2020年 5月26日
通常業務への復帰についてのお知らせ
BPOは、今回の新型コロナウイルス感染拡大に関する政府の緊急事態宣言の解除を受け、6月1日から通常業務に復帰する予定です。視聴者電話の受け付けは6月第2週から再開する予定です。
2020年 5月26日
BPOは、今回の新型コロナウイルス感染拡大に関する政府の緊急事態宣言の解除を受け、6月1日から通常業務に復帰する予定です。視聴者電話の受け付けは6月第2週から再開する予定です。
放送委人権委員会の「中部地区意見交換会」が11月26日に名古屋市で開催された。BPOからは濱田理事長、放送人権委員会の奥委員長ら委員9名が出席。また、9県の民放及びNHK放送局からおよそ70名が参加した。意見交換会は午後1時30分から午後5時まで行われた。
前半は人権委員会から最近の決定についての説明、後半は事前のアンケートを元に「実名匿名問題」や「モザイク・ボカシ」の問題などについて意見を交換した。
〇冒頭濱田理事長からBPOの役割について説明があった。
<濱田理事長>
社会の中では色々な問題が起きるが、それをお上の手を借りるのではなく、自分たちの手で解決するというBPOの仕組みは、市民社会における問題解決の望ましいモデル。
自主規制・自律を行う放送人を応援するのが第三者機関としてのBPO。委員会決定をマニュアル化するのではなく、自分たちの頭で考え、議論をすることが一番大切。決定は結論だけが報道されることが多いが、大事なことは結論に至るまでの議論。その過程も含めて決定文を読み、番組作りに当たって何が大切なのかを考えていただきたい。
放送人はある意味特権を持った存在。ネット時代で表現が非常に軽くなっているといわれる中、「事実に真摯に向き合う姿勢」「議論や思考の深み」「全体感を持った視点」「多様性に対するリスペクト」などを大切にし、緊張感を持って表現行為の手本に是非なってもらいたい。緊張感を持つとことは、しんどいことだが、それを持つことが放送に携わる者の誇りであり、矜持。それが放送の自由と自律を支える。第三者の目を借りて、この緊張感を保つ機会を持つところにBPOの根源的な役割があると思う。
〇直近の放送人権委員会の決定についての報告。
まず「芸能ニュースに対する申立て」についてVTR視聴後、廣田委員が決定について解説し、曽我部代行が一部補足した。
<廣田委員>
申立人は事務所からのパワハラを理由にした契約解除に対して地位保全の仮処分を申し立て、その主張が認められた。にもかかかわらず放送は事務所側の主張を強調して取り上げ、自分の名誉・信用が著しく毀損したと主張した。
番組は視聴者に対してパワハラがあったと思わせ、申立人の社会的評価を低下させたと委員会は判断した。しかし、本件は放送倫理上の問題として取り上げた方が、今後の正確な放送と放送倫理の高揚への寄与のために有益であると判断し、放送倫理上の問題の有無を審理した。
本件は仮処分決定に言及しなかったことによって、公平・公正性、正確性を欠き、放送倫理上の問題がある。また使用された過去の映像についても、パワハラが実際に存在したという印象を強める効果を持ち、これも放送倫理上の問題があると判断した。
芸能情報番組の中で、芸能人は多少不正確な放送でも甘受すべきだという考えもあるが、この件は申立人の芸能人生命に関わるとして、法的措置にまで訴えていることからすれば、より慎重な配慮が必要だった。
情報番組やバラエティ番組には、表現の自由の枠を広げるという役割もある。息苦しい世の中になり大変だと思うが、細部にまで注意を払って、これまでになかった番組を作っていただきたい。
<曽我部代行>
今回は、一つの事案を人権侵害の問題として扱うのか、放送倫理上の問題として扱うのかについて、事案全体を見て委員会が判断できるということを定式化した。今後はこのように事案全体を見て判断することになる。今回一般論的に示した点は重要な判断だと思う。
〇続いて「情報公開請求に基づく報道に対する申し立て」についてVTR視聴後、紙谷委員から解説があり、二関委員、奥委員長からから補足説明があった。
<紙谷委員>
大学の男性教員が、学生に対して侮辱的な発言をしたことが、アカデミックハラスメントと認定され、訓告になった。NHKは情報公開請求で入手した資料を元にこれをニュースにした。申立人は、ハラスメントの認定と措置が不当なものであり、そもそもの判断がが間違っていた。放送局はもっと調べて正確な放送をすべきで、放送の結果申立人は教育研究活動が困難な状況に置かれていると主張した。
放送では秋田にある国公立大学のどこかの職員ということで、学部学科、職位、肩書きは一切出ていない。NHKは個別の具体的な名前を知らなかった。
大学関係者にはこれが申立人であるということは容易に特定出来たと思われるが、放送では今まで知られていた情報に追加するような新しい情報はなく、この番組によって申立人の社会的評価が追加的に下がっている訳ではないと判断した。
大学外の人については、申立人自身も、外部に新しく情報が伝わって自分の評価が低くなったということは主張していない。
こうしたことから委員会としては、この放送が申立人について社会的評価を新たに低下させるものではなく、名誉棄損に当たらないと結論づけた。
次に放送倫理上の問題について。申立人は訓告の原因となった出来事は虚偽であり、その情報を元にした放送の問題は大きいと主張したが、放送局は情報公開請求で入手した情報に加え、訓告について判断変更や取り消しがなかったかなど追加の取材もしていた。対立する見方がある場合には、双方に取材すべきであるが、今回は名前が特定出来ていなかったのでそれはできなかった。放送局は基本的な事実関係の確認、新しい情報を求めるための追加取材を行い、単に情報公開で得たものを流している訳ではなく、正確性、真実に迫る努力などの観点に照らして、放送倫理上の問題もないと判断した。
<二関委員>
特定性の点につき説明したい。委員会としては一般視聴者は確かに分からないと判断したが、放送で取り上げられた場合、その人の生活圏の中で知っている人たちからどう見られ、受け止められるかが大事なので、一般の人が判断特定出来るかというだけが問題になるわけではない。ここは非常に大事なところだと思うので、改めて強調したい。
<奥委員長>
情報公開請求で得た情報によって、どうニュースを作るかという問題についてこの委員会が扱った初めての事例。
社会を良くしていくために情報公開請求はどんどん使う必要があり、報道に役立てるべきだが、出てきた情報を右から左に流すだけで良いわけではない。決定ではこの点についても指摘していることを補足したい。
〇続いて最近の人権委員会の事例について奥委員長から報告があった。
<奥委員長>
放送局、報道機関が人権という問題とどう立ち向かい、付き合うのかますます難しい問題になってきているということを指摘したい。
人権は進化する。かつては人権として把握されていなかったものが、ある時期になると人権という形で社会的に構築されてくる。
かつてはセクハラ、パワハラという言葉自体無かったし、昔は放送局の現場などでは今言うパワハラというようなことは日常茶飯事だったかもしれないが、人権問題として浮上することは無かった。それがある時期から浮上してきている。
一方でメディア・報道機関はそういう新しい人権を、いわば作り出して行くという立場でもある。そこが非常に両義的なところ。
例えば性的マイノリティの人たちの人権や権利問題もかつては埋もれていた。それを見出して世の中に広め、人権を進化させていくという役割は、やはりメディアにある。そういう両義的な存在としてのメディアは、すごく重要であると同時にますます難しくなってきている。
皆さんが直面するのは日々新しいこと。マニュアルがある訳ではない。放送倫理とは一体何なのか。見事に答える人はなかなかいない。私ももちろん分からない。しかし重要なのは、職業人としてここまで行ってはいけない。これはまずいというその感覚、その理性・感性。それを日々しっかり磨いていただきたい。皆さんは大変難しい仕事を担っているということを、改めて強調しておきたい。
〇後半は、BPOの見解を示すのではなく、事前のアンケートで関心の高かった「実名匿名報道」と「映りこみやモザイク」の問題について意見を交換した。
まず、「実名・匿名」問題について、曽我部代行から問題提起があった。
<曽我部委員長代行>
(参考資料)
新聞研究2019年11月(819)号16頁
曽我部「報道界挙げて社会と対話を ネット時代の被害者報道と実名報道原則」(コピーを配布)
曽我部「『実名報道』原則の再構築に向けて『論拠』と報道被害への対応を明確に」Journalism317号(2016年)83頁
・http://hdl.handle.net/2433/216654
実名・匿名の問題は、放送局も含めて報道機関が改めてあり方を考える時期に来ている。考えた結果が実名原則維持だとしても、社会に向けてその理由を納得いく形で説明することが強く求められている。
きょうはルールを提案するのではなく、考えるためのきっかけ作りの話をしたい。
放送の自由、報道の自由、表現の自由は非常に重要なもので、国は容易に規制してはいけない。ただ、これは、報道・放送の自由に限界がない、無限界に自由があるということを意味しない。
最近被害者の実名報道が話題になることが多いが、この話は今に始まったものではなく、被害者支援は90年代頃から重要性が主張され、制度整備が進んできた。
「犯罪被害者等基本法」が2004年に制定され、警察や検察庁における被害者支援の体制も徐々に手厚いものになってきている。かつての刑事訴訟の考え方では、被害者には地位がなかった。刑事事件は、「国家が加害者を処罰する・・以上」と被害者が出る幕はなかったが今は様変わりしている。
被害者の痛みや苦痛の学問的解明も進んだ。被害者の痛みは多様で、時間によって変わるとも言われる。その中で、報道によってもたらされる痛みが少なくないということも明らかにされてきている。
インターネットの普及によって、被害が増幅することもある。またメディアが酷い取材、傍若無人な振る舞いをしたとツイッターに書かれ、バッシングされることもある。報道被害を受けた人が酷い仕打ちを受けたと広がることもある。
その一方、メディア側の「実名報道原則」は揺らいでいない。報道被害に対する問題意識の高まりとは無縁に実名報道原則は続いており、今臨界点に達しているのではないか。
