にあう場合は指さないのではないか、そういう問題意識が根底にあります。
このほか、容疑者には住居侵入窃盗後に証拠隠滅のために住居に放火をした同種前科がありました。NHKもこの事実を本件放送前に把握していたことを認めています。前科に触れなかった理由について、NHKは、容疑者が死亡していて弁解の余地がないこと、無罪推定の原則が働くことから犯人視報道をしない観点からであると説明していました。
仮にこの前科の情報がニュースに含まれていたら、申立人の兄に被害者としての落ち度があったか否かに関する視聴者の受けとめ方が変わっていた可能性があったかもしれません。もっとも、どう放送するかは放送局の判断ですし、前科に触れない理由にもっともな部分もありますから、伝えなかったこと自体が悪いというつもりはありません。とはいえ、容疑者の人権に配慮して前科に触れないのであれば、同様に、亡くなっていて説明する機会を持たない申立人の兄の人権にも配慮してもよかったのではないでしょうか。
そのため、少数意見は、根拠も具体的内容も明確ではない「2人の間に何らかの金銭的なトラブルがあり」という表現の使用は控えるのが妥当であり、そのような表現を使った点に放送倫理上の問題があったと考えました。正直、この少数意見の結論は、私自身も少々厳しいかなと思う一方、BPOは国による組織でなく、放送局自身が作った組織です。水野委員からBPOのBPはベストパートナーの略という話がありましたが、厳しいことも言う、耳に痛いことも言う友人こそがベストパートナーではないでしょうか。より良い番組を作ってほしいという観点もあって、こうした意見にしました。

●斉藤とも子委員
私は2021年4月に委員となり、これが初めての審理案件で、ヒアリングも初めてでした。私は一視聴者として、それからもう1つ、取り上げられる、放送されることによって、私生活にどのような影響が及ぶかという点はある程度、実体験もあり、お話できるかなと思っています。
このニュースを見ただけでは最初、私も何の問題も感じませんでした。何も問題なく、そのまま聞いてしまいそうなニュースではあったんですけれども、委員会に申立てがされた後は、お兄さんを亡くされた弟さんの気持ちというものを考えずにはいられませんでした。
「2人の間に何らかの金銭的トラブル」と聞いたときに、確かにそう言われてみると、どちらか片方だけに非があるのではなくて、両方に何か問題があったのかな?ガソリンをつけて焼かれるというのは、余程の何かがあったのかなと思う人もいるだろうなと。そして、もし私の身内がそういう殺され方をして、「2人の間に何らかの金銭的トラブル」という言い方をされたら、すごく傷つくだろうなというふうに思いました。
ヒアリングのときに、弟さんは、事件の真相を知るために自分の仕事を辞めて8カ月、何があったのかということを、いろいろな人に聞き取りに回られていたことがわかりました。NHKによると、「何らかの金銭的トラブル」については、複数の捜査関係者から裏付けが取れているということですけれども、実際どれだけの捜査員がこのことを把握していたのか、それが具体的にどういったことを指すのか、ということははっきりしませんでした。にもかかわらず、この「金銭的トラブル」という言い回しを使う必要性が、私にはよくわからなかったのです。
よく言われる公共性、公益性という言葉が、私はすごく引っ掛かります。この「金銭的トラブル」という言葉を使うことが、公共性と公益性に関係があるのだろうか。私は、「金銭的トラブル」という表現がなくても十分、報道として通用すると思いますし、現に私が知る限り他の報道機関では使われていません。
遺族を傷つける可能性がある言葉は、十分に慎重であってほしいと思います。なぜなら、弟さんは実際に、知人たちからお兄さんにも何か非があったのではないかというふうに言われて、非常に傷ついていますし、この一言によって、その人の人生が変わってしまう可能性もあると思うんですね。
弟さんがNHKの取材を受けたときに、誠意がないように感じた、きちんと聞いてくれていないように感じたということをおっしゃっていたんですね。BPOのNHK側へのヒアリングのときも、自分たちには何も落ち度がないという形で、準備してきた答えをゆるぎなく述べられていると、私は感じてしまいました。自分たちはそんなつもりではなく使った言葉が、ここまで傷つけていたということであれば、これからは考えます、というような相手を思う言葉があればちょっと違ったのかもしれないんですけど。
確かに、「放送倫理上問題あり」との意見は厳しい気もしますが、これを「問題なし」としたら、私は何のためにここにきているのかとも思いました。なので、私的な意見ではありますが、特にこの弟さんのように市井の方の場合、公に弁解もできませんし、放送される言葉の遣い方ひとつで、致命的に傷つくケースがあるということを、どうか心に留めておいていただきたいと思います。

●参加者
決定文本文の中にない事柄も含めていろいろご説明いただき、なるほどそういう背景があったのかと、非常にストンと落ちました。宮崎は他に民放が2局ありますが、2局がこの事件をどう報道したのか。何らかのトラブルという言葉がもし引っ掛かったのだとすれば、それはNHKさんだけが使用した単語だったのか、その辺りのことお分かりならば教えていただきたいと思います。

●水野委員
宮崎の他局の報道については把握をしていません。しかし、申立人は当初、この案件が終わった後に、他局についても申し立てるつもりだと言っていました。したがって、他局の報道についても不満があったと思いますが、自分の気持ちを委員会に受けとめてもらい納得したというか、腑に落ちたようなので、さらなる申し立てをとりやめた経緯があります。

●参加者
委員会に提出した意見書、審理の過程でお話した内容とは変わってくると思いますが、私の印象をお伝えすると、少しわかりにくいニュースが、ご遺族を傷つける結果につながったんじゃないかなと思っています。通常ですと、捜査中の事案の場合、「警察で詳しい経緯を捜査しています」というような形で原稿を締めるところを、被疑者死亡のまま書類送検という一区切りついたことになったので、何らかの結論を持っていかなきゃいけないと考えたのではないかと推測します。
2人の間に何らかの金銭的なトラブルというと、私もこれまで原稿を見る立場でもありましたけど、双方に何らかの落ち度があるというふうに思う方がいるという前提で、その言葉を選んできたので、そういう意味で万全ではなかったと思います。なので、取材者に対し、今回の件を教訓として共有していきたいなというふうに思いますし、特に少数意見で率直なことをお聞かせいただき、すごく役立ちました。ありがとうございました。

●参加者
この案件の書類作成、ヒアリングなど、いろいろ対応にあたりましたが、窓口対応者としては、BPOは、やはり裁判みたいに感じるところがありました。我々としては、「これは放送上問題ない」という前提で話をしていこうと組織で決定し、その決定に基づいて対応にあたってきました。現場のデスクとも何度もやり取りをして、いろいろ話もしましたけれども、ヒアリングの場で委員が感じられたのは、やはりそういう冷たい感じだったので、ちょっといろいろ考えさせられました。でも私が知る限り、現場の人間は事後対応を含め、これで良かったんだろうかと悩みながらやっているのは事実でして、決定をいただいた後も、伝え方は本当にいろいろと考えていかなければいけないと話しているところでありますので、その点少しでもご理解いただけるとありがたく思います。

◎「知床観光船沈没事故における人権と放送」解説と質疑応答

最後は、2022年4月、北海道知床半島沖で起きた観光船沈没事故における人権と放送をテーマとして取り上げた。この事故取材をめぐっては、遺族取材やメディアスクラムなどの問題で、各社が非常に厳しい判断を迫られた。
事故の概要などをまとめたVTR(約4分)の後、北海道放送の磯田雄大報道部長が、取材・放送で直面した課題などについて報告した。

●磯田雄大氏
4月に事故が発生したときは、ニュースデスクをしておりました。今回の知床観光船沈没事故ですが、乗客・乗員26人のうち生存者なしという、最近では異例の大惨事となり、依然6人が行方不明のままです。6月1日に船体を網走港に陸揚げするまで1カ月以上、各社とも知床に取材班を置きましたが、長期取材を通じて、これまでと違う点がいろいろと見えてきました。
過去の被害者が多数発生した事故では、乗客名簿が公開されるケースがありましたが、今回の知床の事故では乗客名簿は公表されませんでした。1985年の日航機の墜落事故では520人の方が亡くなりましたが、このときは、航空会社がすぐに乗客名簿を公開し、報道機関はそれを実名で報じました。また、2000年に北海道の浦河港沖で14人が死亡する漁船転覆事故がありましたが、そのときも海上保安庁と地元の漁協が全員の身元を公表しています。
そうした中で、今回は名簿が公表されなかったわけですが、当初、第一管区海上保安本部は、運航会社の知床遊覧船に名簿を出すよう要請したということです。一方、国土交通省は、連絡がつかない家族がいたため名簿の公表を検討しましたが、2日後にすべての家族と連絡が取れたということで公開しないという考えを示しました。このときの説明は、公益性は高いが、プライバシー保護の観点から公表しないという説明でした。知床遊覧船の桂田社長は、4月27日の記者会見で、家族から名簿が流出しているとの抗議を受けたことを語り、家族が名簿の公開に否定的であることを明らかにしました。しかし、どうも非公式に出回っている名簿があったようで、それを入手して取材をしている報道機関もあったというふうに聞いています。このように、身元が確認された被害者家族の意向を受けて海上保安庁では匿名で発表することを選択しました。
もう1つは、メディアスクラムの問題です。事故発生直後から、家族取材を自粛するよう要請を受けました。その理由は、家族はかなり憔悴しているので取材は自粛してほしいというものでした。こうした中、北海道内の24社は、集団的過熱取材(メディアスクラム)を避けるため節度ある取材を進めること、例えば、代表取材をしたりするなど、誠意をもって協力するというような内容の申し合わせを行いました。
しかし、こうした申し合わせが結ばれたにもかかわらず、家族からの報道批判はありました。事故で息子さんとお孫さんを亡くされた遺族が記者会見を行い「なぜ私達をそっとしておいていただけないのでしょうか。それが報道の使命ですか。絶対に許したくない」と、怒りをあらわにしました。
他の地域で過去に起きた事件では、メディアスクラムを防ぐために記者クラブで協力している例があると聞いています。2019年7月に起きた京都アニメーション放火殺人事件では、新聞社などの記者クラブと民放の記者クラブが話し合って代表取材を決めたということです。ずっと個別取材しない、接触を永遠に控えるというわけではなく、一定の区切りがつくまで、例えば四十九日とか、そういう区切りがつくまでといった内容で、代表取材解除のタイミングもあらためて話し合って決めるというものでした。
このほか、事故で行方不明となっている22歳の男性が、同乗した恋人の女性に船の上でプロポーズする予定だったことがわかり、通夜と告別式の会場で、女性に宛てた手紙が掲示されました。各社がその手紙を撮影して報道したところ、当社やSNS上の書き込みに「プロポーズの手紙を公開するのはどういう神経でやっているのか、はなはだ疑問だ。遺族の許可があったとはいえ、不特定多数に公表するようなものなのか」などの批判や違和感を覚えるなどの意見が寄せられました。被害者のエピソードを取材するというのは、報道機関としては至極あたり前のように思うのですが、視聴者からこのような批判や意見が届くと、報道にあたっては、いろいろなことを考えなければいけない時代になったのかなというふうに思います。
今回の事故取材をめぐっては、さまざまな課題が浮き彫りとなり、これまでやってきた取材手法だけでは立ち行かないと思うと同時に、見直すべき点も多々あったと思う次第です。以上で報告を終えますが、メディアスクラムの問題で、実際に私も批判を受けるようなことがあったのですが、どのように対応することが望ましかったのか、ご意見頂戴できればと思います。

●丹羽美之委員 
今回の事故に関しては、本当に報道現場の皆さん、悩まれることが多かったということがとてもよくわかりました。メディアスクラムの問題については、一律で何か解決策があるわけではないと思います。ただ、ぜひやっていただきたいのが、今回申し合わせを行ったにもかかわらず、うまく機能しなかった原因はどこにあったのかという点と、実効性のある申し合わせをするためには何が必要なのかということを、ぜひ、事後検証していただきたいということです。特にメディアスクラムは初動時、事件・事故が起こった早い段階で起こることが多いと思いますが、申し合わせがそこにどの程度対応できていたのかということも含めてです。磯田さんの報告によると、申し合わせを破ったのはキー局だったのですか?

●磯田氏
キー局というか、私どもの取材班に応援に来てもらっていたキー局の若い記者が、私たちの指示のもと、関係者と思われる方に名刺を差し出したところ、それがたまたま、先程の記者会見を開いてメディアの対応を強く批判されたご遺族の方だったということです。

●丹羽委員 
これもよくあるパターンだと思うのですが、大きな事故・事件であれば、全国から取材応援のため記者が入ってきます。そのときに末端の取材陣にまで、その申し合わせが行き渡らないケースもあるのではないかと思います。そういう意味で言うと、申し合わせをきちんと実効力のあるものにするためには、どういう体制作りが必要なのか、北海道モデルみたいなものが、今回の件を教訓にうまく作り出せるといいのかなと思います。
もうひとつは、そういう制度整備だけではうまくいかないところがあると思っていまして、それは報道の文化とか、記者の職業規範の問題です。現場の記者は、ライバル社に負けるな、特オチするなというプレッシャーを掛けられる一方で、メディアスクラムには加担するなという真逆のメッセージを出されているわけで、苦悩している記者は結構多いのではないかと思います。
私はドキュメンタリー番組をよく見ますが、ドキュメンタリーは、ニュースの取材が一段落した後から取材が始まるところがあって、ニュースが落としていったものを拾い上げることでドキュメンタリーを作っていくというようなところもあるわけです。そう考えると、特オチを恐れず、しっかり時間をかけて機が熟するのを待って取材をするとか、被害者の方々もあのタイミングではダメだったけれど、もう少し時間が経てば取材に応じてくださるとか、そういうこともあると思います。
すべての人が取材拒否しているわけではなく、この思いを多くの人に聞いてもらいたい、忘れないでほしいと思っている被害者の方、遺族の方もいると思いますから、そういう人たちが心を開きたくなる瞬間まで待つという、取材倫理みたいなものをどう作り上げていくかということも大事なのではないかと思いました。

●野村裕委員 
磯田さんの報告を聞いて申し上げたいのは、まずメディアスクラムがなぜ起きるのかということです。メディアがスクラムを組んでいるだけではなく、そこには視聴者スクラムというか、視聴者側も見たがっている、だからそれに応える、応えたいという大きな力が働いているように思います。
しかし、ただ視聴者の欲求に応えていれば良いという問題ではなく、メディアスクラム対策としては、今後は取材の中身もさることながら、放送の分量みたいなところも意識する必要があるのではないかと思います。放送量すなわち尺が長ければ、当然、厚めの取材をしてたくさんの映像を撮る必要が出てくるでしょうし、またどんどん続報を打っていくという方針ならば、追加取材のための新規映像を撮らなければいけなくなるからです。
一方で、いまメディアに求められているのは、個々のニュースについて、それだけの放送量、扱いを視聴者が本当に求めているのかという冷静な判断ではないでしょうか。視聴率に惑わされないケースバイケースの試行錯誤、積み重ねが、新たなテレビの文化につながっていくのではないかと思います。
「されど視聴率」であることも重々わかりますが、その上で、「今、このニュースばかりを扱っているけれども、あの件もきちんと報道しておくべきじゃないか」みたいな、そういう大局的判断を日頃から意識することが、メディアスクラム対策につながるのではないかと思いました。

●松田美佐委員 
今回の事故の被害者家族への取材ですが、私、個人的には、すぐに本当に伝える必要があったのかなというふうに見ていました。もちろん、視聴者にこの悲惨な事故の詳細や、巻き込まれた方の人となりを伝え、再発防止に向けて世論に働きかけていくということがとても重要であることはわかるんですけれども。
でも、そのために、被害者のご遺族に負担を強いることがあっていいのかということですよね。これまでは、それがある意味、マスメディアの社会的役割としてあったんですけれども、どうもそれが受け入れられなくなってきているということです。
インターネットの普及により、情報の自己コントロール権、自分で自分の情報をコントロールする権利というようなことがよく言われていますが、それ以上に私たちは今、外から強いられるのではなく、以前に比べ自分で何でも選択できる幅が広がり、それが当たり前となっている社会にいるということです。
そういう時代なのに、何か事件・事故が起きたら、否応なしにいきなり巻き込まれ、時間をくれないし、選択の余地も与えてもらえない、そういうところに、マスメディアに対する抵抗があるのだと思います。普段、自分の意思で状況を選択して動いている人なら、訳が分からないまま入り込んでこられることに一層、反発するのではないでしょうか。
社会全体が変容しつつある今の時代において、知る権利にきちんと応えていくということは当然あるにしても、その知る権利への応え方もかなり変わってきていることを再認識した上で、視聴者および事件・事故の被害者家族にも納得してもらえる報道の在り方を、一緒に考えていければなというふうに思っています。

●司会
ありがとうございました。予定の時間を過ぎておりまして、ここでそろそろ終わりという形にさせていただきたいと思います。本日は、長時間にわたる意見交換会にご参加いただき、誠にありがとうございました。本日の議論を、ぜひ、今後の番組作りに生かしていただければと思います。

以上

2022年2月18日

「リアリティ番組」をテーマに意見交換会を開催

放送人権委員会は、加盟放送局との意見交換会を2月18日にオンラインで開催し、全国103の放送局から約230人が参加した。委員会からは曽我部真裕委員長をはじめ委員9人全員が出席した。
放送人権委員会の意見交換会は、感染拡大の影響で、2019年に名古屋市で開催した「中部地区意見交換会」以来ほぼ2年ぶりとなり、冒頭で2021年度に就任した4人を含む委員全員を紹介した。
今回のテーマは、2021年3月に委員会が出した決定第76号「リアリティ番組出演者遺族からの申立て」で、前半は委員会決定と個別意見の解説を行った。
後半は今回の事案で課題にあがったSNSへの対応について意見交換をした。

〈事案の概要〉
審理の対象となった番組は、2020年5月19日にフジテレビが放送した『TERRACE HOUSE T0KYO 2019-2020』。
放送後、出演していた木村花さんが亡くなったことについて木村さんの母親が、“過剰な演出”がきっかけでSNS上に批判が殺到したことなどが原因で、人権侵害があったと申し立てた。
委員会は決定で、人権侵害があったとまでは断定できないとした一方、「出演者の精神的な健康状態に対する配慮が欠けていた」と指摘し、放送倫理上の問題があったとした。

◆委員会の判断と個別意見

委員会の考え方や判断理由について、担当した曽我部委員長(審理当時は委員長代行)が解説した後、個別意見を付した委員3人がそれぞれの見解を説明した。
(以下、発言者と発言の概要)

一連の経緯について(曽我部委員長)
「コスチューム事件」と呼ばれる場面が2020年3月31日にNetflixで配信され、SNS上で木村さんへの非難が殺到した。直後に木村さんが自傷行為に至り、そのことは数日経って制作会社からフジテレビの制作責任者へ報告された。
木村さんは4月中旬頃まで精神的に不安定な様子で、制作会社のスタッフは自宅を訪問したりLINE等でやり取りをしたりして一定のケアをしていたが、コロナ禍もあり十分なコミュニケーションがとれないところがあった。
5月14日に番組公式YouTubeで未公開動画が配信されて再び誹謗中傷を招き、5月19日に地上波で放送が行われた後、木村さんは亡くなった。

人権委員会 図

「放送局の責任」の考え方 (曽我部委員長)
申立人は、視聴者からの誹謗中傷がインターネット上に殺到することは十分認識できたのだから、放送局には「本件放送自体による、視聴者の行為を介した人権侵害」の責任があると主張した。
委員会は一般論として、責任があるとすれば誹謗中傷を書き込んだ者の責任であり、その元になった放送局に常に責任があるとすることは、表現の自由との関係で問題があると考えた。
ただこの事案では、先にNetflixの配信で誹謗中傷を招き、すでにその段階で自傷行為という重大な結果を招いていたので、放送局は「大変な状況になる」ことが予見可能だったにも関わらず、地上波で放送した点に責任があるのではないかという点が更に問題となる。
この点について委員会は、具体的な被害が予見可能なのに、あえてそうした被害をもたらす行為をしたといえるような場合には人権侵害の責任が認められるであろうと考えた。
この点に関する裁判例はなく、「少なくともそういう場合には人権侵害と言えるだろう」という考え方である。
そのうえで、木村さんに対しては一定のケアがなされていたし、放送前も一定の慎重さを持って判断されていたので漫然と地上波で放送したとはいえず、人権侵害とまでは断定できないという結論になった。

「自己決定権の侵害」への判断(曽我部委員長)
申立人は、放送局と交わした「同意書兼誓約書」は、放送局の指示に反した場合に重いペナルティがあるなど木村さん側に非常に不利なもので、そうした威嚇のもとで無理な言動をさせられたとして、自己決定権や人格権の侵害があったと主張した。
委員会は、成人である出演者が自由意思で応募して出演している番組制作の過程で、制作スタッフからの指示が違法と言えるのは、自由な意思決定の余地が事実上奪われているような場合に限られると考えた。
委員会の審理手続きの限界もあって事実経緯に分からないところもあるが、今回は、少なくともそうした例外的な場合にはあたらないと判断した。

放送倫理上の問題(曽我部委員長)
放送倫理上の問題については、結論として、木村さんに精神的な負担を生じることが明らかな放送を行うという決定過程において、出演者の精神的な健康状態に対する配慮に欠けていた点で放送倫理上の問題があったと判断した。
リアリティ番組での出演者の言動は、ドラマなどと違って本人の真意のように見えるため、そのリアクションは良いことも悪いことも直接出演者に向けられ、それを自身で引き受けなければならないという構造がある。
このため出演者が精神的負担を負うリスクはフィクションの場合より格段に高く、放送局は、特に出演者の身体的・精神的な健康状態に配慮すべきといえる。

課題と委員会からの要望(曽我部委員長)
決定では、最初に自傷行為があった後のケアの体制やSNSで誹謗中傷を招いた時の対応について、組織的な対応や準備が十分でなかったとして、制作や放送体制に課題があったと指摘した。
リアリティ番組の特殊性やリスクというものを今回の事案と本決定から汲み取って、放送界全体で教訓として受け止めてほしい。
放送倫理としての出演者への配慮については、放送基準などに明確な規定はないが、当然に放送倫理の内容と考えるべきという提起だと受け止めてもらいたい。

放送とSNSについて(廣田智子委員)
SNSは発信される側としては制御することは難しく、社会のさまざまな場面で深刻な問題を引き起こす場合がある。そうした問題が起きたとき、放送局はどう対応すべきで、放送番組はどのような責任を問われるのか、非常に難しい問題である。
一方でSNSには、番組への利用の仕方によって社会を楽しくするような新しい可能性があり、放送とSNSとの関係について、放送界全体で、また放送に携わるひとり一人が考え続けて常にアップデートしていくことが重要だと思う。

補足意見(水野剛也委員)
木村さんを追いつめた直接的で最大の要因は、番組そのものではなくネット上の誹謗中傷と考えられ、結論として「放送倫理上問題あり」とすべきか、とても迷った。
放送局は全くケアをしていなかったわけではなく、スタッフが何とか木村さんを救いたいと真摯に向き合っていた姿勢が見えた。コロナ禍で思うように面会できないなど、放送局にとって不幸な事情も重なった。
しかし、未熟な若者の生の感情を資本とするリアリティ番組の本質部分の危うさについて、作り手側のあまりに無自覚な姿勢が見えた。番組制作者は、いつ爆発しても不思議ではない若者たちの生の感情をコンテンツの中核に置いていることに、もっと自覚的であるべきだったと考える。

少数意見(國森康弘委員)
自傷行為やうつは致命的な状況であり、放送局側は把握した時点で早急に専門家らによるケアや放送の中止、差し替えをするべきだった。地上波で放送したことは危機意識の欠如と言わざるを得ず、木村さんへの精神的ケアや誹謗中傷を防ぐための対応、また放送決定に至った判断材料の吟味も不十分だったと考える。
木村さんが番組スタッフにも送っていたSOSを、より責任ある立場の人たちと共有して速やかに全社的な救済対応を取るべきではなかったか。
重大な被害を被っている出演者を守る対応が不十分だったために、相当な精神的苦痛を与える形となって人権を侵害したと判断した。
木村さんは出演者として弱い立場にあり、自由な意思決定が一定程度奪われていたと思われ、一人の生身の人間にのしかかる精神的苦痛としては許容限度を相当に超えていたと考えられる。
日本の制作現場でも、精神科医やSNS対策の専門家、また弁護士などが常駐したり継続的に立ち会ったりして助言するような体制をつくることが望ましいと考える。
それが、出演者はもちろん視聴者ひいては制作者自身を守ることにつながると思う。

少数意見(二関辰郎委員長代行)
放送人権委員会は、放送されていないことは原則として取り扱わない。今回の事案では、木村さんの当時の心理的状況やケアのあり方など放送されていない事項が検討材料として大きな比重を占めていた。また、委員会には精神的ケアに関わる専門的知見がない。そのため、そうした問題を委員会が判断することは難しいと考え、法的責任の有無については、判断を控えるほうが妥当と考えた。
一方、放送倫理上の問題としては、「同意書兼誓約書」によって、放送局は出演者をコントロールできる強い立場を確保していたとみられ、そのことに対応して安全配慮義務的な責任が重くなると考えた。
また「コスチューム事件」は、木村さんがコスチュームを乾燥機に置き忘れた自分のミスを棚に上げて男性出演者を非難しているため、もともと視聴者からの批判が集まりやすいと予想できるものであった。YouTubeの未公開動画は、その点を修正する効果はなかったと考えられる。実際、YouTube未公開動画の配信後に再びSNSで非難が上がっており、その直後に地上波で放送した経緯を重視すべきと考えた。
放送倫理上の問題があるという根拠として多数意見が指摘する点に、そうした観点を踏まえ、放送倫理上は重大な問題があったとの判断に至った。

<おもな質疑応答>

Q: 木村氏の自傷行為を認識した時点での対応や判断は大事な論点だと思うが、その重大な事実が放送局の上層部で適切に共有・検討されなかったように見える。その点について委員会はどう考えたか
A: 自傷行為がフジテレビ側の責任者に連絡されたのは3日後ということだが、その点に関しては明瞭な説明が得られなかった。委員会の審理に限界もあり具体的な事実関係が解明できなかった部分はあるが、その範囲であったとしてもフジテレビ側のガバナンスがうまくいってなかったのではないか、危機意識が十分ではなかったのではないかという印象を持った。
(曽我部委員長)
   
Q: 今回の番組が、ネット配信がなくて通常の放送のみだった場合は、放送局に人権上の問題があったといえるのか。
A: 番組の全部あるいはその前のエピソードを見ると、木村さんの怒りというのはそれなりに理由があり、ネット上の激しい反発を呼び起こすことが確実だとか、意図的に煽っているという感じはなかったというのが多くの委員の考えだと思う。
番組の内容自体に、人権侵害や放送倫理上の問題があるようには見受けられず、仮定の話で断定はできないが、一回だけの配信や放送だったとすれば、問題はないという判断が出ることは十分あると思う。(曽我部委員長)
A: 一回放送して誹謗中傷などが起き、それで終わったのであれば放送倫理上問題ありという判断からやや遠のくと思われる。ただ一定期間後に再放送した場合は、かなり似た状況になって、問題ありとなる可能性はあるのではないか。(水野委員)
   

◆SNSとの向き合い方

後半では、今回の事案をきっかけにSNS対策部を新設したフジテレビから、具体的な取り組みについて報告してもらった。
これを受けてSNSへの対応について意見交換し、SNSとの向き合い方をめぐる課題や問題意識を共有した。

<おもな質疑応答>

Q: 自社ニュースのネット配信を行っているが、その記事に対するネット上のコメントで取材対象者の人権を侵害するような書き込みをされることもあり得る。具体的な事例はないが、放送以外の部分でどう対応していくべきか考えさせられる。
A: 放送したニュースがネガティブなものであれば、報道された対象者に対するネット上の誹謗中傷や批判が多数なされるということは普通にあり、そうした場合にも放送局に責任があるとすると、表現の自由や報道の自由は成り立たなくなってしまう。
ニュースや番組の内容自体が、名誉毀損やプライバシー侵害、肖像権侵害ということであれば放送局は責任を負うが、それ以上に誹謗中傷が引き起こされ、それによって放送対象の人物が傷ついたということについては、放送局には、少なくとも人権侵害といった法的な責任はないということを明確にしておきたい。
そのうえで、少しでも余計な被害や負担を減らすという配慮は考えられると思うが、法的な責任ということでいえば、先ほど述べたことが基本であることを押さえてほしい。
(曽我部委員長)
   
Q: 一般の人が主人公となる番組において、SNSの誹謗中傷からどう守ってあげられるか、今後そうしたことが起きたときのために何をすべきか。
A: すべての放送局がフジテレビのような体制を組むわけにいかないだろうがやはりSNS上の状況には注意をして、必要に応じて対応を取ることは大事だと思う。
そのときに、どういう対応、選択肢があり得るのか、実際にどのようにやるのか、誰に相談すればいいのかを予め社内で共有し、議論しておくことが必要ではないか。
SNSの誹謗中傷に限らず、出演の際のいろいろな悩みについて相談できるような体制、雰囲気といったものを作っていくことは、配慮すべき点だと思う。(曽我部委員長)
   
Q: BPOの審理・審議の対象は基本的に放送となっているが、最近はこの事案のようにSNSやデジタルのプラットフォームなどにおける発信で人権侵害や倫理上の問題が起きている。BPOの組織や審理、審議対象のあり方などについて、これまでどのような議論がなされ、今後どのような展開が見込まれるか。
A: BPOはNHKと民放連の合意に基づいて、放送への苦情や放送倫理上の問題に対応する組織として設立されたので、その合意に基づいた運営をしている。
したがって、BPOがただちにSNSやデジタルプラットフォーム上でのコンテンツに関して、審議・審理の対象にするということにはならないし、そうしたものを対象にするということであれば、改めてNHKと民放連に議論してもらい、合意の上で対応することになる。
(BPO渡辺専務理事)
A: 放送人権委員会の実情について補足すれば、先例として、例えばニュースを細分化してニュースクリップとしてウェブサイトに掲載するなど、放送と同じ内容のものがネットに掲載されている場合は審理している。
これは、放送に関する人権侵害を扱うというミッションからは厳密には外れるが、放送の延長線上にあるということで解釈上可能だろうと判断している。
今回の事案では、YouTubeで配信された未公開動画は放送された番組には出てこない部分だった。これを正面から審理して判断することは、現状のルール及びその解釈では難しいと思われる。(曽我部委員長)
   
Q: 性的指向や性自認などについての理解は深まっているが、性別に関わる放送用語についてどこまで配慮すべきか悩ましい。看護婦や保母といった役割の決めつけによる用語の言い換えは進んでいる一方、女優、女性警官、女流棋士など、説明として使用する用語も性差別となってしまうのか。
A: 難しい問題で確たる答えというものはないが、差別かどうかはグラデーションであり、ここまでは差別ではなくここからは差別だという明確な線引きがあるわけではない。ただ基本的なスタンスとして、必然性のないものは中立的にやっていくというのが大きな視点としてはあるのではないか。
例えば女優という言い方は、新聞社によっては性別を問わず俳優としているところもある。他方で女流棋士という呼び方は、まさに制度として棋士と女流棋士とで分かれていて、そこには必然性がある。
ニュースなどの中で、必然性があるときは性別を示すこともあるだろうが、そうでない場合、とくに説明できない場合は中立的に使うというのが基本的なスタンスではないか。
また、そうした言葉遣いも大事だが、番組全体の作りについてもジェンダーの観点というものが重要なのではないかと思う。(曽我部委員長)
   

◆意見交換会のまとめ(曽我部委員長)

今回の事案は、出演者が亡くなってしまうという重大性があったが、フジテレビには真摯に受け止めてもらい、しっかり体制を作ってもらった。今後、引き続き発展させてもらうとともに、他の放送局にもぜひ参考にしてもらいたい。
テレビ離れと世の中で言われるが、ネット上でもテレビ番組の話題というのは、まだまだ非常に多いと感じる。番組の出演者の言動などをきっかけに炎上することも少なからずあり、そうしたときに放置するのか、謝罪や釈明をするのか、あるいは抗議するのか法的措置をとるのかなど、いろいろな選択肢がある。
どういうときにどういう対応をするのか、法的措置をとるとすれば誰にどう相談したらいいかということを普段からシミュレーションしておくことが大事だ。
その前提として、自社の番組に対するネット上の反応というものを常に見ておく必要があるが、一方で注意すべきは、炎上に参加している人というのはわずかであって、炎上の中に出てくる声が世論全体の声とは限らないことである。
したがって過剰反応せずに冷静に見ていく必要があるので対応は難しいが、炎上とはどういう現象なのかといったネットに対する理解を深めることも大事である。
それぞれの放送局が問題意識をさらに深めて必要な準備をしてもらうことが、今回の教訓ではないかと思う。

以上

2019年11月26日

中部地区意見交換会

放送委人権委員会の「中部地区意見交換会」が11月26日に名古屋市で開催された。BPOからは濱田理事長、放送人権委員会の奥委員長ら委員9名が出席。また、9県の民放及びNHK放送局からおよそ70名が参加した。意見交換会は午後1時30分から午後5時まで行われた。
前半は人権委員会から最近の決定についての説明、後半は事前のアンケートを元に「実名匿名問題」や「モザイク・ボカシ」の問題などについて意見を交換した。

〇冒頭濱田理事長からBPOの役割について説明があった。

<濱田理事長>
社会の中では色々な問題が起きるが、それをお上の手を借りるのではなく、自分たちの手で解決するというBPOの仕組みは、市民社会における問題解決の望ましいモデル。
自主規制・自律を行う放送人を応援するのが第三者機関としてのBPO。委員会決定をマニュアル化するのではなく、自分たちの頭で考え、議論をすることが一番大切。決定は結論だけが報道されることが多いが、大事なことは結論に至るまでの議論。その過程も含めて決定文を読み、番組作りに当たって何が大切なのかを考えていただきたい。
放送人はある意味特権を持った存在。ネット時代で表現が非常に軽くなっているといわれる中、「事実に真摯に向き合う姿勢」「議論や思考の深み」「全体感を持った視点」「多様性に対するリスペクト」などを大切にし、緊張感を持って表現行為の手本に是非なってもらいたい。緊張感を持つとことは、しんどいことだが、それを持つことが放送に携わる者の誇りであり、矜持。それが放送の自由と自律を支える。第三者の目を借りて、この緊張感を保つ機会を持つところにBPOの根源的な役割があると思う。

〇直近の放送人権委員会の決定についての報告。

まず「芸能ニュースに対する申立て」についてVTR視聴後、廣田委員が決定について解説し、曽我部代行が一部補足した。

<廣田委員>
申立人は事務所からのパワハラを理由にした契約解除に対して地位保全の仮処分を申し立て、その主張が認められた。にもかかかわらず放送は事務所側の主張を強調して取り上げ、自分の名誉・信用が著しく毀損したと主張した。
番組は視聴者に対してパワハラがあったと思わせ、申立人の社会的評価を低下させたと委員会は判断した。しかし、本件は放送倫理上の問題として取り上げた方が、今後の正確な放送と放送倫理の高揚への寄与のために有益であると判断し、放送倫理上の問題の有無を審理した。
本件は仮処分決定に言及しなかったことによって、公平・公正性、正確性を欠き、放送倫理上の問題がある。また使用された過去の映像についても、パワハラが実際に存在したという印象を強める効果を持ち、これも放送倫理上の問題があると判断した。
芸能情報番組の中で、芸能人は多少不正確な放送でも甘受すべきだという考えもあるが、この件は申立人の芸能人生命に関わるとして、法的措置にまで訴えていることからすれば、より慎重な配慮が必要だった。
情報番組やバラエティ番組には、表現の自由の枠を広げるという役割もある。息苦しい世の中になり大変だと思うが、細部にまで注意を払って、これまでになかった番組を作っていただきたい。

<曽我部代行>
今回は、一つの事案を人権侵害の問題として扱うのか、放送倫理上の問題として扱うのかについて、事案全体を見て委員会が判断できるということを定式化した。今後はこのように事案全体を見て判断することになる。今回一般論的に示した点は重要な判断だと思う。

〇続いて「情報公開請求に基づく報道に対する申し立て」についてVTR視聴後、紙谷委員から解説があり、二関委員、奥委員長からから補足説明があった。

<紙谷委員>
大学の男性教員が、学生に対して侮辱的な発言をしたことが、アカデミックハラスメントと認定され、訓告になった。NHKは情報公開請求で入手した資料を元にこれをニュースにした。申立人は、ハラスメントの認定と措置が不当なものであり、そもそもの判断がが間違っていた。放送局はもっと調べて正確な放送をすべきで、放送の結果申立人は教育研究活動が困難な状況に置かれていると主張した。
放送では秋田にある国公立大学のどこかの職員ということで、学部学科、職位、肩書きは一切出ていない。NHKは個別の具体的な名前を知らなかった。
大学関係者にはこれが申立人であるということは容易に特定出来たと思われるが、放送では今まで知られていた情報に追加するような新しい情報はなく、この番組によって申立人の社会的評価が追加的に下がっている訳ではないと判断した。
大学外の人については、申立人自身も、外部に新しく情報が伝わって自分の評価が低くなったということは主張していない。
こうしたことから委員会としては、この放送が申立人について社会的評価を新たに低下させるものではなく、名誉棄損に当たらないと結論づけた。
次に放送倫理上の問題について。申立人は訓告の原因となった出来事は虚偽であり、その情報を元にした放送の問題は大きいと主張したが、放送局は情報公開請求で入手した情報に加え、訓告について判断変更や取り消しがなかったかなど追加の取材もしていた。対立する見方がある場合には、双方に取材すべきであるが、今回は名前が特定出来ていなかったのでそれはできなかった。放送局は基本的な事実関係の確認、新しい情報を求めるための追加取材を行い、単に情報公開で得たものを流している訳ではなく、正確性、真実に迫る努力などの観点に照らして、放送倫理上の問題もないと判断した。

<二関委員>
特定性の点につき説明したい。委員会としては一般視聴者は確かに分からないと判断したが、放送で取り上げられた場合、その人の生活圏の中で知っている人たちからどう見られ、受け止められるかが大事なので、一般の人が判断特定出来るかというだけが問題になるわけではない。ここは非常に大事なところだと思うので、改めて強調したい。

<奥委員長>
情報公開請求で得た情報によって、どうニュースを作るかという問題についてこの委員会が扱った初めての事例。
社会を良くしていくために情報公開請求はどんどん使う必要があり、報道に役立てるべきだが、出てきた情報を右から左に流すだけで良いわけではない。決定ではこの点についても指摘していることを補足したい。

〇続いて最近の人権委員会の事例について奥委員長から報告があった。

<奥委員長>
放送局、報道機関が人権という問題とどう立ち向かい、付き合うのかますます難しい問題になってきているということを指摘したい。
人権は進化する。かつては人権として把握されていなかったものが、ある時期になると人権という形で社会的に構築されてくる。
かつてはセクハラ、パワハラという言葉自体無かったし、昔は放送局の現場などでは今言うパワハラというようなことは日常茶飯事だったかもしれないが、人権問題として浮上することは無かった。それがある時期から浮上してきている。
一方でメディア・報道機関はそういう新しい人権を、いわば作り出して行くという立場でもある。そこが非常に両義的なところ。
例えば性的マイノリティの人たちの人権や権利問題もかつては埋もれていた。それを見出して世の中に広め、人権を進化させていくという役割は、やはりメディアにある。そういう両義的な存在としてのメディアは、すごく重要であると同時にますます難しくなってきている。
皆さんが直面するのは日々新しいこと。マニュアルがある訳ではない。放送倫理とは一体何なのか。見事に答える人はなかなかいない。私ももちろん分からない。しかし重要なのは、職業人としてここまで行ってはいけない。これはまずいというその感覚、その理性・感性。それを日々しっかり磨いていただきたい。皆さんは大変難しい仕事を担っているということを、改めて強調しておきたい。

〇後半は、BPOの見解を示すのではなく、事前のアンケートで関心の高かった「実名匿名報道」と「映りこみやモザイク」の問題について意見を交換した。

まず、「実名・匿名」問題について、曽我部代行から問題提起があった。

<曽我部委員長代行>
(参考資料)
新聞研究2019年11月(819)号16頁
曽我部「報道界挙げて社会と対話を ネット時代の被害者報道と実名報道原則」(コピーを配布)
曽我部「『実名報道』原則の再構築に向けて『論拠』と報道被害への対応を明確に」Journalism317号(2016年)83頁
・http://hdl.handle.net/2433/216654

実名・匿名の問題は、放送局も含めて報道機関が改めてあり方を考える時期に来ている。考えた結果が実名原則維持だとしても、社会に向けてその理由を納得いく形で説明することが強く求められている。
きょうはルールを提案するのではなく、考えるためのきっかけ作りの話をしたい。
放送の自由、報道の自由、表現の自由は非常に重要なもので、国は容易に規制してはいけない。ただ、これは、報道・放送の自由に限界がない、無限界に自由があるということを意味しない。
最近被害者の実名報道が話題になることが多いが、この話は今に始まったものではなく、被害者支援は90年代頃から重要性が主張され、制度整備が進んできた。
「犯罪被害者等基本法」が2004年に制定され、警察や検察庁における被害者支援の体制も徐々に手厚いものになってきている。かつての刑事訴訟の考え方では、被害者には地位がなかった。刑事事件は、「国家が加害者を処罰する・・以上」と被害者が出る幕はなかったが今は様変わりしている。
被害者の痛みや苦痛の学問的解明も進んだ。被害者の痛みは多様で、時間によって変わるとも言われる。その中で、報道によってもたらされる痛みが少なくないということも明らかにされてきている。
インターネットの普及によって、被害が増幅することもある。またメディアが酷い取材、傍若無人な振る舞いをしたとツイッターに書かれ、バッシングされることもある。報道被害を受けた人が酷い仕打ちを受けたと広がることもある。

その一方、メディア側の「実名報道原則」は揺らいでいない。報道被害に対する問題意識の高まりとは無縁に実名報道原則は続いており、今臨界点に達しているのではないか。
もちろん報道側にも全く問題意識がなかったわけではなく、新聞協会では、『実名と報道』という冊子を作りその立場を示している。
※日本新聞協会『実名と報道』(2006年)
・https://www.pressnet.or.jp/publication/book/pdf/jitsumei.pdf

ここでは、警察が被害者や加害者、被疑者の名前を出すか出さないかという発表段階と、メディアが報道するかどうかの報道段階の2つの段階を区別している。
発表段階は、警察は基本的には全て実名で発表すべきだという立場。報道段階では、原則として実名で報道するものの、ケースバイケースで報道機関が責任を持って実名か匿名かを判断するという立場を示している。
その論拠が詳細に書かれているが、今問われているのはこれらの論拠に説得力があるのかどうかということ。
論拠の一つは取材を深める起点となるという話。実名がなければそれ以上取材ができないということを論拠としている。
メディアスクラムについては、各社とも、うちは節度を持ってやっているので問題ない言われるかもしれないが、1社1社に節度はあっても、何社も来られたら、相手方としてはどうなのか。自社が節度を持ってやっているかどうかとは別に、メディア全体で対処しないといけない問題。
次に、実名発表の判断権を警察が持つことが問題だという考え方について。「犯罪被害者等基本計画に関する 声明」が2005年に出されている(判断ガイドP449)。閣議決定された犯罪被害者等基本計画の中に、犯罪被害者の氏名については警察がプライバシー保護と公表の公益性を勘案して適切に判断するいう一節がある。
警察に判断権を委ねる形になったことに対して、メディアからは強い批判があった。当時のBRCもそういう立場で批判をしている。
しかし、警察も個人情報保護法に拘束されているので、無条件に実名を発表しろというのは現実的ではない。被害者の実名を発表するということは、警察側から見れば、自分の持っている個人情報を無条件で外の第三者に提供するということ。個人情報保護法の考え方からすると、到底説明できない措置で、警察の一定の判断が入るのは、個人情報保護法というものがある以上、やむを得ないのではないか。
ただ、プライバシー保護と公益性との間で適切な判断は必要。警察が必要以上に発表しないとなれば、メディア側から適正な判断を促すことが求められる。

次に実名報道の論拠。「実名による報道は訴求力がある」という主張。もちろん、一般的にはそう言えるが、どうしても匿名にして欲しいと言っている人に対して、実名のほうが訴求力があるから実名で行きますと説明できるのか。
報道機関の方々は、「結局、報道被害を受けているのはネットで叩かれているからだ」と言う。その裏には、報道の責任ではないという含みがあるようだが、そう言えるのか。
自社は節度を持って取材しているから良いという主張。あるいは、叩かれるのはネットのせいで自社のせいではないという、責任範囲を狭く捉える発想が透けて見える。そこは、もう少し大きな視点で考えることが必要だと思う。
実名匿名を判断するルールそのものは皆さんでお考えいただくことだと思うので、アプローチについて話したい。
1つは、「論拠を明確にすべき」ということ。例えば、神戸で起きた学校の教師のいじめの事件は匿名で報道されているが、「実名報道原則」の論拠からして何故匿名なのかという疑問は、視聴者から当然出てくる。これはどう説明するのか。神戸の事件は匿名だけど、京アニの被害者は実名ですと、これはどう整合的に説明できるのか。それに答えていく必要がある。
次に、ルールを明確化すべきということ。ルールを作ると何が良いか。判断の基準になるというのはもちろんだが、社会に向けての説明のツールにもなるわけで、透明性、説明責任を担保する意味からもルールは必要。あらゆるケースを当てはめれば機械的に答えが出るというようなルール作りは無理にしても、ある程度指針となるようなものを明文化して公にすることが望ましい。
また、ルールが破られた場合に担保するような仕組みや、被害者側の声や苦情に対応できるような仕組みや手続きを設けることも信頼を得る所以ではないか。
個々の社の取り組みだけではなく、報道界をあげて取り組みをすることが必要。こうした取り組みを通じて、社会の報道に対する信頼を繋ぎとめることが求められているのではないかと思う。

〇この後、出席者と委員の間で意見交換が行われた。

<愛知県の放送局>。
メディアの側も社会との対話、説明責任が求められていると実感している。取材の現場で人権についての抗議を受けたり、企業からも放送内容に対して激しい抗議を受けることがある。メディア環境が変わってきて、人権も進化していると実感している。
実名報道については、原則実名だとは思うが、一方で望まない人への判断をどうするのか考えさせられるケースは、京アニや座間の事件など色々あった。個人的なには曽我部委員の言われるようにメディアも説明責任が求められていると感じる。

<愛知県の放送局>
京アニ事件の被害者の氏名公表に関して、新聞各社が自社の考えを記事として掲載した。メディア側から実名報道に対する考え方を外に出すのは珍しいケースだった。
メディア側から発言すると、どちらかと言えば批判的な目で評価され、視聴者と共通の意識を持つことができない。どうせ放送局の方便だろうと思われてしまう。
個人情報が色々な形で収集され、データとして活用されていく中で、新たなリテラシーが求められるのではないか。これは、もちろん、放送局からのアプローチもだけでなく、ネットを含めた広く社会全体のアプローチすることが大きな課題になると思う。

<國森委員>
原則としては、公権力が名前も含めた情報を持つのではなくて、メディアのほうが情報を得た上で報道をどうするかは、各々の判断に基づいてするべきだと思う。
ただし、ネットの普及など社会が変わってきている中で、視聴者や一般市民のメディアに対する信頼が少し失われている部分もあると感じている。
名前も含めた公権力からの情報をどれだけ把握する権利がメディアにあるのかを考えないといけない。時代に合わせた透明性や説明責任を見せることが必要になってくると思う。
代表取材とか、苦情申立ての窓口など、色々なやり方があるとは思うが、事件や災害で命を失った方の遺族や、実際に報道被害に遭われた関係者の方々の意見も交えながら、放送界、メディア業界としての再構築のあり方を考える、そんなきっかけができればいい。

<愛知県の放送局>
京アニの実名報道については、社内や系列でも議論した。
原則実名ということを改めて確認はしたものの、それを貫けない現場の事情もある。一方で、世間に理解されないからといって匿名社会で本当に良いのか悩ましい。
我々の世代は原則実名と言っていれば済んだが、今は現場に行くと、人の不幸を飯の種にしているのか、このマスコミどもめ、などと言われ、若い記者は悩んでいる。
わが社では京アニ事件から1ヶ月という番組を放送し、実名報道についても取り上げた。放送後、視聴者から「言いたいことはわかったが、京アニの被害者を実名で出す以前に、話題になっていたあおり運転の容疑者のモザイクをとっとと外せ。」と言われて大変驚いた。
我々の考える人権と、世間の人達の意識が乖離してしまっているのではないか。そこを丁寧にやらないと、犯罪者はとっとと顔を晒せというような、過激な意見が広がりかねない。この問題については議論を進めながら色々な形で、実名報道の大切さを訴えて行きたい。

<奥委員長>
先ほど、曽我部委員が、警察の持っている個人情報を無条件で第三者に提供するのは個人情報保護法の問題で難しいといわれたが、これを認めてしまうと、実名にするか匿名にするかを警察が判断することになる。すると、報道機関が持っている役割が十分果たせるのかということが問題になる。
一方でメディアの側も考え方を再構築して市民の理解を得なければならない状況は確かにある。メディアスクラムを起さないようにするかとか、遺族に対しては、何日間かは直接取材しないとか、そういうことを報道機関の中で決める必要はある。しかし、実名か匿名かを判断するのは警察だと認めることはできない。

<廣田委員>
私も奥委員長と同様に考える。日弁連も、実名を報道するか否かは、警察から情報の提供を受けたマスメディアが自らの責任において自主的・自律的に決定すべき事柄であって、警察の判断で匿名発表を行うことは是認できないとの意見である。
大変だと思うが、メディアにはこの状況下でも実名報道の原則を貫いて欲しい。表現の自由は社会の有り様と直結している。どういう社会が望ましい社会なのか考えた時に、何もかもが匿名になってしまうのではなく、名前を出して物が言えるような社会でないといけない。どうか踏ん張って、説明をして、透明性を持って、実名報道を貫いていただきたい。
説明しても放送局の方便だと言われるということだが、社内での悩みを外に出したらどうか。皆さんは、ジャーナリストのプロとして、悩みは外に出さないという発想で来ていると思うが、今社内の議論も外に出して、真剣に取り組んで実名で報じるということを外に出して頂きたい。

<水野委員>
私が大学で接する学生たちに聞いた。京アニの実名・匿名の問題で遺族が匿名を求めたり、警察が実名の発表を躊躇したり、報道機関側が実名を報道することについてどう思うかと。9割程度が匿名でいいと答えた。警察がその判断権を持つのも当然だという意見。メディアの理屈と、普通の人たちの考え方は噛み合っていないと感じる。しかし、解決策のないまま放置すれば、その開きはさらに拡大する。説明の仕方を工夫する必要があるのではないか。
「知る権利」を実名報道の根拠としているが、これは理解しにくい。亡くなった方の実名を知りたいとは思わない。それを知る権利を主張する気もないと言われる。それに対して例えばこのように言ってみたらどうか。報道機関にも悲しむ権利があって、あなた方はそうじゃないかもしれないけど、一般視聴者の中には、実名を知ることによって悲しみたい人もいると。このほうに、少し感情を入れたような理屈で一般視聴者に近い形の理屈付けになるのではないか。
記録を残すために実名が必要だという理屈もあるが、これも突き刺さりにくい。単に記録を残すためではなくて、思い出す権利があると言ったらどうか。ある一定期間経ったあとに思い出して悼むには、実名が必要でしょうと。それは必ずしも遺族だけじゃなくて、関係者、友人、あるいは、その時には全く無関係だった人でも、数年後には当事者にかかわる立場になるかもしれない。その人たちの思い出す権利や悼む権利、悲しむ権利、それらを代表して、自分たちは報道していると。
今までの報道機関の理屈だけを繰り返していては、現状はなかなか改善には向かないのではないか。

<二関委員>
匿名と実名の問題は、情報の非対称性の問題。国家権力や企業は多くの情報を持っていて、一般市民だけが知らされていない。一方で自分の情報は知られているという、そうい立場に置かれる。自分の情報をコントロールする権利が本来のプライバシーの現代的意味だが逆転が進んでいる。情報を出すか出さないかを権力が決めるのはおかしい。

〇続けて「映像の映り込み・ボカシ」について意見を交わした。

<愛知県の放送局>
突然走ってきた男が車のフロントガラスを叩き割り、後日逮捕された。提供されたドライブレコーダーの映像を使う際に男の顔にモザイクをかける局とかけない局があった。
外部から提供される映像については信憑性の問題があるが、この場合には問題ないと判断できた。では果たしてモザイクをかけるべきなのかどうかと。また、例えば立て籠もりの取材で、犯人確保で出て来た時にモザイクをかけるのは多分現実的ではないと思う。

<石川県の放送局>
判断に迷った事例があった。交通事故で、1人がなくなり1人がけがをして救急車で運ばれた。ケガ人が搬送されたシーンを取材して放送した。映像は救急隊員が主で、ストレッチャーが少し映っているような程度だったが、亡くなった方のご遺族から、悲しい映像を流すのはいかがなものかという強い抗議があった。
事故のニュースをを放送するのは、こういう事故を起こしてほしくはないという使命感がある。ご遺族にはいろいろとご説明をして理解は得たが、どこまで事故の悲惨さを伝えていくか悩むところ。

<愛知県の放送局>
広めの映像や、本来の趣旨とは関係ない人が画面に映り込んでいる時にモザイクをかけるケースが増えている。ある程度の配慮は必要だが、どこまで配慮しなくてはならないのか。 人権は進化するというお話もあったが、かつてはそういうことはなかった。面倒臭いことにならないためにやっておこうと放送局の方が自主規制してしまっているのならば、我々の仕事として今後問題を感じる。過去の映像を使用する場合もあるが、過去の映像にも遡ってそういうことを対応すべきかなど。困惑している。

<市川委員長代行>
モザイクやボカシの問題は、先程の実名匿名問題と通底する。法律的に言うとプライバシー権、肖像権の問題。
人権委員会の判断ガイドに沿って言うと、プラバイシーの権利は、69ページ。「本人が、自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考える権利」。肖像権については71ページ「何人もその承諾なしにみだりにその容貌肢体を撮影されたり、撮影された肖像写真や映像を公表されない権利」と記されている。
両方とも「みだりに」という言葉が入っている。色々な事情を含めて評価した上で、これが「みだり」なのどうか、同意のあるなしだけではなく、色々な事情を評価した上で権利侵害になるのかを判断する。
BPOの考え方を一般化するのは難しいが、一つの参考としては、「顔なしインタビュー等についての要望」(444ページ)ここでは、安易な顔なしインタビューについて、理由なく、ボカシを入れたり、顔を切ってしまうやり方はよくない。基本的には報道は真実性を担保するために、ありのままに全てを映すのが原則。したがって、ボカシや、匿名性についても行き過ぎた社会の匿名化に注意を促している。(145ページ)
ただ、一旦プライバシー保護が必要と判断した場合には、徹底して保護をする。モザイクをかけるのであれば、中途半端なモザイク、ボカシではない形にするべきという考え方。
先程の「みだりに」をどう評価するのか。一つの要素は同意の有無だが、撮っていいと明確に示されてなかったからといって権利侵害になるわけではない。しかし、明確な拒否があれば、その明確な拒否を乗り越えるだけの理由や公共性・公益性が必要になる。
その他に場所や状況の問題。公的な場所か、私的な領域か。その場所にいること自体が明らかになることが憚られるような特定の場所か、個人の秘匿性の高いような場所かどうか。さらに、何をしているところかということや時間の問題や。それに加えてテーマの公共性・公益性。こういったものを総合的に考えて、ここは隠す必要はないと判断すればそのまま映すべき。
映り込みについて。同意があったかどうかは明確ではないにしても、公道というオープンな場所で映りこむ場合。そこで映ったことによって何が明らかになるかというと、そこにその人がいたということしか分からない。その人にとっての不利益は大きくない。しかも通過する一瞬のこと。そう考えると、基本的にはその場面をいちいちモザイクをかけたり、ボカシを入れる必要はないのではないか。
一方、加害者や被疑者の場合についてはどうか。原則的には実名で顔出しだと思う。ただ軽微な犯罪の場合でも実名を出すのか。あるいは捕まって手錠をかけられて、引致されていくところをそのまま撮るのかということになると考えるべき点はある。
人権委員会の例でいえば「無許可スナック摘発報道への申立て」(判断ガイド253ページ)のケース。これは風営法違反で捕まった案件で、容疑者の顔や警察に連れていかれるところまで撮影され放送された。ちょっとやりすぎだという判断はあり得る。
被害者の場合も実名で顔出しが原則という基本は変わらないと私は考えている。最近は被害者の権利性が認識されるようになってきた。被害者のプライバシーや遺族の感情を何らかの形で保護するアプローチは必要だと思う。モザイクをかける必要があるかどうかについては、やはり事案による。例えば座間の事件などは殺された女性の遺族等のことを考えると、隠すのもやむを得なかったのではないか。具体的な事情を考えることが必要。
ネットとの関連について。ネットに上げると伝播しやすくなる。放送後、更に1ヶ月とか2ヶ月流れることになるとになると、放送だけの場合とは状況は違う。ネットに上げる場合の処理は、放送とは別に考える場面もあり得るのではないかと思う。

<城戸委員>
各局それぞれに映した理由があるはず。この映像を流すことに意味があると説明ができれば、映していいのではないかと思う。最近過敏になっている方が多い。例えば、街頭インタビューで後ろに映り込んでしまった人から抗議が来るというようなこともよく耳にする。それをぼかしている映像が多いが、それは歪な感じがする。
テレビは時代と共に変化していくもの。街頭インタビューでも、聞いている本人だけでなく、周りに映り込んでいる状況、場所や時間、こういう人たちが周りにいる中で聞いた意見だということも視聴者は受け取っている。受け手としては、周りに映り込んだ人たちも含めて伝えて欲しい事実ではないか。
今はあちこちに防犯カメラがあって、日々暮らしている中でも撮られているかもしれないと、一般の方々も映り込むことに対しての感覚は持っているはず。たまたま映り込んで抗議してやろうという人も中にはいるかもしれないが。カメラが多くある時代の中でどう振る舞うかということも、世の中全体が感覚として持っていて然るべきという気もする。
ある局の方は、只今撮影していますという看板を掲げながら取材をすると言われていた。もうそれが常識なのかもしれないが、気をつけていればそんなに萎縮する必要はないのではないか。抗議があったときに説明ができるようにしておけばいい。

<愛知県の放送局>
モザイクをかけるケースが増えれば増えるほど、逆になぜモザイクをかけないのかというクレームが増える。撮られたくない方たちを映してしまった時は、そのシーンは一切使わないが、全員に許諾がもらえるものではない。例えば渋谷のハロウィンや、湘南の海開きなどの映像にモザイクをかければ、画面の大半がモザイクだらけの映像になる。
もちろん嫌がる方は撮らないし、カメラがあることを明らかにするなどケアはしているが、その他の方はまあ受忍限度の範囲内でとして考えたい。

〇ネットとの関連について

<愛知県の放送局>
誤った情報を流してしまった時など、ネットからも消してくださいと言われる。自社の媒体を消したところで、ネットで拡散したものは消しきれない。誤っていなくても、マイナスの情報は永遠にネット上に残り続ける。そのインパクトの大きさと、報道側の言う実名報道の論拠との間のギャップが、今どんどん広がっていることが一端にあるのではないか。

<二関委員>
放送したものがネットに転載されるケース。これは難しい問題。誤った情報ということで、名誉棄損の問題として考えると、因果関係の範囲のことについての責任という話になるが、消せるとこまで消してもそれ以上残ってしまうことは、ある意味仕方がない。

<曽我部代行>
ネットとの関連で言うと、人権委員会で取り扱った案件で「大津いじめ事件報道に対する申立て」(判断ガイド277ページ)がある。
静止画がネットに載せられたこと自体は著作権侵害の行為なで、放送局は何ら関知していない。この点では放送局にはプラバイシー侵害の責任は問えない。名誉棄損についても同様で、これが標準的な法律論としての考え方。ただ法律論を離れて考えると、元々は放送に原因があるわけで、法的責任はないので知りませんと言えるのかどうか。できる範囲で削除等の協力、努力はするのが望ましい姿勢だと思う。

<奥委員長>
この案件は、テレビではわからないが、少年の名前が画面の端に出ていた。静止画にして拡大すると、実名が分かってしまった。
少年の名前にボカシをかけていれば問題がなかったわけで、テレビで見たら分からなかったといって、それをスルーたのはネット社会の報道の在り方としておかしいのでないかと指摘した。ネット時代なので、そういうことも考えながらテレビも作らなければならない時代になっている。違法アップロードなどネットに流れるものに、テレビ局がいちいち関与はできないけれども、そういう情報の伝わり方についても、頭に入れながら番組を作っていくっていくことが必要な時代だろうということを申し上げたい。

以上

2019年9月24日

福島で県単位意見交換会

放送人権委員会の「意見交換会」が2019年9月24日に福島市で行われた。委員会から奥武則委員長、城戸真亜子委員、廣田智子委員が参加、福島県の放送局7社からは編成や報道、コンプライアンスの担当者など30人が参加し、3時間にわたって活発な意見交換が行われた。

会議ではまず、BPOの竹内専務理事が、BPOはNHKと民放事業者が作った第三者機関で、放送局と視聴者の間の問題を解決するのが目的であり、世界的にもほかに例を見ない日本独自の仕組みであると紹介した。続けて奥委員長が、放送人権委員会は決定文を書くだけではなく、研修会や意見交換会を通して、放送現場の生の声を聴く機会を重視しており、今日は活発な意見交換をお願いしたいと、あいさつした。

意見交換会は二部構成で行われた。前半は、委員が最近の委員会決定とその趣旨の説明を行い、まず奥委員長が第66号「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」に関する委員会決定を、廣田委員が第69号「芸能ニュースに対する申立て」に関する委員会決定を解説し、それぞれ質疑応答の形で参加者と意見の交換が行われた。
後半は、事前アンケートの結果を基に、福島県内で放送や取材の過程で生じた問題や疑問などをテーマに意見交換が行われ、参加者からは、被害者の実名報道や、顔写真・映像の放送に対する家族からの苦情や要望に、どう応えるべきかなどの質問が数多く出された。また、BPOが果たすべき役割について、城戸委員より委員会の目的は「表現と言論の自由を守ること」であるといった説明があった。

◆第一部 委員会決定の説明と質疑応答

第66号「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」に関する委員会決定

冒頭、奥委員長は、1961年3月に起こった「名張毒ブドウ酒事件」の新聞記事などを引用し、当時は人権を問題視することはなく、逮捕された人物は呼び捨て、また「朝食ぺろりと平らげる」などの恣意的な見出しや、手錠を掛けられた写真が堂々と使われていた事を紹介し、この数十年で人権意識が大きく進化してきたことを強調した。
さらに、事件報道には、いつの時代も、どうしても払拭できない「悪」の側面があることも事実であり、事件事故の当事者にとっては、触れてほしくない事実を報道しなければならないとうジレンマがあると述べた上で、「浜名湖切断遺体事件に対する申立て」の委員会の判断についての説明に入った。

●奥委員長
この事案は、2016年7月8日、テレビ静岡が、浜名湖で切断された遺体が見つかった事件の続報として伝えたニュースの中で、「関係者」と表現された人物から、自分は事件の「関係者」ではなく、撮影された自宅も「関係先」ではないなどと、委員会に人権侵害の申立てがあったものです。
申立人の「自宅の映像が放送され、プライバシーが侵害された」との主張について、委員会は次のように考えました。「他者に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄」を、「本人の意思に反してみだりに公開した場合」に、プライバシーの侵害が問われます。この「みだりに」というところが重要で、本件映像を仔細に見るとロングの映像は使っておらず、直ちに申立人宅が特定されるものではありませんでした。表札もちゃんと消されているなど、プライバシーの侵害には当たらないという結論となりました。
次に、委員会が名誉毀損の判断をする時の入り口は、申立人の社会的評価が低下したかどうかです。朝から警察が来て、ワサワサとやっていたわけですから、当日の状況を知る周辺の住民が申立人宅を特定した可能性は否定できない。そういう意味では、社会的評価の低下は、一定程度認められます。しかし、そのニュースが伝えた事実に、公共性とか、公益目的があり、さらに、真実性、あるいは真実と考えるに足るそれなりの理由があるという「真実相当性」が認められれば、社会的評価が低下したとしても名誉毀損には当たらないという判断になるわけです。
これは、浜名湖事件という、特に地元では、大変関心のある大きな事件の続報ですから、ニュースに公共性・公益目的があったことは、はっきりしている。問題は真実性・真実相当性の検討です。ニュースの中では、「関係者」、「関係先の捜索」という表現が使われており、申立人はこれを一番問題にしている。つまり、申立人は事件の「関係者」であったのか、さらに申立人宅は事件の「関係先」であったのかということです。
取材したテレビ静岡は、「何かあるよ」というリークを受けて、警察の車を追尾してこの申立人宅に着いた。そこで大々的に車の押収が行われ、捜査員が外で何やら話をしている場面があり、殺人事件の捜索が行われたと考えたとしても、不思議はないということになり、この点では、真実相当性が認められるということになりました。

では、「関係先」と「関係者」について、どういう表現が適切であったのかということですが、容疑者とされる人と申立人は、一緒に食事をしたり、車を譲り受けたりしている関係ですから、捜査の一環としてその日警察が接触したとなると、やはり「関係者」とか「関係先」という表現以外に、代わるものはないだろうと委員会は考えました。
事件報道の通常の用語として、「関係者」とか「関係先」というのは、特段おかしなものではないということで、最終的に名誉毀損には当たらないという判断になったわけです。
ただ決定の最後に、補足的に意見を付け加えたのですが、申立人宅の映像の使用は、「より抑制的であるべきではなかったか」ということです。つまり申立人宅が、事件の本筋と深く関わるっているものではないことは、時間の経緯とともに分かってきたはずです。ところが逆に、午後の遅い時間、夕方の時間帯になると、申立人宅の映像が増えてきます。これはちょっと問題があるのではないかと指摘しました。

 この問題を考えるのに、最初の話と少しつなげて終わりたいと思っています。事件報道というものは、嫌がる人の話を引き出したりして、隠しておきたいことを聞くというようなことを、どうしてもやらないといけない。そうすると、解決できない問題も生じる。どうしたらいいのか。
結論から言うと、熟練した職業人としての腕と情熱、そして品性を持ったジャーナリストが一方にいて、もう一方には成熟した市民がいて、これが両側から、犯罪報道、事件報道が持っている「悪」の要素を飼い慣らす、順化していく、そういう方向しかないだろうと思います。
「熟練した職業人」という言い方をしましたが、プロの報道者、つまり新聞記者、テレビの記者、番組の制作者、そういう人たちが、「ここまで書いていいのか」、「これは書いちゃいけないのか」、ということをしっかりと判断する。そのとき重要になるのが「品性」だと、私は思っています。
人権というものは、どんどん進化し、変わっていきます。取材する側にとっては、以前はここまで踏み込んでも問題なかったものが、取材される側の当事者からは、大きな人権侵害だとアピールされることが増えています。
その一方で、取材記者・報道記者というのは、そういう新しい社会問題を、発見していく立場にもあるわけです。LGBTで差別されている人がいるなら、そういう問題を発掘する。障害者の差別の問題があれば、それを発掘しニュースにしていく。それによって人権が進化し、深まっていく。そういう立場にあるということを、元新聞記者として、私は痛感しています。
どういうことをやったら人権侵害になるのか、どんなことが放送倫理違反なのか、しっかりと書いてあるものがあるといい、というようなご意見もありましたが、実はマニュアルでは対応できないと思います。
事件・事故というものは、日々新しい出来事で、その都度、何らかの場面で新しい判断が求められます。誰が判断するかというと、個々のジャーナリストが判断するしかありません。マニュアルを超えたものが、いつもあるわけです。そうすると、先ほど「品性」といいましたが、一人一人が、物事の正邪の感覚というか、理非曲直の感覚をしっかりと身に付ける、それが重要だと思います。
少し浜名湖事件を超えた話をしましたが、細部についてご質問があれば、お答えしたいと思います。

<質疑応答>

●参加者
「近所の人が判断できる」というのが、果たしてプライバシーの侵害に当たるのかどうか。もう一点、BPOに「抑制的」と言われると「使っちゃいけない」と思ってしまうが、使わないことは有り得ない。どういう使い方ならよいのでしょうか。

●奥委員長
今回の場合は、近所の人は、「誰々さんの家で、今朝あったあれだな」と分かっただろうと思わざるを得ない。それと、ニュース全体の中での「関係者」「関係先」という表現を巡るつながりの中で、忌まわしい殺人事件と関わりがある人だなということで、社会的評価は一定程度低下したと考えられます。
しかし、警察は家の中までは入ってはいないが、車を押収したという事実があり、それが浜名湖事件全体の捜査の一環であるということは間違いないので、そのレベルで考えると、近所の人がニュースを見て「あの人の家であったことだ」と言ったとしても、それは、ある意味で仕方がないということです。
もう一つ、「抑制的に使うべきでなかったか」というのは、テレビ静岡がリークされた情報を元に取材活動をして、いわば特ダネ映像として、あの現場を撮影したわけです。ですから映像として使うというのは全然問題ないのですが、朝から夕方まで取材が進むうちに、「ここは事件の本筋の場面ではないな」というのは、取材者としては分かってきたはずです。しかし実際は、別の車が押収される場面も、申立人宅の映像と合わせて使っている。それはちょっと行き過ぎじゃないのという話です。

●城戸委員
「関係先」という言葉は、ニュースの原稿などで普通に使われますし、使わないとしたらほかに何ていえばいいのか、皆さん疑問に感じていると思いますが、放送に携わっている人が思う常識的な言葉と、一般の人がテレビを見て感じるのはちょっと違うのかなと思います。自分のことを、「あなた関係者でしょ?」と言われたら、どう感じるでしょうか。みんなが当たり前に使っているからいいのではなく、言葉を使う人間として、ほかの言葉はないのかと考えることが必要ではないのかなと思います。例えば、「接点のあった人の」とか、いろいろ考えられると思います。そういう責任のある仕事をしているのだという自負と自覚、その両方が必要だと感じました。

第69号「芸能ニュースに対する申立て」に関する委員会決定

対象となった番組は2017年12月29日の21時から23時までTBSが放送した『新・情報7daysニュースキャスター』という番組の2時間特番で、2017年の芸能ニュースをランキング形式で取り上げ、その14位として、申立人の細川茂樹さんの所属事務所との契約トラブルについて伝えた。その中で、契約解除の理由が、あたかも申立人のパワハラにあったと強調するようなナレーションや編集がなされ、人権が侵害されたなどと委員会に申立てがあった。

●廣田委員
この事案の特徴として、申立人の被害感情が非常に強かったという点があります。この事案の理解のために、なぜ申立人が、そのように強い被害感情を持つことになったのか、背景事情を説明します。
放送の1年前の2016年12月、申立人は所属事務所から債務不履行を理由とする契約解除通知を受け取ります。申立人は年明けの1月には、専属契約上の地位にあることを仮に定めることなどを求めて、東京地裁に地位保全の仮処分の申し立てを行い、2月にそれが認められました。そのころ数多くのテレビ番組で申立人の契約解除が取りあげられており、申立人は各局に抗議を始めていました。TBSにも接触し、この番組の通常の放送では、申立人の仮処分申請が認められたことを伝えています。そして5月7日に申立人の事務所との契約は、事務所の解約申入れにより終了します。その後は、9月にTBSの別の番組スタッフと申立人が代理人と共に面会しています。申立人の抗議に対しては、別の在京キー局が12月になってホームページに謝罪コメントを掲載し、同様の動きは他局にも広がりつつありました。
申立人としては、自分が受けたと考える被害の回復に自分で努力をしているときに、この放送があったとしており、委員会も決定の中で、「申立人のそれまでの努力に冷や水を浴びせるものとも言える」と表現しています。
これに対してTBSは、「言葉足らずで、誤解を招きかねない部分があった。申立人に謝罪すると共に、ホームページ、あるいは放送を通じて視聴者に説明します。しかしながら、申立人を意図的に貶めようと放送したとの主張は全くの誤解である。仮処分決定に言及しなかったのは、短い放送の中で制約があったことに加えて、仮処分決定でパワハラの存在が否定されたわけではないと理解していたから」と答弁しています。
委員会がまず考えたのは、放送は何を伝えたのかです。申立人の被害感情や、放送局の意図がどうあれ、一般視聴者にはどう伝わったのかが重要です。
この部分の判断は、番組のナレーションでは、一般視聴者は、パワハラを理由に契約終了になったと理解する可能性もあるが、そうでないと理解する可能性もあり、ナレーションそのものからは確定できない。テロップは、パワハラが存在したことを断定しているとは言い難いが、赤文字でパワハラが存在したことを強調しているように見える。このナレーションやテロップに先立つ申立人を紹介するVTR映像には、「何を言われようとやんちゃに生きていきますね」という発言があり、パワハラが実際に存在したという印象を強める効果を持っている。
総合的にみて、本件放送は、申立人がパワハラを行ったことを断定しているとまでは言えないが、一般視聴者には、そうした疑惑が相当程度濃厚であると伝わった。よって、申立人の社会的評価を低下させるという判断になりました。
社会的評価の低下があれば、通常は免責事由として、公共性、公益目的、真実性、真実相当性があるのかどうかということを検討して、名誉毀損となるのかどうかを考えるのですが、本件の場合は、ナレーションとテロップは、重大な言及漏れがあるものの、概ね真実です。申立人が強い被害感情を抱くのは無理のない面もあるが、放送局に申立人を貶める意図や悪意があったわけではない。そして、TBSは当初から一定の問題点を認めて、解決に向けて協議に応じる意向を示していたが、申立人の過大な要求があって協議が頓挫していた。協議がまとまっていたなら、早期に被害回復措置が取られる可能性もあったと思われ、本件については放送倫理上の問題として取り上げる方が、BPOの目的である、正確な放送と放送倫理の高揚への寄与のために有益であると判断しました。

では具体的に放送倫理上の問題としてどのようなものが考えられるのか。ひとつは、仮処分決定に言及がなかったこと。司法の場に持ち込まれるほどの紛争トラブルの事案を扱う際に、特に求められる公平、公正性、及び正確性を欠くことになった点については、放送倫理上、問題があると判断しました。
次に、8年も前の「やんちゃ発言VTR」を使ったことについて、放送局は、男らしさ、気風の良さといった申立人の人柄を端的に表しているVTRを使用したまでで、悪意はないと述べていました。しかしこの放送の文脈の中で使われた場合に、視聴者にはそう理解することはできず、パワハラが疑惑ではなくて、実際に存在したという印象を強める効果を持っていると考えました。つまり申立人の名誉や名誉感情に対する配慮が不十分で、放送倫理上の問題があると判断しました。
また、仮処分決定後の事情について、事後的な確認がされておらず、本件番組とは別のTBSのスタッフが申立人と面会をして事情をよく知っていたという点や、他局のホームページに謝罪コメントが本件放送の前に掲載されていたという点について、申立人は強く問題としていますが、これについては、放送倫理上の問題があるとは言えないという判断になりました。

この話の中で普遍的な問題として、皆様の番組作りにも生かされると思うのが、追加取材の重要性です。最近では、問題が起こると、第三者委員会などが組織されて、調査結果が発表されることが多くなっています。その調査結果を皆さんもニュースとして報じられると思いますが、その結果に納得のいかない当事者が、裁判に訴えたり、新たな調査委員会が組まれるなどして、のちに事態が変わることがあります。そこで追加取材をせず、前に放送した内容をそのまま流してしまうと、新たな人権侵害、名誉棄損の問題を起こしてしまいます。名誉棄損の免責要件の一つである真実相当性は、それぞれの放送時点で判断されるので、以前の報道に再び触れる時には注意が必要です。
この番組、年末の2時間の特番ですが、単に噂話のようなものをランキングで見せるというものではなくて、長いインタビューコーナーがあって、その年の顔であった野村克也元監督や、市川海老蔵さん、ビートたけしさん、デビ夫人らの生き方を深く聞いている大変面白い番組でした。その中で、本文ではなくいわゆる見出しの部分の「アバンVTR」でこういうことが起こってしまうと、本当にもったいないと思います。チェックする方はきちんとチェックして、いい番組を作っていただきたいとしみじみ思いました。そのうえで、実際に番組を作る現場の人たちは、萎縮したりしないで、とにかく面白いもの、人をびっくりさせるようなもの、自分の作りたいものをのびのびと作って欲しいと切に願っています。

<質疑応答>

●参加者
アバンのVTRの中では、なるべく短くて、視聴者に興味を持ってもらえるような表現をするのが、ある意味作り手の腕の見せ所だったりすると思いますが、例えばアバンの中ではそれが端折られているけれども、番組の中ではしっかり補足されていれば、どうなのでしょう。アバンでもそういったところは全て網羅されているべきなのでしょうか?

