青少年委員会

青少年委員会 意見交換会

2017年6月30日

青少年委員会 「意見交換会」(山陰地区)の概要

◆概要◆

青少年委員会は、「視聴者と放送事業者を結ぶ回路としての機能」を果たすという役割を担っています。今回その活動の一環として、山陰地区(島根県・鳥取県)の放送局との相互理解を深め、番組向上に役立てることを目的に、6月30日の午後2時から5時まで、「意見交換会」を松江市で開催しました。
BPOからは、青少年委員会の汐見稔幸委員長、最相葉月副委員長、菅原ますみ委員と、三好晴海専務理事が参加しました。放送局の参加者は、日本海テレビ、NHK、山陰放送、山陰中央テレビ(チャンネル順)の各連絡責任者、制作・報道・情報番組担当者など25人です。
冒頭、BPO設立の経緯および青少年委員会について、三好専務理事から話があり、続いて、委員から、事前に視聴・聴取した地元制作番組についての感想が述べられました。
その後、(1)子どもが関わる事件・事故における放送上の配慮について、(2)行政や教育委員会による「テレビなどの視聴規制」について、活発な意見交換がなされました。

【BPO設立の経緯および青少年委員会について】(三好専務理事)

1985年ごろから、いわゆる「やらせ」や「過剰演出」など、放送倫理が社会問題化することが相次いだ。市民からの放送局批判が高まり、NHKと民放連が協議し、信頼を取り戻すため、放送局の自主・自律の精神で立ち上げたのがBPOである。公権力の放送への介入を回避し、表現の自由を守るための組織でもある。つまりBPOは放送の監視機関ではなく、自浄作用のために作られた組織だということは、覚えておいていただきたい。
さて、1987年に日弁連がメディアに対して二つの注文を付けた。一つ目は、名誉・プライバシー等に配慮して、行き過ぎた取材・報道に注意してほしいということ。これは、至極当然である。二つ目は、捜査情報への安易な依存をやめ、原則として匿名報道の実現を行ってほしい、ということ。たしかに、捜査情報への安易な依存は、放送局側も戒めていることではあるが、局側は事件・事故の再発防止などのために、実名報道を主張しており、この部分については、日弁連と相容れないところである。そんな中、1994年の松本サリン事件において、多くのメディアが本来被害者であった会社員の男性を犯人視報道し、その後、訂正・謝罪するという事態に陥った。この問題も含め、市民から信頼失墜との声が強くなり、総務省(当時の郵政省)が「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」を立ち上げ1年半にわたる議論を経て、以下の五つの提言を行った。(1)青少年の保護、(2)意見の多様性と政治的公平、(3)放送事業者の自主性と責任、(4)放送事業者以外のものによる評価、(5)権利侵害と被害者救済、である。これらのうち、(4)と(5)にNHKと民放連が注目し、1997年に設立したのが「放送と人権等権利に関する委員会」である。その後、青少年による事件の頻発により、放送の児童・青少年への影響が社会問題化し、2000年に「放送と青少年に関する委員会」を、さらに、バラエティー番組でのねつ造問題をきっかけとして2007年には「放送倫理検証委員会」が作られ、現在の3委員会となった。
つまり、BPOは皆さんが作った組織であり、監視機関では決してないということ。また数々の不祥事を経て、放送界が自主・自律のために作った組織であるということは、知っておいていただきたい。

(1)子どもが関わる事件・事故における放送上の配慮について

【これまでBPOに寄せられた主な意見などについて】(最相副委員長)