もちろん報道側にも全く問題意識がなかったわけではなく、新聞協会では、『実名と報道』という冊子を作りその立場を示している。
※日本新聞協会『実名と報道』(2006年)
・https://www.pressnet.or.jp/publication/book/pdf/jitsumei.pdf
ここでは、警察が被害者や加害者、被疑者の名前を出すか出さないかという発表段階と、メディアが報道するかどうかの報道段階の2つの段階を区別している。
発表段階は、警察は基本的には全て実名で発表すべきだという立場。報道段階では、原則として実名で報道するものの、ケースバイケースで報道機関が責任を持って実名か匿名かを判断するという立場を示している。
その論拠が詳細に書かれているが、今問われているのはこれらの論拠に説得力があるのかどうかということ。
論拠の一つは取材を深める起点となるという話。実名がなければそれ以上取材ができないということを論拠としている。
メディアスクラムについては、各社とも、うちは節度を持ってやっているので問題ない言われるかもしれないが、1社1社に節度はあっても、何社も来られたら、相手方としてはどうなのか。自社が節度を持ってやっているかどうかとは別に、メディア全体で対処しないといけない問題。
次に、実名発表の判断権を警察が持つことが問題だという考え方について。「犯罪被害者等基本計画に関する 声明」が2005年に出されている(判断ガイドP449)。閣議決定された犯罪被害者等基本計画の中に、犯罪被害者の氏名については警察がプライバシー保護と公表の公益性を勘案して適切に判断するいう一節がある。
警察に判断権を委ねる形になったことに対して、メディアからは強い批判があった。当時のBRCもそういう立場で批判をしている。
しかし、警察も個人情報保護法に拘束されているので、無条件に実名を発表しろというのは現実的ではない。被害者の実名を発表するということは、警察側から見れば、自分の持っている個人情報を無条件で外の第三者に提供するということ。個人情報保護法の考え方からすると、到底説明できない措置で、警察の一定の判断が入るのは、個人情報保護法というものがある以上、やむを得ないのではないか。
ただ、プライバシー保護と公益性との間で適切な判断は必要。警察が必要以上に発表しないとなれば、メディア側から適正な判断を促すことが求められる。
次に実名報道の論拠。「実名による報道は訴求力がある」という主張。もちろん、一般的にはそう言えるが、どうしても匿名にして欲しいと言っている人に対して、実名のほうが訴求力があるから実名で行きますと説明できるのか。
報道機関の方々は、「結局、報道被害を受けているのはネットで叩かれているからだ」と言う。その裏には、報道の責任ではないという含みがあるようだが、そう言えるのか。
自社は節度を持って取材しているから良いという主張。あるいは、叩かれるのはネットのせいで自社のせいではないという、責任範囲を狭く捉える発想が透けて見える。そこは、もう少し大きな視点で考えることが必要だと思う。
実名匿名を判断するルールそのものは皆さんでお考えいただくことだと思うので、アプローチについて話したい。
1つは、「論拠を明確にすべき」ということ。例えば、神戸で起きた学校の教師のいじめの事件は匿名で報道されているが、「実名報道原則」の論拠からして何故匿名なのかという疑問は、視聴者から当然出てくる。これはどう説明するのか。神戸の事件は匿名だけど、京アニの被害者は実名ですと、これはどう整合的に説明できるのか。それに答えていく必要がある。
次に、ルールを明確化すべきということ。ルールを作ると何が良いか。判断の基準になるというのはもちろんだが、社会に向けての説明のツールにもなるわけで、透明性、説明責任を担保する意味からもルールは必要。あらゆるケースを当てはめれば機械的に答えが出るというようなルール作りは無理にしても、ある程度指針となるようなものを明文化して公にすることが望ましい。
また、ルールが破られた場合に担保するような仕組みや、被害者側の声や苦情に対応できるような仕組みや手続きを設けることも信頼を得る所以ではないか。
個々の社の取り組みだけではなく、報道界をあげて取り組みをすることが必要。こうした取り組みを通じて、社会の報道に対する信頼を繋ぎとめることが求められているのではないかと思う。
〇この後、出席者と委員の間で意見交換が行われた。
<愛知県の放送局>。
メディアの側も社会との対話、説明責任が求められていると実感している。取材の現場で人権についての抗議を受けたり、企業からも放送内容に対して激しい抗議を受けることがある。メディア環境が変わってきて、人権も進化していると実感している。
実名報道については、原則実名だとは思うが、一方で望まない人への判断をどうするのか考えさせられるケースは、京アニや座間の事件など色々あった。個人的なには曽我部委員の言われるようにメディアも説明責任が求められていると感じる。
<愛知県の放送局>
京アニ事件の被害者の氏名公表に関して、新聞各社が自社の考えを記事として掲載した。メディア側から実名報道に対する考え方を外に出すのは珍しいケースだった。
メディア側から発言すると、どちらかと言えば批判的な目で評価され、視聴者と共通の意識を持つことができない。どうせ放送局の方便だろうと思われてしまう。
個人情報が色々な形で収集され、データとして活用されていく中で、新たなリテラシーが求められるのではないか。これは、もちろん、放送局からのアプローチもだけでなく、ネットを含めた広く社会全体のアプローチすることが大きな課題になると思う。
<國森委員>
原則としては、公権力が名前も含めた情報を持つのではなくて、メディアのほうが情報を得た上で報道をどうするかは、各々の判断に基づいてするべきだと思う。
ただし、ネットの普及など社会が変わってきている中で、視聴者や一般市民のメディアに対する信頼が少し失われている部分もあると感じている。
名前も含めた公権力からの情報をどれだけ把握する権利がメディアにあるのかを考えないといけない。時代に合わせた透明性や説明責任を見せることが必要になってくると思う。
代表取材とか、苦情申立ての窓口など、色々なやり方があるとは思うが、事件や災害で命を失った方の遺族や、実際に報道被害に遭われた関係者の方々の意見も交えながら、放送界、メディア業界としての再構築のあり方を考える、そんなきっかけができればいい。
<愛知県の放送局>
京アニの実名報道については、社内や系列でも議論した。
原則実名ということを改めて確認はしたものの、それを貫けない現場の事情もある。一方で、世間に理解されないからといって匿名社会で本当に良いのか悩ましい。
我々の世代は原則実名と言っていれば済んだが、今は現場に行くと、人の不幸を飯の種にしているのか、このマスコミどもめ、などと言われ、若い記者は悩んでいる。
わが社では京アニ事件から1ヶ月という番組を放送し、実名報道についても取り上げた。放送後、視聴者から「言いたいことはわかったが、京アニの被害者を実名で出す以前に、話題になっていたあおり運転の容疑者のモザイクをとっとと外せ。」と言われて大変驚いた。
我々の考える人権と、世間の人達の意識が乖離してしまっているのではないか。そこを丁寧にやらないと、犯罪者はとっとと顔を晒せというような、過激な意見が広がりかねない。この問題については議論を進めながら色々な形で、実名報道の大切さを訴えて行きたい。
<奥委員長>
先ほど、曽我部委員が、警察の持っている個人情報を無条件で第三者に提供するのは個人情報保護法の問題で難しいといわれたが、これを認めてしまうと、実名にするか匿名にするかを警察が判断することになる。すると、報道機関が持っている役割が十分果たせるのかということが問題になる。
一方でメディアの側も考え方を再構築して市民の理解を得なければならない状況は確かにある。メディアスクラムを起さないようにするかとか、遺族に対しては、何日間かは直接取材しないとか、そういうことを報道機関の中で決める必要はある。しかし、実名か匿名かを判断するのは警察だと認めることはできない。
<廣田委員>
私も奥委員長と同様に考える。日弁連も、実名を報道するか否かは、警察から情報の提供を受けたマスメディアが自らの責任において自主的・自律的に決定すべき事柄であって、警察の判断で匿名発表を行うことは是認できないとの意見である。
大変だと思うが、メディアにはこの状況下でも実名報道の原則を貫いて欲しい。表現の自由は社会の有り様と直結している。どういう社会が望ましい社会なのか考えた時に、何もかもが匿名になってしまうのではなく、名前を出して物が言えるような社会でないといけない。どうか踏ん張って、説明をして、透明性を持って、実名報道を貫いていただきたい。
説明しても放送局の方便だと言われるということだが、社内での悩みを外に出したらどうか。皆さんは、ジャーナリストのプロとして、悩みは外に出さないという発想で来ていると思うが、今社内の議論も外に出して、真剣に取り組んで実名で報じるということを外に出して頂きたい。
<水野委員>
私が大学で接する学生たちに聞いた。京アニの実名・匿名の問題で遺族が匿名を求めたり、警察が実名の発表を躊躇したり、報道機関側が実名を報道することについてどう思うかと。9割程度が匿名でいいと答えた。警察がその判断権を持つのも当然だという意見。メディアの理屈と、普通の人たちの考え方は噛み合っていないと感じる。しかし、解決策のないまま放置すれば、その開きはさらに拡大する。説明の仕方を工夫する必要があるのではないか。
「知る権利」を実名報道の根拠としているが、これは理解しにくい。亡くなった方の実名を知りたいとは思わない。それを知る権利を主張する気もないと言われる。それに対して例えばこのように言ってみたらどうか。報道機関にも悲しむ権利があって、あなた方はそうじゃないかもしれないけど、一般視聴者の中には、実名を知ることによって悲しみたい人もいると。このほうに、少し感情を入れたような理屈で一般視聴者に近い形の理屈付けになるのではないか。