●廣田委員
TBSの方も、短いものの中で「仮処分が…」とかいうと、仮処分が何かも説明しなければならなくなるし、中途半端に言ってしまうと、余計分からなくならないかと言っていましたが、やはり抜かしてはいけないものであったと思います。いくら短くても、そこは工夫するしかないのかなと。

●奥委員長
細川さんの話は、あれが全てであとは全然出てきません。確かにあの時間内で、仮処分について触れるのは、なかなか難しいですよね。でも、もう少し工夫はできたと思います。やはり裁判まで争って細川さん側の申立ては認められているわけだから、それにメンションしないというのは、「言葉足らず」という軽い表現で済ませることではなかったと思います。

◆第二部 アンケートを基にした意見交換

主なテーマは以下のとおり

  • 福島県内でこれまでに人権が問題となった事案
  • 被害者の実名、写真を報道することについての視聴者反応
  • BPOはどういう存在であるべきか

●参加者
2018年11月に発生した小野町の火災で、亡くなった方の写真を放送したら遺族から苦情があった。この件に限らず、最近、事件、事故に巻き込まれた被害者の顔写真を使うと、家族や親戚からお叱りを受けることが多い。特に写真はネット上に残るので、それに対する拒絶反応が強い。どう対応すればよいのか。

●奥委員長
事件・事故の被害者の顔写真を新聞やテレビ報道で使うことは、以前と変わらないと思いますが、遺族など載せられる側の意識が大きく変わってきました。取材側に求められることは、原点に帰って、なぜ顔写真が必要なのかをしっかり考えたうえで使うということです。
遺族や関係者から文句が出ることも、ネットで叩かれることもあるだろうが、しかしこのニュースにはこの顔写真が必要だということを考え、確信して、仕事をするしかない。そして必要であれば使う。
実際に、顔写真が出るのと出ないのでは全く違う。そのニュースの持つ重みはそこにかかっている。後でどう言われようが、顔写真が必要なニュースには顔写真は付ける。それしかないでしょう。

●参加者
被害者の写真を報道で使ったことが人権侵害だとBPOに持ち込まれた場合、どういう判断になるのでしょうか。

●奥委員長
そのニュースの論点、公共性とか公益目的、真実性とか真実相当性を検討して、最終的に判断せざるを得ない。もちろん取材のプロセスとか、事案の具体的な内容にもよります。嫌がる写真を強奪してきたとかであれば、話は別ですが、そうではなく、正当な方法で入手し放送で使ったことが、人権問題を構成することはないと思います。

●参加者
事件事故の現場の近所から顔写真を入手することが、人権問題になることがありますか。

●廣田委員
それもやはり、入手の仕方によります。たとえば、意図を伏せて、きちんと説明をしないで入手し放送すると問題になると思います。

●参加者
カメラを持った取材クルーが、「この近所で事件があって、誰々さんの写真を探しています。放送に使いたいので映させてください」とお願いして入手したものが、問題になるようなことはありますか。

●奥委員長
取材の過程は正当なわけですから、それが人権問題を構成するとか、あるいは放送倫理上の問題が発生するとは、私は思いません。

●廣田委員
写真を放送した後に、ご遺族から、こういう理由でやめてほしいという申し出があり、しかも何度もあったにもかかわらず、ずっと使っていたというような状況であれば、写真を何回も使う必要性があったのかという検討をすることになると思います。

●参加者
座間9遺体事件で福島県内の高校生が犠牲者とわかり、家族に取材を行った。別居していた父親がインタビューに応じたため、取材は父親に集中してしまった。しかし母親が、別居中の父親の反応を不快に思っているとの情報が入り、以降抑制的に使うことになった。たとえば家族の中で意見が違う場合、どのように対応すればよいでしょうか。

●奥委員長
やはりそのインタビューがこの事件を報道するのに必要で、非常に大切な部分であるのであれば、夫婦の問題とか、母親との関係があったとしても、ある程度使わざるを得ないと思います。そういう背景があったということで、使い方を抑えていたという判断はよかったと思います。マニュアルがあるわけではなく、その時取材した人間の感覚を大事にして、判断せざるを得ないと思います。

●廣田委員
座間の事件の時に、弁護士会のなかでも、「ご遺族にもさまざまな意見があり、家族を取材しないことにはわからないわけだから、それをあるご遺族がこう言ったからと全部決めることはできないのではないか」というのが話題になりました。
やはり、ご遺族のご要望があったとしても、これは実名で報じなければならないと判断されるのであれば、実名で報じて、なぜ自分たちが実名で報じるのかをしっかりと説明することが求められると思います。
また、人がどんどん匿名になって行く一方で、監視カメラが町中のあちこちに付いていて、誰が何をやっているかがすぐにわかるような状況になっている。そうした現状の中で事件を報じる時に、実名であるべきなのか、匿名にすべきなのかを考えるには、どういう社会であるべきなのかということも意識する必要があると思います

●参加者
県内の交通死亡事故で、記者が入手した防犯カメラに映った事故の映像を放送したところ、亡くなった男性の息子さんから、父親が死亡する瞬間の映像を流すのはいかがなものか、また家族に許可は取らないのかというクレームが入った。基本的に許可は必要ないと思っているが、このケースでは自宅を訪ね、放送する意味を説明し、納得いただいた。街中に映像がある一方で、それを放送に使用することについては、いろんな意見が寄せられる時代になった。説明責任を果たすことが重要だと、勉強になった。

●奥委員長
防犯カメラや監視カメラの映像を使用するのに、映っている人やその家族の許可がいるのかという問題がひとつですね。これは、映像の中身に依存する。交通事故の場面が、相当リアルで悲惨な状況であるような場合は、遺族は嫌がるだろうし、使う場合は許可を取る作業が必要になることもあるでしょう。ただ、一般的に、必ず許可が必要ではないと思います。ケースバイケースです。
もうひとつの問題は、視聴者から苦情が来た時に、テレビ局の担当者が、最初にどのように対応するかということで、これは実はすごく大きい。電話でやり取りするだけじゃなくて、実際に行って説明するという、大変丁寧な対応をされたわけで、こういう対応が重要なのだと思います。

●参加者
一般の人が撮ったスマホの映像は、監視カメラの映像と同じように借りてきて使っていいものなのでしょうか。

●奥委員長
たとえば台風の被害がいろいろなところで発生している時に、視聴者が撮った映像がある。あとからテレビ局のカメラマンが撮った映像よりも、もっとリアルであると。それは当然使うべきだと思います。
ただし、本当に間違いなくその映像なのかどうかを、撮った人に確認する必要があります。これも結構面倒な作業ですけれども、その出来事の全体像を伝えるという意味で、そういう映像は貴重な情報で、使うことに尻込みする必要はないと思います。

●参加者
フェイスブックやツイッター上に上がっている写真を、「緊急性があるから」と使っていいのかについてはいかがでしょうか。

●奥委員長
フェイスブックとかは、基本的には公開されているわけですよね。公開されている情報なのであって、様々な形で確認する作業は必要ですが、私は使っていい、使うことは仕方がないと思っています。
そもそも、フェイスブックとかに上げている人は、それが公開の情報だとわかっているわけでしょう。その公開されているものを使うのは、いわばコモンズですから。あまり問題はないと私は思います。

●廣田委員
皆さん既にやっておられますけど、「フェイスブックより」という断りを入れたりしますね。そのように、出典を明示して使うといいのではないかという話をした時に、そのフェイスブックに「これは自分の知り合いに向けたのものだから、第三者が勝手に使うことを禁止します」という文言を入れたらどうなのか、という質問がありました。その場合は、慎重に使わなければいけないことになるのだと思います。

●参加者
フェイスブックに限らず、いろんなものを、報道目的で引用することがあると思います。例えば、「私の知り合いのために見せるためだけのもの」と書いてあっても、緊急性のある報道引用として使うということについては、いかがですか。

●廣田委員
それは、掲載してよいのだと思います。もしそれが問題になったら、「自分たちはこういう必要性を持って、その写真を使ったのだ」ということを説明する。あとはその使い方の相当性の問題になっていくので、その写真がどういう状態で使われたのか。例えば、苦情が出た後もずっと使っていたとか。要は、報道機関の方が「これは必要だから使うのだ」と思ったら、その責任と覚悟の下に、使って報道するしかないと思います。

●参加者
そうすると、なぜ伝えるのか、なぜ実名なのか、公共性があるのか、その辺がBPO的に見ても大切になってくるということでしょうか。

●廣田委員
実名を言うことによって、予測される被害と、言うことの意義というのを、比較衡量することになるのだと思うので、なぜ実名なのか、なぜこれを報じるのかというのは、コアなんじゃないかと私は思います。

●参加者
街頭インタビューに答えた方から、やはり放送しないでほしいと言われたことがありました。
郡山市民の歌の取材で、歌をご存知の方をようやく見つけインタビューしたのですが、撮ってからできれば使わないでほしいと言われました。短い秒数でいいので使わせてほしいとお願いしたのですが、少しやり取りが曖昧になってしまいました。取材直後の放送は、仕方ないかなと思っていたとのことですが、2ヶ月後にまた別の番組でこの情報が放送され、クレームの電話が入りました。使って欲しくないと伝えたにもかかわらずなぜ使うのかと。電話でお話しさせていただき、取材時のやりとりに曖昧な点があったことや、聞いていたのに2度も使ってしまったことを丁寧にお詫びし、納得いただけました。

●司会
東京や大阪の局では、インタビューした人に、放送の承諾書をもらうことが多いと聞いていますが、各局ではどうなのでしょうか。

●参加者
承諾書は取っていませんでした。もし承諾書も取ったうえで、やはりやめてほしいという相談があった場合は、どうすべきでしょうか。

●奥委員長
テレビの取材だということを明示して、カメラを回しているという状況の中でインタビューに答えているわけですから、それが放送されることについては、その当人は納得していると考えていいと思います。ただ、当たり前ですが、何を伝えるにしても、曖昧なのはいけません。
インタビューするときに、これはどういう番組で、どういう取材だということはしっかり明示する必要があります。そういうことを名刺の裏に書いている取材記者もいましたよ。そういうことも必要だと思います。

●廣田委員
カメラの前でインタビューを受けたのだから、そこで承諾があったのは当たり前ということに対しては、それを使わないで欲しいという人はおそらく、「インタビューを受けたときは突然だったので、テレビカメラを向けられて舞い上がってしまい、使ってもいいと言ってしまったけれど、あとから落ち着いて考えたらやっぱり嫌だ」ということだと思います。しかし承諾したのは事実なので、そこは局の方に説得していただくしかないと思います。一度承諾しても撤回がまったくないわけではないので、場合によっては使って欲しくないという連絡が来たら、尊重しなければならないこともあると思います。

●参加者
原発事故で自主避難した中学生が避難先で頑張っている姿を系列局が取材し放送した際、いい内容だったので福島でも放送させてもらったら、当人から、「まさか福島県で放送されるとは思わなかった」と電話がありました。故郷を捨てたような形で避難しているのに、友達がどんな感情でみたか不安を覚える。もう放送してくれるなということでした。
ホームページ上のニュースにも原発被災関係としてあげていたので、それも消さないといけなくなりましたが、自社だけでなくキー局や系列局にもアップされていて、今や全てのデジタル情報を消すことは難しい状況でした。

●奥委員長
あのような大きな事故ですから、個々にいろんな状況が発生しているわけで、それぞれ個別のケースをどうニュースにするか、どう番組にするかは、すごくセンシティブな問題であると思います。

●廣田委員
私は、強制避難になった地区の皆さんの弁護団の一員として、たくさん話を聴いていますが、皆さん罪悪感みたいなものを持っておられる。ほかの人が地元で頑張っているのに、自分はそこから避難しているとかですね。けれども、誰もがそれぞれの家族の事情や、自分自身の事情を抱えて暮らしている。そこにすごく複雑な感情があるのだと思います。

●参加者
それ以降は他の県で頑張っている方の特集とかを放送するときには、福島県で放送することの了解を得てくださいってことを、お願いして放送するようにしています。ここでひとつ学んで、その後は気を付けるようにしましたが、その時は、秋田だったと思うのですが、そちらで放送されたからそれはOKだろうと勝手に判断していました。

●城戸委員
多分今後も、似たようなケースが出てくると思います。番組を作る側としてはよかれと思って頑張っている姿を紹介したつもりでも、もしかしたら我々には計り知れない、思春期の女の子の感情や、被災地に住む人たちの人間関係というのがあると思うので、非常に難しい問題だと思います。
この場で発表していただいたことによって、他の局で同じようなことが起きた場合にどうするか、もう1回許可を取るとか、そういう心構えができたかなと思いますし、我々もそういうことを学べて大変いいお話でした。ありがとうございました。

●参加者
ラジオ局ですが、番組のSNS、ツイッターとかフェイスブックを立ち上げていますが、そこでリスナー同士の言い争いが、かなりエスカレートしてしまうことが起きています。
番組に苦言を呈したリスナーがいて、それを別のリスナーが窘めたところ、今度はその人を攻撃したりして、リスナー同士がSNS上でケンカをしているような状態です。局や番組としては、どうしたらよいでしょうか。

●廣田委員
そのSNS自体を管理しているのは局になるわけですよね。そうすると、そこであまりにもひどい、明らかな誹謗中傷とか、プライバシーの曝露とか、明らかな名誉棄損のようなことが起こっているのを放置していると、SNSを管理している局側に、その責任が発生してしまう可能性があります。通常のリスナーの方同士のバトルも、それが違法というレベルまで達したときには、やはりなんらかの手立てをとらないと、管理者責任が問われることになりかねないと思います。

●司会
ツイッターとかのSNS上ですので、局管理とはいえないような気もするのですが。

●廣田委員
局や番組の公式ツイッターの中に書きこんで、それを管理しているのが局なり番組であるなら、名誉棄損とか、プライバシー侵害とかに発展し、それをそのまま放置していると、局に責任が発生する可能性はあると思います。

●城戸委員
個人への中傷とかは削除しますみたいな、ルールというか但し書きを明示するとよいのではないでしょうか。

●司会
事前アンケートで、「BPOはもう少し放送局に寄り添う側面があってもいいのではないか」というご意見をいただきましたが、なぜそう思われたのでしょうか。

●参加者
最近、局に入るクレームで、よく「BPOに訴えるぞ」と言われるようなことがあります。そう言われると、若い記者やスタッフの中には、萎縮して、真実を追究する前に、「これ以上突っ込むと、トラブルに巻き込まれそうだからやめておこう」と、引いてしまうことがあります。しっかり取材を尽くしたうえで、どう放送するかが大切だと指導はしていますが、人権意識がますます高まる中で、BPOは厳しいことを言われるところでもありますので、そのように思ったこともありました。ただ、今日お話を聞いて、「BPOの存在には、こういう意義があるのだ」と、改めて感じております。

●城戸委員
「寄り添う」と言ってしまうと、肩を持つみたいになってしまうので、言葉選びが難しいところではありますが、あくまでもスタンスは中立ということです。
でも、表現・言論の自由というのは、やはり保たれないとダメだと思います。例えば権力に屈するとか、遠慮するとか、つまり萎縮して取材ができなくなってしまっては、放送局としての意味がないと思いますので、人権は保護しつつも、萎縮せずに、より魅力ある番組を作って欲しいと、委員会としてそう考えています。
特に、今、ネット上でフェイクニュースが横行して、何の責任も持たずに、言いたいことを言っているような、そういう情報が飛び交う中で、放送局として、見ている人に正しい情報を伝えることは、すごく意味のあることだと思います。
BPOがどういう存在かということですが、放送は公共性と社会的影響が大変高いメディアですから、世の中の様々な出来事を人々にきちんと伝える責任がある。きちんと伝えるためには、放送はどうあるべきかを考え、言論と表現の自由を確保するために、委員会があるのだと思います。
ご存知のとおり、この放送人権委員会は、個人から「私、被害に遭いました」という申し立てがあって、初めて動きだすという委員会です。放送する側も、意図して人を傷つけるということは、まずありませんが、日常の放送の中で、「こんなに小さく写っている人の、ちょっとした一言だからいいのではないか」みたいな、ある意味慣れのようなことから、人を傷つけてしまうようなことを含めて、その放送の中身を第三者的に、中立的な立場で審理していくというのが、この委員会です。
奥委員長が、お手元に配った冊子の「はじめに」のところで、「放送の自主と自立をサポートするのが、この委員会の役割だと思っている」ということを書かれていますが、まさに、そういう存在だと思っていただければいいのかなと思います。

●奥委員長
「最近のBPOは、テレビ局に寄り添い過ぎだ」という批判があります。「BPOは放送局に対して、もっと厳しく当たるべきではないか」という意見が、世の中にはむしろ多いようですが、テレビ局の側からすれば、こんな小さな問題を取り上げて、放送倫理違反だとか、人権問題だとか言うのか、という考え方ももちろんある。
人権という問題が、かつてよりもずっとセンシティブな問題になってきているので、報道する側、番組を作る側がそのことを自覚していないと、いろいろな批判が起こるのは、どうしようもないことだと思います。
ただ、一方で、アグレッシブに、新しい社会問題を発掘したりすることもメディアの役割です。権力批判だけが、その役割ではないのです。例えばバラエティ番組で、いろんなことをやって、楽しい世の中を作っていくこともすごく重要で、役割のひとつであろうと思います。
委員会もそういうことを考えていますが、決して、放送局とは同じ意識にはならないということですね。同じ意識にはならないというのは、「人権侵害があった」と言って訴えてくる人に、とりあえずは耳を傾けなくてはならないという組織だからです。そこは、理解していただくしかないと思っています。
委員会決定を読んでもらうとわかると思いますが、大体いつも放送局に対してはエールを送っています。「いい番組ではある」とか、「優れた調査報道ではあるが」とかね。そういうところを、読み取っていただければ幸いです。

●廣田委員
私は「寄り添う」のではなくて、委員としてひとつひとつに「向き合って」います。番組を作る方は真剣に作っておられるわけですし、それに対して、「自分がこんな辛い思いをした」と言ってくる人は、単なるクレームの枠を越えて、申し立てというところまで来ているわけですから、その人の思いとか、被害にも、きちんと向き合わなければいけないし、作っている方たちにも向き合わなくてはならないと思っています。
そして「人権侵害だ」と申し立ててきた人に対して、「人権侵害ではない」と言う時には、ヒアリングでその人が言ったことを思い出して、すごく苦しい気持ちになります。
いいものを作ろうと頑張っている放送局に対しても、「これは放送倫理違反ですよ」、「これは人権侵害ですよ」と言うことも、やはりそれなりの痛みを感じながらやっています。
表現の自由とか、自由な取材とかは、ある意味誰かの権利と、抵触を起こしているのだと思います。だから、そういう放送を扱う方たちが、日々真剣に向き合っているように、それを判断する者としても、「被害にあった」と訴えている人に真剣に向き合うし、取材して番組を作っている人にも真剣に向き合って、表現の自由を守るためにはこういうものが必要だという結論を出して、ご理解をいただく以外にはないと思っています。とにかく、誰もがみな、何か痛みみたいなものを抱えながら、真剣にやっていくしかないのでないかと思っています。

●参加者
京都アニメーション事件の実名報道に関するご意見を、ぜひ聞きたいと思っています。局内でも議論しましたが、実名や顔写真の報道によって、リアリティや、人が生きた証みたいなものを伝えることができるのではないか。また再発防止という意味からも、実名で報じる意味があると考えています。そのためには、目の前に座っている記者に、「この人だったら話してもいい」とか、「写真を出してもいい」とか、そう思ってもらえる取材が必要だと思っています。
京都アニメーション事件では、大阪の局は、メディアスクラムを避けるために、代表取材方式をとりました。また、弊社の系列では、被害者の名前が公表されたときには、全部出したけれども、2回目以降は家族が望んでいない場合は出さないという配慮をしています。実名報道というのは、そういう配慮をもってやっていくべきなのかなと考えます。

●奥委員長
京都アニメーションの事件は、事件報道、実名報道という意味でも、非常に新しい次元を開いたのではないかと思っています。警察の対応、メディアの対応、いろんな意味で、悪くはなっていないのだなという感じがしました。
遺族が、実名にしたくないという大きな理由の一つは、メディアスクラムではないかと思います。メディアスクラムで、洗いざらい取材をされるのは嫌だということですね。そういう状況を作らないために、メディアの側でどうするか、自主的な取り組みをすることが重要です。

●廣田委員
被害者の実名報道については、弁護士会の中でもいろんな意見があります。私は「遺族がだめだと言っているのだからだめだ」という意見には、反対の立場ですけれども、ただ、ご遺族や実名報道に反対する弁護士たちが言っていることの中で、「そうだよね」と納得することが一つあります。
それは、「実名にする必要があるとしても、最初から実名でなくてもいいのではないか。実名で報道すべき関係性とか、関連性がわかった段階になってから、実名で報道するのでは遅いのですか」ということです。
また「せめて、お葬式と初七日が終わるまでは待ってもらえないか」という話が出た時に、あるメディアの方が、「初報というのがすごく重要で、一般の関心が集中している時に実名を出し、2回目、3回目以降は出さないようにする」と説明されていました。でも、このネット社会では、1回出てしまうと、後からどんなに匿名にしたとしても消えずに残ってしまうので、やはり「なぜ最初から実名でないといけないのか」という意見には、かなり説得力があると思います。

●司会
今日は、長時間ありがとうございました。ぜひ今後の番組作りに生かしていただければと思います。

以上

2019年1月29日

近畿地区意見交換会

放送人権委員会の「近畿地区意見交換会」が1月29日に大阪市で開催された。BPOからは、濱田純一理事長をはじめ放送人権委員会の奥武則委員長ら委員9名全員が出席し、近畿地区の民放15局とNHK近畿地区の放送局から90名が参加して3時間30分にわたって行われた。
意見交換会では、まず濱田BPO理事長が「BPOとは何か」と題し、「BPOにおいて、第三者が決定をしてそれで終わりではなく、あるいは第三者に丸投げして解決をしてもらうということでもなく、あくまで放送に関わる人たちが自律をするということ、それが根幹」だと強調した。
続いて奥委員長が、放送人権委員会の役割と「沖縄の基地反対運動特集に対する申立て」(人権委員会決定第67号)に関する委員会決定について、さらに市川委員長代行が、「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(決定第63・64号)に関する委員会決定について説明し、それらを基に参加者と意見を交わした。また、参加者への事前アンケートで関心の高かった近畿地方での刑事事件2件についてとりあげ、被害者の実名報道や顔写真使用の是非、未成年の被害者に対する報道実態などについて質疑応答を行うなど、有意義な意見交換となった。

【BPOとは何か】

●濱田理事長
私からは、BPOが持つ意味や精神と、ジャーナリストの皆さんたちに期待したいことを簡単にお話します。
私は、「BPOは、市民社会における問題解決の望ましいモデルだ」というふうに言っています。社会の中で紛争が起きても、公的な力で解決するのは究極の方法で、一番いいのは自らの手で解決をしていくことです。それを実現しているのが、BPOという組織だということです。
BPOはよく、「自主規制機関か、第三者機関なのか」と聞かれますが、私は「BPOとは、第三者の支援を得て自律を行う仕組みだ」と考えています。つまり、重点は自律にあります。第三者が決定をして、それでお仕舞いではなくて、あるいは第三者に丸投げして解決をしてもらうことではなく、あくまで放送に関わる人達が自律をするということ、それが根幹です。それを第三者が助けていく、そういう構造だと思います。
大切なのは、そういう意味で自律が機能するということで、そのために、案件について委員会の判断が出たあとに、3か月経ってどう対応がなされているかといった「3か月報告」であるとか、あるいは案件が生じた局に対する「当該局研修」であるとか、あるいは今日のような「意見交換会」であるとか、あるいは毎年開催している「事例研究会」であるとか、「講師派遣制度」であるとか、こういったいろいろな仕組みがあります。ですから、裁判所のように、とにかく決定が出ればそれでいいという話ではなくて、委員会の判断を巡るさまざまな消化や議論の機会があって、それらが全体として、このBPOという自律の仕組みを機能させている、ということだと言えます。
したがって、委員会が決定等を出しまが、その読み方も、ともすれば数行を読んで「あ、決定の結論はこういうことだな」と頭に入れてしまうことが多いのですが、大事なことは、その決定についてどちらが勝ったか負けたかではなくて、どういうポイントをどういう筋道で考えなければいけなかったのか、そういうことをあらためて振り返ってみるためのメッセージが、その決定の中には含まれています。そうしたところを是非、読み取っていただきたいと思います。
なにか"べからず集"を作って、そのマニュアルに従っていれば、それで物事がスムーズに運ぶということではありません。何かルールを決めて形式的に物事を処理するのは、ジャーナリズムの本質、あるいは表現する者の本質に反することだと思います。決まっていることであっても、それをあらためて、それはどうしてかと、これでいいのかと、そういうことをしっかり考えるのが、表現に携わる者の姿かと思います。そうしたことを考える場として、今日のような機会も設けられているわけですが、こうした場では当然、いろいろな議論が出てきます。厳しいやり取りが出ることもあります。そのときに、お互いに信じ合わなければ議論というのは成り立たない。つまり、ジャーナリストの皆さん方、あるいは委員の皆さん方、それぞれに良心を持って、放送というものをよりよいものにしようという同じ思いを持って対話をしている、ということを確認し合う。そのようにお互いを信頼しながら率直な議論をして、問題をさまざまな角度から眺めて見ることがとても大切なことだと思います。
このBPOの各委員会は倫理の問題というものを取り扱います。で、何人か法律の専門家が委員にもいますが、ちょっと気になるのは、倫理ということをあまり強く言うことで、法律で規制されていないものまで何か自粛しなければいけなくなる、そういう問題はどう考えればよいのか、ということです。法というのは倫理の一部で、倫理を守るというのは法的制裁より広い範囲を意味することになりますが、あえてそういう幅広い倫理というものを自分達が守ろうと、それを巡って議論しようというのは、結局、自分達が持っている自由の質を高めていこうと、自分達の職業倫理というものを確認することで、自分達が放送人であるという自覚を高めていこう、そういうアプローチだと思います。ただ法律を守ればいいということではなくて、倫理というものを常に考えることによって、自らの職業、自らの役割というものの重さ、尊さ、そして作法というものを考えていく、これがとても大事なことであり、それがあってこそ視聴者の信頼を得られるのだと思います。
結局、そうした倫理を支える原点にあるのは、放送人としての誇りであり、緊張感です。そういうものがなくなってしまうと、いくら自由だ、自律だと言っても、社会的な役割は果たせない。そうした誇りや緊張感、そういうものを思い起こしてもらうのが、このBPOの役割だと私は思っています。
今日、一つ付け加えておきたいのは、BPOには青少年委員会もあって、その前委員長である汐見稔幸先生が、ちょっと面白いことをおっしゃっていました。今の子ども達は「スマホ的個人」と言われるようなものになってきている。つまり、自分が思ったことを、とにかく他人に伝えたい。ほかの人から何やかや言われるよりも、あるいは議論するよりも、とにかく言いたいことを言いたい。自分の言っていることが正しいかどうかということを振り返ってみることを、ちゃんとしない。スマホ世代というのは、そういうリスクをもつ傾向があるということを言っているわけですが、元々、表現というものはそういうものではないだろう、お互いに、より説得力があり、より実証性のある論理を懸命に組み立てて、それを即座にその場で論敵も含めてお互いに評価し合うという知的空間、こういうものがあるというのが本来の表現の場だということ、これをスマホ的個人というものに対置して語っておられます。
私は、ジャーナリズムも基本的にそのように双方向的なものだと、あらためてこの言葉を読んで思いました。特に最近、放送の役割、あるいはマスメディアの役割と、インターネットでの表現の役割、そこの差はいったい何なのかということが議論になることがありますが、その差というのは、まさにここにあるのだと思います。放送人の皆さまには、「スマホ的個人」にはなってもらいたくない。常に対話と緊張、誇りというものを持ち続けながら、表現という行為に携わっていただきたいと思います。

【放送人権委員会の役割】

●奥委員長
BPOには、3つの委員会があって、放送倫理検証委員会は番組内容について放送倫理上の問題を審議、審理する。我々の放送人権委員会は、放送によって名誉・プライバシーなど人権侵害を受けたという申立てを受けて審理し、人権侵害があったかどうか、放送倫理上の問題があったかを判断します。
放送人権委員会は具体的な申立てが入り口です。放送番組によって人権侵害されたと受け取った人がいる。その人からの申立て、その放送によって申立人の社会的評価が低下し、名誉を毀損したかどうか、放送倫理上の問題はなかったどうかを審理する。こういう枠組みです。
社会的評価が低下したかどうかを考える時には、その放送番組が申立人についてどのような内容を視聴者に伝えているか、どのような印象を視聴者が持ったかと。つまり、これが法律の言葉で言うと事実の摘示ということになります。要するに視聴者はどう見るかということがあるわけで、これは判例として定着していますが、「テレビ放送された番組の内容が人の社会的評価を低下させるか否かについては、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準として判断すべきである」ということです。専門家でなくて、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準とする。さらに「その番組の全体的な構成、これに登場した者の発言の内容、画面に表示された文字情報の内容を重視し、映像及び音声に関わる情報の内容並びに放送内容全体から受ける印象等を総合的に考慮して判断する」。これはテレビの特質と言っていいと思います。新聞の記事であれば、何回も繰り返して読めるわけですが、テレビだと流れてしまう。これは皆さんご存じの、テレビ朝日の所沢ダイオキシン報道についての最高裁判決です。我々も、いつも、基準にしていることです。
しかし、社会的評価が低下したから、すぐ名誉毀損になるかというと、そうではない。その報道が社会的評価を低下させても、名誉毀損罪に問われない場合の規定が刑法にあります。これが民事のレベルにも適用されます。公共性・公益目的があって、真実性、あるいは真実相当性-真実と考えたことに相当の理由ということです-認められるということになれば、名誉毀損には問われないことになっています。
我々は、いわば天秤を持って仕事をしています。片方の皿に人権という問題が乗っています。これがしっかり守られないと困るわけですが、人権を守っていれば良いかというと、報道は、そうも行かないです。公共性とか公益性があって、その上で真実性とか真実相当性が認められたならば、報道には自由があるんだと、こっちの皿の方が重いというわけです。この比較衡量、どっちが重いのかを考えながら、皆さんも、現場で仕事をしているのだと思いますが、我々も結果的にはこういうことで判断しているわけです。

【委員会決定第67号について】

「沖縄基地反対運動特集に対する」委員会決定第67号について説明していきますが、人権侵害というのは、我々の決定の中のグラデーションから言うと、一番上というか、重いというか、そういうレベルです。
申立人・辛淑玉さんの主張を整理すると、1つ目は「申立人は、反原発、反ヘイトスピーチ、基地反対運動を職業的にやってきた人物で、基地反対運動を扇動している黒幕だとの事実を断定している」ということ。後半のスタジオトークの中で、こういうことを確かにいろいろ言っていて、辛淑玉さんという名前も出しているわけです。2つ目はお金の問題です。「金銭で動機付けられた基地反対運動参加者に日当を出して雇っているのは申立人である」と。申立人が雇っているという言い方を直接はしていませんが、スタジオトークを普通の感覚で見ていくと、こうなるというのが申立人の主張です。カリスマで、反原発、お金がジャブジャブ集まってくるとか、そういうことを言っているという部分です。それから3つ目ですが、「申立人は韓国人で」、「親北派であることから基地反対運動を展開している」。このとおりの言い方ではありませんが、こういう意味のことを確かに言っています。4つ目は、かなり重要なところですが、反対運動そのものについて、「反対派が救急車を止めたとか、反対派が暴力を振るっているとか、振興予算が無法地帯に流れている等の事実を摘示し」、「反対派をテロリストと表現しており、視聴者は基地反対運動に参加する反対派は犯罪を行っている犯罪者集団であるとの印象を持つ」という主張です。地元の人という人にインタビューして、この人がテロリストと言っても過言ではないと話す部分がありました。犯罪を行っているという話も、そこにずいぶん出てきました。申立人はこういうことを主張して、これが名誉毀損だというわけです。職業的にやってきた人物、これは自分のことだというわけです。扇動している黒幕だという。それから日当を出して雇っているのは申立人であると。申立人は韓国人であると。この3つの部分は申立人その人についての話ですが、4つ目は、直接申立人のことではなく、反対運動のことを言っているわけです。
これに対して、当初、MXテレビの反論は、1つ目は、職業的という表現については、申立人は反原発、反ヘイトスピーチ、基地反対運動などに積極的に従事して、現在は沖縄の基地問題に取り組んでいるという事実を伝えただけで、申立人の社会的評価を低下させるものではない。申立人が黒幕だとは言っていない。確かに、申立人が黒幕だという表現は、直接はないです。もし仮にそう取られ、申立人の社会的評価を低下させたとしても、公共性や公益目的で行った放送であり、内容は真実である。実際、黒幕的な立場だという主張です。2つ目は、のりこえネットの集会のチラシに「5万円の交通費を支給する」とあることを放送で示しているけれど、財源は不明だとしており、申立人が出しているとは言っていない。しかし、普通に、あの流れの中で視聴をしていると、どういうふうに視聴者が受け取ったかという問題になるわけですね。お金を出している云々という話ですが、一般論としての見解であり、申立人を指して言ったわけではないと主張しました。3つ目は、確かに高江ヘリパッド建設反対運動の一部では強硬な手段が行われている。それについて、テロリストという比喩的な表現を使ったのであって、申立人をテロリストと名指ししたわけではない。こうMXは反論したわけです。
こうした主張を整理してみると、反対派の暴力行為で地元住民も高江に近寄れない状況があるという話。それから救急車をも止めるという話もありました。テロリストと言ってもいいなどの犯罪行為を繰り返している。それから、なぜ犯罪行為を繰り返すのか。これは、スタジオトークで言っていました。その裏に信じられないカラクリがあるというテロップが出る。これは重要な部分だと思います。のりこえネット主催の集会、お茶の水の何とか会館で、5万円あげますと書いてあるんですと。で、韓国の方ですねって。2万円と書かれた封筒を、これが、いわば、証拠だというように見せている。反対派は何らかの組織に雇われているのか、こういうトークもありました。こういうことから、全体的に視聴者がどう受け取るかというと、取材もできない過激さで、資金を出している団体がある、そこには韓国の方の名前がある、こういう事実を摘示しているということになるわけです。後半のスタジオトークの部分で辛さんの名前が初めて出てくるわけです。「のりこえネットの辛さんの名前が書かれたビラがあったじゃないですか」、「この方々というのは、元々、反原発、反ヘイトスピーチなどの、職業的にずーっとやってきて、今、沖縄に行っている」という発言があり、「沖縄・高江ヘリパッド問題反対運動を扇動する黒幕の正体は」とテロップでも流れるわけです。ここで、「辛さんていうのは、在日韓国・朝鮮人の差別ということに関して戦ってきた中ではカリスマなんです、ピカイチなんですよ」、「お金がガンガン集まってくる」、「親北派です」、「韓国の中にも北朝鮮が大好きな人もいる」と、こういうようなスタジオトークが展開されるわけです。韓国の方というのが実は辛さんだと言及されるわけです。扇動する黒幕の正体というのが、普通に見ていると、「あ、そうか、辛さんなのか」というふうに受け取られる。そう私たちは判断したわけです。
委員会の判断を少しまとめますと、実際に現地入りして取材したという放送が流れて、スタジオトークがあるわけです。これを全体の流れの中で判断しなければいけないということです。そうすると、申立人は過激で犯罪行為を繰り返す基地反対運動を職業的にやってきた人物で、その黒幕である。さらに、申立人は過激で犯罪行為を繰り返す基地反対運動の参加者に5万円の日当を出している。こういうことを摘示しているというふうに、我々は判断したわけです。これは明らかに申立人の社会的評価を低下させますから、名誉毀損が成立しますとなるわけです。
しかし、最初にお話ししたように、名誉毀損にならない、阻却されるかどうかということなので、この放送には公共性、公共目的、認められる。これについては、委員の中にもいろいろ意見があって、公共性も公益目的もないという意見もありましたけれども、一応、沖縄の基地反対運動の現状を取り上げているという意味で、これは、認められるでしょうということになりました。
問題は、真実性あるいは真実相当性の問題です。反対運動の過激性、犯罪性について、どういうことを辛さんが集会で言っているか、読んでみます。「だから、現場で彼ら2人が20何台も工事関係車両を止めた、それでも1日止められるのは15分」、「でも、あと3人行ったらね」と言っています。こうした発言を、MXは、実際、過激性、犯罪性があるんだという、いわばそれを立証するというか、その証拠というか、そういうものとして持ち出しています。実際、こういうことは確かに言っています。もう少し読みますと、こういうことを言った。「あともう1人行ったら20分止められるかもしれない。だから私は人をヘリパッド建設現場に送りたいんです。そして私たちは、私もね」と、これ、辛さんのことですね、「はっきり言います。一生懸命、これから稼ぎます」、「なぜならば、私、もう体力ない。あとは若い子に死んでもらう。で、それから爺さん、婆さんたちはですね、向こうに行ったら、ただ座って止まって、何しろ嫌がらせをして、みんな捕まってください」、「でも、70以上がみんな捕まったら、そしたら、もう刑務所へも入れませんから、若い子が次々頑張ってくれますので」。こういうことを集会で辛淑玉さんが言っている。これはまさに反対運動の過激性、犯罪性を物語っているのではないかということで、真実性があると主張したわけです。我々委員も、相当、辛さんは過激なことを言ったなと思いました。だけど、それは、反対運動の集会の中で、いわば、ある種のアジテーションで言っているわけで、これで、すぐに、反対運動全体の犯罪性だとか、そういうことはちょっと言えないのではないかということです。
それから黒幕の話です。確かに、往復の飛行機代相当5万円、支援します、あとは自力で頑張ってくださいと、のりこえネットの集会のチラシに、書いてあるわけです。だけど実際に黒幕ということで考えると、辞書で引くと、「自分は表面に出ず、影にいて計画したり人に指図したりして影響力を行使する人物」と出てくる。辛さんがそういうことだったのかというと、のりこえネットが交通費を支給したのは確かです。のりこえネットにカンパなり寄付なりがあって、それを、何十人かに支給はしたんですけれども、だからといって、のりこえネットと申立人個人と同一視することはできない。真実性は認められないということで、結局、名誉毀損が成立するということになったわけです。
以上が、この事案についての委員会の決定の骨子です。MXは、その後、やっぱり、まずい放送をしてしまったと、というふうに考え方を改めました。放送倫理検証委員会でも、持ち込み番組をそのまま使った考査が不十分だったと指摘しました。そういうことも含めて、私は、こういう人権侵害と我々が判断したような番組が放送されてしまったということを、少し別の角度から考えてみたいと思います。いったいそこで何が問われたのかということです。こういうことを考えないと、根本的な問題に入り込めないのではないかと思います。
私は、「メディアフレームの危うさ」と「テレビ放送の力というものへの認識の欠如」があったのではないかと考えました。MXは「本番組は、沖縄県東村高江地区のヘリパッド建設反対運動が、過激な活動によって地元住民の生活に大きな支障を生じさせている現状と、沖縄基地問題において、これまで他のメディアで紹介されることが少なかった声を、現地に赴いて取材し、伝えるという意図で企画されたものである」というふうに説明しました。「これまで他のメディアで紹介されることが少なかった声を現地に取材し伝える意図」、これだけ見ると私は、すごく正しいというか、メディアとして多様な情報が多様な形で流れることが必要で、こういう意図を持っている。この意図は、非常に評価できると思いました。
しかし、実際問題として、そういう番組になっているかというと、そうじゃない。ともかく、彼らは過激で、犯罪行為をする。そういう、最初からの枠組みがあった。取材者は、当初から出来事の全体を掴んでいるわけではない。取材に行く時に、どこに光を当てるかというふうな意味での枠組みとか視点とかがないといけないのですが、この番組の場合はどうだったか。本来は、かなり有効なメディアフレームだったと思います。ところが実際問題としては、現場へ行ってもほとんど取材しないで、最初から持っている、彼らは過激だというようなことを繰り返して、先入観で突っ走っている。これではダメであって、取材に行ったら、現場で見ていたら、そうではないのだなというようなことを分かったりする。それをフィードバックして、メディアフレームを修正するということがないといけないんで、それが全然ないというふうに思います。
だから、こういう取材をする時に、一定のメディアフレームを持つ必要はあるけれども、これを現場に行って取材して、いろんな情報を聞く中で、ちょっと違っていたりすると、修正してフィードバックしていく、そういう在り方が、この番組には、全然なかったと。先入観ですね。暴力的、過激であると。テロリストと言ってもいいと。そういうせりふが出てきました。で、沖縄県外から、韓国人はいるわ、中国人はいるわって、こういうような、ある意味で、非常に無責任なことを言っている。実際に事実を確かめているかどうか分からない。確かに、韓国人や中国人がいますけれど、それがどれくらいいるのかというようなことも、ちゃんと事実を取材しているわけではなく、こういう言葉だけ使っているわけです。それから、背景に資金を出している組織があると、これが事実なら反対派の人たちは何らかの組織に雇われているということを言っていて、のりこえネットと辛さんの名前を挙げているわけだけれど、のりこえネットに対して取材をしているかというと、そんなこと全然ないんです。あのビラ一枚、見せて、こういうことを言っているというわけです。それで辛さんという人はカリスマで、お金がガンガン入ってくるよと言っていて、当初持っている先入観で、そのまま突っ走った。そういうことを少し考えてほしいです。
テレビ放送の力ということで言うと、元々、インターネットに流すような番組として生まれた経緯があるようですね、『ニュース女子』というのは。もちろん、テレビ局でも、全国的にもいろいろなところで流していますけれど。MXの当事者は、テレビ放送が持つ力というものをしっかり認識していなかったと思います。人権委員会ではヒアリングをいつもします。ヒアリングに来た辛さんが、こういうことを言っていまして、非常に印象的だったのは、「自分はこれまでにもインターネットの世界で様々な誹謗や中傷を受けてきた。それらには、もちろん傷付いた。しかし、今回の放送は、それが地上波のテレビで行われたことに愕然とした。もう自分はこの国では生きていけないのかと思った」と。インターネットには無責任な言説というのはいっぱい出ていますが、やはり人々の感覚は、インターネットに出ている情報と、テレビで流れることとの、歴然とした差別をしているわけで、そのテレビの持つ力、それをしっかり把握していなかった、そういうことが問われたのではないかと考えました。

【意見交換】

(A局)
『ニュース女子』を、毎週放送していて、毎週考査を行っています。出演者はジャーナリストや専門家が多く、視聴者がその発言を事実と受け取りやすいことから、どの程度まで事実確認が必要なのか、頭を悩ませています。
この回でも「マスコミが報道しない事実」という言葉がありましたけども、どうやって事実確認をしたらいいのか、いつも悩んでおります。今はインターネットなどで調べて、新聞で報道されているなら、ある程度、事実と言えるのではないかというような判断の仕方とか、そうした調べ方をしています。そもそも新聞もしくは週刊誌は、事実確認のエビデンスとしては使えないかなと個人的には思っていますが、新聞、週刊誌に掲載されているようなら、ある程度、信頼してもいいのか。それとも出演者、元官僚だったりとか、政治経済に精通した専門家だったりとか、ある程度、取材、個人的に取材もされているような方が、この『ニュース女子』、たくさん出ていますけども、彼らが自身の経験として発言していることを考査担当として事実確認がしづらい部分もあります。そういったことは、ある程度、個人の責任として放送してしまってもいいのか、いつも判断に迷いながら考査を行っています。

●奥委員長
非常に切実な問題だと思います。事実確認という言い方をされていましたけれども、テレビのニュースや情報番組は、実は事実だけを伝えるわけではない、コメントや論評もするわけです。報道の自由という中には、論評の自由というのも含まれていると考えていいと思います。ただ、その論評の仕方とか内容が問われるのであって、誹謗中傷に当たるとか、どう考えてもそれは間違っているというものは、考査のレベルで止めることは必要でしょう。専門家が、いろいろな意見を言うということについて、規制することは、表現の自由とか報道の自由とか、そういう観点から言っても決して望ましくないと思います。ただ、出演者にはちゃんとした自覚を持ってもらわないと困るわけで、『ニュース女子』に出てきた人たちは、MCは新聞の論説副主幹などをしていた方で、あと、経済評論家、軍事漫談家と称する人や元官僚の人たちもいましたが、彼らに、どこか番組について、バカにしているような感覚があったのではないかと私は思っています。もし、あれが視聴率の高い時間帯に行われる番組であったら、あの人たちはああいうことを言っただろうかと考えます。彼らは、発言に対してすごくルーズになっていた。それは考査のレベルでしっかり止めなければいけないだろうし、やっぱり、番組を作り出すプロセスの中で、しっかり議論していくということが、前段階として必要だったと思います。

●白波瀬委員
私は、法律家とか放送の専門家ではないので、委員の中では一番一般の視聴者の視線に近い立場で議論したいと思います。今、事実確認ということがありましたが、視聴者は、それが正しいかというよりも、放送という媒体から出た瞬間、一つのストーリーというか、これ、奥先生はフレームワークとおっしゃったのですけれども、何らかのストーリーなりメッセージ、あるいは論評として捉えるものと思います。今回、この内容自体が、今の日本の直面している大きな問題とも関連して、注意して取り扱うべきことであるということは、もし本当の意味の専門家であったら、そういう自覚と良心は、既にあったとは思いますが、テロリストとか、そういう言葉はそんなに簡単に使えるような言葉ではないと思います。

●曽我部代行
法律家の観点から補足すると、考査は何を目指すのかということがあります。最低限、法律的なリスクのお話で申しますと、名誉毀損とかプライバシー侵害とか、そういうので法律的な責任を問われるということがありうるわけです。これは、持ち込み番組であっても、放送した局が責任はそのまま問われます。持ち込み番組なので、うちではちゃんと取材はできませんでしたので、しょうがないので免責してくださいということには、全くなりません。これは、共同通信の記事に基づいて配信する地方紙の立場とは違って、こういう持ち込み番組を放送するテレビ局は、その内容の全部について法的責任を負うということですので、少なくとも名誉毀損とかプライバシー侵害、あるいは肖像権等々、権利侵害に該当しうるものについては、かなり綿密にチェックをされる必要があると思います。その上で、そうでない一般的な事実の誤りとか、あるいはコメントの行き過ぎとか、そういうのは直ちに法律的な責任を問われるものではないので、そういう観点から、自社で放送するにふさわしいかどうかをお考えいただいて、判断されることだと思います。例えば、この回なんかは、もう丸ごと放送しないという判断もありうること、そう判断された局もあったやに聞いていますけれども、という意味では、大きな判断も、時にはしないといけないのかなとは思います。少なくとも、その法律的な責任を問われるようなところは、少なくとも新聞記事は見るとか、可能な範囲で十分チェックをされないといけないのかなとは思います。

●二関委員
新聞で報道されていることとか、あるいは元官僚の方が語ったことであれば信頼していいかというご質問ですが、一概に、それだったらいいというふうには言えません。だから非常に難しい問題なんだということですね。そこで止まると、あまりに参考にならないので、一つ最高裁の裁判をご紹介します。1999年10月26日判決という最高裁の判決ですが、刑事の第一審の判決において示された結論とか、あるいは判決理由中の事情というのは、それが、地裁の判断が高裁でひっくり返ったとしても、ひっくり返る前に、その刑事の判決に則って報道したものであれば、それは間違っていても信頼しても構わないというような最高裁の判断です。それはなぜかというと、やっぱり刑事事件というのは非常に慎重な審理を経た上で裁判官が一定の判断を下しているものだから、それは信頼に値すると言っているということです。それとの比較において、じゃあ新聞報道は果たしてどうなのか、あるいは元官僚の人が自分の経験として語ったことはどうかを考えてみると、おそらく、自ずとですね、そうそう信頼していいものではないのじゃないかっていう考え方が、そこから導けるのではないかなと思います。

●曽我部代行
法律上の話ですが、二関委員が言われたように、持ち込み番組であっても、放送した内容については放送した局が全て責任を問われます。名誉毀損について言うと、新聞記事とか、あるいは専門家と称する人のコメントであっても、それだけでは通常は真実相当性というのは認められにくいので、先ほど、新聞記事などでチェックしたらどうかと申し上げましたが、それでは、多分、実際、訴訟になったらダメです。ただ、日常的にできることしては、それぐらいが限度かなというので申し上げました。なので、普段の考査で、新聞記事等でチェックされていても、いざ本当に訴訟になると、それでは不十分だと判断される可能性は十二分にあります。考査でいくらチェックしても、責任を免れ、完全にリスクを排除することは不可能だと思われます。その場合は、制作会社と放送した局の間の契約等で、事後的な、補償等の契約をするのが、多分、解決方法だろうと思います。

(B局)
こうしたスタイルのトーク番組は、関西ではありがちです。対立構造みたいなのを見せて議論する演出は、分かりやすい一方で、ついセンセーショナルな方向に走りがちで、制作側としては、いい悪いでどっちかに結論を出してやらないと、番組が締まらないみたいなことがあって、そういう演出に行ってしまう場合があります。あと、出演されている人の発言を制限するというのも、どうかなと悩むところです。どう整理したらいいのか、どう判断して放送したらいいのかが常に悩ましく、社内でどうチェックをしていったらいいのか常に悩んでいます。

●水野委員
そのコメントなり何なりが事実に基づくか否かですかね。事実に基づいた上での発言であれば、フェアなコメントと大概の場合は言えるかと思いますので、極端な誹謗中傷、個人的な人身攻撃にならなければ、何らかの問題、事実に関するある種の批評なり感想なりということで、大方は問題ないのじゃないかと思いますが。皆さんは放送のプロなので、これまで、自分で体験し経験し培ってきた価値観、もしくは、これはちょっとまずいっていう、プロの勘、感覚っていうんですかね、プラス、これまで半世紀以上、積み重ねてきた日本の放送界の成果を総動員して、皆さんが意識する・しないにかかわらず、貯めてきたエキスというのを、基本的に信頼しています。そのプロの感覚で、これはまずいなっていうことでない限りは、だいたい深刻な問題になることはないだろうと考えています。そこで重要なのが、先入観みたいなものですね。これがあると、その勘が鈍ってしまう危険性が出てくるので、そういった時に危うい。なので、できるだけ決め付けない。もしかしたら、第一勘、第一印象とは違った可能性があるんじゃないか、そんな、自省、多少の謙虚さを持って日々の報道に当たっておられれば、大きな逸脱はないのではないかと、一視聴者としても考えています。

●曽我部代行
関西でよくあるタイプのトーク番組では、事実については、やっぱり同じように確認をしていただく必要があると思います。もう一つ、事実ではなくて、それに基づいていろんな意見を言うことは、水野委員の指摘のように、これはかなり許容の幅が広いということです。とりわけ、論争をしていて、こういう意見もあれば、ああいう意見もあるという形であれば、全体として、ある程度、バランスが取れている可能性がありますので、一つひとつの発言が、ある程度、過激なものであっても、全体として見れば、まあ論評の域に収まっているというふうに主張できる可能性も十分あるので、そういう線でまとめていただくことがいいんじゃないかなと思います。

【委員会決定第63・64号について】

●市川代行
まずテレビ熊本の事案ですけれども、事案の内容は、申立人は、放送は、警察発表に色をつけて報道して、意識がもうろうとした女性を連れ込んで、無理やり服を脱がせたというような事実と異なる内容を放送した。容疑を認めたと言うことによって、すべてを認めていたように誤認させている。それからフェイスブックからの無断使用。そして職場の内部とか、自宅の映像まで放送されているということが、非常にひどい扱いをされたということで、人権侵害だと訴えました。テレビ熊本は現職の公務員の準強制わいせつの事案なので、影響は大きいと考えて、報道した。適切な報道であると、こういう説明をしています。
事件の発生に沿って説明させて頂きます。警察からFAXで、この準強制わいせつ事件の被疑者の逮捕について、という広報連絡が入ります。この広報連絡には、通常逮捕で、準強制わいせつの罪名ですと書いてある。そして、事案の概要については、「上記発生日時場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したものです。」という説明になっています。そうすると、まず警察広報担当者に何を聞くかとことですが、事案の概要の容疑を認めていますかと聞くと、広報担当は、間違いありませんと認めてますという。そして、皆さん疑問に思う抗拒不能とはどういうことですかということを聞いた。すると、それに対する答えとして、先ほど言った、タクシーに乗せて、容疑者の自宅に連れ込んだ。意識がもうろうとしていたAさんの服を脱がせて、写真を撮影した。そして、Aさんは、朝、目が覚めて、裸であることに気づいて、1か月ほどした後に、第三者から知らされて、容疑者が自分の裸のデータを持っていることを知ったと。そして警察に相談した。こういう道筋の話をしています。今の説明というのは、広報連絡に書いてあったことよりも、その周りの前後の事実も含めて、詳しく説明がなされています。そして、広報連絡と警察の広報の担当者の説明と合わせて考えた時に、被疑者は何を事実と認めているのか。先ほど、容疑を認めているということでしたけれども、その認めている内容というのは何なのかということですが、先ほどの事案の概要、骨組みの部分だけなのか、この広報担当が述べた、知人であったAさんと飲酒した後、Aさんを自宅に連れ込んだ。それから、意識がもうろうとしていたAさんの服を脱がせて、写真を撮影した。ここも含むのかというところが問題になります。この点について考えてみると、取材ではこれ以上突っ込んで聞いていません。
じゃあ、この範囲でどう考えるべきかということですが、まず、わいせつ目的で、Aさんが同意のないまま自宅に連れ込んだ。それから、Aさんの服を、意に反して脱がせたということは、この抗拒不能の状態で裸であったこととは、事実としては別のことです。しかも、事実、この事実というのは、非常に事件の悪質性に大きく関与するんですが、広報連絡には書いてない。そうすると、この今の上の点について、申立人が認めているというふうには、明言はしてないだろうということになります。それから、通常逮捕が10時で、その2時間後の説明。おそらく弁録が終わったばかりの状態です。道行きの部分、その後の部分も含めて、すべて理解した上で、弁録で事実に間違いありませんと言っているのか。この点も疑問です。それから、Aさんは申立人の知人であった。そして、翌朝に目が覚めて裸であったことを認識していたということも、説明されている。そういったことを考えると、果たしてどこからどこまでがAさんの意に反することだったのかということは、疑問が出てきます。
これに対して、放送が示している事実というのは、ここは放送内容を細かく区分けして書いてあるところですが、意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込んで、という部分、これは先ほどの、次段の概要、ここに書いてあったことの前の段階の部分ですけれども、この部分を書いてある。それで、ABCと書いてあって、Dのところで容疑を認めているということになっています。で、その後、EとFで、事件当日の自宅マンションに連れ込んだということです。それから、女性の服を脱がせ、犯行に及んだということです、という、こういう説明になっています。で、語尾を見て頂くと分かるんですが、良くある、「ことです」というのは、事件報道の中で、警察がこういう調べをして、こういう見立てをしているようです、というような形で、良く、こういう語尾を使いますが、今回は、この間に、この容疑を認めているということです、というのが入って、その前後が、基本的に同じような語尾でつながっていて、見ている側とすると、この、容疑を認めているということです、ということが、前後すべてにかかってくるのだろうなと一般の視聴者は、見るのではないかなと我々は考えました。そうすると、容疑を認めていると放送していること。犯行の経緯の部分や対応と、直接の逮捕容疑となった被疑事実を、明確に区別せずに放送しているので、このストーリーに含めたすべてを、事実を申立人が認めて、したがってストーリー全体が真実であろうという印象を、視聴者に与えているというふうに考えました。そうなると、社会的評価を下げる。その上で名誉毀損にあたるかどう、真実性の証明を考える。もちろん真実性の証明は、逮捕段階ですので、明確な真実性の証明というのは難しい。では、相当性があるかどうかですが、相当性については、あるというふうに、委員会としては考えました。というのは、取材経緯と副署長の説明の不明確さということと、判例でも2つの考え方があって、平成2年の判決ですが、警察の捜査結果に基づいた発表に基づいての報道であれば、相当な理由があると考えるという判決。それからもう一つは、少しグラデーションが違って、被疑事実ではなく、客観的真実であるかのように報道したことによって、他人の名誉を毀損した時には、相当な理由があったとして、過失の責任を逃れることは出来ないということで、この辺りの広報の捉え方、それを信じたことによる相当性の有無というのは、グラデーションがあるということで、我々としても、名誉毀損の相当性がない、名誉毀損の要件としての相当性がないというところまで、ここで判断するべきではないだろうと考えて、名誉毀損の相当性はないとは言えないという形で考えました。
ただ、放送倫理上の考え方としては、これは大学のクラブでの犯罪事件、容疑に関する事案での放送倫理上の考え方、当委員会の考え方(放送人権委員会決定第6号から第10号)ですが、こういった考え方もある。それから、民間放送連盟の、これは裁判員制度が始まった時の、予断を拝し、その時の事実のまま伝えるという、こういう考え方(「裁判員制度下における事件報道について」)もある。それからもう一つ、新聞協会の、これは比較的、この段階のものに当てはまりますが、供述が多くの場合、変遷を重ねて、する場合もある。それから情報提供者の立場によって、力点の置き方、ニュアンスが異なる。そういったことを考えて、すべてがそのまま真実であるという印象を与えないようにすべきだという、こういう考え方を述べています。そう考えた時に、この広報担当者の説明部分の内、どの部分まで申立人は事実と認めていることなのか。そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるのか、ということについて、疑問を持って、その点について丁寧に吟味し、広報担当にさらに質問すべきじゃなかったかと。つまり、具体的に、どこからどこを、彼は認めているのか。容疑事実、広報連絡に書いてあった事実なのか。それ以外の部分の、警察の見立てについても認めているということであるのか。この点、もう少しきちんと吟味して、聞くべきではなかったのかということ。
仮にそこまでは困難であったとすれば、この段階での警察の担当者の説明が、真実そのまま反映しているとは限らない。留保なしに、容疑者が容疑を認めているとして、ストーリー全体が真実だというふうに認められる放送の仕方をするのではなくて、少なくとも、先ほどの、連れ込んだ、とか、裸にして、ということについて、疑いや可能性に留まることを、より適切に表現するように努める必要があったであろうと、こういうふうに考えたわけです。薬物使用の疑いについては、追及する、疑いもあると見て、容疑者を追及する方針です、というふうにしておりますので、何らかの嫌疑をかけるに足りる、具体的な事実、事情が存在しているように、印象を与えるという点で、放送倫理上の問題を指摘しております。肖像権プライバシー侵害の点については、この区役所の外観を放送して、部署等について、主事との役職を示したということですが、一般論として、公務員の刑事事件であるからといって、役職や部署に関わらず、一律にこういったことを放送することが、正当化されるとは言えない。やはり事案の重大性、公務員の役職、仕事の内容に応じて、放送の適用を判断するべきだろうというふうに、一般的な基準としては考えました。ただし、本件は準強制わいせつという重い法定刑ですし、区民課の窓口で一般市民とも接触する立場にある。そういう意味で、そういった事情などを考えて、許されない場合とは言えないだろうと考えております。それから、フェイスブックから取得した写真と、独自取得した写真2枚を使用しています。で、冒頭で1回出て、またアナウンサーのところでもう1回出てきて、それから最後のところでもう1回登場します。そのフェイスブックの写真は、カメラを持って、ちょっと微笑んだような感じの写真で、こういった写真をくり返し使っているとことが、申立人にとってみれば、非常にさらし者にされたという感覚を、持ったのかもしれないと思います。本件では、あともう一つ、フェイスブックからの写真を無断で使われた、というようなニュアンスのことを言っていますが、我々としては、フェイスブックでは不特定多数の者が写真を閲覧出来る扱いにはなっていますが、そうであっても、犯罪報道の中で被疑者を示すために使用されることまで予期しているとは言えず、報道目的から見て、相当な範囲を逸脱している時には、肖像権との関係が問題になる、との考え方もあり得るというふうには考えました。ただ、本件では、不必要に申立人を非難する印象を与えるような用い方とも言えず、報道目的から見て相当な範囲を逸脱しているとは言えない、というふうに結論付けました。ただ、曽我部委員の少数意見では、顔写真はともかく、マンション前のレポートとか、そういった点がやや行き過ぎではないか。ふさわしい取材がなされたと言えるのかという、こういう問題提起はされています。
あと、フェイスブックからの写真の使用については、この事案ではフェイスブックの彼のページの中に、ご親族の小さいお子さんの写真も、別のところに入っていて、フェイスブックに行くと、その家族とか親族の写真も紐付けされて、見られる状態だったということがありました。それで、その親族の方からの、テレビ局への連絡もあって、ネット上の放送からは、比較的短時間でニュースが削除された経緯もあったと聞いています。そういう意味で、フェイスブックというのは、そういう特殊な側面があるということには、留意する必要があると考えました。
次に64号ですが、64号も基本的に63号に近いですが、放送が示す事実のところです。放送についてはここに書いてあるように、ABCDという道行きの部分、それから実際の、連れていき、という道行きの部分と、女性の服を脱がせ、それから撮影した。そして、そういったものを全部受けて、調べに対して容疑者は、間違いありませんと容疑を認めているということです、ということで、これは非常に端的にというか、AからBの事実すべてを、被疑者が認めているというふうに印象づける。放送している側も、そういう認識で放送していたようです。
先ほどのテレビ熊本は、それに対して、少し間に容疑を認めているということです、ということがあってから、女性を裸にし、ということを説明しているということで、少し切り分けている部分があるんです。担当者に後で話を聞いたところでは、テレビ熊本の方は、事案の概要に書いてあった事実と、それ以外の部分というのを、少し意識して書いたと言う方がいました。県民テレビは、全部、これは事実だという前提で、全部認めているという前提で、放送されているんだなというふうに思います。だからちょっとそこら辺が、微妙に違うところがあるんですが、結果的には、すべてが事実というふうに捉えられるということで、すべての、一つのストーリーを認めている。この一つのストーリー性を与えたことによって、事案のイメージは非常に大きく変わってしまっているというのが、本件の特徴かなと思います。放送倫理上の問題としては同じということです。ただ、あと、薬物の使用については、テレビ熊本までは行かないということで、の書き方までは、グラデーション強くないということで、問題なしというふうに考えました。

●奥委員長
私がなぜ少数意見を書いたかと言うと、容疑者は拘束されている。通常逮捕されたわけです。弁護人も選任されていない。事案の性質上、性犯罪ですから被害者への取材も出来ない。こうした場合、報道機関は警察当局の責任ある担当者の発表、説明に基づいて、事件の第一報を書くことになる。警察取材されている方は良く分かるでしょうけど、基本的に副署長が説明するということになるわけですね。本事案について警察当局は、逮捕に至るまでの捜査資料を把握した上で、直接調べに当たっている捜査官から得た情報によって、説明したはずです。通常逮捕してからは、2時間ぐらいしかないですけれど、その前にもいろいろ捜査しているはずで、実際に呼んできたのは、事件があってからずいぶん後ですからね。被害者から訴えがあってからもずいぶん経っているわけで、どこで酒を飲んだとか、当然、警察は、捜査しているだろうと考えるのが普通の警察担当記者の常識であろうと、私は思うのです。警察当局が個人的な憶測を語ったと推測する根拠はない。副署長さんが、記者の質問に答えて、いろいろ説明している。そういう場面は想定出来るわけです。決定文は、警察の見立てと、申立人が認めた容疑事実との区分けが不十分だということを指摘しています。副署長さんが捜査官にいろいろ聞いて、こういうことだよっていうことを説明したわけですね。取材する側からすれば、抗拒不能の女性の裸の写真を撮ったよと言われても、じゃあどうしてそうなったか、どうやって撮ったのかということを当然聞きますね。それに対して警察当局も、答える資料がなきゃいけないわけですから、それは当然そこで実際に調べた捜査官に、どうなっているのって、副署長さんは聞いているわけです。で、それを説明しているというふうに、私は考えたわけです。そういうことで、「警察からの広報連絡をもとに、警察当局に補充の取材を行い、その結果を本件放送とした。本件放送は容疑者の逮捕を受けた直後に事件報道の流れとして、一般的に見られるものである。内容的にも警察当局の発表、説明を逸脱した部分はない。私は本件放送に、放送倫理上、特段の問題があったとは考えない」。こういう少数意見を書いたんです。具体的にこの事件の新聞報道を参照してみると、少しずつちょっとニュアンスの違い、書き方は違うところはありますが、基本的にどの記事もこの放送と同じことを書いているんです。ということは、副署長さんは、多分、そんなに曖昧に説明したわけではなくて、ある程度ちゃんと流れを分かるように説明したんだろうと思うんです。そこでそれを聞いた記者たちは、おかしいなと、特段思わなかったと。そうすると、ああいうニュースになりますよということなんです。ということで、少数意見を書いた。ただし、少数意見には、もう一人、曽我部先生が書いているものがあって、これは重要な見解です。放送倫理上特段の問題があったとは言えないけれども、だからと言って、良質な報道だったとは言えないというものです。十分な取材があったかどうかは、分からない。ただし、一線の取材記者が、第一報の段階で、準強制わいせつと強制わいせつとの違いは何だとか、そういうことについて正確な法律的な知識を持つことを要求するのも、なかなか難しいだろうから、ああいうニュースにならざるを得なかったのは、認められる。ただし、あれでいいっていうわけじゃないと、少し釘を刺しています。私も事件報道は難問で、今回の報道が正解だというふうには思ってはいませんが、とりあえず、現在、いろんなところで行われている、事件報道のレベルから考えて、あれを放送倫理上、何かすごい問題があったと、特段の問題があったというふうにするのはまずかろうと、そういう少数意見であります。

【意見交換】

(C局)
現在、大阪府警を担当している現場の記者です。警察の広報連絡・広報メモは、毎日何枚も配られますが、概要がすごく短く、電話なり所轄に行くなりして、聞き取りをしっかりしなければ、通常のストレートニュースすら書けないような情報しか書いていない中で、この事案のようなことは、私が普段取材している中でも往々に起こりうるというか、私も多分、この事件を取材していれば、同じような原稿を、恐らく書いたと思います。その中で、逮捕容疑が何なのか。そして容疑者が自認しているのであれば、その逮捕容疑に限り自認しているっていうところまでを、明確に聞き取る意識が今自分にあるかと言ったら、正直言って、ありません。原稿の一番最後に、容疑者は容疑を認めているということです、というふうに締めることも、本当に良くあります。この事案が、放送倫理上問題あるということになるのであれば、新聞記事とかで良く最近目にする、冒頭に逮捕容疑はこういうことですと、もう明確に逮捕容疑はこれですっていうのを書いて、で、容疑者は逮捕容疑を認めています。尚、こうこうこういうこともあると見て、警察は捜査を進めていますというような、ここからここまでが逮捕容疑で、容疑者はここまでを認めていて、っていうのを、放送原稿においても、明確に区切ることが、テレビの放送において、これは必要だと考えていらっしゃるのか。今回のこれが倫理上問題あるのであるとすれば、そういうことをしなければ、恐らくあまり解決にはならないのかなというふうに思うんですけど、どのようにお考えですか。

●市川代行
なかなか一般論として、最後におっしゃったような書き方を全部すべきかどうか、言いにくいと思いますが、こと本件に関して言えば、抗拒不能の状態の女性の裸の写真を撮りましたということと、その女性を部屋に連れ込んで、その衣服を脱がせたということが加わった時の、その印象というのは、かなり違うと思います。それを警察のストーリーが、そういうふうに言っているから、そのまま流しますよと。で、それが、すべて認めているというふうになったものは、それは表現上、やむを得ないのではないかとは、やはり、言えないだろうなと思います。工夫としては、いろんな工夫はあり得るし、私どもがこういうふうにすべきだと、言う立場ではないですけれども、一つは容疑事実をきちんと区切る。警察の見立てとか、警察の調べではとか、警察の調べではこういう疑いを持っていますとか、こういう説明の仕方もありますよね。ですから、そこは短い文章、短い放送の中ではありますが、やはり切り分けるべきではなかったのかなと思います。容疑事実とそれ以外のことについては、裁判例なんかでも、意外と厳しく、ここはきれいに仕分けしていて、犯罪事実として逮捕された事実と、たとえば窃盗犯が誰々の家で物を盗んだという時に、忍び込んで、という住居侵入の事実を加えたことによって、これは名誉毀損が成立する。容疑事実に入っていないと指摘している判例もあるぐらいです。それは一つの判例に過ぎませんけれども、そこはやはり厳しく見て、違いがあるんだということは、理解して頂いた方がいいと考えます。

