長崎県内各局と意見交換会
放送人権委員会の「意見交換会」が11月28日に、長崎市で開催された。放送人権委員会からは奥武則委員長、市川正司委員長代行、二関辰郎委員が、そして長崎県内の民放6局とNHK長崎放送局から30名が参加して、2時間にわたって行われた。
意見交換会では、まず奥委員長が「放送局の現場の生の声を聴く大変貴重な機会であり、積極的な意見を言ってもらえればありがたい」と挨拶し、開始した。そして、市川委員長代行が「事件報道に対する地方公務員からの申立て」について、そのポイントを解説した。続いて奥委員長が「事件報道と人権」と題して、前記委員会決定の少数意見の説明と、「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」を取り上げて説明を行い、それを基に参加者と意見を交わした。
後半は、参加者に事前に答えてもらったアンケートで関心の高かった「実名報道や子どもへのインタビュー、顔写真の使用の際に注意すべきポイント」について、二関委員から解説があった。その後に質疑応答があり、有意義な意見交換となった。
概要は以下のとおり。
◆ 市川委員長代行
「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(テレビ熊本)について説明します。申立人は、警察発表に色を付けた報道で、意識がもうろうとしている女性を連れ込んで、無理矢理服を脱がせた、というのは事実と異なる内容だと申し立てました。「容疑を認めている」と放送されたことにより、すべてを認めていると誤認させているという点が一つ。それとフェイスブックから無断使用された顔写真とか、職場や自宅の映像まで流され、非常に極悪人のような印象を受ける報道だったと言っています。
この報道について、時系列的に説明します。まず、警察の広報から「広報連絡」のファックスが流れてきます。「準強制わいせつ事件事案の被疑者の逮捕について」ということで、発生日時、発生場所、申立人の実名、職業・公務員、それから身柄を拘束した、これはその当日の午前10時、通常逮捕です。そして、県内の住所と準強制わいせつという罪名が書かれています。事案の概要は、「被疑者は、上記発生日時・場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したもの」です。
これを受けて、皆さんの疑問は、どういう事案なのか、容疑を認めているのか、となると思いますが、電話で取材した記者は、「被疑者は事案の概要の容疑を認めていますか」と質問し、広報担当の副署長が、「『間違いありません』と認めています」とのやり取りがありました。さらに、「抗拒不能」と書いてあるので、「これはどういうことですか」と聞きました。すると、「容疑者は、市内で知人であったAさんと一緒に飲酒した後、意識がもうろうとしていたAさんをタクシーに乗せ容疑者の自宅に連れ込んだ。それからもうろうとしていたAさんの服を脱がせ、写真を撮影した。そして1か月ほどした後に、写真の存在を知って警察に相談した」と広報担当は説明したということです。広報担当が、「抗拒不能」ということの意味だけでなく、事案の概要の前後のくだりの部分についても、問わず語りに説明したことになります。
警察の広報の内容から考えて、被疑者は何を事実と認めているのかと考えた時に、事案の概要の部分だけなのか、広報担当が言った、マンションに入るまでの「飲酒した後、タクシーに乗せて連れ込んだ」、それから「もうろうとしていたAさんの服を脱がせて写真を撮影した」の部分も含めて、事実と認めているように理解すべきなのか。ここが一つの論点となります。
「申立人がわいせつ目的を持ってAさんを同意のないまま自宅に連れ込んだ」ということと、「Aさんの服を脱がせた」ということは、事案の概要に書かれたこととは別のことです。しかも、事案の概要の事実の前の段階の「連れ込んだ」、それから「意に反して服を脱がせた」、これは非常に大きく事案の悪質性にかかわりますが、広報連絡には書かれていない。そして事案の概要について、申立人は「『間違いありません』と説明した」ということですが、広報担当は、この二つの点について認めているとは明言していません。
それからもう1点、取材時は午前10時に逮捕されてから2時間弱の、その日の正午頃です。そうだとすれば、被疑者が警察の疑いを正確に理解して、その前段階の経緯も含めて詳細に供述しているのかは疑問だと考えられます。私どもは、事案の概要に至るまでのくだりの部分と、服を無理やり脱がせたという点についてまで認めているとは言い難いのではないかと考えました。
これに対して、放送が示す事実は、a~fに分けて書くと、こうなっています。aは、「意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込み」ということが放送されています。bとcの部分はあまり争いがなく、bは、容疑、つまり広報連絡に書いてある事案の概要そのものになります。dで「容疑者は容疑を認めているということです」と言っています。
続けてeで、先ほどのマンションに至るくだりの「連れ込んだということです」。それからfで「服を脱がせ犯行に及んだということです」という説明が続けてなされています。
語尾がすべて「何々"ということです"」と、これはよく使われる言い方なのですが、その前のところも「‥ということです」、「容疑を認めている"ということです"」となっていて同じ語尾になっています。
そこで、放送が示す事実は何かということになるのですが、「容疑を認めている」と放送していることと、犯行の経緯や態様、それから直接の逮捕容疑となった被疑事実を明確に区別せずに放送していることから、このストーリーを含めた事実関係をすべて申立人が認めている、したがって、このストーリー全体が真実だろう、という印象を与えていると考えました。放送倫理上の問題としては、先ほど言ったような広報担当の説明の仕方、それから広報連絡の事案の概要の書きぶりなどを考えると、「広報担当者の説明部分のうち、どの部分まで申立人は事実と認めていることなのか、そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるのかということについて疑問を持ち、その点について丁寧に吟味し、不明な部分があれば広報担当者にさらに質問・取材をするべきではなかったか」ということです。
仮にそこまでの取材が困難であったとすれば、逮捕したばかりの段階で、被疑者の供述についての警察担当者の口頭での説明が真実をそのまま反映しているとは限らず、関係者などへの追加取材も行われていない。そのような段階で留保なしに、「容疑者は容疑を認めています」として、ストーリー全体が真実であると受け止められるような放送の仕方をするべきではなく、少なくとも先ほどの自宅マンションに至る経緯、それから「脱がせた」という、こういった事実については「疑い」や「可能性」にとどまることを、より適切に表現するように努める必要があるのではないかと考えています。
以上のところが、放送倫理上の問題の1点目であります。