記録を残すために実名が必要だという理屈もあるが、これも突き刺さりにくい。単に記録を残すためではなくて、思い出す権利があると言ったらどうか。ある一定期間経ったあとに思い出して悼むには、実名が必要でしょうと。それは必ずしも遺族だけじゃなくて、関係者、友人、あるいは、その時には全く無関係だった人でも、数年後には当事者にかかわる立場になるかもしれない。その人たちの思い出す権利や悼む権利、悲しむ権利、それらを代表して、自分たちは報道していると。
今までの報道機関の理屈だけを繰り返していては、現状はなかなか改善には向かないのではないか。
<二関委員>
匿名と実名の問題は、情報の非対称性の問題。国家権力や企業は多くの情報を持っていて、一般市民だけが知らされていない。一方で自分の情報は知られているという、そうい立場に置かれる。自分の情報をコントロールする権利が本来のプライバシーの現代的意味だが逆転が進んでいる。情報を出すか出さないかを権力が決めるのはおかしい。
〇続けて「映像の映り込み・ボカシ」について意見を交わした。
<愛知県の放送局>
突然走ってきた男が車のフロントガラスを叩き割り、後日逮捕された。提供されたドライブレコーダーの映像を使う際に男の顔にモザイクをかける局とかけない局があった。
外部から提供される映像については信憑性の問題があるが、この場合には問題ないと判断できた。では果たしてモザイクをかけるべきなのかどうかと。また、例えば立て籠もりの取材で、犯人確保で出て来た時にモザイクをかけるのは多分現実的ではないと思う。
<石川県の放送局>
判断に迷った事例があった。交通事故で、1人がなくなり1人がけがをして救急車で運ばれた。ケガ人が搬送されたシーンを取材して放送した。映像は救急隊員が主で、ストレッチャーが少し映っているような程度だったが、亡くなった方のご遺族から、悲しい映像を流すのはいかがなものかという強い抗議があった。
事故のニュースをを放送するのは、こういう事故を起こしてほしくはないという使命感がある。ご遺族にはいろいろとご説明をして理解は得たが、どこまで事故の悲惨さを伝えていくか悩むところ。
<愛知県の放送局>
広めの映像や、本来の趣旨とは関係ない人が画面に映り込んでいる時にモザイクをかけるケースが増えている。ある程度の配慮は必要だが、どこまで配慮しなくてはならないのか。 人権は進化するというお話もあったが、かつてはそういうことはなかった。面倒臭いことにならないためにやっておこうと放送局の方が自主規制してしまっているのならば、我々の仕事として今後問題を感じる。過去の映像を使用する場合もあるが、過去の映像にも遡ってそういうことを対応すべきかなど。困惑している。
<市川委員長代行>
モザイクやボカシの問題は、先程の実名匿名問題と通底する。法律的に言うとプライバシー権、肖像権の問題。
人権委員会の判断ガイドに沿って言うと、プラバイシーの権利は、69ページ。「本人が、自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考える権利」。肖像権については71ページ「何人もその承諾なしにみだりにその容貌肢体を撮影されたり、撮影された肖像写真や映像を公表されない権利」と記されている。
両方とも「みだりに」という言葉が入っている。色々な事情を含めて評価した上で、これが「みだり」なのどうか、同意のあるなしだけではなく、色々な事情を評価した上で権利侵害になるのかを判断する。
BPOの考え方を一般化するのは難しいが、一つの参考としては、「顔なしインタビュー等についての要望」(444ページ)ここでは、安易な顔なしインタビューについて、理由なく、ボカシを入れたり、顔を切ってしまうやり方はよくない。基本的には報道は真実性を担保するために、ありのままに全てを映すのが原則。したがって、ボカシや、匿名性についても行き過ぎた社会の匿名化に注意を促している。(145ページ)
ただ、一旦プライバシー保護が必要と判断した場合には、徹底して保護をする。モザイクをかけるのであれば、中途半端なモザイク、ボカシではない形にするべきという考え方。
先程の「みだりに」をどう評価するのか。一つの要素は同意の有無だが、撮っていいと明確に示されてなかったからといって権利侵害になるわけではない。しかし、明確な拒否があれば、その明確な拒否を乗り越えるだけの理由や公共性・公益性が必要になる。
その他に場所や状況の問題。公的な場所か、私的な領域か。その場所にいること自体が明らかになることが憚られるような特定の場所か、個人の秘匿性の高いような場所かどうか。さらに、何をしているところかということや時間の問題や。それに加えてテーマの公共性・公益性。こういったものを総合的に考えて、ここは隠す必要はないと判断すればそのまま映すべき。
映り込みについて。同意があったかどうかは明確ではないにしても、公道というオープンな場所で映りこむ場合。そこで映ったことによって何が明らかになるかというと、そこにその人がいたということしか分からない。その人にとっての不利益は大きくない。しかも通過する一瞬のこと。そう考えると、基本的にはその場面をいちいちモザイクをかけたり、ボカシを入れる必要はないのではないか。
一方、加害者や被疑者の場合についてはどうか。原則的には実名で顔出しだと思う。ただ軽微な犯罪の場合でも実名を出すのか。あるいは捕まって手錠をかけられて、引致されていくところをそのまま撮るのかということになると考えるべき点はある。
人権委員会の例でいえば「無許可スナック摘発報道への申立て」(判断ガイド253ページ)のケース。これは風営法違反で捕まった案件で、容疑者の顔や警察に連れていかれるところまで撮影され放送された。ちょっとやりすぎだという判断はあり得る。
被害者の場合も実名で顔出しが原則という基本は変わらないと私は考えている。最近は被害者の権利性が認識されるようになってきた。被害者のプライバシーや遺族の感情を何らかの形で保護するアプローチは必要だと思う。モザイクをかける必要があるかどうかについては、やはり事案による。例えば座間の事件などは殺された女性の遺族等のことを考えると、隠すのもやむを得なかったのではないか。具体的な事情を考えることが必要。
ネットとの関連について。ネットに上げると伝播しやすくなる。放送後、更に1ヶ月とか2ヶ月流れることになるとになると、放送だけの場合とは状況は違う。ネットに上げる場合の処理は、放送とは別に考える場面もあり得るのではないかと思う。
<城戸委員>
各局それぞれに映した理由があるはず。この映像を流すことに意味があると説明ができれば、映していいのではないかと思う。最近過敏になっている方が多い。例えば、街頭インタビューで後ろに映り込んでしまった人から抗議が来るというようなこともよく耳にする。それをぼかしている映像が多いが、それは歪な感じがする。
テレビは時代と共に変化していくもの。街頭インタビューでも、聞いている本人だけでなく、周りに映り込んでいる状況、場所や時間、こういう人たちが周りにいる中で聞いた意見だということも視聴者は受け取っている。受け手としては、周りに映り込んだ人たちも含めて伝えて欲しい事実ではないか。
今はあちこちに防犯カメラがあって、日々暮らしている中でも撮られているかもしれないと、一般の方々も映り込むことに対しての感覚は持っているはず。たまたま映り込んで抗議してやろうという人も中にはいるかもしれないが。カメラが多くある時代の中でどう振る舞うかということも、世の中全体が感覚として持っていて然るべきという気もする。
ある局の方は、只今撮影していますという看板を掲げながら取材をすると言われていた。もうそれが常識なのかもしれないが、気をつけていればそんなに萎縮する必要はないのではないか。抗議があったときに説明ができるようにしておけばいい。
<愛知県の放送局>
モザイクをかけるケースが増えれば増えるほど、逆になぜモザイクをかけないのかというクレームが増える。撮られたくない方たちを映してしまった時は、そのシーンは一切使わないが、全員に許諾がもらえるものではない。例えば渋谷のハロウィンや、湘南の海開きなどの映像にモザイクをかければ、画面の大半がモザイクだらけの映像になる。
もちろん嫌がる方は撮らないし、カメラがあることを明らかにするなどケアはしているが、その他の方はまあ受忍限度の範囲内でとして考えたい。
〇ネットとの関連について
<愛知県の放送局>
誤った情報を流してしまった時など、ネットからも消してくださいと言われる。自社の媒体を消したところで、ネットで拡散したものは消しきれない。誤っていなくても、マイナスの情報は永遠にネット上に残り続ける。そのインパクトの大きさと、報道側の言う実名報道の論拠との間のギャップが、今どんどん広がっていることが一端にあるのではないか。
<二関委員>
放送したものがネットに転載されるケース。これは難しい問題。誤った情報ということで、名誉棄損の問題として考えると、因果関係の範囲のことについての責任という話になるが、消せるとこまで消してもそれ以上残ってしまうことは、ある意味仕方がない。
<曽我部代行>
ネットとの関連で言うと、人権委員会で取り扱った案件で「大津いじめ事件報道に対する申立て」(判断ガイド277ページ)がある。
静止画がネットに載せられたこと自体は著作権侵害の行為なで、放送局は何ら関知していない。この点では放送局にはプラバイシー侵害の責任は問えない。名誉棄損についても同様で、これが標準的な法律論としての考え方。ただ法律論を離れて考えると、元々は放送に原因があるわけで、法的責任はないので知りませんと言えるのかどうか。できる範囲で削除等の協力、努力はするのが望ましい姿勢だと思う。
<奥委員長>
この案件は、テレビではわからないが、少年の名前が画面の端に出ていた。静止画にして拡大すると、実名が分かってしまった。
少年の名前にボカシをかけていれば問題がなかったわけで、テレビで見たら分からなかったといって、それをスルーたのはネット社会の報道の在り方としておかしいのでないかと指摘した。ネット時代なので、そういうことも考えながらテレビも作らなければならない時代になっている。違法アップロードなどネットに流れるものに、テレビ局がいちいち関与はできないけれども、そういう情報の伝わり方についても、頭に入れながら番組を作っていくっていくことが必要な時代だろうということを申し上げたい。
以上
青少年委員会は、「視聴者と放送事業者を結ぶ回路としての機能」を果たすための活動の一環として、各地で様々な形の意見交換会を開催しています。今回は、2月15日、14時から17時、東京で学校の先生方と青少年委員会委員との意見交換会を開催しました。このような形の意見交換会は一昨年、昨年に引き続いて3回目の開催となりました。