子どもが関わる事件・事故の取材・報道について、これまで、青少年委員会が行ってきた提言について簡単にお話ししたい。
最初の提言は、2002年3月5日付の「『衝撃的な事件・事故報道の子どもへの配慮』についての提言」である。
これは、1997年の神戸連続児童殺傷事件と2001年大阪・附属池田小学校の事件におけるメディアスクラムで傷ついた人がいたということを契機にしたものだった。提言の要点は以下の四つ。(1)衝撃的な事件・事故の報道では子どもたちへの影響が大きいことを配慮し、刺激的な映像の使用に関しては、いたずらに不安をあおらないよう慎重に取り扱うべきである。(2)子どもは言葉の理解が不十分なため、映像から大きなインパクトを受け易い特性がある点に留意し、特に「繰り返し効果」のもたらす影響については慎重な検討と配慮が求められる。(3)ニュース番組内、あるいは子ども向け番組で、日常的に、子どもたちにも分かるニュース解説が放送されることが望ましい。(4)衝撃的な事件・事故の報道に際しては、影響を受けた子どもたちの心のケアに関して、保護者を支援する番組を即座に組めるよう、日頃から専門家チームと連携を図ることが望ましい。特に、(4)の提言に関しては、いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)への配慮を求めており、当時はまだ耳慣れない言葉だったPTSDに言及したものだった。
続いては、2005年12月19日付の「『児童殺傷事件等の報道』についての要望」で、これは栃木県で起きた小1児童殺害事件がきっかけだった。この要望の要点は、以下の3点。
(1)「殺傷方法等の詳細な報道」に関して、凶器・殺傷方法・遺体の状況などを詳細に報道することは、模倣を誘発したり、視聴者たる子どもを脅えさせるおそれがあるなど、好ましくない影響が懸念されるので、十分な配慮が必要である。(2)「被害児童の家族・友人に対する取材」に関しては、悲惨な事件によって打ちひしがれた心をさらに傷つけることにもなりかねず、また親しい者の死を悼む子どもの心的領域に踏み込む行為でもあるので、慎重を期すように要望したい。(3)「被害児童および未成年被疑者の文章等の放送」に関して、プライバシーおよび家族の心情への配慮の観点からより慎重な扱いが必要と思われる。
この「文章等」には、現代においては、写真や卒業文集、SNSの書き込みなども含まれると考えられる。この要望(2)にある「事件事故に関連する子どもたちへの取材」については、最近も視聴者から意見が寄せられることがたびたびあり、委員会でも討論をしている。
3番目は2012年3月2日付の「子どもへの影響を配慮した震災報道についての要望」である。これは、東日本大震災の発生から1年を前に、多数放送されるであろう震災関連番組などを念頭に、配慮を要望したものだった。結果、放送では津波映像の前に、注意喚起テロップが放送されるなど放送局の理解と配慮を得ることができた。
最後は、2015年4月28日に公表した「"ネット情報の取り扱い"に関する『委員長コメント』」で、これは、インターネット上の殺りく、虐待など人権を無視した映像を扱うサイトの情報をテレビが放送したことについて討論した結果、出されたコメントである。番組自体は審議入りしないことにはなったが、テレビという公共のための放送システムが抱く可能性のある問題を示したものだった。インターネット情報の取り扱いについてなども、意見があれば伺いたいと思う。

【取材・放送の現状や課題などについて】(意見交換)

(事務局)被取材者となる子どもへの接し方について、悩んだ経験などないか?
(放送局)2015年の「川崎市中1男子生徒殺害事件」のとき、被害者の男子生徒が小学6年生まで隠岐島で過ごしていたことが分かった。社内で議論し、いったんは島に取材に入らないことを決めたのだが、その後、各局の取材やキー局からの要請もあり、出遅れる形で、取材クルーが島に入った。しかし、小学校長から子どもの取材はやめてほしいと要請があり、当初は許可されていた校長自身の顔出しインタビューもできなくなっているなど、島内の取材は全滅といっていい状況だった。当時、記者からは、「島の子どもたちが相当なショックを受けている」と報告を受けたことを覚えている。
