放送人権委員会

放送人権委員会

2018年2月2日

長野で県単位意見交換会

放送人権委員会は、2017年度の県単位「意見交換会」を2月2日に長野で開催した。意見交換会には、長野県内の民放5局とNHK長野放送局から47名が参加し、2時間にわたって行われた。意見交換会では、まず濱田純一理事長が「BPOとは何か」をテーマに講演した。その後、最近の委員会決定から「事件報道に対する地方公務員からの申立て」と「浜名湖切断遺体事件報道に対する申立て」の決定のポイントを委員から説明し、それを受けて委員と参加者との間で意見を交わした。とくに、フェイスブックにある写真の使用について、各社から軽井沢バス事故での経験が報告されるなど、具体的な意見交換が行われた。
概要は、以下のとおり。

◆ 坂井委員長

本日は、本当にありがとうございます。
まず、ご挨拶に代えて、こういう意見交換会の意義というものを、簡単に述べさせていただきます。
放送人権委員会というのは、申立人がいて、局と申立人の話が、うまく話し合いで解決できないときに申立てを受け付けて、それを委員会で審理をして決定を出すという形式なので、どちらの結論が出ても、誰かは不満を感じることになります。ですが、報道の自由と、名誉、プライバシー、肖像権などの人権、それはどちらかが優越するというものではなくて、報道の自由も大切だけれども、報道する側も報道される側の人権を配慮して報道していかなければならない。そのバランスがどうなのかという問題なので、報道の自由も人権もそのどちらもが大切なのだということを、まず申しあげたいと思います。
放送における表現の自由、報道の自由は、NHKと民放連・民放各局を合わせた放送界全体で、自律して守って行かなければいけないものだと考えています。自律して守っていくということは、放送、報道をするときに、やはり人権に対する配慮もしっかりしていかなければなりません。
私たちは、そういう具体的な事案を扱いますから、委員会がどんな議論をして、どうしてこういう結論になったのかを、放送現場の皆さんと率直に意見交換できることは、すごく大事だと思っています。
さて、委員会決定を読むときのポイントですが、まず、委員会がどういうことを議論したのかということを考えていただくことが大事です。そして考えるときに、結論が厳しいとか厳しくないといった議論ではなくて、どういう事実認定、論理構成をして、こういう結論に至ったのか、そういう視点で読んでいただきたい。そういうところを理解していただくと、決定を今後に生かしていただけるのではないかと思います。もう一点、放送する側にいる方は、ついその立場でものを考えてしまいますが、この放送において、自分が放送された側だったらどう感じるだろうかということを、ぜひ、想像してみていただきたいと思います。
そういう決定文の読み方をしていただき、自分たち放送界で作ったBPOの人権委員会が言っているのだからと、そういうふうな形で生かしていただきたいと思います。