放送倫理上の問題の2点目は、薬物使用の疑いの放送部分です。放送は「意識を失った疑いもあるとみて容疑者を追及する方針です」としています。この「疑い」があり「追及する」というところは、一般的に薬物使用の可能性を指摘するにとどまらず、何らかの嫌疑をかけるに足りる具体的な事実や事情があって、その疑いに基づいて警察が被疑者を追及しているのではないかという印象を与えます。そういう意味で、疑いがあるという印象を与えた放送というのは、単なる一般的可能性ではなくて、具体的疑いを示しているという点で正確性を欠くと。このような表現は慎重さを欠いていると言わざるを得ないというのが、2点目の指摘です。
放送倫理上の考え方としては、放送と人権等権利に関する委員会(BRC)決定、これはある大学のラグビー部の事案に関するものですけれども、「警察発表に基づいた放送では、容疑段階で犯人を断定するような表現はするべきではない」、それから「裏付け取材が困難な場合には、容疑段階であることを考慮して、断定的なきめつけや過大、誇張した表現、限度を超える顔写真の多用を避ける」といったことを指摘しています。
それから民放連の「裁判員制度下における事件報道について」の留意点として、予断の排斥等々が出ています。
三つ目が新聞協会の指針で、本件もちょうどこれに近いところですが、「捜査段階の供述の報道にあたっては、供述とは、多くの場合、その一部が捜査当局や弁護士を通じて間接的に伝えられるものであり、情報提供者の立場によって力点の置き方やニュアンスが異なること、時を追って変遷する例があることなどを念頭に、内容のすべてがそのまま真実であるとの印象を読者・視聴者に与えることのないよう記事の書き方等に十分配慮する」とあります。これは新聞協会の指針ではありますが、参考になるかと思い決定文の中でも引用しております。
こういったことを受けて「放送倫理上問題あり」と考えました。
結論としては、「副署長の説明は概括的で明確とは言いがたい部分があり、逮捕直後で、関係者への追加取材もできていない段階であったにもかかわらず、本件放送は、警察の明確とは言いがたい説明に依拠して、直接の逮捕容疑となっていない事実についてまで真実であるとの印象を与えるものであった」と。それから、先ほどの薬物等の使用について疑いがあるという印象を与えたと。この2点の指摘が、放送倫理上の問題です。
この決定文では引用してなくて、参考までにということですが、警察発表との関係についての参考判例で、一つは広島地裁の平成9年の判決があります。これは運転中のAさんの車を停めて、Aさんに拳銃様のものを突きつけて下車させ、近くに止めていた乗用車にAさんを乗車させ、ナイフでAさんの右手甲を突き刺したという、監禁致傷で逮捕した、というのが警察の発表でした。また、逮捕時に被疑者は覚醒剤を所持しており、覚醒剤所持の現行犯でも逮捕されました。
さて、それで記事をどう書いたかというと、逮捕の被疑事実を書いたうえで、「調べに対し、容疑者は『後ろを走っていたAさんの車がつけてきたと思い、腹が立った』と供述している」というコメントを加えています。報道側は、記者の動機に関する質問に警察は、「シャブでもやって、被害妄想でやったんだろう」と回答したことから、こういった記事を書いたんだと言ったのですが、警察は裁判になると、この警察の回答自体を行ったことを否定してしまいました。
それで判決では、犯行の動機を供述しているとして、その具体的内容が記載されていることから、被疑事実が単なる疑いに留まらず真実であるという印象を与えるとし、動機の供述の記載は、社会的評価を更に低下させ、真実性・相当性を欠き、名誉毀損になるという結論を出しています。
それからもう一つ、神戸地裁の平成8年のケースですが、広報資料の記載では、何年何月にある人の家の中で電話機を窃取しました、こういう犯罪事実でした。それで、窃盗での通常逮捕です。記事は「民家に忍び込み」というのを付け加えて、「民家に忍び込み、携帯電話を盗んだとして手配され」と書いた。この部分が名誉毀損だという主張をしたわけです。報道側としてみれば、人の家で盗んだのだから、当然、他人の住居に忍び込んだのでしょうと。通常、住居侵入と窃盗は、牽連犯と言って密接に関連するものだと言われているので、警察発表と同じだと主張したのですが、判決のほうは、住居侵入は牽連犯とは言っても、窃盗とは別の犯罪だから、住居侵入を伴う窃盗というのは全然罪状が違う。したがって、警察発表の被疑事実の範囲とは言えないとして、「民家に忍び込み」という部分を名誉毀損と認めました。こういった判例も参考にはなると思います。
最後に、肖像権・プライバシー侵害の問題ですが、先ほどのフェイスブックの写真、それから区役所の外観を撮影し、何々区役所区民課主事と言ったというところで、肖像権・プライバシー侵害だということが論点になったのですが、これは一般論として、委員会は、公務員が刑事事件の被疑者になったからといって、役職や部署にかかわらず、一律に公共性・公益性があるとは言えないだろうと考えています。被疑事件の重大性や、その公務員の役職、仕事の内容に応じて放送の適否を判断すべきだと。ただ本件の対象事件は、準強制わいせつで重い法定刑の事案である。それから申立人が窓口業務ということ、公共的な意味合いの強い場であることを考えると、こうした放送が許されない場合とは言えないだろうと考えました。
繰り返しの写真使用については、これも相当な範囲を逸脱しているとまでは言えないということです。ただし、曽我部委員は、ややこれはやり過ぎではないかという少数意見を言っていますので、後ほど(奥委員長に)説明していただければと思います。
それからフェイスブックから取得した写真の使用の点ですが、まず使用方法については、フェイスブックに公開すると同時に権利を放棄しているのではないかとも言われているのですが、こういう場面で使うことは一般論として一律に許されるとは、私どもも考えておりません。ただ本件については、その公共性・公益性という観点から考えて、こういった画像の使用も認められないわけではない、許されると考えました。
留意点としては、フェイスブックからの画像であると、通常皆、引用元として書かれており、出典を明らかにすることは良いかもしれませんが、これを書くと、視聴者はフェイスブックのその人のページに誘導されて、その申立人の画像だけではない、ほかの画像も見られるということになる。本件でも、申立人の画像以外に、親族の子どもさんの写真なども、その同じフェイスブックの中に入っていたそうで、親族の方からクレームがあり、ウェブサイトに載せていたニュースは短時間で削除した、というような経過があったと聞いています。フェイスブックの写真の利用には、このような側面があることに留意する必要があるということを付言しております。
以上がテレビ熊本で、熊本県民テレビについては、違いだけ説明します。放送が示す事実のところを見ていただきますと、熊本県民テレビは、abcdという、マンションに至るくだりや、「服を脱がせ」というのも含めて、容疑事実をずっと話して、最後にeとしてまとめて「容疑者は『間違いありません』と容疑を認めているということです」と、より端的にすべてを認めているという言い方をしています。