BPOからは、 榊原洋一 青少年委員会委員長、緑川由香 副委員長、菅原ますみ 委員、吉永みち子 委員が参加しました。先生方は、東京、神奈川、北海道、茨城、岐阜、京都、沖縄の小学校、中学校、特別支援学校の先生10人が参加しました。
冒頭、榊原委員長より、次のような挨拶がありました。
〇榊原委員長
BPOの青少年員会は、青少年のモニターという制度を持っており、中学校・高校の生徒30名くらいの方に、1年間にわたって、例えば最近見たテレビドラマで何が良かったかというようなテーマで報告をもらい、そこから今の青少年の方が、どのようにテレビを見ているかということを常に情報を入れて、私たちもリフレッシュしている。私たちの見方と青少年の見方が違うのではないかということで、とても貴重な制度である。
今回は、それを補強する意味で、私たちよりいつも青少年に接している皆様のご意見を伺うことによって、現代の児童・生徒たちがどのようにテレビを見ているにか、インターネットに接しているのか、皆様とご見解、ご経験を共有させていただきたい。忌憚のないご意見、コメント、あるいはBPOへのご意見、ご注文も併せてお聞かせいただきたい。
これまでの意見交換会では、主にテレビが子どもたちに及ぼす影響について議論してきましたが、今回は、子どものメディア利用という意味では、今やテレビ以上に大きな存在となっているインターネット、特にスマホの拡大がどのように子どもたちに影響を与えているか議論しました。まず、今、子どもたちがどのくらい、どのようにネット、スマホを使っているのか、実態を報告してもらいました。
〇先生
本校は、81人しかいない学校だが、そのうち49%くらいの子どもが、自分のスマートフォン、タブレット、あるいはゲーム機を利用して、常にインターネットにつながるものを持っている状態である。保護者の端末まで入れると、9割以上の子どもが普段からインターネットを利用している。
利用状況としては、学校ではユーチューブを使って情報を発信している。例えば授業参観の時はQRコードをつけて、そこにアクセスするとユーチューブで、例えば子どもたちが作品を作っている途中の映像が見られたり、あと体育館もQRコードだらけになっていて、跳び箱とか縄跳びなどの飛び方を動画で見せている。こうやって使うと学習道具になるということをアピールしているところである。普段の自習の中でも、ユーチューブのまとめ動画で調べましたとか、ネットに載っている情報から教科書にないものを探してまとめている子どももいる。しかし、それは一部で、大体の子どもはオンラインゲームや最近はLINEを多く利用している。そこでは、トラブルも起きている。悪口を言っているような状況もある。意味がよくわからないが、オンラインゲームでボイスチャットを使って、ゲームをするのではなく、会話をしながら宿題をしている子どももいる。テレビ電話の代わりに使っている。
家庭でのルールを聞いてみると、1日何時間です、と答える保護者に対して、子どもたちはその倍以上使っている。見えない時間帯に使っているのもあるのかなと感じている。
特に今、気になっているのが、オンラインゲーム上でボイスチャットでけんかをあおるような言葉使いをしていたり、親が寝てから子どもが起きだして、親の寝ているところからスマートフォンを持ってきてゲームをやっている子もいるようだ。そういった子が夜中から朝方までゲームをやって、一応登校してくるが、眠い状態で授業を受けていて寝ている子もいる。
新聞報道もされたが、1日6時間以上ゲームをやっている子どももいるみたいで、寝不足の子がいらいらしているような状況もあって、クラス内でけんかが起きている。利用時間の多い学年の子はけんかが多いという結果や、テストでも平均点より下の子が多くなっている状況もあるので、現在は家庭に利用状況についてちゃんと把握してほしいこと、ルールをしっかり持ってほしいことを呼び掛けているところである。
〇先生
今回の意見交換会に参加するにあたって、子どもたちにアンケートを取ってみたが、休みの日には、大体高学年は9割くらい、4時間以上インターネットを使っているという実態があった。そのほとんどが、ユーチューブとオンラインゲームであった。
本校にも不登校の子どもがいたが、その子は学校には来ないけれども、オンラインゲーム上で「いたよ」というのを、先生が子どもたちから聞くみたいな感じであった。その子はのめりこみすぎて、1週間ほど入院してゲームから離れる時間を取って、その後、戻ってきた後は午後から登校する形で、いわゆるインターネット依存であった。
低学年の子どもたちも、テレビを見るよりも、インターネットでアマゾンプライムを見たり、オンラインゲームをダウンロードしてやっている時間のほうが長い。また、自分でTikTokなどに投稿している子どもも3割くらいいたり、教員が把握していないところで子どもたちはいろいろな知識をつけていることが、今、学校でも話題になっている。ただ、周りに大きな都市がないので、ユーチューブなどで子どもたちがいろいろな視野を広げたり、刺激を受けたりという点で、いい点もあるのかなと思っている。しかし、その動画を見て、危険性がわからないまま、「良い子はまねしないでね」というのが、何かネタのように子どもたちは感じていて、それをやったら学校の電気がショートしてしまったみたいなこともあったので、本当に教員もちゃんとそういうところは見ていかなければいけないと思う。
〇先生
今の中学校では、もう小学校6年生からスマホを持たせている家庭が半分くらいある。保護者に聞いてみると、やはり持たせたくないが、子どもたちが保護者のほうに、みんな持っているからという、「みんな」という合言葉を使い始めていて、実際は半分くらいだったものを、大きく盛って、LINEのグループに入らないと仲間外れになるから買ってもらわないと困ると随分せがんだようだ。しょうがなく買ったという保護者の方は、厳しくルールを決めているという印象であった。この1年、スマホ依存で大きなトラブルもなかったし、LINEのグループでのトラブルを指導したこともない。しかし、逆に、厳しくない保護者もいて、もっと前、小学校3、4年生から持たせている子どもについて、実は何をしているかもわかりませんという人もいる。使い方について本当にルールが決められないでいる。なかなか仕事が忙しくて子どもに目を向ける時間がなく、しょうがなく使わせているところから、どんどんほころびてしまうと、1日3時間、4時間使ってしまうという傾向になっている。やはり家庭で小学生の時からルールが守られていなかった子どもは、学力的にも随分厳しい状況があったりする。
〇先生
特別支援学校でも高等部になると、スマホやiPadは、普通に使っている。特に動画を見ている時間が多くなると、知的障害がある子どもたちも、すごく安定するようだ。学校の中でもiPadを授業の中でコミュニケーションを図るためのツールとして見せている。iPadを見るとイコールユーチューブ、ネットという感覚が頭の中にあるようだ。休み時間とか、着替える時間、片付ける時間が早く終わったときに、ユーチューブを見てもいいよというと、すごく喜んで見ている。自分がこれで落ち着くということで良い面として、ユーチューブは使われていると思う。そして、「1回の動画再生が終わったら次の子に替わろうね」とか「自分一人だけが見続けるのはなしにしましょう」などのルールは作っている。知的に障害があっても、そこのルールは、ちゃんと守ってくれている。
これらの実態報告を受けて、委員からは次のような意見が出されました。
〇吉永委員
私たちの時代では全く考えられない授業の形で、素晴らしく良い面もたくさんあるだろうと思いますが、デメリットの部分をどうしたらいいんだろうかということは、これから結構大きな課題になってくると思う。
長時間使うことによる身体的な影響では、目が悪くなるとか、音楽を聴き続けることによって難聴になるとか、また心的な影響では、集中力がなくなってくるとか、睡眠がちゃんととれなくなる。学校に行って眠くなってしまうとか、あるいは集中力がなくなってしまうことによる学力の低下、それによってついていけなくなるから、ますますそちらの世界に行ってしまうという、連鎖もあるのかなと思う。
実際に、自分も子どもを育ててみて、小学生くらいまでは何とかコントロールが効くが、中学の反抗期くらいになると、ルールを決めれば決めるほど反発するという悪い状況も生まれてきてしまう。逆に、今度は恐ろしくてルールが決められなくなってしまったり、ずっと監視しているわけにはいかないので、見ていないところで、それにすごい時間が費やされてしまう。やめよう、やめようと思っても、依存症というか、ゲームをやり続けると止まらなくなる。私も、以前、ゲームボーイにはまったことがあった。朝から晩まで。仕事があるのにやってしまう。大人になっていたから、自分で何とかしなければと思い、これは恐ろしいことだなと、自分で実感して、逆に実感したからセーブできたのだか…。ルールを決める前に、このことを何時間やっていると、目がこんなふうになるよとか、体がどうなってくるよとか、本人がこれをやっているとまずいぞと思えば、少し自分の中でブレーキができてくる。そういうものをどうしたらつくっていけるのかと思った。
また、何かの調査で驚いたのだが、8歳から11歳くらいでアカウントを持っている子どもが結構いる。23%とか24%くらいだった気がするが、本当にそういう実態なんだろうか。特に大阪の女の子が、行方不明になり、子どもだからそこら辺にいると思ったら、とんでもないところに行っちゃっている。何か中年のおじさんのところに行っている。それもスマホでつながっていた。ああいうことが実際に起こるんだなと驚いてしまった。そういうことも含めて、ネガティブな側面は、調査・研究して、それに対する対策を本当に考えていかなければならないフェーズに入っているのかなと感じた。
〇菅原委員
家庭の養育力というか、ユーチューブの使い方の親のルールつくりの問題だが、大きな子どもの24時間の中で、上手にメリハリのある、子どももうれしく使えるし、ほかの必要な勉強にも差しさわりのない使い方にはまっていくと、支障は出てこないと思うが、普通の家庭だと、上手にやれる親はそれをやれているが、うまくない親は、子どもの生活自体にまずコミットしていないし、上手に、メリハリをつけるように子どもたちを納得させるというスキルもない。つまり、親のメディアリテラシーが重要になってくると思う。