◆ 濱田理事長

BPOというのは、たしかに一つの組織体ではあるのですが、それは同時に社会の仕組み、システムであり、社会を作る一つの考え方、理想的な考え方を示しているのだと思います。
BPOは自主規制機関なのか第三者機関なのか、と聞かれることがよくあります。それについて私は、BPOというのは仕組みです。第三者の支援を得て放送界が自律を行う仕組みなのだと。つまり、もちろん放送界が自律を行うのだけれども、それを応援するのがBPOの役割だと思っています。ですから、何かBPOに任せておけば、この問題は解決できるということではなくて、最後は放送界の皆さま方自身に考えていただかなければいけないことだと思います。
たしかにBPOは、決定を出したり、さまざまな活動をしていますが、そこで目指しているのは、放送界がきちんと自律ができるように手助けをすることで、そのためにBPOではいろいろな仕組みを放送界との間で設けています。決定が出た3か月後に、その決定の趣旨を踏まえてどういう取組みを実際に放送局で行ったのか報告をいただくとか、あるいは決定を踏まえて当該放送局が研修を行う、あるいは今日のような意見交換会を放送局の皆さまと委員との間で行うとか、いろいろな事例を取り上げて一緒に勉強をする、といった取り組みしているわけです。
こうしたさまざまな活動は、決定の付属物ではない、ということを特に強調しておきたいのです。たしかにBPOの活動の中で決定を行うというのは、とても大事な活動です。
しかし、それと同じく、こういう形で意見交換する、さまざまな形の研修を行う、そういうことも合わせてBPOの要となる活動なのです。そういうことを通じて自律というものが最終的に機能するのだと考えています。
その意味では、単に勝った負けたといった勝負事として委員会の判断を読んでいただきたくはない。むしろ、その決定文の中で何を考えるか、何がこれからのジャーナリズムにとって必要なのか、大切なのか、そういうことを考えるメッセージが含まれており、それを読み取っていただきたいと思います。さらに言えば、それぞれ放送に携わっている皆さま方が自分の頭で考えるための材料にしてほしい。それが各委員会の思いです。
時々、長い決定文を読むよりは、何をしたらいけないのか、何をしてよいのか、そういうものをマニュアル化してくれないかというようなことを言われることもありますが、一種の「べからず集」でマニュアル人間を作ることは、ジャーナリズムの在り方としてはあってはならないことだと思います。それは、ジャーナリズムの本質や表現行為の本質に反する。表現をするという行為自体、自分の人格を、その文字あるいは番組に懸けるということだと思います。表現をする者は自分の人格を懸けてこれを伝えようとしているのだという原点を、その思いを、常に忘れないでほしい。それを思い起こすのが、こうした意見交換会などの機会だと受け止めていただけるとうれしいと思います。
こういう意見交換では、委員と放送局の皆さま方との間で結構厳しいやり取りをすることがありますが、それはとても大事なことだと思います。それがうまく機能するために大事なことは、お互いにそれぞれ良心、誠実さ、誇り、あるいは志を持って表現ということを行っているのだと、そういう相互了解があるということが一番大事だと思います。そうであってこそ、いろんな角度から物事を眺めてみよう、ああいう考え方もある、こういう考え方もあるということを柔軟に受け止めて学んでいくことができる。放送局の方々も、委員のほうも、こういうやり取りの中から学んでいくことが少なからずあります。そういうものとして、こういう場が持たれていると思っています。
そういう中で、人権委員会はもちろん、ほかの二つの委員会を見ていて「とても大事にしているな」と思うのは、徹底的に事実というものにこだわっていることです。放送番組というのは、一つの表現であり、表現のやり方にはいろいろな手法がありうると思います。だけども、究極的には事実にこだわって、そのうえで、ものを作っている。その姿勢は、やはり放送というものがジャーナリズムである以上は、一番の原点であります。最近、オルタナティブ・ファクトだとか、ポスト・トゥルースだとか、だんだん事実というものが怪しくなってきているところがありますが、やはり放送、新聞といったマスメディアというものは、徹底的に事実にこだわってほしいと思いますし、委員の方々も、そういうところをしっかり押さえながら判断をされているのだろうと思います。
もう一つ付け加えておきたいのですが、委員会は、法的に許されるか許されないかという単に法的判断だけではなくて、倫理的な判断として、これは如何なものか、あるいはこれは許されるか、といった倫理を巡る判断もします。非常に大雑把に言うと、法も倫理の一部なのですが、倫理というのは法的なルールよりはもっと広い概念ということになります。もし倫理というものを法的な規制と同じように扱うことになると、これは、法的な規制があるのに、さらに倫理々々でどんどん縛られていくのかというだけの話になってしまいます。
法的な規制というのは、それなりに、これまでの歴史の中で練られてきた。そういう意味では自由の逸脱を抑制するためには必要な部分があるのですけれども、倫理というのは、むしろ自分たちが行為する表現の自由の質を高めていく、そういうものだと思います。倫理を巡る議論というのは、ただ判断の結果をリスペクトするというだけではなくて、そういう判断が実際に正しいのかどうか、もう一度、放送界の皆さま方も自分の頭で考えてみる。一方的に受け取るだけではなくて、「自分はこう思う」といった意見も、むしろ積極的に出していただく。そういう中でこそ倫理というものが本当に根付いていくことになるのだと思います。
放送の自由と自律、この調整は、なかなか常に難しい課題ですけれども、常に放送にかかわる方々が自分たちが表現をするという誇りと緊張感を失わないことが、とても大切であり、それが、放送という活動の原点だと思います。そういうことを常に呼び起こしてもらうように、それを応援していくのがBPOの役割だと、私は思っています。
BPOというのは、組織があって活動してればそれでいいというわけではなくて、こういうやり取り、あるいは視聴者とのやり取りを含め、社会の仕組みの中に根付いていくことが大切だと思います。そのようなやり取りをしながら、自由と倫理、あるいは自由と自律の調整を図っていくという社会の在り方は、民主主義社会の一つの在り方として大変素晴らしいと思っています。
ぜひ、私たちもこういう思いを持ってこの意見交換会に臨んでいるということをご理解いただいて、皆さま方からも積極的なご議論をいただければと思っています。