表現としては、テレビ熊本のほうが、やや容疑事実の違いを意識したとも言える放送だった。こちらのほうは、あまりそれは意識せずに、全体を容疑として認めているという言い方をしており、ちょっとニュアンスが違っています。あと、違うところは、放送倫理上の問題について、薬物の使用云々については、表現としては「可能性があるというふうに考えています」という程度の表現ぶりだったので、この点に関しては、熊本県民テレビについては、委員会は問題にしませんでした。
ということで、若干グラデーションが違うところはありますが、放送倫理上の問題を指摘したというのが本件の論点ということになります。
◆ 奥委員長
「事件報道と人権」という少し大きな括りになっていますが、最初に「人権」とは?ということです。難しい定義はさておき、私は「個々人が、社会にあって、幸せに生きることができること」、これが人間の人権だと考えています。放送局にとってみれば、名誉毀損とかプライバシー侵害とか肖像権の侵害とか、こういう形で具体的に人権の問題が出てくるわけです。
放送というのは、人権だけを全面的に考えると、放送できないケースがあります。そこに公共性・公益性や、真実性・真実相当性がある場合には、報道の自由があります。常にこれを人権と比較衡量して、どうなるかというふうに考えなければいけない。
今、市川委員長代行が説明された「事件報道に対する地方公務員からの申立て」事案は、容疑内容にないことまで容疑を認めているような印象を与えたということですが、人権侵害とまでは言えないけれど、放送倫理上問題があるという結論です。これに対して私の少数意見は、警察の広報連絡を基に、警察当局に補充の取材を行って、その結果を放送するのは、容疑者の逮捕を受けた直後の事件報道の流れとして一般的に見られるものであって、内容的にも、警察当局の発表や説明を逸脱した部分はないということで、放送倫理上の特段の問題があったとは考えないというものです。警察の広報担当者の説明があいまいだったということを決定は指摘していますが、新聞報道も大体同じことを書いています。そういう意味でも、本件放送に放送倫理上特段の問題があったとは考えない。
実はもう一つ少数意見がありまして、曽我部さんは、私の少数意見に基本的には賛成だが、放送倫理上問題ないから、それでいいという話ではないことを指摘しています。「もっとも、これは本件報道が良質な報道であったとするものでは全くない。申立人は一若手職員にすぎなかった者であり、本件刑事事件は公務とは無関係なものであるが、公務員というだけで、詳細の分からない段階で、顔写真はともかく、職場の映像の放送や、薬物使用の可能性の指摘、卑劣だとのコメントまで必要だっただろうか。あるいは、こうした扱いにふさわしい取材がなされたといえるだろうか」という疑問を呈して、「申立人の主張を信じるとすれば、若者が時に犯すことのある飲酒の上での軽率な行為という趣のものであった事案が、公務員による計画的な性犯罪であるかのような印象を与えかねないニュースとして報道されてしまったもので、申立人の悔しい思いは理解できるところがある」と述べています。この点は、この案件を考える時に非常に重要な問題だと私も思っています。
次に、「浜名湖切断遺体事件報道」です。これは連続殺人で二人を殺したとして容疑者が逮捕され、地元を震撼させた事件です。
「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関連を調べています」と放送しました。
申立人の訴えの内容は、「殺人事件にかかわったかのように伝えながら、許可なく私の自宅前である私道で撮影した。捜査員が自宅に入る姿や、窓や干してあったプライバシーである布団一式を放送し、名誉や信頼を傷つけられた」というものです。決定は、申立人の人権侵害(名誉毀損、プライバシー侵害)はないという結論です。放送倫理の観点からも問題があるとまでは判断しませんでした。
申立人はこの事件で捕まった容疑者の知人で、事件発覚前にこの容疑者から軽自動車を譲り受けています。さらにこのテレビニュースがあった日に、警察が申立人宅へ赴き、この軽自動車を押収した。そして申立人は、同日以降、数日間にわたって警察の事情聴取を受けている。これについては、申立人も認めている争いのない事実です。申立人の主張の前提は、この日の警察の捜査活動は容疑者による別の窃盗事件の証拠品として申立人宅敷地内にあった軽自動車を押収しただけで、浜名湖連続殺人事件とは関係ない、ということです。ところが、ニュースは「関係者」「関係先の捜索」といった言葉を使い、申立人をこの事件に係わったかのように伝え、申立人の名誉を毀損した。また、申立人宅前の私道から撮影した申立人宅とその周辺の映像が含まれ、申立人であることが特定され、プライバシーが侵害されたと主張しています。
「プライバシー」とは、他人に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄で、本人の意思に反してこれらをみだりに公開した場合はプライバシーの侵害に問われる。ここでは、「みだりに」というところが重要なわけです。本件放送の場合はどうかというと、申立人宅の映像はただちに申立人宅を特定するものではないし、布団や枕などの映像も、外のベランダに干してあるわけですから、個人に関する情報や私生活上の事柄とは言えないだろうということで、プライバシー侵害には当たらないという決定にしました。
一方、ニュースの内容がその人の社会的評価を低下させるということになると、名誉毀損という問題が生ずるわけですが、その際に公共性・公益性があって、さらに真実性・真実相当性があれば名誉毀損に問われないという法理が確立されています。この場合は、現地における大事件ですから、その続報を放送することは、公共性・公益性はもちろんある。問題は、真実性・相当性の検討になってくる。申立人宅における当日の捜査活動が浜名湖遺体切断事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車を押収した。これは本件放送の重要部分で、これには真実性が認められます。
問題は、「関係者」「関係先の捜索」という表現をしたことによって、この真実性を失わせるかどうかです。テレビ静岡は、当日の捜査活動の全体像を知っていたわけではない。リークされた情報があり、捜査本部のある警察署から捜査車両が出て行ったのを追尾していったら、申立人の家で捜索活動が行われたのですが、テレビ静岡は映像を撮った段階では、一体この申立人宅でやっていることは、全体の中でどういうことなのかは、実は分かっていなかったということです。そういう時に「関係者」とか「関係先の捜索」という表現を使うのは、ニュースにおける一般的な用法として逸脱とは言えないという判断をして、申立人に対する名誉毀損は成立しない、という決定になったわけです。