私たちは、NHKで、ゼロ歳から11歳までの子どもを対象に、1年に1回、子どもの視聴実態と、家庭の親の意識ということで、追跡調査をしてきたが、親がどのくらい意識して子どもをメディアに触れさせるか、時間のコントロールとか、いい番組を選ぶとか、という意識では、個人差がすごく大きいことが分かった。衝撃的だったのは、そのコントロールが上手な親は、ゼロ歳の時からそれができていて、11歳まで結構継続する。一方、最初から意識がなくて緩い親はそのまま行ってしまう。あるメディアを子どもに触れさせる、その時同時にスタートラインでの使わせる側のリテラシーというのがすごく大きい。子どもは、やはり単純なので、その枠に入ってしまえばそういうものだと、だんだん理解していくものだと思う。中学とか高校になると、子どももそのルールの中でもう10年近くやっているので、それをどうやって修正していくのかが大きな課題だと思う。
ゲームとか、スマホは後から出てきたが、先生方の目の前に現れる子どもたちは、すでに家庭で、使わせられ方、ルールの入れ方でキャリアがあって学校にやってくる。それを学校でどうやって調節していくかというところが、腕の振るいどころだろう。
次に、こうしたネット、スマホの拡大が、子どもたちにどんな影響を与えているのか、良い影響、悪い影響について聞きました。先生方からは次のような意見が出されました。
〇先生
良い影響と言っていいのかわからないが、今の子どもたちはICT(情報通信技術)機器に対しての抵抗感はほぼない。これから先の現場に入ってくるであろう、いろいろなコンピューターやAIだとか、プログラミングも次年度から学校教育で始まっていく中で、そういう子どもたちの実情を考えると、導入はしやすいだろう。インターネットにしてもスマホにしても、子どもたちは生まれた時からあるものなので、それが当たり前の社会の中で、良い影響も当然あると思うが、問題点としては、追いついていかないところである。日々、いろいろなことが変わっている中で、指導する側も子どもたちも追いついていけない現状があることは、すごく感じる。
インターネットは時間の縛りが全くないので、自分が好きな時に好きなようにアクセスできるところが最大の利点であり、最大の課題だと感じている。そこから生活のリズムが崩れたりだとか、時間で切れないところがあると思う。非常に気軽にネットワークに接続できる環境があるので、いい意味でも悪い意味でも、これからもっといろいろなことが出てくると、子どもたちを見ていて感じている。
〇先生
OECD学習到達度調査では、日本の子どもたちはデジタルスキルの活用がないという結果がはっきり出ている。スマホイコール動画、ゲーム、SNSみたいなイメージがすごく強く、それを授業の中では活用できていない。持っているスマホやICT機器は実はもっといろいろな使い方ができるということを子どもたちも教員も知らないのが、現状だろう。今の子どもたちは、デジタルの機器やツールは常にある状態で、そこから学びをどうしていくかを考えていかなければならない。学校側にまだまだスキルもなければ、環境もないのが現状なので、多くの教員は、勉強とデジタルは別というとらえ方が強いのが課題だと思う。いい部分をどう活用しながら子どもたちの学びにつなげていくか、それによって日本社会もイノベーションができると思う。
〇先生
OECDの調査では、日本人は特にゲームが好きなようで、インターネットをゲームとして使っているのは、ほぼトップのところにいるが、逆にスマホ、パソコン、インターネットなどが学校で使われているかというと、順位が逆転してしまう。効果があることはわかっているので、いかに学習に結び付けていくかが大きな課題だろう。ゲームも遊びのツールとしてはよく使っているが、それを踏まえたうえで、どう活用していくか考えていかなければならないだろう。
〇先生
保護者の方も、もしかしたら教員自身も、自分自身はスマホがうまく使えているという思い込みがあって、子どもも使えるだろうと思っているのかもしれない。本当はお母さんとか家の人もものすごくネットのオンラインゲームなどをしていて、自分は上手に使えているから、子どももきっと使えるだろうという甘い勘違いみたいなものが多いのではないかと思う。家の人も一応ルールを決めているが、ルールを決めても、家の人自身が守れていないというか、自分自身ものめりこんでいる傾向が強い。自分自身がスマホを触りたい衝動を抑制できないのに、子どもの衝動を抑制するのはたぶん無理だろうと感じている。子どもがスマホを欲しがっている親から学校にどんなルールを決めたらいいですか、聞きに来ることがある。トラブルが起こってから、学校ではどんな指導をしていますかとか、相手の子の使い方が悪かったのではないかという議論のすり替えみたいなことが起こるが、そもそも家庭でルールが守られていないので、保護者自身、教員自身スマホとのかかわり方を見直す必要があるのではないかと感じている。
先生からの意見を受けて、委員からは次のような発言がありました。
〇吉永委員
さきほどデジタルスキルがあまり育っていないという発言があったが、世界の子どもたちに比べて、日本人がネットを使う時間が少ないとは思わない。しかし、それがゲームということに集中しているという側面がある。おそらく学校に入る前、最初のスマホとかネットのつながりができてしまったのだろうが、これをメリットとして学習にうまく結びつけられないのはなぜだろうか。例えばコンテンツの問題なのか、あるいは規制とか縛りがあってうまくいかないという面もあるのだろうか。
この意見に対して、先生からは次のような発言がありました。
〇先生
コンテンツの問題については、学校の現場でネットを使おうとすると、多くの学校は、まず「総合的な学習」の時間で、調べ学習が思いつく。多くの学校でやっている調べ学習は、ネットで調べて、調べたことをまとめて発表するというものである。従来の「総合的な学習」の時間の探求的な内容は、自分の目で見たり、聞いたりして調べたことをまとめて発表するというものだったが、それがいとも簡単にネットで、あたかも自分が調べているみたいなものがうまく発表できてしまうところに傾きつつあるのかなと感じている。私は、数学担当だが、例えば、生徒一人一人が、学力が低い子どもだったら基本的な問題を解く時間、さらに少し発展的な問題を解く時間というふうに、ゆくゆくはAIが自動で判断することに取り組んでいるが、そのコンテンツがなかなかなく、あったとしても費用がかかる。今は、手作業でこちらで問題を作って、それをコンピューターに登録して、自分で解いていくことをしているが、教員側の作業量が大変になる。まだまだ教育にコンテンツを使うのは、調べ学習とか、動画を見て学習するというところで止まってしまうのではないかと思う。
さらに、委員からは、次のような疑問が出されました。
〇榊原委員長
ここにいらっしゃる先生方は、ICT(情報通信技術)とかコンピューターについて、非常に関心の高い方だが、日本全体で、小中高も入れて、そのスキルはどんな状態にあるのだろうか。先生方自身のそれに対する知識、個人ユースするレベルから、もう一つ上の教えるというスキルが今どんな状態にあるのか知りたい。
これについて、先生からは次のような発言がありました。
〇先生
先ほど、デジタルスキルと授業とをうまく結びつけられていないという話が出たが、学校の中で正しくメディアを使うと言ったら、こう使いましょう、こうしたらいけませんという禁止事項をいっぱい作る授業が多いなと感じている。学校では、使い方の失敗例を教えてはいけないという考えがあり、正しい使い方を示さなければならないが、逆に正しい使い方が全面的に出てしまい、大人でも使い方で間違うことがあるのに失敗例が許されないというところがある。道徳的な使い方だけ教えて、自分の生活が豊かになる使い方について子どもと一緒に考えることがないと感じている。デジタルスキルが学校現場に普及しない原因は、失敗が許されないというところにもあると思う。
〇先生
先ほど、良いコンテンツが使われていないという話があったが、その考え方も大事だと思う。LINEも、良いコンテンツなのか、悪いコンテンツなのか両面あると思う。メールでは基本的に1人ずつ送っていたが、共有するのが難しかったものを画期的に変えた部分がある一方、それによるトラブルも当然起こっている。また、考え方ひとつで、ゲームも学習になると私は思っている。具体例をあげれば、私自身はゲームの『桃鉄』が大好きで、日本地理は『桃鉄』で覚えた。ゲーム会社は相当データを取っているので、そこの駅に行ったときにいろいろな特産品が買えるが、そのデータが頭に入る。私の子どもは『マインクラフト』が大好きで、かなりの時間やっていて、ブロックを渡すとそれなりのものが作れる。いい面、悪い面を周りがきちんと価値づけてあげることが、良いコンテンツを作っていくことにつながっていくと思う。
子どもの中に学習と遊びが別物になっている部分があるが、遊びの中でこそ学びはあるだろう。鬼ごっこでも、いろいろな相手の意識も考えなければいけないように、ゲームイコール悪なのかというのは、もちろん依存性の問題など、いろいろな問題をはらんでいるが、捉え方ひとつで変わってくると思う。
〇先生
特別支援学校に異動してきて思ったのは、子どもたちがユーチューブなどを見るときの約束は、ずっと前から守られてきたということだ。自分が終わったら替わらなければならないとか、むやみやたらの暴力やちょっと行き過ぎた映像は、なぜか見ない。自分にも偏見があったが、とにかく何でもかんでも好きなものを見るだろうと思っていたが、そこにはきちんと約束がある。これを見てはいけないのではないかとか、これを見るとみんなが楽しめるだろうというということがわかっている。例えば、最近ではパプリカがはやっていたが、これを見ると男の子も女の子も歌いだすので楽しいな、とか、自分の好きなアニメの歌を流すとみんなで歌えるなということを、障害があっても感じられる。自分にも本当に偏見があったと感じるし、子どもたちも日々こういうことを繰り返していけば発達していくと感じている。