(司会)
今日は、事件報道に対する決定から、さらに焦点を絞って取り上げたいと思います。

◆ 【委員会決定第63号、第64号「事件報道に対する地方公務員からの申立て」】

(市川委員長代行)
では、委員会決定第63号のテレビ熊本のほうから、我々がどこで問題に感じたのかというところを中心にお話しします。この決定は「名誉毀損ではない、しかし放送倫理上の問題はあり」という結論です。それに少数意見がありました。
事案の概要ですが、申立人は、「意識が朦朧とした女性を連れ込み、無理やり服を脱がせた」と、警察発表に色を付けて報道し、自分が認めてもいないことを放送しており、これらのことを「容疑を認めている」と放送することにより、すべてを認めていると誤認させたと主張しています。また、フェイスブックの写真が無断で使用され、職場の内部、自宅の映像まで放送されるという、完全な極悪人のような報道内容で、人権侵害を受けたという主張です。
一方、テレビ熊本は、現職の公務員が起こした準強制猥褻の事案であって、その影響は大きいことから、こういう報道の仕方は問題ないのだと。それから、他の事案同様に取材を重ね、事実のみを報道したとして、人権侵害は全くないという主張でした。
きょうは、事案の取材から放送までの経過を追いながら説明いたします。逮捕当日の10時頃、報道各社にファックスで警察から広報連絡が入ります。その広報連絡には、「準強制猥褻事件被疑者の逮捕、発生日時、発生場所、申立人の実名、年齢、住所、申立人の職業、公務員である」ということと、「身柄措置が午前10時」、「通常逮捕」で、「被害者と逮捕罪名」と「事案の概要」が書いてあります。
その「事案の概要」に書いてあるのは、「被疑者は、上記発生日時、場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したもの」と、これだけです。
ここで記者が警察の広報担当とどういうやり取りをしたかですが、記者は、「この容疑事実について、事案の概要の容疑を認めているのか?」と聞いたのに対して、広報担当は、「『間違いありません』と認めている」というふうに答えました。
そして、記者は、もう少し事実関係がどうなのか知りたいと、「抗拒不能というのはどういうことなのか?」と聞いています。それに対する答えはひとつながりで、「容疑者が市内で知人であったAさんと一緒に飲酒した後、意識が朦朧としていたAさんをタクシーに乗せて容疑者の自宅に連れ込んだ」、それから「容疑者は意識が朦朧としたAさんの服を脱がせ、写真を撮影した。Aさんは、朝、目が覚めて、裸であることに気付いた」、「1か月ほどした後、Aさんは第三者から知らされて、容疑者が自分の裸の写真のデータを持っていることを知り、警察に相談した」、このように答えています。
質問は、「抗拒不能とはどういうことか?」というものですが、これに対して広報担当者は、直接、それに答えるだけではなくて、それ以前の、マンションの部屋に入るまでの状況、それから、そのあとの状況も説明をしています。
そうだとするときに、記者としてどういうふうに理解するか、この「『容疑を認めている』というのは、何を認めているというふうに理解すればいいのだろうか?」ということが、次に問題になると思います。最初にあった広報連絡の「事案の概要」の部分、その部分に限るのか、それとも副署長が説明した、一連の成り行きと言うか、経緯部分とその後の部分も含めたものか。特に、その「Aさんと一緒に飲酒した後、意識朦朧としていたAさんを自宅に連れ込んだ」、それから「Aさんの服を脱がせて写真を撮影した」という、この後半部分も含めるのかどうか、これらも含めて事実を認めているのかどうかというところが、一つ問題になるわけです。
この点について私どもは、この取材の中で、いくつかの事情を考えるべきだったのでは、というふうに考えました。
一つは、広報担当の副署長は、広報連絡に書いた「事案の概要」について「間違いありません」とは言っているけれども、犯行に至る経緯というところについては明確に認めているというふうに言っているわけでない。「抗拒不能とはどういうことですか」、という質問に対して一連の事実を説明したということに過ぎないわけで、すべてについて認めているということまでは言えないのではないか、明言はしてないのではないかと。
「猥褻目的でAさんを自宅に連れ込んだ」と「それから服を脱がせた」ということは、「事案の概要」には書いてないわけで、抗拒不能の状態で裸であったこととこれらのことは別のことなので、やはり、これらのことまで申立人が認めた趣旨という説明とは言えないのではないかと。
それから、副署長への取材は、10時に逮捕されて2時間弱しか経っていない時点です。事案の概要で示された「抗拒不能の状態云々」という、これは被疑事実に当たるわけですけれども、弁解録取をしたときに、被疑者が果たしてそういった被疑事実に対する認否を超えた部分の犯行の経緯について、正確に警察からの疑いを理解して詳細に供述しているのかも疑問が生じます。
さらに、Aさんが、翌朝には裸であったことを認識していたのですが、1か月後に写真データを知って警察に相談したという、こういった経緯についても考えるべきではないかと。
そして、連れ込んだといったことは、むしろ一般的に言えば撮影する行為以上の違法性が強いことも考えると、広報連絡に書いてある事案の概要の事実とは別の問題として、きちんと捉えるべきではないかというふうに考えたわけです。
それに対して放送が示している事実ですが、abcdefと順に整理して並べていますが、この順に読み上げています。熊本テレビはabcまでのところのあとで「容疑を認めているということです」というふうに言って、さらにefというところで、その事案の概要にない部分の詳しいことを説明しています。
これらの説明の語尾を見ていただくと、「~ということです」というふうになっていて、これは最近の事件報道で「~ということです」という、疑い、容疑事実として説明するという意味では、こういう説明の仕方は決して間違いではないと思います。ただ、同じ語尾を使っている中で、dというところで「容疑を認めているということです」ということが入ってくると、やはり、全体としてaからfまでのすべてを認めているという印象を、どうしても受けざるを得ないのではないかと考えました。ですので、放送で示した事実は、ストーリー全体を真実であろうという印象を与えるのではないかと考えました。
そして、放送倫理上の問題としては、今の説明のように、どの部分までが申立人は事実と認めているのか、そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるかについて疑問を持つべきで、その点を丁寧に吟味して、不明な部分があれば、広報担当者にさらに質問、取材すべきだったのではないか。認めている部分はどこまでなのか、容疑事実の部分なのか、それとも、部屋に連れ込み、その後、服を脱がせたという、詳しい経過部分についてまで認めているのかを、突っ込んで聞くことはできたのではないかと考えました。仮にそこまで無理だったとしても、逮捕直後のこの段階での事案の説明としては、疑いや可能性に留まるということを、表現の中で、より適切にするべきではなかったのかと考えました。
あと、もう一点、薬物使用の疑いについて、「疑いもあると見て容疑者を追及する方針です」という言い方をしています。「疑い」、「追及する方針」というのは、一般的な可能性ということに留まらずに、何らかの嫌疑を掛ける具体的な事情があるのではないかとの印象を与えるという意味で、表現としては不適切ではないかと考えました。それが放送倫理上の二つの問題点です。
放送倫理上の考え方については、詳しく説明しませんが、民放連、新聞協会、それからBPOの決定文でも記載してありますので、報道に際して考えていただければと思います。
次に、肖像権・プライバシー権の侵害ですが、これは申立人が主張していた点で、職場や自宅を詳しく放送された。それから、フェイスブックの写真を何度も放送されたという点です。「公務員である、ということを考えると」、というのがテレビ局の説明でしたが、私どもは、公務員であれば必ずすべての場合にこうした放送の仕方が許されるとは考えていません。その職場や担当部署とか、そういうことを考慮しないで、一律に正当化されるわけではないだろうと思います。やはり、被疑事件、事実の重大性とか、公務員の役職であるとか仕事内容に応じて、放送の適否を判断すべきだと考えています。ただ、本件については、重い法定刑の事案であり、区民課の窓口で一般市民に接触する立場ということも考えて、やむを得なかったのではないかと考えました。
それから、繰り返しの写真使用については、問題ないと結論としては考えていますが、特にフェイスブックの画像は、ネット上では、公開され、誰でも見られるわけですけれども、そのことと、放送ができる、許されるかどうかというのは、別の問題だと考えています。
本件では、特に留意点として、同じフェイスブックの中にこの方の親族の写真も何枚か入っていたため、この放送を見た方がフェイスブックを見に行くと、その親族らの画像もあって、親族の画像も見ることになる、そういうフェイスブックのちょっと特殊な側面、そういった点は留意する必要があるだろうと付言しています。だからやってはいけないということではありませんが、その点での注意が必要だということです。この件では、ご家族からテレビ局に対して指摘があり、テレビ局は、ウェブ上でのニュース映像については、短期間で削除した経過があったと聞いています。
熊本県民テレビの事案について、違う点は、放送の内容について、ある意味で、より明確なところがあり、aからdまでに整理した、事案の概要にあたる事実と、その経過部分も含めて言ったあとで、最後のところで「容疑に対して『間違いありません』と認めています」と言っていて、これを見ると、これはaからdまで言ったことすべて認めているというふうに放送が示して、印象を与えるというところが明らかで、その点で放送倫理上の問題があると考えています。