ただ、申立人宅内部の捜索が行われたのかどうかということは実は問題で、アナウンサーのコメントは、最初のニュースが「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は今朝から関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関係を調べています」というものです。申立人宅の映像は、この時を含めて繰り返し使われ、遅くなるほど詳しくなって、2階の窓の映像も加えられたりしています。実際は、家の中の家宅捜索は行われていなかったのですが、あの時点で取材陣が、捜索が行われたと考えたことには相当性が認められる。しかし、時間の推移とともに申立人宅での捜索活動は、車の押収だったことは推定できたはずです。にもかかわらず、だんだん映像が多くなってくるわけですから、申立人宅映像の使用は、より抑制的であるべきではなかったかということを要望しました。
次に少し事件報道一般についてお話ししたいと思います。
「事件報道は人を傷つける」と私はいつも言っています。逮捕された容疑者は当然、「ひどいことをする人間だ」と世間から指弾されます。ほかにその事件の関係者はいろいろいるわけです。容疑者の家族、被害者、その家族、いろんな人がいますけれど、みんな何らかのかたちで傷つくのです。こういうところは、言い過ぎかもしれませんが、事件報道の"原罪"なのかと思います。事件報道は、一方にクールで成熟した市民が受け手としていて、もう一方に熟練した職業人としての腕と情熱、そして品性を持ったジャーナリストがいる。その往還の中で、"原罪"的なものを、つまり事件報道が持っている「悪」を飼い馴らす、という方向でやっていくしかないだろうと考えています。ニュースの送り手としては、腕と情熱が非常に重要だと思います。情熱がないと特ダネが取れません。やっぱり特ダネというのは大変重要なものですが、特ダネを取ろうとすると、しばしば人権を侵害する事態になってしまうこともあります。
事件報道は、つまりは犯罪についての報道です。犯罪を捜査しているのは警察で、ニュースソースの大半は警察なわけです。だから警察が間違うとひどいことになります。この点では松本サリン事件が大きな教訓を残しました。1994年に長野県の松本市の住宅街で未明によく分からないガスが漂って7人死亡したという事件です。その第一通報者が犯人視扱いされて、ひどい報道がされました。長野県警の初動捜査の誤りで、警察情報に依存する報道が、ある意味で仕方ないところはあるけれど、結果は非常に最悪のケースになりました。
ではどうしたらいいのか。よく言われていることは、情報を多角化し、警察情報を相対化しなければいけない。そして、「特ダネ」至上主義からの脱却。松本サリン事件を見ていると、「もうよその社が書くよ」、「これ書かないと特落ちになっちゃうよ」ということがありました。そういう「横並び意識」をどこかで排除しないといけない。では何が必要かというと、私は「道理」の優先というのをいつも言っています。ちょっとおかしくないか、と踏み止まってみる。物事の正しい筋道、筋が通っていることを、しっかりと考えましょうということです。
さて、報道被害について。報道被害が大きく問題になったのは、和歌山毒物カレー事件です。事件があったのは、和歌山市の園部地区という小さな集落で、そこに全国から新聞・テレビ・週刊誌の大取材陣が来て、その地区の住民は日常生活ができなくなったという状況になりました。これはメディアスクラム、集団的過熱取材と言われて、あらためて問題になったのですが、日本新聞協会や民放連も見解等を出しています。民放連の見解を少し紹介しますと、「嫌がる取材対象者を集団で執拗に追いまわしたり、強引に取り囲む取材は避ける。未成年者、特に幼児・児童の場合は特段の配慮を行う」「死傷者を出した現場、通夜・葬儀などでは遺族や関係者の感情に十分配慮する」「直接の取材対象者だけではなく、近隣の住民の日常生活や感情に配慮する。取材車両の駐車方法、取材者の服装、飲食や喫煙時のふるまいなどに注意する」と、具体的に書いています。やっぱり具体的に非常に注意しないといけないということです。
では、メディアスクラム状況を起こさないためにはどうしたらいいのか。現場の記者クラブである種の協定をするとか、そういうことをしなければいけない。しかし、実は問題は、どこまで取材して、何を伝えるかというのが根底にあるので、それを抜きに、協定すればうまくいくという話ではないですから、難問として最後まで残るだろうというふうに思います。
ここに来ている方は、報道の現場の方が多いと思いますが、昔は「知る権利」という言葉がよく使われました。市民から付託されて、メディアは取材対象に向き合う、市民に後押しされるという存在でした。今や、メディアは挟撃されているというのが私の認識で、取材される対象からは、酷いじゃないかとかフェイクニュースだとか言われたり、一方市民の方からは、人権抑圧だというふうに言われたりして、挟撃されている。非常に難問に迫られているのですが、しかし、こうした状況だからといって萎縮してはならない。積極果敢に打って出なければいけないと思います。
新しい『判断ガイド』の前文に、私は「私たちにとって最大の武器は歴史と経験に学ぶことができる力です」と書きました。判断ガイドに沢山の事例がありますが、こういうことで活用していただきたいと思います。「人権」が強く叫ばれるようになって、ますます取材が難しくなるという状況の中ですが、皆さんいろいろ工夫しながら、いいお仕事をしていただきたいと思っています。
◆ 【委員会決定について】
○参加者
「人権」とは?という説明の中に、「個々人が、社会にあって、幸せに生きることができること」とありますが、裸の写真を撮られたこの女性は、社会にあって、幸せに生きることができたのでしょうか。私は一番人権侵害を受けたのは、この女性なのではないかと思うんです。それを許せないという思いが、報道の発露ですし、深く掘り下げて取材しようとした記者の行為は当然だと思います。当然行き過ぎた報道とか反省すべき点はあると思いますが、その被害者の女性を差し置いて、一若手の職員の方がBPOの制度を使って、自分の人権侵害を申し立てるというのが釈然としないので、こういう質問をしました。
●市川委員長代行
被害者の女性とは接触していないので、その後の経過とか、心境というものは把握していません。BPOの建て付け・枠組みは、放送された側と放送局との問題なので、その事件の背景にある被害者の方がどう思ったかなどの点の究明は、構造上どうしても限界があることはご理解いただきたい。この事案は、公共性・公益性があるので報道に値するが、真実らしいとして報道できるところだけでなく、そこまでは認められない事実まで真実らしく認められるように報道している部分が行き過ぎではないか、というのが本決定の言いたいところです。
○参加者