●曽我部委員
いくつか違うレベルの話をしたいのですが、まず、今の市川代行の説明した委員会の立場を補足すると、多分、本件の特殊性というのがあって、今回の逮捕容疑は、裸の写真を撮影したという逮捕容疑だったわけですけども、普通に考えると、写真を撮るよりも、脱がせるとかいう方が、常識的に見て重い、悪質な行為ですけども、何であえて、その写真を撮ったというのが、逮捕容疑として切り取られているのかというところに、疑問が持てれば、何かこの事案は、普通と違うんではないかというような意識が出てきたのではないかといった指摘も、含んでいると思います。ただ、私の少数意見にもあるように、こういったことは刑事弁護の詳しい弁護士とかであればともかく、記者一般に要求するのは、なかなか厳しいのではないかというのが、私の意見です。ただ、たとえばこれが名誉毀損事件として訴訟になった時に、判断するのは、裁判官ですので、当然法律家ですから、弁護士的な見方をする可能性も十分にある。つまり、委員会の決定にあるような区別をした上で、今回はちゃんとその辺の切り分けが甘いということで、名誉毀損だというふうに判断する可能性も、十分あることを、認識頂きたいと思います。記者の方も、法学部のご出身が少ないと思いますが、やっぱりそれなりに刑事手続きについて勉強して頂くことが求められるのではないかと思います。もう一つは、刑事事件報道というのは、もう構造的に、問題を含んでいます。つまり、普通、報道というのは、両者対立していればですね、両方の言い分を聞くというのが、報道の基本だと思うんですけど、こと事件報道は、警察の言い分しか聞けないですよね、通常。そういう中で、報道せざるを得ないので、やっぱり根本的に、構造的に、危うさ、リスクを含んでいるわけです。そこを認識しないと、いろんな行き過ぎなりが起きてしまう。たとえば諸外国では、捜査段階であんまり報道せずに、裁判の段階になって初めて本格的に報道するというような国も、あると思いますが、日本でそうしろというのは、非現実的なのは、承知していますが、捜査段階で詳細な報道をするということは、普通の取材の原則である、当事者双方から聞くということが出来ないという、構造的な問題があることを、ご認識頂いた上で、いろんな個別の配慮や工夫をして頂くことが、求められていると思います。

(D局)
多くのラジオ番組で、特に、朝のワイド番組とかですと、新聞をもとにパーソナリティがそれを紹介しつつ、その後で自分の主観みたいなことを話すものが、スタイルとして良くあります。いろんなネタを取り上げますが、前もって、その取り上げるネタを調べたり、確認していないケースも、多々ありますので、その日に新聞を読んで、その中から話をしてしまうケースもあって、あくまでも何々新聞によりますと、みたいな紹介の仕方にしています。その後で、何かコメントを述べる場合でも、私の考えでは、みたいな形の注釈を入れたり、最後に皆さんはどうでしょうか、どのように考えますか、みたいな形で少し逃げと言いますか、少し入れていますが、ちょっと踏み込んでしまうケースもあります。そういう場合、どこまでそのタレントさんに規制と言うか、発言を抑えて頂くようにご案内したらいいのか、ちょっと難しいと感じることが、良くあります。

●城戸委員
ラジオ番組の場合、やはりパーソナリティの個人的な意見を聞きたいと思って、その番組を聴く方が多いと思います。朝の番組でそういう新聞を見ながら、その方がコメントをするといった時に、杓子定規なコメントだったら、別にリスナーは聴きたいと思わない。あの人がこの事件をどういうふうに言うのかなということを、求めているというか、そういう考え方を聴きたいと思っているんだと思うんですね。そう考えると、あまり規制するような方向ではない方が、私は健全なような気がしていて、皆さんはどうお考えですかっていうことを付けるというアイディアも、非常に私は有効だと思いますし、あと、局のアナウンサーがいる番組であれば、そういう方が多少行き過ぎているなと感じた時は、何かフォローするとか、そういった役割を、担われるというのも、一つの方法ではないかと思います。報道番組ではない、朝の番組のような番組では、ある程度そういう許容範囲がないと、番組として面白くないし、放送する意味も、ちょっとなくなってくるのではないかなと考えます。

●水野委員
城戸委員に同感です。あんまり考え過ぎちゃうとつまんなくなるし、そうなっちゃうことって、BPOの本意ではなくて、皆さんがプロとして積み上げてきた嗅覚というのかな、勘と言うのかな、が、基本的には、僕は信頼出来るものだと思っているので、出来るだけ事実に基づき、多少留保を付けるとか、自分の考えでは、とか、もしこの新聞報道が事実であるならば、という、ちょっとこう、前提を付けるだけでも、ずいぶん印象も変わるのではないかなと考えます。

●奥委員長
テレビのニュース原稿の中で、新聞原稿のような書き方は、なかなかしにくいと私も思うんですね。ただし、これからはやはりそういう工夫に挑戦していかないと、だめだと思います。そういうふうに、やはり人権問題は、つまり進化しているのです。それに応じた報道の在り方を考えていかないといけないだろうと思います。

●白波瀬委員
我々の委員会は、申し立てがあって、それに対して判断をしていくプロセスですから、あの状況では、非常に公務員バッシングと言うか、公務員の不祥事があった背景もありました。そこでの事件報道で、申し立てた方に対して、事実というのを、出来るだけ切り分ける形で判断に至ったということで、少数意見が出たということは、かなり委員会の中で、議論が交わされたということでもあります。やっぱり時間的に余裕がないという現実と、事件報道という構造的なリスクっていう点については、常に考えて頂けるといいかなと思います。

●二関委員
テレビ熊本の表現というのは、もう少し考えてやれば、うまく説明やれたのかなと。ある意味では、技術的な表現の問題だったのかなと思います。そういう意味で教訓としてちょっと考えていただければということ。もうひとつは、警察発表に対して、確信部分で、容疑事実しか書くなとか、そういうこと全然申し上げるつもりはなくて、もっとぐいぐい食い下がって、いろんな事実を引き出して、それを放送に繋げていくことは、非常に大事なことだろうと思います。ただその一方で、今回は市の職員の不祥事が、非常にエポックになりやすかった背景があるなかで、イケイケで行かないようにしなければいけないという、1回ブレーキをかけて、警察の発表ほんとにこれで大丈夫かなっていう、チェックするという視点も、やっぱり必要なんじゃないかと思います。

【近畿での刑事事件2件について】

(1) 民泊女性死体遺棄事件

(E局)
警察発表も実名であり、当初、実名で報道していましたが、いろいろと取材していくなかで、続報を出す際に、どこまで実名でやるか、顔写真を使うかと、非常に悩んだケースです。取材指揮を取ったニュースデスクの話を聞くと、この続報については、実名1回だけで、その後は女性という言い方で実名を出さないとか、1回だけ使うとか、全く実名出さないとか。3回目以降にいくと、もう完全に匿名で続報を出していくとか、いろいろとケースバスケースで、判断をしました。非常に悩んだのと、あと、この事件でちょっと異例だったのは、裁判自体が匿名になりました。公判での審理も。それは非常に特殊なケースだと思っていまして、うちも裁判になってから、全部匿名でやっています。

●廣田委員
家族からの要望が増えているというのは、そのとおりだと思います。先ほど奥委員長から、人権問題は、進化しているというお話がありましたが、これはまさにそういうものの1つだと思います。犯罪被害者の権利というのが、スポットライトが当てられて、今まで刑事手続きの中で、隅に置かれてきた犯罪被害者の人権というのを、弁護士会の中でも、それを扱う委員会とかも出来て、犯罪被害者の意見とかを吸い上げて、いろんなことに反映していくようになっています。この犯罪被害者の実名匿名の問題については、やまゆり苑の事件と、あと座間の事件で、それは全部実名で報道されたのですけれども、弁護士会の中で、すごい論争が起きました。まず被害者委員会のほうから、これは警察発表の時に、遺族が弁護士を通じて、匿名にしてくださいとお願いをしていたということで、なぜ遺族が匿名だと言っているのに、報道機関が実名にするのかと、非常に強い抗議がありました。それで結局、座間事件に関して、日弁連も含めて8つか9つの弁護士会が、会長声明なり談話を出す事態となりました。声明は、大体同じ論調ですけれども、事件の内容と、犯罪の被害者の遺族が、出してくれるなと言っているんだから、配慮してほしいと。一方、実名で報道することによる意義。事件を深堀り出来るとか、歴史に残るとか、そういう意義があるのは、確かだろうけれども、遺族が匿名にしてくれと言っているんだから、配慮してくださいという、結構強い論調だったんです。それに関して、日ごろ表現の自由と人権を扱っている委員会などのほうが、かなり強い違和感を表明しました。遺族の意見、要望というのは、尊重しなければならないけれども、実名か匿名で報道するのかというのは、決めるのは、あくまでも報道機関側ではないかと。それを遺族がダメだから、ダメだって言いのは、なんか違うのではないかと、相当強く弁護士会の中で言ったんですけれども、なかなか、遺族がダメだからダメなんだという意見が大きくて、それは私たちが驚くぐらい大きかったんですね。それって、何か違うのではないかと、みんなで話したんですけれども、そこで出たのが、あくまでも判断するのは、報道の方であろうと。ただ実名で報道することに、みんなが疑問を持つような事件。自殺願望があって、もしかしたら性的な犯罪の被害も、受けているかもしれなかったり、凄惨な殺され方をされていたり、そういう事件で実名を出すのであれば、なぜ自分たちは、実名で報道したのか。なぜこの事件を実名で報道する意味があるのかっていうことを、一言言ってほしい。座間事件の時に、新聞では、すごく自分たちは悩んで、こういう理由で実名にしたというのを、書いていた新聞があって、テレビは新聞と違って、いちいちこういう理由で実名で報道しますというのは、難しいかと思いますが、判断するのは、報道機関の方だと個人的には、思っていて、その時になぜ自分たちは、実名なのか、匿名なのかということを報道して、伝えていただくのが、重要なのではないでしょうか。

●紙谷委員
今会場から、最初は実名で、それから追っていくたびに、匿名に変えていった。一時議論として、一度出ちゃったんだからという話も、いろいろなされていましたが、むしろやはり事件の内容が、もっとよく分かるにつれ、判断が的確になっていく可能性が高いという意味で、変わっていくということは、決して間違っているわけではないと思います。必要に応じて的確な判断をする。そのために常に検証していくということが、とても重要なんだという。大変良い例であるというふうに思います。いろいろな形で、被害者、加害者の実名について、周りの方からいろいろ要望が出てきているというのは、事実だと思いますし、多くの人たちが、そういうことを言っていいんだ、今まで出てしょうがないとか、例えばうちの兄が悪いことしたんだから、ずっと自分たちも、後ろ指指されるんだみたいな思いを持っていた人たちが、いややっぱり一蓮托生的なそういうのと違って、私たちの生活もあると思うようになった、そうした社会的な変化、人々の認識の違いが、すごくあるのだと思います。それに対して、じゃあなぜこれを実名にしなければいけないのか。実名にしなければいけない理由のトップは、公人の行動ですよね。あれは隠してはいけない。それに対して私人である場合には、名前が明らかになることによって、より問題が明らかになるようなことであれば、やっぱり出したほうがいい。けれどもそうではない。こういう類型があって、こういうことに気を付けなければいけないということであれば、2回目、3回目から、実名じゃなくても、こういうタイプの事件について、みんな気を付けなければいけないみたいな判断が、働くというところが、生きている報道になるのだと思います。性犯罪にかかるような場合には、やはり被害者に対する敬意を考えれば、匿名になっていいのかもしれないという判断はあると思います。名前や顔写真だけではなくて、犯罪現場などについての情報も、同じようなことが言えるのではないかと思います。

(F局)
今日的な問題として、ことが起きると、どこまでが真実か分からないようなことが、インターネット上で流布している状況があります。警察がこの方の名前を発表する前の段階から出ていて、それに対して、遺族の方が、非常に心痛めていました。各社でそれぞれ判断はあったと思いますが、私どもは、匿名報道を求めるという趣旨は分かりますが、その一方で、ご遺族側とマスコミ各社とが一生懸命コミュニケーションを取らなければいけないということを、非常に意識しました。結果としてご遺族、弁護士側から、どうしても使う場合は、ネット上で流布されているような写真ではなくて、彼女らしい表情の写真があるので、それを使ってほしいと。一見すると、非常に矛盾した状況なわけです。つまり匿名を求めつつ、写真は出してくるという状況があって、やっぱりそこは、しっかりコミュニケーション取っていかないと、ほんとに遺族側が求めていることというのは、分からないなと感じました。我々の方針としてはですね、当然、名前を使う頻度は、落としていくんですけれども、例えば逮捕とか、節目ごとには、しっかり実名を出して放送を出す判断をしました。当初裁判についても、初公判などは、実名でいくだろうと想像していましたが、取材を進めるなかで、裁判そのものが匿名になったこととか、犯行の状況が、だんだん分かってきましたので、そういう趣旨であれば、裁判については、今回は匿名にしようと判断を変えたところでありました。
あともう1点、申し上げたいのは、各社見ていると、紙面とウェブを書き分けている。新聞協会なども、よく議論になるそうですが、そこはどうなのかなと思っています。やっぱり実名出す意味合いっていうことを、先ほど委員の先生からも、ご指摘あったと思いますが、実名で出す以上は、我々は今のところの考え方は、ウェブも放送も、基本的には実名。ただ、要するに知らしめるという目的であれば、どのぐらい掲載しているかとか、そのへんは、都度、都度判断をしていく必要は、あるとは思いますが、そこで匿名実名の軸が、ぶれるようなことは本来あってはならないと考えています。そこは出す以上は、実名で貫くというような対応を、通常は取っています。

●曽我部代行
今のウェブとの使い分けという話ですけども、細かい話で恐縮ですけど、局によっては、映像出されて割と1週間なりで消しますよね。だけど新聞だと、もうちょっと長く出しているとか、そういう関係もあるのかなと思ったのが1つ。あと遺族とのコミュニケーションというのは、最近、被害者保護についての意識なり、支援の仕組みなんかも、大変進んできており、遺族に弁護士が付くというケースも増え、かつ弁護士のほうも、その種の事件について、経験を積まれた方も、だんだん増えてきている。とりわけ関西など都市部であれば、そういう傾向がある。代理人が付かれている場合と、全く何もない場合では、やっぱりやり方も、相当違うのだろうなと思います。今回はかなり、代理人の方も非常に優秀で1つのモデルケースなのかなと思いました。

(2) 寝屋川男女中学生殺害事件

(G局)
今大阪の裁判所の担当をしています。去年の11月から、裁判が始って、11回公判があり、各社毎回その内容を報道してきました。被害者が深夜徘徊をしていたこと、これは事件のきっかけというか、スタート地点になるので、報道せざるをえないと思っています。ただ、中学1年生2人が、深夜を徘徊していたという事実を触れるだけで、その2人が、被害者なのに悪く見えてしまう印象を与えかねないなと思っていて、事件発生当時にも、それを散々触れているので、裁判の段階で伏せることによって、どこまで影響力を抑えることが出来るのかという疑問もありました。まずそこを、深夜に2人が徘徊していたというところを出すべきかどうかっていうのを、伺いたい。もう1つ、一番大きく悩んだところが、被告人質問の内容を、どこまで忠実に出すかということです。この事件、そもそも直接証拠が、一切なく、要は被告が、この2人を殺害したかどうかも、その時点でよく分からない。殺害経緯も一切黙秘して、全く明らかになっていない状況だったので、この公判で被告が何を語るかが、一番注目ポイントでした。もちろん被告は否認をしていて、被告人質問で、かなり事件のことを詳細に語りましたが、果たしてそれが、事実かどうかが、こちらでは判断出来ない。被告が公判で話す内容としては、事実ですけれども、それが実際2015年の段階で、行われていたことなのかどうかというのが、分からない。淡々と話してくれたら良かったんですけれども、殺された被害者との具体的な会話の内容も法廷で話した。その発言自体が真実かどうかが分からない。でも公判の中では、述べられている。それを裁判のニュースを出すうえで、非常に悩みました。結局弊社としては、そのカギカッコは出さずに概要だけ、あまり細かく説明は、しませんでした。新聞報道とかでは、そのカギカッコが、そのまま出ていました。結局、裁判の判決では、被告は、嘘をつきやすい性格傾向にあり、公判で述べた供述内容は、虚偽だったという認定をされていますが、被告人質問の段階では、そういう判断もない。さらに遺族からのコメントも、その日に聞けないような状況で、それを出していいんだろうかと、非常に悩みました。

●二関委員
今の点、確かに被告人質問で出てきた話というのは、基本、人というのは自分がかわいいですから、自分をかばった話をする傾向は、あると思いますので、そこで初めて詳細な事実が、出てきたということ自体、ある意味ニュース価値があると思う一方、やはりそれが、被害者の方の名誉にかかわるような、亡くなってる方ではありますけども、遺族が当然いるなかでのお話ですので、そこは慎重な表現ぶりに変えられたというのは、そういう選択肢は、妥当だったのかなというふうに思いました。前のほうの、深夜の商店街、徘徊していたという点ですけども、そのあたりはある意味、先ほど出ていた被害者の実名報道についての、取り上げ方の時の考慮すべき点と共通するところが、あるようなところだと思います。要は当人なり、遺族等の方にとっても、不名誉な内容なものにあたる場合には、やはりそれなりの配慮が、あっても良いんじゃないかということだと思います。それはやはり個々ケースごとに、いろいろ考えたうえで決めることに、どうしてもなるんだろうと思いますが、本件、特に徘徊的な部分について言えば、二次被害を防止するというか、今後似たようなところでの防止という考慮も、一方であると思いますし、事件に確かに端緒として、かかわってるということからすれば、取り上げたこと自体が、それはそういう選択肢はあって、しかるべきかなと思いました。一方で描写する時に、例えば深夜だったのを早朝と言い換えるとかですね、それは事実を逆に曲げている感じがするので、むしろ端的に何時とか、客観的な表現で使うとか、それは別にそうしろという話ではなくて、そういう選択肢とかも、あったのかなと。事実を曲げる必要は、ないんじゃないかなと。あと徘徊っていう言葉は、ある意味ネガティブであるとすれば、別の表現というのはあると思いますし、いろいろ工夫のしようは、あるという感想を持ちました。

●曽我部代行
今のやり取り、私は非常に違和感があって、基本的に事件報道、ニュースは、真実を伝えるものであるわけですので、いろんな都合で、大きなポイントであるにもかかわらず、触れなかったりするのは、基本的に望ましくないと思います。とりわけ徘徊、言い方、判断のついた言い方をするのは、どうかという点は、そのとおりだと思うんですけど、徘徊というかどうかはともかく、その事実であること。あるいは法廷での発言。被告人質問での発言を、報道しないとか、そういうことは、基本的に望ましくないと思います。被告人質問でのことは、発言というのは、別にそのこと自体、事実かどうかは、あまり重要ではなくて、被告人がこういうことを言ったということがニュースなはずで、そのことについて真実かどうかは、二次的な問題というか、むしろ無意味なわけで、なので真実かどうか確認出来ないという理由で控えるというのは、あんまり筋ではないと思います。ただそうは言っても、裁判にあまり視聴者が慣れてないということであって、言ったこと、報道したこと全部、真実受け取れる恐れがあるということであれば、注意を喚起するようなことを言うとか、あるいはそのまま言うのは、あまりにも生々しすぎるということであれば、要約とか、そういう工夫はあると思いますが、事実かどうか確認出来ないという理由で、報道しないというのは、率直に言っておかしいと思います。日本では、あいまいですけれども、これまた外国の例では、法定で述べられたことを、そのまま報道する部分については、名誉毀損等の責任は、免責されるという法理が、確立しているところもあり、日本でも本来そういうものは、認められるべきだと。これは個人的な意見に過ぎませんけれども、いうことですので、そのへんは、あまり事実でないから、確認出来ないからと、何か控えるようなことは、望ましくないと思いました。

(G局)
ちょっとニュアンスが、違うように捉えられたように思ったので、少し補足しておきたいのですが、今曽我部委員がおっしゃったことで、私は全然異論はなくて、要は言い回し等の工夫は、ありえたんじゃないかというところです。

【その他事件報道について】

(1) 虐待事件での不起訴となるケースについて

(H局)
特に2年前ぐらいから、警察が積極的に虐待に関しては、摘発していこうということで、逮捕したものの、その後不起訴となるものが、うちで調べただけでも10数件中、起訴したのが4割ぐらいもあり、原則弊社の基準、内規として、虐待で死亡していない事犯については、逮捕しても起訴するまでの間は、匿名としています。もちろん個別の案件で、直接取材が出来ているもの。あるいは容疑を認めている。さらにその中でも、警察の取材の中で、真実相当性が見つかるとか、そういうものでない限りは、基本は匿名にして、起訴時に実名にしようという考えで続けています。ただ、せっかく容疑者に直接取材が出来ていて、映像が撮れているのに、逮捕時他社が出しても、うちは使わないという判断というのは、なかなか難しい点もありまして、どうしていこうか、常に悩んでいます。実質逮捕時点で実名報道して、その後不起訴になって、その当人から、名誉毀損を訴えられた場合、どうなるのかということについて伺いたい。

●市川代行
確かに、密室の中でとか、家の中での起きる事件というのは、不起訴になる確率は、結構あると思います。そういう意味で、警察発表は、そのまま疑いなく真実であるかのように書いてしまうと、後々問題になることは、十分ありうるとは思います。ただ起訴されるまでは、書かないでいいと、一律決める必要は、ないと思います。やはり容疑の度合いであるとかもある程度考えて放送すれば、それはそれで問題はないと思います。後々不起訴になったからといって、その理由もいろいろありますし、逮捕された時点で、もちろんそれは、社会的な評価は、下げる事実ですから、形式的には、名誉毀損になるわけですが、先ほど申し上げたように、真実性があり、真実と信じたことについて相当性があれば、名誉毀損にはならないわけですので、その疑いのレベルが、どれぐらいなのか。疑いという程度においては、それは満たされているのであれば、これは放送するという判断は間違いではないと思います。

●廣田委員
やはりその時その時に、流動的に変わっていくものだと思いますので、その時々に判断するしかなくて、不起訴になったからといって、最初に報道したものが、すべて名誉毀損になるわけではないので、やはり1つ1つの事件で、報道の必要性と、どこまで言うのかを判断されて、密室の中なんかですとどこまでがどうなのか分かりにくいのは、そういうものも意識されて、報道をしていただければと思います。

●奥委員長
今お話を聞いていたら、内規を作っていらっしゃるという。いくつかの段階で、どう判断するかということについて。大変素晴らしい。そういうことが、つまり報道の自主性というものだと思います。死亡の事案だったらば書くんだとか、いろいろグラデーションがあって、そういうなかで自主的に判断するという、それは非常に良いことだと思います。

(H局)
ありがとうございます。そう言われると非常に助かるんですけども、実際現場で取材している者にとっては、せっかく容疑者を割り出して、じかあたりを撮ったのに、放送されないのかと、モチベーションが下がるような問題も、現実としてはあるので、個別の判断で考えながら、出来る限り実名原則で、不起訴の可能性について、いろいろ考えていきたいと思います。

(2) 街頭での撮影について

(I局)
正月の初売りとか町ネタをよく取材に行きます。人がうわあっと集まるような。その中で、ほんの画面の隅にちらっと映っただけでも、後からクレームが来たり、「何勝手に撮っとんねん」みたいなクレームを受けることが多々あります。テレビ取材でその現場にいる方の許可を得るのは、当然なんですが、正直どこまで気を付けて、取材をすべきなのでしょう。

●二関委員
いわゆる映り込みとかいう表現をしますけど。そういった領域のものであれば、基本的に問題ないというか、何か言ってきたところで、ディフェンスは、可能なのかなと思っています。例えばことさらその人に何か焦点を当てて、フォーカスして、かつ長い時間流したとか、不必要な、相当の範囲を超えたような流し方をすれば、それは問題になることも、あるかもしれませんけれども、基本的に催事といいますか、催し物とかを撮っている過程で、入ってしまったということであれば、特に法的に何か問題になるような話ではないのかなと。簡単に申し上げるとそんな感じです。海外のテレビ局とか、映画会社なんかは、看板を用意したりして、ここで撮影していますので、この前にいる方とかは、撮影に同意したものとみなしますみたいなサインを用意しているようなケースもあるようです。

●水野委員
画面も鮮明になってきているし、そういった影響もあるんでしょうかね。むしろ僕は、逆に質問したくて、そういう場合って、工夫されているんですか?これ撮っているよって、脚立に乗って、いかにも撮影してるっていうふうなアピールをすれば、基本的に映りたくない人は、どいてくれるっていう、そういった暗黙の了解みたいな。

(I局)
混雑している時は、逆に危ないんで、脚立使えないんですけども、でかいカメラだと、テレビカメラがいるのは丸分かりなんで、気づかれると思うんですが、混雑する場だと、極力カメラは小さくしてくれと。大きいカメラは危険なので、割と小型カメラで撮っている場合もあるので、逆に気づかれにくい。技術の進歩と共に気づかれにくくなっているのは、あるかもしれません。

●水野委員
あくまで一般論かもしれませんが、クレームにも気に掛けるべきクレームと、ほっといてもいいクレームがあると思います。それを適宜ケースバイケースで、プロとして判断されれば、大方問題はないんじゃないかなと思っています。

●奥委員長
BPO人権委員会として、三宅委員長時代の2014年6月9日、「顔なしインタビュー等についての要望」という委員長談話を出しています。参照していただければ幸いです。私個人としては、一言で言えば、つまり基本的に公共の場なわけですから、そこにいた人間が映っているだけなら、何の問題はないのではないかと考えています。

どうも長時間にわたって、活発なご意見いただき、我々も日ごろ考えていることが、報道現場の中で、どういうふうに受け止められているのか、受け止められていないのかとか、いろいろなことがよく分かりました。
ありがとうございました。

以上

2018年11月28日

長崎県内各局と意見交換会

放送人権委員会の「意見交換会」が11月28日に、長崎市で開催された。放送人権委員会からは奥武則委員長、市川正司委員長代行、二関辰郎委員が、そして長崎県内の民放6局とNHK長崎放送局から30名が参加して、2時間にわたって行われた。
意見交換会では、まず奥委員長が「放送局の現場の生の声を聴く大変貴重な機会であり、積極的な意見を言ってもらえればありがたい」と挨拶し、開始した。そして、市川委員長代行が「事件報道に対する地方公務員からの申立て」について、そのポイントを解説した。続いて奥委員長が「事件報道と人権」と題して、前記委員会決定の少数意見の説明と、「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」を取り上げて説明を行い、それを基に参加者と意見を交わした。
後半は、参加者に事前に答えてもらったアンケートで関心の高かった「実名報道や子どもへのインタビュー、顔写真の使用の際に注意すべきポイント」について、二関委員から解説があった。その後に質疑応答があり、有意義な意見交換となった。
概要は以下のとおり。

◆ 市川委員長代行

「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本)について説明します。申立人は、警察発表に色を付けた報道で、意識がもうろうとしている女性を連れ込んで、無理矢理服を脱がせた、というのは事実と異なる内容だと申し立てました。「容疑を認めている」と放送されたことにより、すべてを認めていると誤認させているという点が一つ。それとフェイスブックから無断使用された顔写真とか、職場や自宅の映像まで流され、非常に極悪人のような印象を受ける報道だったと言っています。
この報道について、時系列的に説明します。まず、警察の広報から「広報連絡」のファックスが流れてきます。「準強制わいせつ事件事案の被疑者の逮捕について」ということで、発生日時、発生場所、申立人の実名、職業・公務員、それから身柄を拘束した、これはその当日の午前10時、通常逮捕です。そして、県内の住所と準強制わいせつという罪名が書かれています。事案の概要は、「被疑者は、上記発生日時・場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したもの」です。
これを受けて、皆さんの疑問は、どういう事案なのか、容疑を認めているのか、となると思いますが、電話で取材した記者は、「被疑者は事案の概要の容疑を認めていますか」と質問し、広報担当の副署長が、「『間違いありません』と認めています」とのやり取りがありました。さらに、「抗拒不能」と書いてあるので、「これはどういうことですか」と聞きました。すると、「容疑者は、市内で知人であったAさんと一緒に飲酒した後、意識がもうろうとしていたAさんをタクシーに乗せ容疑者の自宅に連れ込んだ。それからもうろうとしていたAさんの服を脱がせ、写真を撮影した。そして1か月ほどした後に、写真の存在を知って警察に相談した」と広報担当は説明したということです。広報担当が、「抗拒不能」ということの意味だけでなく、事案の概要の前後のくだりの部分についても、問わず語りに説明したことになります。
警察の広報の内容から考えて、被疑者は何を事実と認めているのかと考えた時に、事案の概要の部分だけなのか、広報担当が言った、マンションに入るまでの「飲酒した後、タクシーに乗せて連れ込んだ」、それから「もうろうとしていたAさんの服を脱がせて写真を撮影した」の部分も含めて、事実と認めているように理解すべきなのか。ここが一つの論点となります。
「申立人がわいせつ目的を持ってAさんを同意のないまま自宅に連れ込んだ」ということと、「Aさんの服を脱がせた」ということは、事案の概要に書かれたこととは別のことです。しかも、事案の概要の事実の前の段階の「連れ込んだ」、それから「意に反して服を脱がせた」、これは非常に大きく事案の悪質性にかかわりますが、広報連絡には書かれていない。そして事案の概要について、申立人は「『間違いありません』と説明した」ということですが、広報担当は、この二つの点について認めているとは明言していません。
それからもう1点、取材時は午前10時に逮捕されてから2時間弱の、その日の正午頃です。そうだとすれば、被疑者が警察の疑いを正確に理解して、その前段階の経緯も含めて詳細に供述しているのかは疑問だと考えられます。私どもは、事案の概要に至るまでのくだりの部分と、服を無理やり脱がせたという点についてまで認めているとは言い難いのではないかと考えました。
これに対して、放送が示す事実は、a~fに分けて書くと、こうなっています。aは、「意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込み」ということが放送されています。bとcの部分はあまり争いがなく、bは、容疑、つまり広報連絡に書いてある事案の概要そのものになります。dで「容疑者は容疑を認めているということです」と言っています。
続けてeで、先ほどのマンションに至るくだりの「連れ込んだということです」。それからfで「服を脱がせ犯行に及んだということです」という説明が続けてなされています。
語尾がすべて「何々"ということです"」と、これはよく使われる言い方なのですが、その前のところも「‥ということです」、「容疑を認めている"ということです"」となっていて同じ語尾になっています。
そこで、放送が示す事実は何かということになるのですが、「容疑を認めている」と放送していることと、犯行の経緯や態様、それから直接の逮捕容疑となった被疑事実を明確に区別せずに放送していることから、このストーリーを含めた事実関係をすべて申立人が認めている、したがって、このストーリー全体が真実だろう、という印象を与えていると考えました。放送倫理上の問題としては、先ほど言ったような広報担当の説明の仕方、それから広報連絡の事案の概要の書きぶりなどを考えると、「広報担当者の説明部分のうち、どの部分まで申立人は事実と認めていることなのか、そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるのかということについて疑問を持ち、その点について丁寧に吟味し、不明な部分があれば広報担当者にさらに質問・取材をするべきではなかったか」ということです。
仮にそこまでの取材が困難であったとすれば、逮捕したばかりの段階で、被疑者の供述についての警察担当者の口頭での説明が真実をそのまま反映しているとは限らず、関係者などへの追加取材も行われていない。そのような段階で留保なしに、「容疑者は容疑を認めています」として、ストーリー全体が真実であると受け止められるような放送の仕方をするべきではなく、少なくとも先ほどの自宅マンションに至る経緯、それから「脱がせた」という、こういった事実については「疑い」や「可能性」にとどまることを、より適切に表現するように努める必要があるのではないかと考えています。
以上のところが、放送倫理上の問題の1点目であります。
放送倫理上の問題の2点目は、薬物使用の疑いの放送部分です。放送は「意識を失った疑いもあるとみて容疑者を追及する方針です」としています。この「疑い」があり「追及する」というところは、一般的に薬物使用の可能性を指摘するにとどまらず、何らかの嫌疑をかけるに足りる具体的な事実や事情があって、その疑いに基づいて警察が被疑者を追及しているのではないかという印象を与えます。そういう意味で、疑いがあるという印象を与えた放送というのは、単なる一般的可能性ではなくて、具体的疑いを示しているという点で正確性を欠くと。このような表現は慎重さを欠いていると言わざるを得ないというのが、2点目の指摘です。
放送倫理上の考え方としては、放送と人権等権利に関する委員会(BRC)決定、これはある大学のラグビー部の事案に関するものですけれども、「警察発表に基づいた放送では、容疑段階で犯人を断定するような表現はするべきではない」、それから「裏付け取材が困難な場合には、容疑段階であることを考慮して、断定的なきめつけや過大、誇張した表現、限度を超える顔写真の多用を避ける」といったことを指摘しています。
それから民放連の「裁判員制度下における事件報道について」の留意点として、予断の排斥等々が出ています。
三つ目が新聞協会の指針で、本件もちょうどこれに近いところですが、「捜査段階の供述の報道にあたっては、供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容のすべてがそのまま真実であるとの印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分配慮する」とあります。これは新聞協会の指針ではありますが、参考になるかと思い決定文の中でも引用しております。
こういったことを受けて「放送倫理上問題あり」と考えました。
結論としては、「副署長の説明は概括的で明確とは言いがたい部分があり、逮捕直後で、関係者への追加取材もできていない段階であったにもかかわらず、本件放送は、警察の明確とは言いがたい説明に依拠して、直接の逮捕容疑となっていない事実についてまで真実であるとの印象を与えるものであった」と。それから、先ほどの薬物等の使用について疑いがあるという印象を与えたと。この2点の指摘が、放送倫理上の問題です。
この決定文では引用してなくて、参考までにということですが、警察発表との関係についての参考判例で、一つは広島地裁の平成9年の判決があります。これは運転中のAさんの車を停めて、Aさんに拳銃様のものを突きつけて下車させ、近くに止めていた乗用車にAさんを乗車させ、ナイフでAさんの右手甲を突き刺したという、監禁致傷で逮捕した、というのが警察の発表でした。また、逮捕時に被疑者は覚醒剤を所持しており、覚醒剤所持の現行犯でも逮捕されました。
さて、それで記事をどう書いたかというと、逮捕の被疑事実を書いたうえで、「調べに対し、容疑者は『後ろを走っていたAさんの車がつけてきたと思い、腹が立った』と供述している」というコメントを加えています。報道側は、記者の動機に関する質問に警察は、「シャブでもやって、被害妄想でやったんだろう」と回答したことから、こういった記事を書いたんだと言ったのですが、警察は裁判になると、この警察の回答自体を行ったことを否定してしまいました。
それで判決では、犯行の動機を供述しているとして、その具体的内容が記載されていることから、被疑事実が単なる疑いに留まらず真実であるという印象を与えるとし、動機の供述の記載は、社会的評価を更に低下させ、真実性・相当性を欠き、名誉毀損になるという結論を出しています。
それからもう一つ、神戸地裁の平成8年のケースですが、広報資料の記載では、何年何月にある人の家の中で電話機を窃取しました、こういう犯罪事実でした。それで、窃盗での通常逮捕です。記事は「民家に忍び込み」というのを付け加えて、「民家に忍び込み、携帯電話を盗んだとして手配され」と書いた。この部分が名誉毀損だという主張をしたわけです。報道側としてみれば、人の家で盗んだのだから、当然、他人の住居に忍び込んだのでしょうと。通常、住居侵入と窃盗は、牽連犯と言って密接に関連するものだと言われているので、警察発表と同じだと主張したのですが、判決のほうは、住居侵入は牽連犯とは言っても、窃盗とは別の犯罪だから、住居侵入を伴う窃盗というのは全然罪状が違う。したがって、警察発表の被疑事実の範囲とは言えないとして、「民家に忍び込み」という部分を名誉毀損と認めました。こういった判例も参考にはなると思います。
最後に、肖像権・プライバシー侵害の問題ですが、先ほどのフェイスブックの写真、それから区役所の外観を撮影し、何々区役所区民課主事と言ったというところで、肖像権・プライバシー侵害だということが論点になったのですが、これは一般論として、委員会は、公務員が刑事事件の被疑者になったからといって、役職や部署にかかわらず、一律に公共性・公益性があるとは言えないだろうと考えています。被疑事件の重大性や、その公務員の役職、仕事の内容に応じて放送の適否を判断すべきだと。ただ本件の対象事件は、準強制わいせつで重い法定刑の事案である。それから申立人が窓口業務ということ、公共的な意味合いの強い場であることを考えると、こうした放送が許されない場合とは言えないだろうと考えました。
繰り返しの写真使用については、これも相当な範囲を逸脱しているとまでは言えないということです。ただし、曽我部委員は、ややこれはやり過ぎではないかという少数意見を言っていますので、後ほど(奥委員長に)説明していただければと思います。
それからフェイスブックから取得した写真の使用の点ですが、まず使用方法については、フェイスブックに公開すると同時に権利を放棄しているのではないかとも言われているのですが、こういう場面で使うことは一般論として一律に許されるとは、私どもも考えておりません。ただ本件については、その公共性・公益性という観点から考えて、こういった画像の使用も認められないわけではない、許されると考えました。
留意点としては、フェイスブックからの画像であると、通常皆、引用元として書かれており、出典を明らかにすることは良いかもしれませんが、これを書くと、視聴者はフェイスブックのその人のページに誘導されて、その申立人の画像だけではない、ほかの画像も見られるということになる。本件でも、申立人の画像以外に、親族の子どもさんの写真なども、その同じフェイスブックの中に入っていたそうで、親族の方からクレームがあり、ウェブサイトに載せていたニュースは短時間で削除した、というような経過があったと聞いています。フェイスブックの写真の利用には、このような側面があることに留意する必要があるということを付言しております。
以上がテレビ熊本で、熊本県民テレビについては、違いだけ説明します。放送が示す事実のところを見ていただきますと、熊本県民テレビは、abcdという、マンションに至るくだりや、「服を脱がせ」というのも含めて、容疑事実をずっと話して、最後にeとしてまとめて「容疑者は『間違いありません』と容疑を認めているということです」と、より端的にすべてを認めているという言い方をしています。
表現としては、テレビ熊本のほうが、やや容疑事実の違いを意識したとも言える放送だった。こちらのほうは、あまりそれは意識せずに、全体を容疑として認めているという言い方をしており、ちょっとニュアンスが違っています。あと、違うところは、放送倫理上の問題について、薬物の使用云々については、表現としては「可能性があるというふうに考えています」という程度の表現ぶりだったので、この点に関しては、熊本県民テレビについては、委員会は問題にしませんでした。
ということで、若干グラデーションが違うところはありますが、放送倫理上の問題を指摘したというのが本件の論点ということになります。

◆ 奥委員長

「事件報道と人権」という少し大きな括りになっていますが、最初に「人権」とは?ということです。難しい定義はさておき、私は「個々人が、社会にあって、幸せに生きることができること」、これが人間の人権だと考えています。放送局にとってみれば、名誉毀損とかプライバシー侵害とか肖像権の侵害とか、こういう形で具体的に人権の問題が出てくるわけです。
放送というのは、人権だけを全面的に考えると、放送できないケースがあります。そこに公共性・公益性や、真実性・真実相当性がある場合には、報道の自由があります。常にこれを人権と比較衡量して、どうなるかというふうに考えなければいけない。
今、市川委員長代行が説明された「事件報道に対する地方公務員からの申立て」事案は、容疑内容にないことまで容疑を認めているような印象を与えたということですが、人権侵害とまでは言えないけれど、放送倫理上問題があるという結論です。これに対して私の少数意見は、警察の広報連絡を基に、警察当局に補充の取材を行って、その結果を放送するのは、容疑者の逮捕を受けた直後の事件報道の流れとして一般的に見られるものであって、内容的にも、警察当局の発表や説明を逸脱した部分はないということで、放送倫理上の特段の問題があったとは考えないというものです。警察の広報担当者の説明があいまいだったということを決定は指摘していますが、新聞報道も大体同じことを書いています。そういう意味でも、本件放送に放送倫理上特段の問題があったとは考えない。
実はもう一つ少数意見がありまして、曽我部さんは、私の少数意見に基本的には賛成だが、放送倫理上問題ないから、それでいいという話ではないことを指摘しています。「もっとも、これは本件報道が良質な報道であったとするものでは全くない。申立人は一若手職員にすぎなかった者であり、本件刑事事件は公務とは無関係なものであるが、公務員というだけで、詳細の分からない段階で、顔写真はともかく、職場の映像の放送や、薬物使用の可能性の指摘、卑劣だとのコメントまで必要だっただろうか。あるいは、こうした扱いにふさわしい取材がなされたといえるだろうか」という疑問を呈して、「申立人の主張を信じるとすれば、若者が時に犯すことのある飲酒の上での軽率な行為という趣のものであった事案が、公務員による計画的な性犯罪であるかのような印象を与えかねないニュースとして報道されてしまったもので、申立人の悔しい思いは理解できるところがある」と述べています。この点は、この案件を考える時に非常に重要な問題だと私も思っています。
次に、「浜名湖切断遺体事件報道」です。これは連続殺人で二人を殺したとして容疑者が逮捕され、地元を震撼させた事件です。
「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関連を調べています」と放送しました。
申立人の訴えの内容は、「殺人事件にかかわったかのように伝えながら、許可なく私の自宅前である私道で撮影した。捜査員が自宅に入る姿や、窓や干してあったプライバシーである布団一式を放送し、名誉や信頼を傷つけられた」というものです。決定は、申立人の人権侵害(名誉毀損、プライバシー侵害)はないという結論です。放送倫理の観点からも問題があるとまでは判断しませんでした。
申立人はこの事件で捕まった容疑者の知人で、事件発覚前にこの容疑者から軽自動車を譲り受けています。さらにこのテレビニュースがあった日に、警察が申立人宅へ赴き、この軽自動車を押収した。そして申立人は、同日以降、数日間にわたって警察の事情聴取を受けている。これについては、申立人も認めている争いのない事実です。申立人の主張の前提は、この日の警察の捜査活動は容疑者による別の窃盗事件の証拠品として申立人宅敷地内にあった軽自動車を押収しただけで、浜名湖連続殺人事件とは関係ない、ということです。ところが、ニュースは「関係者」「関係先の捜索」といった言葉を使い、申立人をこの事件に係わったかのように伝え、申立人の名誉を毀損した。また、申立人宅前の私道から撮影した申立人宅とその周辺の映像が含まれ、申立人であることが特定され、プライバシーが侵害されたと主張しています。
「プライバシー」とは、他人に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄で、本人の意思に反してこれらをみだりに公開した場合はプライバシーの侵害に問われる。ここでは、「みだりに」というところが重要なわけです。本件放送の場合はどうかというと、申立人宅の映像はただちに申立人宅を特定するものではないし、布団や枕などの映像も、外のベランダに干してあるわけですから、個人に関する情報や私生活上の事柄とは言えないだろうということで、プライバシー侵害には当たらないという決定にしました。
一方、ニュースの内容がその人の社会的評価を低下させるということになると、名誉毀損という問題が生ずるわけですが、その際に公共性・公益性があって、さらに真実性・真実相当性があれば名誉毀損に問われないという法理が確立されています。この場合は、現地における大事件ですから、その続報を放送することは、公共性・公益性はもちろんある。問題は、真実性・相当性の検討になってくる。申立人宅における当日の捜査活動が浜名湖遺体切断事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車を押収した。これは本件放送の重要部分で、これには真実性が認められます。
問題は、「関係者」「関係先の捜索」という表現をしたことによって、この真実性を失わせるかどうかです。テレビ静岡は、当日の捜査活動の全体像を知っていたわけではない。リークされた情報があり、捜査本部のある警察署から捜査車両が出て行ったのを追尾していったら、申立人の家で捜索活動が行われたのですが、テレビ静岡は映像を撮った段階では、一体この申立人宅でやっていることは、全体の中でどういうことなのかは、実は分かっていなかったということです。そういう時に「関係者」とか「関係先の捜索」という表現を使うのは、ニュースにおける一般的な用法として逸脱とは言えないという判断をして、申立人に対する名誉毀損は成立しない、という決定になったわけです。
ただ、申立人宅内部の捜索が行われたのかどうかということは実は問題で、アナウンサーのコメントは、最初のニュースが「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は今朝から関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関係を調べています」というものです。申立人宅の映像は、この時を含めて繰り返し使われ、遅くなるほど詳しくなって、2階の窓の映像も加えられたりしています。実際は、家の中の家宅捜索は行われていなかったのですが、あの時点で取材陣が、捜索が行われたと考えたことには相当性が認められる。しかし、時間の推移とともに申立人宅での捜索活動は、車の押収だったことは推定できたはずです。にもかかわらず、だんだん映像が多くなってくるわけですから、申立人宅映像の使用は、より抑制的であるべきではなかったかということを要望しました。
次に少し事件報道一般についてお話ししたいと思います。
「事件報道は人を傷つける」と私はいつも言っています。逮捕された容疑者は当然、「ひどいことをする人間だ」と世間から指弾されます。ほかにその事件の関係者はいろいろいるわけです。容疑者の家族、被害者、その家族、いろんな人がいますけれど、みんな何らかのかたちで傷つくのです。こういうところは、言い過ぎかもしれませんが、事件報道の"原罪"なのかと思います。事件報道は、一方にクールで成熟した市民が受け手としていて、もう一方に熟練した職業人としての腕と情熱、そして品性を持ったジャーナリストがいる。その往還の中で、"原罪"的なものを、つまり事件報道が持っている「悪」を飼い馴らす、という方向でやっていくしかないだろうと考えています。ニュースの送り手としては、腕と情熱が非常に重要だと思います。情熱がないと特ダネが取れません。やっぱり特ダネというのは大変重要なものですが、特ダネを取ろうとすると、しばしば人権を侵害する事態になってしまうこともあります。
事件報道は、つまりは犯罪についての報道です。犯罪を捜査しているのは警察で、ニュースソースの大半は警察なわけです。だから警察が間違うとひどいことになります。この点では松本サリン事件が大きな教訓を残しました。1994年に長野県の松本市の住宅街で未明によく分からないガスが漂って7人死亡したという事件です。その第一通報者が犯人視扱いされて、ひどい報道がされました。長野県警の初動捜査の誤りで、警察情報に依存する報道が、ある意味で仕方ないところはあるけれど、結果は非常に最悪のケースになりました。
ではどうしたらいいのか。よく言われていることは、情報を多角化し、警察情報を相対化しなければいけない。そして、「特ダネ」至上主義からの脱却。松本サリン事件を見ていると、「もうよその社が書くよ」、「これ書かないと特落ちになっちゃうよ」ということがありました。そういう「横並び意識」をどこかで排除しないといけない。では何が必要かというと、私は「道理」の優先というのをいつも言っています。ちょっとおかしくないか、と踏み止まってみる。物事の正しい筋道、筋が通っていることを、しっかりと考えましょうということです。
さて、報道被害について。報道被害が大きく問題になったのは、和歌山毒物カレー事件です。事件があったのは、和歌山市の園部地区という小さな集落で、そこに全国から新聞・テレビ・週刊誌の大取材陣が来て、その地区の住民は日常生活ができなくなったという状況になりました。これはメディアスクラム、集団的過熱取材と言われて、あらためて問題になったのですが、日本新聞協会や民放連も見解等を出しています。民放連の見解を少し紹介しますと、「嫌がる取材対象者を集団で執拗に追いまわしたり、強引に取り囲む取材は避ける。未成年者、特に幼児・児童の場合は特段の配慮を行う」「死傷者を出した現場、通夜・葬儀などでは遺族や関係者の感情に十分配慮する」「直接の取材対象者だけではなく、近隣の住民の日常生活や感情に配慮する。取材車両の駐車方法、取材者の服装、飲食や喫煙時のふるまいなどに注意する」と、具体的に書いています。やっぱり具体的に非常に注意しないといけないということです。
では、メディアスクラム状況を起こさないためにはどうしたらいいのか。現場の記者クラブである種の協定をするとか、そういうことをしなければいけない。しかし、実は問題は、どこまで取材して、何を伝えるかというのが根底にあるので、それを抜きに、協定すればうまくいくという話ではないですから、難問として最後まで残るだろうというふうに思います。
ここに来ている方は、報道の現場の方が多いと思いますが、昔は「知る権利」という言葉がよく使われました。市民から付託されて、メディアは取材対象に向き合う、市民に後押しされるという存在でした。今や、メディアは挟撃されているというのが私の認識で、取材される対象からは、酷いじゃないかとかフェイクニュースだとか言われたり、一方市民の方からは、人権抑圧だというふうに言われたりして、挟撃されている。非常に難問に迫られているのですが、しかし、こうした状況だからといって萎縮してはならない。積極果敢に打って出なければいけないと思います。
新しい『判断ガイド』の前文に、私は「私たちにとって最大の武器は歴史と経験に学ぶことができる力です」と書きました。判断ガイドに沢山の事例がありますが、こういうことで活用していただきたいと思います。「人権」が強く叫ばれるようになって、ますます取材が難しくなるという状況の中ですが、皆さんいろいろ工夫しながら、いいお仕事をしていただきたいと思っています。

◆ 【委員会決定について】

○参加者
「人権」とは?という説明の中に、「個々人が、社会にあって、幸せに生きることができること」とありますが、裸の写真を撮られたこの女性は、社会にあって、幸せに生きることができたのでしょうか。私は一番人権侵害を受けたのは、この女性なのではないかと思うんです。それを許せないという思いが、報道の発露ですし、深く掘り下げて取材しようとした記者の行為は当然だと思います。当然行き過ぎた報道とか反省すべき点はあると思いますが、その被害者の女性を差し置いて、一若手の職員の方がBPOの制度を使って、自分の人権侵害を申し立てるというのが釈然としないので、こういう質問をしました。

●市川委員長代行
被害者の女性とは接触していないので、その後の経過とか、心境というものは把握していません。BPOの建て付け・枠組みは、放送された側と放送局との問題なので、その事件の背景にある被害者の方がどう思ったかなどの点の究明は、構造上どうしても限界があることはご理解いただきたい。この事案は、公共性・公益性があるので報道に値するが、真実らしいとして報道できるところだけでなく、そこまでは認められない事実まで真実らしく認められるように報道している部分が行き過ぎではないか、というのが本決定の言いたいところです。

○参加者
熊本の事案について、あれ以上どういう形で確認等、表現を考えればいいのか、非常に悩んでいるところです。当然初報の段階で、解説員がニュースを補足するような感想を言うのは、私自身もおかしいと思いました。しかし、何月何日被疑者宅で女性が裸を撮影された、というのが事案の概要で、これだけではニュースにならないし、抗えない状態というものを構成する要素として、酒を飲ませたり、連れ込んだりといった具体的な説明をすることが、倫理上問題があるのかを教えていただきたい。

●市川委員長代行
一つは、何を認めているのかという問題です。「認めている」ということは、今までグレーだったものが真っ黒になるわけで、非常に重たい言葉なんです。だとすれば、一体どこからどこまで認めているのかをきちんと吟味すべきだと思います。初報の段階で、広報担当の話を聞いたうえで、実際にどこまで認めているのかを、もう一歩踏み込んで聞けばよりクリアになるはずです。もう一つは、あれ以上の言い方はできないとおっしゃいましたが、事案の概要として書かれたことを認めていると、ここでまず切れるわけです。捜査当局がどこを疑いとして、見立てとして言っているのかは、はっきり区別すべきだと思います。新聞報道では、その辺りを区別しているなと受け止められる全国紙もありました。
また、抗拒不能の状態について聞くのは自然ですが、抗拒不能というのは、酒に酔って抵抗できない状態のことを言うわけであり、それがなぜ起きたかということについては、あの段階では警察は見立てとして考えていたとすると、車に乗せて連れ込んで裸にしたということが、抗拒不能という事実の中に含まれているというふうには受け止めないほうがいい、したがって、事案の概要以外のこともすべて認めているという印象を与える報道はしないほうが良いだろうと思います。

●二関委員
この事案の概要は、裸の状態を撮影したというものです。そのような状況に至るまでには、部屋に行ったり、服を脱いだりといったいろいろな経過があったはずなのに、撮影という一瞬の出来事だけを切り取っているわけです。
なぜその一瞬だけなのかと記者の方も思うはずです。それゆえ、メディアとすれば警察に取材することになるのでしょうが、他方、警察のほうもメディアが絶対聞きに来るなと分かっていて、文書で発表する部分と、あとは口頭で言おうとする部分とを使い分けているのではないかと思います。そのような警察の想定に乗せられてしまった事件ではないか、という気がしています。さらに、もし、無理やり服を脱がせたといったことについても被疑者が犯行を認めていたとすれば、被害者と被疑者という関係者の供述が一致しているわけですから、なおさら、なぜ撮影という一瞬の出来事の部分だけを切り取って事案の概要として公式発表したのか、疑問が生じても良い事案ではなかったかと思います。

○参加者
「肖像権・プライバシー侵害か」のところで、「区民課の窓口で一般市民とも接触する立場にあり、勤務部署も公共的な意味合いの強い場であることに鑑みれば、職場や職場での担当部署を放送することが許されない場合とはいえない」とあるが、一般市民と密接にかかわらない他の部署の一職員だと、その職場の映像はもとより、○○課というような表現をすることは疑問である、という結論に導かれてしまうのでしょうか。

●市川委員長代行
一般的には、選挙される立場の公務員や議員の方たちの、公共性・公益性というのは非常に高く、それ以外の公務員の場合には、地位や扱っている業務との関係で、公共性・公益性が論じられると思うので、今回は窓口の人であることは一つの要素として考えましたが、窓口対応しない人は公共性がないのかと言われれば、そうでもないだろうし、一概には言えないと思います。普通の区役所の職員であった場合に、すべて公共性・公益性が認められ、必ず名前や顔を出し、こういう扱いをすることが認められるかと言うと、必ずしもそうでもないだろうと思います。

●二関委員
当時の議論で覚えているのは、課長職以上のように意思決定に大きな権限を持っている人と、そうでない人とは一線を画すのが妥当であろうといった議論です。このケースでは、若手の現場の職員なので、公共性は低い方に分類されることになるけれども、市民との接点もある人だから、その点も踏まえた考え方を取り入れて、単純に公共性が低いという扱いにはしないようにしましょう、という議論をした経緯があります。

○参加者
立場や役職というものではなく、逮捕容疑の重さで判断していいのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。

●市川委員長代行
そこは仮定の議論なので、何とも言い難いですが、職務とかの要素を考えないで一律にというわけにはいかないのではないかと思います。報道するかしないかということと、どこまで突っ込んで放送するかですね。あの場合には、窓口対応のその窓口の席まで映したわけなんですけど、そこまでやる必要があったかということも関係するのかなと思っています。

○参加者
フェイスブックの写真の使用について、「その友人や家族のマスキングのない写真や情報を閲覧することができるということにもなりうる。フェイスブックの写真の利用にこのような側面があることには留意する必要がある」と書いてあり、意味は分かるが、どう留意すればいいのかは非常に悩むところです。今回の件に関して、そういった議論があったかを参考までにお聞きしたい。

●市川委員長代行
その点はおっしゃる通りで、私どもも正解を持ち合わせているわけではありません。ただ、報道後、フェイスブックの中の写真に小さなお子さんの親族の写真も写っていて、そのお母さんから連絡があったりして、フェイスブックの写真には波及効果があるなということを感じました。
また、WEB上のニュースなどの映像について、いつまで出し続けるかという問題もあると思います。フェイスブックからの引用自体が許されないということはないだろうし、その際に出典は明記するはずだと思いますし、正解はありません。ただ、SNSの写真はそういう紐付け効果みたいなものや、永続的にいろんな人がたどり着けるので、アルバムの写真を載せるのとは違う要素があることは、考えたり気をつけたりしないといけない。今の段階ではそのようなことを考慮して放送すべきだろうと考えます。

●二関委員
他からも入手できる写真があるにもかかわらず、ネットで取れて簡単だからといって、フェイスブックに流れるという姿勢は、避けることができる場合があるように思います。

○参加者
今のご発言について、参考のコメントとして言いますと、おそらく各社がフェイスブックの写真を知り合いの人などに見せて確認したり、他から入手した写真と照合したりしたうえで使っています。裏取りの作業は報道現場でも今は求められていると言えます。
さて今回の熊本の件ですが、私はどうしても奥委員長の少数意見に共感してしまいます。BPO、特に人権委員会は、メディアの人間と、法律家あるいは研究者の、ある意味価値観のせめぎ合いの場なのかなという気もします。それで、参考判例(2)の平成8年の神戸地裁の判決について、当然法律家は判例に沿って考えると思うのですが、社会通念から見て、個人的な評価というか感想を、法律家出身のお二方の忌憚のないところをお聞きしたい。

●市川委員長代行
印象としては、たしかに厳しい判決だろうなとは思います。ここで例として挙げた理由は、今回のような広報資料として出されてきている事実と、それ以外のこととは、やはり違うんですよ、ということです。法律家がこういうふうに考えることは、全く世間から乖離しているということではない。今回の件で言えば、真偽のほどは分からないが、裸の女性の抗拒不能の状態の写真を撮ったという事実と、それ以外の酒を飲ませて、連れ込んで、裸にしてということが付け加わっているのと、受ける印象はかなり大きな違いがあることを考えないといけないと思います。

●二関委員
犯罪事実というのは、午前2時35分から9時30分頃までと幅がありますよね。これが深夜だけしかなかったら「忍び込んだ」というふうに思えるが、人が起きているような時間を含んでいますから、入った経緯までは違うことがあり得ると、理屈で考えればあると思います。ただ市川委員長代行が言ったとおり、たしかに厳しいかなという感想ではあります。

●奥委員長
私は法律の専門家ではありませんが、警察の広報担当者が説明したことを書いたら、それについては基本的には責任は問われない、という判例もあるようです。

○参加者
参考判例(2)は、「忍び込み」を排除して窃盗するということは、相当広げないと常識的に難しいかなと思い、こうしたことがベースになって積み重なっていくのは、結構危険な面もあるのかなというふうに感じたので、こういう質問をした次第です。

●市川委員長代行
先ほど奥委員長が言った、警察発表を信じてそのまま書いたら、それは相当性がありというのは、決定でも引用した、平成2年の判決があります。もう一方で、平成13年の判決では、警察発表だからと言って、被疑事実を客観的真実であるように書いてはいけないというものもあります。そういう意味で、名誉毀損が成立するかどうかという観点からいくと、現在の状況で名誉毀損とまでは言えませんね、と我々は議論して考えました。ただ、違うレベルの問題として、放送倫理の問題から言うと、熊本の事件のこの事案では、放送倫理の問題を指摘できるのではないかということです。

○参加者
熊本の事案は、放送倫理上問題があるという判断で、静岡の事案は、放送倫理に問題があるとまでは判断しなかった、この違いは何だろう、そこまでの違いがあるようには自分の中ですっきりと消化ができていないところがあります。静岡の案件で言うと、軽自動車を譲り受けていた知人の家に、警察が車を押収するなどの捜査活動をしている映像が映っている。私もよく言われますが、特に田舎だと住所を言わなくても、ちょっと映像が映っただけで誰の家かはすぐ分かると。この映像が映ったおかげで、殺人事件にかかわっていないのに、犯人扱いされたという話だと思うが、むしろこっちのほうが熊本の件よりも人権侵害の要素があるのではないかと思ったりします。
静岡の件で、放送に問題があるとまで判断しなかったというところに至ったポイントは、殺人事件に関する報道の公共性・公益性などを重要視したのかどうか、補足で教えていただきたい。

●奥委員長
公共性・公益性ではなく、それはもう入口としては当然ある。問題は、あのニュースが、「関係先」とか「関係者」という表現をしているが、実際に申立人があの事件の犯人と直接かかわりがある、この事件の関係者であるという意味での関係者というふうに、視聴者に受け取られるかというと、必ずしもそうではないでしょう、という判断です。

●市川委員長代行
まず、名誉毀損かどうかを考えた時に、その放送自体がその人の社会的評価を下げるかどうかですが、浜名湖の事案の場合には、特定性の問題もあり、事件の被疑者とは描かれていません。彼の社会的評価を下げていることにはならないということで名誉毀損にはならないということになっています。熊本の場合には、犯罪報道で、申立人は特定されて社会的評価が下がっています。真実性の証明もできていない。しかし、真実と信じたことの相当性というところで名誉毀損とはならなかった。レベル感は違うと思います。

***

●司会
次に事前アンケートの中に、「事件、事故の犠牲者の顔写真を友人から入手して放送する場合、家族の了承は必要でしょうか」とか、「未成年の場合は、保護者の了承を取る必要があるでしょうか」また、「報道で名前や顔などの情報をどこまで出せるのか」といった、各局に共通して気になるところがありました。今回、二関委員にポイントを参考資料にまとめていただきましたので、資料の説明をお願いします。

●二関委員
事務局から、「実名報道」「子どもへのインタビュー」「顔写真の使用」の3件について報告してほしいという依頼がありましたので、これらについて説明したいと思います。
まず「実名報道」ですが、日本新聞協会が『実名報道』(2016年)という冊子を出しておりますので、これをベースに項目等のご説明を簡単にしたいと思います。この冊子には、「実名報道が原則だ」とする根拠が書いてあり、配付資料に挙げている項目がそれに対応しています。メディアがこのような広報をすることは重要ですが、他方、その根拠づけが一般化できるのか、どこに限界があるのかといった視点を持って読むことも重要と思います。
まず一つ目は、「知る権利」への奉仕と書いてあり、最高裁の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」を挙げていて、民主主義社会における国民の「知る権利」の重要性を書いています。「国民の『知る権利』がまっとうされるために、実名は欠かせないと考えます。実名こそが、国民が知るべき事実の核だと信じるからです」と書いてありますが、これは信念であって、これ自体は根拠ではないと思います。また、「民主主義社会において」ということですから、それと関係ない文脈に関する事実についての実名については、この理由づけで説明するのは難しいかと思います。
次に、「不正の追及と公権力の監視」と書いてあります。これは、たしかに大事なことで、今日も地方公務員の話が出ていましたが、公権力に携わる人に対する実名の問題と、一市民の実名の問題とでは、違ってくると思います。
次に、「歴史の記録と社会の情報共有」という項目で、友人や職場の同僚、地域の人々など広い意味での知人は、報道によって安否についての情報を知る、と書いてあります。報道にそのような機能なり効果はあるでしょうが、他方、報道は、全く関係のない人にも広く伝えるものですから、この理由づけによって説明できない人もそれに接するんだという点には留意が必要と思います。
次に、「訴求力と事実の重み」とあって、実名による報道は、匿名と比べ、読者、視聴者への強い訴求力を持ち、事実の重みを伝えるのだ、と書いてあります。たしかに、そういう場合も多いとは思いますが、一方で、文章で工夫することによって、名前を使わなくても訴求力を持った記事はありえ、工夫できる場面によっては実名は必ずしもいらない場合もあるのではないかと考えられます。
あと、「訴えたい被害者」の記載で、被害の事実と背景を、自らの立場から広く社会に訴えようという方もいる、ということです。これは、そういう方もいれば、そうではない方もいる、という話だろうと思います。
以上が「実名報道原則」の関係です。
続いては、「発表情報と報道情報の峻別」という問題です。これは警察に代表されるような公的機関などが、そもそもメディアに対し、実名を伝えないで匿名にしてしまうという問題です。これは本当に大事な問題です。メディア側からすれば、自分たちの責任で報道の段階で出すかどうかを適切に判断するということなのでしょうが、発表する側からすれば、本来実名が出されるべきではない場合に、ある社はきちんと対応していても、よそから実名で出てしまうという問題も生じるかと思います。他方、そうであるからといって公的機関だけが情報を握ったままというのも問題で、なかなか難しい落ちつきどころを見つけにくい問題という気がしています。
次に、「被疑者・被告人と被害者」という項目を挙げました。被疑者・被告人に関しては、裁判例を配付資料の後ろに載せておきました。この二つの事案の裁判例は、実名で犯罪を報道したことで名誉毀損となった裁判の判決です。(「福岡高裁那覇支部2008年10月28日判決」、「東京地裁2015年9月30日判決」とその控訴審「東京高裁2016年3月9日判決」)
これを見ますと、裁判所は実名報道を応援してくれている、というように読み取ることができると思います。いろいろな理由を挙げて、やはりそこには公共性・公益性があるのだと言ってくれています。ただ一方で、プライバシーも大事だと言っています。要は、事件報道に関するものであるから実名でいいと直ちに結論づける発想は、裁判所は取っていません。結構きめ細かく事案ごとに、要素を見て判断していることが分かると思います。
東京地裁で一般論を述べているところがありますので紹介します。プライバシーの侵害については、実名を公表されない法的利益と、これを公表する理由とを比較衡量するのですが、その際に考慮すべきは何かというと、「(1)新聞に掲載された当時の原告の社会的地位、(2)当該犯罪行為の内容、(3)これらが公表されることによって、原告のプライバシーに属する情報が伝達される範囲と、原告が被る具体的被害の程度、(4)記事の目的や意義、(5)当該記事において当該情報を公表する必要性など、その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由に関する諸事情を個別具体的に審理し、これらを比較衡量して判断することが必要」と言っています。
被疑者の場合と、被害者の時とは、だいぶ状況が違います。
被害者に関しましては、冊子『実名報道』の中で、二次被害防止、軽微な事件、性犯罪の被害者、亡くなった被害者本人や遺族にとって「不名誉な死」にあたるか否かを基準に判断をする社もあるとの記載があり、それも一つの考え方かと思います。
それから、「一過性と継続性」という項目も挙げておきました。これは基本的に報道する側は、報道するまでで終わってしまうのに対して、報道される側は、そこから始まる、ということです。インターネットが普及してきますと、そもそも情報が残る、そういう傾向がより顕著になってくるのではないかと思います。
あとは、「報道機関の匿名措置とネットでの実名流布」という問題です。報道機関が匿名措置を1回取っても、ネットではさらされる状況というのが、事件によっては時折見られます。これをどう考えるかということです。報道機関としては、ネットに載っているからうちも、といった情報伝達の横並びの話にはおそらくならなくて、報道機関は報道機関としての矜持を持って対応すべき場面であろうと思います。さらに、気を付けなくてはいけないことは、自分のところで匿名措置を取っていたとしても、ネットの情報と突き合わせることで個人が特定できてしまう、そういうことがあることを念頭に置かなければならない難しい時代に入ってきているという気がします。
実名報道に関しては、当委員会の曽我部委員も、朝日新聞が出している『ジャーナリズム』2016年10月号に記事を書いていますので、ご参考にしていただければと思います。
では2点目にまいりまして、「子どもへのインタビュー」という問題です。これは何がテーマかによって異なってきます。例えば地域のお祭りなどのイベントに参加している子どもを取材する場合と、事件が発生した際に同じ学校の生徒に取材するといった場合とでは違ってくるということは、お分かりいただけると思います。
配付資料に「保護者の承諾」、「本人の承諾」と書きましたが、一定の場合には本人の承諾のみならず、保護者の承諾も取るべきでしょう。「財産権と人格権」と書いたのは、民法などでは、財産権にかかわる事項の場合には、お小遣いを超えるような範囲の時には、親権者などの法定代理人の同意を得ることになっていますが、人格権にかかわることであれば、ある程度の年齢、例えば高校生ぐらいになってくれば、むしろ未成年者であろうとも自分で判断できる事項もあるでしょうから、そういう時に親の同意があるので子どもの同意がなくていい、といった考え方はとりにくいと思います。
そして、NHKの『放送ガイドライン』からの引用ですが、「未成年者の取材や番組出演にあたっては、本人だけでなく、必要に応じて保護者に、その趣旨や内容を説明し承諾を得る」とあります。これは本人からの承諾は当然としたうえでの保護者の承諾ということですね。あと「未成年者に対しては、取材や出演が不利益にならないよう、十分配慮するとともに、精神的な圧迫や不安を与えないよう注意する」とあります。これは2001年に、池田小学校という大阪の事件がありましたが、あの時に事件現場で子どもがインタビューされたことに対して、それを見た視聴者などからかなり批判がありました。そういう子どもの心のケアが大切な時に配慮が足りないとか、ショックを受けている子どもにマイクを向けるとは非常識だ、そういった批判があったことなどを受けて出てきているガイドラインかと理解しています。
あと、BPO青少年委員会が2005年に出した「児童殺傷事件等の報道」についての要望の中で、「被害児童の家族・友人に対する取材」に関する部分を、配付資料に挙げておきました。
最後に3点目の「顔写真の使用」については、今日配られた『判断ガイド2018』の顔写真の使用についていろいろと書かれた場所がありますので、該当頁だけ挙げさせていただきました。時間の都合上、後でお読みいただければと思います。(「匿名報道、モザイク映像等(27頁~)」、「容疑者映像等(42頁~)」、「肖像権(71頁~)」)
ここで言っているのは、安易な顔無しなどはしないということです。ある意味、負のスパイラルみたいなところがあって、顔無しの映像を普段見慣れた視聴者は、例えば取材を受けた時に、「一般的にそうだから自分も顔無しにしてほしい」と要望してくることが増えるでしょうし、取材する側もそのように言われると説明に窮して応じてしまい、その結果、ますます顔無し映像が増えるという流れが、最近できてしまっているような感じがします。そういった流れを、安易な顔無し映像を減らすことでコツコツと軌道修正していくといった地道な取り組みが大切かと思っています。
どの問題にしても、この場合にはこうすべきだという、カチッとした正解がある世界ではないので、なかなか難しいと思いますが、議論のきっかけとしてご報告させていただきました。

○参加者
4年前の土砂災害で高校生の男子が亡くなり取材していたら、同級生が、「良いやつだったから、顔写真を是非使ってほしい」というので、写真をもらって放送したのだが、その後お兄さんから電話があって、「何で勝手に使うんだ」とお怒りになっていた。別のデスクが受けたので、私が引き受けてお兄さんと話をしたら、その段階ではすでに怒りが収まっていて、実は抗議の電話をかけた後に、「親や周囲から怒られた。何てことを言っているんだ」と言われ、それ以上は進まなかったということがありました。
友人、知人から入手した写真、特に未成年者、子どもさんの場合に、もう時間もないし、確認もできたから使った時に、使うという判断をする前に、自分は親の承諾を取りに行くと考えているものかと思い、もし「使わないでくれ」と言われたらどう対応すべきなのか判断に迷うところです。

●市川委員長代行
問題は二つあって、同級生が未成年であり、その未成年から写真をスッともらうこと自体がどうかという問題と、その未成年の被害者の写真を使ったら、被害者の遺族にとってどうかという問題があると思います。最初の点については、その写真の性格にもよるとは思いますが、アルバムや皆さんと一緒に映っている普通の集合写真をもらう時に、その子の親の承諾を取るかと言われると、個人的な見解ですが、そうでもないと思います。被害者のほうについても、どこまでの範囲でご遺族に了解を取るかというのも、にわかに回答できませんが、私の個人的意見としては、すべて取らなきゃいけないというふうには思いません。

●奥委員長
今は写真の話ですが、実名報道の問題とも絡んできて、名前を出してほしくないという時にどうするか。基本的には、どういう報道なのか、どういう事案なのか、どういうケースなのか。先ほど二関委員も比較衡量の話をしていましたが、やっぱりこれには写真が必要なんだ、これには実名が必要なんだ、という判断を、承諾が取れたか取れないかとか、取ろうとか取らないとか、ということとは別に、報道する側でしなければいけないと私は思います。その時は崖から飛び降りてやるんです。後から文句が来たら、それは必要だったというふうに言わざるを得ない。ただし、実名は要らないケースがあるだろうし、実名を載せることによって人権侵害とか二次被害が出てくる問題の時は避ける。顔写真の問題も、要らない場合もあるだろうし、ということを常に考えないといけないのだが、よそから言われたから載せるのを止めましたよ、という話ではなかろうと私は思っています。