◆ 【委員会決定第66号「浜名湖切断遺体事件報道」】

(奥委員長代行)
ニュース映像を見てもらいましたが、あれは一つのニュースではなくて、午前中の時間帯から4回流れていって、だんだん詳しくなっています。BPOの人権委員会として、この事案を、なぜ、人権侵害としなかったのかというところに絞って考えてみます。
これは静岡では大変大きな事件で、テレビ静岡もすごく力を入れて報道しました。申立人は後に容疑者として逮捕された人の知人です。事件発覚前に容疑者から軽自動車を譲り受けています。2016年7月14日に警察が申立人宅に赴いて、この軽自動車を押収し、申立人は同日以降数日間にわたって警察の事情聴取を受けている。これは申立人も認めていて、争いのない事実なんですね。
申立人の主張の一つは、たしかに車を押収されたけれども、それは容疑者による別の窃盗事件の証拠品として押収されたもので、浜名湖切断遺体事件とは関係ないというものです。そして、ニュースの中で、関係者とか、関係先とか、関係先の捜索と言う言葉が使われていて、こういう言葉を使われたことによって、申立人がこの事件にかかわったかのように受け取られる。それから、申立人宅の前の私道から撮影して申立人宅とその周辺の映像があって、これは見た人から申立人宅であることが特定されてしまう。この点で名誉毀損であり、プライバシー侵害だという主張です。
これに対して委員会の判断は、外形的な事実としては、証拠品としての軽自動車の押収だったことは間違いない。しかし、テレビ静岡は良く分からないまま、そういう情報があるというので、張っていたら警察車両が行ったので取材した、という状況でした。捜査本部が間違いなく動いていて、大々的に捜査していますし、実際に申立人からも事情聴取をしている。単に車を譲り受けた経緯だけではなくて、容疑者についてもいろいろ聞いている。こうしたことを総合すると、当日の申立人宅での警察の活動が、浜名湖切断遺体事件の捜査の一環だったというふうに判断せざるを得ない。この点で申立人の主張は退けられてしまうわけです。
人権侵害、名誉毀損というのは、申立人の社会的評価が、そのニュースが流れることによって低下したかどうかということです。申立人宅の映像がいろいろ映りましたが、ロングの映像を使っていたり、映った表札を隠したりして、申立人宅を特定するものとは言えない。ただ、当日、捜査陣が来て大騒ぎしていましたから、あの映像を見ると、周辺住民には、この事件だったのかと、申立人宅と特定できた可能性は否定できないと判断しました。
けれども、社会的評価が低下したからと言って、すぐそれで名誉毀損が成立するわけではなく、その事実摘示に公共性、公益目的があるかどうか、さらに真実性、相当性を検討する必要があるわけです。
ここで一番重要なところは、関係先あるいは関係先の捜索という表現が、このニュースの重要部分の真実性を失わせることになったのかどうかということです。これは後で説明するとして、分かりやすいプライバシーのほうから話します。プライバシーとは、他者に知られることを欲しない個人に関する情報や私生活上の事柄です。本人の意思に反してこれをみだりに公開した場合は、プライバシーの侵害に問われます。本件の場合、申立人宅の映像は直ちに申立人宅を特定するものではない。布団とか枕が映っていたと申立人は主張していますが、これも、いわゆる守られるべきプライバシーとは言えないだろうということで、結論的にはプライバシー侵害にはあたらないと判断しました。
そして、名誉毀損のほうですが、関係先とか、関係者とか関係先の捜索という部分について、真実性、相当性の検討することになります。
申立人宅における当時の捜索活動が、浜名湖切断遺体事件の捜査の一環として行われ、申立人が容疑者から譲渡された軽自動車が押収されたことは争いがないわけです。しかし、申立人は、関係者、関係先の捜索という表現があることによって、この事件と全然関係ないのに共犯者だとか、何か事情を知っているとか、そう周りから思われたと言っているわけです。テレビ静岡は、当日の捜査活動の全体像を、取材に入った段階で知っていたわけではないのですね。警察の捜査車両の後について行ったら、そこで捜査活動が行われて、車が押収された。それで、それを特ダネ映像だとして写したということです。
こうした場合、申立人や申立人宅をニュースの中で、どう表現するかということですね。本件放送は関係者とか関係先の捜索という表現を使った。こういう言葉の使い方は、ニュースにおける一般的な用語としては、逸脱とは言えないだろうと委員会は判断しました。そういうことで、申立人に対する名誉毀損は成立しないということになりました。
ただ、やはり放送倫理の観点から考えると、必ずしも、全く問題がないとは言えないだろうという感じがしました。先に述べたように、テレビ静岡は当日の警察の捜査活動の具体的な内容をつかんでいたわけではありません。捜索は3か所ぐらいで行われていました。
事態がだんだん動いてくるときに、どう考えたのかということが焦点で、良く分からないけども、ともかく目前で展開される捜査活動を取材する一環として、申立人宅を撮影したことに問題はないだろう。それに、それなりの配慮をして、ロングの映像を使っているとか、表札が見えないようしている。そういうこともしていて放送倫理上問題があるとまでは言えない。放送倫理というのをどう考えるかというのは、非常に難しい問題があるわけですけれども、委員会の総意として放送倫理上問題があるとまでは言えないだろうということになりました。
しかし、最初のニュースの段階では、「静岡県浜松市の浜名湖で切断された遺体が見つかった事件で、捜査本部は今朝から関係先の捜索を進めて、複数の車を押収し、事件との関連を調べています」とこう言っています。ここで関係先というのが出てくるわけです。そして、実際ニュースでは、この申立人宅の映像が、この最初のニュースを含めてくり返し使われている。
そして、午後4時台と午後6時台のニュースと遅くなるほど、詳細に、2階の窓の映像も加えている。実際、家の中まで入り込んで捜索が行われたかどうかというのは、分からないところがありましたが、申立人宅でも捜索が行われた、というふうに考えたことには、相当性が認められるだろうと判断しました。
しかし、時間の推移と共に、この申立人宅での捜査活動は車の押収だったことは分かったと思います。他のところでは、実際に家宅捜索もしていて、容疑者を任意同行している。捜査活動の中心はそちらのほうだったことは、推定できたはずだ。そうすると、くり返し申立人宅の映像を流し、なおかつ後になるほど増えてくる状況には問題があるのではないか。そこで、申立人宅の映像の使用はより抑制的であるべきではなかったかということを、決定文に書いたわけです。
この「より抑制的であるべきではなかったか」ということを、実際はどうしたらいいのかと、いろいろなところで聞かれます。これは、皆さんがそれぞれ考えなければいけないのですけれども、抑制的であるべきであったということは言えるだろうと思っているわけです。ですから、放送倫理上問題あるとまでは言えないけども、放送倫理上こういうことを考えてほしい、という決定になりました。