熊本の事案について、あれ以上どういう形で確認等、表現を考えればいいのか、非常に悩んでいるところです。当然初報の段階で、解説員がニュースを補足するような感想を言うのは、私自身もおかしいと思いました。しかし、何月何日被疑者宅で女性が裸を撮影された、というのが事案の概要で、これだけではニュースにならないし、抗えない状態というものを構成する要素として、酒を飲ませたり、連れ込んだりといった具体的な説明をすることが、倫理上問題があるのかを教えていただきたい。
●市川委員長代行
一つは、何を認めているのかという問題です。「認めている」ということは、今までグレーだったものが真っ黒になるわけで、非常に重たい言葉なんです。だとすれば、一体どこからどこまで認めているのかをきちんと吟味すべきだと思います。初報の段階で、広報担当の話を聞いたうえで、実際にどこまで認めているのかを、もう一歩踏み込んで聞けばよりクリアになるはずです。もう一つは、あれ以上の言い方はできないとおっしゃいましたが、事案の概要として書かれたことを認めていると、ここでまず切れるわけです。捜査当局がどこを疑いとして、見立てとして言っているのかは、はっきり区別すべきだと思います。新聞報道では、その辺りを区別しているなと受け止められる全国紙もありました。
また、抗拒不能の状態について聞くのは自然ですが、抗拒不能というのは、酒に酔って抵抗できない状態のことを言うわけであり、それがなぜ起きたかということについては、あの段階では警察は見立てとして考えていたとすると、車に乗せて連れ込んで裸にしたということが、抗拒不能という事実の中に含まれているというふうには受け止めないほうがいい、したがって、事案の概要以外のこともすべて認めているという印象を与える報道はしないほうが良いだろうと思います。
●二関委員
この事案の概要は、裸の状態を撮影したというものです。そのような状況に至るまでには、部屋に行ったり、服を脱いだりといったいろいろな経過があったはずなのに、撮影という一瞬の出来事だけを切り取っているわけです。
なぜその一瞬だけなのかと記者の方も思うはずです。それゆえ、メディアとすれば警察に取材することになるのでしょうが、他方、警察のほうもメディアが絶対聞きに来るなと分かっていて、文書で発表する部分と、あとは口頭で言おうとする部分とを使い分けているのではないかと思います。そのような警察の想定に乗せられてしまった事件ではないか、という気がしています。さらに、もし、無理やり服を脱がせたといったことについても被疑者が犯行を認めていたとすれば、被害者と被疑者という関係者の供述が一致しているわけですから、なおさら、なぜ撮影という一瞬の出来事の部分だけを切り取って事案の概要として公式発表したのか、疑問が生じても良い事案ではなかったかと思います。
○参加者
「肖像権・プライバシー侵害か」のところで、「区民課の窓口で一般市民とも接触する立場にあり、勤務部署も公共的な意味合いの強い場であることに鑑みれば、職場や職場での担当部署を放送することが許されない場合とはいえない」とあるが、一般市民と密接にかかわらない他の部署の一職員だと、その職場の映像はもとより、○○課というような表現をすることは疑問である、という結論に導かれてしまうのでしょうか。
●市川委員長代行
一般的には、選挙される立場の公務員や議員の方たちの、公共性・公益性というのは非常に高く、それ以外の公務員の場合には、地位や扱っている業務との関係で、公共性・公益性が論じられると思うので、今回は窓口の人であることは一つの要素として考えましたが、窓口対応しない人は公共性がないのかと言われれば、そうでもないだろうし、一概には言えないと思います。普通の区役所の職員であった場合に、すべて公共性・公益性が認められ、必ず名前や顔を出し、こういう扱いをすることが認められるかと言うと、必ずしもそうでもないだろうと思います。
●二関委員
当時の議論で覚えているのは、課長職以上のように意思決定に大きな権限を持っている人と、そうでない人とは一線を画すのが妥当であろうといった議論です。このケースでは、若手の現場の職員なので、公共性は低い方に分類されることになるけれども、市民との接点もある人だから、その点も踏まえた考え方を取り入れて、単純に公共性が低いという扱いにはしないようにしましょう、という議論をした経緯があります。
○参加者
立場や役職というものではなく、逮捕容疑の重さで判断していいのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。
●市川委員長代行
そこは仮定の議論なので、何とも言い難いですが、職務とかの要素を考えないで一律にというわけにはいかないのではないかと思います。報道するかしないかということと、どこまで突っ込んで放送するかですね。あの場合には、窓口対応のその窓口の席まで映したわけなんですけど、そこまでやる必要があったかということも関係するのかなと思っています。
○参加者
フェイスブックの写真の使用について、「その友人や家族のマスキングのない写真や情報を閲覧することができるということにもなりうる。フェイスブックの写真の利用にこのような側面があることには留意する必要がある」と書いてあり、意味は分かるが、どう留意すればいいのかは非常に悩むところです。今回の件に関して、そういった議論があったかを参考までにお聞きしたい。
●市川委員長代行
その点はおっしゃる通りで、私どもも正解を持ち合わせているわけではありません。ただ、報道後、フェイスブックの中の写真に小さなお子さんの親族の写真も写っていて、そのお母さんから連絡があったりして、フェイスブックの写真には波及効果があるなということを感じました。
また、WEB上のニュースなどの映像について、いつまで出し続けるかという問題もあると思います。フェイスブックからの引用自体が許されないということはないだろうし、その際に出典は明記するはずだと思いますし、正解はありません。ただ、SNSの写真はそういう紐付け効果みたいなものや、永続的にいろんな人がたどり着けるので、アルバムの写真を載せるのとは違う要素があることは、考えたり気をつけたりしないといけない。今の段階ではそのようなことを考慮して放送すべきだろうと考えます。
●二関委員
他からも入手できる写真があるにもかかわらず、ネットで取れて簡単だからといって、フェイスブックに流れるという姿勢は、避けることができる場合があるように思います。
○参加者
今のご発言について、参考のコメントとして言いますと、おそらく各社がフェイスブックの写真を知り合いの人などに見せて確認したり、他から入手した写真と照合したりしたうえで使っています。裏取りの作業は報道現場でも今は求められていると言えます。
さて今回の熊本の件ですが、私はどうしても奥委員長の少数意見に共感してしまいます。BPO、特に人権委員会は、メディアの人間と、法律家あるいは研究者の、ある意味価値観のせめぎ合いの場なのかなという気もします。それで、参考判例(2)の平成8年の神戸地裁の判決について、当然法律家は判例に沿って考えると思うのですが、社会通念から見て、個人的な評価というか感想を、法律家出身のお二方の忌憚のないところをお聞きしたい。
●市川委員長代行