●二関委員
私も委員長の意見とほぼ同じですが、いずれにしても何かクレームが来たら、こう説明できるようにしようと、ちゃんと考えたうえで出すか出さないかを決める。外に対して説明できるような判断を経たか、というところが大事だと思います。

●市川委員長代行
写真の場合、どういう切り取り方をするかというのもあって、前回の意見交換で出たのは、被害者のご家族で、母親と幼児のお子さんの写真がフェイスブックに載っていて、非常に広く撮って報道しているところと、顔の部分だけが出るような形で報道しているのとでは、受ける印象がずいぶん違うなと思いました。その事案の性格に見合った形で出す顔写真のほうがふさわしいという話に、意見交換の中でなったことはあります。今回の場合もフェイスブックの写真が2回ぐらい出てくるのですが、カメラを持ってほほえんでいる全身像の写真の印象は、ただ顔写真が出てくるのとすいぶん印象が違う感じがして、報道される側からすると非常にさらされている感じがあるのかもしれないと思いました。参考までに。

○参加者
我々が自社でやるニュースサイトについては、期限を決めて閲覧できるようにしているが、意図せずインターネット上に拡散されていったものは、将来も流れて行ってしまう。我々は公共性・公益性があると判断し、一度出したものではあるが、それが長く残ることによってさらに人権を侵害してしまうおそれが出てくるとかについて、BPOへ申立てや協議になったものなどはありますか。

●奥委員長
何年か前に「大津いじめ事件」についての決定があります。テレビのニュース画像に裁判の資料が出て、いじめの加害者の名前がちょこっと出たんです。ニュースの画像を見ている限りでは全然分からないが、録画して静止画面にしてキャプチャーして拡大すると読める。それがネットに拡散して、被害を受けた方からの訴えがありました。BPOにとっては、たぶん新しい問題でもあったが、テレビ局はそういう形でネットに流れるということを想定して、ニュースなり番組なりを作らなければいけないという結論になりました。
通信と放送の融合とか、いろんなことを言われる時代ですから、それは知らないよ、勝手に向こうがやったことでしょ、という話にはならないと言わざるを得ない。そこまで注意する。これがネットに流れて残った時にどうなるか、そういうことを考えてやらざるを得ない。そういう時代に今至っているなと思います。

●二関委員
別の観点からですが、誰かが勝手に流していて今でもネットで映像を見ることができるからという申立てが来ても、元々の放送局がやっていた時を基準にしてBPOが定めている期限を過ぎていたら、審理入りはしないことになると思います。一方で奥委員長が言ったとおり、注意すべき点があるのはもちろんですが、そういうことがあるからといって、萎縮し過ぎてもいけないのであり、難しいところだと思います。そこについては、いわゆる"忘れられる権利"といった概念で対応して、消すことができるルールが別途適用されるのであれば放送局は萎縮しないで済むかなと、私としては思っていました。しかし、2017年1月の最高裁決定は結構厳しい基準で、なかなか忘れられる権利的なものは認めてくれないので、難しい状況だという感想です。

●市川委員長代行
委員会決定に、無許可スナックの摘発報道の事件というのがあって、テレビ局のサイトで被疑者の方のニュース映像がアップされ、それが約1か月、映像を見ることができる状態になっていたものがあり、事案の重さからしてもやり過ぎではないかということを指摘したことはあります。期間とか名前をどれくらい残すかは、ネットではまた別の配慮が必要だと思います。ただ、それを二次利用したりするのは、基本的にそれ自体をBPOは判断の対象にはしません。

***

こうした参加者との意見交換を受けて、最後に奥委員長が次のように締めくくり閉会した。
「いろいろと直接生の声を聞いて、考えさせられることが沢山ありました。『放送倫理』とは何か、と言われても答えはなかなかなく、どういう点が必要かについてはガイドブックにも書いてありますが、いろいろな事案を考える時には、放送倫理にどう問題があるのかないのかを、その都度事案に即して考えざるを得ないのが実態であります。
実際問題としては、番組を作ったりニュースを流したりしている方が、もっと身近に感じている問題だと思います。その際には、常にそういうことを考えていただきたい。けれども萎縮すると言いますか、当たらず障らずというのでは、報道の使命は達せられないだろうと思いますので、是非果敢にお仕事をしてほしいと、私はいつも言っています。今日は本当にありがとうございました。」

以上

2018年9月27日

新潟で県単位意見交換会

放送人権委員会の県単位意見交換会が9月27日に新潟市で行われ、放送人権委員会から奥武則委員長、曽我部真裕委員長代行、廣田智子委員が、新潟県内の民放6局とNHK新潟放送局から34名が参加して、2時間にわたって行われた。
意見交換会では、まず奥武則委員長から「放送の現場の方々の意見を直接聞いて、有意義な意見交換を行いたい」と挨拶した上で、「事件報道と人権」と題して講演し、それを基に参加者と意見を交わした。
後半では、5月に新潟で起きた「女児殺害事件」をめぐる人権上の課題や取材上の問題などについて取り上げた。事件の状況が、まだ完全には収束しておらず、取材、報道が続いていることなどに配慮し、委員長の判断で放送局側の具体的な発言は公表しないこととした。参加者からは、率直な意見や報告がなされ、活発な意見交換となった。
概要は、以下のとおり。

◆ 奥委員長

「事件報道と人権」ということを考えてみたいのですが、報道の現場、放送局のレベルで考えれば、この人権というのは、具体的には、名誉毀損、あるいはプライバシー侵害、肖像権の侵害ということになろうかと思います。
私は、事件報道は人を傷つけるといつも言っているのですけれども、衛生無害な事件報道はあり得ない。たとえば、あるストーカー事件を考えてみると、Aさんがストーカー行為して捕まった。これが新聞・テレビで報道されると、もちろん、加害者のAさんは、社会的評価を著しく落とします。被害者も、どこか隙があったのではないかとか、そういう形で言われかねない。家族も、ひどいお父さんだと世間から指弾される。いろんな人を傷つける面を事件報道は持っています。
では、こうした人権を考えたら、メディアはこの事件を報道するべきではないのか、しなければ人権侵害は起きない。でも、そう言うわけにはいかない。人権という重い重い問題がある一方で、公共性とか公益性、真実性、真実相当性ということを踏まえて報道する。そこに報道の自由というものがある。つまり、報道の自由と人権をはかりにかけて、どっちが重いかという話になるわけです。
そうした中で、報道の自由というのは、非常に重要な民主主義社会を守る基本的な自由として認められているわけです。「難問としての事件報道」というのは、そんな簡単に答えはないという話なんですね。我々、いつも、人権委員会でいろんな議論をしますが、何か1+1=2というふうな答えは出て来ない。
さて、「事件報道に対する地方公務員からの申し立て」は、2つ事案があって、決定文の内容は微妙に違うところはありますが、基本的な構造は一緒です。地方公務員が準強制わいせつ容疑で逮捕されたというニュース報道で、申立人は事実と異なる内容で、容疑内容にないことまで容疑を認めているような印象を与え、人権侵害を受けた。さらにフェイスブックの写真を無断で使用され、権利を侵害されたという形で申し立ててきました。
決定は、放送倫理上問題ありという結論になりました。少数意見がついている決定です。どうして放送倫理上問題ありになったのか、決定の一番の骨の部分は、警察の逮捕容疑は、意識を失い、抗拒不能の状態にある女性の裸の写真を撮った。これが容疑事実で、これで逮捕した。抗拒不能というのは、要するに、抗うことが出来ない状態のことです。申立人が認めたのも、この点だけだったと。
ところがニュースは、警察の広報担当者の明確とは言い難い説明に依拠して、直接の逮捕容疑となっていない事実についてまで、真実であるとの印象を与え、申立人の名誉への配慮が充分でなく、正確性に疑いのある放送を行う結果となったということで、放送倫理上問題があるという決定になったわけです。
次に、浜名湖切断遺体事件報道、朝から夕方のニュースまで、くり返し行われて、だんだん詳しくなっていく。これは連続殺人で2つの殺人を犯したとして逮捕され、裁判が行われて、死刑判決が出たという事件です。
放送内容は、静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は関係先の捜索を進めて、複数の車両を押収し、事件との関連を調べていますというものです。これが放送の一番根幹部分だと思います。申立人は、殺人事件に関わったかのように伝えながら、許可なく私の自宅前である私道で撮影した。捜査員が自宅に入る姿や、窓や干してあったプライバシーである布団一式を放送し、名誉や信頼を傷つけられたと申し立ててきたわけです。これに対して委員会の決定は、申立人の人権侵害、名誉毀損、プライバシー侵害はないというもので、放送倫理上の観点からも、問題があるとまでは判断しなかった。
どうしてこういう決定になったかと言うと、まず、プライバシー侵害ですが、本件放送の場合、実際問題として、申立人宅の映像は直ちに申立人宅を特定するものではない。放送では、ロングの映像を使い、表札もぼかしを入れたりしている。ベランダに干した布団とか枕は、映り込んだのであって、プライバシーとも言い難いということで、プライバシー侵害にはあたらないと結論が出ました。
そして、真実性相当性の検討です。公共性があって公益性があるニュース報道だとしても、それに真実性があるか、あるいは真実と考えた相当の理由があるかどうかということが、名誉毀損の場合、常に問題になるわけです。この申立人宅における当日の捜査活動が、浜名湖遺体切断事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車が押収された、こういうニュースの根幹部分は、確かに真実性が認められると判断できると思います。
問題は、「関係者」「関係先を捜索」という表現が、この真実性を失わせるかどうかということでした。このニュースが出たプロセスを考えてみると、テレビ静岡は当日の捜査活動の全体像を知っていたわけではない。リークされた情報があり、捜査本部がある警察署から出て行った捜査車両を追尾していったら、車の押収とか、一見家宅捜索らしいことが行われていたわけです。
そういう時に、「関係者」とか「関係先の捜索」という表現は適切かどうかということです。どういう言葉を使うべきか、これから報道現場で考える必要があるかもしれませんが、ニュースにおける一般的な用法として逸脱とは言えないと判断して、申立人に対する名誉毀損は成立しない、との結論になりました。
この申立人宅の映像は特ダネ映像として撮ったということだったのでしょう、最初のニュースから使っていて、午後4時台と6時台のニュースでは、2階の窓の映像も加えている。全体像が分かっていなかったということと、その場の状況を見て、申立人宅でも捜索が行われていたと考えたことには、相当性が認められると判断したわけです。
しかし、この決定には要望もついています。時間の推移と共に、申立人宅の捜索活動は、車の押収が中心だった。別のところでも捜索していて、そこの容疑者の家でも車を押収している。そういうことが分かってきていた中で、申立人宅の映像の使用は、より抑制的であるべきではなかったかということを要望しています。
最初に言いましたが、事件報道はいろんな人を傷つけてしまう。ちょっと変な言い方ですが、私は事件報道には「原罪」があるというふうに考えています。どうしたらいいのか、事件報道というのは、もちろん市民にも成熟してもらわなければ困るんですけれども、やはり送り手の方が一番問題で、熟練した職業人としての腕と情熱、そして品性を持つジャーナリスト、この存在が一番キーだろうと、私は思っています。
事件報道が、どうしても逸脱してしまうのは、犯罪についての報道なわけで、犯罪捜査をしているのは警察ですから、ニュースソースの大半は警察なわけで、警察が間違うと、報道も間違った方向に行ってしまう。松本サリン事件という第一発見者が犯人扱いにされる、ひどい事件がありました。その時、言われたことは、警察報道だけでなくて、警察情報を相対化して、情報を多角化しなければいけない。弁護士を通じて、逮捕された人の声も聞くことも出来る、そういうことをやらなければいけないと。
一方で、すごく難問なのが特ダネ至上主義です。特ダネというのは、すごく重要だと思っていますが、特ダネ至上主義からの脱却というのを、どこかでしないと。横並び意識の排除、向こうもやるから、こっちもやらなきゃという、そういうところからフライングの誤ったニュースが出ちゃうということがあります。松本サリン事件のケースを詳しく調べてみると、やはりこういうことがすごくあるんですね。
私は、道理の優先というのをいつも言っています。道理というのは、物事の正しい筋道ということだと思います。ちょっとおかしいよと思う感覚。筋が通っているかどうか。そういうことについて報道をする人間一人一人が自分の意識の中に持たなければいけないのではないかと思っています。
さて、メディアスクラムですが、報道被害が改めて大きな問題になったのは、1988年に和歌山で起きた毒物カレー事件です。本当に小さな集落に全国から大取材陣が来て、この地区に住んでいる人たちは、日常的な生活が出来なくなりました。重要なことは、1人1人、個々の新聞社なり、報道記者なりが行う行動であれば、必ずしもそれは報道被害を起こさないのだけれども、それが集団になると、過熱して報道被害を生むということです。
この問題は、また後で議論したいと思いますが、集団的過熱取材、報道被害の問題の根底には、やはり、何をどこまで取材して、何を伝えるかという問題があって、単に横並び意識というだけでなく、取材する側は一生懸命頑張って、いろんなことを伝えようとするわけで、それを、どこで留めるかという、そこが実は難問中の難問だろうと思います。

◆ 曽我部代行

放送人権委員会の決定は、委員会の決定とは別に、少数意見、その委員個人の個別の意見を書くことができる仕組みになっています。あくまで、委員個人の意見で、決定と同列に並べることはできませんが、何か考える素材にしてもらえると思っています。「事件報道に対する地方公務からの申立て」事案の決定には3名の少数意見が付いていました。
実際には、認めているのは、写真を撮ったということで、連れ込んだ、脱がせたというのは、あくまで警察の見立てであって、何か客観的な裏付けがあるのかないのか、はっきりしないという状況であったということです。しかし、放送では、それらが客観的な裏付けがあるかのような放送であった。認めているのも、全部認めている印象を与える放送になっていたということで、行き過ぎがあったという決定だったわけです。要するに、そういう厳密な区別を、ちゃんとすべきじゃないかというのが、多数意見だったわけです。
しかし、放送の事件取材の実情からすれば、それはちょっと過剰な要求であって、奥代行(当時)の少数意見は、当時の新聞も同じような報道をしていて、逮捕事実と警察の見立ては、特段区別されていない。そういうものが一般的な取材の方法なのであるから、放送倫理上、それをもって問題があるということはないのではないかという意見でした。
私も同じように思うわけですが、そうは言っても、全く何の問題もないと終わらせてしまっていいのかというと、そこには引っ掛かるものがある。この事案は、要するに20代の区役所の窓口で住民票を発行しているような人なわけです。公務員だからというので、あのように大々的に報道されましたが、公務員といっても、窓口の人なんですね。しかも職務と全然関係ないプライベートでの犯罪なわけで、それを、公務員だからということで、ああいうふうに取り上げることが、本当にどうなのか。一部の局は、自宅マンション前で中継しているとか、そういったことが本当に必要なことなのだろうか、あるべき事件報道という観点からして、望ましいことなのかとか、そういったことを考えるきっかけにしていただきたいと思って付記したというわけです。
もう一つの少数意見は、限られた時間の中で、逮捕された本人に取材することもできない中では、放送倫理上の問題ありということはできないだろうというような意見です。

◆ 【委員会決定について】

●参加者
地方公務員の事案について、私も、この原稿の書き方には、容疑と、それと付随した推測を、もう少しきちっと分けたほうがいいと思いますが、ただ、この決定について思うのは、取材の理想を記していただくのは非常にありがたいのですが、やはり、理想をもってこの倫理上問題ありという結論を出されると、はっきり言って、事件記者に、かなり萎縮効果というのが出てくると思います。
また、決定の中ではないが、裸の写真を撮られることがどうとか、あの程度の事案で中継等々といった、ニュース価値の判断に踏み込んだ発言を知り、『東京視線だな』と思いました。やはり、地方と東京とでは、ニュース価値は違いますし、会社、個人、テレビと新聞でもニュース価値は違います。そういう様々なニュース価値で大きくなったり、その日の事案によって小さくなったりすることはあるので、その辺もぜひ勘案していただければと思います。

●奥委員長
おっしゃることはよくわかる。熊本市では、公務員の犯罪が続いていたことなど、いくつかの要因で、ああいう扱いになったのだと私も思います。ただ、やはり、顔写真が何度も出てきたり、住んでいたマンションとかが出てきたりして、どこかで踏みとどまる可能性はあったのだろうという考え方もあるわけです。
事件報道で言うと、ずいぶん難しくなってきました。しかし、難しくなってきた中で、やはり取材する側が、いろいろ知恵を働かせてやることしかないのだろうと思っています。

●曽我部代行
事件報道のあり方は、時代によって相当変わってきている。今の現実のあり方がずっと永久不変なわけではなくて、常によりよいものに向けて考えていく、そういうくり返しで変化してきたところがある。そういう、これからの発展に向けて、1つの外野からの意見だと受け止めてもらいたい。

●廣田委員
私は、この審理のときにはおりませんでした。ただ、1つの事案で3つも少数意見が付いていて、少数意見を書いた委員に弁護士がいないことに関して、ああ、弁護士的発想だと多数意見の方になるだろうなと思いました。なぜなら、弁護士が裁判をする時に、法規範というのがあって、今、現にこうだから、それでいいというだけではなくて、そこに望まれるものも、その規範の中にあって、その望まれるレベルというのも問題になるわけです。裁判だと、求められるものというのをいつも思い描いてやって行くので、何かそういう違いがあったのかなあと感じました。自分としては、今の議論も非常に参考になりました。(今後)弁護士としての目だけではなく、いろんな角度から考えたいと思いました。

●参加者
若い頃から事件の取材をしてきて、これで放送倫理上問題ありとされると、本当に現場の記者が委縮してしまうことが心配です。警察の発表した事案に基づいて、疑いありという逮捕容疑を伝えるとともに、現場では、その拠り所となるさまざまな情報を取りに行くわけです。今回の場合は、それが混同したところが問題かと思いますが、これが倫理上問題ありとされたことによって、記者のその取材して行く姿勢というか、そこが萎縮してしまうことが心配だという現場の率直な感想です。

●参加者
報道部でデスクをしています。この感じの事件の内容で、顔写真をフェイスブックから取り報道引用で使うとか、自宅前で中継をするとか、そういうことをするかと言われると、ちょっと疑問点はあります。ただ、この原稿の書き方は、その容疑事実と、それから警察取材に基づく内容を報じているという意味において、そんなに問題がある放送内容なのかなと思います。
映像(自宅)は、現場という意味合いで、そこを撮ったのかなと思うし、映像にモザイクをかけて一定の配慮をしようとしている様子も見られます。それに、写真を使う、使わないは、その社のニュースに対する判断に基づいて決まってくるのではないでしょうか。

●奥委員長
委員会の中でも、ニュースの書き方の問題について議論がありました。この時に、警察広報は、抗拒不能の状態の女性の裸の写真を撮ったという容疑事実だけでした。本人は、それは認めていた。だから容疑事実と、そうではない副署長の説明というのを、はっきりとわかるような書き方をしたらよかったのではないかという意見がありました。私も、そうしたほうがよかったし、そうすると、あるいは放送倫理上問題ありというところまで行かなかったのかもしれません。そういう意見があったということを紹介させていただきます。
放送ニュースの原稿というのは、新聞記事と違ってなかなか書きにくいんです。最初にサマリーをパッと言って、それでという話になるから。ですが、そういう点についてもやはり、これから現場でいろいろ工夫して行くことが必要なのだろうと思います。

●曽我部代行
今回、フェイスブックから被疑者の写真を使っています。著作権法上は、報道引用で正当な利用ということにはなっていますけど。著作権とは別に、固有の問題があるだろうと、今後、ご注意いただきたいということも決定に書いています。
フェイスブックの写真というのは、単独で写真だけ存在するわけではなくて、本人のさまざまな日常的な書き込み、そして友人関係というのも全部紐付いて、アカウントにあるわけです。そこに、「フェイスブックより」と表示することは、著作権法上必要な引用元の出典の表示なわけですが、それを観た視聴者は、フェイスブックを見に行って、いろんな日常的な書き込みとか、友人関係とか、芋づる式に知ってしまうことになり、必要以上にプライバシーが拡散してしまうリスクが同時にあるということです。ルール上使ってはいけないということではないですが、そういう特殊性があることを留意する必要があるということを付言しています。

***

●司会
ここからは、地元に即した事案ということで、5月に新潟で起きた、痛ましい女児殺害事件報道をめぐる人権上の課題や、取材上の問題について意見交換をして行きたいと思います。この問題には、BPOにも全国から大変多くの視聴者意見が届きました。
きょうは、参加者の具体的な発言は非公表とします。まず、委員に伺います。

●曽我部代行
新聞通信調査会が、毎年メディアに関する全国世論調査という、NHK、新聞、民放テレビ、インターネット、雑誌に区分してメディアの信頼度について聞いています。10年ぐらい前は、民放テレビは、65パーセントぐらいが信頼していて、それが、直近だと59.2パーセント、少しずつ下がる傾向にあります。NHKは7割ぐらいです。
今回の視聴者意見でいろいろ書かれていることは、この信頼度ということに非常に関わると思います。この視聴者意見を寄せた方々におけるメディアの信頼度というのは、著しく下がっていると思います。今では、インターネットで、事件現場等での取材者の振る舞いが、あっという間に知れ渡り、それがメディアの信頼度に及ぼす影響は非常に大きいと思います。その意味で、テレビ界全体として重く受け止める必要があると思います。
このメディアスクラムの問題は、非常に難しくて、1社1社が節度を持ってやっていても、皆が一遍に来るとメディアスクラムだと言われてしまう。1社では防ぎようがない問題で、テレビ界だけでなく、新聞、週刊誌も含めた報道界全体として取り組みが必要ではないかと思います。
メディアスクラムの防止については、民放連、新聞協会、いろいろ取り決め等はありますが、こういうものは、常にメンテナンスしないと、ただの取り決めになってしまう。ですので、常にいろいろな形で、たとえばある事案が起きた時に、ちゃんと皆さんで振り返りを行うとか、メディアスクラムを防止する仕組みというものをメンテナンスして行く。
それから、事案が何かあったとして、その反省を踏まえてよりよくして行くためにはどうしたらいいのかということを、折りに触れて考えていくことだと思います。全メディアを通じて行うべき取り組みだと思いますが、地元局の皆さん方としては、その地元単位でそういう取り組みをしていただくというのが、まずはできることではないかと思います。

●廣田委員
私からは、弁護士会の議論を紹介したいと思います。今、弁護士会で報道に関して問題になるのは、圧倒的に被害者報道です。これは、相模原の事件、座間の事件とあって、単刀直入に言えば、匿名か、実名かということで、弁護士間でも非常に意見が分かれます。
報道の方たちは、被害者を実名で報道することについて、いろんな根拠を話してくれます。凄惨な犯罪によって、1人の生身の人間がこの世からいなくなったことをきちんと知らせる。実名で報道することで、制度が変わったり、いろんな犯罪の防止にも繋がるとか、共感を得るためとかお聞きしますが、BPOに寄せられた視聴者意見を見てみると、視聴者にはそのようには伝わっていない。報道の方が言う、実名で報道する意味というのが、今、視聴者、国民に届きにくくなっているのかなと思ったのです。ただ、視聴者意見の中には、見たくないとかありますが、見たいものだけを見ていればいいわけではないし、喜ばれるものだけを放送すればいいというものでは絶対なくて、目を背けたいものでも見てもらわなければいけないし、見てもらおうと思って放送されているのだと思います。
では、どういうふうにすればいいのか。弁護士会で話した時に出てきたことが2つあります。1つは、実名にする時期です。事件の中身がまだよくわからないような状態から、座間事件で言えば、性的被害や、自殺願望があったとか、なかったとか、わからないような状態の時に実名にする意味があるのか。少しの時間を置いて、取材をして、その結果として実名で報道してもいいのではないかという点。もう1つは、なぜ実名なのかを説明できないか。座間事件では、新聞社の中で、実名にした理由、考え、至った経緯、悩みのようなことを紙面で書いた新聞があり、そのように、なぜ実名で報道するのかを説明することはできないかというのが、弁護士会の議論で出ています。
プライバシー侵害となることを防ぐためにも、その映像は何のために撮るのか、何のために実名にするのかを考えていただき、できれば説明していただけたら、視聴者や国民も、「ああ、そうなんだ」というふうになるのかなと思います。報道の現場とは全然違う弁護士会での議論ですが、そのような議論がされています。
弁護士会での話をご紹介しましたが、BPOでの個別の、例えば、実名・匿名が問題になったような事案が来た時には、その放送の中でどうかということであって、弁護士会がどうだからということではありません。それに、私自身の意見が、弁護士会の意見と同じというわけでもないので、誤解がないようにお伝えします。

***

こうした委員からの意見を受けて、各局参加者から発言があった。
メディアスクラムについては、極めて狭い地域の中に多くの取材要素が集まっていたこと、東京キー局から局ごとではなく番組ごとに取材が押しかけたこと、IT時代の今、中継車がなくても中継が簡便にできる状況にあることなど、それらが原因の一端にあったのではないかといった報告や、今後も技術革新によってメディアスクラムのようなことが誘発される危険性があるとの指摘もあった。また、関係各方面への取材のあり方については、地元局として自制的な行動をとろうという判断があった一方で、他局との競争、系列局との関係など、困難な対応に直面したといった現場の苦労も示された。そして、実名・匿名扱いを巡る問題では、早い段階から問題意識を持っていたが、その時点で警察広報に判断の根拠となる情報が示されなかったことなど、判断する上での苦悩が語られた。そして会場からは、「よく言われるような、思考停止状態であったようなことは決してなかった」などと、現場の記者が疲弊する中、葛藤しながら取材し、報道をしていた状況を振り返る発言が続いた。
こうした参加者との意見交換を受けて、最後に奥委員長が次のように締めくくった。
「今日、話を聞いていて、匿名・実名にしても、被害者遺族の取材についても、1人1人の取材記者、デスク、そういう方々が非常に悩まれて、悩んだ末に1つの結論を出している。そういう状況がよくわかって、ある意味で、変な言い方ですが、心強く思いました。
この問題、私は、いつも難問だとか、事件報道の原罪だとかと言うのですが、どこかに正しい答があるわけではない。日々起こる事件というのは、1つ1つケースが違うわけで、今回のケースで言えば、非常に特異な事件ではあったわけです。そういう時に、どういう報道が正しいか、正解はないと思います。悩まれて匿名にしたり、実名にしたりするという、そういう作業を積み重ねていくことによって、どうにか、何となく、上手くなるんだろうと思います。これからも、現場にいる方、デスクの方、悩んでいくことになると思いますが、そこは、ある意味で、こういう仕事を選んだ誇りを持って悩んでいただきたいというふうに思います。
今日は、皆さんに現場からの率直な意見を聞かせていただいて、我々3人も大変勉強になりました。お忙しいところ遅くまで、どうも本当にありがとうございました。」

以上

2018年2月2日

長野で県単位意見交換会

放送人権委員会は、2017年度の県単位「意見交換会」を2月2日に長野で開催した。意見交換会には、長野県内の民放5局とNHK長野放送局から47名が参加し、2時間にわたって行われた。意見交換会では、まず濱田純一理事長が「BPOとは何か」をテーマに講演した。その後、最近の委員会決定から「事件報道に対する地方公務員からの申立て」と「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」の決定のポイントを委員から説明し、それを受けて委員と参加者との間で意見を交わした。とくに、フェイスブックにある写真の使用について、各社から軽井沢バス事故での経験が報告されるなど、具体的な意見交換が行われた。
概要は、以下のとおり。

◆ 坂井委員長

本日は、本当にありがとうございます。
まず、ご挨拶に代えて、こういう意見交換会の意義というものを、簡単に述べさせていただきます。
放送人権委員会というのは、申立人がいて、局と申立人の話が、うまく話し合いで解決できないときに申立てを受け付けて、それを委員会で審理をして決定を出すという形式なので、どちらの結論が出ても、誰かは不満を感じることになります。ですが、報道の自由と、名誉、プライバシー、肖像権などの人権、それはどちらかが優越するというものではなくて、報道の自由も大切だけれども、報道する側も報道される側の人権を配慮して報道していかなければならない。そのバランスがどうなのかという問題なので、報道の自由も人権もそのどちらもが大切なのだということを、まず申しあげたいと思います。
放送における表現の自由、報道の自由は、NHKと民放連・民放各局を合わせた放送界全体で、自律して守って行かなければいけないものだと考えています。自律して守っていくということは、放送、報道をするときに、やはり人権に対する配慮もしっかりしていかなければなりません。
私たちは、そういう具体的な事案を扱いますから、委員会がどんな議論をして、どうしてこういう結論になったのかを、放送現場の皆さんと率直に意見交換できることは、すごく大事だと思っています。
さて、委員会決定を読むときのポイントですが、まず、委員会がどういうことを議論したのかということを考えていただくことが大事です。そして考えるときに、結論が厳しいとか厳しくないといった議論ではなくて、どういう事実認定、論理構成をして、こういう結論に至ったのか、そういう視点で読んでいただきたい。そういうところを理解していただくと、決定を今後に生かしていただけるのではないかと思います。もう一点、放送する側にいる方は、ついその立場でものを考えてしまいますが、この放送において、自分が放送された側だったらどう感じるだろうかということを、ぜひ、想像してみていただきたいと思います。
そういう決定文の読み方をしていただき、自分たち放送界で作ったBPOの人権委員会が言っているのだからと、そういうふうな形で生かしていただきたいと思います。

◆ 濱田理事長

BPOというのは、たしかに一つの組織体ではあるのですが、それは同時に社会の仕組み、システムであり、社会を作る一つの考え方、理想的な考え方を示しているのだと思います。
BPOは自主規制機関なのか第三者機関なのか、と聞かれることがよくあります。それについて私は、BPOというのは仕組みです。第三者の支援を得て放送界が自律を行う仕組みなのだと。つまり、もちろん放送界が自律を行うのだけれども、それを応援するのがBPOの役割だと思っています。ですから、何かBPOに任せておけば、この問題は解決できるということではなくて、最後は放送界の皆さま方自身に考えていただかなければいけないことだと思います。
たしかにBPOは、決定を出したり、さまざまな活動をしていますが、そこで目指しているのは、放送界がきちんと自律ができるように手助けをすることで、そのためにBPOではいろいろな仕組みを放送界との間で設けています。決定が出た3か月後に、その決定の趣旨を踏まえてどういう取組みを実際に放送局で行ったのか報告をいただくとか、あるいは決定を踏まえて当該放送局が研修を行う、あるいは今日のような意見交換会を放送局の皆さまと委員との間で行うとか、いろいろな事例を取り上げて一緒に勉強をする、といった取り組みしているわけです。
こうしたさまざまな活動は、決定の付属物ではない、ということを特に強調しておきたいのです。たしかにBPOの活動の中で決定を行うというのは、とても大事な活動です。
しかし、それと同じく、こういう形で意見交換する、さまざまな形の研修を行う、そういうことも合わせてBPOの要となる活動なのです。そういうことを通じて自律というものが最終的に機能するのだと考えています。
その意味では、単に勝った負けたといった勝負事として委員会の判断を読んでいただきたくはない。むしろ、その決定文の中で何を考えるか、何がこれからのジャーナリズムにとって必要なのか、大切なのか、そういうことを考えるメッセージが含まれており、それを読み取っていただきたいと思います。さらに言えば、それぞれ放送に携わっている皆さま方が自分の頭で考えるための材料にしてほしい。それが各委員会の思いです。
時々、長い決定文を読むよりは、何をしたらいけないのか、何をしてよいのか、そういうものをマニュアル化してくれないかというようなことを言われることもありますが、一種の「べからず集」でマニュアル人間を作ることは、ジャーナリズムの在り方としてはあってはならないことだと思います。それは、ジャーナリズムの本質や表現行為の本質に反する。表現をするという行為自体、自分の人格を、その文字あるいは番組に懸けるということだと思います。表現をする者は自分の人格を懸けてこれを伝えようとしているのだという原点を、その思いを、常に忘れないでほしい。それを思い起こすのが、こうした意見交換会などの機会だと受け止めていただけるとうれしいと思います。
こういう意見交換では、委員と放送局の皆さま方との間で結構厳しいやり取りをすることがありますが、それはとても大事なことだと思います。それがうまく機能するために大事なことは、お互いにそれぞれ良心、誠実さ、誇り、あるいは志を持って表現ということを行っているのだと、そういう相互了解があるということが一番大事だと思います。そうであってこそ、いろんな角度から物事を眺めてみよう、ああいう考え方もある、こういう考え方もあるということを柔軟に受け止めて学んでいくことができる。放送局の方々も、委員のほうも、こういうやり取りの中から学んでいくことが少なからずあります。そういうものとして、こういう場が持たれていると思っています。
そういう中で、人権委員会はもちろん、ほかの二つの委員会を見ていて「とても大事にしているな」と思うのは、徹底的に事実というものにこだわっていることです。放送番組というのは、一つの表現であり、表現のやり方にはいろいろな手法がありうると思います。だけども、究極的には事実にこだわって、そのうえで、ものを作っている。その姿勢は、やはり放送というものがジャーナリズムである以上は、一番の原点であります。最近、オルタナティブ・ファクトだとか、ポスト・トゥルースだとか、だんだん事実というものが怪しくなってきているところがありますが、やはり放送、新聞といったマスメディアというものは、徹底的に事実にこだわってほしいと思いますし、委員の方々も、そういうところをしっかり押さえながら判断をされているのだろうと思います。
もう一つ付け加えておきたいのですが、委員会は、法的に許されるか許されないかという単に法的判断だけではなくて、倫理的な判断として、これは如何なものか、あるいはこれは許されるか、といった倫理を巡る判断もします。非常に大雑把に言うと、法も倫理の一部なのですが、倫理というのは法的なルールよりはもっと広い概念ということになります。もし倫理というものを法的な規制と同じように扱うことになると、これは、法的な規制があるのに、さらに倫理々々でどんどん縛られていくのかというだけの話になってしまいます。
法的な規制というのは、それなりに、これまでの歴史の中で練られてきた。そういう意味では自由の逸脱を抑制するためには必要な部分があるのですけれども、倫理というのは、むしろ自分たちが行為する表現の自由の質を高めていく、そういうものだと思います。倫理を巡る議論というのは、ただ判断の結果をリスペクトするというだけではなくて、そういう判断が実際に正しいのかどうか、もう一度、放送界の皆さま方も自分の頭で考えてみる。一方的に受け取るだけではなくて、「自分はこう思う」といった意見も、むしろ積極的に出していただく。そういう中でこそ倫理というものが本当に根付いていくことになるのだと思います。
放送の自由と自律、この調整は、なかなか常に難しい課題ですけれども、常に放送にかかわる方々が自分たちが表現をするという誇りと緊張感を失わないことが、とても大切であり、それが、放送という活動の原点だと思います。そういうことを常に呼び起こしてもらうように、それを応援していくのがBPOの役割だと、私は思っています。
BPOというのは、組織があって活動してればそれでいいというわけではなくて、こういうやり取り、あるいは視聴者とのやり取りを含め、社会の仕組みの中に根付いていくことが大切だと思います。そのようなやり取りをしながら、自由と倫理、あるいは自由と自律の調整を図っていくという社会の在り方は、民主主義社会の一つの在り方として大変素晴らしいと思っています。
ぜひ、私たちもこういう思いを持ってこの意見交換会に臨んでいるということをご理解いただいて、皆さま方からも積極的なご議論をいただければと思っています。

(司会)
今日は、事件報道に対する決定から、さらに焦点を絞って取り上げたいと思います。

◆ 【委員会決定第63号、第64号「事件報道に対する地方公務員からの申立て」】

(市川委員長代行)
では、委員会決定第63号のテレビ熊本のほうから、我々がどこで問題に感じたのかというところを中心にお話しします。この決定は「名誉毀損ではない、しかし放送倫理上の問題はあり」という結論です。それに少数意見がありました。
事案の概要ですが、申立人は、「意識が朦朧とした女性を連れ込み、無理やり服を脱がせた」と、警察発表に色を付けて報道し、自分が認めてもいないことを放送しており、これらのことを「容疑を認めている」と放送することにより、すべてを認めていると誤認させたと主張しています。また、フェイスブックの写真が無断で使用され、職場の内部、自宅の映像まで放送されるという、完全な極悪人のような報道内容で、人権侵害を受けたという主張です。
一方、テレビ熊本は、現職の公務員が起こした準強制猥褻の事案であって、その影響は大きいことから、こういう報道の仕方は問題ないのだと。それから、他の事案同様に取材を重ね、事実のみを報道したとして、人権侵害は全くないという主張でした。
きょうは、事案の取材から放送までの経過を追いながら説明いたします。逮捕当日の10時頃、報道各社にファックスで警察から広報連絡が入ります。その広報連絡には、「準強制猥褻事件被疑者の逮捕、発生日時、発生場所、申立人の実名、年齢、住所、申立人の職業、公務員である」ということと、「身柄措置が午前10時」、「通常逮捕」で、「被害者と逮捕罪名」と「事案の概要」が書いてあります。
その「事案の概要」に書いてあるのは、「被疑者は、上記発生日時、場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したもの」と、これだけです。
ここで記者が警察の広報担当とどういうやり取りをしたかですが、記者は、「この容疑事実について、事案の概要の容疑を認めているのか?」と聞いたのに対して、広報担当は、「『間違いありません』と認めている」というふうに答えました。
そして、記者は、もう少し事実関係がどうなのか知りたいと、「抗拒不能というのはどういうことなのか?」と聞いています。それに対する答えはひとつながりで、「容疑者が市内で知人であったAさんと一緒に飲酒した後、意識が朦朧としていたAさんをタクシーに乗せて容疑者の自宅に連れ込んだ」、それから「容疑者は意識が朦朧としたAさんの服を脱がせ、写真を撮影した。Aさんは、朝、目が覚めて、裸であることに気付いた」、「1か月ほどした後、Aさんは第三者から知らされて、容疑者が自分の裸の写真のデータを持っていることを知り、警察に相談した」、このように答えています。
質問は、「抗拒不能とはどういうことか?」というものですが、これに対して広報担当者は、直接、それに答えるだけではなくて、それ以前の、マンションの部屋に入るまでの状況、それから、そのあとの状況も説明をしています。
そうだとするときに、記者としてどういうふうに理解するか、この「『容疑を認めている』というのは、何を認めているというふうに理解すればいいのだろうか?」ということが、次に問題になると思います。最初にあった広報連絡の「事案の概要」の部分、その部分に限るのか、それとも副署長が説明した、一連の成り行きと言うか、経緯部分とその後の部分も含めたものか。特に、その「Aさんと一緒に飲酒した後、意識朦朧としていたAさんを自宅に連れ込んだ」、それから「Aさんの服を脱がせて写真を撮影した」という、この後半部分も含めるのかどうか、これらも含めて事実を認めているのかどうかというところが、一つ問題になるわけです。
この点について私どもは、この取材の中で、いくつかの事情を考えるべきだったのでは、というふうに考えました。
一つは、広報担当の副署長は、広報連絡に書いた「事案の概要」について「間違いありません」とは言っているけれども、犯行に至る経緯というところについては明確に認めているというふうに言っているわけでない。「抗拒不能とはどういうことですか」、という質問に対して一連の事実を説明したということに過ぎないわけで、すべてについて認めているということまでは言えないのではないか、明言はしてないのではないかと。
「猥褻目的でAさんを自宅に連れ込んだ」と「それから服を脱がせた」ということは、「事案の概要」には書いてないわけで、抗拒不能の状態で裸であったこととこれらのことは別のことなので、やはり、これらのことまで申立人が認めた趣旨という説明とは言えないのではないかと。
それから、副署長への取材は、10時に逮捕されて2時間弱しか経っていない時点です。事案の概要で示された「抗拒不能の状態云々」という、これは被疑事実に当たるわけですけれども、弁解録取をしたときに、被疑者が果たしてそういった被疑事実に対する認否を超えた部分の犯行の経緯について、正確に警察からの疑いを理解して詳細に供述しているのかも疑問が生じます。
さらに、Aさんが、翌朝には裸であったことを認識していたのですが、1か月後に写真データを知って警察に相談したという、こういった経緯についても考えるべきではないかと。
そして、連れ込んだといったことは、むしろ一般的に言えば撮影する行為以上の違法性が強いことも考えると、広報連絡に書いてある事案の概要の事実とは別の問題として、きちんと捉えるべきではないかというふうに考えたわけです。
それに対して放送が示している事実ですが、abcdefと順に整理して並べていますが、この順に読み上げています。熊本テレビはabcまでのところのあとで「容疑を認めているということです」というふうに言って、さらにefというところで、その事案の概要にない部分の詳しいことを説明しています。
これらの説明の語尾を見ていただくと、「~ということです」というふうになっていて、これは最近の事件報道で「~ということです」という、疑い、容疑事実として説明するという意味では、こういう説明の仕方は決して間違いではないと思います。ただ、同じ語尾を使っている中で、dというところで「容疑を認めているということです」ということが入ってくると、やはり、全体としてaからfまでのすべてを認めているという印象を、どうしても受けざるを得ないのではないかと考えました。ですので、放送で示した事実は、ストーリー全体を真実であろうという印象を与えるのではないかと考えました。
そして、放送倫理上の問題としては、今の説明のように、どの部分までが申立人は事実と認めているのか、そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるかについて疑問を持つべきで、その点を丁寧に吟味して、不明な部分があれば、広報担当者にさらに質問、取材すべきだったのではないか。認めている部分はどこまでなのか、容疑事実の部分なのか、それとも、部屋に連れ込み、その後、服を脱がせたという、詳しい経過部分についてまで認めているのかを、突っ込んで聞くことはできたのではないかと考えました。仮にそこまで無理だったとしても、逮捕直後のこの段階での事案の説明としては、疑いや可能性に留まるということを、表現の中で、より適切にするべきではなかったのかと考えました。
あと、もう一点、薬物使用の疑いについて、「疑いもあると見て容疑者を追及する方針です」という言い方をしています。「疑い」、「追及する方針」というのは、一般的な可能性ということに留まらずに、何らかの嫌疑を掛ける具体的な事情があるのではないかとの印象を与えるという意味で、表現としては不適切ではないかと考えました。それが放送倫理上の二つの問題点です。
放送倫理上の考え方については、詳しく説明しませんが、民放連、新聞協会、それからBPOの決定文でも記載してありますので、報道に際して考えていただければと思います。
次に、肖像権・プライバシー権の侵害ですが、これは申立人が主張していた点で、職場や自宅を詳しく放送された。それから、フェイスブックの写真を何度も放送されたという点です。「公務員である、ということを考えると」、というのがテレビ局の説明でしたが、私どもは、公務員であれば必ずすべての場合にこうした放送の仕方が許されるとは考えていません。その職場や担当部署とか、そういうことを考慮しないで、一律に正当化されるわけではないだろうと思います。やはり、被疑事件、事実の重大性とか、公務員の役職であるとか仕事内容に応じて、放送の適否を判断すべきだと考えています。ただ、本件については、重い法定刑の事案であり、区民課の窓口で一般市民に接触する立場ということも考えて、やむを得なかったのではないかと考えました。
それから、繰り返しの写真使用については、問題ないと結論としては考えていますが、特にフェイスブックの画像は、ネット上では、公開され、誰でも見られるわけですけれども、そのことと、放送ができる、許されるかどうかというのは、別の問題だと考えています。
本件では、特に留意点として、同じフェイスブックの中にこの方の親族の写真も何枚か入っていたため、この放送を見た方がフェイスブックを見に行くと、その親族らの画像もあって、親族の画像も見ることになる、そういうフェイスブックのちょっと特殊な側面、そういった点は留意する必要があるだろうと付言しています。だからやってはいけないということではありませんが、その点での注意が必要だということです。この件では、ご家族からテレビ局に対して指摘があり、テレビ局は、ウェブ上でのニュース映像については、短期間で削除した経過があったと聞いています。
熊本県民テレビの事案について、違う点は、放送の内容について、ある意味で、より明確なところがあり、aからdまでに整理した、事案の概要にあたる事実と、その経過部分も含めて言ったあとで、最後のところで「容疑に対して『間違いありません』と認めています」と言っていて、これを見ると、これはaからdまで言ったことすべて認めているというふうに放送が示して、印象を与えるというところが明らかで、その点で放送倫理上の問題があると考えています。

◆ 【委員会決定第66号「浜名湖切断遺体事件報道」】

(奥委員長代行)
ニュース映像を見てもらいましたが、あれは一つのニュースではなくて、午前中の時間帯から4回流れていって、だんだん詳しくなっています。BPOの人権委員会として、この事案を、なぜ、人権侵害としなかったのかというところに絞って考えてみます。
これは静岡では大変大きな事件で、テレビ静岡もすごく力を入れて報道しました。申立人は後に容疑者として逮捕された人の知人です。事件発覚前に容疑者から軽自動車を譲り受けています。2016年7月14日に警察が申立人宅に赴いて、この軽自動車を押収し、申立人は同日以降数日間にわたって警察の事情聴取を受けている。これは申立人も認めていて、争いのない事実なんですね。
申立人の主張の一つは、たしかに車を押収されたけれども、それは容疑者による別の窃盗事件の証拠品として押収されたもので、浜名湖切断遺体事件とは関係ないというものです。そして、ニュースの中で、関係者とか、関係先とか、関係先の捜索と言う言葉が使われていて、こういう言葉を使われたことによって、申立人がこの事件にかかわったかのように受け取られる。それから、申立人宅の前の私道から撮影して申立人宅とその周辺の映像があって、これは見た人から申立人宅であることが特定されてしまう。この点で名誉毀損であり、プライバシー侵害だという主張です。
これに対して委員会の判断は、外形的な事実としては、証拠品としての軽自動車の押収だったことは間違いない。しかし、テレビ静岡は良く分からないまま、そういう情報があるというので、張っていたら警察車両が行ったので取材した、という状況でした。捜査本部が間違いなく動いていて、大々的に捜査していますし、実際に申立人からも事情聴取をしている。単に車を譲り受けた経緯だけではなくて、容疑者についてもいろいろ聞いている。こうしたことを総合すると、当日の申立人宅での警察の活動が、浜名湖切断遺体事件の捜査の一環だったというふうに判断せざるを得ない。この点で申立人の主張は退けられてしまうわけです。
人権侵害、名誉毀損というのは、申立人の社会的評価が、そのニュースが流れることによって低下したかどうかということです。申立人宅の映像がいろいろ映りましたが、ロングの映像を使っていたり、映った表札を隠したりして、申立人宅を特定するものとは言えない。ただ、当日、捜査陣が来て大騒ぎしていましたから、あの映像を見ると、周辺住民には、この事件だったのかと、申立人宅と特定できた可能性は否定できないと判断しました。
けれども、社会的評価が低下したからと言って、すぐそれで名誉毀損が成立するわけではなく、その事実摘示に公共性、公益目的があるかどうか、さらに真実性、相当性を検討する必要があるわけです。
ここで一番重要なところは、関係先あるいは関係先の捜索という表現が、このニュースの重要部分の真実性を失わせることになったのかどうかということです。これは後で説明するとして、分かりやすいプライバシーのほうから話します。プライバシーとは、他者に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄です。本人の意思に反してこれをみだりに公開した場合は、プライバシーの侵害に問われます。本件の場合、申立人宅の映像は直ちに申立人宅を特定するものではない。布団とか枕が映っていたと申立人は主張していますが、これも、いわゆる守られるべきプライバシーとは言えないだろうということで、結論的にはプライバシー侵害にはあたらないと判断しました。
そして、名誉毀損のほうですが、関係先とか、関係者とか関係先の捜索という部分について、真実性、相当性の検討することになります。
申立人宅における当時の捜索活動が、浜名湖切断遺体事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車が押収されたことは争いがないわけです。しかし、申立人は、関係者、関係先の捜索という表現があることによって、この事件と全然関係ないのに共犯者だとか、何か事情を知っているとか、そう周りから思われたと言っているわけです。テレビ静岡は、当日の捜査活動の全体像を、取材に入った段階で知っていたわけではないのですね。警察の捜査車両の後について行ったら、そこで捜査活動が行われて、車が押収された。それで、それを特ダネ映像だとして写したということです。
こうした場合、申立人や申立人宅をニュースの中で、どう表現するかということですね。本件放送は関係者とか関係先の捜索という表現を使った。こういう言葉の使い方は、ニュースにおける一般的な用語としては、逸脱とは言えないだろうと委員会は判断しました。そういうことで、申立人に対する名誉毀損は成立しないということになりました。
ただ、やはり放送倫理の観点から考えると、必ずしも、全く問題がないとは言えないだろうという感じがしました。先に述べたように、テレビ静岡は当日の警察の捜査活動の具体的な内容をつかんでいたわけではありません。捜索は3か所ぐらいで行われていました。
事態がだんだん動いてくるときに、どう考えたのかということが焦点で、良く分からないけども、ともかく目前で展開される捜査活動を取材する一環として、申立人宅を撮影したことに問題はないだろう。それに、それなりの配慮をして、ロングの映像を使っているとか、表札が見えないようしている。そういうこともしていて放送倫理上問題があるとまでは言えない。放送倫理というのをどう考えるかというのは、非常に難しい問題があるわけですけれども、委員会の総意として放送倫理上問題があるとまでは言えないだろうということになりました。
しかし、最初のニュースの段階では、「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は今朝から関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関連を調べています」とこう言っています。ここで関係先というのが出てくるわけです。そして、実際ニュースでは、この申立人宅の映像が、この最初のニュースを含めてくり返し使われている。
そして、午後4時台と午後6時台のニュースと遅くなるほど、詳細に、2階の窓の映像も加えている。実際、家の中まで入り込んで捜索が行われたかどうかというのは、分からないところがありましたが、申立人宅でも捜索が行われた、というふうに考えたことには、相当性が認められるだろうと判断しました。
しかし、時間の推移と共に、この申立人宅での捜査活動は車の押収だったことは分かったと思います。他のところでは、実際に家宅捜索もしていて、容疑者を任意同行している。捜査活動の中心はそちらのほうだったことは、推定できたはずだ。そうすると、くり返し申立人宅の映像を流し、なおかつ後になるほど増えてくる状況には問題があるのではないか。そこで、申立人宅の映像の使用はより抑制的であるべきではなかったかということを、決定文に書いたわけです。
この「より抑制的であるべきではなかったか」ということを、実際はどうしたらいいのかと、いろいろなところで聞かれます。これは、皆さんがそれぞれ考えなければいけないのですけれども、抑制的であるべきであったということは言えるだろうと思っているわけです。ですから、放送倫理上問題あるとまでは言えないけども、放送倫理上こういうことを考えてほしい、という決定になりました。

◆ 【意見交換】

(司会)
ここから意見交換に入りたいと思います。3つの事案をご紹介しました。事前のアンケートでは、決定文を読んだがよく分からないといった意見も散見されましたが、いかがでしょう。

(C放送局)
3事案とも、全国どこでも起こりうることで、私も大変考えさせられました。地方公務員事案では、申立ては二つの局に対して行われていますが、他の放送局はどんな伝え方をしたのか。申立人からすると、この2局が他局と比べて大きく違った点や、納得いかない点があったのでしょうか。

(坂井委員長)
その点は、よく出てくる疑問ですが、申立てとして残ったのはこの2件ということです。この事件が報道されたとき、申立人は逮捕されていて直接見ていません。出てきてからご覧になって、最初は各局全部問題にしようと思ったかもしれませんが、見た結果、申立てとして残ったのがこの2局だということです。なぜこの2局なのかという点は、本人からは直接聞いていないので、答えることはできません。ただ、これは私の個人的な想像ですが、フェイスブックの映像の使い方だとか、写真をどんな大きさで何回使うか、みたいなことが、きっと関係しているのではないかと想像しています。

(A放送局)
同じ事案で、我々からすると、やや不本意な、と言うか、こういう原稿の書き方は、私たちでもするだろうなと思う点が2点あります。一つは、そのニュース価値という点が、あまり今回検討されていないのですが、なぜ裸の女性が部屋にいたのかということが、ニュースにとって一番大事な観点になります。つまり、もし女性が自発的、もしくは了解のもとで部屋に入って、服を脱いだということであれば、それは全く事件の本質が変わってくるわけです。そうしたニュース価値の重みの中で、当然、デスクにしても、記者にしても、そこをまず聞かなければいけないと考えたと思います。
もう一つのポイントは、実際の取材の中での警察との関係性というところだと思います。基本的に副署長というのはスポークスマンですから、僕たちの感覚としては、嘘は言わない、知らないことは知らないと言うけれども、嘘は言わないという前提に立っています。そこが崩れてしまうと、報道が成り立ちませんので、そういう中で、最も記者が知りたいニュースの価値の部分、つまり、なぜそこで抗拒不能な形でいたのかということを聞いたとき、認めていますという中の、さらに、感覚としては、ちょっとサービス的な発言でもあるかと思うのですが、具体的な内容を、経緯、内容を話したということであれば、我々としては、ニュースの重みと価値判断と、それから通常の取材の中で、これは信じるに足りると判断せざるをえない。たしかに、もう1回、どこまで事実ですかと聞けばいいと言えば、そうですが、ただ、日常の取材活動の中での判断として、ここが放送倫理上問題と言われると、ちょっと厳しいなという感触を持っています。
特に、決定の中にあったように、連れ込む、または服を脱がすことがより悪質だとしても、これはまさに相対の問題なので、極めて立証の難しい、また取材も性犯罪になるので難しい問題になります。そういう中で、出てきた最終的な表現、まとめ方をもって、この決定というのは少し厳しいというか、放送としてはなかなか難しいなという感想を持っております。

(坂井委員長)
それは、まさにポイントで、現場の立場からおっしゃるのは、よく理解できますが、その裏返しをぜひ申しあげておきたいと思います。
単に仲良く一緒に家に行って、裸になった姿を写真に撮っただけであったら、全然、話が変わるという問題意識を持っておられる。それはまさに話が違ってくるわけです。同じころ、東京でも酔っ払っている女性を無理やり家に連れさらって、裸にして強姦するような事件が何度かありました。それとは、性質が全然違いますよね。裸になっている女性の写真を単に撮ったというのと、拉致して連れ帰って裸にして強姦してしまう、というようなこととは、全然違う。裏を返せばそういう話だと思うんですね。
そこを当然聞きたくなるのは、分かります。その問題意識を前提に、このとき、どういう容疑事実で、どういう取材結果だったのか、ということを冷静に考えていただければありがたいというのが、委員会決定の立場です。そういう大変な事件であれば、そもそもこのような容疑事実にはならない。拉致して連れ帰って、無理やり服を脱がせて、裸の写真を撮ったのであれば、連れ帰れば逮捕監禁かもしれないし、服を脱がせたとすれば、それが、むしろ準強制わいせつになるので、写真を撮ったところで準強制わいせつにならない。なのに、このときの容疑事実は、極めてイレギュラーな容疑事実になっている。
経験のある方でしたら分かると思います。この容疑事実は、何か普通ではないと。ぜひ、そこに突っ込んでいただきたい。そして、これ、二つの番組でちょっとニュアンス違いますよね。二つ目のほうは割とまとめて認めていますと言っている。一つ目は、分けて書いていたけど、後ろのほうも結局まとめて認めているみたいな、ちょっとニュアンス違いますが、いずれにしても取材の現場では、容疑事実は写真を撮ったというだけです。裸になっている写真を撮った。黙って撮った。そして、認めているのですか、認めていますっていう、テレビ熊本はそういう取材結果だったと思います。広報連絡。副署長にですね。その後に、抗拒不能とは、どういう意味ですかと。容疑事実は抗拒不能で裸でいる女性の写真を撮った。その抗拒不能とは、何でしょうかと聞いたら、副署長が、容疑事実でないことまでいろいろ話し出したというときに、あれ、容疑事実と違うのではないか、もしそうだとしたら、全然違う話になるのではないかということに、気づいてもいいのではないかというのが、決定の立場なのです。
たとえば、サツ回り1年目の人がすぐそういうこと気づくかというと、必ずしもそうでないかもしれないけれども、報道された側の立場からすると、意識不明の女性を家に連れ帰って、服をはぎ取って、写真撮ったという報道になるのか、家にいて裸でいる女性を、ただ写真を撮ったという報道をされるかは、報道される側にとってのダメージはすごく違うだろうと思います。でも、そうは言っても、我々の決定は、だから名誉毀損だとは言っていなくて、相当性はあるとしています。
そこが接点だと思いますが、副署長の説明は曖昧で、質問と答えが食い違っているし、ここは信じてもしかたがないから、名誉毀損ではない。決定としては、これは相当性ありだと。でも、その部分は、冷静に考えたら、放送倫理上の問題があると言えるのではないか、というのが決定の立場です。少数意見を唱えた委員もいましたが、決定全体としてはそういう結論になったということです。

(司会)
この決定に少数意見を書かれた委員から付け加えることはありますか。

(奥委員長代行)
事件があって、簡単なことしか書いていない広報連絡を持って副署長のところに行き、抗拒不能とはどういうことですか、どうして抗拒不能になったのですかとか、いろいろ聞いて、副署長がそれなりに一貫した説明をすれば、それを第一報として書くのは、事件報道として逸脱しているとは言えないだろうということで、少数意見を書きました。

(坂井委員長)
ちょっと付け加えますが、この事件は結局、示談が成立して起訴猶予になっているため、本当は何が起きたのか、我々も分かりません。相手の女性から話を聞いているわけでもないし、警察に取材したわけでもない。
でも、結局刑事事件にならなかったというときに、最初の報道で、ダメージの大きい報道をして、そういう報道をされた人間が受けるダメージというのはどうなのかということは、個人的にはやっぱり考えるべきだと思っています。

(市川委員長代行)
あと、警察との関係についてどう考えるのかは、なかなか難しいことです。ここまで取材で引き出すことができて、全部話してもらえたということは、取材として必要なことだと思います。とくに、この事案の概要だけ放送しても、何が何だか分からないですから。ただ、その一方で、やはり「容疑を認めている」と言うことの与える印象というのはすごく強くて、グレーなものが真っ黒という印象を、非常に強く与えやすい。そうであるとすれば、「容疑を認めている」という言葉を使う以上は、認めているのはここまでで、それ以外の部分はあくまでも疑いのレベルだということは、きちっと書きわけてほしいと思います。

【フェイスブック写真の使用について】
(司会)
この決定は、フェイスブックの使い方について付言されているところもポイントです。フェイスブックの使い方がクローズアップされたのは、軽井沢でのバス事故ごろからではないでしょうか。ぜひ、皆さんの体験や評価についてご紹介いただけないでしょうか。

(A放送局)
この事故は広く報道されましたが、被害者は長野県の方ではなくて、関東など、県外の方が多いという特殊なケースでした。長野県の方が亡くなられていたら、当然ご自宅を訪れて、フェイスブックに載っている写真でも、本人確認を取って、かつ複数、大体3人ぐらい、それぞれ違う方、家族や友だちとか、どれぐらい近いか判断しながら、放送に出していいかどうか判断するのですけれども、このケースでは、東京のキー局が、関東の方で家族含めて取材をする中で、フェイスブックの写真を、家族や親族に確認を取って、間違いないと確認が取れて放送しました。軽井沢の事故の場合は、被害者のお写真ですので、決定で指摘のあったように、家族の方から使ってくれるなとか、逆にフェイスブックの写真でなくこちらの写真を使って下さいというケースもありました。
フェイスブックの写真自体を使うことに対しては、一般に広く公開されていると言えば公開されているものである以上、確認を取ったうえで使うと。ただ、指摘の中であったように、やっぱりフェイスブックをたどっていけば友だちにも行きついてしまうし、本当の家族が出てきてしまう。素性がすべて分かってしまうというところは、普段取材していく中で、あるいは放送する際に検討していかなければいけない要素かなと思います。

(B放送局)
この事故についてのフェイスブックの使用については、私どもも東京キー局のほうで対応したので、私どもが直接ということはありませんでした。ただ、軽井沢の事故でなく、フェイスブックを扱うことについては、まず本人確認、私どもも異なる3人の人から間違いないという確認を得て、家族、またはそうした関係の方に了解を得られるところについては、そうした了解を得ながら使用するという形で対応しています。
フェイスブックの扱いについては、今までの卒業写真などの扱いと同じ考え方でやっています。ただ、通常私たちが関係先を回って手に入れる、いわゆる卒業写真といったものとは違って、フェイスブックは一気に広がってしまうので、手に入れるという取材等での重きは同じですけれども、拡散というのか、広がるものということについては、これまでの写真とはちょっと違うので、扱いについては、正直なところ、まだ、それほど詰めて話してはいませんが、これまでの写真とフェイスブックの違いというものについて、考えていかなければいけないのかなと思っています。

(C放送局)
この事故では、いっぺんに多くの方が犠牲になられたことが一つポイントで、うちも東京のキー局の方針に基づいて使用しています。実際には、引用する場合は、フェイスブックより、といったクレジットを必ずつけることとか、今回のバス事故で言えば、実際にフェイスブックからたどっていって、ご親族や、ご遺族など、関係者の方たちに許諾を取ったりしました。遺族によっては、そこから提供を受けたりすることもありましたが、基本的な扱いに関してはキー局に準ずる形で使っています。でも、実際に使う場合には、昨今のSNSの繁栄の中で、人権を侵害しないかどうか、プライバシーは大丈夫かなど、しっかり留意しなければいけないと考えています。

(D放送局)
うちも系列の基準の下、フェイスブックとかツイッターとか、どこから引用したのかをきちんと出す。
さらに、フェイスブックにある写真とかですと、それを3人以上に本人確認を取ったうえで使います。その後は、ご家族やご友人から画像なり写真なりを入手して、二次的には、そういう手間をかけて入手したものを使っていくようになっています。
バス事故に関しては、大きな事故でしたので弊社ではなくキー局ですべて動画の入手とか写真の入手を行いました。ですので、私どもはかかわっていません。ただ、後からフェイスブックの写真とかを使わないでほしいといったご遺族やご家族から要望があり、使用禁止になった素材とかもあります。
地方公務員事案で、容疑者のフェイスブックの写真からご家族の写真に行き着くというような話がありましたが、でも、今は、名前検索をするだけでも、かなりの動画が上がってきます。どこどこの公務員、とインターネット検索すると、別にフェイスブックを知っているか知らないかにかかわらず、名前だけでも行きつくような状況にあると思います。その点、どう考えたらよいでしょうか。

(E放送局)
当時弊社では、複数の被害者の方の写真をフェイスブックから引用して、放送に使いました。その際は、フェイスブックより、というクレジットをつけて使用しました。その都度その都度判断していることですが、あれだけの大規模な事故で、非常に関心も高く、亡くなられた方々のお人柄とか、ご本人がどのような人生を送られたかということを伝えるうえで、写真は不可欠だという判断で、著作権法第41条にある事件報道を根拠に、その範囲内で使用すると判断しました。その判断基準は、軽井沢の事故の前も後も、社内では特に変わっていません。とは言え、その都度その都度見極めて、ということでやっています。でも、なるべく直接ご遺族なりご友人の方々から、違うお写真などを提供いただく努力をして、極力、そういったものに替えて放送しています。

(司会)
きょうは、FM局も一社参加されています。もちろん映像は使っていません。

(市川委員長代行)
親族の写真に紐付けされていったということについて、委員会としては、だから直ちにフェイスブックの写真を使ってはだめだと考えているわけではありません。ただ、フェイスブックやインターネット上で検索可能な情報だとすれば、そういうところに行きつきやすい性格があるわけですから、使うときには、この点も気をつけたほうがいいのではないかということです。そこは、その場その場でまだ検討をしなければいけない、結論を出せていないところだと、率直に思っています。
もう一方で、地方公務員事案でのフェイスブックの写真というのは、カメラを構えている様子の写真などを、しかも、それをかなり大きくして使っています。やはり、そういう出し方は、普通の卒業写真の顔を一部くり抜いて使うのとは、与えるニュアンスというのが違うと感じます。その点は、曽我部委員が少数意見で触れておられます。

(曽我部委員)
今、名前で検索すれば出てくるではないか、というご指摘がありましたが、「フェイスブックより」というクレジットがついているので、フェイスブックを見てみようという感じになって、クレジットがあることによって、より好奇心をそそる面もあるのではないかと思います。
それから、フェイスブックの写真を使われることの抵抗感というのは、おそらく本来の文脈と違う形で使われるということへの抵抗感というのがあるのだと思います。卒業アルバムの写真などは、割と文脈のない写真ですので、どこに出てもそれほど違和感はありませんが、フェイスブックの写真というのは日常生活の場面を切り取って載せているものですから、それを全く違う事件報道の写真として使われることは、本人としては非常に違和感が強いのではないかと思います。公開はしているものですが、心理的な抵抗感があるのは、その辺りが一つ原因ではないかと感じています。
地方公務員事案で少数意見を書いて言及したのは、ちょっと違う話で、フェイスブック写真の使い方と言うよりは、要するに、申立人は、区役所の窓口の、住民票の写しの発行などをしている人なのですね。それが、あのような形で大きく報道をされてしまうことの、ニュース価値の判断について、個人的にはそこまでやる必要があるのかなと感じました。
自宅マンションの前からの記者リポートや、職場窓口を映した局もありました。当時、市役所職員の不祥事が続いていたという文脈もあるやに聞いていますけれども、幹部公務員が職務上の不祥事を起こしたというのであればともかく、若手の窓口の職員が起こしたプライベートの事件という中で、あそこまでやる必要があるのかなというのを書いたのが私の少数意見です。

(坂井委員長)
このフェイスブックの写真の利用と肖像権の関係という問題は、まだ議論が固まっていません。去年の弁護士会と民放連との会合で話したことをご紹介します。
まず、皆さんのいう同一性確認、裏取りというか、本当に本人なのかということは、当然やっていただかなければいけないという前提で、そのうえで、そのまま使っていいのかという議論があります。そのとき、フェイスブックに関して言うと、あそこに出す写真というのは、公開しますという了解を取っているので、良さそうに見えますが、曽我部委員が言ったように、使われ方の文脈が違うときに、本当に全部それでOKと言えるのだろうかという話なのです。
フェイスブックで、自己紹介で出すことについては、公開されますよと言う前提なのだけど、たとえばこの事案で言うと、破廉恥な行為をやった被疑者として、テレビで何回も大写しをされることについての承諾まで、本当にあるのだろうか。軽井沢バス事故の件で言うと、事故の被害者として報道されるときに使われることを本当に承諾していたのだろうかということ。それから、最近の事件で言うと、座間の事件、あれは被害者といっても、バス事故よりももう少しデリケートな、センシティブな問題が関わってくる。
自殺とか、性被害があったのでないかということがあるので、そういうときに写真をどう使えるのかという議論もかかわってきます。
結局これは、肖像権の問題と報道の自由、表現の自由とのバランスの問題です。天秤の話で、たとえば座間の事件で、あまりひどい報道をされるから、遺族の方から、もう写真は絶対使わないでくれというような貼り紙をされました。そもそも遺族に本人に関する肖像権はないわけですが、族が嫌だ、本人が嫌だと言ったら、報道は全部出してはいけないことになるのだろうか。本当は、それはバランスからして、どうなのかという議論をしなくてはいけない。報道の側からも、これまで出してきたからいいだろうと言うのではなくて、報道の被害者であっても了解なく使える場合があるのではないかといった議論をするべきなのだと思います。
だから、同一性確認の問題と、報道として使っていいかという問題は、別の議論のはずなのですね。それが、座間の事件で言えばデリケートな部分があり、バス事故の場合は割と出して下さって結構だ、名無しじゃないんだうちの子は、と言いやすい状況があります。逆に、この事例で言うと、被疑者ですから、あまり出してほしくないという話が出てくる。
たとえば、熱海の散骨場の事案では、放送局が本人の了解なく、約束を破って使いましたが、その場合でも肖像権侵害を認めてない。というのは、一定の場合に本人の了解なく使っても、肖像権侵害にならない場合がある、ということなのです。放送メディアにとって、映像は、ある意味命なわけで、肖像権が万能だと言ってしまうと、ニュース映像の顔は全部ぼかさなければいけないというような話になって、三宅前委員長時代に、それはまずくないですか、という委員長談話を発表しています。
そういうところにかかわるので、報道する側から、やはりこういう場合は報道のために肖像を使えるのではないかという領域がある、ということを言わないと、だんだん窮屈になって、同一性確認だけでなくて、OKしてもらわないと使えないことになる可能性もあって、それは怖いことだと私は思います。情報流通という意味では、使っていい場合もあるし、もちろん座間の事件で、心なき報道があって、そういうのが良いと言うわけではありません。しかし、事件報道として必要な場合もあるというときに、肖像権と表現の自由、報道の自由のバランスをどう取るのか、報道する側から積極的な議論をしないと、本当に窮屈になって、難しい時代が来ると思っています。
それから、さっきE放送局がおっしゃった、著作権の問題で、報道引用の話と肖像権侵害の問題は別の議論なので、著作権法の議論だけではカバーできないだろうなという気がしています。また別の理屈を立てなければいけないのではないかと思います。

(C放送局)
地方公務員の事案に戻りますが、最終的には不起訴だったと思いますが、そういう刑事処分のことは、委員会決定の心証に影響するものでしょうか。それとも、あくまでも申立て事実のみで、審理されていて心証的なものは排除されているのでしょうか。
(坂井委員長)
刑事処分がどうなったかで、結論が変わるという話ではなくて、書いてあるとおり、事実はどうだったのかということと、名誉毀損で言うと、社会的評価の低下があったのかどうか、公共性、公益目的、真実性、相当性というところで議論をしていきます。逆に言うと、起訴前の刑事事件ですから、公共性はまず認められて、ストレートニュースですので、公益目的を否定することは、およそ考えられないので、結局、真実性、相当性の問題はどうかとうところだけでやっているので、後で不起訴になったからとかで、結論が変わるという話ではないと思っています。

(二関委員)
補足ですけれど、不起訴になる場合も、起訴猶予の場合とか、罪となる事実がないから不起訴にする場合など、いろいろあって白黒まさに良く分からない場合があります。検察官も、特にその理由とかを明らかにしないケースが結構多いと思います。その意味で、本当に不起訴になったからどうだということを、委員会が、そこから何か引き出せない場合のほうが、むしろ多い面がありますので、その事実が仮に委員会の審理より前に明らかになっていたとしても、影響を受けることは基本的にないということになると思います。

(D放送局)
私、報道でないので、一視聴者としての率直感想です。起訴になった起訴にならないが、この判断基準にならないというのは、ちょっと、びっくりしました。この程度、と言ってはいけませんが、もっと大きな重罪を犯している犯罪者が、顔写真が入手できたできないによって、顔写真が載る載らないという案件もあると思います。つまり、たまたまこの件では、フェイスブックをやっていて、我々放送側にしてみれば、写真を入手しやすいシチュエーションがあった。しかし、それが結果的に起訴されなかったにもかかわらず、ここまでの顔写真が出てしまったことが、あまり問題視されていないというのは、どうなのだろうかと疑問に感じました。

(坂井委員長)
そこは、論点が食い違っているように感じます。ご質問は、名誉毀損になるかどうか、放送倫理上問題があるかどうかの結論が、起訴されたかどうかで変わるのか、というものでしたから、それで判断するのではありませんという答えになりました。
今、おっしゃったのは、もっと根っこのことで、被疑事実は何だったのかという話なんですね。被疑事実は抗拒不能の女性を、意識不明の女性を家へ連れ帰って、服をはぎ取って写真を撮った、ではなくて、意識不明の女性の裸の写真を撮ったというもので、しかも起訴猶予になった、ないしは不起訴になったということで、我々が分かるのは、検察も立件しなかったということ。ただ、このケースは、嫌疑がなかったのか、猶予なのか分かりませんけど、示談が成立したということは、何らかの問題があったようにも思われる。でも真相は分からない。そういう前提で、放送局が何をしなければいけないかというと、放送した内容の真実性の立証、相当性の立証をしなければいけないという話になるのです。
だから、結果として検察が起訴したかどうかということは、我々には判断する理由はなくて、名誉毀損を判断するには、真実性、相当性の立証であり、本件のように検察も起訴しなかったものについて、放送局は何をもってそれを立証するのかという議論になるわけです。
その後の放送倫理の問題としては、じゃあ被疑事実について、結果的に起訴に至らなかった事案について、放送のときの話はそれは分からない前提ですから。そうすると、起訴されるかどうか分からない段階で、こういう容疑事実について、こんな写真の使い方をするのか、こんな放送をするのか、という話になってしまう。放送したときの話というのは、まだ逮捕されているだけですから、その後起訴されるか不起訴になるかということは、その放送時点での判断には出て来ようがない。真実性立証絡みでは後付けで判断されるので、出てきますけど、放送時点では、検察も真実性立証をしていないという話になりますよね。容疑事実をはみ出した部分については、真実立証をしないと判断したのかもしれない。そういうレベルの話をしているので、ちょっと論点が食い違っているような気がします。

(D放送局)
分かりました。私見ですけども、今、この社会では、防犯カメラとか非常に映像も入手しやすい、フェイスブックも然りだと思いますが、そういう映像の入手しやすさ云々で、映像が取れたからと、私ども放送局が使いやすくなっていることは事実だと思います。
この事案でも、容疑者の社会復帰という一面もある中で、刑が確定してない時点で、入手しやすかった映像が、テレビ的に使いやすいからと言って、出してしまったことに対して、自戒も込めて、注意をしていかなければいけないと感じます。

(坂井委員長)
この事件の被疑事実で、この段階で、こういう写真の使い方をするのですかという、それは、おっしゃるとおりだと思います。

■ 長野放送(NBS)を訪問、視察

放送人権委員会は、長野での意見交換会に先立ち、10名の委員全員が長野放送を訪問し、外山衆司社長らと懇談したほか、社内を視察した。
懇談では外山社長から「人権や放送倫理は重要な問題であり、長野県での意見交換会開催は、そのことをもう一度意識し、倫理意識を向上させる契機となる」と挨拶があった。その後、船木正也常務、矢澤弘取締役報道局長らから、ローカル局の現状や仕事の状況などの説明を受け、委員からも「取材における在京局との違いは」、「ネットとローカル番組の比率、自社制作の割合は」、「スタッフ数の増減や記者クラブの状況は」といった質問などが出された。さらに、委員らは夕方の『NBSみんなのニュース』の放送現場や、報道局内での作業などを視察した。
委員会ではこれまで、在京局への視察を行っているが、委員会としてローカル局を訪問、視察するのは、これが初めて。地方局に対する申立てが増える傾向にある中、今回の視察は、ローカル局の現状に対する委員らの理解を深める貴重な機会となった。

以上

2017年11月28日

東北地区意見交換会

放送人権委員会は11月28日に東北地区の加盟社との意見交換会を仙台で開催した。東北地区での意見交換会は2013年2月以来で、19社44人が出席し、委員会からは坂井眞委員長ら委員7人が出席した。前半はフェイスブックの写真の使用と検索結果削除に関する最高裁の判断について、後半は最近の3事案の委員会決定を取り上げ、4時間近く意見を交わした。
概要は、以下のとおりである。

◆フェイスブックの写真の使用について

今年7月に宮城県登米市で男が自宅に放火して妻と2人の子どもが死亡するという事件があり、妻がフェイスブックに自分と子供の写真を載せていた。仙台のテレビ局に対応を報告してもらい議論を進めた。

(A局)
手軽に写真とか動画が入手できますが、問題はそれが本当なのか、確認にかなり苦労をしているというのが本音です。今回は本人が亡くなっているので、その近しい人に確認しないと使えないということで確認作業をしました。ただ、1歳の子の生後まもないの頃の写真については、急激に成長して顔かたちが変わるような時期なので、ほぼ間違いないと思っても、本当に間違いないかということで、使わないという判断をしました。写真に施されたデコレーションは親の愛情とかを示しているものということで使いました。

(B局)
弊社でも、フェイスブック上から写真を入手し、A局がおっしゃったように、複数名、近しい方々に確認を取った上で、「フェイスブックより」という出典を明記して使いました。確かにデコレーションがちょっと激しくて、使わないほうがいいのじゃないかという意見もありましたが、総合的に判断し使ったほうがいいという結論に至りました。

(C局)
同じようにフェイスブックの写真を入手しましたが、A局と同じように、一番下の男の子についてはあまりにも幼くて、ちょっと確認のしようがないと。フェイスブックに名前が書いてはありますが、確認のため近所の方に見せる時には、決して「これが〇〇ちゃんですか?」というような聞き方はしなくて、名前を伏せるものですから、実際に放送に使ったのは2人だけでした。かなりキラキラしているデコレーションは、全部撮り切りで使うということは避けて顔の部分だけを切り抜いて使用しました。

(坂井委員長)
この問題はきっと2つの問題があって、1つはネット上で入手する写真の使用が肖像権の問題をクリアできているのかという問題、もう1つは被害者の方の写真をどういうふうに使っていいのかいけないのかという問題。
去年1月の軽井沢のスキーバス事故では大勢の大学生が亡くられて、テレビ各局は、新聞もですね、フェイスブックから写真を入手して使ったので、それはどうだったのだろうかという議論をしました。肖像権の問題、本人がどういう意思でフェイスブックに写真を載せているのかと。例えば、顔写真が公開になっているからいいじゃないかという議論が片方ではありますが、でも、こういう事件の時に報道で使われることまで本当にいいと思って載せたのかという疑問。熊本の公務員事件(委員会決定第63号、第64号 事件報道に対する地方公務員からの申立て)でいうと、刑事事件の被疑者として顔写真が使われることを、本人が本当に了解して載せていると考えていいのかというような問題。
今回のケースでは、皆さん、ちゃんと報道する価値を検討していた。デコレーションについてはふさわしくないんじゃないかと、報道する価値と必要性を検討されているので、いいと思いますが、座間の事件では、皆さんご存じと思いますけれども、遺族の方が「報道関係の皆様へ」という貼り紙をされて、遺族、親族一同と、最後のところで、「なお、今後とも本人及び家族の実名の報道、顔写真の公開、学校や友人・親族の職場等への取材を一切お断りします。どうかご理解のほど、よろしくお願いします」とされた。本当に悲惨というか前代未聞の事件なので、ニュース価値はすごくある、その時に、どういう扱いをしていくのかという問題だろうと思います。未成年の方もいる、それから最近の写真がないと、これは昔からありますけれど、ずいぶん小さい時の写真が報道されたりして「これは本当に必要性があるの? 価値があるの?」となる。しかし、もう片方で、「この事件で事実を報道しないでどうするんだ」ということがあって、その「報道する価値」を、どうやって構築していくのかが、1つの問題点だろうと思います。
座間の事件で『週刊文春』の11月23日号が「緊急アンケート 被害者実名・顔写真報道の賛否」という記事を書いて、ジャーナリストの江川紹子さんのコメントなどいろいろな意見を出して検討し、「小誌ではこうした実名報道の意義を考慮した上で、陰惨な事件の全容を記録し、より切実に共有するために、被害者の実名と顔写真を掲載している」と、こういう結論を取っているんですね。
「これでいいんだと言う解決策はない」というのが私の結論。去年の相模原の知的障害者施設の事件でも同じ問題がありました。「被害者が可哀想だ」、「個人情報だから、プライバシーだから、全部それが優先するんだ」ということを認めてしまうと、報道はできなくなってしまう。ですから、そこは報道する側が「いや、報道する価値がある」と、理論的な構築というか、説得力のある意見を言うことが、すごく重要なんじゃないのかなと。そうしないと、本当に匿名ばっかり、テレビで言うとボカシばっかりになってしまい、それではまずいんじゃないか。三宅委員長の時代に「顏なしインタビュー等についての要望」(2014年6月9日)を出しましたが、「報道する価値」を報道する側がいかに発信していくのかということが重要なのだろうと思います。

(市川正司委員長代行)
熊本の公務員事案は私が起草担当でした。肖像権の問題として、フェイスブックに載っているからテレビで公開されても、それは問題ないだろうと、ストレートにはつながらないだろうというふうには思っています。そうなると、被疑者の場合には、被疑事実とつながって社会的評価が下がってくるという問題とつながってくるということがあるので、そこをどう考えるのか。被害者の場合には、社会的評価の低下にはストレートにはつながらないとは思いますが、やはり遺族の感情とか、そういったものを考慮した時にどこまで載せるのかということは、考えないといけないのかなとは思っています。
フェイスブックには本人の写真の他に家族や友だちの写真が載っている場合もあって、「フェイスブックより」と引用すると、どれどれと視聴者が実際にそのページに辿り着いて、関連する写真を全部閲覧できるようになるという要素もあるので、そういった面での配慮も考えないといけないのかなと思っています。公務員事案では、ご親族と思われる方から被疑者のフェイスブックに自分たちの写真が出ているというクレームがあって、放送局がネット上のニュース動画を削除した経緯があったと聞いています。

(質問)
「フェイスブックより」という引用の明記をしないほうがいいケースもあるということですか?