◆ 【意見交換】

(司会)
ここから意見交換に入りたいと思います。3つの事案をご紹介しました。事前のアンケートでは、決定文を読んだがよく分からないといった意見も散見されましたが、いかがでしょう。

(C放送局)
3事案とも、全国どこでも起こりうることで、私も大変考えさせられました。地方公務員事案では、申立ては二つの局に対して行われていますが、他の放送局はどんな伝え方をしたのか。申立人からすると、この2局が他局と比べて大きく違った点や、納得いかない点があったのでしょうか。

(坂井委員長)
その点は、よく出てくる疑問ですが、申立てとして残ったのはこの2件ということです。この事件が報道されたとき、申立人は逮捕されていて直接見ていません。出てきてからご覧になって、最初は各局全部問題にしようと思ったかもしれませんが、見た結果、申立てとして残ったのがこの2局だということです。なぜこの2局なのかという点は、本人からは直接聞いていないので、答えることはできません。ただ、これは私の個人的な想像ですが、フェイスブックの映像の使い方だとか、写真をどんな大きさで何回使うか、みたいなことが、きっと関係しているのではないかと想像しています。

(A放送局)
同じ事案で、我々からすると、やや不本意な、と言うか、こういう原稿の書き方は、私たちでもするだろうなと思う点が2点あります。一つは、そのニュース価値という点が、あまり今回検討されていないのですが、なぜ裸の女性が部屋にいたのかということが、ニュースにとって一番大事な観点になります。つまり、もし女性が自発的、もしくは了解のもとで部屋に入って、服を脱いだということであれば、それは全く事件の本質が変わってくるわけです。そうしたニュース価値の重みの中で、当然、デスクにしても、記者にしても、そこをまず聞かなければいけないと考えたと思います。
もう一つのポイントは、実際の取材の中での警察との関係性というところだと思います。基本的に副署長というのはスポークスマンですから、僕たちの感覚としては、嘘は言わない、知らないことは知らないと言うけれども、嘘は言わないという前提に立っています。そこが崩れてしまうと、報道が成り立ちませんので、そういう中で、最も記者が知りたいニュースの価値の部分、つまり、なぜそこで抗拒不能な形でいたのかということを聞いたとき、認めていますという中の、さらに、感覚としては、ちょっとサービス的な発言でもあるかと思うのですが、具体的な内容を、経緯、内容を話したということであれば、我々としては、ニュースの重みと価値判断と、それから通常の取材の中で、これは信じるに足りると判断せざるをえない。たしかに、もう1回、どこまで事実ですかと聞けばいいと言えば、そうですが、ただ、日常の取材活動の中での判断として、ここが放送倫理上問題と言われると、ちょっと厳しいなという感触を持っています。
特に、決定の中にあったように、連れ込む、または服を脱がすことがより悪質だとしても、これはまさに相対の問題なので、極めて立証の難しい、また取材も性犯罪になるので難しい問題になります。そういう中で、出てきた最終的な表現、まとめ方をもって、この決定というのは少し厳しいというか、放送としてはなかなか難しいなという感想を持っております。