印象としては、たしかに厳しい判決だろうなとは思います。ここで例として挙げた理由は、今回のような広報資料として出されてきている事実と、それ以外のこととは、やはり違うんですよ、ということです。法律家がこういうふうに考えることは、全く世間から乖離しているということではない。今回の件で言えば、真偽のほどは分からないが、裸の女性の抗拒不能の状態の写真を撮ったという事実と、それ以外の酒を飲ませて、連れ込んで、裸にしてということが付け加わっているのと、受ける印象はかなり大きな違いがあることを考えないといけないと思います。
●二関委員
犯罪事実というのは、午前2時35分から9時30分頃までと幅がありますよね。これが深夜だけしかなかったら「忍び込んだ」というふうに思えるが、人が起きているような時間を含んでいますから、入った経緯までは違うことがあり得ると、理屈で考えればあると思います。ただ市川委員長代行が言ったとおり、たしかに厳しいかなという感想ではあります。
●奥委員長
私は法律の専門家ではありませんが、警察の広報担当者が説明したことを書いたら、それについては基本的には責任は問われない、という判例もあるようです。
○参加者
参考判例(2)は、「忍び込み」を排除して窃盗するということは、相当広げないと常識的に難しいかなと思い、こうしたことがベースになって積み重なっていくのは、結構危険な面もあるのかなというふうに感じたので、こういう質問をした次第です。
●市川委員長代行
先ほど奥委員長が言った、警察発表を信じてそのまま書いたら、それは相当性がありというのは、決定でも引用した、平成2年の判決があります。もう一方で、平成13年の判決では、警察発表だからと言って、被疑事実を客観的真実であるように書いてはいけないというものもあります。そういう意味で、名誉毀損が成立するかどうかという観点からいくと、現在の状況で名誉毀損とまでは言えませんね、と我々は議論して考えました。ただ、違うレベルの問題として、放送倫理の問題から言うと、熊本の事件のこの事案では、放送倫理の問題を指摘できるのではないかということです。
○参加者
熊本の事案は、放送倫理上問題があるという判断で、静岡の事案は、放送倫理に問題があるとまでは判断しなかった、この違いは何だろう、そこまでの違いがあるようには自分の中ですっきりと消化ができていないところがあります。静岡の案件で言うと、軽自動車を譲り受けていた知人の家に、警察が車を押収するなどの捜査活動をしている映像が映っている。私もよく言われますが、特に田舎だと住所を言わなくても、ちょっと映像が映っただけで誰の家かはすぐ分かると。この映像が映ったおかげで、殺人事件にかかわっていないのに、犯人扱いされたという話だと思うが、むしろこっちのほうが熊本の件よりも人権侵害の要素があるのではないかと思ったりします。
静岡の件で、放送に問題があるとまで判断しなかったというところに至ったポイントは、殺人事件に関する報道の公共性・公益性などを重要視したのかどうか、補足で教えていただきたい。
●奥委員長
公共性・公益性ではなく、それはもう入口としては当然ある。問題は、あのニュースが、「関係先」とか「関係者」という表現をしているが、実際に申立人があの事件の犯人と直接かかわりがある、この事件の関係者であるという意味での関係者というふうに、視聴者に受け取られるかというと、必ずしもそうではないでしょう、という判断です。
●市川委員長代行
まず、名誉毀損かどうかを考えた時に、その放送自体がその人の社会的評価を下げるかどうかですが、浜名湖の事案の場合には、特定性の問題もあり、事件の被疑者とは描かれていません。彼の社会的評価を下げていることにはならないということで名誉毀損にはならないということになっています。熊本の場合には、犯罪報道で、申立人は特定されて社会的評価が下がっています。真実性の証明もできていない。しかし、真実と信じたことの相当性というところで名誉毀損とはならなかった。レベル感は違うと思います。
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●司会
次に事前アンケートの中に、「事件、事故の犠牲者の顔写真を友人から入手して放送する場合、家族の了承は必要でしょうか」とか、「未成年の場合は、保護者の了承を取る必要があるでしょうか」また、「報道で名前や顔などの情報をどこまで出せるのか」といった、各局に共通して気になるところがありました。今回、二関委員にポイントを参考資料にまとめていただきましたので、資料の説明をお願いします。
●二関委員
事務局から、「実名報道」「子どもへのインタビュー」「顔写真の使用」の3件について報告してほしいという依頼がありましたので、これらについて説明したいと思います。
まず「実名報道」ですが、日本新聞協会が『実名報道』(2016年)という冊子を出しておりますので、これをベースに項目等のご説明を簡単にしたいと思います。この冊子には、「実名報道が原則だ」とする根拠が書いてあり、配付資料に挙げている項目がそれに対応しています。メディアがこのような広報をすることは重要ですが、他方、その根拠づけが一般化できるのか、どこに限界があるのかといった視点を持って読むことも重要と思います。
まず一つ目は、「知る権利」への奉仕と書いてあり、最高裁の「博多駅テレビフィルム提出命令事件」を挙げていて、民主主義社会における国民の「知る権利」の重要性を書いています。「国民の『知る権利』がまっとうされるために、実名は欠かせないと考えます。実名こそが、国民が知るべき事実の核だと信じるからです」と書いてありますが、これは信念であって、これ自体は根拠ではないと思います。また、「民主主義社会において」ということですから、それと関係ない文脈に関する事実についての実名については、この理由づけで説明するのは難しいかと思います。
次に、「不正の追及と公権力の監視」と書いてあります。これは、たしかに大事なことで、今日も地方公務員の話が出ていましたが、公権力に携わる人に対する実名の問題と、一市民の実名の問題とでは、違ってくると思います。
次に、「歴史の記録と社会の情報共有」という項目で、友人や職場の同僚、地域の人々など広い意味での知人は、報道によって安否についての情報を知る、と書いてあります。報道にそのような機能なり効果はあるでしょうが、他方、報道は、全く関係のない人にも広く伝えるものですから、この理由づけによって説明できない人もそれに接するんだという点には留意が必要と思います。
次に、「訴求力と事実の重み」とあって、実名による報道は、匿名と比べ、読者、視聴者への強い訴求力を持ち、事実の重みを伝えるのだ、と書いてあります。たしかに、そういう場合も多いとは思いますが、一方で、文章で工夫することによって、名前を使わなくても訴求力を持った記事はありえ、工夫できる場面によっては実名は必ずしもいらない場合もあるのではないかと考えられます。
あと、「訴えたい被害者」の記載で、被害の事実と背景を、自らの立場から広く社会に訴えようという方もいる、ということです。これは、そういう方もいれば、そうではない方もいる、という話だろうと思います。
以上が「実名報道原則」の関係です。