(市川委員長代行)
そこは、出典は明らかにするべきだろうとは思いますが、ウェブ上の他の関係者の写真などに辿り着きやすい効果があるということは、ちょっと頭に置いとかないといけないと、委員会の決定にも書いているところです。

(奥武則委員長代行)
私みたいに大昔の新聞記者は、何かあると、「ガン首、取って来い!」と言われ、オタオタして一所懸命回って、取れないとデスクに怒られるということがあったんですけれど、今やフェイスブックを検索すると、結構いい写真が得られることがあるわけで、まあ時代は変わったなと言う気がすごくする。それは昔話ですが、写真を使用するかどうかは、基本的には比較衡量なんですね。
つまり、まあいろいろ問題もあるけれど、写真を使うとインパクトもあるし、事件の全容を伝えることができますよと。そういう利益と、肖像権とか被害者の遺族、家族の感情ですね、それを秤にかけてどっちが重いかの判断を、その都度その都度、報道する側がしなければならないということだと思うんです。その線引きの原則はあるのかというと、それはないですね。原則を作った途端に表現の自由というのは制約されてしまうわけですから。
座間の事件も、家族にしてみれば、確かに「もう、ちょっと触れられたくない」。けれども、報道する側が「写真を使わないし、お友だちにも取材しません」、「一切匿名で行きますよ」と、そういうわけには行かないですね。家族の感情を踏みにじらなければ報道できないという場面はあるわけで、その時にどういう判断をするのか、報道する側の重い責任になってくるだろうと思います。

(中島徹委員)
報道せざるを得ないというのは、言葉としては分かるのですけれど、例えば、今問題となっているお母さんと子どもの写真、あるいは座間の事件で、本当にあの写真が、あるいは被害者のことを詳細に報道する必要があるのかということについて、私はやっぱりよく分からないと考えています。どんな人が犠牲になったのか、被害者になったのか私も知りたいと思います。しかし、実際に報道がなされ、その関係者の方々の気持ちを考えると、出ないほうが良かったんだろうなとも思うわけです。
「関心事に応える」、「国民の知る権利に応える」というのは、一般論としてはよく分かりますが、でも、例えば下世話な興味に迎合するというのが報道ではないわけですから、いったいこの写真がなかったらなぜ報道が成り立たないのか、今のお話でも、そこは必ずしもはっきりしていなかったように思いました。

(坂井委員長)
私は、30年くらい前、「報道被害」と言われ始めた犯罪報道の時代からこういう問題に関わり、当時新聞社の方ともずいぶん議論をしました。その頃の新聞の然るべき立場にある方たちは、「事実報道で5W1Hがない、匿名なんてあり得ない」と。それは僕らから言わせると、「ドグマでしょう」と。「それはそうだけれど、それでも言わなきゃいけないものと控えなきゃいけないもの区別しなきゃいけないでしょう」と議論しました。
ただ、全部匿名にしたり写真を全部なくせばいいとは思ってはいなくて、情報が流通することの意義は絶対あるはずで、それを報道する側がしっかりと言わないといけないのではないか。座間の事件の報道について横浜弁護士会が会長談話を出しました、で、1行だけ「報道する側にも報道すべき理由がちゃんとおありになるんでしょうが」とは書いてあるんですが、「でも、酷いじゃないか」、「ちょっと考えてよ」という趣旨の談話です。
あの報道はひどいけれども、本当に全部匿名にしていいのかと少々危惧を感じています。「そうは言っても、事実を出さなきゃいけない時はあるのでは」、「そこはバランスだ」と感じます。報道する側の方から、こういう場合は報道する価値があると発信すべきではないか。個人情報保護法が制定されたあと、とにかく窮屈になった感がある。それは、かつてあまりに野放図に何でもできたことの裏返しかもしれないが、本人が嫌と言えば何も書けないということで報道は成り立つだろうか、という危機感を持っています。

◆「検索結果削除」で最高裁が判断

ネットの検索結果の表示がプライバシーを侵害する場合、検索事業者に表示を削除する義務があるのかどうかについて最高裁の判断が示された。曽我部委員に解説をしてもらって、放送との関連について議論した。

(曽我部真裕委員)
お配りした資料に『新聞研究』(2017年4月号)に載せていただいた文章があります。今年1月31日の最高裁の第3小法廷の決定について述べたものです。

事案と下級審の判断
本件は、児童買春の容疑で逮捕されて罰金50万円の有罪判決を受けた者が、当時公表された記事や掲示板などに転載された記事が、3年以上経っても本人の氏名と居住している県名でグーグル検索すると検索結果として表示されると、それで、グーグルに対して検索結果を削除せよと仮処分の申立てを行ったというものです。検索結果の表示というのは、見出しというかタイトル部分、それから最近の検索結果はスニペットと言いまして、そのリンク先の内容の抜粋も一緒に出ますので、その記載内容が名誉毀損とかプライバシー侵害に問われる場合もあるということです。
さいたま地裁は「忘れられる権利」を有するということで削除を認めました。「忘れられる権利」という言葉を、裁判所が実際に決定の中で使ったということで話題になりました。これに対して東京高裁は、「忘れられる権利」というのは、その正体は人格権の一内容としての名誉権ないしプライバシー権に基づく差止請求権であると。つまり「忘れられる権利」という新しい権利があるわけではなくて、その中身は従来の名誉毀損、プライバシーに基づく削除請求権であるということで、要は、新しい固有の権利ではないというような判断を示したいうことです。たぶん、この東京高裁の理解が一般の法律家の理解だろうと思います。

最高裁決定
最高裁決定では、まず「個人のプライバシーに属する事実をみだりに公表されない利益は、法的保護の対象となる」ということで、この事件をプライバシー侵害の問題として判断したということになります。続いて、「検索結果の提供は検索事業者自身による表現行為という側面を有する」と述べています。グーグルは、検索結果は放送番組などとは違って主体的な意思に基づいて作られたものではなくて、一定のアルゴリズムに基づいて自動的に作られたのだから表現ではなく、したがって責任も負わないと主張をしていたわけです。最高裁はこれを否定して、「検索事業者自身による表現行為という側面を有する」としています。これは2つの意味がありまして、1つは検索結果の提供というのも表現の自由の中に入るということがあると思います。他方で、検索事業者の表現ということであれば、それに伴う責任も負うということで、自由と責任、両方あるいうことがこの部分の趣旨ということになるのではないかと思います。さらに「現代社会における検索事業者の役割」にも言及して「インターネット上の情報流通の基盤として大きな役割を果たしている」ということで、検索事業者についても公共的な役割があることを認めたものだろうと思います。
その上で、先ほど来、議論になっていますが、プライバシーと表現の自由をどういうふうにバランスを取るかという話になります。「比較衡量して」という言葉が常に出てきますが、最高裁は「比較衡量して判断すべきもので、その結果、公表されない利益が優越することが明らかな場合は、検索結果の削除を求めることができる」と。要は、プライバシーが明らかに優越する場合に限って削除義務が発生するということになります。ですから、プライバシーと検索結果の提供という表現の自由のバランスの問題だけれども、そのバランスの取り方は、プライバシーが明らかに優越する場合に限って削除が義務付けられるということです。そういう意味では、フラットなバランスというよりは、検索事業者に有利なバランスの取り方ということになるかと思います。

放送局との関わり
この最高裁決定とテレビ局、放送局がどう関わるのかというと、1つは放送局で放送した番組の内容がネットの掲示板とかに転載されてずっと残っている、それが何年か経って削除請求されるという、そういう局面もあると思いますが、この場合は法的に言いますと、放送局の責任はないということになるだろうと思います。つまり、勝手に転載するということ自体が著作権法違反でもありますので、著作権法違法によって掲示板に載せられた内容について、放送局が責任を負うということはないだろうと思います。
もう1つ、例えば番組内容が転載された場合、放送局が報道対象者から依頼を受けてグーグル等に対して削除依頼をする場合も無くはないと思いますが、当事者でない人からの請求を受けて、グーグルないしヤフーが対応してくれるのかどうかは、ちょっとよく分からない、おそらくあまり対応してくれないのではないかと想像します。ですから、この場合も放送局ができることは少ないように思います。ですので、この検索結果の削除という問題に、放送局が直接関わる局面というのはあまりないかもしれないと、思っているところです。

(質問)
逮捕容疑と刑事処分の罪が違っていることが多々あります。例えば、殺人未遂が傷害になる、ひき逃げで逮捕され救護義務違反が付いていたものがただの交通事故として処理される。リンク先の画面、ウェブ上では非表示になっているけれども、検索結果のスニペットには「ひき逃げ容疑で逮捕」という形でその人の名前が残り続ける場合、倫理上問題があるというか、当事者から指摘があったら、放送局で何らかの努力をしなければいけないものなのでしょうか?

(曽我部委員)
前提として、スニペットは元の記事、元のコンテンツが消えれば、一定期間後その検索結果も消えるというのが基本的な仕組みで、一定のタイムラグがあるわけですので、そこを問題視するかどうかは1つあるとは思います。ただ、検索事業者に申し入れても、「それは、そのうち消える」と言われるだけだと思うので、実際問題としてできることは少ないのではないかとは思います。
他方で、逮捕容疑はそれなりに重いけれども、実際にはもっと軽い処分だったというような場合は、検索事業者に言ってもあまり対応されないと思うので、基本に戻って、転載されている掲示板に削除要請をするということはあると思います。ご本人が削除要請をするのが大原則ですけれども、放送局側も迷惑をかけたとか、そういうことでお手伝いといいますか、できることはするというスタンスを取られるのであれば、放送局側から削除要請をするという場合もあるかと想像しますけれども、対応してもらえなかったら、それ以上できないというのが実情だと思います。
裁判とか法的手続きで、第三者である放送局が削除要請をするというのは実際問題としてはできないのだろうと。ただし、著作権侵害だとして放送局が削除要請する可能性はあると思いますけれども、その辺、ケース・バイ・ケースかなと思います。

(質問)
放送記事がコピーサイト、ネタサイトみたいなところでコピーされて、それを削除して欲しいという要請が来ることがあります。その際に曽我部委員が言われたように「放送局が著作権侵害されているんだから、アクションを起こさなきゃいけない」というような言い方をされる方もいますが、実際、削除要請をしても削除されないという事態も結構あります。著作権侵害だから放送局側が削除要請すべきだという意見について、どのようにお考えでしょうか?

(曽我部委員)
そこはなかなか難しいですね。放送局の立場は、著作権侵害されていることは事実なので、そうすべきじゃないかという考えは全くもって正当だと思います。ただ、もっと広くネットの自由のことを考えると、私個人の考えですけれども、著作権をあまりうるさく言うのも、ネットの全体の活力といいますか、表現の自由の観点から問題かなというところもあって、著作権法の今のあり方自体を考え直すべきところがあるのではないかというのが個人的意見なので、放送局側がどんどん著作権を行使して片っ端から削除させればいいというのは、個人的には躊躇があるところです。
けれども、実際に書かれている方、取り上げられている方の名誉なりプライバシーの救済になるということであれば、それはやって然るべきではないかなと思います。

(坂井委員長)
ご質問の、放送局は著作権侵害だからアクションを起こさなきゃいけないのかという点ですけれど、それは権利、権利の行使であって義務ではないから、しなきゃいけないという話にはならないと思います。
ただ、さっきもありましたけれど、逮捕報道をバーンとやったが、そのあと尻つぼみになって全然違う事件になった。ところが、そのままネットに転載されて、例えば「〇○局でこんな報道があった」と載っているケース。局の社会的信用が高い状況でこれは気の毒だと思えば著作権を行使されればいい。載せているコピーサイトの問題だとして局がその状況を放置して被害が大きくなったりすると、また別の議論がありうるかもしれないが、原則は、やっぱりコピーサイトの問題だろうと、私は思います。

(二関辰郎委員)
以前、別の意見交換会のあとの懇親会の時に、放送局の方が、「放送した映像がネットに無断で転載されてどうしてもずっと残ってしまう。そうなることが分かっているから、実名報道するかどうか迷った時にどうしても出さない方向に傾きがちだ」というような悩みを話されたことがあったんです。雑談レベルでしたが、私は、「忘れられる権利」みたいなものが広く認められるようになれば、そういった出回ったものを消すのは、「忘れられる権利」の問題として将来対応すればいいので、実名にするかどうか、あまり考え過ぎなくていいのではないでしょうかね、という話をしたことがあったんです。
「忘れられる権利」は、EUのルールではもう少々広く認められています。日本の現行法上では、曽我部委員が説明された最高裁判断でやむを得ないのかなとは思いますけれども、「忘れられる権利」が広く認められれば、逆に実名報道について萎縮しなくていいという意味で、表現の自由を促進する面もあるのではないかと、個人的には思っています。

(曽我部委員)
『判断ガイド』416ページに「大津いじめ事件報道に対する申立て」というのがあります。これはまさにネットにキャプチャー画像が載せられた事件で、417ページの下から3段落目、赤い字の最後に「テレビ画像を切り取ってインターネットにアップロードする行為は著作権法に違反する。この点では、テレビ局のプライバシー侵害の責任は問えない」という指摘があります。
この事案は、人権侵害はないけれども放送倫理上問題があるという結論でしたが、421ページの「結論」の中に、その理由として「録画機能の高度化やインターネット上に静止画像がアップロードされるといった新しいメディア状況を考慮したとき、静止画像にすれば氏名が判読できる映像を放送した点で、本件放送は人権への適切な配慮を欠き、放送倫理上の問題がある」と、やはり直接的に法的責任が発生するわけではないけれども、もうネットに転載されるというのは周知のことなので、そこは注意深くやるべきだという指摘がされているので、ご参考にしていただければと思います。

後半では、3事案の委員会決定について、それぞれの番組映像を視聴後、担当委員が判断のポイントを説明し、質疑応答を行った。

◆「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本)

(市川委員長代行)
決定自体は、名誉毀損かどうか、それから放送倫理上問題があるかという順番で検討していますが、今日は、実際に事件が起こってから、どういう取材をして、どういう報道がなされたかという時系列に沿ったような形で説明をしたいと思います。

事件の第1報とその直後の取材
まず、最初に警察から報道各社にFAXが送られて「準強制わいせつ事件被疑者の逮捕について」という広報連絡が配布される。そこでは発生日時、発生場所、実名、年齢、住所、それから公務員であるということ、それから身柄措置、この日の午前10時、通常逮捕であるということが出ている。それから被害者の住所、罪名は準強制わいせつ。で、事案の概要として、「被疑者は上記発生日時・場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したもの」と書かれています。
このFAXを受けて、記者の方は電話取材をして、この事案の概要の部分を認めているんですか、ということを警察の広報担当者に聞く。答えとしては、間違いありませんと認めているという答え。そしてさらに、皆さんも一読して疑問に思うかと思うんですが、抗拒不能とはどういうことですか、という質問をしています。これに対して警察の広報担当は、容疑者は市内で知人であったAさんと一緒に飲酒した後、意識がもうろうとしたAさんをタクシーに乗せ自宅に連れ込んだ。容疑者は意識がもうろうとしているAさんの服を脱がせ、写真を撮影した。そして、Aさんは朝、目が覚めて裸であることに気づいたと。1か月ほどした後、Aさんは第三者から知らされて、容疑者が自分の裸の写真のデータを持っていることを知って警察に相談した、こういう説明をしています。
抗拒不能とはどういうことですか、という質問に対して、さらにそれを越えたと言いますか、その前のいきさつの部分とか、そういった部分を含めて事案の全体像を警察の担当者が話しているということで、必ずしも質問とかみ合っていないというところは、ちょっと留意して頂きたいと思います。
それでは、警察の広報から、被疑者は何を事実として認めているというふうに理解出来るのかということですけれども、広報担当の説明は、事案の概要について被疑者は間違いありませんと認めている、と言っているものの、犯行の経緯についてまで、すべて認めているという明確な説明はしていないのではないか、その点、明確には言っていないということがあります。
それから、被疑者がわいせつ目的でAさんを同意のないまま自宅に連れ込んだということと意に反して服を脱がせたということは、抗拒不能の状態で裸であったこととは別のことがらなので、被疑者が本当にここまで認めているのかということは、広報担当は説明していないと解釈した方が適切なのではないかということがあります。
さらに、本件は午前10時に通常逮捕ですけれども、広報担当への取材は、それからまだ2時間弱という時点です。事案の概要についての被疑者の認否、これは当然、弁録の段階でしていると思いますが、この時点で、それを越えた犯行前の経緯についてまで被疑者が正確に詳細に供述しているかどうかは疑問であるということがあります。
それから、Aさんが知人であるということ、目が覚めて裸であったことを認識していながら、1か月後に裸の写真のデータを持っていることを初めて知って警察に相談したということからも、どの部分がAさんの意に反することであったのかについて、疑問に感じるということは、この時でも言えるのではないかということです。

放送は何を伝えているか
それでは、実際の放送はどのようになっているかということは、先ほど映像を見て頂きましたけれども、見出し部分は「意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込み・・・」となっていて、そのあとは容疑事実、広報連絡の事案の概要に近いものです。で、「容疑を認めているということです」というコメントが入り、その後「事件当日、女性と一緒に酒を飲んだ容疑者は意識がもうろうとしている女性をタクシーに乗せ自宅マンションに連れ込んだということです」、「女性の服を脱がせ犯行に及んだということです」とつながっています。
「容疑を認めているということです」が真ん中に入っていて、後の熊本県民テレビとは若干構成が違うんですけれども、何々ということです、何々ということです、と基本的に同じような言い回しで連続して放送すると、与える印象としては、この経過も含めて容疑者がすべて認めているというふうに理解されるのではないか。犯行に至る経緯の部分と直接の逮捕容疑となった被疑事実を明確に区別せずに放送していることから、このストーリーを含めた事実関係を容疑者は認め、ストーリー全体が真実であるという印象を視聴者に与えている、と委員会は考えました。

放送倫理上の問題
そうだとすると、放送倫理上の問題としては、広報担当の説明部分のうち、どの部分までを申立人は事実と認めているのかということについて、疑問を持って、その点について丁寧に取材して、不明な部分があれば、広報担当者にさらに質問、取材をすべきではなかったかと。仮にそこまでの取材が困難だったとすれば、逮捕したばかりの段階で被疑者の供述についても担当者の説明が真実をそのまま反映しているとは限らない。追加取材もまだ行われていない段階で、何の留保もなしに容疑者は容疑を認めていますと、ストーリー全体が真実だと受け止められるような放送は、避けるべきではないかということを指摘しています。
もう1点、薬物の使用について、「疑い」があり、それから「追及する方針」と言っています。この点、熊本県民テレビは「可能性」という程度で、表現のニュアンスがちょっと違っています。「疑い」、「追及」という表現は、やはり具体的な嫌疑があるというふうに考えざるを得ないんじゃないか、そういう印象を受けるだろうということで、その根拠は果たしてあったのかとなると、根拠はない。とすれば、この表現も慎重さを欠いていると言わざるを得ないという結論を出しています。

事件報道に関する放送倫理の考え方
これに関係して、放送倫理上の考え方はどういうものがあるかということで、BRC決定を挙げております。これは「ラグビー部員暴行容疑事件報道」(委員会決定 第6号、第8号、第9号 大学ラグビー部員暴行容疑事件報道)の決定ですが、警察発表に基づいた放送では、容疑段階で犯人と断定するような表現はすべきではない。また、容疑者の家族や弁護士等を含む、裏付け取材が困難な場合には、容疑段階であることを考慮して、断定的な決めつけや誇張した表現、限度を超える顔写真の使用を避けるなど、容疑者の人権を十分配慮した、慎重な報道姿勢が求められる、という考え方を示しております。
それから、民放連が裁判員制度の開始にあたっての事件報道に関する考え方をまとめ(2008年1月17日)、「予断を排し、その時々の事実をありのままに伝え、情報源秘匿の原則に反しない範囲で、情報の発信源を明らかにする。また、未確認の情報はその旨を明示する」としています。
これはご参考までですが、同じく裁判員制度の開始にあたっての日本新聞協会の報道指針(2008年1月16日)で、これは本件と比較的近い部分を切り取っていると言っていいのかなと思いますけれども、「供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容がすべてがそのまま真実であるという印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分分配慮する」と言っています。
こういった見解も踏まえて、放送倫理上問題ありと委員会は考えたわけです。

名誉毀損について
それでは、名誉毀損が認められるかどうかという点についてです。
この点については、東京地裁の平成2年の判決がございまして、警察の捜査官が発表したことについて特段疑問を生じさせるような事情がない場合には、それを真実と信じても相当性があると指摘しています。もう1つ、平成13年の東京地裁の判決は、若干ニュアンスが異なって、警察発表は一般的に信用性が高いものではある、ただし、広報担当者が発表した被疑事件の事実について、これを被疑事実としてではなく客観的真実であるかのように報道したことにより他人の名誉を毀損したときには過失責任を免れないという判決もあります。
このように、警察発表の内容にどの程度依拠し、どの程度真実性があると考えて報道できるかについては異なる考えがあるといったことから、委員会として、本件放送について相当性がないとまでは踏み込めないということで、名誉毀損という判断はしておりません。

肖像権・プライバシーについて
肖像権、プライバシー権の問題が次のテーマで、これについては、事案の重大性、それから公務員の役職、仕事の内容に応じて、放送の適否を判断すべきだという規範を立てています。ですから、公務員だから一律に顔写真を出されてもいい、職場の映像を出されてもいいという考え方には立っていません。
それで本件について言えば、罪名が準強制わいせつという重い法定刑の事案であるし、区民課窓口で一般市民と接するという立場にもあった。そういったようなことを考えると、公益性、公共性もあり、相当な範囲内だというふうに考えました。繰り返しの写真使用については、相当な範囲を逸脱しているとまでは言えないということです。

◆「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(熊本県民テレビ)

熊本県民テレビの決定は、基本的にテレビ熊本と同じ構成ですが、表現ぶりのところが若干違っています。取材の過程はかなり似ております。やはり、事案の概要については認めているということでしたが、広報担当者が経緯の部分と言いますか、そういった部分も一気に説明したことについて、それがすべて真実であるというふうに、どうも理解されていた節があります。そして、放送では、経緯の部分も含めて読み上げた後に、これらを受けて、「容疑を認めている」としています。したがって、容疑者がすべて認めているという印象を与えてしまっています。この点で、テレビ熊本と同じ、あるいはより明確に問題点があるかなと思っています。

少数意見
「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本、熊本県民テレビ)の決定に少数意見を付記した3人の委員がそれぞれ説明をした。

(奥委員長代行)
容疑者は拘束され、まだ弁護人もついていませんから、容疑者側の言い分を聞くことは出来ない、犯罪の性質上、被害者にも当たることは出来ない。こういう状況の中で、第一報を副署長の説明によって書くというのは、ごく普通の一般的に見られる事件報道のスタイルです。放送倫理上問題があったという判断は、副署長の説明は概括的で明確とは言い難い部分があった、にもかかわらず、容疑事実について断定的に書いてしまったとあるわけですね。しかし、副署長の説明が明確でなかったかと言うと、実は明確だったのではないかと私は考え、それをいわば検証するために、いくつか新聞記事を参照しました。簡単に言うと同じことが書いてある、他のテレビ局は良く分かりませんが、ほぼ同じようなニュースを流していると思うんですね。
ということは、取材記者たちは副署長の説明をいろいろ聞いて、特段疑問を持たなかった。おかしいなとか、もう少しちゃんと取材をしてから書こうとか考えずに第一報を書いたということであって、事件報道の在り方として良いのか悪いのか、もちろん議論すべき問題が残っていると思いますが、今日、ただ今の事件報道の水準から見て、特段放送倫理上問題があったとは言えない、言い難いだろうというのが私の少数意見です。

(曽我部委員)
基本的に本体部分は奥代行の意見に乗っかる形で、それに一言付加したというのが私の少数意見です。
要は、今回わりと大きな取り上げ方をしていますが、それは、ひとえに被疑者が市役所の公務員だったということにあると思うんです。職場も映っていましたが、彼は28歳で、まだ入ったばっかりで、区役所の窓口で住民票の写しとかを発行しているような人なんですね。そういう人でも、公務員だというだけでもって、放送出来る最大限のことを放送しているというのが、ちょっと姿勢としてどうかなということを書かせて頂いたということです。

(中島委員)
多数意見、委員会決定は警察発表を疑えということでした。私の少数意見は警察を疑わなくて良いということではもちろんありません。疑うべきは疑わなければいけないとは思っておりますが、この事件で放送倫理上の問題を指摘出来るかと言えば、警察発表を鵜呑みにしないということが放送倫理として報道機関の側に確立されていないと、それはかなり難しいだろうと思います。今回の件で放送倫理上問題ありというのは、一種の遡及処罰のようなものになってしまう。これまでやってきたものを、急にある日突然180度変えろというのは、かなり無理な要求ではないかということです。
奥代行のように考えると、他の報道機関がどういう報道をしたのか分かるまでは、どうしたらいいかという基準が分からないわけですね。今回、問題提起がなされているわけですから、これを報道機関の方々が受けて、自ら放送倫理として確立していかれることが一番望ましい報道の在り方ではないか。この件で放送放送倫理上問題ありと判断するのは、ちょっと厳し過ぎるように私は思ったということです。

(質問)
委員会のヒアリングでは、申立人から、自宅に連れていく時は意識がはっきりしていた、あるいは嘔吐して服を脱がせるのを手伝ったとか、報道時点で取材出来なかった話があったと思うんですけれども、本当のことを言っているという印象もあったのでしょうか。

(市川委員長代行)
我々が彼の言っていることをそのまま信じたのかと言うと、そこは委員の印象はそれぞれですけれども、少なくとも私は、それが事実だというふうに捉えていませんし、事実であるという前提で決定を書いているわけでもありません。逮捕された時には彼の言い分は聞けないし、弁護人もついてないわけですから、そこまでの真偽を確定するべきものでもないし、その必要もなかったというふうには思っています。

(坂井委員長)
今の質問に対する答えとしては、彼の主張は主張として聞いたけれども、相手の女性の話は聞いていないわけですから、その時どうだったのか、確定的な心証は取りようがない。
だけれど、報道との関係で言うと、広報連絡で出ている被疑事実としては、無断で女性の裸の写真を撮ったとしか書いてない。意識もうろうした女性を家に連れ帰って服を脱がせて無断で裸の写真を撮った、ということは被疑事実にない。そうだったかもしれないというのは副署長が言っただけで、取材時の質問と答えがずれていて、当然、局もそれ以上のものは持っていないわけですね。結局、副署長が、ちょっととんちんかんなやり取りを言っただけだと。
別に警察を疑えと言っているわけではないが、無理な要求をしているとは思ってはいない。広報連絡に書いてある事実と副署長が話した事実が違っていて、もし副署長の説明どおり意識を失った人を連れ帰って服を脱がしたら、それを強制わいせつとしてもおかしくない。場合によっては逮捕監禁になっちゃうかもしれない。だけれど、テレビ熊本の説明では、女性は、翌朝、裸になったと気づいたと言っていて、写真のことが分かるまで何も問題にしていない。その後逮捕されるまで2か月ぐらいかかるというような経緯の中で、副署長の説明全体を事実として報道出来るような裏付けはないよねということです。

(質問)
奥委員長代行の話ですと、たぶん他の3局も同じようにニュースを取り上げたと思うんですが、申立ての対象がこの2局だったのは、何か理由があったんでしょうか?

(市川委員長代行)
他の局も最初は申立てがあったようです。ただ、最終的には取り下げられて、残ったのがこの2局だったということで、その理由は、ちょっと私どもも分からないです。取り下げられた局のニュース映像は見ていないものですから、どこに違いがあるのか、ちょっと良く分からないんです。
新聞報道についても、確かに連れ込んで裸にして云々という書き方の新聞がかなり見受けられます。ただ、それぞれニュアンスが違って、逮捕容疑の部分をまず書いた上で、それ以外の部屋に入ったところとか脱がせた部分は後ろの方で書き分けるという、そういう工夫をしているなと思われる記事もありました。
そのような意味で、取材を通じて決して疑問に思わない事案ではないんじゃないかと思うわけです。決定の通知後、この2局で当該局研修をしましたが、事案の概要や広報担当者の話を聞いたときに、委員会の見解と似たような認識を持った方もいらっしゃったのではないかと感じるところはありました。特にテレビ熊本は、もう少し意識して放送すれば、容疑事実を認めている部分はどこまでなのか、もう少し明確に放送出来たんじゃないかなと、私は思っています。

◆都知事関連報道に対する申立て

(坂井委員長)
申立人は、舛添さんご本人ではなくて、夫人の雅美さんと長男長女の合計3人です。申立ては、2人の子どもが1メートルぐらいの至近距離から執拗に撮影されて、衝撃がトラウマになって、登校のために家を出る際に恐怖を感じている。雅美さんはこうした子どもの撮影に抗議して、「いくらなんでも失礼です」と発言したのに、事務所家賃に関する質問を拒否したかのように、都合良く編集されて視聴者に雅美さんを誤解させる放送だったと。
これに対してフジテレビは、2人の子どもを取材、撮影をする意図はまったくなく、執拗な撮影行為は一切行っていませんと。雅美さんの発言については、家賃に関する質問から雅美さんの回答を一連の流れとしてノーカットで放送したもので、作為的編集の事実は一切ありません。雅美さんは政治資金の流れの鍵を握るキーパーソンで、使い道について説明責任がある雅美氏を取材することは、公共性、公益目的が極めて高いと、こういう主張です。

事案の論点
論点を簡単に書くと、肖像権侵害は成立するのか。もちろん、承諾を得て撮っていれば、肖像権侵害はないわけですが、お子さんの撮影の承諾を取っているわけはないです。そういう場合に肖像権侵害は成立しますかと。これは、撮影時の具体的状況や撮影された映像の内容、撮影の目的や必要性等を検討しなければいけません。それを検討した上で、肖像権侵害が構成されるのか。奥代行が言っていた比較衡量みたいな話になってきます。
名誉毀損はどうなのか。さっき見ていただいた雅美さんが怒っているところの摘示事実は何なのかを確定する必要があって、どういう事実が摘示されたかという前提で、それで社会的評価は低下するのだろうか、名誉毀損になるだろうか、仮になるとすると、公共性、公益目的はどうなのかという議論が出てきます。
放送倫理の問題としては、雅美さんによる抗議を放送した部分の評価、映像編集の問題も含めて問題がなかったのか。取材方法の適切性。これは取材依頼をしていなかったことや早朝取材に行ったこと、取材中に質問に答えなかったこと。あと、映像素材の取り扱い、この点はこの後、あまり話しませんが、雅美さんは子どもを撮影されて、その映像が放送局にあること自体が気持ち悪いと、そういうことをすごくおっしゃっていました。

肖像権について
まず、これは撮影しただけで、子どもの映像は、もちろん放送されていないわけで、そういう場合に肖像権侵害が成立するんでしょうかと。一般論としては、成立しますということがあります。
和歌山カレー事件法廷内撮影訴訟、これは写真週刊誌『フォーカス』が確信犯的に法廷内の撮影をして訴訟になって、訴訟になったらまたもう1回似顔絵画家を呼んでやって、それも訴訟になったというような興味深い事件です。このときの最高裁判決の判断基準は、肖像権の保護と正当な取材行為の保障とのバランス。被撮影者の社会的地位、撮影された被撮影者の活動内容、撮影の場所、撮影の目的、撮影の対応、撮影の必要性等を、いろんな要素を総合考慮して、被撮影者の人格的利益の侵害が、肖像権侵害ですね、社会生活上、受忍の限度を超えるものと言えるかどうか、で判断して下さいという基準です。
本件では雅美さんを取材することが目的で、その際に子どもが付随的に映り込んだに過ぎない、もともと子どもを取材しようと思っていないわけですから、被撮影者の社会的地位等を子どもについて検討するのは適切ではない。なので、社会的地位などは雅美さんに即して検討しますという立場で、撮影の態様としては、付随的に映り込んだ子どもに対して相当な範囲を超えた撮影行為がなかったか検討する。付随的と言いながら、子どもを一所懸命撮っていたら付随じゃないみたいな話になるわけで、実際はどうなんでしょうかということになります。
2人の子どもに共通する要素。取材対象は、政治資金流用疑惑が持たれている会社代表者であるところの雅美さん。場所は自宅前とはいっても1階の事務所の前。公共性は高く、公益目的もあるということになります。長男の撮影態様は、放送されていないので見ようがないんですが、フジテレビのこういう撮影でしたという主張に、申立人側からとくに異論はありませんでした。フジテレビの主張だけではなくて、放送された部分から考えてどうだろうかという検討もしました。概ねフジテレビの主張どおりの状況ですねという結果です。長女についても6秒間映っていましたが、雅美さんが出てくると思って撮影を開始したら長女が出てきた、続いて出てくるかもしれないと回していましたという話で、不合理でもないし、そもそもお子さんを撮ってもしょうがないし、そんな目的があったとも思えないので、フジテレビの説明には相応の合理性があると。結論として子どもの撮影について肖像権侵害は認められないと判断しております。

名誉毀損について
雅美さんの名誉毀損の問題です。やり取りがどうだったか、番組を見ていただいたように「すみません、家賃収入の件」、「いくらなんでも失礼です」、「家賃収入の件でお伺いしたいんですけれども」。「そして」というナレーションが入って、「間違ったことは1つもございません。きちんと取材してからいらしてください」、こういうやり取りなんですね。
この場面について、一般視聴者がどう受け止めるんでしょうかということを検討すると、ここだけ見ていると、政治資金流用疑惑を持たれる家賃関係の質問に対して、雅美さんが「いくらなんでも失礼です」と発言し、キレて怒っているという印象を与える。メディアから公共性のある質問を受けて、本来説明に応じるべき立場にあるのに、感情的に反発してヒステリックな態度を取った印象を生じるから、雅美さんにはマイナスイメージを与えるでしょうと。ただ、名誉毀損は成立しないというのが我々の結論です。
なぜかと言うと、これ2つの立場がある。1つは、私の立場ですが、マイナスイメージを与えれば社会的評価は下がる、しかし、すべて名誉毀損にあたるのかというと、それは程度によると。本件は、名誉毀損というレベルまでの社会的評価の低下、マイナスイメージを与えているわけではないという立場。もう1つは、名誉毀損のレベルまで行っているかもしれないけれど、この件は放送倫理上の問題として検討するほうが妥当だという立場。ただ、どちらの立場も、結論として名誉毀損の成立は認めていません。

放送倫理について(映像編集)
放送倫理上の問題はどうなのか。実は放送された場面の前にやり取りがありました。それはフジテレビも争っておりません。雅美さんが出てきて「子どもなんだから撮らないでくださいね」と、まず言います。ディレクターが「雅美さん、お話を伺ってもいいですか」と言うと、雅美さんが「失礼ですよ。子どもなんですよ。やめてください」と言います。で、階段を降り切った長男がカメラの前を一瞬横切って、雅美さんが長男に「行ってらっしゃい」と言います。ここから先が放送場面になるわけですが、ここまでのやり取りの映像は編集でカットしているんですね。
雅美さんは「子どもなんだから撮らないでくださいね」という発言をはじめ、子どもを撮影されたことに対してくり返し抗議をしていました。しかし、放送には子どもは一切出てこないから、子どものことが問題になっていたことは視聴者には分からないんですね。ところが、「すみません、家賃収入の件」というディレクターの質問から放送したことによって、「いくらなんでも失礼です」という発言が、家賃収入の話を聞いたら、雅美さんが突然キレちゃった、そういう印象が生じます。
そうすると、ここで映像を切ったことの説明、子どものことで怒っていたと一言添えるとか、いろいろ他の選択肢もある中で、他に何か誤解を与えない工夫をしないといけなかったんじゃないでしょうかというのが検討の結果です。雅美さんは「失礼です」という同じ言葉を繰り返し、2度目は「いくらなんでも」と修飾語をつけているから、子どもの撮影に対する抗議の意味と理解するのが妥当で、編集を行った際にフジテレビもそれはわかったんじゃないでしょうかと。雅美さんの抗議にディレクターが直接回答しなかったために、引き出された面もありますねと。
しかし、映像の順序を入れ替えたり、途中の一部をカットしたという事情はなく、同時に怒ったこと自体は事実なので、放送倫理上問題があるとまでは言えないとした。この点は私自身も本当に微妙だなと思っていて、真ん中を切ってつなげて編集したらダメだけど、肝心の前を切っちゃって誤解を与えたら、それはいいのかというと、非常に微妙ではあろうと思います。ただ、怒っていることも事実ですし、放送倫理上の問題があるとまでは言えないというのが決定の立場です

放送倫理について(取材方法)
取材方法についてですが、フジテレビからは、雅美さんに取材依頼をしても応じてもらえないと思いましたという説明があったんですが、雅美さんの方は、いやいや、ちゃんと説明したかったとおっしゃっておられました。どちらも言い分があるわけですが、フジテレビがこれだけ正当な取材とおっしゃっるのであれば、断られると思っても、まず取材依頼をしていいんじゃないかというのが我々の考えです。
子どもの登校を狙った早朝の取材については、申立人はこんな時間に取材に来ないで欲しいと主張されたんですけれども、フジテレビは雅美さんの在宅率が高いから早朝に取材に行ったとおっしゃっていて、結論としては、早朝から取材を行ったこと自体は特に問題ないという判断をしています。
それから、雅美さんは「子どもなんだから撮らないでくださいね」と確かにおっしゃっておられる。「雅美さん、お話を伺ってもいいですか」というディレクターの発言の直後に、再び「失礼ですよ、子どもなんですよ。やめてください」と発言をしておられるので、引き続き子どもの撮影を問題にしていたことはディレクターも分かったんじゃないでしょうかと。抗議されている子どもの撮影について正面から答えず、家賃収入に関する質問をしており、雅美さんの言葉を無視したという理解も仕方がない対応ということです。

要望
放送倫理に関するまとめとしては、問題ありとまでは言えないけれども、今後の番組制作に2つ要望しています。まず、雅美さんが抗議した部分について、誤解を生じさせないような配慮を、怒っている理由をわかるようにすべきだったと。取材依頼もやっぱりすべきじゃないですかと。これだけ公共性の高い事案を取材するのであれば。やっぱり正面から対応してください。それから、子どもを撮影しているつもりはないと言っても、撮られている側はわからないという面があると思うので、そういう不安には配慮したほうがよろしいんじゃないでしょうか、と言う要望です。
あと、これは付言ですが、申立人は、当時都知事だった舛添さんの政務担当特別秘書を通じて、撮影した映像を放送しないようにフジテレビ側に申し入れをしています。これは子どものことについて申し入れをしたということだったんですが、ただ、東京都知事といった公的権力を行使する立場にある者が自己に関する批判を受け、報道を行わないよう放送局に働きかけをしたと受け止められかねない行為をすることは、取材・報道の自由への介入になり得る危険な行為であり、配慮が必要ですという付言があります。

少数意見
この決定には二関委員が曽我部委員との連名で少数意見を付記しており、説明した。

(二関委員)
坂井委員長からも説明があったとおり、実際には雅美さんは子どもが撮影されたことに対して怒っていたのに、家賃の質問をされたことに対してキレたという印象を与え、つまり誤解させる映像だったと。ここは多数意見も一緒ですけれども、そういった誤解させるような放送をしたことについての評価が分かれたという点が、少数意見が異なるところです。多数意見は4つ事情を挙げて、その4つの事情を、ある意味フジテレビに有利な方向に捉えたわけですが、少数意見はフジテレビに有利に評価をすること自体、ちょっと違うんじゃなかろうかと疑問を呈しているということになります。
先ほど見ていただいたやり取り、子どもの撮影に怒っているわけですが、その前の部分を割愛しているために全く子どものことが分からないわけですね、視聴者には。そういう文脈を無視した切り方をすること自体、やっぱりおかしいのであって、それを順番を替えたりしていないからといって、フジテレビ側に有利に事情として見るのはおかしいのではなかろうかと。
あと、多数意見は怒ったこと自体は事実だから、それはいいんじゃないのと、平たく言うとそういう立場ですが、子どもが撮られたことに親が怒ったというのであれば、それはまさに親心として分からないではないが、公共性のある質問に対してキレたと言ったら、それは同情するような人は通常いないわけですから、何が原因で怒ったかっていうことは大きいだろうと。
今は4点のうち2点だけ申し上げましたが、そういったような事情から少数意見のほうは評価を異にしたということになります

(質問)
申立人は東京都知事の奥さん、公的な人物の家族ということですが、これがたとえば一般の方に対して同様な取材を行って、このような申立てがあった場合に判断は変わってくるでしょうか?

(坂井委員長)
東京都は国家に匹敵するような大きな自治体で、そういうところの都知事のただの妻じゃなくて、政治資金管理団体の代表ですから、立場的にも公的な立場。なので、公共性も公益目的もあるということですが、一般の方の場合でも、単に公的な立場でないからという理由だけで、すべて公共性、公益目的がないということにはならない。
ちょっと参考になるのは、ポイントは違いますけれども、「散骨場計画報道への申立て」(委員会決定 第53号 )という事案がありました。申立人は別に公務員でも議員でもない、一般の会社の社長ですが、有名な保養地、温泉地の熱海で「墓地、埋葬等に関する法律」の対象となるような散骨場を計画し、熱海市民の何分の1という人が反対運動に署名したり報道されたりということで、公共性がすごく高いという認定をして、肖像権侵害は認めませんでした。
だから、一般の人でも事案によってはそういうことになるし、贈収賄事件に関わったり犯罪に関わったりすれば、公共性が高くなるということで、どういうことに関われば公共性が高くなるのかという問題もあろうかと思います。

◆浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て

(奥委員長代行)
どんな事件だったのか、地元の新聞などにもずいぶん大きく報道されています。申立人はどういう人かというと、さっき見ていただいたニュースの最初のところで、警察が捜査に来て車を押収する画面が入りましたね。家がちょっと映っていますけれども、その家の人が申立人です。彼は事件の容疑者の知人であるということは間違いないんですね。事件発覚前に容疑者から軽自動車を譲り受けた、これも間違いない。申立人は、この後、その日を含めて数日間にわたって警察から事情聴取を受けた。これは申立人自身も認めているし、まさに客観的事実として間違いないわけですね。

申立て内容
では、申立人は何を訴えてきたかというと、主張の1つは、この日の警察の捜査活動は、この段階では逮捕されていないんですけれども、容疑者による別の窃盗事件の証拠品として申立人宅にあった軽自動車を押収しただけだと。要するに、この日の捜査と浜名湖切断遺体事件とは関係がないということが主張の入口の部分ですね。にもかかわらず、テレビ静岡は浜名湖切断遺体事件報道の続報として関係者とか関係先の捜索といった言葉を使って、申立人がこの事件に関わったかのように伝えた、これはひどいじゃないかという話ですね。
もう1つはプライバシーの侵害で、申立人宅前の私道から撮影した申立人宅とその周辺の映像が放送に含まれ、申立人宅であることが特定される。家が特定されるから、申立人も特定される。そこで切断遺体事件に関わった、ひょっとしたら容疑者じゃないかというふうに思われ、ひどいじゃないかと。人権侵害の中身としては、名誉毀損とプライバシー侵害になるわけですね。

判断の前提
申立人の主張について、委員会がどういうふうに判断したかと言いますと、まずこの日の捜査が浜名湖事件と関係がなかったかどうか。外形的な事実としては、確かに証拠品としての軽自動車の押収だと。これは証拠品押収のための令状があって、それは間違いない。
テレビ静岡の取材の経緯を考えてみると、これは親しい捜査関係者から、明日の朝、浜名湖事件の大きな動きがあるよ、いろいろ捜索に行くよというようなことを聞いたわけですね。その情報をもとに、捜査本部を含めていくつかの警察に朝から車を置いて張り込んでいた、そうしたら、捜査車両がバーッと出て行って、2台から最後4台ぐらいになるんですかね。これが申立人宅に行って、他の場所も2か所ぐらい、浜松のマンションとか西区とか出ていましたけども、大規模な捜索活動をやっているわけで、所轄の警察がちょっと動いたというのではなくて、まさに捜査本部全体として動いているわけです。
もう1つ、申立人は警察の事情聴取を受けているわけですけれども、内容は特に車を譲り受けてどうのというのだけでなくて、容疑者についての関わりとか何か知っていることはないかとか、そういうことをいろいろ聞かれているということですね。
このことを総合的に判断すると、この日の捜査活動は浜名湖切断遺体事件の捜査の一環だったということは間違いない。そういうふうに考えていいだろうと、まずは入口の部分で判断したわけです。

人権侵害について
名誉毀損の判断の入口でいつも問題になるのは、社会的評価が低下したかどうかですが、申立人宅の映像は、申立人宅を特定するものとは言えない、後でプライバシーの問題にもかかってきますけれども、こういえる。しかし、実際問題として、近所の人たちは、朝からあそこの家で大騒ぎしているなというのもあって、浜名湖事件のテレビ静岡のニュースを見るわけですから、周辺の住民が、申立人宅を特定した可能性は否定できないと考え、決定文では一定程度の社会的評価が低下したことは争えないだろうと書いています。
ただ、社会的評価が低下したら、すぐ名誉毀損が成立するということはないので、公共性、公益目的、それから真実性、相当性を考えないといけない。公共性とか公益目的ということで言えば、重大な世間の注目を集めつつある事件の続報ですから、公共性、公益目的はある。問題は真実性、相当性ですが、その際に、具体的に問題になるのは、ニュースで使われている関係者とか関係先の捜索という表現が、真実性を失わせるかどうかということです。
これはちょっと後にするとして、判断がそう難しくないプライバシー侵害について、最初に考えてみたいと思うんです。プライバシーとは、皆さんよくご存知のように、他者に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄ということですね。さっきも言いましたように、申立人宅の映像は、ただちに申立人宅を特定するものではない。近所の人、申立人をそもそも知っているという人が見れば分かったかもしれないが、一般視聴者が分かったわけではない。布団とか枕とか、そういう映像があるわけですが、普通の家の外に干してある布団とか枕がプライバシーの概念にすぐにあたるかというと、そうではなかろうと。プライバシーそのものとは言い難いということで、プライバシー侵害にあたらないと判断したわけですね。
さっき置いておいた真実性、相当性の検討ですけれども、分かっていることは、申立人宅における捜査活動が浜名湖切断遺体事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車が押収された。これは争いのない事実として本件放送の重要部分で、これは真実性があると言えると思うんですね。
その時に、関係者とか関係先の捜索という表現が、この真実性を失わせるかどうかという問題ですね。そこで実際の取材活動を考えてみると、テレビ静岡は捜査関係者からのリークがあって捜査車両を追いかけて行っていろいろ映像を撮った。しかし、決して当日の捜査活動の全体像を最初の段階で知っていたわけではない。そこで実際に車が押収されているという時にどういう表現をするか。いろいろ考えるべきではあろうと思うんですけども、とりあえず関係者とか関係先の捜索というような表現は、ニュースにおける一般的な用語法として逸脱とは言えないだろうと判断したわけですね。ということで、名誉毀損は成立しないという結論になったんです。

放送倫理について
テレビ静岡は、当日の警察の捜索活動の具体的な内容を全て掴んでいたわけではない、しかし、捜査情報を得て現場に向かい、目前で展開される捜索活動を取材する一環として申立人宅を撮影した。これはどこのテレビ局、新聞社だってやりますよね。それ自体問題ないし、申立人宅が特定されないように、ロングを使わずにアップの映像を使ったり、表札がちょっと映っていますが、そこでもボカシをかけているということがあるわけですね。
ということで、放送倫理上問題があるとまでは言えないと判断したんですが、少し考えてくれたほうがいいところがないわけではないというのが、実際に申立人宅内部の捜索が行われたのかどうかという問題です。申立人は、警察は車を押収しただけだ、家の中の捜索は行われていないと強く主張している、にもかかわらず、関係先の捜索という表現が使われていたと。
実際、家宅捜索は行われていないと言えるだろうと思うんですね。しかし、テレビ静岡は申立人宅の映像を繰り返し使って、さらに一番最後のニュースでは映像が増えるんですね、2階の窓の映像も加えている。ここに枕と布団が映っているんです。しかし、時間の推移とともに、申立人宅での捜査活動は車の押収であったことは推定できたはず。ですから、あんなに最後まで申立人宅の映像をバンバン使う必要はなかったんじゃないかというのが、放送倫理上の問題はないが、少し考えたほうがよかったんじゃないかという話ですね。申立人宅の映像の使い方は、より抑制的であるべきでなかったかと。もっと重要なことは、マンションに住んでいる男性が捜査陣にいわば任意同行を求められて車の中へ入って行く映像があるんですね。その人物が、実は重要参考人としてその後捕まるということになるわけです。そういうことを考えると、申立人宅の映像は少し抑制的に使う必要があったのではないかということを、いわば注文として付けたというのがこの決定です。

(起草委員 城戸真亜子委員)
関係者とか関係先という言葉をニュースなどでよく聞きます。一視聴者として聞いた時に、その事件に関係あるだろうなというイメージで聞いてしまうという見方があるというふうに思います。申立人の場合を考えると、関係先と表現しない方法もこの段階ではあったのではないかと思いました。
ニュースでは、殺害された人を説明するコメントの背景の映像として申立人の家が映っているわけですね。視聴者は、ここで殺されたか、ここに住んでいる人が犯人だと受け止めてしまうでしょう。慎重さを欠くところがあったのではないかと思いました。
特ダネだったということで、多少勇み足的になる心情はすごく理解出来ます。ただ、奥代行の説明にあったように、時間がだんだん経って、他の場所でどういう捜査が進んでいるかとか、たぶん、そういう情報が逐一入って来る中で、これは出す、これはもうは出さないという判断がその都度求められる。報道の現場は、緊張感、慎重さ、反射神経いろんなものが求められる大変な仕事だとつくづく感じたところです。

(質問)
カメラマンが撮影したポジションが私道でしたが、ここにもし「私道」と看板が立っていた場合、判断は変わりますでしょうか?

(奥委員長代行)
申立人は、テレビ静岡が私有地である私道で撮影したと主張しています。確かに私道ですが、誰でも普通に通っているところですから、プライバシーの侵害はない、問題はないという判断をしたんですね。
ここから先が私道だと、「私道に付き立ち入り禁止」というような立て看板があったとしたら、たぶんそこでやめるんじゃないですかね、今の取材のあり方としては。私のように古い新聞記者は、そんなの関係ないと中に入って撮っちゃいますけれど、今は、住居侵入とかになっちゃうからやめるんじゃないでしょうかね、という感じはします。

(坂井委員長)
私道と言っても、郵便局やヤマトや佐川は立ち入りOK、普通に訪問する人が家のベルを押すところまではOKという私道と、「私道に付き立ち入り禁止」、入るなと明示されているところがあり、そういうのは入っちゃだめですね、柵がしてあるのと同じだと考えて。
その中間の「私道」と書いてあったらどうしましょうというご質問ですが、ここから先は一軒家で、入るなというふうに見える場所もあれば、私道でも郵便局や宅配業者がみんな入って行くところであれば、そこは新聞記者とかテレビ局が取材に入っても社会的には許容される、これは法律的には推定的承諾という言い方をしますけれど。状況によるかと思います。あまりクリアな答えではないですけれども、状況判断だろうと思います。

(市川委員長代行)
所有権を侵害するかどうかということから言えば、それはだめですということになると思いますが、プライバシーとの関係で言えば、私道であっても宅急便や郵便局の人が入って来るところは、それほど保護されるようなプライバシーの権利はあまりない場合もあるように思うので、そこから撮ったら直ちにプライバシーとの関係で問題ありということにはならないと思います。私の個人的な意見です。

(質問)
警察が捜索をしたのは複数か所ですが、これが仮に、抜きネタだと追いかけて取材をしたら結果的に捜索をしたのは申立人宅だけ1か所だったと。たぶん、弊社であればスクープ映像なので関係者宅の捜索が行われたと昼から夜まで毎回流すと思うんですが、仮にそうなった場合には、この決定の判断は大きく変わることになるでしょうか?

(奥委員長代行)
申立人宅だけの捜索だった場合どうなのかというと、事件の続報という中でのウエイトの問題とか、いろんなことが出てくるので、どうでしょうかね。これは事件の本チャンの筋ではないですね。だから、ちょっとリーク情報があって取材に行ってみたけれど、空振りだったなということになるんじゃないですかね、感じとしては。

(坂井委員長)
捜索ではないというのが前提で、事実としては、申立人宅で車が事件に関係あるものとして押収されたということですね。だから、車が押収されたと報道するのはいいが、事件の本筋じゃないから、どこかでやめようという冷静な判断がないといけない。
これはすごい事件ですよね。切断遺体が浜名湖で出てきて、みんな恐ろしいと思っている時に、関連する捜索がありました、車が押収されましたと報道するのは、まずはいいとして、ちょっと怪しいと思ったらそこでやめないと、だんだん申立人が殺人事件の、主犯じゃないかもしれないが共犯かという目で社会的には見られると思うんですよ。そのへんの視点を忘れて報道をやり過ぎると、関係者という用語では留まらない意味が生じるかもしれないというようなことを感じます。

◆アンケートの回答から

事前アンケートの回答の中から2局を取り上げた。

(発言)
ローカルの情報番組の毎回のエンディングで「この夏休みはどう過ごすの?」みたいなことを、たとえば子どもにインタビューするというコーナーがあるんです。当然学校と担任の先生の許可を得て撮影し、何人かの子どもに答えてもらったんですけれど、そのうちの1人の胸の名札にフルネームが入っていました。それを見た親御さんから、プライバシーの侵害であると、BPOに言いつけてやるという電話があったと、学校から私どもの視聴者対応のほうに連絡がありました。フルネームが映ってしまったのを見逃したという部分あり、社内的には今後気をつけていかざるを得ないなという結論に至った次第です。

(坂井委員長)
たまたま名札が映っちゃったと。それはほんとにご時世で、昔だったら、問題にならなかったと思うんですけれど、ネットにどう流れるか分からないみたいな時代になっていますから。嫌だなとは思いますけども、学校名、名前、顔まで出てしまうと、そこはやっぱり配慮すべき事項だろうと思います。そういうケースだと、確かに何かあってからでは遅いという話になるような気もします。

(質問)
仙台市では中学生の自殺が複数あり、取材、報道で大変難しい判断を迫られるケースが出ています。特に最近分かったケースで、先生の体罰が絡むケースがあったりして、この学校はどこなんだという騒ぎも出たりして、もちろん、子どもたちへの直接取材とかはしていないんですが、体罰とかに関わった先生や校長先生からは話を聞かなきゃいけないと、実名報道に切り替えたという経過があります。こういう問題に対して、どのようにお考えですか。

(坂井委員長)
2つ問題があって、学校側の対応、いじめとか自殺にならないようにするために、学校の責任ある対応がなされていたのかどうかという部分では公共性があるし、匿名にする理由はないような気がするんですよね。だけれど、校長先生の顔や学校名が出ると、たとえば自殺したケースだと、遺族の方たちが「いや困る」と、遺族の方がどういうふうに考えるかということとの両面を見ながら報道することかなと思います。東北の出来事だったと思いますが、コンテストで自殺した女子生徒が写っている写真の表彰が取りやめになり、逆にご遺族の方から「写真を出してもらいたい」という話があったりして、一律ではないと思うんですね。
最初の被害者の実名、顔写真の話とつながるんですけれど、ご遺族が「困る」と言ったから、絶対それに従わないといけないということでもない、ケースによっては、名前を出して追求しなきゃいけない事案かもしれない。そこは、ほんとにどういう事案で、どこまで出さないといけないのか。匿名のまま報道しても問題提起が出来る場合もあると思うので、その要素を考えてやっていくのかなと思っています。

(曽我部委員)
いじめの場合は、当事者の意見が食い違うことが多々あるので、その辺りはかなり配慮して、当然配慮されていると思いますが、一方的で断片的な報道になってしまうと問題だと思います。ただ、委員長が言われたように、学校というのは基本的に閉鎖的な社会ですので、そこをきちんと報道するということには非常に大きな意義があると思いますので、必要に応じて、つまり匿名のままでは報道しきれないというような場合は、やはり実名で報道すべきではないかと、個人的には思います。

◆実名報道の価値 しっかり発信を ~坂井委員長 締め括りあいさつ

簡単にまとめたいと思います。これからますますいろいろなネットの問題や座間の事件ような問題が出て来たりしますので、局としてもしっかり考えていかないといけない。
今日取り上げた決定に、「勧告」はないんです。放送倫理上問題あり、または、問題なしだが要望ありの「見解」です。理由は細かく決定文に書いてありますので、ぜひ読んでいただきたい。そのうえで、ちょっと立ち止まって考えていただければ、放送倫理上問題ありとか、要望ありと言われないように、取材、報道に生かせるのではないか。現場を知らない私が言っても説得力がないかもしれませんが、ちょっと考えていただければ、こんなふうに言われないで済むのになと思うことがあります。例えば私がご説明した都知事事案の一番のポイントは、「いくらなんでも失礼です」と怒っているところの映像の切り方ですね。ここで切ったらどういう反応が来るのか、ちょっと考えれば分かるはずなんです。
それから、繰り返しになりますけれど、報道する価値とか実名報道の価値、被害者でも実名や写真を出さないといけないことがあるというならば、それを報道する側がしっかり発信していかないとだめなのだと思います。報道される側は当然いろいろ感じるわけですから。それを発信することによって、放送、テレビメディアに対する信頼が高まって、そういう報道も必要なんだと理解されていくのだと思うので、ぜひ個別の事案で委員会がどういう議論しているかを理解していただければありがたいなと。そのための意見交換会として、今日はほんとうに有意義だったと思っております。ありがとうございました。

以上

2017年7月18日

在京キー局との意見交換会

放送人権委員会は、7月18日に在京キー局との「意見交換会」を千代田放送会館会議室で開催した。民放5局とNHKから17人が出席、委員会からは坂井委員長ら委員全員が出席した。
今年の2月と3月に通知・公表を行った決定第62号「STAP細胞報道に対する申立て」(NHK 勧告:人権侵害)と決定第63号、64号の「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本、熊本県民テレビ 見解:放送倫理上問題あり)を取り上げ、それぞれ番組を視聴し、坂井眞委員長と起草担当委員による説明、少数意見を付記した委員による説明の後、質疑応答を行い、約3時間にわたって意見を交わした。
質疑応答の概要は、以下のとおり。

◆ 「STAP細胞報道に対する申立て」

(NHK)
決定の説明で、ダイオキシン報道の最高裁判決の話があったが、最高裁判決は、煎茶のダイオキシン類測定値を野菜のそれと誤って報道した部分については、放送が摘示する事実の重要部分の一角を構成するものであり、これを看過することができないとしている。決定文を読んだ職員からは、STAP細胞報道で、ホウレンソウをメインとする所沢の葉っぱものとのコメントに当たるところはどこなのか、それがないのではないか、という声が出ている。

(坂井委員長)
今のご質問は最初にもっとも意見交換すべきところだと思う。まず曽我部委員が言ったように、ダイオキシン報道最高裁判決は、新聞記事に関する最高裁の判例が一般の読者の普通の注意と読み方が基準だとしていることを引用したうえで、テレビ放送でも同様に一般視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準とするとしている。こういう抽象論を言ったあとに、最高裁判決ではさらに具体的にどういう要素によって摘示されている事実を判断するかということを述べている。
まず当該報道番組により摘示された事実がどのようなものであるかということについては、当該報道番組の全体的な構成、これが一つの要素とされている。決定文(7~8ページ)で言っている(1)~(5)までと(6)のつながりも、この要素との関係で出てくるものと言える。この場面がどういう全体の流れの中にあるのかという観点からの判断だ。
それから二つ目が登場した者の発言内容。今おっしゃった久米さん(ダイオキシン報道の番組キャスター)の発言をストレートに挙げている。つまり久米さんの発言はいくつかの要素のうちの一つです。その次に画面に表示されたフリップやテロップ等の文字情報の内容を重視すべきことはもとよりとされている点。これは、最近の例で言うと、人権侵害との判断はしていないが、テレビ朝日の「世田谷一家殺害事件特番への申立て」(決定第61号)で、サイドマークだったり、テロップだったり、いろいろな形式で用いられていた文字情報を含めて摘示されている事実が何かを判断したこととかかわっています。それから、もちろんテレビですから、映像の内容、効果音、ナレーション等の映像及び音声にかかる情報内容という要素、そして放送内容全体から受ける印象等。これらの要素を総合的に考慮して判断すべきであると最高裁判決は述べています。
だから、ダイオキシン報道の最高裁判決というのは、何か具体的な一つの発言を捉えて、それがあることを前提として判断しているわけではなくて、こういうたくさんの要素全体から判断すると言っているのです。ダイオキシン報道で特に象徴的に出てくるのは、さっき申し上げたホウレンソウをメインとする所沢産の葉っぱものと言っていたところだが、実は一番濃度が高かったのはお茶だった。それについて専門家もちゃんと説明していないとか、いろんな事情があったが、そこについては真実性ありとは言えない。重要な部分について真実性がありとは言えない、そういう事例だった。
判断基準としては、発言内容でこれを言ったとかいう、ピンポイントの要素で判断するのではないというのが私の説明になる。本件についても、どれか一つの発言ということではなくて、今、指摘したようなたくさんの要素を総合的に考慮して、我々の摘示事実の認定がなされたということになる。

(曽我部真裕委員)
ちょっと補足をさせていただきたいが、実はこの裁判は東京高裁では真実性ありという判断だった。それは別の研究者が白菜の測定もして、煎茶の3.8ピコグラムに近いような数字が出ていたと。そういう情報を持ってきたので、それをもって高裁は真実性ありと判断した。最高裁は、それはダメだと言った。なぜダメだかというと、摘示事実の認定が高裁と最高裁で違っていた訳です。
最高裁は摘示事実として、所沢産の葉っぱものが全般的に高濃度に汚染されているということを言ったと判断した。だから、要するに白菜1点持ってきたところで、それでは全般的に高濃度に汚染されているということの証明にはならないと言って、真実性・相当性は否定した。これに対して、高裁は全般的にとは言っていない。高濃度の白菜が一つあったので真実性を認めた。
だから、高裁と最高裁で判断が分かれたのは、摘示事実の認定が違っているところにあって、なぜ、最高裁が摘示事実として全般的に高濃度に汚染されていると言ったかというと、これは当該部分全体を見ているから言ったわけです。番組の中で、別に全般的に高濃度に汚染されているという発言は無かったが、全体として、それこそ全体として汚染の深刻さを繰り返し、いろんな手を変え品を変え訴えていたことから、最高裁は摘示事実を全般的に高濃度に汚染されているという認定をした。
要は、全体の作りから一般の視聴者はそう受け止めるであろうと判断したもので、むしろ参考にすべきは、この判断かなと思う。

(NHK)
最高裁判決でいうと、ホウレンソウの値段が暴落しているので、一般視聴者も多分そう見ただろうと思う。ただ、今回のSTAPについては、我々はモニターからリポートを取っていて、この番組が終わった後、視聴者の皆さんからモニターを取ったが、その100件余りの中でも、要するに盗んだという決定と同じように番組を見たという人はいなかったし、そういう抗議も来なかった。申立人が主張してきて初めて、ああ、そういうふうに見られているのだということが分かった。
先ほどの曽我部委員の説明で、摘示事実の認定に関わる部分で、STAP研究が行われた時期と、元留学生のES細胞が小保方研究室の冷凍庫から見つかった時期の間には、2年以上のブランクがあると繰り返し指摘されている。ただ、STAP細胞が最初に成功したとされるのが平成23年11月以降で、その後、研究を継続的に行っているので、2年以上の間隔があるという事実は無い。なぜ、2年以上の間隔があると判断したのか。

(坂井委員長)
2年以上の間隔という意味が、みなさんが捉えていらっしゃるポイントと、我々が言っている趣旨がズレているというか、違っていると思います。
我々が言っているのは、番組を見てわかるように、キメラ実験を成功させたときのSTAP細胞は、実はES細胞のコンタミ(混入)が原因だったんじゃないかという点にかかわることだ。番組では、そのときの話をしているわけだから、それから2年以上経って、ということになる。特にキメラ実験をしている当時は、まだ小保方研なんてないですし、まして小保方研の冷凍庫も無いわけですから、それから2年以上経って小保方研の冷凍庫から見つかりましたということに、どういう意味があるのか。キメラ実験のときのコンタミしたかもしれないES細胞と、どこにあったか分からない留学生の細胞、どこで、いつどうやって、どういう経路でキメラ実験の後に作られた小保方研の冷凍庫に入ったか分からない留学生のES細胞との関係が問題とされているわけで、見つかったときと、キメラ実験をしたときの間が2年もある。そうすると、関係が無いのだったら、ここで見つかったから混入したのではないかという話にはならない。
NHKは、STAP研究は2年以上続いていたという。でも、その話は申立てに係わる、この放送の問題とはあまり関係ない。この放送でどういう事実が摘示されて、それが名誉毀損に当たるかどうかという話をしているときに、放送で問題にしているキメラ実験の後もSTAP研究が続いていたということは意味がなく、我々が言っている2年間とは観点が全然違う。

(曽我部委員)
2年という数字そのものには、特に意味は無い。おそらく、視聴者としてみれば、最初のキメラ実験の辺りから混入していたのであろうと、これは決定文には無いですけれども、おそらく通常、受け止めるだろうと思う。そうすると、その時点から混入していたという話と、だいぶ後になってから、たまたま、たまたまかというかどうか、出て来ましたよと、研究室の冷凍庫にありましたよという指摘とのつながりは、少なくとも、あの放送内容では視聴者はよく理解できないんじゃないかと思う。
審理の過程でも議論はあったが、あの場面はNHKの側からしてみると、要するに、小保方研における細胞の保管状況はあまり厳格ではなかったので、混入する可能性も、客観証拠として、傍証として、間接証拠としてはあるんじゃないかという趣旨で放送したのかなという気もするわけだが、ただ、それは後から見ると、もしかしたらそういう趣旨だったのかもしれないなという程度で、やはり普通に見ると、先ほど来ご説明申し上げているような形で視聴者は受け止めるだろうということだと思う。

(A)
第二次調査報告書の中で結局、2005年に若山研のメンバーが樹立したES細胞が、その後ずっと2010年に若山研が持ち出すまでは研究室にあって、その後なくなったはずのES細胞が、後に小保方研のフリーザーに残っていた資料から見つかって、それが今回のSTAP細胞の中の成分と一致しているという、そして、これは誰が入れたのか、謎のままだという調査結果が出ている。
その大筋においては、それが元留学生のものかどうかは別として、ある程度放送と一致した内容の最終的な調査報告書が出たということが、今回の真実性の判断の中で審理されたのか?