(坂井委員長)
それは、まさにポイントで、現場の立場からおっしゃるのは、よく理解できますが、その裏返しをぜひ申しあげておきたいと思います。
単に仲良く一緒に家に行って、裸になった姿を写真に撮っただけであったら、全然、話が変わるという問題意識を持っておられる。それはまさに話が違ってくるわけです。同じころ、東京でも酔っ払っている女性を無理やり家に連れさらって、裸にして強姦するような事件が何度かありました。それとは、性質が全然違いますよね。裸になっている女性の写真を単に撮ったというのと、拉致して連れ帰って裸にして強姦してしまう、というようなこととは、全然違う。裏を返せばそういう話だと思うんですね。
そこを当然聞きたくなるのは、分かります。その問題意識を前提に、このとき、どういう容疑事実で、どういう取材結果だったのか、ということを冷静に考えていただければありがたいというのが、委員会決定の立場です。そういう大変な事件であれば、そもそもこのような容疑事実にはならない。拉致して連れ帰って、無理やり服を脱がせて、裸の写真を撮ったのであれば、連れ帰れば逮捕監禁かもしれないし、服を脱がせたとすれば、それが、むしろ準強制わいせつになるので、写真を撮ったところで準強制わいせつにならない。なのに、このときの容疑事実は、極めてイレギュラーな容疑事実になっている。
経験のある方でしたら分かると思います。この容疑事実は、何か普通ではないと。ぜひ、そこに突っ込んでいただきたい。そして、これ、二つの番組でちょっとニュアンス違いますよね。二つ目のほうは割とまとめて認めていますと言っている。一つ目は、分けて書いていたけど、後ろのほうも結局まとめて認めているみたいな、ちょっとニュアンス違いますが、いずれにしても取材の現場では、容疑事実は写真を撮ったというだけです。裸になっている写真を撮った。黙って撮った。そして、認めているのですか、認めていますっていう、テレビ熊本はそういう取材結果だったと思います。広報連絡。副署長にですね。その後に、抗拒不能とは、どういう意味ですかと。容疑事実は抗拒不能で裸でいる女性の写真を撮った。その抗拒不能とは、何でしょうかと聞いたら、副署長が、容疑事実でないことまでいろいろ話し出したというときに、あれ、容疑事実と違うのではないか、もしそうだとしたら、全然違う話になるのではないかということに、気づいてもいいのではないかというのが、決定の立場なのです。
たとえば、サツ回り1年目の人がすぐそういうこと気づくかというと、必ずしもそうでないかもしれないけれども、報道された側の立場からすると、意識不明の女性を家に連れ帰って、服をはぎ取って、写真撮ったという報道になるのか、家にいて裸でいる女性を、ただ写真を撮ったという報道をされるかは、報道される側にとってのダメージはすごく違うだろうと思います。でも、そうは言っても、我々の決定は、だから名誉毀損だとは言っていなくて、相当性はあるとしています。
そこが接点だと思いますが、副署長の説明は曖昧で、質問と答えが食い違っているし、ここは信じてもしかたがないから、名誉毀損ではない。決定としては、これは相当性ありだと。でも、その部分は、冷静に考えたら、放送倫理上の問題があると言えるのではないか、というのが決定の立場です。少数意見を唱えた委員もいましたが、決定全体としてはそういう結論になったということです。

(司会)
この決定に少数意見を書かれた委員から付け加えることはありますか。

(奥委員長代行)
事件があって、簡単なことしか書いていない広報連絡を持って副署長のところに行き、抗拒不能とはどういうことですか、どうして抗拒不能になったのですかとか、いろいろ聞いて、副署長がそれなりに一貫した説明をすれば、それを第一報として書くのは、事件報道として逸脱しているとは言えないだろうということで、少数意見を書きました。

(坂井委員長)
ちょっと付け加えますが、この事件は結局、示談が成立して起訴猶予になっているため、本当は何が起きたのか、我々も分かりません。相手の女性から話を聞いているわけでもないし、警察に取材したわけでもない。
でも、結局刑事事件にならなかったというときに、最初の報道で、ダメージの大きい報道をして、そういう報道をされた人間が受けるダメージというのはどうなのかということは、個人的にはやっぱり考えるべきだと思っています。

(市川委員長代行)
あと、警察との関係についてどう考えるのかは、なかなか難しいことです。ここまで取材で引き出すことができて、全部話してもらえたということは、取材として必要なことだと思います。とくに、この事案の概要だけ放送しても、何が何だか分からないですから。ただ、その一方で、やはり「容疑を認めている」と言うことの与える印象というのはすごく強くて、グレーなものが真っ黒という印象を、非常に強く与えやすい。そうであるとすれば、「容疑を認めている」という言葉を使う以上は、認めているのはここまでで、それ以外の部分はあくまでも疑いのレベルだということは、きちっと書きわけてほしいと思います。

【フェイスブック写真の使用について】
(司会)
この決定は、フェイスブックの使い方について付言されているところもポイントです。フェイスブックの使い方がクローズアップされたのは、軽井沢でのバス事故ごろからではないでしょうか。ぜひ、皆さんの体験や評価についてご紹介いただけないでしょうか。

(A放送局)
この事故は広く報道されましたが、被害者は長野県の方ではなくて、関東など、県外の方が多いという特殊なケースでした。長野県の方が亡くなられていたら、当然ご自宅を訪れて、フェイスブックに載っている写真でも、本人確認を取って、かつ複数、大体3人ぐらい、それぞれ違う方、家族や友だちとか、どれぐらい近いか判断しながら、放送に出していいかどうか判断するのですけれども、このケースでは、東京のキー局が、関東の方で家族含めて取材をする中で、フェイスブックの写真を、家族や親族に確認を取って、間違いないと確認が取れて放送しました。軽井沢の事故の場合は、被害者のお写真ですので、決定で指摘のあったように、家族の方から使ってくれるなとか、逆にフェイスブックの写真でなくこちらの写真を使って下さいというケースもありました。
フェイスブックの写真自体を使うことに対しては、一般に広く公開されていると言えば公開されているものである以上、確認を取ったうえで使うと。ただ、指摘の中であったように、やっぱりフェイスブックをたどっていけば友だちにも行きついてしまうし、本当の家族が出てきてしまう。素性がすべて分かってしまうというところは、普段取材していく中で、あるいは放送する際に検討していかなければいけない要素かなと思います。