菅原先生の本にもあったが、メディアを長時間見続けるかどうかではなく、そこにコミュニケーションを挟んでいくことが、子どもたちが発達していくための大きな要因であるということは、すごく勉強になった。このiPadを渡せば子どもが泣き止むとか、おとなしくなるから渡しちゃえということではなく、それを一緒に見ながら、ああだね、こうだねと対話していくことが大切だということだ。
さらに、インターネットを教育に生かす際、支障になっている点について、次のような指摘がありました。
〇先生
私たちの町では、iPadを各校に何台かずつ入れているが、使いたいアプリを教育委員会に申請して許可が下りないと使えない状況である。私はもう5回くらい、ユーチューブを入れてくれるように申請したが却下されるという状況である。ツイッターも見られるようにお願いしても、駄目になっている。調べ学習の時など、市町村、県などは、ユーチューブやツイッターで発信しているものが多い。ただ禁止されてしまっているので、うまく使えていなくて、もったいない、と思う。
先生方の使い方のスキルの話だが、4年くらい使ってきても、写真を撮るだけの活用の先生もいる。こちらが、こういう使い方もある、動画も作れる。写真より動画のほうが伝わりやすいのではないかなどと遊びながら研修をしているのだが、その時は使い方が分かったとなるが、実際授業でどう使うかとなると悩んでしまう先生も多いのが実情だ。
これまでの先生方の意見を受けて、委員からは次のような発言がありました。
〇緑川副委員長
大変興味深く、今の学校現場の状況を教えていただいた。弁護士をしていて、普段依頼者との連絡は電話やPCのメールですることが多いが、最近ではLINEを利用する方も増えている。若い経営者などは、スマホ一つでフットワーク軽やかに連絡を取り合いながら、ものすごいスピードで事業を進めている。今、日本の若い人たちが経済を引っ張っていくような活躍をしているというところから遡って考えていくと、今の子どもたちはデジタルネイティブで、小学校、中学校からスマホやPCを使い始め、大学生くらいになると、私たちが考え及ばないように使いこなしているように見える。スマホは、コミュニケーションツールとして使うことも、娯楽のためにゲームをすることも、情報収集のためユーチューブやネット検索もできる。そんな中で、学校で子どもたちにどういう教育ができるのかということは、スマホやPCのどの使い方に着目して、何を教えるのかということを考えながら、場面場面を特定して、教えるべき目標を立てたうえで対応していかないと、子どもたちがどんどん先に進んでいるところの後追いになってしまうのではないかとも思える。むしろ、最近では子どもたちが柔軟な気持ちで進んでいるところを、でもそこをやったら個人情報の問題になるんだよ、プライバシーの問題が出てきてこうなるんだよ、という基本的な部分を抑えるというところで追っていくしかできないくらい、子どもたちは先に進んでいるのではないかというような印象をうける。
一方で、ゲーム依存の問題であるが、WHOがこれを精神疾患と位置付けているということを踏まえるとアルコール依存、ギャンブル依存と同じように治療しなければならないという段階に入っているということであろう。ゲームは子どもの時から始めることが多いので、スタートするときに動機づけをしてあげることが大切ではないかと思う。しかし、これは、もう教育、学校現場だけでは限界があるかもしれない。とても難しい状況だと思う。
子どもたちにとって、テレビはネットにだいぶ押されている現状の中、このままでは、将来、テレビを見る人がいなくなってしまうのではないかという危機感もテレビ業界にはあります。そんな中、テレビとネットが良い関係を築いていく、共存共栄していくためにテレビに望むことについて議論しました。
まず、ネットにはない、テレビの良さについて先生方に聞いてみました。
〇先生
圧倒的にテレビの画質と音質はネットにはかなわない。大河ドラマが好きでよく見るが、4K映像で見ると本当に美しい。自然の描写も同じ色でこんなに違うんだなと思う。一つの美術品としての美しさがある。なかなか行けないところを、臨場感あふれる映像で子どもたちが体感できることは、圧倒的にテレビのよいところだと思う。
〇先生
やはりテレビは臨場感、ライブ感だろう。記憶に新しいところで、ラグビーのワールドカップでは、ネットで見るというよりは、その場で行われている試合を生で見られるということはテレビのいいところだと思う。もちろんニュース番組も、その時起こっていることを伝えるという意味では、テレビは非常に有効だろう。学校でも、子どもたちは昔と一緒で、インターネットで何々見たという話ではなく、テレビで見た内容をしゃべっている。
〇先生
テレビならではの良さという点では、放送の制約がある中、テレビ番組の中には攻めた内容があるなと感じている。最近、NHKの『バリバラ』で、ブラック・イン・ブラクという番組があった。触れるときに細心の注意を払うような内容だったが、それをあえてテレビ番組にするのは、攻めているなと思って、印象に残っている。このような攻めた番組があるのはテレビの良さだと思う。しかし、逆に、視聴者からの意見にもあったみたいに、攻めたからこそ失敗しているというか、放送的に良くないといわれる番組もあって、子どもたちもそれを見てしまうこともある。今までは、情報の受け手としてその番組をどう受け取るかだけを考えていたが、これからは、なぜこんな攻め方をこの番組制作者はしたんだろうとか、メディアでの情報の作られ方について、教育現場で考えていかなければならないと思う。
さらに、今の子どものテレビの視聴スタイルについてこんな意見も出されました。
〇先生
小学校の高学年を担当することが多いが、子どもたちのテレビの見方はかなり変わってきている。基本的にライブでは見られず、録画視聴である。学校から帰ってすぐに習い事。そこから帰ってくるのが8時、9時だったりすると、あとはご飯を食べて寝るしかない。そうすると、テレビは、空いている時間に見るという、インターネットに近い使い方になっている。基本的には視聴者が選んで、それを見たい時に見るというふうに、シフトしている。そうなったとき、深夜の番組でも子どもも見られる環境がある。時間帯によって演出を変えたりということをしていると思うが、そのフィルター、時間のフィルターは、子どもたちはやすやすと越えていくという現状を理解する必要があると思う。スポーツ中継、ニュースなど即時性のあるものは録画しているという話はあまり聞かないが、バラエティー番組やアニメは、基本的にはライブでは見ていない子どもが多いという印象を持っている。
次に、「テレビよ、がんばれ」という意味で、子どもたちのために、これからのテレビに望むことについて議論しました。先生方からは、次のような発言がありました。
〇先生
個人的な意見だが、制作者のスキルは、たぶんテレビのほうがネットより高いかなと思う。編集のスキルなどはテレビならではのものだと思う。授業でも『NHK for School』などを使わせてもらっているが、普遍的なもの、再活用できる番組がテレビには多いと思う。高校の数学の番組があるが、それを作ったのは結構前のことである。それを5年前、授業で使ったときの使い方と今の使い方は変わっているが、まだ使える。質の良い番組は、5年前でも今でも使えるし、使い方が変わるので、視聴者によってバージョンアップできていると思う。
今後も財産になるようなものを作ってくれるのがテレビで、インターネットやユーチューブの動画は、基本的に即時性というか、今よければいいという、制作の意図が違う部分があると思うので、テレビはテレビの役目、インターネットはインターネットの役目という形で進めていけはよいのではないか。
〇先生
テレビの在り方とインターネット、ユーチューブの在り方は全く違うもので、テレビは家族があって、家族団らんで楽しむもの、個で楽しむものではないと思う。一人で楽しむところもあるとは思うが、やはり、家族で一つのテレビを見て過ごすというのが今の時代の形だろう。一方、インターネットは個人で楽しむものだと思うので、それぞれの扱いに応じて変わっていくことによって、両者がいい関係を築くことになるのだろう。
〇先生
我が家でも、娘はパソコンでユーチューブを見ている。息子は寝転びながらスマホをいじり、私は台所でパソコンで仕事をしている。妻はテレビを1人で陣取って見ている。それぞれのメディアがばらばらだが、皆でテレビを見ようとなったら、ばっと集まってくる。そこが一つのコミュニケーションツールとしての良さかなと思う。
番組を作るときに、テレビ、インターネットかかわらず、企画力が重要なんだと思う。ユーチューブにただ単に鉄道の車窓をずっと流している動画がある。そこに川や鉄橋についてユーチューバーの解説が入る。普段自分が見慣れたところが、あっ、こうだったのかと明らかになっていくのが面白く、その人のユーチューブはいつも見るようになった。このように、人を引き込む企画力と話術が卓越したものは、インターネット、テレビは関係ないなと思う。
〇先生
ちょっと別の視点から、テレビを家電と見たとき、基本的にテレビは家電のテレビを見ているが、メーカー側は、今、テレビをインターネットも視野に入れた商品として売っている。そんな中、いわゆる地上波で何ができるのかというのは、本当に死活問題になっているという印象がある。特に、民放では、スポンサーなどの絡みも強く、さらに自由度がなくなっている中で何を見せたらいいのかというのは、より視聴者を意識していかないと、それはネットでいいよねという判断につながるだろう。家族の団らんでも、テレビでユーチューブを見る、という時代ももう来ているのかなと思う。
子どもたちにアンケートを取ると、テレビでインターネットを活用する率が少しずつ上がってきている。我々が思っているテレビと、子どもが思っているテレビが、変わってきている、ということも考えていく必要があると思う。
さらに、テレビの魅力の一つと考えられてきた、「視聴者に感動与える」ということについて、逆に、ネットを見ても深く感動することはあるのか、聞いてみました。先生方からは、次のような意見が出されました。
〇先生