(坂井委員長)
報告書では、若山研にあったES細胞がコンタミしたのではないかと書いてあるから、その限りでは真実性があるのではないかというお話だが、真実性は、番組で摘示された事実を対象に真実性があるかどうかを判断する。
我々の認定した摘示事実では、留学生の作成したES細胞と、冷凍庫で発見されたES細胞というのは、番組で関連があるんじゃないかと言っているわけだから、留学生のES細胞を取っ払って、一般的に若山研のES細胞との関係で真実性を判断するわけにはいかない。報告書で若山研にあったES細胞がコンタミしたのではないかとされているから、その点は真実性があるというが、番組はそういうことは言っていない。前提として、番組の摘示事実は何かというところから真実性の話をしないと、ちょっと論点がズレるのではないか。
市川代行の少数意見は、そこは切り離している。番組として切り離すのだったら、留学生の細胞の話を出さなくたっていいわけですから。私は切り離すのはおかしいと思っているが、それは意見の違いだからしょうがない。

(B)
私は放送を一視聴者として見ていたが、そのときの印象として、出所不明のES細胞が小保方研究室の冷凍庫から出て来たという事実は捉えたが、いわゆるSTAP細胞がそのES細胞に由来する可能性があるとまで摘示しているとは感じなかった。それが即、STAP細胞に使われたというふうには思えなかったというのが正直な感想だった。普通の視聴者の視聴の仕方というが、やっぱり、個々の視聴者が感じることは違うと思うので、私は委員会の判断は相当厳しいなと、すごく感じた。

(坂井委員長)
我々は一般視聴者を全部調査しているわけではない。さっきNHKもおっしゃったように、そうでもないと思う人もいるだろうし、我々もそういう意見もあることは聞いているが、我々は9人の委員がどう認識するかで判断するほかない。つまり、放送を見て、委員会のメンバーが最高裁の基準からしてどう判断するかということで、それは違うと言う人がいたからといって、間違っているということにはならないだろう。委員会として、これを普通に見たらどうなるだろうかと判断をするしかない。これを厳しくしようとか、緩くしようとかは、全然思っていない。
今のお話は、出所不明の留学生の作ったES細胞が、その前の場面のアクロシンGFPが入った若山研にあったES細胞と同じとまでは思わなかったという話ですよね。当時同じだと認識していなかったのであれば、それを明らかにしたうえで、留学生の作ったES細胞が、なぜか後になって小保方研の冷凍庫から見つかったが、なぜそこにあるのか、小保方さんには説明していただけませんでしたというふうにすれば、その前の部分とは区切られて問題にはならないかもしれない。
逆に先ほど説明したように、アクロシンGFPが組み込まれたES細胞が混入したのではないかというSTAP研究当時の混入の可能性を指摘した部分に続けて、それとは別の話であることをはっきりさせないで、元留学生作製のES細胞の保管状況を紹介し、なぜこのES細胞が小保方研の冷凍庫から見つかったのかと疑問を呈するナレーションがある。そうすると、このES細胞が混入したらSTAP細胞ができちゃうね、という流れだと、一般の人にもそう見えると我々は判断した。
NHKは違う話だと主張するが、違う話だったら、どうしてこういう流れで出てくるのか分からないというが委員会の意見で、違う話だと分かるようにすればいいと思う。理研なり小保方研での細胞の管理がいい加減だったという文脈であれば、そういう文脈をはっきり出せばいいと思うし、そうではないと言うのだったら、それまでのアクロシンGFPが組み込まれたES細胞が混入したのではないかというSTAP研究当時の混入の可能性を指摘した部分との関係、そこはまだよく分からないけれども、なぜか無いと言っていたES細胞がありましたと、それは事実で真実性を立証できる、無いと言っていたのに出てきたわけですし、出て来たということは立証できるんだったら、それは全然問題ないし、やりようはあるだろうなと思う。

(B)
この元留学生が作ったES細胞には、アクロシンGFPは組み込まれていないのですね?

(坂井委員長)
結論としては、そうだと思う。

(B)
NHKは放送当時、それを知っていたのか?

(奥武則委員長代行)
今おっしゃった部分について、もし放送するなら、こうやればよかったかなと、一つの提案に過ぎないが、決定文29ページの下から11行目の、「事態が『霧の中』にある状況で」という書き出しの段落の真ん中あたりに、例えばとして書いてある(「アクロシンGFPが組み込まれていないため、現在の時点では遺伝子解析が行われたSTAP細胞とのつながりは明らかではないが、小保方氏の研究室で使われている冷凍庫から、本来あるはずのないES細胞が見つかった」)。こんなふうにすれば、別であるということが分かったのではないか。
アクロシンGFPの話は、後になって、NHKにヒアリングした際にちゃんと聞けばよかったなと思った。アクロシンGFPが入っているか入っていないのかについて、NHKが取材したかどうかは、今もって分からないが、事実としては入っていなかった。

(B)
もしNHKが知っていて表現しなかったなら、放送倫理上問題はあるなと私は思う。ただ、なぜかこういう事実摘示だと認定し、人権侵害のほうに行ってしまうのが、本当によかったのかなと。

(坂井委員長)
そこは何とも言いようがないが、一般視聴者ではなく、やっぱりその道のプロでいらっしゃると、そうお考えになるのかなと思いながら聞いている。ただ、委員会は、一般視聴者が普通に見たらどうだろうかという観点で議論をし、結果、こう判断せざるを得ないと結論した。少数意見も2人もいて、人権侵害とは認めないとしているが、放送倫理上問題ありとはおっしゃっている。

(C)
今の議論を聞いていて、委員会は裁判所なのかなと思ってしまう。例えば、今の状況で行けば、加計の問題とか森友の問題、僕らは一切放送できない。事実性も真実相当性も中途半端な状態でしか分からないので。
今回のケースで行けば、やっぱり、あのSTAP細胞に何かあったのじゃないかという素朴な疑問、メディアの素朴な疑問、当然NHKも持つし、僕らも持った。その疑問について、当然、小保方さんにも当てた、一切回答は返ってこなかった。そういう状況の中で、一所懸命番組を組み立てていった。この問題をメディアがどうやって伝えるべきか、その大義の部分の認識は委員にあったのか? 些末なことが十分な真実性が無いから人権侵害だと断じてしまうのは、ほとんどの調査報道の道を閉ざすことになる。

(坂井委員長)
加計の話とこの話は違うし、調査報道はいくらでもすればいい。ただ、名誉毀損にならないようにすればいいだけの話。それをしない方法はいくらでもある。ここをこうすればという、こんな問題で名誉毀損と言われなくて済むやり方はあると思う。法律家ですから、よく分かっているつもりですけれど、そのようなやり方をするのも報道する側の仕事だと思う。名誉毀損された人間というのは、とんでもない痛みを受けることがある。それを忘れてはいけないと思う。
報道というメディアの重大な役割は委員全員が認識している。それは決定文に書いてあると思うし、こういう問題を起こさないようにすることこそが大切だ。
加計の問題を言われるが、安倍さんは総理大臣だから、公的存在として、STAP研究の1研究員と全然違う。報道されていい範囲が立場によって全然違うのはご存じですね。それを同列で議論できるわけがない。おっしゃるような調査報道はどんどんやるべきでしょう。けれども、そこで名誉毀損だと言われないようにする、細心の注意を払うべきじゃないかと思う。それは、そういう重大な役割を担っている報道のみなさんの役割だし、義務だと思う。

(D)
やっぱり普通に番組を見ると、小保方さんがあの細胞を勝手に盗んできて、個人的にやったのかと見えちゃう。小保方さんが個人的にやったのか、もしくは研究者の誰かが勝手に入れたのか、何らかの手続きで間違って入ったのかもしれませんけれども、これを見る限りでは、個人がなんか意図的にやっているふうに見えちゃう。だとすると、これは個人がやったのか、それとも第三者が勝手に入れたのか、それについてお答え願いたいみたいな表現にすれば、よかったのかなと思う。
それよりも、どちらかというと、声優を使って紹介したメールのやり取りのほうが、かなり問題ではないのかなと。たしかに公的なメールでプライバシーの侵害ではないが、男と女の関係を匂わせるような表現はいかがなものかと、僕はリアルタイムで見ていてびっくりした。

(坂井委員長)
いかがなものかという趣旨の表現は決定文に書いてあると思う。本件のような大事なテーマで、そういうニュアンスを出すのはいかがなものかと、私も個人的に思うが、でも、声優が話している内容自体は大したことじゃないので、問題ありという結論にはならないと思う。

(奥委員長代行)
先ほどご質問があった調査報道のことは、また少数意見で言いにくいが、決定文28ページの「調査報道の意義と限界」というところを読んでいただければ、私が考えていることは分かると思う。委員会は裁判所ではない。

(C)
委員会はより良い放送メディアを作るためのものなので、行き過ぎはもちろん訂正しないといけないが、とにかく押し込めてしまうということがあってはいけないと思う。法廷ではバランスは取れない、絶対に。ただ、委員会はバランスが取れると思っている。たしかに問題があるかもしれないが、伝える意味合いがあるものに対しては、それとのバランスをどういうふうに取るかを、是非お考えいただきたい。法律で言ったら、おっしゃるとおりだということはよく分かる。ただ、委員会はそういう場ではないと思っている。

(城戸真亜子委員)
私は法律の専門家ではない。放送に携わったこともあり、表現する立場でもある。やはり、調査報道は踏み込まないとできないという、おっしゃっていることはとても理解できるし、スレスレの姿勢で入り込んでいく姿勢が必要だと思う。今回のNHKのこの番組は、独自に調べられてタイムリーに作ったと思う。
でも、私はリアルタイムで拝見したが、やはり申立人が何か重大な間違いを犯してしまったんじゃないだろうか、という見方をした。あそこのシーン、留学生の話があり、試験管のようなものが出て来て、私の印象では「杜撰な管理方法でよかったのだろうか」みたいなことでまとめていたら、たぶん人権侵害にはならなかったのではないかと感じた。やはり、ちょっと行き過ぎた言葉によって、傷ついただろうと感じた。申立人のしたことが、それよりも大きかったかどうかはちょっと分からないが、放送によって本人が名誉が毀損されたと感じたならば、やはりそこを考えて判断していくのが、この委員会だと思っている。

(NHK)
今言われたことと、ちょっと関係するが、放送は「小保方さんにこうした疑問に答えてほしいと考えている」で終わっているわけではなくて、その後まで続いていて、新たな疑惑に対して理研は調査を先送りにしてきていて、こういったコンタミを含めた調査をきちんとやらないのかと、指摘する場面を付けている。

(城戸委員)
小保方さんは答えをくれなかったわけで、そして、理研はどうなんだとつながっていくことは大変よく分かるが、そこまでのトーンが、やっぱり、そのコメントに集約して着地しているように私は感じた。

(E)
7月3日付で委員会からNHKに対する意見(NHKの「STAP細胞報道に関する勧告を受けて」に対する意見)というものを出されたが、異例の強い調子で述べられているように私は受け止めている。これはもう、こういう形で平行線で終わりということになるのか。

(坂井委員長)
決定を通知したあと、我々が行って、当該局研修と言いますけれど、研修をしてその報告をいただいて、それで分かりましたと了承するときと、報告の内容に納得いかない部分があるときは、我々はそれに対する意見を出して、それで終わるというのがこれまでの通例です。
大阪市長選事案(決定第51号「大阪市長選関連報道への申立て」)のときも、当該局の報告に対して委員会の意見を出したが、そのときもそれで終わっている。それ以降について、特に何か意見を交換し合う手続きがあるわけではないが、でも、こういう意見交換会のように実態としては局側と話ができている。引き合いがあれば、こういう話ができればと思うが、手続き的には特に定めは無い。

◆ 「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本、熊本県民テレビ)

(A)
こういったケースは、おそらく同じような形で、いろんな場所にあるような気がしている。警察の見立てだと明確化すれば問題ないという結論になるのか、それとも、現時点で見立てに近いものはできるだけ報じないほうがいいというご趣旨なのか。どういった形で正しい原稿、倫理上問題のない原稿を書くかを、ご指導いただきたい。

(坂井委員長)
分かりやすいほうから言うと、警察の見立てに近い部分は報道しないほうがいいとは、全然言っていない。見立ては見立てとして報道してくださいと、委員会決定ではそういう言い方をしていると思う。見立ての部分と、そうではない部分、客観的事実として報道する部分は、ちゃんと区別してくださいということです。
決定文(テレビ熊本)の32ページを見ると、冒頭のところ(リード部分「酒を飲んで意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込みデジカメで女性の裸を撮影したとして、熊本市の職員の男が準強制わいせつの疑いで逮捕されました」)で、逮捕容疑事実、警察発表の文書にないことも含めて言っている感がある、まず、そう言っている。そこはたしかに問題がある。そのあとの真ん中のあたりの「警察によりますと、(容疑者は今年7月、自宅マンションで意識がなく抵抗できない状態の20代の知人の女性の裸の写真をデジタルカメラで)~ 撮影した疑いです」、ここはそのとおり、警察発表のとおりだから、これを書いたからと言って放送倫理上問題ありという判断にはならない。
当該局研修でかなり活発に意見交換してきたが、全体を見てどうなのかということを考えないといけない。原稿はちゃんと書いたが、現場へ行ったアナウンサーやリポーターが話す内容が違うこともあるという話もあった。記者リポートのところに入ると、「事件当日、意識がもうろうとしている女性をタクシーに乗せ、自宅マンションに連れ込んだということです。意識を失い横になっていた女性の服を脱がせ、犯行に及んだということです」と言っている。この記者リポート、先ほど指摘した冒頭部分があり、その流れで放送されているから、このままでいいのかというと、なかなかそうとは言えないだろうなという気がする。

(A)
この記者リポートに近い中身を報じようと思ったら、警察の見立てと言われているところだが、例えば「警察によると、~ということです」と、エクスキューズを付ければ、ありうるのか。つまり前段で被疑事実を言う、被疑事実を認めていると。そのあと、追加、プラスαとして電話して聞いた中身とか逮捕の被疑事実とは離れた肉付け部分を、どういう表現を使えば、「容疑を認めている」から外して、プラスαとして「警察はこう言っているんですよ」という情報として付け加えて、かつ倫理違反に問われないのか?

(坂井委員長)
おっしゃっている部分が、きっとこのケースで一番問題になるところで、冒頭の部分は明らかにオーバーランしている。たしかに副署長が容疑事実を超えたことを言っていて、副署長は最初に、逮捕容疑はこうです、と言いながら、容疑事実にある「抗拒不能とは何ですか?」と聞かれると、全然違う話をバーッとしている。本当は、そこで、「いや、それって、なんか容疑事実と違うのですけれど、いいのですか?」という話があってほしいなと。別に「そう言え」と言うつもりはないが、そういう疑問があってもいいなという感じはする。「いやいや、現場はそんなことはできないよ」という話も、当該局でいろいろ聞いてきましたけれど(笑)。いずれにしても、エクスキューズということではなく、被疑者が認めている容疑事実と、警察の言っていることとは違う部分があるということが分かる表現が必要だと思う。

(市川正司委員長代行)
最初の冒頭のところがちょっと踏み込み過ぎ、「連れ込んで云々」と言ってしまったところが問題の一つ。もう一つは、「容疑を認めている」というあとにも、「何々しているとこのことです」「何々しているとこのことです」となっている。「とのことです」というのは比較的よく使う。警察の疑いを「こうですよ」と示すような意味合いで使うという意味では、それ自体は悪いことではないと思うが、ただ、「容疑を認めてます」という言葉のあとに、また同じような口調で言っているが故に、同じ容疑、同じレベルの容疑というふうに、どうしても受け止めてしまう。それが結局、放送している事実全てを認めている、容疑を全部認めているのだなと、全体としては受け止められてしまうのではないかと思う。
そうだとすれば、「認めています」というあとで、経過に関する事実、聞き取った事実があるのであれば、そこは、警察の疑いとしてはこうですよ、ということがはっきり分かるように、それを書けばいいと。我々が正解を出すわけではないが、そこは区別すべきだったのではないか、もうちょっと区別する工夫があって然るべきじゃないかなと思う。
当該局研修に行ったときに、そこは実は意識はしていらっしゃったという方もいたと感じたところだが、そこがなお不十分だったなというふうには思った。

(坂井委員長)
事案の概要(逮捕容疑)以外のことを聞いたら、余分なことを副署長が言っちゃっている、弁護人の話も何も聞けていないときに、これをそのまま放送に出すべきかどうかという判断が、本当はあるべきだろうと思う。出すなと我々は言っていないが、出すのだったら、そこはちょっと気を遣って、配慮しないといけないのではないかという決定文になっていると思う。出し方の問題はたしかに難しいと思うが、少なくとも彼はこういうことをやったと認めていないし、彼がそこを認めたと見られるような報道の仕方はまずいという気がする。

(E)
おっしゃる区分けというのは、ある意味で分かるが、例えば詐欺事件の場合、おそらく数億円の詐欺の可能性がある、だけれど、直接の容疑というのは、まず一定のところで始まって、最終的に立件されるのも、被害者弁護団が言っているような何億円になるかというと、そうならない事件もある。殺人の場合も、当初の逮捕容疑は死体遺棄がほとんどで、我々としてはそこまで見通してやっているわけだが、どうするのか。連続殺人事件の場合、埼玉の場合でも鳥取の場合でも、不審死とされた人の中で立件されたケースもあると。そのあたりをどう考えていくのか、日々、本当に現場で問われていることだと思うが、おそらく、そこについては、当然、報じていくことになると思う、僕らとしては。その人の周辺で複数の多くの人が亡くなっているという、その疑問が主体ということになると思うが、おそらく全く変わらないと思う、こういう委員会の決定があっても。
ただ、全体として見たら、この人はやっているのじゃないかと。一般の人の一般の視聴の仕方を基準にしたら、全体の印象としてはそういうふうに見られてしまうということがあるのではないか?

(坂井委員長)
例えば、詐欺の数億円の被害、実際、起訴されるのは公判維持できる範囲というケースもあると思う。いろんな経済事件がそうだと思う。そういうときに、まあ抽象的な話ですけれど、例えば被害者弁護団がいて、こういう損害があると主張しているというふうに書けば、メディアの責任は問われないと思う。すべての裏付けが取れない中でやっていらっしゃると思うけれど、工夫してやっていただきたいなということで、やるなということでは、もちろんない。
熊本の2局の当該局研修で、記者の方ではベテランの方から若い方まで、と話してきた。やっぱり経験によって判断の違いはあるし、このケースだといろいろ考えるという方もいるし、そうじゃない方もいるし、そこは、ケースによってだいぶ変わってくるだろうと思う。さっきの連続殺人と言われるようなケースで、絶対ここは負けない、つまり裏付けのある部分、そこは絶対ということもあるでしょう。そこを含めてどこまで何をどう書くかのかは、まさに工夫のしどころだという気はする。

(市川委員長代行)
私も、あまり一般化して、こう書けばいいとか、そもそも書いちゃダメだとか言うつもりは全くない。今回で言えば、容疑を認めているという、その与える印象が非常に強いわけで、そうであるとすれば、どこまで認めているということなのか、きちっと吟味していただきたいし、放送するときには気を遣っていただかないといけないということが、今回のメッセージだと思っている。

(F)
「容疑を認めている」とは、我々としては、要するに逮捕容疑を認めているという趣旨で書いているつもりだったが、そこを指摘されたので、今、いろいろ揉んでいる。実態はケース・バイ・ケースだが、なるべく分けるようにして書く、逮捕容疑と警察の経緯の見立ての部分は分けて書くが、放送時間が短くなると、どうしても経緯の部分とか動機の部分が重要だったりするので、一緒になってしまって、このまま逮捕容疑を認める、一部を認めるにしようかみたいな、いろいろな議論をしているが、ちょっと難しい部分がある。
BPOの意見は承るが、なかなか原稿に書くと難しい部分があるなというのが現実の問題、現場がやっぱり混乱して、ずーっとそういう状態が続いているが、それはちょっとご理解いただきたいと思う。
副署長が言ったからといって、余分なことを書くべきではないと言うと、若干、現場が萎縮する。やっぱり副署長が言ったこと、取材のやり取りで聞いたものを書くのが記者だと思う、特に第一報であれば。

(坂井委員長)
余分なことを書くべきじゃないというような、シンプルな言い方はしていない。そういう考え方もケースによったらありますよね、ということを申し上げた。事案によってはこの段階では書かないという選択肢もあるかもしれない、書くのだったら、誤解されないように書いたほうがいいのではないかと申し上げた。

(G)
両局ともフェイスブックの写真を使っている。フェイスブックの写真を大写しで放送に使われたことが、どれぐらい申立人の不安というか怒りの部分に影響しているとお考えか?

(坂井委員長)
ヒアリングのときの話は正確に思い出せないが、やっぱり写真を大きく出されたことは、かなり彼にとって大きなことだったのじゃないかなという印象は持っている。それで、彼は肖像権侵害と言っているわけだが、それは違いますよと、我々は思っている。
ただ、肖像権の問題は、法律的にはまだきれいに整理されていない。著作権に関する報道引用の問題と肖像権の問題は違うので、これから議論して行かないといけない。フェイスブックの写真について、犯罪報道の時には写真を使っていいよという考え、要するにフェイスブックの写真は公開されるという前提だから、今は使うことが基本的にOKだろうという方向で扱われているが、本件のような見方をする人が増えてくると、配慮が必要な場合もあるかもしれない。別の集まりで、軽井沢のバス事故の被害者の写真について、あのケースはどうだったのだろうかとテレビ局の方と話をしたことがある。フェイスブックから引っ張ってきて写真を載せたテレビ局は多くあったと思うが、被害者のほうでも、載せてOK、むしろ載せてもらいたいという方たちがいる一方、いや、こういうところで、そういう写真を使ってほしくないという遺族の方がいるので、これからきっと議論されていくのかなという気がしている。

(市川委員長代行)
たしかにフェイスブックの全身に近い画像が、しかも複数回出てきているところがあって、ちょっと通常の写真の扱いとは違うところがあるのかなとは思う。それは権利侵害とか問題があるとは我々は考えなかったが、ここまでやるのかと、申立人は思ったのかもしれない。どこが彼の琴線に触れたのか、正直、そこまではヒアリングのときには分からなかったが、その扱いの違いというものがあるかもしれない。そこは少数意見として曽我部委員がちょっと触れているところではあるが、果たしてここまでやる必要があったのかという問題意識は、私も無いわけではない。

(曽我部委員)
ヒアリングのときの若干の記憶がある。申立人はフェイスブックに写真は載せるが、それはまさに知り合いとかと交流するために載せるのであって、たしかに一般公開の設定にしてはいるけれども、そういう本来の目的と違う文脈で使われるのは心外であるというようなことは、たしかおっしゃっていたような気はする。
多分、そういう感情は割りと一般的で、フェイスブックのルール上は一般公開で何に使われてもしょうがないとなっているはずだが、ユーザーの意識はそこまで割り切れてなくて、やっぱり全然違う文脈、とりわけ自分が被疑者扱いで使われることは、当然想定していなくて、非常にわだかまりを感じるということは、ある意味理解できる。

(G)
今回は写真の出どころがフェイスブック、自分が載せたフェイスブックだが、昔は知り合いから顔写真を提供してもらうというパターンだった。そういう写真か何かであれば、こういう問題にはならなかったということか?

(曽我部委員)
昔だったら卒業アルバムとかの写真を使っていたと思うが、あれも、卒業アルバムに載せた本来の目的で放送で使われているわけではないという意味で同じだとは思うが、やっぱり感情的には大きな違いはあるとは思う。

(G)
おそらく熊本の地元にとっては、市役所の職員が逮捕される大きい事件で、おそらく全社が扱っていたのかなと思うが、新聞も含めて同じようなことが書かれているにもかかわらず、なぜ申立て対象がこの2局だけだったのか、問題ありと認定されたのはどうしてなのか?

(坂井委員長)
当時、熊本で公務員不祥事が続いていたということもあって、当然、熊本の民放、NHKも含めてテレビ局はみんな報道している。なぜ、この2局なんだということは、やっぱり当該局も思っていらっしゃるようだ。ただ、我々としては申立人からそこを正確に聞いたわけではないが、おっしゃるような扱い方だとか写真の使い方が影響したのだろうなと私は思っている。彼は報道されているときは逮捕されているから見ていない。出てきてから報道されたものを見て2局を選んだということなので、それは、当然、放送内容で選んだと思う。

(市川代行)
我々もほかの局の放送は見ていないので、ちょっと比較のしようがないというところがある。ただ、印象としては、たしかに写真の問題というのは、彼があえて2局を申し立てたという中にはあったのかもしれない部分と思う。それから、ほかの局や新聞報道はみんな同じ内容だったと言えるかというと、違いはあるだろうし、実際に新聞報道もよく子細に読むと、警察の見立ての部分の書き分け方などでニュアンスは違うなと個人的には感じている。

(H)
全体を通してだが、委員会の中で、少数意見をどういうふうに考えてらっしゃるのか伺いたい。NHKのSTAP事案も、それからこの熊本の事案も少数意見があって、少数意見があるから、当該局というか、各局の中にやっぱり戸惑いが結構ある。必ずしも決定文が十分理解されてない部分があると思う。
放送局にとって、人権侵害とか放送倫理違反は大変重い決定で非常に重く受け止める。特に今回のように複数の少数意見が付くのであれば、人権侵害とか放送倫理違反の認定にあたって、もう少し議論を集約させるまで慎重に審理をしていただくとか、何かそういうことは考えられないものなのか。あるいは、少数意見がある場合に決定まで持ち込む、ある種のコンセンサスというか、どういうルールでやっておられるのか?

(坂井委員長)
運営規則上は全員一致とならない場合は多数決でこれを決する、可否同数の場合は委員長が決するという規定だ。全員一致なら、それは一番分かりやすいけれども、最後は結論を出さないといけないので多数決で決めるしかない。
具体的にどうやっているのかというところは抽象的にしかお話できないが、9人全員に意見を自由に言ってもらう、率直に言って意見が違うときは、かなり激しく議論をする(笑)。それが収れんしていって、意見が全員一致になれば全員一致の意見になるし、そうじゃないときは少数意見を書いていただくようになる。少数意見を書かれる方も、もちろん最初から結論を持っているわけではないから、「うーん・・・」ということで、ある時点で「やっぱり書きます」と、そういうことになる。
少数意見があるということは、私はあまり否定的に考えていない。例えば、普通の裁判所の3人の合議体では少数意見は書かない。実は割れていたかもしれないが、少数意見は書かれない。しかし最高裁ではある。委員会では少数意見が出ることによって、委員会でどういう議論がなされたか、中身が見えてくるので、私は個人的には肯定的に捉えている、ああ、そういう議論をしたんだなと。それは、例えば人権侵害ありと言うときに少数意見があるのか、それとも放送倫理上問題ありと言うときにどういう少数意見がどれだけあったのかで、方向性が全然違ってきて、際どいところで人権侵害にならなかったというケースもあり得るし、逆にギリギリのところで人権侵害があったと判断されるというケースもあり得るわけで、そういうことが少数意見の存在で分かってくる。3人ぐらいの少数意見があったケースは過去に何度かあるが、どういう議論がなされて、判断の違いがどこにあるのかが、むしろ分かったほうがいいのではないか。
STAP事案でも少数意見はあったが、これは人によって判断が変わってくる領域で、数学の計算式みたいに答えが一つしかないという問題ではなく、また、時代が変わったりすれば見方も変わってくる。委員会がどういう議論をしているのかが見えるという意味で、全員一致であれば一番分かりやすくていいが、議論をしても一つにまとまらない場合、少数意見の人はこういうふうに考えたということが分かることを、むしろプラスに考えていただけないかなという気がしている。

(市川委員長代行)、
起草担当者としては、委員の皆さんの意見も聞きながら、最大公約数の部分を取り込みつつ議論・起草をしているつもりだが、やはり、そうは言っても、どうしても多数意見の枠外に出ざるを得ないという意見が出てきてしまうことがある。どうしても一つに全部まとまるというのは難しいなというときもある。最初から少数意見を書くことありき、ということでは決してない。

以上

2017年1月31日

中国・四国地区意見交換会

放送人権委員会は1月31日、中国・四国地区の加盟社との意見交換会を広島で開催した。中国・四国地区加盟社との意見交換会は2011年以来3回目で、21社から60人が出席した。委員会側からは坂井眞委員長ら委員8人(1人欠席)とBPOの濱田純一理事長が出席し、「実名報道原則の再構築に向けて」と題した曽我部委員の基調報告と最近の4件の委員会決定の説明をもとに3時間50分にわたって意見を交わした。
概要は以下のとおりである。

◆ あいさつ BPO濱田純一理事長

このBPOという組織は、放送の自由を守る、そしてまた放送の自由というものが社会にしっかりと受け止められていく、そういう流れを作っていこうということで、日々、努力している組織でございます。どうしても人権問題とか、そのほか番組上のいろいろな課題が出てきますと、そこに政治、行政、あるいは司法というものが関与してくるリスクというものがありますけれども、私たちが考えていますのは、そういった問題、つまり市民社会の中で起きる問題というのは、基本的に自分たちの手で解決をしていこうと、そのようにすることによって、社会そのものも成熟していくはずだし、ただ放送事業者だけが自由を主張するのではなくて、社会にとって放送の自由が必要なものだと、ほんとうの意味で受け入れられていくようになると、そういうことを理想として目指しております。
BPOでは各委員会が決定など、さまざまな判断を出します。私たちが期待しておりますのは、その決定、判断、そういうものが出たという、それだけで終わるのではなくて、そこで出た内容というものをしっかりと消化していただく。場合によっては、委員会の判断に疑問あるいは別の考え方が皆さま方の中にあるかもしれませんが、そういうときには、こういう意見交換会のような場であるとか、あるいはBPOから講師を派遣して皆さまに説明をするという、そういうことも柔軟にやっておりますので、そうした機会を利用して一緒になって放送の自由というものを作り上げていこうと、そういうふうに考えております。
そうした意味で、きょうの会合というのは、ただBPOの委員会が判断したことを皆さまにお伝えするだけではなくて、一緒になって放送の自由というものを作っていく、そういうまたとない機会だと思っております。ぜひ皆さま方も積極的にご発言いただき、そして中身が充実しますよう、ご協力いただければと思っております。

◆ 基調報告 「実名報道原則の再構築に向けて」 曽我部真裕委員

直近で相模原殺傷事件というのがございまして、あのとき被害者の氏名が発表されず、改めて匿名、実名という問題がクローズアップされたところであります。少し前ですけれど、2013年にはアルジェリアで日本企業の社員が人質になって殺害されたという事件がありましたが、あのときも日本政府は被害者の氏名を発表しなかったというところで問題になりました。
それから、昨年、実名報道の可否が中心的に争点になった訴訟があり、最高裁まで行ったものがございます。報道界がかねて主張してきた実名報道の意義が裁判所によって認められ、実名報道は名誉毀損であるという原告の訴えは退けられました。ただし、同時に「犯罪報道については被疑者の名誉の保護の観点を重視すれば、被疑者を特定しない形で報道されることが望ましい」と述べていて、報道界の主張の正当性を積極的に認めたとも言いきれない、実名報道原則については引き続き議論を深めることが求められると、レジュメに書かせていただいています。
報道機関の考え方
皆さま方はよくご存じだと思いますが、議論の出発点として確認させていただきたいと思います。
ポイントは3つあると思うのですが、まず大前提として、発表段階で匿名にするか実名にするかという話と、報道段階で匿名にするか実名にするかという話は区別するということです。その続きで、発表段階、主に警察が多いと思いますけれども、警察は実名で発表すべきであると報道界は言っていて、新聞協会も放送局も発表段階では実名発表すべきだという主張をされています。その上で、報道段階で実名にするかどうか匿名にするかは報道機関が独自に判断をする、発表する側は余計なことを考えずに実名で常に発表すべきであると、そういう考え方を取っておられる。
実名報道が原則という理由として主に3つ挙げられています。実名は5W1Hの中でも事実の核心であるということ、それから、実名発表がないと、直接その人に取材に行く手がかりがない、それから、実名があれば間違いの発見が容易になり真実性の担保となる。これは、2005年の「犯罪被害者等基本計画」に関するBRC声明でも触れられているところです。例外的に匿名報道をすべき場合もあるが、その判断は発表する側ではなくて報道機関がする、その責任も報道機関が負うと報道機関は主張されているわけですが、実際どうかと申しますと、こういう考え方は必ずしも発表側、とりわけ警察に受け入れられているわけではない、警察の匿名発表が問題だというご意見をあちこちで聞くわけです。
報道機関は、匿名発表が横行する理由として大きく2つの理由を挙げておられます。個人情報保護意識の高まりという社会的な状況ということが1点、これはインターネット時代になって、いつ名前をさらされ、いろいろな攻撃を受けたりするかわからないということで、なるべく名前を出さないというような意識が定着しているということです。それから、法令等による制度的な要因もあるんじゃないかと、よく言われるのは個人情報保護法ですね。個人情報保護法が10数年前に施行されてすぐに、例の尼崎のJR西日本の脱線事故が起き、なかなか被害者の名前が提供されなかったわけです。過剰反応問題とかいろいろあって、個人情報保護法があることによって取材を受ける側が個人情報を出してくれなくなったということです。それから、これはもう少し文脈が限定されたことですけれども、犯罪被害者基本法というのがあり、被害者の保護がここ10何年か重視されるようになって、被害者の名前がなかなか発表されないようになってきている、こういったものが法令に基づくような実態であるということです。
報道機関の側は、個人情報保護法を改正して報道に対する配慮をより明示的に盛り込むように主張されていますが、なかなか認められないわけです。個人情報保護法は2015年に比較的大きく改正され、ことしの5月に全面施行されることになっていますけれども、結局、報道機関の意見はこの改正でも認められなかったということになります。
警察にしてみれば、実名で発表するか、匿名で発表するかは裁量であるというのが制度の理解として正しいだろうと思うんです。そういう中で、匿名発表を選ぶというのは、それだけ何らかの理由があるだろうと、冒頭申し上げた報道機関による実名発表原則の主張が、必ずしも受け入れられていないのだろうと個人的に思うところです。
実名報道原則をめぐって
匿名、実名の判断の責任は報道機関が負う、だから、発表側は余計なことを考えずに実名で常に発表すべきであると申し上げましたが、この命題が、実はなかなか難しいんじゃないかということをまず申し上げたいと思います。実名にするにしても匿名にするにしても、その責任は各社が負うというのがこの命題の前提にあるだろうと思います。つまり、個々の社の責任範囲が特定できる、確定できるということが前提になっていると思いますが、実名で報道される側は、これは個々の社がどうだというのではなくて、メディア全体としての責任を考えるというふうに思うのが通常だろうと思うわけです。そうすると、責任主体についてギャップがある、メディア総体について考えた場合に、個々の社の責任範囲が確定できるかということになるのでありまして、そういう意味で、この命題というのはなかなか理解されにくいように思われます。
実名報道は事実の重みを伝える訴求力があると、実名報道原則を主張されているわけですけれども、この点は確かにそのとおりだろうと思います。しかし、実名か匿名かが問題になるときは、例えば大きな報道被害があったり、そういうシビアな局面を考えているので、そういうときに実名報道が原則だからという一般論で押し切れるかというと、なかなか難しいだろうと思うわけです。
それから、実名報道によって権力者を追及するという命題、報道機関の側からよく言われるわけですが、これは確かにそのとおりで、例えば政治家の不祥事とか公務員の職務犯罪については実名報道がなされなければならないと思います。ただし、権力者を追及するという理由で実名報道ができるのはその範囲でありまして、例えば被害者とか公務員でない人については、実名報道がこの理由では正当化できないと考えざるをえないわけです。
レジュメでは「一貫性に疑問も」と書いていますが、例えば、暴力的な取り調べを行った結果、冤罪につながったとして国家賠償訴訟が起こされたり、捜査段階で無理な取り調べが行われ、一旦有罪になったけれども最終的には無罪になって取り調べが違法だったと訴訟が起こされたりするケースが時折あります。その時にどんな取り調べをしたのかということで、当該警察官を証人尋問で法廷に呼んでくるわけですけれども、その警察官の名前を出さなかったりする例があるんじゃないかという批判があったりもします。実名にして何の差支えもないと思うんですけれども、実名報道によって権力者を追及するということとの一貫性はどうなのかとかいう批判もあるところです。
被害者報道について実名を主張する場合に、「被害者だって伝えたいことがあるはずである」という指摘が報道側からなされることがあります。これは、結局人によるということですね。匿名を望む被害者がいることも事実ですし、時の経過も被害者の心情に影響するということだと思います。最近、被害者学という学問が発達してきていると言われております。私は全く素人ですけれども、ちょっと論文を引用してご紹介しますと「被害者遺族は死別直後の〈孤立〉感の中で、〈取材攻勢〉を受け、〈記者集団への恐怖〉など様々な傷つきを負った。さらに、〈世間の冷たさ〉が追い討ちをかけた。一度は〈取材拒否〉になるが、〈他の遺族を支えに〉裁判を経験したりする中で自身の体験を世に〈伝えたい〉、理解して欲しいと考えるようになった。これが認知の転換である」と、被害者の認知の転換というのが起こり得ると、言われたりすることもあるんです。そうはいっても、被害者の思いというのは多様で複雑で、被害者は自らの意思で事件や事故に関わりを持ったわけではないということを踏まえれば、実名報道を認めるか否か、どういう形で取材に応じるかについては、その意向が尊重されてしかるべきだということが求められるのではないかと思うところです。
一層の説明努力と社会へ広く発信を
以上のようなお話を踏まえ考えますと、以下のようなことが今後求められるのではないかということです。
まず1つ目は、実名報道の論拠に即したルールの確立というところで、あらゆる場合に実名報道が原則だということを言うためには、そのための論拠が必要だと思うわけです。もう少し、実名報道の論拠というものを考え直してみることも求められるのではないかということです。
2番目として、関連しますけれども、もちろん実名報道すべき場合も多いと思うわけですけれども、その一方で、やはり、いわゆる報道被害というものは確実に生じているわけです。その被害の実情を直視したルールの確立ということも求められるのではないかということです。
3番目、開かれたルール作りとありますけれども、これは率直に言って、実名報道に関するルールというのは報道機関が自分たちで作って、それを世間一般に「理解しろ」と言っているところがあると思うわけです。被害者側、報道被害者側とすると、必ずしも自分たちの思いとか、状況を汲み取ったものではないかもしれない。関係するアクターに開かれたルール作りが求められるのではないかと思うわけです。
それから4番目、実効性確保の必要性ということで、メディアスクラムについてはかなりルールが整備されてくるようになったと聞いていますが、例えばテレビ局の報道部門はちゃんと守っていても、バラエティーとか情報番組を作っているところは守らないというようなところもあって徹底していない。報道でない部署とか週刊誌まで含めると、必ずしもメディアスクラムの防止の努力が取材対象者側に伝わっていないところもあるように思いますので、その辺りも含めてより一層の努力が求められるのではないかということです。
それから最後に、こういう取り組みをしていますということを、社会に向けて広く発信し、説明し、理解を得ることによって、最初に戻りますけれども、警察の裁量で匿名発表にしているところが、もう少し実名発表の方向に振れて行くような流れになるのではないかと考えている次第です。

◆ 基調報告の補足説明 坂井眞委員長

私が弁護士になったのが、31年ほど前ですけれども、その頃に共同通信の記者だった浅野健一さん、後に同志社の教授になった方が『犯罪報道の犯罪』という本を出されました。当時の犯罪報道は全部実名で、逮捕、起訴されただけでほとんど有罪みたいな報道がなされていて、「それは人権侵害じゃないか」という書かれ方でした。我々はそれを報道被害だと言って、当時のメディアの方から「報道による被害とは何事だ」と言って怒られたりしていたのが、今や報道被害という言葉は市民権を得てしまいました。
最近、若い弁護士と話をしますと、「実名で報道する意味なんかあるの?」と言う人がいるわけです。人権感覚もありメディアの報道の価値も認める方がそういうことを言う。かつて「匿名にしろ」と言っていた私は「え、何言っているんだ」と。逆の立場になって、報道は実名でやることに価値があるんだ、事実を伝えることはまず実名ではないかと話しているという、ちょっと怖い状況があるということです。
そういうことを含めて、曽我部委員は論文の最後のところで「匿名発表の傾向を押しとどめるためには、遠回りのようにも見えるが、実名報道主義の再構築による信頼確保が鍵となるのではないか」とまとめておられるわけです。
出家詐欺報道。結局、これも匿名化はしました。しかし、顔も映さず、服も替え匿名化したから逆に取材が甘くなって、捏造とは言っていませんが、明確な虚偽を含む報道をしてしまった。それが、安易な匿名化がもたらす問題性ということだろうと思います。
再現ドラマについて。情報番組やバラエティー番組で、現実にある複雑な社会問題を視聴者に分かりやすく効果的に伝える手法として再現ドラマをやる、これはいいでしょうと。けれども、再現ドラマと言いつつ、現実と虚構をないまぜにしてしまう、そこで、どこまで真実を担保するのか、そういう視点が不十分じゃないか。実在する人を使って再現ドラマと言いながら、「ちょっと面白いから」とバラエティー感覚で事実と違うことを入れちゃう、そうすると、実在する人について事実と違うことをやったと受け取られたりするわけです、匿名化が不十分だったりすると。「再現ドラマだから、こんなもんでいいだろう」という甘さがあるということですね。番組として事実を取り上げて、意見や方向性を示すことは当たり前ですから、当然認められます。だけど、その前提として、取り上げる事実に対しては謙虚な姿勢が必要なんじゃないでしょうか。ストレートニュースの場合はあまり考えないと思いますが、再現ドラマだと面白くしようみたいな誘惑があるんじゃないか。取り上げられた事実の中には生身の人間がいるわけですから、きっちり匿名化して傷つけないようにしなくちゃいけないと思うのです。
私も関わった事件ですけれども、柳美里さんという方が『石に泳ぐ魚』という小説を書いて事件になって、名誉毀損、プライバシー侵害が最高裁でも認められました。これはモデル小説なんですね。名前も変えていて普通の人はどこの誰だか分からない、それでも名誉毀損やプライバシー侵害が起きますよという判決が確定しています。古くは、もうちょっと誰だかわかる小説で、三島由紀夫さんの『宴のあと』、これもやっぱりモデル小説でも名誉毀損が起きると言っているわけです。
再現ドラマはもっと現実に近い扱い方をすることが多いので、小説の世界でこれだけ確定していることについて、放送メディアは十分に理解していないんじゃないかということを法律家としては考えます。

◆ メイドカフェ火災で死亡した3人の実名報道をめぐる意見交換

基調報告を受けて、広島市内のメイドカフェの火災(2015年10月)で死亡した3人について実名で報道するかどうか報道各社の対応が分かれた事例を取り上げ、各局の報告をもとに意見を交わした。
【A局】 3人とも実名報道
まず警察から報道機関への発表の段階で、実名発表にするかどうかでやり取りがあり、1人目の男性客を警察は実名で発表しました。その後、残りの2人については、遺族から「発表しないでほしい」という強い意向が警察に伝えられたということもあって、警察からは匿名で発表しようという方針が示されました。これに対して記者クラブは、1人目を実名で発表していることとの整合性がとれないことや、匿名で報道するかどうかは報道機関に責任を負わせてほしいという意向を伝え、結局、警察が実名発表に切り替えたということがありました。
その上で、報道機関として実名で報道するかどうかというところですが、ここは各社対応が分かれました。まず、このメイドカフェというのが風俗店なのかどうかが、1つのポイントになりました。わが社としては、警察や元従業員、お客さんなどに取材して風俗店ではないと判断しました。死亡した1人目の男性客を実名で報道していたので、2人目、3人目を匿名にすると整合性がとれないところがあったので、この2点を踏まえて3人とも実名で報道しました。メイドカフェは2階部分に個室があって、マッサージをしていたというような話もあったりして、風俗店かどうか非常にグレーな部分があったので、対応が分かれたのではないかと考えています。
【B局】 実名原則に則って報道
基本的にA局と一緒です。記者クラブと警察当局とのやり取りがあったと聞いておりまして、実名原則ということに則ってやる。ただし、名前を繰り返し連呼しないとか、「これが配慮か」と言われたらどうかわかりませんけれども、そういったことに気をつけて出稿したと聞いております。
メイドカフェと1回書かないと、なかなか店舗の実態が分からない、雑居ビルの中にある、そういう店だということをメインに原稿を書きました。記者からは、どこの報道と言うわけではないんですが、いかがわしい店では全くないのにメイドカフェの客と従業員という理由で匿名で報道されたら、ちょっと納得いかないという現場の声もあったという、そういったいろいろなことを加味しながら判断したという状況です。
【C局】 2人目の死者からは匿名報道
最初の1人は実名報道をしました。まだどういった店だかわからない、全体の被害の程度がわからない部分があって、警察が発表したということもあり、とりあえず実名が原則だろうと報道しました。
その後、どんな店かということが次第に明らかになってきて、個室があって非常に逃げにくい状況があったと。どこまでがいかがわしいのかわかりませんが、風俗店に近いようなサービスが行われていたのではないかという話があった段階で、デスクと記者といろいろ話をして、ひょっとすると被害者の方はこういうところで亡くなったということを報道されたくないのではないかと推測しました。それで、総合的に判断して、最初の方は実名で報道しましたが、途中からは匿名に切り替え、2人目の男性客と従業員の方は匿名にして年齢と性別だけ報道しました。
【D局】 2人目の死者からは実名をスーパー処理
実名報道の原則というのが1番ですが、逆に名前を出さないことによって、いかがわしい店であるような誤解を与える恐れがあるというようなことも考え、実名報道をしております。
ただし、やはり風俗店のように誤った印象を与える可能性もあるということもあり、2人目の死者の客の方はコメントでは触れずに、スーパー処理で名前と年齢を出していると、3人目の従業員も身元判明ということで1度だけ触れるという形で出しております。顔写真も手に入れておりましたが、出しておりません。1人目の方は、翌日に警察の発表があったということで、その日のニュースでは実名報道し、2人目、3人目については身元判明という観点から1度だけそういう形で出しました。
(曽我部真裕委員)
局によって対応が分かれたということで、大変難しい事案だったのだろうと思います。後付けで、どちらが適当であったということは全く申し上げられないのですが、結局、被害者の方の名前、新聞では住所まで出ていますけれども、それがニュースになるのか、どの程度のニュースなのかということですね。例えば、匿名にすることによって、その周辺のディテールは当然ぼやかして報道せざるを得ないわけですけれども、本件で匿名にすることによってそういう影響があったのかどうか、そういった点も考慮要素になるのかなというふうにも思います。
それから、先程申し上げたお話との関連では、記者クラブが警察に実名発表を求めて、それが実現したというのは非常に適切な対応だったのではないかなと思います。
(坂井眞委員長)
このメイドカフェ火災というニュースを報道する価値は当然にあると。初動の段階で、被害者がこういう方だと書くことで、何か権利侵害を引き起こす恐れはあまりない、一般的にない。
その後、実はこれはメイドカフェで、いかがわしかったかもしれないということが判明した段階で変えるというのは、私はありだと思う。2階が個別の部屋になっていて火災になった時に逃げづらいとかいう話があるんだったら、「そういう営業形態は問題があるんじゃないか」というニュース価値もあるわけだし、そういう場合に、誰が死んだのか実名を報道することに意味があるのかと考えると、そこでバランスを変えて匿名にしてもいいんじゃないのかという気がしています。
(曽我部真裕委員)
そもそも火災の被害者を実名で報じることの意味を考えてみる必要があるのかなというふうに思う。被害者の無念の思いを掘り下げて、別途取り上げたりするのであれば、誰が亡くなったのかは非常に重要だと思うんですけれど、単に亡くなったというだけのために名前を出すことに、いかなる意味があるのかというあたりから、問題を考えていくのが良いのかなというふうに思うんです。
重要な事件は報じることに公共性があると思うんですけれども、被害者は、そこに自発的にかかわった方々ではないですね。被害者については極端に言うと、実名報道が原則かどうかも更地から考える余地もあるのかなという気はするんです。加害者とか被疑者、被告人は自分で事件を起こしたわけですので、当然実名報道が原則で、非常に微罪であるとか、そういう例外的な場合は匿名だと思うんですけれども、被害者については、それでも実名ということであれば、明確に説明できる論拠を掘り下げる必要があるんじゃないかと、個人的な意見ではありますけれども、思っております。
(坂井眞委員長)
日弁連が、アメリカ、カナダへメディアの調査に行った時に、ニューヨークタイムズへ行ったんですね。9.11の2,3年後で、4千人ぐらい亡くなったんですかね。ニューヨークタイムズはその名前を全部調べて報道したということがあって、その時、日本ではすでに個人情報保護法が肥大化して情報が出てこない、警察が出さないみたいなことがあったので、情報公開を使わないのかと聞いたら、そんなものを使っていたら時間が経ってしょうがないから、自分で調べるんだと言って報道したわけです。火災の被害者の名前を出すことの意味は、具体的にはすぐには説明出来ないけれども、9.11の時に4千人死にましたというニュースと、これだけの実名の人が死にましたというニュースの価値は同じなのかというと、やっぱり出す意味はあるんじゃないのかと。
全部実名にしろとは言っていないので誤解はしてほしくないが、そこをメディアの側から言ってもらわないと、なかなか今の流れが止まらなくて、ほんとに情報が流れなくなったらどういう社会になるのかというと、わたしは非常に気持悪いので、若い弁護士にそれは違うんじゃないのと言っているわけです。
(奥武則委員長代行)
新聞協会の2006年版の『実名と報道』は、わたしも大学の授業の資料に使ったりしたんですけれど、これは基本的に加害者の話ですね。実名報道を批判する浅野健一さんの本(『犯罪報道の犯罪』ほか)も、容疑者の名前を逮捕された段階で実名で出すことによって犯人扱いされてしまう、そういう話だったんです。それが、個人情報保護法とかいろいろあって、被害者の側はどうするのか、新聞協会もこの原則(2006年版『実名と報道』)を作った時には、おそらく、その点をしっかり考えていなかったんですね。確かに曽我部先生が「実名報道原則の再構築」とおっしゃるように、違う原則を考えていかなきゃいけないだろうということがありますね。
わたしのちょっと古びた報道記者的な感覚から言うと、今回の火災は、やっぱり匿名にしたほうが良かったんじゃないかと思います。新宿の歌舞伎町で、メイドカフェではなかったですが、同じような感じのところで何人か死んだ火事があって、あの時も随分問題になりましたが、基本的に新聞は匿名だったんじゃないかと思いますね。
(紙谷雅子委員)
広島では、おそらく新聞にお悔やみ欄というのが存在していて、亡くなった方の名前は公表される。東京ではそういうことは全くない。そういうコンテクストを考えると、広島のテレビで実名でこういうことが出て来ても、あまり不思議ではないのかなという気がします。つまり、火災で人が亡くなったという情報とあそこのおじさんが亡くなったというのが、クロスして出て来るだろうと思うわけです。新宿歌舞伎町の場合はちょっと難しい。全国一律ルールみたいなものは、なかなか成り立たないのではないかとちょっと感じます。
それとはまったく別に、なぜ匿名にしたのか、実名にしたのかについて、報道した側が自分の中できっちり説明が出来る論拠があるということが一番大切ではないか。みんながやっているから、お隣がそうしているからではなくて、自分たちで判断したということが、新しくルールを作っていく土台になると思います。
(発言)
わたしも、最初の第一報で名前を出し、整合性をとるために次の人の名前も出すということに、あまりこだわらなくても良かったんじゃないかという気がしています。店の状況が分かったところで、途中から匿名に変えたという局もありましたけれども、そのように柔軟に、もしかしたら遺族がどう思うかなとか想像して変えていくというようなことがあっても良いのかなというふうにも思いました。
坂井委員長がおっしゃった、例えば9.11とか3.11のように、親戚あるいは学生時代の友達がいるけど大丈夫かしらというような大災害や大きな事件に関しては、名前を出してもらえるとありがたいと逆に感じるものだと思います。
(発言)
ローカル放送をやっている立場でいうと、人の名前がすごい意味を持つと思うんです。いわゆる全国ニュースとローカル、全国紙と地方紙と区別するわけじゃないですが、わたしどもが話せる話といえばローカルニュースだと。そこでは、まず名前を出す、この人が亡くなったんだという情報はやっぱり伝わりやすい。これは両方の意味があって、名前を出すことで、もしかしてあの人じゃないだろうかという反応もあれば、逆になぜ名前を出すんだというような声は、おそらく中央のメディアよりも、はるかにびんびん伝わって来ます。
風俗店がどうかという議論もありますが、ローカルの立場では名前にこだわる、より視聴者に近いということを、ぜひ感じていただければと思います。
(坂井眞委員長)
事実を事実として伝えるなかで、実名は意味があると思っています。だけれど、実名の5W1Hなしで何が事実報道だという話だけでは、社会の納得は得られないところまで来ていると思うんですね。事実報道の価値をいうだけでは、メディアの受け手から「ほんとにそれ必要なの?」と言われてしまっているので、いやいや、だからこういう意味で、こういう時は必要だというところまで言わないと、どんどん匿名化の流れは進んでいってしまう。原則論だけでは、もう匿名化の波は押しとどめられない。メディア側が実名を出すべき時と出すべきではない時をちゃんと自分で判断をして、説明出来るようにしていかないといけないというのが、私の考えです。

◆ 第57号 出家詐欺報道に対する申立て [勧告:放送倫理上重大な問題あり]

(坂井眞委員長)
申立人の主張は、自分はブローカーではない、ブローカー役をやってくれと言われただけだということですね。ところが、自分がブローカーであるかのように知人に伝わってしまったので、人権侵害だと。NHKは、匿名化が万全だから視聴者は分からないと言っています。
人権侵害について
まず、この映像を見て、申立人がどこの誰だかわかりますかという話です。申立人の主張を整理すると、役を演じただけですと。左手をこう動かしたりとか、ちょっと小太りな体形から、自分が誰だか分かってしまう、言い方の関西弁も特徴があって分かると、そういうことでした。分かっちゃったとしたら、ブローカーという裏付けはないわけですから、人権侵害と言う話が出てくるわけです。
しかし、撮影当日は服を着替えています。腕時計も外しています。ご覧になったように、どのシーンでも顔は見えていません。NHKの持ってきたセーターに着替えて映っていますが、体形も多少映るけれども、それ以上でもない。特定出来ませんというのが、委員会の判断です。
これとの関係で、申立人が人権侵害があったと気づいたのは随分後なんです。放送は『かんさい熱視線』が2014年4月25日、『クローズアップ現代』は5月14日。人気番組で評価の高い番組だから、見ていた人は相当いたでしょうと。ところが、それから半年以上経って、東京のほうにいた甥がNHKのホームページで見たと。ところが、この番組はそう簡単には分からないんですね。3千以上の番組があって、探して偶然行き当たるとも考えられない。また、申立人は大阪の有名な繁華街のラウンジやクラブで店長を務めていた方で、4、5回会った人は分かるという。ならば、そういう人は相当いたんじゃないのと。ところが、ヒアリングをしたら、放送から半年以上の間、誰もそんなこと言いませんでしたというようなことから、やっぱり特定出来ないということになりました。
放送倫理上の問題
人権侵害はない、だけれど分からなかったら、その人のことはどう報道しても、虚偽を報道してもいいのかというと、そんなことはない。自分のことを全然違ったように言われたら、取材された人は怒るわけで、それは放送倫理上の問題が当然起きます。放送がある人物に関してなんらかの情報を伝える時に、そこにおける事実の正確性は匿名か実名かにかかわらず、放送倫理上求められる重要な規範の1つなんだと。
申立人は、最初は放送に出るとも思っていなかった、その後は資料映像だと思っていたとも言っていましたが、どうも納得がいかない。出家詐欺ブローカーを演じたのかどうか、そこはよく分からないところでした。NHKは、インタビューの内容からしても出家詐欺ブローカーと信じたと主張されるんだけれども、もともと出家詐欺ブローカーだと信じていたから取材が始まっているわけで、インタビューをして分かりましたというのは論理的にちょっとおかしい、説得性がないということです。
結局、取材のスタート地点で、どうしてAさん、申立人を出家詐欺ブローカーだと信じたんでしょうかということに尽きるわけです。そうすると、事実に対する甘さ、追求の甘さがはっきり出てくる。Bさんという方は前々から記者の取材先、情報をくれる人だったわけです。そのBさんからは聞いていたけれども、Aさんには撮影当日に30分の打ち合わせをするまで一度も会ってない、裏取りをしてない。Bさんがそう言ったからというだけで、Aさんに対する必要な裏付けを欠いたまま出家詐欺ブローカーだと断定している。
それだけでも大いに問題ですけれども、最初に出た映像、実は事務所でもなんでもない。多額の負債を負った人でもなんでもない。ところが、そういう人を追っかけて取材している。実はその人は取材先のBさんなのに。結局、真実性を裏付ける必要があるのにやらないまま取材に行って、さらに事実と違うことまでやってしまいましたと。
ということで、出家詐欺ブローカーと断定的に放送し、さらに事実と違う明確な虚偽を含むナレーションで申立人と異なる虚構を伝えていることに問題があった。放送倫理基本綱領に書いてある「報道は、事実を客観的かつ正確、公平に伝え、真実に迫るために最善の努力を傾けなければならない」というところに反していますね。テレビにおける安易な匿名化がもたらす問題をはらんでいるのではないでしょうかと。そこをちゃんと詰めていかないと、こういう問題また起きますよ、注意しましょうと、そういう事案でした。
(質問)
取材をしているものとしては、ここまで仕立て上げるということは普通は考えられない。なぜこういう経緯をたどって、こういう放送に至ったのか、担当記者には聞いたのですか?
(奥武則委員長代行)
担当した記者には、ヒアリングをかなりしつこくしました。今おっしゃったように、こんなことまで仕立ててやっちゃったというのがわたしの感想で、NHKの番組で、こういうことがあったというのは、いささか愕然としたんですけれど。
要するに分かりやすい言葉で言うと、あそこに出てくる多重債務者は記者のネタ元なんですね。今までいろいろネタをもらっていて、ある時、記者が出家詐欺の番組を作ろうと思うんだけれど、あんた良い話知らないのと言ったら、いや、わたしいろいろあって出家詐欺やろうかと思っている、知っている奴がいるから連れてくるよって、その話に全部乗っかってやっているんです。普通の記者の倫理の感覚でいえば、ありえないんだけれど、やっちゃった、そういう話ですね。
(二関辰郎委員)
事前のアンケートで、「よく知る人物であれば特定できる」という申立人の主張に関して「よく知る」とはどの範囲なのか、広く一般の視聴者が特定出来なければいいのか、それとも、家族、友人だと特定出来るような場合も問題があるのかというご質問がありましたので、ちょっとコメントします。
BPOでは、一般視聴者が特定出来なければ良いという立場ではなくて、その人物をもともと知っている人が特定出来る場合は問題になりうるという立場を取っています。この出家詐欺の事案では、人権侵害との絡みでは申立人をよく知っている人にとっても特定出来ないと判断しています。名誉毀損というのは社会的評価の低下があるかどうか、いわばよその人たちにとっての評価の問題だから、他人が見て分からなければ、ごく親しい人も含めて分からなければ、評価の低下はないことになり人権侵害はないこととなる。
本件では、そうはいっても取材された本人は分かるんじゃないかという、ある意味厳しいところで放送倫理上問題があるという結論を出しているんですね。名誉毀損は社会的評価という、まさによその人の見方なのに対して、放送倫理は放送局のいわば行動規範的な部分の側面が強いですから、世間の人がどう思うかということとは切り離しても良い側面があると思うんですね。その意味で、「こういう人がいる」という事実として報じている以上、そこには倫理上の問題が生じうる。放送人権委員会は、申立人という特定の人物との絡みで事案を取り上げるかどうかを決めますので、そこをとっかかりにして取り上げて判断したということです。

◆ 第58号 ストーカー事件再現ドラマへの申立て [勧告:人権侵害]

(市川正司委員長代行)
この番組は『ニュースな晩餐会』という、いわゆるバラエティー番組、情報バラエティーと言われるものです。ストーカー事件の被害の問題について、その一例を伝える目的で職場の同僚の間で行われた付きまとい行為や、これに関連する社内いじめを取り上げたものだと、こういう説明をフジテレビから受けております。
申立人の主張をザックリと申し上げると、社内いじめの首謀者、あるいは中心人物で、付きまとい行為を指示したと放送されたが、これは全く事実無根であると、これによって名誉を毀損されたという主張です。
フジテレビは、再現映像の部分を含んで「被害者の証言をもとに一部再構成しています」というテロップが出ている、それから、仮名やぼかしを使っている、音声も変えている、とすれば、視聴者は現実の事件を放送しているものとは受け取らないと、こういう説明をしています。名誉毀損というのは、実際にある人を特定して、実際にその人が映像に出ているかということで議論されて行くんですが、そもそもフジテレビのほうは、この番組は特定の方をモデルにした訳ではないし、特定の事件、現実の事件をモデルにした放送ではないという主張です。
仮に現実の事件を放送しているとした場合、次に登場人物と本人の同定の可能性、つまり、実在する特定の人物だと分かるかどうかが問題になります。その上で、摘示された事実の真実性、真実相当性が問題になります。放送が現実の事件をテーマにしているかどうかということと、登場人物が同定できるかどうかということは別の問題だというふうに考えていただきたいと思います。
名誉毀損について
委員会は、現実の事件との関係について次のように考えました。イメージという部分は役者による再現映像が出ていますが、連続した放送の流れの中では事件関係者本人が写っている映像が織り込まれている訳です。現実の事件の人物が入って来て、またイメージ映像になる、また現実の事件の本人が入って来ると、順繰りに代りばんこに出てくるという構成になっている。それから、2つめとして、再現映像の登場人物も事件関係者本人が写っている映像でも、同じ仮名を付けられているということです。
そうしてみると、イメージという部分が誇張であるとか、架空の事実を放送しているとしても、どこが真実で、どこが誇張なのかというあたりは視聴者は判断できないということになります。さらに、イメージ映像という再現映像の部分では「被害者の証言をもとに」云々というテロップが流されていて、むしろ視聴者は被害者が実際に存在する現実の事件を再現していると受け取るであろうと。それから、スタジオのタレントたちの表情、こういったものも加味すると、視聴者はイメージと表示された部分も含めて、登場人物の関係、それから行為等の基本的な事実関係において、現実の事件を再現したものだろうと受け止めると、こういうふうに考えております。
次に、登場人物と申立人の同定可能性について議論しています。同定性について考えると、食品メーカーの工場、それからB氏の映像とナレーション、駐車場というナレーションとその際の映像。それから、工場内の駐車場で車にGPSを設置した映像、それから、白井が送検される見通しというナレーション、これはあの職場に既に警察の捜査が入っていて、これは職場の人にとってみればヒントになる訳です。そして、申立人とC氏(取材協力者、放送では山崎)の会話の内容、隠し録音の内容が出て来ます。
それから、C氏らがフジテレビが本件を扱うことを、職場の同僚などに話してしまうことも十分に予測できる状況にあった、これがもう1つの要素として加わって結論的には同定可能性ありというふうに考えました。これは、ストーカーの被害者とされる一方当時者である山崎さんの取材だけに基づいて番組は構成されている。相手方の取材をしていないということは山崎さんも当然認識しておられる。そうだとすれば、自分の言い分に沿った番組ができるだろうと、たぶん理解していただろうと。そうであれば、いくらフジテレビが口止め的なことをしようとしたとしても、彼女が、今日は私たちのことを放送しますよ、うちの職場のことが放送されますよ、と職場でしゃべることが、当然予想できたのではないかということを含めると、同定できるのではないかと考えたということです。
そうなると、申立人の名誉毀損が成立してしまうということになります。いじめの首謀者で、白井という男性にストーカー行為を指示していたということですけれど、申立人は「いや、そんな事実は全く無い」、「私は何の指示もしていない」と言っておりますし、確かに警察も彼女に対して何の取り調べも、捜査もしていなかったということもありました。そう考えると、真実の証明はできないし、真実と信じたことについて相当性も無いということで、同定ができると考えた後は、ある意味では一気呵成に名誉毀損になってしまうということになります。
フジテレビは、当初からこの放送は現実とは違うという頭がありますので、実際に起きていた事実と違うことを少しずつ入れているんですね。例えば、ロッカーの靴にガラス片が入っていた場面がありましたが、あれは実際にはそうではなかった。それはフジテレビも認めていて、ゴキブリみたいな虫が入っていたとかいう事実を少し変えて、少しオーバーにしていたりする。事実と違うということは、ある意味では同定性が認められてしまえば、一気に名誉毀損にまで行ってしまうということになります。
放送倫理上の問題
もう1つは、申立人からの苦情があったにもかかわらず、フジテレビは被害者とされた取材協力者自らの行動もあって、申立人の匿名性が失われた、つまりドラマの登場人物が申立人だと分かるようになった後も、取材協力者の保護を理由に苦情に真摯に向き合わなかった。本件放送の後すぐに申立人から苦情があったし、取材協力者が職場で自らこの放送のことを言って回っていて、取材協力者を保護する必要性が薄れたことがわかった後も、申立人の苦情に取り合わなかったということがありました。この点で放送倫理上の問題があったのではないかと指摘をしています。

◆ 第59号 ストーカー事件映像に対する申立て [見解:放送倫理上問題あり]

(市川正司委員長代行)
第59号の申立人(決定文のB氏)も、同じような主張をされています。基本的に同定性については同じ判断です。ただし名誉毀損は成立しないと考えております。事実関係で申立人とフジテレビで違うところが一部ありますが、いわゆる付きまといと言われるような行為をしたことは事実であるということなので、基本的な事実の部分については真実性があり、名誉毀損には当たらないというふうに考えました。
ただし、今申し上げたように、細かい事実関係では事実と違っている訳です。それは、結局、相手方である申立人から全く取材をしないで、一方だけの取材に基づいて放送しているということで、放送倫理上の問題があるという1つの理由になっています。放送後の対応は第58号と同様で、きちんと対応していないという指摘をしています。
再現ドラマについて -―― 第58号と第59号のまとめ
バラエティー番組とか情報番組で再現ドラマという手法はよくある、最近よく用いられる手法です。ただ、実在の当事者がいて、その取材映像やインタビューが挿入されれば、これはドキュメンタリーの要素が残って全体が現実の事件の再現と捉えられるだろうと。そうするとやっぱり、名誉とかプライバシーの問題は必ず出てくるということですね。先ほどの『石に泳ぐ魚』とか『宴のあと』のようにモデル小説という小説であっても、名誉毀損が成立し得るということです。
ぼかしや匿名化ということは、実際にモデルになる人がいる事件があったんだとイメージする、むしろ現実の事件をモデルにしているというふうに考えやすくなる訳ですね。そして、現実の事件を扱っているとすれば、被取材者が同定されてしまうと、名誉、プライバシーの問題が生じる。仮に同定できないという場合であっても、やはり現実の事件をモデルにしている以上は、真実に迫るという努力が放送倫理上求められる、これは出家詐欺報道の問題と同じです。再現ドラマであっても、再現部分か創作部分かをきちんと切り分ける必要があるというふうに思いました。
また、本件ではストーカー事件と最初に言っていながら、実際は職場の同僚同士の処遇をめぐる亀裂、紛争ではないかというふうに思われる訳です。そうであれば、双方への取材が可能であるし、必要な事案だったのではないか。既に警察の捜査も入っている。相手方を取材しない理由は、あまり見当たらないというふうに思いました。
(紙谷雅子委員)
第58号になぜ補足意見が出てきたのかというお話です。
単純に言うと、かわいい、華奢な感じの20代の女性が、二回りも年上の60代の昔から会社にいる怖いおばさんたちからいじめられている。ストーカーをした人も、おばさんに逆らえないからやっているようだ、みたいなストーリーとしてフジテレビは受け取っていたんじゃないかと思われます。それに対して、ヒアリングの結果、私たちが理解したストーリーというのは、どうも社内の人間関係がもっともっと複雑で、単純な恋愛感情がもつれた結果のストーカーというのとはちょっと違うのではないかと。
問題は、なぜ事実と違う情報に踊らされたのか。ストーカーだから、被害者を二次被害に遭わせてはいけない、加害者に連絡すると、二次被害の危険がある。で、一方当事者の話を信用した。確かに警察は取材したのですが、ほんとに黒幕がいたのかどうかは確認していません。番組の制作現場は男性が多いです。かわいい女の子をおばさんがイジメるというのは、なんかありそうだと、ついみんな思っちゃう。でも、重要なことは、現実の人間、一人一人違っています。みなさんには、ありきたりな紋切り型のステレオタイプの発想ではなくて、鋭い問題意識を持って社会の中で見えにくいことを、どんどん積極的に放送していただきたいと思っています。
委員会ではいろいろ議論をします。1つの声で答えを出せればいいのかもしれませんが、激論の中で必ずしも意見がまとまる訳ではありません。多数の意見と違う人が、なぜ、どういう理由で違っているかを示すことも大切ですし、さらに、結論には賛成するけれど、もうちょっと追加して言いたいと思う人もいます。一方当事者への取材だけになったのは、出来事をステレオタイプのイメージで把握していたからではないか、現場の制作者の先入観は無かったのか。わかりやすい構図のせいで、情報提供者に乗せられてしまう、そういう危険をちょっと指摘したかったので、補足意見を付けましたということです。

◆ 第61号 世田谷一家殺害事件特番への申立て [勧告:放送倫理上重大な問題あり]