(放送局)取材を進めると被害少年は、かつては「ごくありふれた島の少年」だったことが分かった。事件の悲惨さを伝えるためにも、島の取材は必要だったと思っている。
(放送局)わが社は、事件のバックグラウンドを知るために、地元の民放局では2番目というわりと早い段階で島に入った。しかし、その段階ですでに新聞を含め各メディアが島に殺到しており、宿の確保も困難な状況だった。
(事務局)メディアスクラムのような状況だったのか?
(放送局)メディアスクラムになる前の段階だったと思うが、そのときすでに地元住民からはメディアに対する拒否反応が出ていたと記憶している。
(事務局)子どもの取材に対する注意喚起などは、取材者に行ったのか?
(放送局)子どもへの接触や取材以前の段階で、拒否反応が出ていた。
(最相副委員長)キー局からの取材要請など、地元局の判断と異なる要請があった場合はどのように対応しているのか?
(放送局)わが社の系列キー局からは、そこまで強い要請があったわけではないが、他局の状況などを鑑みて、遅ればせながら島に取材に入ったというのが実情だった。
(放送局)自然災害が起きたときなど、キー局のワイドショー班が、我々の頭を越えていきなり飛び込んでくるようなことがある。また、情報提供を求められることもある。中央は、良くも悪くもスピーディーだとは思うが、その取材の間に、地元に残していく傷跡を感じることはよくある。
(放送局)かつて、ある漁師の方に、取材を申し込み拒否されたことがあるが、その理由は、「キー局の"やらせ"に近い取材手法へのアレルギー」だと言われた。
(事務局)子どもを取材するうえで、学校などはポイントだと思うが、そのあたり、近年困難に思うことはないか?
(放送局)一昨日、市内の中学校で交通事故遺族の講演があり、取材することになった。その「命の授業」を開催したのは、地元警察だったが、当初、警察からは、子どもの取材・撮影は許可できない、講演者の顔のみ撮影してほしいとの要請があった。しかし、それでは講演会の意義は伝えきれないと考え、担当記者が学校に相談したところ、在校生にDV被害による転校生がいることが分かった。そこで当該生徒のいるクラスは撮影しないことを条件に、生徒取材の了承を得た。事情に合わせてその都度交渉し、現場において最大限の配慮をすることで、取材が可能になる場合はある。
(放送局)そもそも、学校内で不特定多数の児童や生徒を取材することは、近年非常に難しい。学校側に、取材を許可できない理由を尋ねても明確な答えはなく、とにかく取材は困る、の一点張りだったりもする。現場での感覚で言えば、10年位前から、入学式や卒業式の取材すら困難になっていると感じる。
(事務局)被取材者の子どもへの精神的影響などは、専門的にみてどうか?
(菅原委員)
年齢による違いや個人差はあるが、一般的に幼い子どものほうが、言葉で処理することができない分、事態を重く受け止め影響が長く続くと言われている。一般的には、低年齢の子どものほうが、影響や被害が大きいということ。また、同年齢の子どもについての報道に影響を受けやすいことも分かっている。例えば、自殺報道による自殺の連鎖などが知られている。子どもにとって等身大の人についての報道は、影響が大きい。もちろん、ストレスに強い子や弱い子などの個人差はあるが、一般的には、大人よりもデリケートに反応することは確かで、低年齢であればあるほど丸のまま受け止めてしまうので、大人のプロテクトは必要と言える。ただし、青少年になれば精神的にも成熟し、インタビュアーのまなざし一つで安心することができる。どんな場合でも、取材者が心を込めて接することが大切なのではないか。