続いては、「発表情報と報道情報の峻別」という問題です。これは警察に代表されるような公的機関などが、そもそもメディアに対し、実名を伝えないで匿名にしてしまうという問題です。これは本当に大事な問題です。メディア側からすれば、自分たちの責任で報道の段階で出すかどうかを適切に判断するということなのでしょうが、発表する側からすれば、本来実名が出されるべきではない場合に、ある社はきちんと対応していても、よそから実名で出てしまうという問題も生じるかと思います。他方、そうであるからといって公的機関だけが情報を握ったままというのも問題で、なかなか難しい落ちつきどころを見つけにくい問題という気がしています。
次に、「被疑者・被告人と被害者」という項目を挙げました。被疑者・被告人に関しては、裁判例を配付資料の後ろに載せておきました。この二つの事案の裁判例は、実名で犯罪を報道したことで名誉毀損となった裁判の判決です。(「福岡高裁那覇支部2008年10月28日判決」、「東京地裁2015年9月30日判決」とその控訴審「東京高裁2016年3月9日判決」)
これを見ますと、裁判所は実名報道を応援してくれている、というように読み取ることができると思います。いろいろな理由を挙げて、やはりそこには公共性・公益性があるのだと言ってくれています。ただ一方で、プライバシーも大事だと言っています。要は、事件報道に関するものであるから実名でいいと直ちに結論づける発想は、裁判所は取っていません。結構きめ細かく事案ごとに、要素を見て判断していることが分かると思います。
東京地裁で一般論を述べているところがありますので紹介します。プライバシーの侵害については、実名を公表されない法的利益と、これを公表する理由とを比較衡量するのですが、その際に考慮すべきは何かというと、「(1)新聞に掲載された当時の原告の社会的地位、(2)当該犯罪行為の内容、(3)これらが公表されることによって、原告のプライバシーに属する情報が伝達される範囲と、原告が被る具体的被害の程度、(4)記事の目的や意義、(5)当該記事において当該情報を公表する必要性など、その事実を公表されない法的利益とこれを公表する理由に関する諸事情を個別具体的に審理し、これらを比較衡量して判断することが必要」と言っています。
被疑者の場合と、被害者の時とは、だいぶ状況が違います。
被害者に関しましては、冊子『実名報道』の中で、二次被害防止、軽微な事件、性犯罪の被害者、亡くなった被害者本人や遺族にとって「不名誉な死」にあたるか否かを基準に判断をする社もあるとの記載があり、それも一つの考え方かと思います。
それから、「一過性と継続性」という項目も挙げておきました。これは基本的に報道する側は、報道するまでで終わってしまうのに対して、報道される側は、そこから始まる、ということです。インターネットが普及してきますと、そもそも情報が残る、そういう傾向がより顕著になってくるのではないかと思います。
あとは、「報道機関の匿名措置とネットでの実名流布」という問題です。報道機関が匿名措置を1回取っても、ネットではさらされる状況というのが、事件によっては時折見られます。これをどう考えるかということです。報道機関としては、ネットに載っているからうちも、といった情報伝達の横並びの話にはおそらくならなくて、報道機関は報道機関としての矜持を持って対応すべき場面であろうと思います。さらに、気を付けなくてはいけないことは、自分のところで匿名措置を取っていたとしても、ネットの情報と突き合わせることで個人が特定できてしまう、そういうことがあることを念頭に置かなければならない難しい時代に入ってきているという気がします。
実名報道に関しては、当委員会の曽我部委員も、朝日新聞が出している『ジャーナリズム』2016年10月号に記事を書いていますので、ご参考にしていただければと思います。
では2点目にまいりまして、「子どもへのインタビュー」という問題です。これは何がテーマかによって異なってきます。例えば地域のお祭りなどのイベントに参加している子どもを取材する場合と、事件が発生した際に同じ学校の生徒に取材するといった場合とでは違ってくるということは、お分かりいただけると思います。
配付資料に「保護者の承諾」、「本人の承諾」と書きましたが、一定の場合には本人の承諾のみならず、保護者の承諾も取るべきでしょう。「財産権と人格権」と書いたのは、民法などでは、財産権にかかわる事項の場合には、お小遣いを超えるような範囲の時には、親権者などの法定代理人の同意を得ることになっていますが、人格権にかかわることであれば、ある程度の年齢、例えば高校生ぐらいになってくれば、むしろ未成年者であろうとも自分で判断できる事項もあるでしょうから、そういう時に親の同意があるので子どもの同意がなくていい、といった考え方はとりにくいと思います。
そして、NHKの『放送ガイドライン』からの引用ですが、「未成年者の取材や番組出演にあたっては、本人だけでなく、必要に応じて保護者に、その趣旨や内容を説明し承諾を得る」とあります。これは本人からの承諾は当然としたうえでの保護者の承諾ということですね。あと「未成年者に対しては、取材や出演が不利益にならないよう、十分配慮するとともに、精神的な圧迫や不安を与えないよう注意する」とあります。これは2001年に、池田小学校という大阪の事件がありましたが、あの時に事件現場で子どもがインタビューされたことに対して、それを見た視聴者などからかなり批判がありました。そういう子どもの心のケアが大切な時に配慮が足りないとか、ショックを受けている子どもにマイクを向けるとは非常識だ、そういった批判があったことなどを受けて出てきているガイドラインかと理解しています。
あと、BPO青少年委員会が2005年に出した「児童殺傷事件等の報道」についての要望の中で、「被害児童の家族・友人に対する取材」に関する部分を、配付資料に挙げておきました。
最後に3点目の「顔写真の使用」については、今日配られた『判断ガイド2018』の顔写真の使用についていろいろと書かれた場所がありますので、該当頁だけ挙げさせていただきました。時間の都合上、後でお読みいただければと思います。(「匿名報道、モザイク映像等(27頁~)」、「容疑者映像等(42頁~)」、「肖像権(71頁~)」)
ここで言っているのは、安易な顔無しなどはしないということです。ある意味、負のスパイラルみたいなところがあって、顔無しの映像を普段見慣れた視聴者は、例えば取材を受けた時に、「一般的にそうだから自分も顔無しにしてほしい」と要望してくることが増えるでしょうし、取材する側もそのように言われると説明に窮して応じてしまい、その結果、ますます顔無し映像が増えるという流れが、最近できてしまっているような感じがします。そういった流れを、安易な顔無し映像を減らすことでコツコツと軌道修正していくといった地道な取り組みが大切かと思っています。
どの問題にしても、この場合にはこうすべきだという、カチッとした正解がある世界ではないので、なかなか難しいと思いますが、議論のきっかけとしてご報告させていただきました。
○参加者