(奥武則委員長代行)
これは2001年1月1日元日の紙面(スライドで表示)です。この事件の記事が出ています。私は当時毎日新聞社にいて、前日の大みそかが当番でこの紙面を作りました。本来だったら、この事件が当然トップになるんですけれども、元日の紙面、それも21世紀が始まるという日の紙面だったので、トップではなくて、こちら(1面左肩)に移す判断をしたんです。そういう意味で、私にとっても非常に印象に残っている事件です。1家4人の顔写真を一生懸命集めて載せています。この奥さんの実の姉が申立人、隣の家にお母さんと一緒に住んでいて第一発見者になったという方です。
番組は『世紀の瞬間&未解決事件 日本の事件スペシャル』。2015年12月28日の放送で、午後6時からほぼ3時間ですね。さっきご覧になって、なんだか繰り返しが多くて、随分思わせぶりな作りだと思った方が多いのではないかと思います。FBIの元捜査官、サファリックという人がプロファイリングをして事件の犯人像を浮かび出す。最後に、年齢二十代半ばの日本人、被害者の宮澤家と顔見知りで、メンタル面で問題を抱えていて、強い怨恨、こういう4つの要素で犯人像を調べなきゃいけないと。別に何も新しいことはないと、私は思っているんですけれども。
申立人は第一発見者で、警察の事情聴取をずっと受けるわけです。警察は、当然怨恨という線を追う。申立人は半年間に及んで、あの夫婦に恨み持っている者はいないか、「悪意を探る作業」をさせられたと言っています。しかし、そういうことはなかった、強い怨恨を持つ顔見知りの犯行ということはありえないという否定に至った。で、悲しみを乗り越えてグリーフケアという仕事に飛び込んで、自立して講演をしたり著作活動をしている、申立人はそういう方なんです。ここの入口のところを、まずはっきり見ておく必要があります。
サファリックは恨みをかうことはなかったかとか、いろいろ聞くわけですね。これに対して申立人は「妹たちには恨まれている節はなかったと感じるんですね。あと、経済的なトラブル、金銭トラブルも男女関係みたいなものも一切なかったですから」と言うわけです。そこで「思い当たる節がないという入江さんに、サファリックは犯人像についてある重要な質問をぶつけた」、「それは犯人像の核心を突くものだった」というナレーションがあって、サファリックが、「(ピー音)へ行ったり、そのような接点は考えられますか?」と聞くと、それに対して申立人が「考えられないでもないですね」と答えるわけです。
けれども、ピーという音の部分、画面上は「重要な見解」というテロップですが、質問が消されているので、申立人は「何」が「考えられないでもない」と言っているのか、実は見ている人には分からないんですね。ところが、分からないにもかかわらず、「具体的な発言のため放送を控えるが、入江さんには思い当たる節もあるという」。ナレーションは、最初に申立人は「思い当たる節がない」と言っていたのに、「思い当たる節もある」というふうに変わっちゃっているわけです。申立人は一貫してサファリックさんといろいろ面談したけれど、自分の考えが変わったわけではないと言っている、ここがいちばん重要な部分です。
一般的に視聴者の理解を深め関心を引くために、規制音とかピーとかいう音、ナレーション、テロップといったテレビ的技法ということでしょうけれども、これはやっていいわけで、どんどんやっていいんです。しかし、それがこういうことになると困るわけですね。編集の仕方や規制音、ナレーション、テロップの使い方は番組が視聴者に与える印象に大きく影響する。大きく影響するから一生懸命やるわけですけれども、それが、事実を歪めかねない恣意的ないし過剰な使い方がされているとしたら、当然に問題が生ずる。
さっきのピー音の「重要な見解」部分は「若い精神疾患を抱えている人やその団体と仕事やカウンセリングやその他の場面で関わるようなことはありましたか?」と聞いているんですね。この質問が、申立人の「考えられないでもないですね」という答えを導くわけですが、もう1つの伏せられた部分は、申立人が「病院に行っていたということを私は知っています」と言っているんです。殺された弟さんが発達障害を抱えていて、それを気にして妹たちが病院に行っていたということを私は知っています、ということを言っている。隠さなければいけないようなすごく重要なことでは全然ないんだけれども、伏せられた結果、なんか犯人につながるようなことを申立人が言ったと受け取れられかねない形の放送になっている、それがすごく問題だということですね。
テロップも、サイドマークというようですけれども、画面にずっと出ているわけです。「緊急来日 サファリック顔見知り犯説 VS 被害者の実姉 心当たりがある」と、赤字で。被害者の実姉、つまり申立人は「心当たりがある」と言ったというふうに受け取れますね、これがずっと画面の右上に出ている。
ということで、視聴者がどう受け取ったかというと、「核心に迫る質問」とか「重要な見解」ということで、申立人は犯人像について何か具体的に思い当たる節があるようだと漠然と考えただろうと、ナレーションは「思い当たる節もある」と言っているわけですからね。実際のところどうだったかというと、「具体的な発言のために放送を控える」ようなことは何もない、ましてや犯人像について思い当たる節などない。にもかかわらず「申立人は思い当たる節もある」と変わっちゃったというふうに放送されているということですね。
次に、テレビ欄の番組告知です。朝日新聞にはこういう形で出たんですね。最後の3行では「○○を知らないか、心当たりがある、遺体現場を見た姉証言」となっています。遺体現場を見た姉、つまり申立人がサファリックから「○○を知らないか」と言われて、「心当たりがある」と答えたと、誰でも受け取りますね。だけれど、「〇○を知らないか」という質問はサファリック全然していないし、もちろん申立人は「心当たりがある」なんて言っていないわけです。
結論として、放送倫理上重大な問題に至ったのは、ある意味で合わせ技一本みたいなところがあって、テレビ朝日は、取材を依頼した時点で申立人が強い怨恨を持つ顔見知り犯行説を否定して、グリーフケアなどの活動に取り組んでいることをよく知っていた、衝撃的な事件の遺族だから十分ケアしないといけないと考えていたと、ヒアリングでは言っているんです。けれども、いろいろ聞いてみると、どうも十分なケアをしたとはとても思えない。当初、あの番組はほかの事件も併せてやることになっていたんだけれども、結局世田谷一家殺害事件だけになった。そういう経過についても、どうも十分に説明してないということが分かったということで、出演依頼から番組制作に至る過程を見ると、申立人への十分なケアの必要性をその言葉どおりに実践したとは思えない。こういう2つの点から放送倫理上重大な問題があったという結論に至ったということです。
(紙谷雅子委員)
申立人は、自分が持っていた意見が変わったように、なんか具体的な発言をしたかのように言われてしまった、事実と異なる公平ではない不正確な放送をされた、そこで、自己決定権と名誉が侵害されたという申立てをしました。
申立人の主張する自己決定権というのは、ちょっと難しいと私たちも考えます。判決では、まだはっきりこれがそうだというのはありません。学説でもいろいろな見解があります。申立人は、番組は自分と違うイメージを提供していると主張しています。確かに自分の自己像について、こういうふうに見てほしいと思うことはできます。だけれども、みんな見てねと言ったって、嫌だという人も出てくるかもしれません、強制的にと言うわけにはいきません。言ってもいないことを言われたとか、生き方を否定されたとか、申立人が問題としていることは自己決定権とズレているんじゃないか。いろいろ議論はありますけれども、どちらかというと名誉毀損の分野に入るのではないかというふうに私たちは思いました。サファリック氏に会ったことによって彼女がこれまで言ってきたことを取り消すような立場になったとまでは、番組を見ても思わないということで、社会的な評価が下がったというところまではいってはいないと思います。けれども、誤解を生じさせるような伝え方はやっぱりまずいでしょう、というふうに考えています。
テレビに出るということを、自分の立場を伝える機会であるととらえている人は、どうやらかなり多いようですけれども、それは必ずしもテレビ局のストーリーと一致するわけではありません。テレビ局のほうが、必ずしも出演する人の主張や立場に添った番組になるわけではないという説明をしっかりしなければいけない。
(質問)
BGMとか効果音とか、そういったものがなかったらOKだったのかなと最初は思っていましたが、番組のDVDを見てお話を聞いたらそうじゃないんですね。編集の仕方と重要な個所でのテロップの隠し方というところがポイントだったのかなと思いました。
(奥武則委員長代行)
効果音とかテロップとかナレーションとか、全体として、まさにテレビ的技法を駆使することによって、思い当たる節がないと言っていた人が、サファリックのいろんな質問やら何やらを聞いて、いかにも思い当たる節があるというふうに変わっちゃった、というふうに受け取れるような放送になっているわけですね。だから、どれが悪い、どこが問題だったということだけでは必ずしもない、番組全体としてですね。
(質問)
あの番組は、作られたのはたぶん制作だと思うんですけれど、報道の社会部記者が制作現場にいて報道のチェックは入らなかったのかというのが、素朴な疑問です。
(奥武則委員長代行)
あの番組は報道と制作が一緒になって作った番組ということになっているんですね。社会部の記者は、最初から番組に出て中心的に展開している番組なんです。だから、記者の側から言うと、うまいように使われちゃったという感じは全然ないと思うんです。
(質問)
怨恨を持った人間が犯人だと、プロファイラーは申立人の言っていることと真逆のことを言っている。その事実を申立人に伝え、申立人がどういう反応をするのか、そこまで番組で流していたら、委員会の判断は変わるのでしょうか?
(奥武則委員長代行)
番組はサファリックというプロファイラーが来て、プロファイリングをしてこういう犯人像を浮かび出したという流れですから、そういう作りにはたぶんできなかったと思うんです。仮定の話をして判断できるかというと、ちょっと難しいですね、そういう番組の作りには到底ならないと思いますけどね。
(坂井眞委員長)
ご質問の件については奥代行と同じですが、ただ、個人的に考えていることをお答すれば、そういう作りはOKだと思います。事実を曲げなければというのが前提です。サファリックの視点を伝えたいんだったらそうすればいい、それに対して、申立人は納得していないと伝えたら、誰も文句の言いようがないと思います。サファリックをせっかく連れてきて随分費用がかかったと思うんだけれど、いろんな人を連れてきたら、サファリックに納得しちゃった、なびいちゃったみたいなほうがウケるんじゃないか。これは私の想像ですけれど、そんなことで事実を歪めちゃったら、こういう問題が起きますということだと思うんです。
(奥武則委員長代行)
番組全体の構成を少し簡単に言いますと、3つのピースがあるというんです。1つは事件現場をCGで再現してサファリックに見てもらう、警視庁でずっと事件を担当していた元捜査官に話を聞くのが2つ目、最後のピースとして、申立人が出てきてサファリックの怨恨説にほぼ賛成したということでまとめたふうに作っている。委員長が言われたことはそのとおりだと思いますが、そういう番組の作りはありえなかったし、もしそういうふうにちゃんと作っていれば、事実に向きあって作っていれば、問題ないと言えると思います。

◆ 締め括りあいさつ 坂井眞委員長

もうおととしになります「出家詐欺報道」の決定文で触れていますが、表現の自由に対する非常に危ない時代が来ていると私は個人的に思っていて、いろんな会合で言っています。憲法21条の表現の自由は、名誉毀損とかプライバシー侵害との関係でバランスをとらなきゃいけないけれども、それ以外にお役所、政府が勝手に口を出して手を突っ込んでくるようなことは許されない。憲法は、放送法や電波法の下にあるわけでなくて逆ですから、憲法の表現の自由を放送法や電波法を使って制限していこうというような発言があったら、それはおかしいじゃないかと、ぜひ放送する立場にいる皆さんのほうから強く発言してもらいたいというのが私の気持ちです。
そのことと、放送人権委員会が人権侵害だとか放送倫理上重大な問題があると判断することとは、全く両立するのだということを、ぜひ理解していただきたいと思っているということをお伝えして、最後のご挨拶に代えさせていただきます。

以上

2016年11月29日

フジテレビ系列の北海道・東北6局との意見交換会

放送人権委員会は2016年11月29日、仙台市内でフジテレビ系列の北海道・東北6局との意見交換会を開催した。放送局からは報道・制作担当者を中心に29人が参加、委員会からは坂井眞委員長、市川正司委員長代行、紙谷雅子委員の3人が出席した。放送人権委員会の系列別意見交換会は2015年2月に高松市内で日本テレビ系列の四国4局を対象に開催したのが初めてで、2回目は2015年11月に金沢市内でTBSテレビ系列の北信越4局を対象に行い、今回が3回目となる。今回は、前半は「最近の委員会決定について」、後半は「各局の関心事について」を各々テーマに、3時間20分にわたって意見を交換した。概要は以下のとおりである。

◆ 「最近の委員会決定について」

初めに、「出家詐欺報道に対する申立て」に関する委員会決定を坂井委員長が説明した。坂井委員長は「NHKは必要な裏付け取材を欠いたまま、本件映像で申立人を『出家詐欺のブローカー』として断定的に放送した。そこは非常に取材として甘い。また、ナレーションの問題がとても大きい。本件映像のナレーションは、『活動拠点』にたどりついたと言っているが、これは明確な虚偽。あそこはB氏が用意したところで、A氏の活動拠点でも何でもない。全体として実際の申立人と異なる虚構を視聴者に伝えた。『放送倫理基本綱領』には『報道は、事実を客観的かつ正確、公平に伝え、真実に迫るために最善の努力を傾けなければならない』と記してある。放送倫理上重大な問題があったと言わざるを得ない。匿名にすれば、いい加減にしてもいいということではない。先ほど、三宅委員長のときに出した委員長談話、『顔なしインタビュー等についての要望』の話をしたが、テレビにおける安易な匿名化がもたらす問題性として、本件映像では、匿名化を行ったことによって、ナレーションについての真実性の吟味がおろそかになった可能性がうかがえる」と解説した。
参加者からは、「B氏との関係性で、今まで嘘をつかれたことがないという話があった。その業界に精通していて、長年の付き合いの中で信頼関係が生まれていれば信用してしまい、紹介された方と面識がなくても信用してしまうという話が分かってしまう自分がいる。もちろん、あってはならないことだが。改めて、その辺は気をつけなければならないと思った」などとの発言があった。これに対し坂井委員長は、「これまでは大丈夫だったかもしれないが、B氏がA氏にはコンタクトするなと言ったときに、職業的に危ないのではないかと思わなければ駄目だと思う。裏取りをさせてくれないというのは怖くはないか、というシンプルな話だ。アンテナを張っていないと、こういうことが起きるのではないか。記者のほうも、虚偽を含んだ、世間でヤラセと言われてしまうような事実と違うことをやってしまったのは、自分に対するチェック機能が衰えていたからではないか。気づくチャンスはあったはずだ」との意見を述べた。
次に、「ストーカー事件再現ドラマへの申立て」に関する委員会決定について市川委員長代行が、「匿名化していることと、現実の事件を題材としていることは別の問題であり、当事者の映像と再現映像が交互に放送されるなどしていることから、視聴者は、『イメージ』と表示された部分も含め、本件放送全体が、登場人物の関係、行為等の基本的な事実関係において現実の事件を再現したものであると受け止めると考えた。次に、委員会は、申立人の職場の関係者などにとって登場人物が申立人と同定可能であると考えた。フジテレビは、現実の事件とは異なる放送だという認識のもとで現実の事件と異なる内容を盛り込んでいたので、名誉毀損が成立してしまうという形になった」と解説した。
続いて、「ストーカー事件映像に対する申立て」に関する委員会決定について市川委員長代行は、「申立人がつきまとい行為をしたという基本的な事実関係においては間違いがないということで名誉毀損にはならないという認定をした。ただし、放送倫理上問題ありとした。放送後に申立人とA氏がフジテレビに抗議の電話をしたが、フジテレビは、『被害者』の保護を理由に、誰を対象にした番組であるともいえないと突っぱねてしまった。事件が関係者の中で、誰が当事者かということが分かってしまった後でも、フジテレビはこういう対応を続けてしまったところに非常に問題がある。最後に、真実性にも影響することとして、取材の甘さについて、多くの委員から指摘があった。これはストーカー事件と言っているが、実際は職場の同僚同士の処遇を巡る軋轢、紛争だ。そうであれば、やはり反対取材をすべきだった。加害者に接触しにくい場合もあり得ると思うが、今回は刑事事件で立件され、捜査も入っていた。そういう状態で相手方に取材をしない理由は見当たらない。以上が本件での教訓ということになると思う」と解説した。
次に、「ストーカー事件再現ドラマへの申立て」に関する委員会決定について紙谷委員が補足意見を説明した。紙谷委員は、「ジェンダーの問題があるのではないか。若くてかわいい女の子を、年配の意地悪なオバサンがいじめている。現実には、社内のどろどろした人間関係にまつわる争いを背景に、パートさんを正社員が、テレビ局、テレビ番組を使って貶めようとしたように、わたしたちには見えた。乗せられてしまった。番組制作現場は男性が多く、男性から見た論理に疑問を持つのは難しいかもしれない。でも現実の人間は、そう簡単にステレオタイプに当てはまるようにはなっていない。皆さんの仕事は『人間を描く』ことだと思う。報道であっても、バラエティーであっても、ドラマであっても、最終的には『人間を描く』ことだと思う。先入観に囚われないで、事実をしっかり見てほしいというのが補足意見のメッセージだ」と解説した。
参加者から、「抗議に対して、フジテレビがプライバシー保護を理由に具体的な回答をしないことから、苦情に真摯に向き合わなかったという判断をされた。これはこれで非常に分かるが、もう一つ、取材源の秘匿という問題があると思うが」との発言があった。これに対し市川委員長代行から、「取材源の秘匿を否定するつもりは全くない。この事案は、申立人に対して、あなたがモデルかどうかもお答えできないし、そうである以上、あなたからのお話は何も聞く立場にないという答え方をした。取材源を、説明の過程の中で言わないという選択はあり得る。ただ、それは実際に申立人と向き合って話をしていく中で初めて生じる選択だ。本件は、そこにすら行かなかった」という意見が出された。
また、参加者から、「今回の番組、仮にリアルなインタビューや尾行の映像が全くなくて、登場人物のシチュエーションも完全にフィクション化して、骨格だけ残す形で、すべて再現ドラマで構成した場合、これはありということになるのか。それとも、やはり名誉毀損、プライバシー侵害になる可能性もあるのか。その辺の線引き、どう考えればいいのか」という発言があった。これに対し市川委員長代行から、「実写映像が出てくれば必ず駄目だということにはならない。きちんと場面を切り替えるとか、設定を切り替えるとか、工夫をすることによって、生かせる実在の映像というのはあり得ると思う」という意見が出され、坂井委員長からは、「シンプルにアドバイスしたい。事実を下敷きにするから再現ドラマというが、再現するときに事実から離れてほしい。あくまでドラマであって実在の人とは関係ない、というのだから、それはできると思う。番組では『食品メーカーの工場』となっているが、現実も、扱っている品目は違うが、食品メーカーだ。それを、例えば自動車工場にするとか、いろいろやりようはあると思う。現実との関係を断ち切っていけば、再現ドラマという手法は取れるのではないか」との発言があった。

◆ 「各局の関心事について」

参加者に事前にアンケートしたところ、「SNSとの向き合い方」、「匿名化と人権・プライバシーの問題」に関心が集中したため、この2点について意見を交換した。
参加者から、「ある番組で、子どもの貧困特集に登場した女子高生が、ネット上で『貧困女子高生ではない』と炎上したケースがあったが、記者がどこまで責任を負うべきなのか」との発言があった。これに対し市川委員長代行から、「未成年であり、少年の健全な育成という観点から一定の配慮をしなければならない。匿名化とかボカシとかという意味での配慮が必要な場面はある。それは一つの問題意識として持つべきだ。ただ、拡散する可能性があるから控えろという話にはしないほうが良いと思う。抑制する方向に動くのは、できるだけ避けていただきたい」との意見が出された。
また、参加者から、「雑踏の画面にボカシが入るケースが非常に多くなっている。不必要なことをやっていると思う。なぜかバラエティーでその傾向が強い。委員の皆さんはどう感じているか」との発言があった。これに対し紙谷委員は、「私の感覚から言えば、町中、雑踏というのはある程度撮られても仕方がない状況であり、ボカシを入れるのは、むしろどうしてなのかと思う。もう少し言えば、町中には防犯のためという監視カメラがたくさんあり、人の顔を写しているが、映像がどう管理されているのか、よく分からない。それにもかかわらず、写されるのは困ると考えている人々のプライバシーの感覚は、実態の伴わない期待の肥大ではないのか」と発言した。市川委員長代行は、「テレビの画像で、ある意味では一過性の画像としてそこに映り込んでしまうことまでも保護しなければいけないのかと言われると、私は正直言って違和感がある。隠すということであれば、隠す理由は何なのか。誰の利益のために隠すのかを吟味することが必要だと思う。取材対象者に隠してくれと言われたときには、必要ないと思えば、真実性を担保するためにも顔を出してインタビューさせてくださいと、取材する側が説得していくことが基本的なあり方だと思う」と発言した。

今回の意見交換会終了後、参加者からは以下のような感想が寄せられた。

  • 実際の案件について議論を進めることができたので分かりやすかった。報道だけに限らず、情報番組・バラエティーにも関わる部分で、どのセクションの人にとっても有意義なテーマだったと思う。「恋愛感情なし」ストーカーも罰せられることは重大なメッセージであり、より多角的な観点で制作しなければならないと感じた。日頃の取材活動や番組制作で疑問に感じたことに答えていただき、今後の取材活動の指針になった。

  • 事例に加えて、今、現場での疑問や悩ましいことについて意見交換し共有できたことが良かった。現場部門の若手もいたので、取材・編集等でのより具体的な事例について話せる機会があれば、なお良かったと思う。(SNSの扱い等は議題になっていたが)

  • テーマ数が多かったかもしれない。一つひとつの解説・質疑応答の時間を考えると、テーマ一つと自由討議でも良かったと思う。6社集っての意見交換なので、各社十分に意見を述べ合う余裕があったほうが良かったのではないか。

  • これまではBPOと聞くと、やや身構えてしまう部分があったが、今回、話を聞いて、我々放送局の味方であると感じた。特に放送法の部分の委員長の話は心強く感じた。再現ドラマは「事実を再現するもの」だが、「事実と離れてつくる」ことに相当気をつけなければならないと感じた。また機会があったら委員の皆さまのお話しを聞き、今後の番組制作に活用していきたいと思う。

以上

2016年10月27日

沖縄県内の各局と意見交換会

放送人権委員会は10月27日、沖縄県那覇市内で県単位の意見交換会を開催した。放送局側の参加者は沖縄県内の民放5局とNHK沖縄放送局等から合計42人、委員会からは坂井眞委員長、奥武則委員長代行、曽我部真裕委員の3人が出席した。
午後7時半から約2時間にわたって開催された意見交換会では、前半は地元沖縄での事例に基づいて議論し、後半では最近の事案として「謝罪会見報道に対する申立て」事案と「出家詐欺報道に対する申立て」事案を取り上げ、委員会側が「委員会決定」の判断のポイントや放送法の解釈等について説明、意見を交わした。
主な内容は以下のとおり。

◆ 坂井委員長 冒頭あいさつ

表現の自由、他の権利との調整求められる時代
BPOの放送人権委員会は、時には局に厳しい意見を言ったりするので、ちょっと煙たいと思われているかもしれない。ただ、小言を言ったり、学校の風紀委員みたいなことをやっているつもりはない。
表現の自由は極めて重要だけれども、時に他の人権、プライバシーだとか名誉だとかを傷つけてしまうことがある。それは避けなければいけない。放送人権委員会はそのバランスを取る、そういう仕事だと思っている。BPOがこの役割を担うことは放送メディアが自律していく、自らを律していくことでもあるので、そういう目で見ていただけたら有難い。
かつては、「表現の自由」に対して、誰も正面からは異論を言わなかった。それがある時期から、例えばアメリカの場合9.11以降、非常に表現の自由に対する規制の問題も出てきている。ヨーロッパの場合も、今、右傾化と言われる中で同様の問題が出てきている。これはISの問題や移民の問題があってというようなことだ。日本でも今年法律ができたが、ヘイトスピーチの問題などが出てきている。
だから表現の自由は大切だというだけでは、なかなか「そうですね」で話が終わらなくなってきている。憲法改正などということも言われている。そういう中で、メディア自体がちゃんと他の人権との調整を図っていくということが改めて求められている時期だと思っており、そんな問題意識を持っている。
そういう意味で、今日は、我々がやっていることについてのご意見をいただいたり、疑問をお聞かせいただいたりして、今後さらに放送メディアが発展していく役に立てればいいと思っている。

◆ 沖縄での事例(米軍属による女性殺害事件)

意見交換会の実施に先立って行った地元局との事前の打ち合わせで沖縄での事例について何を取り上げるのかを協議、地元局からの提案もあり「米軍属による女性殺害事件」を取り上げることとなった。
まず、地元の2つの放送局から、事件報道の経緯等の報告があり、それに基づいて意見交換を行った。

□ 地元局の報告(A)
この事件で人権との関わりというと、やはり匿名報道という部分になるかと思う。被害者の名前については行方不明になっている時点から出していたが、死体遺棄容疑で容疑者が逮捕され、その後取材の中で暴行の疑いが出てきたというところから、被害者の人権に配慮して匿名に切り替えるという形を取った。
難しいと思ったのは、犯行の態様が出てくると、亡くなられた被害者や遺族の心情に配慮しながら、どこまでどう表現していくのかといったところについてはかなり配慮を求められたということだ。
それから、匿名に切り替えた時点でオンエアとしてはそこから匿名になっていくわけだが、過去に配信したWEB情報は、自社のほかキー局のホームページ等にも載っている。ともすると忘れがちになるが、そこまで徹底して匿名に切り替える作業もやっていかないとザルになってしまうので、この点もやはり気を付けなければいけない点だと思った。
大きな事件なので、本土からも多くのメディアも来るという中で、遺族や交際相手の取材に集中していくわけだが、どうしてもメディアスクラムに近い状況が生まれがちになってしまう。そんな中で、関係者になるべく負担をかけない形、2回も3回も同じようなアプローチをするようなことのないように情報の共有に配慮する必要があると思い、その点も気を使った。

□ 地元局の報告(B)
今回この事件を取材していて非常に悩ましかったところは、いつの時点で匿名に切り替えるかということだった。5月19日に死体遺棄容疑で逮捕されたのちに、殺人と強姦致死で再逮捕されるが、5月19日の時点では、もうすでに警察は行方不明者ということで事前に顔写真を公開しており、各社顔写真を使って実名で彼女がいなくなっているという事実を伝え続けていた。
その後、取材していくと暴行の容疑が垣間見えてきた時点で、いつ切り替えるのか考えた。弊局としては逮捕2日後の21日の昼ニュースから匿名にした。
では、その時に匿名にしただけですむのか。というのは、例えば彼女がウォーキング中に襲われたのではないかということで、このウォーキングの現場を映像で出した場合、見る人が見れば、うるま市のあそこの道だということが分かる。また、告別式が実家のある名護市で開かれた。これもまた、匿名報道をしている中で被害者の特定につながってしまう。それぞれ表現や映像をどこまで出していいのか、非常に悩んだ。
ただ、今回の事件は事前に顔写真が公開されているので、県民としてはあの事件だというのはほぼ分かっていることであろうと判断して、名護市であった告別式のときの場所はきっちり伝えたし、彼女が歩いていたというウォーキングコースもことさら隠すことなく放送した。ただし名前は全て伏せた。そういったところに難しさがあったかと思う。
もう一つ、加熱する取材、過剰な関係者への追いかけ取材のところも悩んだ。働いていた職場が近くにあるが、そこの取材をするのにも各社が集まっていくし、朝から晩までずっと立って待っておけばいいのかという問題もある。いわゆる過熱報道と人権との間で非常に悩んだ事例だった。
のちのち、この日の判断はこうだったんだ、あの日の判断はこうだったんだと一つ一つ振り返る必要があると思う。

□ 坂井委員長
実名・匿名、事件の本質を見極めて

匿名に切り替えるのがいつかという問題と、いわゆるメディアスクラム、集団的過熱取材の2つの問題があると思う。当初は行方不明事件で公開捜査をしてということなので、本当にそれだけであれば、むしろ行方不明になった方を探すためにメディアが協力するということは必要な場合もあるので、それは実名で致し方ないのかなというのが一点。
それで、それが性犯罪絡みだということが分かってきた段階で、できるだけ早く切り替えるということだろうと思う。ただ問題は2つあって、殺人事件でも警察は最初死体遺棄で逮捕して、そのあと殺人で捜査するというのはよくある話で、事件報道に当たっている方は分かっていると思う。
本当に、単に行方不明だから探しましょうということであれば、それは実名で出す以外にないと思う。ただ、ケースによると、本当のところはどうだろうか。警察がやろうとしていることが分かるのであれば、最初から匿名にするということもあるかもしれない。それが一点だ。
それから、取材の集中の問題というのは、古くて新しい、何か起きると繰り返されてきた問題だ。和歌山カレー事件のときは、逮捕の瞬間を撮るために、夏にビーチパラソルをさして、ずっと家の前で待っていたというようなことがあった。和歌山のときは現場に行っていろいろ話を聞いた。テレビメディアだけではなくて新聞も来るので、同じことを何遍も何遍も聞かれる。それはたまらないということを地元の方はおっしゃっていた。その時は日弁連の関係で行ったのだが、「弁護士さんにそういうこと相談していいんですか」というようなことを言われて、そうですよという話をした記憶がある。
当時集団的過熱取材については、県庁の記者クラブだとか県警の記者クラブに話を通して、窓口を決めてやるという話も出ていた。場合によると窓口を作って関係者に負担をかけないでやる、という話をすることが可能なケースもあるかもしれない。

□ 奥代行
メディアスクラム、取材者がそれぞれの現場で理性的な振舞いを

メディアスクラムの話だが、これが絶対起こらないようにするということは実はなかなかできないだろうと思う。今回の場合でも、そういう問題意識を持って現場で取材に当たっていたということは、やはり昔に比べれば事態が相当改善されてきたと思う。しかし、自由に取材するというのが当然必要なわけだから、それを何らかの形で規制することと取材の自由をどう両立させるかというのは、実は難問で、おそらく「これが答えだ」というのはないだろう。取材者たちがそれぞれの現場で理性的に振舞うしかないだろうと、そういうふうに思っている。

□ 曽我部委員
何のため?匿名にすることの意味を考えよう

公開捜査なので実名でもしょうがないということだが、二十歳の女性がいなくなったということは、当然これは性犯罪に巻き込まれている可能性があるというのは、すぐ連想されることだと思う。その後こういう展開になるのは予想できたような気もするので、当初の時点から何らかの配慮ができるといいのかなという感じはある。
それから、匿名に切り替えた話だが、これは一般論としていつも不思議に思うが、性犯罪だと匿名にするが、これが殺人だけだったら匿名にしなかったのか。そこの判断基準というのは、何か考える余地があるのではないかという気はする。
先ほどの地元局のコメントで大変示唆的だったのが、匿名にすることの意味だ。匿名というのは一般論からすると、本人の特定を避けるためにやるものなので、その結果、その事件のディティールは報道できないということになる。しかし、今回の場合、当初は実名報道だったので、本人の特定を避けるという意味で匿名にするということではなかった。匿名は匿名だけれども、匿名であるがゆえにその事件のディティールを報道できないということでは必ずしもないという点で特徴的な事例だったのではないかと思う。
そこから考えると、匿名にするのは特定を避けるという趣旨が通常だと思うが、それ以外にも遺族の心情からすると非常に苦痛が大きいので、そういう被害者配慮のための匿名というのもあるというのが、先ほどの報告で思ったことだ。

□ 地元局からの質問
メディア横断的な調整の仕組みとは?

我々の局も5月21日の時点をもって匿名に切り替えた。ただ、5月19日に容疑者が捕らえられたとき、すでに性犯罪というか、死体遺棄以外のものについても印象があった。そこでどういうふうに匿名に切り替えるのか、もう少し聞きたいと思うところだ。メディア横断的な調整の仕組みというのを、具体的にどういう考え方があるかを伺いたい。

□ 坂井委員長
報道内容に関する一本化はあってはならない

窓口をある程度一本化するという話はメディアスクラムの話としてはあったが、実名・匿名のような話は報道内容にかかわるので、それを足並みそろえて一本化というと、こんなにある意味、気持ち悪いことはない。取材の迷惑という話であれば、報道内容に直結するわけではないから、ある程度一本化も実現できると思うが、内容に関わる話は別だ。
もう一つ気持ち悪いのが、最近そういうことが起きた結果、警察とか役所が仕切る、ないしは口出ししてきたりすることだ。それは報道に公権力の介入を許すことになり、あってはならない。拉致被害者の方が戻ってこられたときに、ひどいメディアスクラムが起きて、私の記憶では、市役所が仕切りに入ったことがあった。役所の介入を引き出すような報道の在り方でいいのか、と思った記憶がある。最近は被害者や取材を受ける側が警察にお願いをして、警察が取材規制につながる動きをすることも起きているので、警察を窓口にした取材規制というようなことが起きないようにメディア側で何かできたらいいとは思っている。

□ 地元局からの質問
すでにネットで実名が出ても匿名化するのか?

匿名・実名の問題だが、以前被害者の女性の名前が、警察が公表する前にネットで行方不明だと情報が出回ったことがある。被害者がそういう犯罪に巻き込まれているとなれば各社匿名にするわけだが、ネットですでに名前が出ている状態となっている場合、どう判断したらいいのか。ネットで名前が出ていても、あえてそれを匿名にして、SNSとかで出回った情報と全く区別してメディアはメディアとしてやっていくのか、というところをお聞きしたい。

□ 坂井委員長
放送局が独自で判断を

そういうことは実際多いと思う。マスメディアが伏せていても、名前がネットで流れたり、顔写真が出るというのはよくある話だと思う。だからといってマスメディア側が、もう流れているから匿名にしてもしょうがないという判断はないだろう。やはり影響力も違う。そこはメディア側として独自に判断していけばそれでいいと思う。

◆ 委員会決定第55号「謝罪会見報道に対する申立て」について

続いて、昨年11月に通知・公表した委員会決定第55号「謝罪会見報道に対する申立て」について、当該局の了承を得て番組の一部を視聴したうえで起草を担当した曽我部委員が判断のポイントなどを説明した。
この事案は、TBSが2014年3月に放送した番組『アッコにおまかせ!』に対して、楽曲の代作問題で話題となった佐村河内守氏が謝罪と訂正を求めて申し立てたもの。放送人権委員会では2015年11月17日に「委員会決定」を通知・公表し、「勧告」として申立人の名誉を毀損する人権侵害があったと言わざるをえないと判断した。

□ 曽我部委員
どんな番組でも、事実の伝え方は報道番組と同等にきちっとすべきだ

この事案で申立人が主張したのは、この番組は申立人が健常者と同等の聴力を有していたのに、手話通訳を必要とする聴覚障害者であるかのように装って謝罪会見に臨んだとの印象を与えるので、名誉を毀損されたということだ。判断基準は、裁判所の判断でも同じだが、一般の視聴者が番組を見た時に、その番組の内容が申立人の言うような内容に見えるかどうかだ。
VTR部分を見てみると手話通訳がなくても普通に話が通じているように見えることは、おそらくあまり異論がないのではないかと思う。あの部分だけを見ると、申立人の言っているとおりに見えると思う。ただ決定では、それだけで結論に至るのではなく、診断書についての部分も検討した。診断書の紹介の仕方にいろいろ問題があって、その内容が正確に視聴者に伝わってないのではないかと指摘した。
診断書の結論は聴覚障害に該当しないという診断だが、聴覚障害に該当しないという言葉の意味は、法律の言っている基準に達していないというだけであって、普通の人と同じように聞こえるという意味ではない。ところが番組では、聴覚障害に該当しないとの診断イコール、普通に聞こえるというような感じで議論していた。委員会では、自己申告というのを強調して、「嘘ついている」というふうに持っていって、結局診断書が嘘に基づいて作られたというような印象を視聴者に与えたのではないかと判断した。
仮にそういう印象を与えたとしても、公共性、公益性があって、それが真実であれば良いわけだが、そういう証明はTBSの側からはなかったということで、最終的に名誉毀損に該当するという結論に至った。
以上が決定の全体だが、2、3コメントする。ひとつは、本件は報道番組ではなくて情報バラエティ番組なのであまり硬く判断するのでなく、少し緩やかに判断したほうが良いのではないかという意見もあろうかと思う。しかし、この決定では、そういうことはせずに事実の伝え方については、報道番組と同等にきちっと放送すべきだという前提を取った。
もう1点は出演者の発言についてだ。出演者は聴覚障害について予備知識もないだろうし、診断書の読み方について事前に説明を受けていたわけでもないと思う。出演者が素人目線でいろんな意見を言うのは、バラエティのやり方としてあると思うが、やはり障害に関する、あるいは専門的な知識が必要なものについては、もうちょっと事前に説明して、最低限の配慮をすべきであったのではないか、というのが教訓だろう。

□ 坂井委員長
決定文、なぜこういう判断が出たかを考え、読んでほしい

わたしは決定文の読み方ということを話そうと思う。
この件は名誉を毀損する人権侵害があったと判断し、放送倫理上の問題も指摘しているが、結論だけではなくて、どういう構成で、この結論を出したのかを、ぜひ理解していただきたい。厳しい、厳しくないというところで、喜んだり悲しんだりするのではなくて、こういう判断が出たことについて考え、今後にどう生かしていったらいいのかという見方を、是非していただきたい。
端的に言うと事実に対しては、謙虚に報道してもらいたい。『アッコにおまかせ!』でも、やはり都合の良い事実だけを拾っている感が、私にはある。事実に対してそういう向き合い方をしては駄目だ。脳波検査で異常があると出ているのなら、そう伝えるべきだ。そのうえで例えば「どうもわたしには、信じられません」と言えば、こういう問題にはならなかったのではないか。
今の話には、ちゃんと判例がある。ロス疑惑の夕刊フジ訴訟で、その考え方の枠組みは、前提事実が問題になるということを言って、前提事実について真実性、真実相当性が認められた時は、人身攻撃に及ばない場合は、これは名誉毀損に当たらないという判例だ。そういう下敷きがあって、我々はああいう判断をしている。
一方、所沢ダイオキシン報道の最高裁判決は、テレビの特性として一般視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準にすると言っている。そういう基準で見たら、どうなるのか。この番組で言うとフリップやテロップ、出演者のいろいろなコメントも影響する。そういう考え方をして、この結論を出した。
そういうことを理解していただきたい。「わたしは彼の言うことは信じません」と言っただけでは名誉毀損にならない。作り方を工夫していただければ、良いと思う。

◆ 委員会決定第57号「出家詐欺報道に対する申立て」について

続いて、昨年12月に通知・公表した委員会決定第57号「出家詐欺報道に対する申立て」について、当該局の了承を得て番組の一部を視聴したうえで起草を担当した奥委員長代行が判断のポイントなどを説明した。
この事案は、NHKが2014年5月に放送した番組『クローズアップ現代 追跡“出家詐欺”~狙われる宗教法人~』に対して、出家を斡旋する「ブローカー」として番組で紹介された男性が名誉・信用を毀損されたとして申し立てたもの。放送人権委員会では2015年12月11日に「委員会決定」を通知・公表し、「勧告」として本件放送には放送倫理上重大な問題があるとの判断を示した。
なお、当該番組に対して総務省が厳重注意したことなどに触れ、「委員会は民主主義社会の根幹である報道の自由の観点から、報道内容を委縮させかねない、こうした政府及び自民党の対応に強い危惧の念を持たざるを得ない」と委員会決定に記した。

□ 奥委員長代行
明確な虚構、放送倫理上重大な問題がある

本件放送には放送倫理上重大な問題があるということで勧告になった。名誉毀損ということにはなってないが、勧告というのは言葉としても非常に強い。映像はマスキングしているし、声も全部変えているので申立人と特定出来ないので名誉毀損などの人権侵害は生じない、というのが入口での判断だ。
しかしそれで終わっていいのかというと、そうではなくて、放送倫理のレベルで考えると、非常に大きい問題があった。放送倫理の問題をここでなぜ問うかというと、別の人から特定は出来ないとしても、申立人本人は自分がそこに登場していることが当然認識出来る。放送倫理上求められる事実の正確性にかかわる問題がそこに生まれる。
ヒアリングなどを通じて分かったことは、このNHK記者には日ごろから申立人と交流があった取材協力者がいて、いわゆるネタ元となっていた。そこに完全に依存していた。この取材協力者は、実は番組に出てくる多重債務者だ。NHKは申立人本人の周辺取材、裏付け取材をまったくしていない。取材協力者が、「申立人は出家詐欺のブローカーをやっている」と言うので、結局ああいう場面を作った。
しかし、虚偽を含んだナレーションがいっぱいある。一番ひどいとわたしたちが考えたのは、「たどり着いたのは、オフィスビルの一室。看板の出ていない部屋が活動拠点でした」というところだ。
これは実は取材協力者が全部セットして、ああいう部屋を借りて、ああいうセッティングをして、そこでああいう場面を撮ったことが分かった。出家詐欺のブローカーの活動拠点でもなければ、そこに日ごろから多重債務を抱えている人が次々に来て…という話では全然ない。これは明確な虚偽と言わざるをえないということで、重大な問題があるということになったわけだ。
NHKは過剰演出があったということで処分をしたが、この番組に関して総務省が厳重注意をした。放送法の問題などについては、後で委員長が話をするので、ここではふれないが、そうした動きに関しても我々は非常に注目している。

□ 坂井委員長
表現の自由、内容を問題にして権力者が規制出来るものではない
報道の自由を支えるものは市民の信頼。だから人権のことも自分たちで処理をして、権力が口を出すような隙は作ってほしくない

私は、表現の自由、報道の自由の関係についてお話をしたい。ご存知のとおり、この番組に関して総務大臣が厳重注意をしたほか、自民党の情報通信戦略調査会が事情聴取をした。
表現の自由、報道の自由の一番根っこにあるのは憲法21条だ。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と、書いてある。
一方、電波法という法律がある。放送局は電波の免許更新の時は大変気を使うと聞いているが、免許に関係する電波法は表現の自由ではなくて、電波の設備に関する法律だ。
憲法と放送法との関係を考える前提として、『生活ホットモーニング』事件という、私も高裁から最高裁にかけて関わった事件の最高裁判決がある。これは訂正放送をめぐるもので、最高裁の判断は訂正放送は認めず慰謝料請求だけを認めたというものだった。その判決で最高裁は、放送法は憲法21条の表現の自由の保障の下に定められている、と言っている。その放送法の一条には法の目的が3つ書いてある。一条の一項の1号2号3号だ。
「放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること」、「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」、3つ目は「放送に携わる者の職責を明らかにすることによって、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」、これが目的だと書いてある。この最高裁判決は、放送法の2条以下がこの3つの原則を具体化したものだと言っている。放送法がそういう構造になっていることを、ぜひ頭の中に入れておいていただきたい。
それで日本国憲法21条に戻るが、結局憲法21条が保障する表現の自由というのは、内容を問題にして、お役所とか権力者が規制出来るものではない。そんなことをしていいとは、どこにも書いていない。そのような法律は憲法が認めておらず、その憲法の下に放送法がある。総務大臣が行なった行政指導については、放送法には何も書いてない。放送法の3条には、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と書いてあるが、その前提として、内容を問題にして行政指導ができるような法律は憲法が認めていない。
この番組について、自民党の調査会が「けしからん。話を聞かせろ」と言ってみたり、総務大臣が口出しをしそうになる。だけれども、そんな権限があるとは放送法のどこにも書いていない。それをよく覚えておいていただきたい。
電波法76条には、放送法の問題で電波法の権限を行使出来るという趣旨の定めはある。しかし、放送法の下に位置すると言っても良い、電波設備について定める電波法の規定を根拠に、放送の内容をチェックして公権力が口出し出来るなどという転倒した解釈は到底許されない。
憲法があって、その下に放送法があって、その下に電波法があると思っていただければいい。その構造を、放送を担っている人たちが、よく頭に入れておかなければならないと、今更ながら申し上げたい。
報道の自由を支えるものは結局市民のメディアに対する信頼なので、だから人権のことも自分たちで処理をして、権力が口を出すような隙は作ってほしくないということだ。

意見交換会に引き続いて行われた懇親会でも、地元放送局と委員との間で活発な意見交換が行われた。

◆ 事後感想アンケート

事後感想アンケートに対して局側の参加者からは、「米軍属事件について。時間に余裕があれば、もう少し突っ込んだ議論につながったのかも」や「『土人』発言や『辺野古・高江取材のあり方』などもっと地域に特化した内容に時間を割いてみてもいいのではないかと思う」など、開催時間やテーマについて、さらに工夫を求める意見が寄せられた。
一方、「各局の事例報告は、実感を持って聴くことができたし、それに対する委員長、委員各位の意見などを直接聴くことができ、大変参考になった」「全国的にも知られている事例を解説されることでよりリアルに詳細に理解することができた。また、各局での題材も同じことがすぐに起こり得ることとして、当事者から生々しく聞くことができた」「今回委員の方から様々な見方を伺うことが出来、とても良かったです。とくに、『強姦殺人が発覚なら匿名、殺人なら実名報道なのか』という考え方を伺った際にははっとしました。当たり前のように先入観や慣れで放送してしまっているのではないか、と思ったからです」などの意見もあった。

以上

2016年2月3日

九州・沖縄地区各局との意見交換会

放送人権委員会は2月3日、九州・沖縄地区の加盟社との意見交換会を福岡市内で開催した。九州・沖縄地区加盟社との意見交換会は6年ぶり3回目で、29社から83人が出席した。委員会側からは坂井眞委員長ら委員8人(1人欠席)BPOの濱田純一理事長らが出席し、最近の委員会決定等をめぐって予定を超える3間25分にわたって意見を交わした。
濱田理事長のあいさつ、坂井委員長の基調報告、4事案の決定についての担当委員らの報告と質疑応答の概要は、以下のとおりである。

◆濱田純一理事長 あいさつ

BPOがどういう役割をしているか、放送人権委員会がどのような機能を持っているかはお分かりかと思います。一言で言えば、BPOというのは放送の質を高めることで放送の自由を守っていく、そういう役割を持った組織であると思っています。放送の自由を守っていくことは、当然、これは国民の権利、自由を守ることにつながっていくわけで、放送はそのような媒介になる役割をしていると、私は考えております。
そういった役割を果たすために、放送人権委員会をはじめとして委員の皆さんにご努力をいただいているわけです。まあ通常会議の時間は2時間というふうに決まっているんですが、放送人権委員会では5時間とか6時間とか長時間にわたっていろいろな案件を審理していただいています。これまで57件について扱ってきていますが、個々の案件の紛争処理という、それだけが目的ではなくて、そういう案件を議論することを通じて放送というのはどうあるべきか、あるいは放送の自由とはどのようなものが望ましいのかということを真剣に議論する、委員の皆さん方の情熱に支えられて運営されているということを、ぜひご理解いただければと思っております。同時にそうした放送の自由を巡る議論というのはBPOの中だけではなく、視聴者の皆さん、あるいはもちろん放送局の皆さんが一緒になって考えて取り組み、あるいは主張していかなければいけない、そういう性格のものだと考えています。
きょうの意見交換会も、質疑応答あるいは知識を深めるというだけではなくて、皆さん方が決定を受けて委員と意見交換する、そういう活発な議論をすることによってこの放送の自由というものをさらに強めていくんだ、さらに高めていくんだと、そういう思いでぜひこの数時間をご一緒に過ごさせていただければと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

◆坂井眞委員長  基調報告

私は弁護士をちょうど丸30年やってきました。そのうち7年委員をさせていただいていることになりますが、 それ以前から報道と人権の問題に長年取り組んできました。日弁連は人権大会を毎年やっていて、隣にいる市川委員長代行が今、日弁連の人権擁護委員長として中心になってやっているわけですが、1987年の熊本の人権大会では報道と人権をテーマにしました。報道による人権侵害ということが初めて言われた時代でした。25年以上も前で、当時は新聞記者の方と話をしても、「報道による被害とは何事だ」などと真剣に言われる時代でした。 それからずっとそういう問題をやっていますので、表現の自由を規制することばかり考えているやつじゃないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。私としてはどちらもだと、表現の自由は最も大切な人権の1つだけれども、名誉やプライバシーも当然大事だと、その調整をどうするのかということで活動をしてまいりました。
出家詐欺事案、後ほど出てきますけれども、その決定における放送法に関わる部分、われわれの前に放送倫理検証委員会が放送法4条の規定は倫理規定だと言って、それに対して政府自民党筋から異論が出されるということがあり、事案との関係でわれわれも述べた点です。そこの考え方をしっかり整理をしたい、それを基調報告として申し上げたいと思っております。
出家詐欺事案で決定の最後に書いているのは、こういうことです。「本件放送について、2015年4月17日、自由民主党情報通信戦略調査会が、NHKの幹部を呼び、『事情聴取』を行った。放送法4条1項3号の『報道は事実を曲げないですること』との規定が理由とされた。さらに4月28日には、総務大臣が同じ放送法4条1項3号などに抵触するとして、NHKに対して異例の『厳重注意』を行った」と。 ここからわれわれの意見ですが、「しかし、憲法21条が規定する表現の自由の保障の下において、放送法1条は『放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること』を法の目的と明示している。そして放送法3条は、この放送の自律性の保障の理念を具体化し、『放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることはない』として、放送番組編集の自由を規定している。放送法4条は、放送事業者が依るべき番組編集の基準を定めているが、放送番組に対し、干渉、規律する権限を何ら定めていない。委員会は民主主義社会の根幹である報道の自由の観点から、放送内容を萎縮させかねないこうした政府、及び自民党の対応に強い危惧の念を持たざるをえない。」
控え目に抽象的に言ったつもりです。ただ、この部分はすごく重要で、われわれは申立てに対して判断を示すということで、一般論を述べる委員会ではないんですが、この事案でこういう動きがあったので、事案に関する限りしっかり指摘しておきたいということで意見を述べました。
端的に言うと、放送法は憲法21条によって解釈されるものであって、それを逆転させて放送法の規定を歪曲して、法によって憲法21条を解釈、理解するようなことがあってはいけないということを申し上げたいわけです。憲法21条1項は、これはもう言うまでもないことですが、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めていて、法律の留保などは付いておりません。「法律を定めれば制限できる」とは書かれていないのです。では、どういう場合に制限できるかというと、他の人権との調整の場合ですね。他の人権とは、委員会が扱う名誉、プライバシー、それからきょうも出てきます肖像権、そういうものをむやみに侵害してはいけないよと。そういう場合には、調整ないしは制限、限界があるけれども、法律を定めれば自由に口を出していいとか、制限していいというものではない、この点を確認しておきたいです。
放送法1条、放送法の理解について明確に判示している最高裁判決があります。平成16年11月25日の最高裁の第1小法廷の判決です。 訂正放送等請求事件で、NHKの『生活ほっとモーニング』訂正放送事件の上告審です。1審は原告が負けました。2審からは私も含めこういう事案をよく扱っている4人の弁護士が代理人になり東京高裁で逆転勝訴をして、慰謝料請求が認められるところまではよくある話ですが、それだけでなく「訂正放送請求権に基づいて訂正放送をしろ」という請求も認められました。
NHKは当然上告をしました。最高裁判決は、慰謝料のところは確定して原告が勝ったわけですが、訂正放送請求権について最高裁は「これは私法上の請求権ではないんだ」という判決を出しました。 どう言ったかと言いますと、「真実でない事項の放送がされた場合において、放送内容の真実性の保障及び他からの干渉を排除することによる表現の自由の確保の観点から、放送事業者に対し、自律的に訂正放送等を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めたものであって、被害者に対して訂正放送等を求める私法上の請求権を付与する趣旨の規定ではない」という判断をしました。最高裁は「自律的にやりなさいよ」と、「国民全体に義務を負っているんですよ」と言ったわけです。
私はNHKの方と連絡する担当だったのですが、金曜日の午後に判決が出て、NHKから「翌日の土曜日の『生活ほっとモーニング』で判決の趣旨に則って訂正放送をしたい。どうだろうか」という連絡があった記憶があります。実際に放送されました。判決の法的解釈論とは別に、私自身は放送局のそういう対応は非常に評価しています、それがまさに自律なんだと。
もう1つ言っておきたいのは、この事案は中高年の離婚問題を扱っていて、男性のほうだけ取材をして顔出ししちゃったんですね、女性のほうには取材をしていない。それで、女性のほうは非常に大きな職業上、生活上の被害を被った。それで「おかしい」というクレームがあったときに、「最高裁まで行かないと、訂正放送しないんですか」ということ。もうちょっとNHKが「自律」してよかったんじゃないかという思いがあります。最高裁判決後の対応は評価していますけれども、そこまで行かなくてもよかったんじゃないのか、それが自律ではないかという思いです。
そういう放送の自律という文脈で、このBPOという組織が出来て、放送人権委員会も自律的組織として、申立てがあったときに人権相互の調整を図る場としてある。だからその結論がどうかというときに、何か「外部から表現の自由を規制される」という受け取り方ではなくて、NHKと民放連が作ったBPOという自律的組織が「ちょっとまずいんじゃないの」と言ったら、まあ意見はいろいろあるけれど、「よく考えてみよう」ということで、ぜひ受け止めていただきたいと思っております。
これから個別の事案について、担当の委員から報告がございますので、ぜひ今、申し上げたような観点で検討していただければありがたいと思います。

◆決定第53号「散骨場計画報道への申立て」 報告:坂井眞委員長

論点の 1つ目は、「個人名と顔の映像は露出しないという合意に関する事実関係はどうなのか、誰と誰が合意したのか、合意した効果はどういうものでしょうか」というのが1つですね。
2つ目、「合意に反して顔の映像を放送したことは、肖像権侵害に当たるのか」
3つ目、「合意に反して顔の映像を放送したことは、放送倫理上の問題があったか」ということになります。
最初の論点ですが、SBS(静岡放送)の主張は、申立人と各社、すなわちSBSと申立人との合意だとおっしゃっていました。ただ、実際の関係としては、事前に熱海記者会の幹事社が社長と取材交渉し、会社名は出してよいが、社長の個人名及び顔は出さないことを取り決めていました。熱海記者会の幹事社がSBSの代理人ということはありえない。申立人は終始一貫して「合意をしたのは記者会とで、SBSとではない」という対応でした。そういう事情を考えると、委員会は「申立人と熱海記者会との合意」と判断をしました。これは形式的なところですが、合意の効果としては、熱海記者会に所属して個人名と顔の映像は露出しないとの合意を受け入れ記者会による記者会見に参加した記者は、当然申立人と記者会の合意に拘束されると。平たく言えば、記者会に所属した方は会社の了解も得た上で「合意を守ります」と言って会見に出たんだから、それは拘束される、会社も了解を与えているんだから合意事項に拘束されますという判断をしました。
肖像権とは何かといいますと、かなり昔の昭和44年の京都府学連事件という最高裁大法廷判決があり「何人もその承諾なしに、みだりにその容貌・姿態を撮影されたり撮影された肖像写真や映像を公表されない権利」ということになります。肖像権と表現の自由、報道の自由、その関係を委員会がどう考えたかというと、一般論としては、申立人の承諾なしに、すなわち被撮影者の承諾なしに撮影し映像を放送することは肖像権侵害になりますと。けれども、肖像権も他の人権や社会的利益との関係においてすべてに優先するわけではない、表現の自由や報道の自由との関係において両者の調整が図られてなくてはいけない。委員会決定では、申立人の承諾なしに撮影された顔の映像を放送することは、原則として肖像権侵害となるが、しかし、申立人の承諾なしで撮影、放送することに報道の自由の観点からの公共性があると認められるならば、両者の価値を検討して一定範囲で報道の自由が優先する場合もありますよと、原則はこういうことです。公共性と公益性が認められるときは、さっき言ったようにさまざまな要素を考えてどちらが優先するかを判断をすると。そして、本件の結論としてはSBSに対して肖像権侵害を問うことはできないという判断になっています。
まず近隣住民による反対運動がありました。有名な温泉保養地の中に墓地類似の施設を作るわけだから、近隣住民の方にとって当然問題になるということですね。本件放送前の5月中旬段階で、既に各社が報道していました。熱海市役所まで会見をしていました。他方、この社長さんの会社のホームページ上では、代表者名も当然記載されていましたし、散骨場計画の宣伝もしていました。もう1つ、名前とか住所は商業登記簿謄本を見れば取れます。 さらに、報道された後には市の人口の3分の1ぐらいが反対署名をしている、地域の中でそのぐらい関心が高かったんですね。そうすると、公共性の程度は相当高いですね。この番組はストレートニュースでその問題提起をしているわけですから、公益目的も問題なく認められますということになります。
先程言いましたように、この事案は合意違反、「出しません」と言っていたのに放送してしまった。そもそも肖像権侵害は承諾があったら生じないわけで、よく考えれば合意に反したということも承諾なくやった場合の一態様ですね。なので、「合意違反だから、直ちに肖像権侵害になるとは言えない」という判断でした。合意違反もいろいろあって、最初から騙して撮影しようというケースだってあるわけですよね。例えば、隠し撮りは合意違反ではないけど、悪質だということになるというようなことです。
もう1つ、さっき指摘したようにこの地域での高い公共性のある事項で、公共的関心事になっている散骨場計画をしている会社の代表者が、個人的な肖像権を理由に自己の顔の映像を放送されることを拒否できるだろうかということも考えました。で、委員会の判断としては肖像権侵害はないということです。
放送倫理上の問題はどうかというと、「取材対象者との信頼関係を確保し、その信頼を裏切らないことは放送倫理上放送機関にとっては当然のことである」と。民間放送連盟の報道指針にも「視聴者・聴取者および取材対象者に対し、誠実な姿勢を保つ」と書いてあります。SBSも最初から謝罪しているわけですし、放送倫理上の問題ありということは、SBSも異論のないところです。
問題はあえて付言を付けたところですが、「取材・報道は自由な競争が基本である」「記者クラブ側は取材先からの取材・報道規制につながる申し入れに応じてはならない」、これは2006年3月9日の日本新聞協会編集委員会の記者クラブに関する見解ですが、誘拐報道等、ごく一部の例外の場合を除いて報道協定は認められないという原則は皆さんよくご存じですね。散骨場計画は先程述べたように、この地域で相当公共性の高い、公共的関心事になっていたのに、記者クラブがこういう約束をしてよかったのでしょうかという指摘です。新聞メディアと放送メディアはおそらく温度差があって、新聞はそれほど映像の問題は感じないかもしれませんが、放送メディアはそこは違うだろうと。顏の映像はなくても、取り合えず話だけでも聞きたいという幹事社の話に乗っちゃったのかもしれないけれど、それにしても、記者クラブで報道協定につながるような合意をしてしまうのはまずくはないですかと。
放送人権委員会にはいろいろな亊案があって、隠し撮りは原則だめだともちろん言っていますし、公共的な亊案で取材になかなか応じてくれないときは、自宅で待っていて通勤電車に乗るまで追っかけて撮ったりすることが許される場合もあるわけです。やっぱり亊案と内容によって、出すべきものは出すということもあってよかったんじゃないか。まして、みんなで顔を出さないでやろうということはまずいんじゃないですかという趣旨で、あえて付言をしたということになります。

(質問)
単純なミスということでしたが、顔が全体映っているところもありますが、中途半端に顏の下半分が映っているような、全部見せないように配慮した映像もあります。つまりどの時点でミスになったのか、撮影の前なのか、あるいは取材をした後の連絡ミスだったのか?

(坂井委員長)
私の記憶では、顏が出ている映像はボカシをかけるか、処理をするはずだったのを、忙しくて失念しミスをしてしまった。だから言いわけできない話だと記憶しています。

(質問)
自分たちの反省も含めてですけれど、本社から直接記者が常駐していない記者会は、どうしても駐在の人に任せてしまって、そういった顔を出す、出さないという連絡が例えば後々になったりだとか、こういう事案は結構起こりかねないなという思いで見ていた部分があります。

(坂井委員長)
出さないという話があるんだったら、それはとにかく連絡を徹底すると。今回は連絡が入っていたのに、現場の編集段階でミスが出たと記憶しています。忙しいのは当たり前だと思うので、その中で落ちないような何重かのチェックをしていく体制を作ることじゃないかなと思いますけれども、そういうシステムを作り上げておかないと、現場でのミスの可能性は絶えずあるだろうと思います。

(質問)
この付言は、あくまで実名顔出しを求めるべきではなかったのかと、それでも相手がやっぱり絶対顔はダメ、言葉だけだったらOKだということであれば、それもありうるということを含んでいるのでしょうか? 我々取材する中で、どうしても声が欲しい、ニュースの尺を考えると声だけでも必要だと考える場合もありうると思うんです。

(坂井委員長)
1つは報道協定的な、足並み揃えちゃったらまずくないですかというのがあります。顔を出さない、名前を出さないことを記者会みんなでやれば、なんか安心みたいなのはやっぱり報道のあるべき姿としては問題ですごく怖い感じがする、私の個人的な感覚ですけれども。もう1つはこういう話だったら、まず、相手にちゃんと説明しなきゃいけない社会的責任があるじゃないですかと言えるはずなんで、そこは各社にしっかり考えてもらいたい。実際、突撃取材をするケースもあるわけで、例えば翌日、急展開ということもあるわけですね、こういうニュースで。これはもう顔出してやるべきだって。そういうときに記者会で変な約束をして足かせにならないのかと、いろんなことを考えるので、そこは慎重に考えるべきじゃないのかなと思います。

(奥委員長代行)
端的に言えばありでしょう。一生懸命説得して出てくれと言ったけれど、出てくれなかった、だけど、この人の生の声を欲しいというときに声だけというのはありだと思います。

(質問)
日本新聞協会の見解は、幹事社含めて記者会のメンバーがおそらく誰も知らなかったと思うんです。例えば我々の放送の中でも、相手が顔は嫌だと言ったらもうすぐに切っちゃうとか、言われなくてもモザイクをかけるとか毎日のように頻発しています。こういう事例があった以上は、例えば新聞協会でも共有すべきだと思いますが、そういう動きはあるのでしょうか? 特にローカルに行けば行くほど、こういう問題が起きるんじゃないかという懸念があるんですが?

(坂井委員長)
新聞協会のことは存じ上げませんが、前の三宅委員長の委員長談話(「顔なしインタビュー等についての要望」2014年6月9日)で非常に危惧した部分ですよね、安易にそういうことをやるべきじゃないと。あとから出て来る出家詐欺の事案でも、結局ボカシを入れることによって詰めが甘くなるみたいなことにつながっているので、そういう意味では本当に重大な問題だと思います。

(奥委員長代行)
原則はもう確認されていると思うんですね、民放連においても、新聞協会においても。それが今回は熱海という、メジャーではない記者クラブですよね。たぶん県庁所在地とか、そういうところのクラブはかなりこの辺の認識があると思うんですけれども、認識が希薄だったということはたぶんあるので、そこは報道各社においてしっかり現場に認識させていただかないといけないと思います。

◆決定第54号「大阪府議からの申立て」(TBSラジオ) 報告:市川正司委員長代行

どういう申立てかと言いますと、事実関係を受けての論評が 権利侵害にあたると。具体的に言うと「思いついたことはキモイだね、完全に」と、自分の評価として「キモイ」という言葉を使ったということで、これが全人格を否定し侮辱罪にあたると。ヒアリングで申立人にもう少し具体的に聴いたところでは、法律上の説明でいくと、1つには全人格を否定し侮辱罪にあたると、これは個人の内面の感情としての名誉感情を侵害するということ。それからもう1つは、この放送を受けてネット上に「キモイ」という中傷の文言が流れて、自分の社会的な評価をおとしめられたという2つの点で権利侵害があったと、こういう説明をしていました。
前提問題として、まず論評の対象は何かということで、TBSは、これは申立人の行動に対する評価であって府議の人格に対する論評ではないんだと、こういう主張をされていました。ただ、行為に対する論評と社会的評価や人格に対する論評を峻別することは困難であると、人格の論評も含むものと考えるということで、前提問題については人格論評も含むということで次の問題を検討せざるを得ないとしています。
それでは、次に、社会的評価の低下、名誉感情侵害があったのかというところですけれども、「キモイ」という言葉自体が嫌悪感とか気持ちが悪いというイメージを出している、表現していることは明らかなので、そういう意味では、一定程度の社会的評価の低下、名誉感情に不快を与えるということについては間違いないだろうと評価をしています。
その上で、法律上の違法性が阻却されるかどうかという言い方をしますけれども、公共性・公益性の観点から許容されるかどうかというのが次の判断になります。判断の要素としては、公共性・公益性がどれぐらい高いか、もう1つは侵害の程度との関係で、これを2つの天秤にかけて、公共性、・公益性がより重ければ侵害の程度との関係でより許容される可能性が高い、逆に侵害の程度が重ければ許容されない範囲が高まる、こういう関係になります。
参考になる判例として2つ、それから委員会決定を挙げています。
1つは平成元年の最高裁の判決でありますが、公務員に対する論評については、人身攻撃に及ぶ論評としての域を逸脱したものではない限り違法性を欠くということです。特に事実関係ではなく論評に関しては人身攻撃に及ぶなどの論評としての域を逸脱したものでない限りは違法性を欠くということで、比較的緩やかに許容されるという判断をしているというところがあります。事実の摘示と論評で比較的違う考え方になっているかなというところもあります。
次が公職選挙の候補者と名誉権という問題で、昭和61年の最高裁判例ですが、公務員または公職選挙の候補者に対する評価・批判等の表現行為に関するものである場合には、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができて、私人の名誉権に優先する社会的価値を含み、憲法上特に保護されるべきだという判決です。
この2つ合わせると、論評であるということと公職選挙の候補者であるということが今回のキーワードになったと思います。1つ前例となる委員会の決定がありまして、「民主党代表選挙の論評問題」(委員会決定第30号)で「公務員、あるいは公職選挙によって選ばれた者として、一般私人よりも受忍すべき限度は高く、寛容でなければならない立場にある」と、こういう決定を出しております。
この3つを参考に本件の検討をしました。1つは先程申し上げたように論評であるということ、それから府議会議員が議員活動の一環として中学生たちとLINEのやり取りをしていたと、ご自身が記者会見等でこういう説明をされていて、そういう点からも公共性・公益性が認められると。しかも議員の活動ですので、非常に公共性・公益性が高いということを認定しています。その上で、放送前に「キモイ」という言葉が報道されていた。自ら一連の行動が不適切だったという説明もしている。それから「キモイ」という言葉はこの放送で特に急に使われたということではなくて、この事案の中で使われたキーワードの1つという、そういう特殊性があるということで、そういう意味で社会的評価の低下は大きくないだろうと、人格をことさら誹謗したものでもないという評価をしております。そうすると、先程の公共性・公益性と侵害の程度の重さというのを比べたときに、やはり公共性・公益性という点から違法性の阻却が認められるのではないかということで、本件は問題がないと判断をしたということです。
あと本件の特殊性としてバラエティーでの表現ということがあります。決定ではこう言っておりまして「本件放送は、いわゆるバラエティーのジャンルに属する番組の中で行われたものであり、申立人を揶揄している部分もあるが、政治をテーマとして扱い、政治を風刺したりすることは、バラエティーの中の1つの重要な要素であり、正当な表現行為として尊重されるべきものであるから、本件放送の公共性・公益性を否定するものと解すべきではない」と。「キモジュン」とかいう表現がありましたけれども、番組の特性からいけばこういう表現の仕方もありだろうという考え方をとっています。
決定では最後に「『キモイ』という言葉は、それが使われる相手や場面によっては相手の人格を傷つけ、深いダメージを与えることもあるが、委員会はこれを無限定に使うことを是とするものではない」と付言しています。こういう場合はいいけど、こういう場合はダメだとはなかなか一概には言えないし、言葉狩りのような形になってもいけないということで、いろいろ議論した上でこういう表現に留めています。

(質問)
今回の決定は全く私もそのとおりだろうと思うんですが、申立て自体が圧力になっているんじゃないかと感じられました。

(市川委員長代行)
公表の記者会見のときも同じようなご意見がありました。ただ、委員会としては、委員会の規約上、個人から一定の侵害の申立てがあれば、その主張それ自体が一応の要件に該当すれば、どうしてもこれを受けざるを得ないというところがあります。そういう意味では、なるべくすみやかに、むしろ今回のような決定であればスパッと出してしまうということでしょうけれども、それはそれでヒアリングもして手続き的な保証はした上で結論を出すという必要があるかなと思っています。ただ、本件で決定の通知・公表が若干ちょっと延びた要素としては、ちょうど申立人が選挙に入ってしまって、選挙が終わってからというタイミングを見たという経過がございました。

(質問)
むしろ申立てをして面倒なことを強いるという構造になっていると思いまして、ちょっと濫訴というか、そういうものに近いものがあるんじゃないかと。

(坂井委員長)
そこは、そういうふうに感じないでもらいたい、この件なんか真っ白じゃないですか。何がいけないのと、思っていればいいと思うんです。そこで濫訴だとか、プレッシャーだとか思わないでほしいというのが、私の個人的な見解です。申立てがあったら受けないといけないのが放送人権委員会で、運営規則の5条にそう書いてあるんですね、それだけのことだと。放送倫理検証委員会は問題があると思ったときに取り上げるという流れですから、そこは違うんです、そこのところは皆さんによく理解をしていただきたいと思います。

(質問)
明らかにこっちは悪くないというスタンスでいても、BPOで取り上げられたということになると、スポンサーが離れてしまったり、局の上層部から番組は打ち切りだということになりかねないところがあります。そういう状況にあることも、ちょっと頭に入れていただければありがたいなというところです。

(坂井委員長)
そこは平行線なのかもしれないですけど、私が基調報告で申し上げた、このBPOという組織がどうやってできて、放送人権委員会がどうしてあるのかということをよく考えてもらいたいですね。スポンサーの方はいろんな方がいるのはよくわかります。そこで、きっちりこの問題はこういうことだと説明して説得するのが仕事のうちだろうと思います。そういう申立ては受けないでくれというのは、方向が違うんじゃないかと思います。

(質問)
ラジオの深夜番組という部分で、さっきの録音を聴いていましたら、非常に無邪気というか、脇が甘いというか、まさか申立ての対象になるとはまったく考えてないというふうに聴けるんですけれど、例えば局側の反省はあるのでしょうか?