(B放送局)
この事故についてのフェイスブックの使用については、私どもも東京キー局のほうで対応したので、私どもが直接ということはありませんでした。ただ、軽井沢の事故でなく、フェイスブックを扱うことについては、まず本人確認、私どもも異なる3人の人から間違いないという確認を得て、家族、またはそうした関係の方に了解を得られるところについては、そうした了解を得ながら使用するという形で対応しています。
フェイスブックの扱いについては、今までの卒業写真などの扱いと同じ考え方でやっています。ただ、通常私たちが関係先を回って手に入れる、いわゆる卒業写真といったものとは違って、フェイスブックは一気に広がってしまうので、手に入れるという取材等での重きは同じですけれども、拡散というのか、広がるものということについては、これまでの写真とはちょっと違うので、扱いについては、正直なところ、まだ、それほど詰めて話してはいませんが、これまでの写真とフェイスブックの違いというものについて、考えていかなければいけないのかなと思っています。

(C放送局)
この事故では、いっぺんに多くの方が犠牲になられたことが一つポイントで、うちも東京のキー局の方針に基づいて使用しています。実際には、引用する場合は、フェイスブックより、といったクレジットを必ずつけることとか、今回のバス事故で言えば、実際にフェイスブックからたどっていって、ご親族や、ご遺族など、関係者の方たちに許諾を取ったりしました。遺族によっては、そこから提供を受けたりすることもありましたが、基本的な扱いに関してはキー局に準ずる形で使っています。でも、実際に使う場合には、昨今のSNSの繁栄の中で、人権を侵害しないかどうか、プライバシーは大丈夫かなど、しっかり留意しなければいけないと考えています。

(D放送局)
うちも系列の基準の下、フェイスブックとかツイッターとか、どこから引用したのかをきちんと出す。
さらに、フェイスブックにある写真とかですと、それを3人以上に本人確認を取ったうえで使います。その後は、ご家族やご友人から画像なり写真なりを入手して、二次的には、そういう手間をかけて入手したものを使っていくようになっています。
バス事故に関しては、大きな事故でしたので弊社ではなくキー局ですべて動画の入手とか写真の入手を行いました。ですので、私どもはかかわっていません。ただ、後からフェイスブックの写真とかを使わないでほしいといったご遺族やご家族から要望があり、使用禁止になった素材とかもあります。
地方公務員事案で、容疑者のフェイスブックの写真からご家族の写真に行き着くというような話がありましたが、でも、今は、名前検索をするだけでも、かなりの動画が上がってきます。どこどこの公務員、とインターネット検索すると、別にフェイスブックを知っているか知らないかにかかわらず、名前だけでも行きつくような状況にあると思います。その点、どう考えたらよいでしょうか。

(E放送局)
当時弊社では、複数の被害者の方の写真をフェイスブックから引用して、放送に使いました。その際は、フェイスブックより、というクレジットをつけて使用しました。その都度その都度判断していることですが、あれだけの大規模な事故で、非常に関心も高く、亡くなられた方々のお人柄とか、ご本人がどのような人生を送られたかということを伝えるうえで、写真は不可欠だという判断で、著作権法第41条にある事件報道を根拠に、その範囲内で使用すると判断しました。その判断基準は、軽井沢の事故の前も後も、社内では特に変わっていません。とは言え、その都度その都度見極めて、ということでやっています。でも、なるべく直接ご遺族なりご友人の方々から、違うお写真などを提供いただく努力をして、極力、そういったものに替えて放送しています。

(司会)
きょうは、FM局も一社参加されています。もちろん映像は使っていません。

(市川委員長代行)
親族の写真に紐付けされていったということについて、委員会としては、だから直ちにフェイスブックの写真を使ってはだめだと考えているわけではありません。ただ、フェイスブックやインターネット上で検索可能な情報だとすれば、そういうところに行きつきやすい性格があるわけですから、使うときには、この点も気をつけたほうがいいのではないかということです。そこは、その場その場でまだ検討をしなければいけない、結論を出せていないところだと、率直に思っています。
もう一方で、地方公務員事案でのフェイスブックの写真というのは、カメラを構えている様子の写真などを、しかも、それをかなり大きくして使っています。やはり、そういう出し方は、普通の卒業写真の顔を一部くり抜いて使うのとは、与えるニュアンスというのが違うと感じます。その点は、曽我部委員が少数意見で触れておられます。

(曽我部委員)
今、名前で検索すれば出てくるではないか、というご指摘がありましたが、「フェイスブックより」というクレジットがついているので、フェイスブックを見てみようという感じになって、クレジットがあることによって、より好奇心をそそる面もあるのではないかと思います。
それから、フェイスブックの写真を使われることの抵抗感というのは、おそらく本来の文脈と違う形で使われるということへの抵抗感というのがあるのだと思います。卒業アルバムの写真などは、割と文脈のない写真ですので、どこに出てもそれほど違和感はありませんが、フェイスブックの写真というのは日常生活の場面を切り取って載せているものですから、それを全く違う事件報道の写真として使われることは、本人としては非常に違和感が強いのではないかと思います。公開はしているものですが、心理的な抵抗感があるのは、その辺りが一つ原因ではないかと感じています。
地方公務員事案で少数意見を書いて言及したのは、ちょっと違う話で、フェイスブック写真の使い方と言うよりは、要するに、申立人は、区役所の窓口の、住民票の写しの発行などをしている人なのですね。それが、あのような形で大きく報道をされてしまうことの、ニュース価値の判断について、個人的にはそこまでやる必要があるのかなと感じました。
自宅マンションの前からの記者リポートや、職場窓口を映した局もありました。当時、市役所職員の不祥事が続いていたという文脈もあるやに聞いていますけれども、幹部公務員が職務上の不祥事を起こしたというのであればともかく、若手の窓口の職員が起こしたプライベートの事件という中で、あそこまでやる必要があるのかなというのを書いたのが私の少数意見です。