4年前の土砂災害で高校生の男子が亡くなり取材していたら、同級生が、「良いやつだったから、顔写真を是非使ってほしい」というので、写真をもらって放送したのだが、その後お兄さんから電話があって、「何で勝手に使うんだ」とお怒りになっていた。別のデスクが受けたので、私が引き受けてお兄さんと話をしたら、その段階ではすでに怒りが収まっていて、実は抗議の電話をかけた後に、「親や周囲から怒られた。何てことを言っているんだ」と言われ、それ以上は進まなかったということがありました。
友人、知人から入手した写真、特に未成年者、子どもさんの場合に、もう時間もないし、確認もできたから使った時に、使うという判断をする前に、自分は親の承諾を取りに行くと考えているものかと思い、もし「使わないでくれ」と言われたらどう対応すべきなのか判断に迷うところです。
●市川委員長代行
問題は二つあって、同級生が未成年であり、その未成年から写真をスッともらうこと自体がどうかという問題と、その未成年の被害者の写真を使ったら、被害者の遺族にとってどうかという問題があると思います。最初の点については、その写真の性格にもよるとは思いますが、アルバムや皆さんと一緒に映っている普通の集合写真をもらう時に、その子の親の承諾を取るかと言われると、個人的な見解ですが、そうでもないと思います。被害者のほうについても、どこまでの範囲でご遺族に了解を取るかというのも、にわかに回答できませんが、私の個人的意見としては、すべて取らなきゃいけないというふうには思いません。
●奥委員長
今は写真の話ですが、実名報道の問題とも絡んできて、名前を出してほしくないという時にどうするか。基本的には、どういう報道なのか、どういう事案なのか、どういうケースなのか。先ほど二関委員も比較衡量の話をしていましたが、やっぱりこれには写真が必要なんだ、これには実名が必要なんだ、という判断を、承諾が取れたか取れないかとか、取ろうとか取らないとか、ということとは別に、報道する側でしなければいけないと私は思います。その時は崖から飛び降りてやるんです。後から文句が来たら、それは必要だったというふうに言わざるを得ない。ただし、実名は要らないケースがあるだろうし、実名を載せることによって人権侵害とか二次被害が出てくる問題の時は避ける。顔写真の問題も、要らない場合もあるだろうし、ということを常に考えないといけないのだが、よそから言われたから載せるのを止めましたよ、という話ではなかろうと私は思っています。
●二関委員
私も委員長の意見とほぼ同じですが、いずれにしても何かクレームが来たら、こう説明できるようにしようと、ちゃんと考えたうえで出すか出さないかを決める。外に対して説明できるような判断を経たか、というところが大事だと思います。
●市川委員長代行
写真の場合、どういう切り取り方をするかというのもあって、前回の意見交換で出たのは、被害者のご家族で、母親と幼児のお子さんの写真がフェイスブックに載っていて、非常に広く撮って報道しているところと、顔の部分だけが出るような形で報道しているのとでは、受ける印象がずいぶん違うなと思いました。その事案の性格に見合った形で出す顔写真のほうがふさわしいという話に、意見交換の中でなったことはあります。今回の場合もフェイスブックの写真が2回ぐらい出てくるのですが、カメラを持ってほほえんでいる全身像の写真の印象は、ただ顔写真が出てくるのとすいぶん印象が違う感じがして、報道される側からすると非常にさらされている感じがあるのかもしれないと思いました。参考までに。
○参加者
我々が自社でやるニュースサイトについては、期限を決めて閲覧できるようにしているが、意図せずインターネット上に拡散されていったものは、将来も流れて行ってしまう。我々は公共性・公益性があると判断し、一度出したものではあるが、それが長く残ることによってさらに人権を侵害してしまうおそれが出てくるとかについて、BPOへ申立てや協議になったものなどはありますか。
●奥委員長
何年か前に「大津いじめ事件」についての決定があります。テレビのニュース画像に裁判の資料が出て、いじめの加害者の名前がちょこっと出たんです。ニュースの画像を見ている限りでは全然分からないが、録画して静止画面にしてキャプチャーして拡大すると読める。それがネットに拡散して、被害を受けた方からの訴えがありました。BPOにとっては、たぶん新しい問題でもあったが、テレビ局はそういう形でネットに流れるということを想定して、ニュースなり番組なりを作らなければいけないという結論になりました。
通信と放送の融合とか、いろんなことを言われる時代ですから、それは知らないよ、勝手に向こうがやったことでしょ、という話にはならないと言わざるを得ない。そこまで注意する。これがネットに流れて残った時にどうなるか、そういうことを考えてやらざるを得ない。そういう時代に今至っているなと思います。
●二関委員
別の観点からですが、誰かが勝手に流していて今でもネットで映像を見ることができるからという申立てが来ても、元々の放送局がやっていた時を基準にしてBPOが定めている期限を過ぎていたら、審理入りはしないことになると思います。一方で奥委員長が言ったとおり、注意すべき点があるのはもちろんですが、そういうことがあるからといって、萎縮し過ぎてもいけないのであり、難しいところだと思います。そこについては、いわゆる"忘れられる権利"といった概念で対応して、消すことができるルールが別途適用されるのであれば放送局は萎縮しないで済むかなと、私としては思っていました。しかし、2017年1月の最高裁決定は結構厳しい基準で、なかなか忘れられる権利的なものは認めてくれないので、難しい状況だという感想です。
●市川委員長代行
委員会決定に、無許可スナックの摘発報道の事件というのがあって、テレビ局のサイトで被疑者の方のニュース映像がアップされ、それが約1か月、映像を見ることができる状態になっていたものがあり、事案の重さからしてもやり過ぎではないかということを指摘したことはあります。期間とか名前をどれくらい残すかは、ネットではまた別の配慮が必要だと思います。ただ、それを二次利用したりするのは、基本的にそれ自体をBPOは判断の対象にはしません。
***
こうした参加者との意見交換を受けて、最後に奥委員長が次のように締めくくり閉会した。
「いろいろと直接生の声を聞いて、考えさせられることが沢山ありました。『放送倫理』とは何か、と言われても答えはなかなかなく、どういう点が必要かについてはガイドブックにも書いてありますが、いろいろな事案を考える時には、放送倫理にどう問題があるのかないのかを、その都度事案に即して考えざるを得ないのが実態であります。
実際問題としては、番組を作ったりニュースを流したりしている方が、もっと身近に感じている問題だと思います。その際には、常にそういうことを考えていただきたい。けれども萎縮すると言いますか、当たらず障らずというのでは、報道の使命は達せられないだろうと思いますので、是非果敢にお仕事をしてほしいと、私はいつも言っています。今日は本当にありがとうございました。」
以上