(市川委員長代行)
確かこれは録音した上で、チェックも入っていたというふうに聞いています。その上でOKを出して放送しているので、一応それなりの判断はされていただろうと思います。必ずしも脇が甘いと、申しわけなかったというような発言は特にTBSラジオからは聞いていなかったと記憶しています。

(坂井委員長)
この決定には、前の三宅委員長の補足意見が付いていましたが、このケースは府議会議員だったと。だから、府議会議員とか公職選挙で選ばれるような議員に関しては、かなり辛辣なことを言われても、それは批判されるのも仕事のうちなんじゃないかという視点で見ていく必要があると思います。

◆決定第55号「謝罪会見報道に対する申立て」 報告:曽我部真裕委員

番組はTBSテレビの『アッコにおまかせ!』という番組で、みなさんご案内のことと思いますが、佐村河内さんが謝罪する記者会見が行われたのを受けて、、番組はほぼ全部を使って会見を取り上げて、例によって大きなパネルを使って説明をし、出演者がいろいろコメントをするという形で進んだ番組です。
一般論ですけれども、名誉毀損を判断するには大きく2つのステップがあります。1つはその放送がご本人の名誉を毀損するかどうか、つまり、社会的な評判を貶めるようなものであるかどうかということです。仮にそれに当たるとしますと、一応名誉毀損の可能性があるわけですけれども、それでも例外として、最終的にメディア側が責任を負わなくてもいい場合があります。それを免責事由と言っているわけですけれども、番組の公共性、放送局に公益目的があったかどうか、それから、示された事実が客観的に真実であったか、あるいは結果的に真実でなかったとしてもきちんと取材をして真実と信じるについて相当の根拠があったかどうか、ということが必要だということになります。
ところが、本件で問題になったのはその前提の部分です。つまり、そもそも、今回の番組でどういう事実が視聴者に伝わったのかが一番大きな争点になりました。委員会の多数意見と少数意見で立場が分かれたのも、その点です。本件放送はどういう事実を視聴者に伝えたのかということです。
これまた一般論に戻るわけですけれども、では、視聴者にどういう事実が伝わったのか、放送局側から言うと、どういう事実を視聴者に示したのかをどうやって判断するかというと、これは最高裁の判断がありまして、要するに一般視聴者の受け止めで決めると、一般視聴者がどう見るかということです。ですから、放送局が伝えようとした事実と、一般視聴者の受け止めがずれる場合も当然あるということです。佐村河内さんの側は、本件放送で示された事実というのは「申立人は、手話通訳も介さずに記者と普通に会話が成立していたのだから、健常者と同等の聴力を有していたのに、当該記者会見では手話通訳を要する聴覚障害者であるかのように装い会見に臨んだ」と、そういう事実が視聴者に伝わったと主張をする、これに対してTBS側は、いや、そんな断定はしていないとおっしゃるわけです。
委員会としては、先程の最高裁の判断に従って一般の視聴者の受け止めはどうかということを探ったわけですけれども、その際重視したのは、一般視聴者は、本件は聴覚障害という難しい問題でしたので予備知識がないということでした。したがって、不正確な説明をすると、簡単に誘導、誤解してしまうだろうということです。その上で実際の判断をしたということです。
番組は大きく2つの部分に分かれ、時間的には全然配分が違うのですけれども、記者会見の際に、実際に手話通訳なしで会話が成立しているにではないかというVTRが流されていたのです。その部分は時間的にはごく短いわけですけれども、インパクトは非常に強い。しかも、謝罪会見の時に手話通訳がなくても話が通じているということを、直接示しているということですので、委員会としては、これは重要な部分だと判断しました。
番組ではその前に、記者会見の場で配布された佐村河内さんの聴力に関する診断書、これをパネルに貼って説明をしていたわけですが、これは、細かくは申し上げないのですが、要するに、診断書の中には、みなさんが人間ドックでやるような聞こえたらボタンを押す自己申告の検査と、そうでない脳波でチェックする検査もあると。しかし、番組では脳波による検査のほうはあまり触れずに、自己申告であると強調していた。しかも、出てきた数値を見て、「普通の会話は完全に聞こえる」というような説明をアナウンサーがしていました。あと、診断書について医師、専門家のコメントがありまして、その中で詐聴、つまり自己申告の検査なので偽っていた可能性があるというようなコメントも、特段の補足説明もなく言ってしまいました。そうした合間に当然、タレントのトークがあって、その中にはもう佐村河内さんは嘘をついているということを前提としたようなコメントが多数あったというところがありました。
そういうことを総合的に判断して、委員会の多数意見は、先程お示しした、佐村河内さん側が主張している本件放送の摘示事実はあったと、つまり断定的にそういうことを伝えているという判断をしました。これは名誉毀損であるということです。診断書からはそこまでは言えなくて、客観的な検査によれば一定の難聴はあったとみられるわけですので、先程の免責事由で言うと、真実性、相当性も認められないという結論になったわけです。
3番目として、やや一般化した個別の注意点を2,3挙げています。
1つはバラエティーによって人権侵害の可能性があった場合に、報道番組と同じような基準で判断するのか、それとも違う基準で判断するのかということです。その点について、少なくとも情報バラエティー番組において事実を事実として伝える場合は、報道番組と同様の判断基準でよいと考えたわけです。お手許の『判断ガイド』の211ページに紹介がありますけれども、トークバラエティー番組については、より表現の許容範囲が広いというような判断を示した決定が確かにありました(第28号「バラエティー番組における人格権侵害の訴え」)。バラエティー事案の審理では、最近放送局側が必ずこれを引用されるわけですけれども、本件ではそこに対して若干釘を刺すような形で、情報バラエティー番組で事実を事実と伝える場合は報道番組と基本的に変わらないような判断基準で判断するということを言っております。
この点、最高裁判所も似たようなことを言っています。かつて、いわゆる夕刊紙が名誉毀損に問われた裁判において、夕刊紙側が結局興味本位の記事を載せているんだから、読者もそういうものとして受け止めるはずであると、だから名誉毀損はないと主張をしたところ、そういうことは通らないというのが最高裁の判断です。
かつてロス疑惑報道というのがあって、要するに三浦さんは悪い奴だというので集中豪雨的な報道がされたわけですが、その後、三浦さんの側から何十件も名誉毀損訴訟が起こされ、かなりの部分でメディアが負けています。報道被害に関する認識も高まって報道のあり方もだいぶ変わったわけですけれども、今でもやはり流れができてしまうと、これに乗っかって過剰なバッシングが行われる現象があると。本件でもそういうことがあっただろうと思いますので、ロス疑惑報道の教訓は今でも重要だろうと思います。
次ですが、これは少数意見の中で、視聴者に予備知識がないからといって正確な説明を求めていたのでは、バラエティー番組は成り立たないのではないかというご指摘がありました。委員会としては、そんなに難しいことを求めているわけではなくて、例えば本件で言うと、聴覚障害には伝音性難聴と感音性難聴があって佐村河内氏は感音性難聴であるとか、そういう説明をすべきだというのではなくて、音が歪んで聞こえるという症状があるというようなことを伝えるとか、そういう形で噛み砕いて分かり易く説明することは十分可能だろうと思うわけです。
過去の委員会決定で何度も言われていますが、タレントの発言の責任は誰にあるかというと、これは放送局にある。編集権、編成権は放送局にあるわけですから、そういうことになるわけです。だからと言って、厳密な台本を用意して、その通りにやれという話をしているわけではなくて、事前説明をしっかりする。それから、もしほんとに問題のある発言があった場合その事後に番組中にチェックすると。そういうような配慮が求められるのではないかと指摘しております。

◇事案担当:林香里委員
今回の事案は大変難しい決定で、特に私は法律家ではありませんので、名誉毀損の判断などは非常に難しかったです。
まず、放送倫理というところで問題があるという点では全員一致しているというところは、確認をしていただきたいなと思います。全体的に放送倫理では問題があるのですが、名誉毀損のほうはどうかということで、委員会決定の判断は、やはり本件放送のメイン・メッセージは「普通の会話は完全に聞こえる」ということでした。委員会は、ここが真実とは異なるということで、名誉毀損という判断を下したということになると思います。ただし、そこには少数意見のように異なる印象をもつ者がいるのではないか、異なる解釈があるのではないかという意見が付いているということでございます。

◇少数意見 奥武則委員長代行
先程曽我部委員が、多数意見と少数意見がどこで分かれたのか説明していただきましたが、つまり、本件放送によってどういう事実が示されたのかということについての認識なり判断が違うわけですね。多数意見は佐村河内さんの申立てを受けとめて、「申立人は手話通訳を介せずに記者と普通に会話が成立していたのだから、健常者と同等の聴力を有していたのに、当該謝罪会見では手話通訳を要する聴覚障害者であるように装い会見に臨んだ」という事実が摘示されたと判断しました。
市川委員長代行と私の少数意見は、要するに、そこまではっきり明確なメッセージがあの番組からあったとはどうも受け取れないということです。お昼の時間帯に放送される情報バラエティー番組で、まさに一般の視聴者が普通の視聴の仕方で見た時に、一体どういう受け止め方をしたかというと、まあ、何だかよくわからないけれども、「手話通訳が本当に必要なのかな」という程度の認識を視聴者が持っただろうということですね。手話通訳がほんとに必要なのかということに、強い疑いがあることについては一定の真実性はあるわけで、そういう意味で言うと名誉毀損は成立しないのではないかというのが基本的に我々の少数意見です。放送倫理上の問題については、基本的に多数意見と同じ考え方です。

◇少数意見 中島徹委員
私が少数意見を書くことになったきっかけは、一言でいえば、この事件で名誉毀損を認めてしまうと、表現の自由が相当に脅かされかねないという直感でした。
あの番組で事実の摘示があったと見てしまえば、すなわち、正常な聴力を有しているということを番組が指摘したと解してしまうと、それについて真実性と相当性をTBS側が証明しなければなりません。しかし、本人は聞こえないと言っているわけですから、「聞こえる」ことを証明することは極めて困難です。もっとも、佐村河内氏は、謝罪会見以前に一定程度は「聞こえる」ことを認めていました。聞こえることについて争いがなければ、そのことを前提に、この場面でも聞こえているのではないかと論評を加えることは大いにありうることです。言い換えれば、番組の中で言われていたことは、事実の摘示ではなく、TBSの見方、意見だと私は捉えたわけです。
論評は表現の自由の観点からすれば、相当程度に自由でなければなりません。日本の裁判所、とりわけ最高裁は、論評の場合でも真実性・相当性については相当の根拠がなければならないという判断を示していますが、この点はアメリカでは全くそういうふうには理解されておらず、真実性・相当性という要件を課しません。論評は自由に述べてよろしいというわけです。もちろんそれは行き過ぎだったら許されない場合もあるけれども、そうでない限りは自由にやってよいという考え方ですね。この点で、日米の名誉毀損に関する法的思考はかなり異なりますが、日本でも下級審では、アメリカ流に考える立場もあります。
他方、奥代行、市川代行の少数意見とどこが違うかと申しますと、両代行のご意見は、この番組を見た一般視聴者は正常な聴力を有しているというところまでは理解していなくて、なんとなく聞こえているのではないかくらいで受け止めていたのだから、事実の摘示はその程度で認定すれば良い ー粗雑にすぎる要約かもしれませんがー 、そのように論じられた上で、そうであれば真実性はあったと認定されているわけです。本件では、結果において名誉毀損の成立を認めないわけですから、表現の自由にとってマイナスということにはなりません。しかし、逆に、表現の自由を制限するような場面で同じ論法をとった場合、すなわち、事実の摘示という法律上の概念を説明する際に一般人の感覚を用いてしまうと、一般人の感覚とは言い換えれば多数者のものの見方ですから、多数者の視点で事実の摘示という法律上の概念を論じることになります。これは、時に多数者の視点で表現の自由を制限するように機能する場合もありますので、表現の自由保障の観点から私には賛成できませんでした。そこで、あのようにやや煩雑な構成をとることになったわけです。

(意見)
事がやっぱり障害に関することなので、全く納得できないというわけでもないです。ただ、やはりそこまでの専門性、専門的知識をあの番組の中で求めるかというと、やっぱり厳しいなという感想になります。

(意見)
非常にショッキングで、視聴者の目線で言うと、ほんとに佐村河内さんという方は耳が聞こえるのか、ほんとに自分で作曲したのかという率直な疑問に答える形であの番組はやっていたと思うんですね。結果的に、決定が出た後、出る前後でも検証が全くされていない。佐村河内さんの聴覚が本当はどうだったのか、あの交響曲『HIROSHIMA』はどういう扱いになっているのか、その辺の検証をもっとやるべきじゃないかという感想を持ちました。

(質問)
私はちょうどたまたま放送を見ていまして、非常に面白く拝見しました。ただ、各社とも佐村河内さんの聴力が疑問だというトーンでやっている中では、かなり突出して聞こえるという印象を与える番組だったのは確かだと記憶しています。もうちょっと疑問だなというレベルに押さえておけば、まあ許容範囲に入ったのかなと、さじ加減の難しさがあるのかなと思いました。私は報道の人間なので、バラエティーを作る手法がわからないんですが、ああいう芸能人を使いながら大筋を導いていくプロセスというか、どのくらいシナリオを書いているのか、教えて欲しいなと思いました。

(曽我部委員)
今の点は審理の過程では論点にはなっていました。どの程度事前にシナリオというか、打合せがあったのか、詳細にはお聞きできていないのですが、それほど細かい話があったわけでもなく、もちろん聴覚障害に関する予備知識のようなものの説明があったわけでもないように聞いています。ちゃんとしたタレントさんは、ある程度空気を読んで発言されると思うので、やっぱり事前にある程度局が示唆をしておけば、もうちょっと違ったものになったのではないかと思います。あの番組をご覧になればわかると思うのですけれど、司会の和田アキ子さんがあの問題について非常に一家言をお持ちな感じで、ずっとリードをされていたので、ずいぶん他の出演者の方も引きずられてしまった部分もあるのかなという感じはしました。

(質問)
もう1つの大喜利事案(第57号「大喜利・バラエティー番組への申立て」)との違いについて教えていただければと思います。

(曽我部委員)
まず、番組の性質がだいぶ違うということですね。謝罪会見は情報バラエティ-、べつにネーミングにこだわるわけではないのですけれども、事実を事実として伝える番組で、その上でいろいろトークをするという、そういう作りです。視聴者もそういうものとして受け止める、先程最高裁判決を紹介しましたが、それなりに真実を言うだろうという前提で受け止めると思うのですね。
これに対して大喜利というのは、必ずしもそうではないところがあります。さらに大喜利は短いフレーズの中で風刺を効かせたりするので、いろいろ誇張とかが当然含まれるわけですし、即興で言うのでいろんな表現があると。世の中に確立した芸ですので、視聴者はやっぱりそれはそういうものとして見るだろうと。そういうことで番組の性格が違うと思います。

(坂井委員長)
決定的に違うのは、大喜利は事実の摘示が基本的にないんです。佐村河内さんにとっては不愉快な言われ方を、もちろんしています。「持っているCDは全部ベストアルバムばっかり」とか「ピアノの鍵盤にドレミファソラシドと書いてある」とか。だけど、それは揶揄しているという話で、記者会見の時に耳が聞こえていたとかいう事実は言っていない、そこは事案として全然違うということを補足しておきたいと思います。

◆決定第57号「出家詐欺報道に対する申立て」 報告:奥武則委員長代行

申立人が出てくる映像が5か所ありますが、その映像について「放送倫理上重大な問題がある」という結論です。「報道番組の取材・制作において放送倫理の遵守をさらに徹底することを勧告する」という決定です。「重大な問題がある」というところが1つの肝で「勧告」になったわけですね。
出家詐欺のブローカーとして出てくる申立人の映像は、手の部分がボカされて顔は写っていない、セーターも着替えたということです、隠し撮り風に撮っている映像では、画面の右側のほうに「ブローカー」とテロップが出ていますが、申立人の顔の部分は完全にマスキングしています。映像と音声をほぼ完全に加工していて、映像からは申立人と特定できない。その人が誰だか分からないんだから、そもそも名誉毀損という問題は生じませんということで、この部分は「名誉毀損などの人権侵害は生じない」という結論になったわけです。
放送人権委員会としては、人権侵害はないからそれで終わりという考え方もないわけではないんです。事実そういう議論も委員会でしましたが、これでこの事案をやめてしまうのはちょっとおかしいんじゃないかということになって、放送倫理上の問題を問うべきだという流れになってきたわけですね。なぜ放送倫理上の問題を問うかというと、本人は実際取材されて映像になって放送されているのは分かっているわけですから、ほかの人が見て分からないと言ったって本人は自らが登場していることは当然認識できるわけです。その結果、放送で言っていることはおかしなことがいっぱいあって、ともかく被害を受けたと言っているわけですから、そこには当然放送倫理上求められる事実の正確性にかかわる問題が生まれるだろうということで、放送倫理上の問題もやっぱり考えましょうということになったわけです。
申立人の主張とNHK側の主張の違いを比べてみます。申立人は「自分は出家詐欺のブローカーでないし、ブローカー行為をしたこともない」、「NHKの記者に頼まれて出家詐欺のブローカーを演じただけだ」と言っているわけですね。それに対してNHKは「申立人はみずからブローカーであるとして取材に応じた」という主張です。取材記者のほうも「申立人がブローカーであると信じて取材を行った」と言っていて、真っ向から対立しているんですね。
申立人が出家詐欺のブローカーを演じたのかどうかという問題は、あとで触れるとして、ほんとうに出家詐欺のブローカーかどうかということについての裏付け取材が明らかに欠けていたんですね。多重債務者という人が登場しますが、この人はもともとNHKの記者のいわば取材協力者で今までもいろんな取材に応じていて、記者がこの件についても「出家詐欺について取材して番組を作ろうと思うんだけど」などと相談を持ちかけたんですね。そうしたら「いや、俺も実は多重債務を抱えいて今度ブローカーに相談に行く」ということで、ブローカーを紹介してくれることになった。記者はこの取材協力者に全面的に依存してるんですね。
NHKの記者は「直接会って話を聞いたりするのはやめてくれ」と取材協力者に言われたということですけれども、現実に出家詐欺のブローカーとして登場させるわけだから、取材協力者がそう言っているからといって、それにどっぷり漬かっていいのか、やっぱり裏付け取材をしなきゃいけないという話ですね。ところが、全くしていない。本人に聞くのが当然王道だと思うんですが、本人に聞けなくても、いろんな周辺取材で裏付けは取れたはずで、そういうことは全くしていない、裏付け取材が欠けていたという点ですね。
それからもう1つ、ナレーションが幾つか映像を伴って出てくるわけですけれども、ビルの一室に活動拠点があったとか、多重債務者からの相談があとを絶たないとか、それらのナレーションは基本的にあとで出家詐欺のブローカーと称する人にインタビューをして、いろいろ言っている中からピックアップして使ったと言うんですけれども、実はそういうことは全然ないんですね。ブローカーとして活動しているという話も、この取材協力者から聞いた話であって、活動拠点といわれる所も、実際はその取材協力者が用意しておいた場所なんですね。そこの部分がいちばん明確な虚偽と言っていいと思うんです。それだけではなくて、全体的に映像も伴って虚構を伝えています。「たどり着いたのはオフイスビルの1室、看板の出ていない部屋が活動拠点でした」というナレーション、この部分がいちばん問題になる、ウソの部分なわけです。
必要な裏付け取材を欠いていたことと、明確な虚偽を含むナレーションで登場した人を出家詐欺のブローカーだという形で放送した。「報道は、事実を客観的かつ正確・公平に伝え、真実に迫るために最善の努力を傾けなければならない」、これはNHKと民放連が作った放送倫理基本綱領、つまり放送界の憲法みたいなものですね。これに明らかに違反していると言わざるをえないということで、放送倫理上重大な問題があったという結論に至ったわけですね。
さっきペンディングにした問題、実は皆さんも関心があるんでしょうけれども、申立人は出家詐欺のブローカー役を演じたのかどうかという問題ですね、これは実はやぶの中なんですね。出家詐欺のブローカーをやっていたという事実は出てきていない。NHKの調査委員会もそういう結論に達しています。ただし、全部を否定するというのは、いわゆる悪魔の証明ですから、ブローカーじゃなかったということは、なかなか証明できないところがあるんです。申立人は、NHKの取材協力者で多重債務者として登場した人と長い付き合いがあり、その人に頼まれてというようなこともあって、これはもちろん断定はできないんですけれども、申立人は自分は出家詐欺のブローカー役を演じるのだなと、そういう認識を持って取材に応じたのではないかと思っています。実際この人は出家した経験があったりお寺に出入りしたりしたことはあるわけで、取材に応じて出家詐欺の手口とかをしゃべることも、そのつもりになれば出来ただろうということなんですね。申立人は「役を演じてくれと言われた」とか「自分は多重債務者のつもりだったのが途中でブローカー役になった」と言っていますが、この点は合理性を欠いていて、信用できないと思っています
総務省がNHKに対して厳重注意という行政指導を行い、その前には、自民党の情報通信戦略調査会が、放送法に言及してテレビ朝日とNHKを聴取しています。これについては委員長が非常に懇切に説明をしてくれたので、私から特に付け加えることはないんですが、放送法の規定について、私は法律家ではないわけですけれども、法規範だとか倫理規範だとか言ってみてもあまり意味はないと思っています。放送法に書いてあるのは間違いないので、実際それをどうやって守るか、担保するかという問題であって、それは憲法21条並びに放送法の趣旨からいって要するに自律性なんだと。「放送番組は、法律の定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」。放送法の3条ですね。事情聴取とか行政指導は「民主主義社会の根幹である報道の自由の観点から、報道内容を萎縮させかねない、こうした対応に委員会として強い危惧の念を持たざるをえない」ということですね。
放送人権委員会は、具体的な事案を審理する中で物事を考えるのが基本ということであって、「強い危惧の念を持たざるをえない」と抑制的に表現したわけです。趣旨は自律的にやるんだということに尽きます。放送局が自律的にやるし、BPOも自律的な機関としてあるんだという、その自律性をしっかり頭の中に入れておかなければいけないだろうと思います。

◇事案担当:二関辰郎委員
少々補足しますと、この同じ番組について放送倫理検証委員会もこちらの委員会に先行して判断を出しています。その判断の中身について委員会の性格の違いを反映して違う部分があるので、それを簡単にご説明しますと、放送倫理検証委員会というのは番組全体の作り方、取材のあり方とか制作のあり方、そういった観点からこの番組を検証して意見としてまとめていました。これに対して、こちらの委員会はあくまでも申立てをしてきた人、その人の人権なり、その人との絡みで放送倫理上の問題があったかどうかという観点から判断をしているという、アプローチの違いがあるということです。
先程もご説明がありましたとおり、人物が特定できませんので人権侵害はない。世間の人がその人だと特定できなければ社会的評価の低下はないわけですね。そこで入口論としては終わった。それに対して放送倫理の問題というのは、必ずしもそういう観点は必要なくて、本人は自分が誤って伝えられたということは分かるわけですし、倫理の問題というのはやはり放送局側の行動規範的な側面が強いわけですから、そこの拠り所を取っかかりにして申立人との関係においてどういった問題があったのかという取り上げ方をしたということになります。
この決定を公表した時に「やらせがあったのかどうか」というような質問が幾つかあったわけですが、委員会としては、あくまでも申立人との関連においての放送倫理の問題を取り上げる範囲で必要な判断をしたと。明確な虚偽が現にあったという必要な判断は十分にしているということで、特に「やらせ云々」というところまで立ち入った判断はしていません。委員会が「やらせがあった」と言ってくれたらそれだけで記事の見出しになる、そんな意図の質問にも感じられたんですけれども、委員会はそういった判断をするところではない、というのが委員会の立場だといっていいかと思います。

(質問)
どうしてこんな事態になったと思われますか。

(奥委員長代行)
個人的見解になりますけれども、私自身、報道記者をやっていた経験から言いますと、やっぱりNHKの記者はいい番組を作ろう、よりインパクトがある番組を作ろうというところで、NHKの言葉で言えば「過剰な演出をしてしまった」ということ。それから、日頃付き合っていた取材協力者、多重債務者として登場する人ですけれども、その人を過剰に信用していたというか、そういう取材上の問題が非常にあっただろうと思います。

(質問)
記者は明確な意図を持って事実と違うナレーションにしてしまったのか、ヒアリングではどうだったのか知りたい。「やらせの部分については踏み込まなかった」とおっしゃったんですが、かなり問題ある構成かなと思うが、その辺についてはどういう判断をされたんでしょうか?

(奥委員長代行)
やり過ぎたというようなことを任意に認めたわけでもないですけれども、「いろいろインタビューで聞いたんで、それを基にしてこういう構成にした」という言い方をしていたと思います。間違いなく問題ある構成だったわけで、「放送倫理上重大な問題があり」になったということです。

(質問)
「やらせまで踏み込んだ判断をしなかった」ということですが。やらせに踏み込んだ判断をする場合は、どういう要件の時にやることになるのか教えてください。

(坂井委員長)
典型的な「やらせ」と言われるケースはあるかもしれない、つまり、ほんとうは事実が全くないのに事実であるかのように作り上げる、というのがやらせになるんでしょう。そうではないときに何を「やらせ」というかは、もう定義次第になってしまう。そういう言葉の議論ではないところで、「明確な虚偽であるだけでなく、全体として実際の申立人と異なる虚構を伝えた」という言い方を決定はしているんですね。「何か踏み越えればやらせになるのか」という発想はしていません。

(質問)
「過剰な演出」というところが、ストーンと落ちない人がたぶん多い中で、「やらせ」という言葉を使うかどうか、定義は別としてもその部分が曖昧なまま終わってしまった印象が否めないかなと気がします。

(坂井委員長)
「過剰な演出」というのはご存じでしょうけど、NHKが言っている話ですね。決定ではそういう表現はしなかった、もっとストレートな言い方をしている、そこにわれわれの判断が出ているということです。だから、「過剰な演出」なのか、「明確な虚偽」というのか、「やらせ」というのか、あまりこだわる意味がないと思うんです。名誉毀損にはならない、でも「明確な虚偽を含む虚構が放送された」ということで、明らかに放送倫理上重大な問題がある、それで十分じゃないかなということです。

(奥委員長代行)
この決定文を読んで「いや、これはやらせじゃないの」というふうに思った方がいたとしても、まあ変な言い方ですけど、それはそれで構わないですよ、私としては。

(坂井委員長)
奥代行が言ったことを言い換えると、どこにも基準がないので、そういうふうに受け取る人がいても、それはそれでいいけれども、われわれは基準がはっきりしないやらせかどうかというよりも、明確に認定できる書き方をしているということです。
あと、どこまで事実を解明するかという問題があって、放送人権委員会は人権侵害、名誉毀損になるような、なりかねないような放送倫理違反というのがやっぱりメインの関心事であって、それ以外のところ、この番組でもたぶん事実と違っているところがあるかもしれないが、それを委員会が全部やるかというと、そこはわれわれの任務との関係で一定程度どうしても限界があると同時にやる範囲を絞っているというところが多少はあります。 (質問)
放送の自律性のところは、今の政権与党に強く言ってほしいところです。控えめに表現されたということですが、ぜひ委員会としても、BPO全体としてもアピールをしていただきたいと思っています。

(奥委員長代行)
放送人権委員会というのは、具体的な申立てを受けて審理して決定を出すという、そういう組織ですね。アクションを起こせと言われても、具体的な問題について具体的に審理して具体的な決定を出すという以上のアクションは、例外的に例えば前の三宅委員長が「顔なしインタビュー等についての要望」を出したりしたことはありますけれども、基本的にはそういう組織ではないんです、だから一緒にやっていきましょう。

(坂井委員長)
メディアの方ご自身ががんばらないと、こればかりはどうしようもないと。で、がんばるためには市民の支持、信頼がないと絶対ダメだという認識です。報道被害が迅速に救済されることがメディアに対する信頼を生み出し、それが報道の自由を支える大きな力になる、市民の支えがないと、例えば時の権力者の介入を許すような下地ができるだろうと思っています。そういう意識で、BPOも放送人権委員会もきちんと活動しなきゃいけないと思っています。

以上

2015年11月

TBSテレビ系列・北信越4局と「意見交換会」を開催

放送人権委員会は2015年11月24日、石川県金沢市内でTBSテレビ系列の北信越4局を対象に意見交換会を開催した。局側から報道・制作を中心に20人、オブザーバーとしてTBSテレビから1人が参加、委員会からは、坂井眞委員長、林香里委員、二関辰郎委員が出席した。
系列別の意見交換会は、2015年2月に高松で行われた「日本テレビ系列・四国4局」に続いて2回目。
今回の意見交換会では、まず委員会が2015年上半期に通知・公表した「散骨場計画報道への申立て」と「大阪府議からの申立て」の2事案の委員会決定を取り上げ、坂井委員長が委員会の判断のポイント等について説明と解説を行った。参加者からは、「散骨場計画報道」事案で「熱海記者会による申立人との合意と報道の自由の問題」について付言したことに関し、「社会性の高い案件だっただけに、記者会として、もっと交渉すべき余地はあったのではないか」等の意見が述べられた。
続いて、2014年6月に公表した「顔なしインタビュー等についての要望 ~最近の委員会決定をふまえての委員長談話~」について、林委員がこの談話を出すに至った背景や、実際のニュース番組をモニター、分析したうえで数か月にわたって委員会で議論したなどと説明した。
これに関連して参加者から「東京だと市民インタビューは赤の他人だが、ローカルだと匿名の市民じゃなくて実名の市民になってしまう。見ている人は『あの人知ってる』となる」「交通事故などで被害者が匿名を希望するケースが増えている」等の事例が報告された。
また、テレビで放送されたニュースがネット上で蔓延してしまう問題に関連して、坂井委員長から「最近、グーグルなどの検索について、検索結果で上位にヒットすることが現実には大きな影響があるため、それについてポータルサイトがしかるべき対応をすべきであるという法的判断がくだされた例がある。そうした判断が徐々に広がる可能性はある」との解説があった。
意見交換会の事後アンケートでは、「自分たちの取材の在り方、取材対象との向き合い方を見直し、考える良い機会になった」「系列間だからこその失敗談や苦慮している課題を聞くことができた」「委員長をはじめ、委員の方とも直接会って、いわゆる『顔が見えた』ことでBPOを身近な存在として感じられ有意義な会だった」等の感想が寄せられた。

以上

2015年10月

山形県内の6局と「意見交換会」を開催

 放送人権委員会は10月5日、山形市内で県単位の意見交換会を開催した。放送局側の参加者は山形県内の民放5局とNHK山形放送局から43人、委員会からは坂井眞委員長、市川正司委員長代行、城戸真亜子委員の3人が出席した。
午後7時半から開催された意見交換会では、まず地元局が視聴者から指摘があった事例や判断に迷った事例を報告、それに対して坂井委員長以下委員が考えを述べた。
後半では、最近の「委員会決定」をもとに委員会側が判断のポイントを説明し、人権や放送倫理を考える際の枠組みなどについて意見を交わした。
主な内容は以下のとおり。

◆坂井委員長の挨拶

冒頭の挨拶で坂井委員長はBPOの役割に触れて、以下のように述べた。
「なぜ、放送人権委員会のような委員会が立ち上がったのかというと、表現の自由が非常に大切だという前提で、放送で人権侵害等を起こさないようにすることが、実は、放送、あるいは表現の自由を守っていくということにつながるという考えからだ。そのようなことが、BPOの設立の経緯によく示されている」と、設立の経緯に触れてその目的を説明した。
続いて「私が言いたいことは、表現の自由ないしは放送局の自由な報道ということと個人の人権というのは、対立するものではないということだ。どちらかではなくて、どちらも大切にしなくてはいけないので、そういう観点から、放送人権委員会が申立てを受けて、人権侵害があったのか、あるいは放送倫理上問題があったのかということを審理して決定をしているということを、是非、理解してほしい。そして、委員会の決定が出て、放送倫理上問題があるとか人権侵害だとかいうと、どうしても結論にばかり注目が集まってしまうが、実は委員会では、かなり真剣な議論を、委員9名でした上で結論を出している。その中には、様々な要素を考えて書き込んだ部分があるので、そういう決定を読んで、結論だけで『なんだ』というようなことのないようにしてもらえれば有り難いと思っている」と、決定文の中身をよく読んで理解してほしいと訴えた。

◆山形県での事例

BPO設立の経緯をまとめたDVDなどを使った事務局からの放送人権委員会の概要説明に続いて、山形で起きた事例が2局から紹介された。

(インターネットに関連して視聴者から指摘を受けた事例)

ある局からは、(1)病院の不祥事を報道した際の病院建物の映像に通院患者がわずかに映り込んでいて、「人物が特定でき、プライバシーの侵害だ」として家族から指摘され自社のホームページにアップしていた映像を削除したこと、(2)番組のホームページに番組で紹介した女子生徒の小学生時代の写真を掲載していたところ、写っていた生徒から中学生なった数年後になって「恥ずかしいので削除して欲しい」との要請があり削除。その後、幼児や児童など子どもの画像は掲載しないルールに改めたこと、(3)ある学校の教師の不祥事を報道したニュースをホームページにアップしたところ他の個人サイトに転用されて拡散。地域住民から「学校名で検索するとその事件が何年も経過した後も出てくるので、局の責任で完全に削除して欲しい」との要請があったこと、などいずれもインターネットに関連して視聴者から指摘を受けた事例が紹介された。
報告者は、「一旦インターネットにアップすると、いろいろ手を尽くしても削除が難しいということがあり、クレームがありそうなニュースはアップしないほうがいいのではないかとも考えた。けれども、事件・事故とか、意見が対立する問題を、一切アップしないということは、逆に報道機関としてどうなのかという部分もあって、これからの課題だろうと受け止めている」と対応の難しさに悩んでいることを伝えた。

〇城戸委員
この事例に関して、城戸委員は自らホームページを運用している体験を踏まえ、「アップする側としては何の問題もないのではないかと思っていても、映像が本人にとっては恥ずかしいものであるなど個人のデリケートな心情を害する可能性がある。また、ネットにアップしたことで全く違うふうに受け取られて拡散されるというようなことも考えられるので、神経質過ぎると思っても、やはりその都度本人に確認を取るなど配慮していくことが大事だなと感じている」と答えた。

〇坂井委員長
また、坂井委員長は「(1)の病院の話については、ここで考えなければならないのは、病院というものの性質だ。病院というのは医療情報という非常にセンシティブな情報に関わる話になると思う。だから、そういう場所に出入りしているのを見られたくないというのは合理性がある。全部、とにかくダメだということではないにしても、病院というのはそういう注意が必要だと思う。そういうところで細かい判断をしていかなければいけない。(2)の写真の話は、おそらく、最初、載せた時は、その小学生の子ども本人とその親御さんの了解を取ったと思うので、それ自体は違法でも何でもなく、だからダメだということにはならないと思う。けれど、その子どもが中学生になって、『やっぱり困る』と言ってきた時には、それが違法かどうかということではなくて、『やっぱり配慮しましょう』という話が出てくる。そこから先、『だから載せるものは了解を得た大人と物だけにしよう』というところに、本当に行ってしまっていいのかなというところは、立ち止まって考える必要があるのかもしれない。これは、『行き過ぎた匿名化』につながる話だと思う。行き過ぎた匿名化でテレビメディアの持つ力を削いでしまう部分があるので、最大の配慮はしながらも、何でも匿名化してしまうということにはならないようにしていかなければならないと私は思う」と述べた。

〇市川委員長代行
続いて市川委員長代行は、「(1)の事例では、やはり『どこで』というところが一つは問題だと思う。最近、繁華街とか商店街でのインタビューの映像で人物の周りを全部マスキングしてしまうことがよくあるが、果たしてあそこまでやる必要があるのだろうか。ああいう公のパブリックスペースで、みんな顔を見られることを、ある程度、覚悟しながら歩いているところで、そこまでやる必要があるかという問題と、では病院の入口だったらどうかという問題だ。そこは自ずから、その人の肖像を守る価値が違ってくるだろうと思う。あとは、そこを撮る必要性がどれぐらいあるのか、そのことの重みにもよるのかと思う」と、肖像権に関する考えを述べた。
続いて(3)の事例について、「テレビの場合には、基本的にニュースを流して、その場で消えていくのが前提だがウェブサイトの場合には、それがずっと継続して残っていくというところが違うところだ。今までとは違って、どれぐらいの期間、残すのかということも、一つの考慮材料にしなくてはならない。何を映すのか、どれぐらい隠すのかということと同時に、どれぐらいの期間、残すのかということも、今、難しい問題になってきていると思う。ただ、この学校の不祥事の問題については、抽象的に学校の名誉とか地域の印象であるとかということが、果たしてどれだけ保護すべき利益なのかというと、私は、必ずしも、それほど利益のある、保護すべき利益とは思わないところもある。やはり、そこは、個人の権利、利益として何が侵害されているのかをきちんと確認しなければならないと思う」と、ウェブサイトにどの程度の期間掲示するのかという問題とともに、内容の公共性や取材対象のどのような利益を侵害する可能性があるかなどを具体的に考える必要についても述べた。

(匿名・実名で局によって判断が分かれた事例)
次に、県内で起きている事件・事故で、実名か匿名かということについて各局で判断が分かれたケースとして、天童市の女子生徒がいじめが原因とみられる自殺をした事例を別の局の報道担当者が紹介した。
自局の対応について、「私の局では当初から生徒の名前や学校名はずっと伏せたままにしており、現在もそのようしている。そう判断した理由は、遺族側への配慮が一番大きかったと思う。私どもが遺族側に取材して、学校名も含めて生徒の名前などを出してほしくないということが分かったので、そこに変化がない限りはそれを続けている状態だ。一方で、遺族側だけの取材というのも、報道のバランスの上で如何なものかというところもあるので、学校側とか、市教委側とか担当記者を分けて、バランス良く取材する形でやった。ところが、最近、岩手県では亡くなった生徒の名前が出ているケースもある。これは、ご家族のほうから、名前を発表してほしいという希望があったやに聞いている。こういうケースについては、必ず匿名だとかあまり最初から決めずに、ちょっと悩みながら判断していくというところが大事なのかなと、今、感じている」と、直面した事案について報告した。

〇市川委員長代行
これに対して市川委員長代行は「生徒の名前は伏せたとしても学校名を載せるのはどうかとか、生徒がやっていたクラブ活動を、どの程度、書くかとか、おそらくそういったところで、特定性、同定性がどの程度、絞られてくるのかということが決まってくると思う。そういう意味で、特に子どもの問題だということもあって、配慮は必要だ。その配慮がどういう点で必要かといえば、やっぱり遺族への配慮の問題。それからイジメをしていたのではないかということであるとすれば、そのイジメをしていた子ども自身の問題。そして、このケースは刑事事件にはなってないのかもしれないが、潜在的にはそういう可能性もあるとすれば、少年法61条(記事等の掲載の禁止)の趣旨をどれぐらい考えるのかという問題が出てくる。そう考えた時に、どこまで、焦点を絞り込んでいくのか。学校名、クラブ名をあげてということになってくると、ある程度、絞り込まれてきてしまうという感じもする。他方で、例えば校長や管理職としての教員の責任は、それはそれで、きちんと報道しなければならないということがある。そこでのバランスをどこで取っていくかというところが非常に難しいところだと思う。一概に、こうすべきだということは、私としては申し上げにくいが、考慮すべき材料としてはそういうところだ」と、判断する際のポイントについて説明した。

〇坂井委員長
続いて坂井委員長は実名か匿名かの議論の原点に立ち返って説明した。「ちょっと違った話から入るが、私は、こういうメディアの問題を扱うようになったのは、今から27~8年ぐらい前からだ。この問題に関わり始めた頃に、新聞社、通信社の方と匿名報道についてよく話をした。当時は微罪でも実名報道をされている時代で、『何で実名が必要なんだ』と問うたところ、『いや、事実を報道するのが報道なんだ』と、『名前は事実の重要な要素なんで、当然じゃないか』という答えが返ってきて、噛み合わない議論をしたことを、今、思い出した。当時は、報道の一番肝心な点である、『いつ、どこで、誰が、何をしたのか』の要素なのだということだった。この点を全部、匿名にしてしまって、本当にニュースと言えるのだろうかということが、きっと原点にあるのだろうと思う。そこで、『そうは言っても他の利益がありますよ』という話が同時に出てくる。全部、特定されてしまうと、プライバシー侵害だったり肖像権の侵害だったり名誉棄損だったりがあるから、そこでバランスを取りましょうという、そういう話なんだと思う」と述べた。
続けて、「何が言いたいかというと、この天童のイジメで自殺したのではないかというような話に関しては、ニュース価値はあるだろう。おそらく誰も異論はない。だから本当は実名で出したいのだけれども、そのことによって別の利益、法的な利益を侵したり倫理的な問題が生じるのであれば、そこは配慮をしていかなければいけないという、そういう問題だろうと思う。今の発表にあったように、被害者の方は名前を出してもらっては困るとはっきり言っている。それを無視して出すのは、それは如何なものかと考えるのは当然だ。だけど、一方で親御さんが、『亡くなったのはA子ではなくて、ちゃんと名前があるのだから、書いてくれ』とおっしゃる場合がある。それであれば、匿名にする理由はなくなる。ただ、別の配慮は必要かもしれない。だから個別の判断をしていくことだと思う。あとで決定のところで説明する散骨場の問題なども、これは肖像権とその報道の価値とのバランスということで、そういうことを細かく具体的に考えていくと、ある程度、答えが見えてくるのではないか。だからケース・バイ・ケースというのは、おっしゃるとおりだと思う」と述べた。

◆最近の委員会決定

(「散骨場建設計画報道への申立て」について)
次に、今年1月に通知・公表された「散骨場建設計画報道への申立て」事案について、当該番組を収録したDVDを視聴したうえで、その判断のポイントなどを坂井委員長が説明した。この事案は、ローカルニュース番組で「散骨場」建設計画について事業主の民間業者の社長が市役所で記者会見などをする模様を取材・放送した際、地元記者会との間で個人名と顔の映像は出さない条件であったにもかわらず顔出し映像を放送したため、社長が人権侵害・肖像権侵害を訴えて申し立てた事案。委員会は、人権侵害は認めなかったが記者会との合意事項に反した放送をしたことは放送倫理上の問題があるとの「見解」を示した。

〇坂井委員長
この決定に関して坂井委員長は、「この事案の論点は次の3点だ。(1)まず誰と誰の合意なのかという点。(2)合意に反して顔の映像を放送したことは肖像権侵害にあたるのかという点。そこで考慮すべきものとして、公共性、公益性、それから合意違反と肖像権侵害との関係ということが問題になる。(3)合意に反して顔の映像を放送したことに放送倫理上の問題があるかという点だ」と論点を絞って説明した。
坂井委員長は、(1)の合意の主体については法律的には記者会と申立人の合意と判断されるが、記者会と申立人が合意したことを局も受け入れたわけだから当然それで拘束されるとした上で、肖像権と報道との関係について、次のように述べた。「(2)については、『顔を出しません』と言って約束して取材をしたのに、放送の時に顔を出してしまったら、それですぐ肖像権侵害になると思われるかもしれないが、実はここはひとつ論理的な操作が必要な部分だと思う。そもそも、肖像権とは何かというと『何人もその承諾なしに、みだりにその容貌・姿態を撮影されたり、撮影された肖像写真や映像を公表されない権利』、つまり『みだり』に公表されない権利と書いてある。『みだり』にということなので、理由があれば公表できる場合もある。報道の自由との関係で言うと、公共性があると認められるならば、両者の価値を検討して一定範囲では報道の価値を優先し、肖像権侵害とならない場合もある」などと、法律的な考え方を紹介した。
その上で今回のケースに当てはめ、「相手の承諾なしに勝手に撮った場合と約束を違えて撮った場合は微妙に違うけれども、大きく見たら同じ範疇に入るので、その報道の内容、内容が持つ公共性、それから放送内容等を具体的に考えて、それが許される場合かどうかを考えるという論理構成になる」と考え方の枠組みを示した。
そして、本件の場合について、「散骨場計画は正当な社会的関心事で公共性があり、放送したのは報道番組で公益目的も認められる。放送された映像は隠し撮りをしたというようなものではなく、市役所に修正案を持っていくところや記者会見をしているところなので、プライバシーを侵害したり、肖像権を侵害する悪質性が高いわけではないので、肖像権侵害には当たらないと判断にした」と人権侵害を認めなかった理由を説明した。
しかし、約束違反をしたことについては放送倫理上の問題があったと委員会の判断を示した後、「最後に強調しておきたいのは、付言の部分だ。このケースは記者クラブが取材対象者の顔や実名を出さないと約束し、記者クラブのメンバーはそれに縛られるような形になっている。これはまずくないかということだ。なぜかと言うと、もともと記者会で報道協定を結ぶケースは、誘拐報道などの特別な場合だけだ。今回のケースは、理論的には、確かに特定の日に限られるものだが、場合によれば、次の日に何か事態が展開して、顔を撮ってしまおうという判断をするときに、記者クラブがした約束が縛りにならないかというようなことが考えられる。そうしたことから、記者会は取材先からの取材・報道規制につながる申し入れに応じたことと同様の結果をもたらす危険性を有するのではないか、ということをあえて、決定文に付言として書いた」と、特に付言の部分を強調した。

〇地元局質問
この事案に関して、報道制作に携わる参加者は、「事件や事故の現場で、一般の方からインタビュー取材をするが、撮影して放送するのを暗黙の同意を得たということで帰ってくる。しかし、帰ってきたあとに『顔を分かるように使わないでほしい』とか『一切使わないでほしい』などの申し入れがあるケースがある。これはどのように考えたらよいのか」と日常的に起こりうるケースについて問うた。

〇坂井委員長
それに対して坂井委員長は、「何か事件があって、近所の人の意見を聞いたというレベルだったら、その人が嫌だというのに顔を出した場合の正当性はなかなか得られないと思う。また、暗黙の了解ではなく、『顔を出しますけどいいですか』と確認して撮ってきたからといって、『やっぱり気が変わったのでやめてください』と言うのを押し切って出す正当性があるのかというと、なかなか難しいのではないかと思う。先ほどのケースは、社会の正当な関心事になっていて、その中心にいる人物が顔を出してくれるなということが言えるのかどうかという話だ。一番分かりやすいのは、総理大臣が顔を出してくれるなと言っても通るのかというと、通らない。いろんなレベルの段階、グラデーションがあるが、今の質問の場合は、ただ事件の近所の人を撮ったということだけでは、その人の意思に反して顔を出すことの正当化はないのではないか」と回答した。

〇地元局質問
さらに質問者が「報道する公共性・公益性等があれば、使わないでくれなどの申し入れがあっても、拒否して、放送する分には問題がないというふうに考えてよいのか」と、問うた。

〇坂井委員長
それに対して坂井委員長は、「実際そういう放送もいっぱいあると思う。それは皆さん判断されていると思う。一番分かりやすいのが政治家だ。そういう公的な立場の人間は全てではないが、NOと言っても受け入れざるを得ないときがあるということだ」と答えた。

(「大阪府議からの申立て」について)
次に今年4月に通知・公表された「大阪府議からの申立て」事案について、当該番組の音声を再生したうえで、その判断のポイントなどを市川委員長代行と坂井委員長が説明した。この事案は、ラジオの深夜トーク・バラエティー番組で、お笑いタレントが当時の大阪府議会議員が地元中学生らとトラブルになった経緯など一連の事態について「思いついたことはキモイだね」などと語ったことに対して人権を侵害されたとして申し立てたもの。委員会は「見解」として人権侵害も放送倫理上の問題もないとの判断を示した。
なお、本委員会決定の審理に当たった三宅弘前委員長は、政治家の場合は一般私人より受忍すべき限度は高く、寛容でなくてはならない、などの趣旨の補足意見を付した。

〇市川委員長代行
まず、この事案の起草を担当した市川委員長代行が、判断のポイントについて説明した。「問題になったのは、名誉感情の侵害と社会的評価の低下があったかだ。判断の枠組みは、まず名誉感情・名誉権を侵害するのかどうか。第一段階で名誉感情が侵害されたかを検討する。その上で、評価を下げている、あるいは名誉感情が傷つけられているということになった場合でも、それは直ちに権利侵害にはならない。次の段階として、公共性・公益性の観点から、許容されるのかを検討することになる」と、考え方の枠組みを説明した。
そして、「本件の場合には、『キモイ』という言葉は一定の社会的評価の低下、名誉感情に不快の念を与え、第一段階の名誉権、名誉感情の侵害という点はあるということになる。そこで、次の段階の公共性・公益性との間で許容されるかどうかということになる。その場合の判断としては、公共性・公益性がどれぐらい高いのかという問題と、侵害された社会的評価、名誉感情がどの程度のことなのか、その2つを天秤にかけて、公共性・公益性が重いということになれば、これは許容される。本件の特徴としては、放送の対象が公務員、しかも被選挙権のある公職の議員というところだった。それから、事実自体に争いはなく、論評としての許容性がもう一つの問題になる」と論点を整理した。
そして、議員が関わる名誉棄損などの判例を紹介した上で、「本件の場合は名誉感情を害された程度は低く、それに対して公共性・公益性は高いということで、人権侵害はなく、放送倫理上の問題もないと結論した」と委員会の判断を示した。さらに留意点として、「本件に関してはバラエティー番組だということで、『政治を風刺したりすることは、バラエティーの中の一つの重要な要素であり、正当な表現行為として尊重されるべきもの』として、バラエティーでの表現としては許されるという評価をしている。ただし、『キモイ』という言葉は『無限定に使うことを是とするものではない』と結論に付言をあえてした」と述べた。

〇坂井委員長
次に、「補足意見」について坂井委員長は、「どういう趣旨かと言うと、従前の委員会決定を踏まえたものとして、表現の自由というのは、まず自己の思想及び人格を形成、発展させる、自己実現と言い方をするが、そういう面と、民主主義社会は思想及び情報の自由を流通させないと、民主政自体が成立しない。これも民主政の過程で非常に大事で、この2つの面がある。法の運用や権力者の言動によって、取材・放送の自由が萎縮するようなことがあれば、先ほど指摘した2つの自己実現の形、民主政の過程が傷ついてしまう。だからそういう権力者については、受忍する範囲は緩くなるということをあえて指摘しておきたいということだ。本決定が述べるところの規範部分は、国政を担う政治家の行動についてはなおさら妥当するのだということをあえて付言しているという趣旨だ。これは私も全く同意見だ」と述べた。

〇地元局
委員の説明に対して地元局の幹部は次のように意見を述べた。「今の意見を聞いて非常に心強く思った。特に、報道の自由というところを非常に深くとっていることを心強く思った。もちろん我々も自律的に襟を正していかなくてはいけないが、BPOというのは民主主義の成り立ちとかかわっていると思う。最近、事案を見てみると、報道したことに対して公権力の方が『これは問題にすべき事案だ』とか言ってBPOにかけている。BPOを、放送局を縛ったり、あるいは自分に不都合な報道をさせないように扱う機関だというふうに公権力に勘違いされても困るなと思っているところがあったので、そういう点では自らを律すると共に、心強いなというふうに感じた」と全体を通じての感想を述べた。
意見交換会に引き続いて行われた懇親会でも、地元放送局と委員との間で活発な意見交換が行われた。

今回の意見交換会の事後感想アンケートで局側の参加者からは、「各局の事例報告は、実感を持って聴くことができたし、それに対する委員長、委員各位の意見などを直接聴くことができ、大変参考になった」「全国的にも知られている事例を解説されることでよりリアルに詳細に理解することができた。また、各局での題材も同じことがすぐに起こり得ることとして、当事者から生々しく聞くことができた」などの声が寄せられた。

以上

2015年2月

意見交換会[日本テレビ系列・四国4局]を開催

放送人権委員会は2月24日、香川県高松市内で日本テレビ系列の四国4局を対象に意見交換会を開催した。放送局側の参加者は四国4局から報道・制作に携わっている局員を中心に21人とオブザーバーとして日本テレビから2人、委員会側からは三宅弘委員長、小山剛委員、田中里沙委員の3人が出席した。
系列局を対象とした意見交換会は、放送人権委員会としては今回が初めてである。
意見交換会では、まず委員会が通知・公表した「委員会決定」をとりあげ、それぞれの事案に含まれている問題や、委員会が判断する際に検討したポイントなどについて委員長と起草を担当した委員が説明した。
続いて、昨年6月に公表した「顔なしインタビュー等についての要望~最近の委員会決定をふまえての委員長談話~」について、この談話を出すに至った背景や談話に込めた思いなどについて三宅委員長が各項目に沿って説明した。この中で三宅委員長は冒頭の項目について、「表現の自由」の保障の根拠である「自己実現」と「自己統治」の考え方が端的に書かれている最高裁判所判決を引用したことをあげ、「表現の自由、とりわけ取材・報道の自由の原点を一文で表すとこの文章になる」と解説し、さらに行き過ぎた社会の匿名化が民主主義社会の在り方とも深いかかわりがあることを強調した。
また、田中委員は、「大事なことは取材対象者と最大限の意思疎通をはかる努力をすることだ。1秒を争う現場では難しい点もあるが、取材を受ける人に何の目的でどのように放送するかなど、参考になる情報をきちんと伝える方法を工夫することも必要ではないか」と述べ、雑誌の取材や街頭アンケートなどで採用されているチェックシートを使った確認手法などを紹介した。
局側からは、「ローカル局が作っている番組では比較的モザイクなどの使用は少ない。キー局の番組を含めて全体的な傾向が変わらなければ顔なしインタビューやモザイクの使用は少なくならないのではないか」などの意見が出された。
今回の意見交換会では特に放送局側から、実際に現場で悩んだ事例を出し合ってそれについて意見交換をしたいとの要望が出され、各局から具体的な事例が紹介された。
自社のホームページにアップしたニュース映像が期限を過ぎた後も検索によって誰でも視聴可能な状態となっていたことに対して抗議を受けた、という事例について小山委員が「忘れられる権利」に関する最近の裁判所の判例を紹介したうえで、「自動的、機械的に行われるインターネットの検索サイトの場合であっても削除命令が出されている。ましてや能動的に管理している放送局の場合はさらに注意を払わなければいけない」と述べた。
今回の意見交換会について局側の参加者からは、「全国的にも知られている事例を解説されることでよりリアルに詳細に理解することができた。また、各局での題材も同じことがすぐに起こり得ることとして、当事者から生々しく聞くことができた」「各局の事例報告は、実感を持って聴くことができたし、それに対する委員長、委員各位の意見などを直接聴くことができ、大変参考になった」などの声が寄せられた。

以上

2014年10月

中部地区「意見交換会」を名古屋で開催

放送人権委員会は、10月7日に中部地区の放送業者との意見交換会を名古屋市で開催した。中部地区での開催は6年ぶりで、御嶽山の噴火、前日の台風と慌ただしい取材・報道と重なったが、31局から88人が出席し、意見交換会の出席者としてはこれまでで最も多くなった。委員会からは、三宅弘委員長ら委員8人とBPOの飽戸弘理事長らが出席した(委員1名は台風による交通への影響で欠席)。委員、役員の紹介に続いて、三好晴海専務理事がBPOと委員会の役割や意義をビデオを交えて説明し、刊行した『放送人権委員会 判断ガイド2014』の紹介をしてから意見交換に入った。前半は今年6月に「委員長談話」として公表した「顏なしインタビュー等についての要望」、後半は「大阪市長選関連報道への申立て」と「宗教団体会員からの申立て」の「委員会決定」を取り上げ、予定を超える3時間20分にわたって意見を交わした。主な内容は以下のとおり。

◆三宅委員長 基調報告◆

『判断ガイド』に少し触れながら、お話をさせていただきたいと思います。私が9年前に委員になって最初に判断をしたのは、2ページの「若手政治家志望者からの訴え」です。
それ以降の「委員会決定」を見ますと、「放送倫理違反」、「重大な放送倫理違反」、「放送倫理上問題あり」とありますが、「人権侵害」と判断した決定は私が委員になる前の「バラエティー番組における人格権侵害の訴え」のあとはありません。先ほどのBPOの紹介ビデオで「委員会は人権侵害を判断する」と言っていますけれども、実際にはほとんど放送倫理の問題を取り上げてきたということがお分かりいただけると思います。
ただ、「放送倫理違反」と言ったり「放送倫理上問題あり」と言ったりして、各局から分かりにくいというご意見がありましたので、「放送倫理上問題あり」に統一し、4ページにあるようなグラデーションを定めました。「人権侵害」と「放送倫理上重大な問題あり」が「勧告」、一番下の「問題なし」と表現や放送後の対応等について局に「要望」するというのは「見解」です。「勧告」はいわばクロ、「問題なし」と「要望」はシロといいますか、セーフの範ちゅうに入るわけですが、その間に「放送倫理上問題あり」の「見解」というのがあります。「放送倫理上問題あり」は灰色、グレーですね、最近の申立てはグレーというのが多い、このグレーをどう判断するのか、非常に悩ましい問題が多々あるわけです。
『判断ガイド』の104ページに、「放送倫理違反」、「放送倫理上問題あり」というのは、何をもって判断しているかというポイントとして、「事実の正確性」、「客観性、公平・公正」、「真実に迫る努力」、「表現の適切さ」、「誠実な姿勢と対応」の5つを挙げております。これはどこから来るかというと、「放送倫理基本綱領」や民放連の「報道指針」、NHKの「放送ガイドライン2011」に書かれている倫理規範を参考にしながら判断しているということです。委員会はあくまで局側で作っていただいたものによって判断をしているというところを、ご考慮いただきたいと思っております。
お手元の資料にございますように、「大津いじめ事件報道に対する申立て」は2012年7月5日と6日のフジテレビの『スーパーニュース』内で各1回、大津市の中学生いじめ事件の報道に際して加害者として民事訴訟を起こされている少年の氏名を含む映像を放送したという事案です。民事訴訟の準備書面が放送され、少年の氏名が瞬間的に画面に出るのです。テレビは大体真ん中を見ますから、瞬間的に1秒、2秒弱見るだけでは分からないんですね。どこに出ているか、ちょうど画面左上の端っこですね、静止画像にして見ると少年の名前が出ていて、そこだけ消す処理を誤った。それがインターネットにアップされて少年の名前が広まったということで、ヒートアップする現象の中でどう判断するか迫られたわけです。
ここでは、新しいメディア状況の中で放送倫理上の問題が出てくる。最近は重要なニュースは各社のホームページに映像が出ます。わたしどもの判断は放送番組、放送された番組が対象ですが、これまでの審理を通じてホームページにアップされた期間は同じように審理対象になるという判断が大体固まっていますので、ニュースをホームページに載せると申立ての可能性が広がるという認識を持って対応していただくことが必要かなと考えています。

◆「顔なしインタビュー等についての要望」について◆

三宅委員長
「顔なしインタビュー等についての要望」について、作成の経緯とわたしどもとして何を言いたいのか、ご説明をしてまいりたいと思います。
「大阪市長選関連報道への申立て」は「まずは朝日放送のスクープです」から始まって、ポイントになるのは、ちょうど真ん中あたりの内部告発者のインタビュー「正直恐怖を覚えますね。やくざと言ってもいいくらいの団体だと思っています」の部分です。このインタビューは右肩後ろ側から撮っているいわゆる顔なし映像ですね。この事案を判断するにあたって、今指摘したスクープという強い表現と、「やくざと言ってもいいくらいの団体」というコメント、論評ですね。そして、申立人の大阪市交通局の労働組合は非常に人数も多いし、どうしたものかと。後ほど説明があると思いますが、これを判断しました。
もう一つ「宗教団体会員からの申立て」、きょうのアンケートの中で、大体どこの場所のどの高校に通ってA市内の国立大学に進学する人間の特定はあまり難しいことではないと、ドキッとしたという回答があったんですけれども、ボカシのかけ方が弱いですから、卒業式の時に4人の友人と写真を撮っている映像が出てくるんですが、脇の2人の女性の着物の柄が大体分かりますから、あの時誰それと撮った自分があの着物を着ていたということで特定されてしまう可能性がある。我々の判断は可能性の判断でいきますので、そういう問題が出てくる。なおかつ、アレフ脱会のカウンセリングを受け思春期の悩み等から信仰に至ったことを話す状況を、カウンセラーのみの了承のもとで隠し録音し音声を変えたうえで放送した。プライバシー侵害との兼ね合いが一つ問題になりました。
意見交換会では、ここ数年毎回顔なしインタビューについてどう考えるかということで、意見交換をさせていただいて、だいぶ機も熟してきたと考え、今回委員長談話を出させていただいたということです。

I.情報の自由な伝達と名誉・プライバシーの保護など

内容に入りますが、「I」は、取材・放送の自由のなかで、特にプライバシー、名誉、肖像など他人に知られたくない個人の法益、権利利益を保護していくということとの調整、そういう原則的な部分を書いています。
冒頭の文章は、私がかつて法廷でメモが取れないと訴えたアメリカ人弁護士の裁判の代理人を務め、最高裁の判決でもらった一文を引用しました。「個人として自己の思想及び人格を形成、発展させ、社会生活の中にこれを反映させていく」と、自己実現と呼ばれていますが、表現の自由の非常に重要な趣旨の一つです。後半部分は「民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保を実効あるものとするため」、これは自己統治といわれる表現の自由のもう一つの重要な要素、趣旨の部分が、まさに放送関係者が担っている役割のバックボーンとしてあるということを、まずはっきりさせていただくことがよいだろうと考えたわけです。
ちょうど2003年にBPOが発足するころ、個人情報保護法が「治安維持法以来の悪法である」とメディア全体が反対した中で制定された経過があります。その個人情報保護法の1条には高度情報通信社会におけるというような一文があり、「大津いじめ事件報道に対する申立て」の決定では「新しいメディア状況」と書きましたが、そういう社会状況の変化の中で、とりわけ「他人に知られたくない個人のプライバシー、名誉、肖像などみだりに侵害されることのないよう保護すること」の必要性と自由な情報の伝達との適正な調整を図るという点が、日々放送や取材にあたっていただく基本的な考え方のベースにあるのではないかということを明らかにしたわけです。

II.安易な顏なしインタビューが行われていないか

そのような基本的な考え方をふまえて問題提起をした部分です。「知る権利に奉仕する取材・報道の自由の観点」、これは冒頭の「I」のところの第1文を受けているところですが、「取材・放送にあたり、放送倫理における事実の正確性、客観性、真実に迫る努力などを順守するために、顔出しインタビューを原則」とする。この事実の正確性、客観性、真実に迫る努力というのは、先ほどの『判断ガイド』の中に整理して書いた放送倫理の基本的な部分だということをふまえていただければと思います。
この委員長談話を出すにあたって、在京のキー局の報道マニュアルの中で顔出しインタビューと顔なしインタビューをどういうふうに使い分けているのか、わたしどもは見させていただきました。各局では顔出しインタビューを原則とし、例外として顔なしを認める場合についてルールを定めていることを確認したわけです。さらに、海外のデータを集めたわけですが、ドキュメンタリーとかニュースを見ると、正面から語っている映像が非常に多くボカシはほとんど入っていないということで、ボカシを日本の社会現象として見るべきなのかどうか、少し気になったところです。例外として顔なしインタビューをするにあたって、国際通信社傘下の映像配信会社が理由を付記したうえで配信したりするケースもあり、また法務部と社内複数の関係部局の承諾も義務付けているというようなところもあり、例外の顔なしには非常に制約がかかっているということを見させていただきました。
「とりわけ、地域の出来事について、周辺住民のインタビューをする際に、特に匿名にしなければならない具体的な理由が見当たらないにもかかわらず、安易に、顔なしインタビューが行われてはいないだろうか」という部分ですが、今年1月に1週間、夕方の在京キー局のニュース情報番組を全て録画してチェックをする作業をしました。時間の関係であまり詳しくはご説明できませんが、場合によっては同じ人がある局では顔が出ているけれど、ほかの局では顔なしになっているというようなものもありまして、事案だけではなく、局側の対応によっても様々なケースがあると分かりました。どうしても顔を隠さなきゃいけない理由はないんじゃないかというものがかなり散見されました。犯罪報道の場合ですと、加害者に関わるような証言というものは、もちろんボカシを入れたり顔なしの映像にするということは当然あると思いますが、もう少し事案の内容によって検討すべき要素があるのではないかという問題提起をしました。

III.安易なボカシ、モザイク、顏なし映像はテレビ媒体の信頼低下を追認していないか

バラエティー番組では色を変えてホワーッとした感じでボカシをかけた顔なしがありますが、それに報道情報番組も引きずられているんじゃないかという警告を発したわけです。

IV.取材・放送にあたり委員会が考える留意点

先ほどの放送倫理のあり方をふまえ、一つ目に「真実性担保の努力を」として「安易な顔なしインタビューを避けて、可能な限り発言の真実性を担保するため、検証可能な映像を確保することなどの努力を行うことが大切ではないか」というところを出しました。先ほどの「大阪市長選」の「やくざと言っていいくらいの団体」と言う内部告発者の映像は顔なしで後ろから撮影され、彼が提供した「回収リスト」も自分でねつ造したものだったが、それについて裏付け取材もされていなかった。そういうところから、本人が語っている映像を撮っているときに、もしも「正面からちょっと撮りましょう」と言っていたら、そういうごまかし、ねつ造が防げはしなかっただろうかということも考えなきゃいけないということで、この点を一つ目に考えたわけです。
それから、事件現場の限られた時間内で、どうしても顔なしインタビューになってしまうと現場の方からは言われるわけですね。現にこの談話について「よく言っていただいた」という声と、現場のほうから「それじゃあ、取材、なかなかできないですよ」とか「現場感覚からズレているんじゃないですか」というようなご意見もいただきました。
それはそれとして、できる限り「取材対象者と最大限の意思疎通を」図っていただいて、できる限り顔出しを原則とする基本的なスタンスを考えていただきたい。
もちろん、「放送倫理基本綱領」にありますが、「情報源の秘匿は基本的倫理」も確認もしなきゃいけない。じゃあ、どっちを向いてどう判断すればいいのか、それは現場で考えていただくというのがこの委員長談話ですので、考えるべき筋道と考えるべきポイントを明らかにして、日々の取材の中で、その場その場で考えていただくという趣旨です。
それから放送のあり方ということで、先ほどの「大津いじめ事件」にありますように、「デジタル化時代の放送に対し、インターネットなどを用いた無断での二次的利用等が起こりうる可能性を十分に斟酌したボカシ・モザイク処理の要件を確立すべきである」という点で、新しいメディア状況に対応した留意点を特に考えていただく必要があるでしょうと。
「プライバシー保護は徹底的に」と。「中途半端なボカシ・モザイク処理は憶測を呼ぶなどかえって逆効果になりうることに留意すべき」ではないかと。できる限り真実に迫る取材をしていただきますが、放送に当たってプライバシーを保護するとなったら、もう思い切ってボカシをきっちり入れてもらうということもありうると。さっき言いましたように「宗教団体会員からの申立て」では本人のボカシの入れ方がちょっと弱い、周辺の友だちのボカシも弱いんじゃないかと。「大津いじめ事件」では、例えばいじめのあった学校全体はかなりボカシが入って、ある程度学校というイメージがあって、それから窓や校舎をアップにしたボカシのない映像が出たりする。その辺のボカシの入れ方とか特定されないような工夫は、かなりきっちりされていたんじゃないかというのが私の個人的な感想です。
そういうことをふまえて、場合によっては「放送段階で使わない勇気を」ということもあっていいのでは。いい映像が撮れると、「ぜひ使いたい」という話にもなりますが、プライバシー、名誉、肖像権の保護を考えると、場合によってはその映像を使わないという決断もされてもよろしいのではないかという点です。
それから「映像処理や匿名の説明を」のところは議論もあります。理由を注記すると、かえってボカシを推進することになりはしないかというご意見もあると思いますが、これは私の現場感覚で言うと、長年政府の情報公開の制度化を求めて、その運用の改善を求めてきた立場からすると、やはり「原則公開、例外非公開」。この原則と例外の立場をはっきりしたほうがいいという点からすると、映像処理や匿名の理由の説明を工夫してみるということも、これから各局で考えていただくべきところではないかということです。
今日のアンケートを見ますと、まだ社内ルールのないところもございますが、ぜひ「局内議論の活性化と具体的行動を」と、問題提起型の委員長談話という趣旨で書かせていただきました。

V.行き過ぎた"社会の匿名化"に注意を促す

先ほど言いましたように、個人情報保護法ができてから、警察取材が非常にやりにくくなったとか、顔なしを求める市民が非常に増えた、個人情報保護法はなかったほうがいいんじゃないかというような議論もあります。さらに特定秘密保護法ができて、政府が秘密指定したものはおそらく情報公開でも出ないし、リークを求めると、それ自体で処罰される可能性があり、取材・報道が非常に萎縮する、一方、政府自体はこれから共通番号という鍵を持って情報を全て集約する。政府はきっちり情報を持っているけれども、一般市民は無防備で、なおかつボカシのある社会を望むということになると、冒頭で述べた、社会全体が人と人が互いに知り合って意見を交換する中で人格を高め、民主政治を発展させるという趣旨から遠のいていくのではないかということも考えまして、最後に「行き過ぎた"社会の匿名化"に注意を促す」という点を市民にも向けたメッセージにしたいということで、テレビ局関係者のみならず取材対象となる市民の方々にも信頼関係に基づく十分な意思疎通というものを考えていただきたいという談話にいたしました。

林委員
委員長からご説明がありましたように、私どもで今年の1月の2週目の13日からの週の夕方のニュース情報番組の全てをかなり詳しく精査してみました。委員長談話はこの調査に基づいております。1月13日の週は神奈川県の相模原で小学校5年生の女の子が行方不明になるという事件がありました。このような犯罪報道には、顔なし映像が使われることが多いので、この事件を事例に考えてみました。
お手元に1枚の紙をお配りしました。書かれているのは、女の子がまだ見つからなかった時の12日、13日に放送された近所の方のインタビューのコメントです。「1 早く無事に見つかってほしいです」、「2 無事に見つかってくれればいいなと思ってんだけど」、「3 一日も早く見つけてあげたいと思ってね」、「4 とにかく心配で、一日も早くっていう気持ちです」、「5 親御さんの気持ち、考えると、やっぱり、何て言っていいのか」。このコメントには、実は「顔出し」と「顔なし」があります。答えは、1番と5番が顏なしです。コメントだけ取り出しますと、なぜ顔なしだったのか、理由が分かりません。特に1番と2番のコメントはほとんど同じ意味なのに、1番を顔なしにしているということは、判断としてどうなのかなと思っています。
もう一つ、気づいたのは、顔を出してもいい方は、複数の局で同じようなコメントをして使われているんですね。ですから、顔を出していいという方に取材が集中してしまう、そういう現象も起こるわけです。
さらに、夕方のニュース情報番組全体の調査で明らかになったことは、目玉として、だいたい20分ぐらいの調査報道というんですか、独自取材のニュースがあります。たとえば、リフォーム・トラブルとか結婚詐欺とかが、その週にはありました。こういう話題では、なかなか顔を出してくださる方がいないというのは分かりますが、この類のニュースですと全編、ほぼ全員に最初から最後までボカシがかかっている例が散見されました。顔の部分に赤や黄色の風船がバーッと飛んでいるボカシの画面を見ると(笑)、ちょっと気持ち悪い気がします。好奇心をそそられるテーマでもありますが、報道の責任とのバランスを考えてほしい。
以上、夕方のニュースを素材に、テレビの信頼と報道のあり方について問題提起したいと思いました。

名古屋のテレビ各局の発言
A社 取材を受ける人にとってみると、顔を出して発言していい人もいるし、顔はできれば出してほしくないけれども質問には答えてもいい人、いろんなケースがあるということです。その都度いろんなケースがあるということですから、その辺は記者の力量でもあり、制約された時間の中でどこまで頑張って取材するかということにもなってくるかと思うんですけれども、現場で日々いろいろ悩みながらやっているというのが現状かなと思います。
B社 日本の国民性みたいなところもあって、理由は分からないですけれども、コメントの内容如何に関わらず、顔を出したくないという人は出したくない。それと記者の誘導というか、最初の話の持って行き方ですね。多分、若い記者はかなり控えめに「まあ顔なしでもいいですけど」と言うようなことがあるかもしれません。それは、僕らの教育の行き届かないところだと思うんですけれども、基本的にはそういうのを説得して、顔出しでコメントを取る指導はしているつもりです。ただ、顔は勘弁してと言う人ほど、またいいコメントを言っている場合もあるし(笑)、その辺なかなか難しいかなと私自身は思います。
C社 常々気になっていたことでもありましたので、弊社内でニュース部門の記者とカメラマンがどういう認識でいるのかアンケート調査を行いました。やはり以前に比べて顔出しを嫌がる人が増えている、つまり、10年、20年前に比べると、「顔は出さないでほしい」と言われる可能性が高くなっていると感じている者が多いということが読み取れました。その理由はなかなか難しいんですけれども、やはり、インターネットやSNSの発達によって、自分の画像が思わぬところで拡散するのではないかというようなことへの懸念が一つあるのではないかと。もう一つは、昔に比べるとメディアを見る目が厳しくなっている、冷たいというか理解が少ないというか、漠とした感触ですけれども持っております。そういったことがメディアに自分の顔を晒すことへの抵抗感として表れているのではないかなという気もしております。
今年上半期の弊社のニュース映像2,647本のうち、46本顔なしインタビューがありました。一般の住民の方を顔なしで撮ったものが46本のうち15本ありまして、その15本中12本は明確に顔出しを申し込んだにもかかわらず、拒まれたものでした。また2本はいずれも殺人事件に関する近所の住民のインタビューで、やむなく顔切りにしたということで、安易に顏なしが行われたというケースは感じられませんでした。
D社 御嶽山の噴火で、私たちは遺族の方、周りの方々の取材に入りますが、まず誰も受けてくれない。「遺族の気持ちを考えろ」とか「何を聞きたいんだ」みたいな形でだいたい追い払われる。いろいろ聞いていくと、話していただける方はいるんですが、そういう方はいろんなリスクを負われることになる。顔出しで話した場合に、「あの人は顔を出してどんなふうにしゃべった」とか「こういうことをしゃべった」とか近所で言われる可能性があるかもしれないですし、ネットなどに悪意を持って使われるケースもあるのではないかと。「顔は出せないけれども、お話します」と言われれば、その前提で取材をする。聞けることがあるのであれば、取材しないよりも伝えることのほうに意味があるのではないかと考えるケースが非常に多く、悩みながら、それでも声を拾いたいと努力をしています。
E社 「宗教団体会員からの申立て」は、非常に踏み込んだ内容の番組だと勇気に感嘆したんですね。もちろん安易なボカシは如何なものかというものに関しては、私もそのとおりだと思いますが、委員会の判断はボカシが甘いんじゃないかと逆に出ていますよね、そういうことがあると、特にニュースなどの現場判断においては、「ちょっと危ないから、もうこれはボカシをかけちゃおうぜ」ということになりかねないとも感じるんです。そこは矛盾というのか難しい問題だと感じております。
G社 社内のガイドラインは「取材相手の権利保護が必要と判断される場合を除き、顔出しを基本とする」という形で明記し、徹底してやるよう指導しているつもりですが、実際には本当に吟味しなければいけないケースがかなりあります。
例えば今回の御嶽山の噴火の場合で言いますと、原則として取材相手の権利保護については本来あまり考える必要はないケースだとは思うのですが、でも、放送に出ている部分では顔出しになっていないケースがあります。一つ