(2)行政や教育委員会による「テレビなどの視聴規制」について

【これまでの経緯と現状の報告】(地元放送局 報道制作部長)

私は、生まれたときからテレビがあって、「テレビばっかり見るな」という親の言うことも聞かずテレビの番組と共に育ってきた、といっても過言ではない「テレビっ子」世代。そんな私が親になり、いつの頃からか、子どもが通う小中学校でチャレンジデーなどと称して、「1週間テレビを見る時間を3時間以内にしましょう」などという運動が始まった。そしてチャレンジが達成できたかどうか、親の感想も書かされていた。このチャレンジの目的はテレビを見ずに親子のコミュニケーションを図る、ということだったが、すでに社会に溶け込み、一定の評価を得ているテレビを見るな、という取り組みに正直、「今さら感」を覚え、うんざりした。感想にはきまって、「テレビを見るからコミュニケーションがない家庭が、テレビを見ないでコミュニケーションが図れるか疑問」などと批判めいたことを書いていた。
「ノーテレビデー」を最初に耳にしたのは、2007年の鳥取県三朝町の「ノーテレビデーの町」宣言。町議会の決議を可決する形でスタートしている。その決議には、「テレビをはじめとする『メディア文化』は、空気や水と同じように私たちを取り巻く環境の一つです。『テレビを一度消す』ことで、家族のふれあいや団らんの時間が、いかにテレビによって失われているかが分かります。テレビとの付き合い方を知ることで、パソコンや携帯電話など他のメディアとの付き合い方の基本を学ぶことができます。テレビを消すことで、家庭の団らんや家族の会話を増やすことができます。そして、テレビをちょっと消してみると、静かな時間の中で何かを感じ取ることができると思います。子どもたちをはじめ全町民が、テレビをはじめとする『メディア文化』をあらためて考え、温かい人間愛にあふれ、心のふれあう家庭や地域を創造するため、ここに毎月15日は憩いの日『ノーテレビデーの町』と宣言することを決議する」とある。このとき、社内で「営業妨害だ」との声があったのを覚えているが「放っておこう」という空気だったと記憶している。学校などでチャレンジデーなどが設けられたのは、その後だ。
鳥取県教委や鳥取県のPTA連合会に確認したところ、ノーテレビデーのチャレンジは7 ~ 8年前から始まり、県内ほとんどの小中学校で何らかの取り組みがあるという。県や市町村の教育委員会からの発信でPTAが取り組んだようだ。テレビを見る時間を1週間制限したり、月に1度テレビを見ない日を作ったり、内容はさまざま。当初はテレビとゲームの時間だったが、最近は「ノーメディアデー」と名を変えて、対象はパソコンやスマホなどネットメディアが中心になっている。担当者は今、問題視されているのはテレビよりもソーシャルメディアである、と言っていた。そして一昨年からPTAが取り組んでいるのが「メディア21:00」というもので、21時以降はゲームやソーシャルメディアをするのは、やめようという運動だ。この中にはテレビも含まれているが、時間制限から時間帯制限になり、録画すれば見たい番組も見られるようになったのはわずかながら前進だと思う。
また、島根県でも多くの小中学校で同様の動きになっているようで、松江市では、ちょうど今月2日に市や学校関係者、学識者らで作る「子どもとメディア」対策協議会というのが開かれたので、市教委の担当者に「ノーテレビデー」の成り立ちと現状を聞いてみた。もともとは(鳥取県も同じくだが)子どもたちの生活習慣の見直しがスタートだった。その発端になったのが、2007年度の文科省による「早寝早起き朝ごはん」国民運動推進の通達だ。その中にはテレビを見る時間を制限せよ、などとはうたわれていないのだが、松江市ではテレビやゲームで寝るのが遅くなり、生活習慣が乱れているという感覚があったようで、「ノーテレビ・ノーゲーム運動」というものが始まった。また、問題意識の中には、「親子のコミュニケーション不足」ということもあったようだ。そして2015年度からは「メディアコントロールウィーク」に名称が変わり、ソーシャルメディアも含まれるようになったがテレビも「コントロール」するメディアに含まれている。市内のほとんどの小中学校でテレビを見ない時間を設定する何らかの取り組みが行われている。一方で担当者は、メディアの専門家からアドバイスを受けているようで、テレビもスマホも十把一からげにメディアとしてくくることを見直す動きがあるとも言っている。教委レベルでは「ネットにつながるもの」と「つながらないもの」を分けて考えるべき、という意見のようだが、末端の学校現場いわんやPTAまで浸透するのは時間がかかるだろうと言っていた。
これを踏まえ個人的に違和感を覚えるのは次の点である。
(1) 子どもたちをはじめ多くの視聴者に見てもらおうと思って作ったテレビ番組を、行政や学校などの公的機関が半強制的に見せないようにしていること。各家庭が個々の判断で見ないのならともかく、公的機関が見ないように仕向けるのは「営業妨害」では?
(2)「ノーテレビデー」の目的である、テレビ視聴と生活習慣の乱れ、あるいはテレビ視聴とコミュニケーション不足は、そもそも相関関係にないのでは?ノーテレビデーではテレビより読書、などと言われることもあったが、徹夜で読書したら同じことだろう。我々「テレビっ子」世代の多くは、テレビからも毒や薬を飲んで、大げさに言えば社会を学んだ。時代によって毒や薬は変わるが、そこを今、青少年委員会とテレビ局が議論し、よりよい番組を目指しているのだと思う。そういう点が全く理解されないで単純にテレビを見ないようにしようというのは、「テレビを見れば馬鹿になる」というようなテレビ草創期に言われた話が根底にあるのではとも感じている。番組の作り手としては残念だが、逆に、そこをもっと理解してもらうことも必要かもしれない。
この場の議論が「ノーメディアデー」を勧める関係者はじめ多くの視聴者に届き、テレビに対する理解につながればありがたい、と考えている。

【学術的な裏付けなどについて】(菅原ますみ委員)

