BPO_20周年記念誌
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059BPOの20年 そして放送のこれから放送そしてBPO 14のメッセージの進歩に伴いメディアの数が急増し、希少性の論拠が弱まったとの批判もあった。エド・ターナーがジョージア州アトランタで24時間のニュース専門チャンネル「CNN」を設立したのは一九八〇年だが、ケーブルテレビの急増により、限られたチャンネルしか放送できない放送環境を想定して作られたFDは時代遅れと見なされるようになった。一九八〇年の大統領選挙では規制緩和や自由競争など「小さな政府」を掲げるロナルド・レーガン知事(カリフォルニア州)が勝利した。翌年の就任演説で述べた「政府が問題を解決するのではない。政府こそが問題なのだ」という言葉はあまりに有名だ。それまでFDに向けられていた懸念が顕在化するにつれ、FCCもその規制哲学をFDからより市場志向、すなわち自由競争を重んじるアプローチへとシフトしていった。「リベラル」のように人為的かつ社会工学的に世論なり社会を管理しようとする発想からの転換だ。さらに言えば、FDに対する法的挑戦も増え、FDの合憲性そのものが問われる可能性が高まり、FCCとしても長期的にこれらの挑戦に耐えられるか、ますます不透明になっていった。レーガン大統領によって指名されたFCCのマーク・ファウラー委員長(共和党)はFD廃止のプロセスに着手し、一九八七年、後継のデニス・パトリック委員長(共和党)のもとで正式に廃止されるに至る。メディア規制に関する見解の変化、そしてメディアの拡大と多様化に伴い、FDはもはや不要との判断から、FCCの委員全員が賛成した。もっとも、民主党が多数派を占めていた議会は猛反発し、同年六月、FDを連邦レベルで法典化する法案を可決する。しかし、レーガン大統領は拒否権を発動。拒否権を覆すほどの票を議会が持たなかったこ

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