昨日ヤフーニュースで、アメリカのことだが、自分の息子が脳死状態になり、心臓や角膜を移植手術のために提供し、移植を受けた人から、移植した心臓の音を録音した人形をもらって感動したことをドナーの親がSNSの載せていたという話を見た。自分の子どもの心臓の鼓動を聞いて、あの子は生きているということを感じたという。そういうニュースは、テレビだとなかなか取り上げられないが、ネットのニュースだと取り上げられる。感動的なニュースではあるが、それこそネットの特性で、本当にそれは信ぴょう性のある情報なのかどうかは気になるところだが…。
〇先生
感動という点では、アマゾンプライムに、テレビでは流れていない海外ドラマもあり、感動して見ている。ネットでも感動、共感を呼ぶものはある。逆にテレビでも、ニュース番組でツイッターですぐ反響を聞いて、それを流しながらこたえる番組もあり、ドラマでも、話が終わったと思ったら、続きはネットでというものもある。教育番組の『NHK for School』でも、番組を見ていたら、途中で、続きはネットでというのがあった。線を引いて考えることも必要だが、テレビ局もネットをうまく使っていると思う。
これまでの先生方からの意見を受けて、委員からは、次のような発言がありました。
〇吉永委員
私たちの世代は、間違いなくテレビ放送しかない時代で、はっきり放送からスタートしているが、今の子どもたちは、もう通信と放送がほとんど融合している状態でネットがどうの、テレビがどうのという考え方をしているのかどうか、わからない。自分が見ているものがネットなのかテレビなのか、あれ、これテレビだっけみたいな世界になりつつあるのではないか。
ユーチューブの世界もほとんど個人放送局になっている。作り方もどんどん良くなっていくと思う。今、小学生の将来なりたい職業の1位がユーチューバーになり、プロ野球選手を抜いたということが話題になったが、何十億稼ぐユーチューバーは、もう全部自分の中に、構成作家を雇ったり、企画する人を雇ったりと、本当に小さな放送局がいっぱい出てくるのだろうと思う。
テレビとユーチューブが、視聴者を意識するようになる、つまり、『いいね』と『視聴率』を意識するようになったら、圧倒的にユーチューブのほうが強いのかなと思う。やはり、テレビは「層」で見てもらわなければならない。この時間帯に見るのは、主婦層だとか、高齢者層だとか、という感じになると、すべてがそこをターゲットにするしかなくなるので、だんだん面白くなくなってしまう。
子どもたちは、テレビとネットの壁を楽々乗り越えていて、この前、『あなたの番です』というテレビドラマがあったが、ネットの世界で、子どもたちがものすごく反応して、犯人捜しとか、ドラマを自分たちで並行して作っていたりしていた。放送と通信の融合の形は、我々世代には想像もつかないところに子どもたちは入っている。
また、テレビの危機という点では、今、ネットフリックスは、制作費として年間1.8兆円くらいを計上している。そうすると、すごい番組があちらのほうから出てきてしまう。放送法も何もないので、自由である。もっともっと刺激的だったり、面白かったりするものが、すごいクオリティーで提供されてくるのではないか。お金がどんどんネットに集まってきているので、テレビのコンテンツが、これからネットフリックスなどに比べると、制作費が潤沢にあるのかどうか、また、スポンサーをつけようと思えば、視聴者に迎合しなければならなくなるなど、テレビのこれからの苦しさが始まってくるだろう。本当は、テレビならではの、美しい映像であったり、目先のことではない、もっと大きなテーマでしっかりした番組を作ってほしい、作りたいという願いはみんなにある。しかし、それでは視聴率はとれないよなという話になると、なかなかそれが実現されなくなってしまう。一方、ユーチューバーたちも『いいね』を意識しだすと、テレビと同じような形になっていくのか、放送と通信の融合の明日が見えないような気がする。
ある動画配信サービスの経営者が、テレビは何の時に見ますか、と聞かれたら、「災害の時に見る」と言っていた。災害時だけは、放送局のニュースがすごく大事だという。ネットには災害時いろいろなものが流れるので、信頼性が担保された情報という点で、テレビへの信頼があるのかなと思った。その一点だけはテレビの明日としては大事なのかなと思っている。
メディアの情報を正しく理解するため、子どもたちのメディアリテラシー教育の重要性が指摘されているが、まず、日々、子どもたちと接していく中で、テレビの受け止め方やインターネットの扱いについて、危ういと感じたことについて聞いてみました。
〇先生
関西では、私が小さい時からお笑い番組が本当に定番になっていて、今でも子どもたちは楽しんでいると思うが、昨日、人権学習の授業で。不細工芸人ナンバーワンに選ばれた、あるお笑い芸人が、その時ホームページに載せた言葉を紹介した。“僕はプロのブスです。だからどんなことを言われても全く動じません、大丈夫です。だけど、一般の人たちには、誰だれは私に似ているなどということは絶対に言わないでください。そんなことを言うとその人が傷つくんです。それが言葉のナイフです”と。私が一番子どもたちに言っているのは、人権学習は、まずは、自分自身のことを大切にするために、そして、周りにいるみんなを大切にするために学んでいるのだということだ。昨日も、毎日の学校生活で、友達同士そんなことを言い合っていたらどう思うと話すと、子どもたちは真剣に聞いてくれていた。そして、日常生活とテレビから得られる情報はしっかり区別して考えてほしいという話をした。それも、メディアリテラシーの一つだと思う。
さらに、子どもたちのメディアリテラシーを育む取り組みについて、先生方からは次のような発言がありました。
〇先生
一つには、NHK Eテレにも『メディアタイムズ』などメディアリテラシーを育む番組があるので、活用している。子どもたちのメディアリテラ―を養っていくため一番大きな課題は、教育現場でメディアをどれだけ使うかということだと思う。必要感がないと、なかなかそこに意識が向いていかない。たくさんのメディアに子どもたちが触れられるような授業を組み立てていく中で、例えば、フェイクニュースや表現の難しさなどに気がついて、初めて学びにつながると思う。
ただ、正直に言うと、時間との闘いがすごく大きい。現場としては、学習指導要領にメディアリテラシーを育みましょうという項目がないため、その時間を生み出すのが難しい。要は、優先順位が高くない、ということである。
しかし、メディアリテラシーの育成について、社会の要請、現場の要請は強い。さまざまなトラブルがものすごく顕在化しているからである。例えば、LINEのトラブルでは、小学生でもどんどんそこに上げている。そして、保護者も上げている現状もあるが、保護者にリテラシーがない。それをやることでどれだけ危険性があるか、という認識がないまま、上げてほしいから上げているのが現状である。さらに、子どもは、話を通しやすいほうに通す。子どもにLINEのトラブルがあったことを母親に連絡すると、うちの子は使っていません、そんなトラブルがあるはずがないという。子どもに聞くと、父親に許可を取って使っていたということになり、夫婦間でもめたこともあった。
例えば、リーフレットを作る授業でも、総合評価をすることは実践しているが、なかなか苦しい。しかし、それをやると子どもは確実に伸びているという実感はある。また、写真の使用でも単に撮るだけではなく、どっちの写真を選ぶか、必ず複数取って選ばせる、というような形でリテラシーを伸ばすための取り組みを行っている。
これらの先生方の発言を受けて、委員からは、次のような発言がありました。
〇榊原委員長
今の話を伺っていると、メディアリテラシーは複雑になってきていると感じる。数十年前は、メディアリテラシーというと、子ども部屋にテレビを置くな、テレビを見せない、というものだったが、今は子どもたちが、タブレットなどが使える時代になっている、いろいろな出口があるので、より難しくなってきている。
昔はフィルターをするのが比較的楽だった。今は、テレビを見せなくても、部屋でタブレットを見てしまう、スマホを親が寝た後に見るとか、より問題が複合的になったという印象である。
私たちBPOは、テレビで流される番組ついて、別に規制ではないが、時には意見を言うことがあり、そういう仕組みになっているが、インターネットにはそれがないという状況のなかで、どうしていくか。より複合的なグローバルな課題になっていると、今、お話を伺って感じた。
最後に、先生方の代表者から次のような挨拶がありました。
〇先生
今回も、議論が白熱して、あっという間に時間が過ぎたと思います。ありがとうございました。
今日、テレビとネットについて議論したが、そもそもその境目、子どもたちにとっては、その境目すらないのではないだろうか。教員としても、子どもにネット、テレビにかかわらず、どうそのメディアに向き合わせていくかは大事だなと思う。これをしてはいけない、こうやってやるんだよというような教育ではなく、子どもたちが、放送も通信も融合した時代に、どう関わっていけるのか考えられるような取り組みが学校現場でも必要だと考えた。
それと同時に、我々もテレビにはすごく期待しているところが多い。テレビにはいろいろな魅力がある。それは子どもたちにも伝えていかなければならないと感じた。
以上のような活発な議論が行われ、3時間以上にわたる意見交換会は終了しました。
今回の意見交換会後、参加した先生方からは、次のような感想が寄せられました。
インターネットが普及することによるデメリットだけでなく、メリットを生かしていくことや、なんでも制限・禁止していくことよりも子どもが正しく判断するため一緒にルールを決めたり、家庭で話し合ってもらったりしていくことが必要だと感じました。また、インターネットが娯楽としての活用だけでなく、手間を省く、簡単にできる、わかりやすくするためのツールとして子ども達が利用していくために学校教育でも指導していく必要があると思いました。今までは、自分の考えとして良い点よりも問題点を感じていました、BPO委員会や他校の先生から話を伺って、新しい気付きにもなりましたし、すぐに家庭と交流できる内容もあったので、大変勉強になりました。
参加者の皆さんの報告から、子どもたちにとって「インターネットを含むネットワーク」が当たり前の世界になっており、良くも悪くも影響を受けていることがよくわかりました。だからこそ、良い影響をどう伸ばしていき、悪い影響をどうコントロールしていくかが大切だと感じた。特にインターネットの場合、ネットワークに対して自分からアクセスしていくため、時間による区切りが難しい部分が浮き彫りになっている。インターネットの活用が低年齢化しているため、欲求のコントロールが難しく、長時間視聴してしまうことで生活リズムを崩したり、健康を害してしまったりすることに繋がっている。インターネットをより有効に活用するための「モデル」が必要なのかもしれないと感じた。