テレビの子ども向けコンテンツが少子化などによりただでさえ制作されにくくなっている現状がある中で、「テレビは子どもにとってよくないもの」とすることは、よいコンテンツにアクセスする機会を子どもから奪うことになり、子どもにとっても不利益なのではないか、またニューメディアに対するスキルトレーニングからも遠ざけられることにつながるのではないか、と個人的には危惧している。
「映像メディアと子どもの発達」について、小児科学と発達心理学を踏まえて話をしたい。この分野については、胎児期からの追跡調査など、アメリカを中心に国家規模の研究がなされている。そもそも、子どもへのテレビの悪影響について考えられるきっかけとなったのは、1999年のアメリカ小児科学会による勧告だとされる。これは、「小児科医は、2歳以下の子どものいる親に、テレビを見せないように働きかけるべきである」というものだったが、当時は、乳幼児の健全な脳発達などのためには、親や保育者と触れ合うことが必要だというエビデンスがあっただけで、テレビの悪影響についてその論拠があったわけではなかった。
その後、アメリカ小児科学会の勧告を受け、2004年に日本小児科学会も、「2歳以下の子どもにはテレビやビデオを長時間見せないように。長時間視聴児は言語発達が遅れる危険性が高まる」という提言を行う。しかしその後、さまざまな実証研究の発展を受け、2016年にアメリカ小児科学会は再度、子どものメディア利用についての提言を行い、"ノーテレビ"というスタンスを脱し、"スマート・テレビ・ユース(賢いテレビ利用)"を推奨するに至っている。また、「テレビ接触が子どもの発達に及ぼす影響」についての最近の実証実験の結果を踏まえ分かってきたこともある。
まず、子どもに見せるコンテンツは年齢にふさわしい教育的で良質なコンテンツであることが重要だということ。また、テレビの視聴時間が就学前の発達に及ぼす大きな負の影響性は今のところ認められていないということ。一緒に視聴する大人が、オープンエンドな質問をするなど共有視聴することで、子どもの内容理解や語彙獲得を促す効果を得られる可能性があることも分かっている。日本で行った12年間に渡るテレビの視聴調査でも、「テレビ視聴量の多寡が幼児期の問題行動と関連する」という結果は得られていない。つまり、家族で対話しながら共有するテレビ番組は、子どもにとって楽しみとなるだけでなく、子どもを賢くする機能を持つ可能性がある。

【「テレビ視聴の規制」が放送局に及ぼす影響などについて】(意見交換)

(放送局)スマートフォンやタブレットなどの視聴は「個の世界」で、子どもが何をしているのか分からないと感じる。自分もそうであったように、テレビから学ぶことはたくさんあるはずなので、制作者として良質なコンテンツを作り出していきたいとあらためて思う。
(放送局)自分自身、2歳の子どもの親だが、どこからか聞いてきた情報で、自分が放送に携わる人間でありながら、テレビを見せることに罪悪感を持ったりしていたところがこれまでは、正直あった。
(事務局)行政や教育委員会などが、「ノーテレビデー」などの方法で人間の内面に踏み入ってくることに対しての思いなどは?
(最相副委員長)先ほどからの話を聞いていて、憲法に抵触するのではないか?と思うほどの憤りを感じている。「違和感を覚える」とか「営業妨害」などのレベルではなく、人間の自由や人権に関わることだと思う。ぜひ、今後も勉強会を開催するなどして、この問題については考えていっていただきたい。
(放送局)「テレビ規制」の動きが県内で始まった当初は、「真正面から相手にするもの大人げない」というような雰囲気が社内にはあったように記憶している。これを機に、いろいろ調べながら各局の連携なども考えなくてはならないのかもしれない。拳を振り上げるというよりは、放送局らしいやり方を考えていきたい。

【地元放送局代表 挨拶】(山陰放送テレビ総局 杉原充子総局長)

同じ地域で同じ仕事に取り組んでいても、日頃なかなか顔を合わせる機会のない者同士が集う機会を持つことができ、大変ありがたかった。今日の議論から、またさまざまな課題が見えてきた部分もあるが、これからも山陰という地域で、各放送局が協力し合いながら、今後も進んでいくことができればうれしい。

【まとめ】(汐見委員長)

行政や教育委員会による「テレビの視聴規制」についての議論が行われたことは、大変意義のあることだと思う。行政や教育委員会と対決するのではなく、「親子の会話の時間を作ることや、子どもがこの家に生まれて良かったと思えるような家庭を作ること」を自分たちも放送を通じて応援したいのだ、というスタンスでメディアに携わる人たちには頑張っていただきたい。「行政や教育委員会が目指すところはよく分かるが、家庭での会話を生み出すことや話題作りにテレビが寄与できるのではないか」ということを、上手に伝えていってほしい。
かつて、落語家の林家一平さん(現・三平)から、父である初代三平さんと家族のエピソードを聞いたことがある。三平さんは7時のニュースを家族全員で見て、みんなに討論をさせていたそうだ。その経験から一平さんは、「世の中のことを知らない人間は恥ずかしい」ということや、「意見が同じだとつまらない。意見は違うからこそ面白い」ということなどを知ったと教えてくれた。昭和の爆笑王はテレビを媒体にして「家族の時間と空間を作っていたのだなぁ」と思った。
皆さんには、行政や教育委員会と一緒に、「どうすれば家族の時間を作ることができるか、テレビに何ができるか」ということを話し合えるような新しい関係を生み出していっていただきたい。教育の世界の人たちと前向きな良い関係を築いていっていただきたいと思う。

以上