大人が思っている以上に子どもにとってテレビとネットの境目がないということを感じています。テレビが得意としていること苦手としていること、ネット配信が得意としていることと苦手としていることを整理して、互いの良さを生かして共存しながら発展していくことが必要であると感じました。
自分も含めて大人のメディアリテラシーに対する意識の低さも深刻であるように思います。日々多様化している環境の中で、「こうあるべきだ」という明確なメディアとの向き合い方があるとも思えません。社会全体の問題として、大人―子どもで分けて考えるのではなく、子ども達と対等な立場で、メディアとの向き合い方を考え続けていきたいです。
一つの情報に流されるのではなく、複数の情報に触れ、自分で取捨選択できる能力を養うことが大切である。日ごろから良質な情報に触れる時間を増やしていくことがメディアリテラシーを養うことに繋がる。学校の中でも積極的に使い、児童・生徒に正しい情報とは何かを考えてもらえるようにしなければいけないと思った。
以上
放送倫理検証委員会は5月15日、フジテレビの『超逆境クイズバトル!!99人の壁』について、審議入りすることを決めた。
対象となったのは、フジテレビが2017年12月31日から2020年3月7日にかけて放送したクイズバラエティー番組『超逆境クイズバトル!!99人の壁』。フジテレビは4月3日、100人の出場者を集めて収録すべきところ、人数が不足した場合、解答権のないエキストラを番組に参加させ、「番組が標榜している『1人対99人』というコンセプトを逸脱し、視聴者の信頼を損なう形となっていた」として、番組ホームページ上で事実関係を公表するとともにお詫びを行った。
番組は、1人の「チャレンジャー」が、99人の壁の解答者に阻まれながら全問正解を目指すクイズ番組で、合計5問に正解すると賞金100万円を獲得できるというもの。「チャレンジャー」はあらかじめ自分の得意なジャンルのクイズを指定できる特権を与えられる。
出場者全員が専門ジャンルの知識を持っているというのがこのクイズ番組の見どころだが、逆にそうした専門性の高い100人もの出場者をオーディションで選ぶことや、番組で使用するクイズの作成、解答の裏どり作業は、当初から相当の労力を要したという。
委員会は、フジテレビに報告書と同録DVDの提出を求めたうえで討議した。委員からは「意欲的な番組であるが、もともと無理があったのではないか」「同局の番組に対して委員会が2014年4月に出した意見書(検証委員会決定20号)において指摘した背景や問題点との類似が窺われる。なぜ教訓が生かされなかったのか、再発防止策が生かされていたのか解明する必要がある」などの意見が出され、放送倫理違反の疑いがあるとして審議入りを決めた。
委員会は今後、当該放送局の関係者からヒアリングを行うなどして審議を進める。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言が出された。その状況の中で、番組の生放送、収録、取材のあり方などへの意見が多く寄せられた。
2020年4月にメール・電話・FAX・郵便でBPOに寄せられた意見は2,431件で、先月と比較して665件増加した。
意見のアクセス方法の割合は、メール97%、電話3%(電話応対は4/7まで)。
男女別は男性59%、女性40%、不明1%で、世代別では40歳代26%、30歳代23%、50歳代18%、20歳18%、60歳以上12%、10歳代3%。
視聴者の意見や苦情のうち、番組名と放送局を特定したものは、当該放送局のBPO連絡責任者に「視聴者意見」として通知。4月の通知数は延べ758件【56局】だった。
このほか、放送局を特定しない放送全般の意見の中から抜粋し、28件を会員社に送信した。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言が出された。番組の生放送、収録、取材のあり方などへの意見が多く寄せられた。
ラジオに関する意見は212件、CMについては42件あった。
4月中に青少年委員会に寄せられた意見は73件で、前月から14件減少した。
今月は「表現・演出」が27件、「報道・情報」が9件、「要望・提言」と「低俗、モラル」が8件、「その他」が6件と続いた。
日々増していく新型コロナの不安を大きくさせる報道はやめてほしい。飲食店、旅館、自治体、医療関係者などの悲鳴や困惑している姿ばかり報道して、一体何がしたいのか。不安を投げかけているだけで、何の解決にもなっていない。また、国、政府を批判する報道が多いのも気になる。国や自治体が検討している補償や補助について、もっと情報を流すべきだ。国民のみんなが新型コロナに対して収束するよう努力している。報道関係者も人々の行動心理を考えた、適切で的確な報道を願いたい。
戦後最大の国難の中、報道の自由という名のもと、無責任に国民の恐怖心をあおり、政権の足を引っ張るどころか、医療崩壊を招きかけないコメントを、どこの医療関係者かも分からない人物や、政治や医療の知識もない芸能人や論説委員などに語らせ、国の政策に国民は戸惑っているかのように伝えている。また、若者が無責任に行動しているかのように編集したり、基幹企業本社が多くある品川駅の出勤風景をわざわざ撮り、緊急事態宣言が意味のないもののような印象を与えている。これはもう悪意の報道でしかない。企業も国民もそれぞれが国に協力し、自分達ができること以上の事を行なっている。放送局も今一度放送倫理を考え直し、国民の糧となるような報道姿勢を取るべき時だと感じる。
アメリカのテレビ局は、大統領の記者会見の際、画面下にテロップで、言っていることが本当かどうかのファクトチェックを流している。日本でもそれが必要ではないか。総理の記者会見は、「あらゆる手を尽くす」「速やかに取り組む」など、抽象的で力強い言葉が並ぶが、マスクの供給も休業補償も何一つ速やかに行われていない。あらゆる手を尽くしているなら、なぜ今、医療崩壊の危機にあり、現金給付でもめているのか。2月末の会見では、マスク供給の確保を明言したが、店からは消えたまま。医療現場にすら行き渡っていない。そうしたことをきちんと検証し、過去にこう言っていたが、現状はどうなっているか、達成できたのか、できてないのであればなぜなのか。それを伝えるのが報道ではないか。総理の言葉をただ流しているだけでは報道とは言えない。権力の監視が報道の仕事である。今の報道の仕方では、政府の広報機関と同じだ。
国民のみんなが不安を抱え生活している。生活に必要な情報は、ニュースで放送してくれたら十分だ。ワイドショーの無責任な情報は、国民が混乱するだけだと思う。
朝の番組を見た。3月末のロケと明記しながらの、大型遊園地や伊勢神宮観光の映像。すでにコロナは蔓延しており、自粛しなければいけない時期。「3連休に緩みが出た」と報道しておきながら、自分たちが緩みの極限。ほとんどの人が遊園地を自粛していた時期に、マスクなしで大絶叫。かなり蔓延していた東京から、ウイルスを持ち込んだと思われても仕方がない。
メインキャスターの新型コロナ感染が判明した。それから2週間以上経つが、視聴者への説明がほとんどされていない。その一方で、感染が広がった病院の院内感染のニュースなどを取り上げている。まずは他者を批判する前に、自分達スタッフになぜ感染が広がったのかを検証するほうが先ではないか。番組スタッフが、病院や政府、街中などにいまだに取材に回っているが、彼らこそが感染を広げている。自分たちは特別だという意識が蔓延しているのではないかと思う。
新型コロナの対策にあたり、赤ちゃん用品を代用した方法を放送でが取り上げたことで、買い占めが起こっている。消毒薬の代わりに哺乳びん洗い、マスクの布の代わりに赤ちゃん用ガーゼ、マスクの衛生維持のために母乳パッドなどだ。乳児は大人より免疫力が低く、清潔な環境を維持するため、赤ちゃん用品が必要だ。ただでさえ、新型コロナの影響で出産に不安を抱く妊婦が多い中、必要なものが揃えられず、さらに不安を抱く妊婦は少なくない。このような放送は見直してもらいたい。
夜の番組を見た。新型コロナについて、知りたいことを専門家の人から聞くコーナーがあり、とても良かった。どういう環境が感染しやすいか、一般的な会社員の生活状況を例にあげて説明していたので、不安が少し和らいだ。在宅勤務でテレビを見る機会が増えたが、議論しても解決にならないことを延々続ける番組や、税制も社会環境も違う他国の状況の一部だけを切り取って、日本の対策のここがだめ、あれもだめと批判する番組ばかりで、気が滅入っていた。この番組のように、きちんとしたデータをもとに、客観的に説明してもらえるのは貴重でありがたい。特に、医師による感染防止対策は参考になった。
新型コロナの影響で、番組制作が制限され、コンテンツが制作できない状況が続いている。外出自粛の要請が出て、コンビニやファミリーレストランの深夜営業も中止や時間短縮になっている。この際、テレビ放送の24時間放送の見直しを検討してはどうか。バブル期に便利で自由な時代になり、24時間放送が定着したが、今の時代に本当に必要なのか。少しは時代が戻ってもいいのではないかと思う。
新型コロナウイルスで小中学生、幼稚園児の自宅待機が始まった頃から、子どもの自宅待機ストレスとともに、親の子どもへのストレスも取り上げられ始めた。私は子どもに「私がいるとストレスになるの?」と聞かれた。大人にはストレスが愛情とは違うところにあることが理解できるが、子どもには自分が家にいることが親のストレスになっているという解釈をしてしまっている。もう少し分かりやすく、家にいる事ではなく、家計や仕事に行けないからだなどといった説明が必要だと思う。
2020年 5月7日
BPOは、新型コロナウイルス感染拡大防止のための政府の緊急事態宣言および東京都の緊急事態措置要請の延長を受け、同期間中、委員会の運営に最小限必要な業務を行うことといたします。視聴者電話の受け付けは当面引き続き休止しますが、メール、ファクス、郵便は受け付けます。