(坂井委員長)
このフェイスブックの写真の利用と肖像権の関係という問題は、まだ議論が固まっていません。去年の弁護士会と民放連との会合で話したことをご紹介します。
まず、皆さんのいう同一性確認、裏取りというか、本当に本人なのかということは、当然やっていただかなければいけないという前提で、そのうえで、そのまま使っていいのかという議論があります。そのとき、フェイスブックに関して言うと、あそこに出す写真というのは、公開しますという了解を取っているので、良さそうに見えますが、曽我部委員が言ったように、使われ方の文脈が違うときに、本当に全部それでOKと言えるのだろうかという話なのです。
フェイスブックで、自己紹介で出すことについては、公開されますよと言う前提なのだけど、たとえばこの事案で言うと、破廉恥な行為をやった被疑者として、テレビで何回も大写しをされることについての承諾まで、本当にあるのだろうか。軽井沢バス事故の件で言うと、事故の被害者として報道されるときに使われることを本当に承諾していたのだろうかということ。それから、最近の事件で言うと、座間の事件、あれは被害者といっても、バス事故よりももう少しデリケートな、センシティブな問題が関わってくる。
自殺とか、性被害があったのでないかということがあるので、そういうときに写真をどう使えるのかという議論もかかわってきます。
結局これは、肖像権の問題と報道の自由、表現の自由とのバランスの問題です。天秤の話で、たとえば座間の事件で、あまりひどい報道をされるから、遺族の方から、もう写真は絶対使わないでくれというような貼り紙をされました。そもそも遺族に本人に関する肖像権はないわけですが、族が嫌だ、本人が嫌だと言ったら、報道は全部出してはいけないことになるのだろうか。本当は、それはバランスからして、どうなのかという議論をしなくてはいけない。報道の側からも、これまで出してきたからいいだろうと言うのではなくて、報道の被害者であっても了解なく使える場合があるのではないかといった議論をするべきなのだと思います。
だから、同一性確認の問題と、報道として使っていいかという問題は、別の議論のはずなのですね。それが、座間の事件で言えばデリケートな部分があり、バス事故の場合は割と出して下さって結構だ、名無しじゃないんだうちの子は、と言いやすい状況があります。逆に、この事例で言うと、被疑者ですから、あまり出してほしくないという話が出てくる。
たとえば、熱海の散骨場の事案では、放送局が本人の了解なく、約束を破って使いましたが、その場合でも肖像権侵害を認めてない。というのは、一定の場合に本人の了解なく使っても、肖像権侵害にならない場合がある、ということなのです。放送メディアにとって、映像は、ある意味命なわけで、肖像権が万能だと言ってしまうと、ニュース映像の顔は全部ぼかさなければいけないというような話になって、三宅前委員長時代に、それはまずくないですか、という委員長談話を発表しています。
そういうところにかかわるので、報道する側から、やはりこういう場合は報道のために肖像を使えるのではないかという領域がある、ということを言わないと、だんだん窮屈になって、同一性確認だけでなくて、OKしてもらわないと使えないことになる可能性もあって、それは怖いことだと私は思います。情報流通という意味では、使っていい場合もあるし、もちろん座間の事件で、心なき報道があって、そういうのが良いと言うわけではありません。しかし、事件報道として必要な場合もあるというときに、肖像権と表現の自由、報道の自由のバランスをどう取るのか、報道する側から積極的な議論をしないと、本当に窮屈になって、難しい時代が来ると思っています。
それから、さっきE放送局がおっしゃった、著作権の問題で、報道引用の話と肖像権侵害の問題は別の議論なので、著作権法の議論だけではカバーできないだろうなという気がしています。また別の理屈を立てなければいけないのではないかと思います。

(C放送局)
地方公務員の事案に戻りますが、最終的には不起訴だったと思いますが、そういう刑事処分のことは、委員会決定の心証に影響するものでしょうか。それとも、あくまでも申立て事実のみで、審理されていて心証的なものは排除されているのでしょうか。
(坂井委員長)
刑事処分がどうなったかで、結論が変わるという話ではなくて、書いてあるとおり、事実はどうだったのかということと、名誉毀損で言うと、社会的評価の低下があったのかどうか、公共性、公益目的、真実性、相当性というところで議論をしていきます。逆に言うと、起訴前の刑事事件ですから、公共性はまず認められて、ストレートニュースですので、公益目的を否定することは、およそ考えられないので、結局、真実性、相当性の問題はどうかとうところだけでやっているので、後で不起訴になったからとかで、結論が変わるという話ではないと思っています。

(二関委員)
補足ですけれど、不起訴になる場合も、起訴猶予の場合とか、罪となる事実がないから不起訴にする場合など、いろいろあって白黒まさに良く分からない場合があります。検察官も、特にその理由とかを明らかにしないケースが結構多いと思います。その意味で、本当に不起訴になったからどうだということを、委員会が、そこから何か引き出せない場合のほうが、むしろ多い面がありますので、その事実が仮に委員会の審理より前に明らかになっていたとしても、影響を受けることは基本的にないということになると思います。

(D放送局)
私、報道でないので、一視聴者としての率直感想です。起訴になった起訴にならないが、この判断基準にならないというのは、ちょっと、びっくりしました。この程度、と言ってはいけませんが、もっと大きな重罪を犯している犯罪者が、顔写真が入手できたできないによって、顔写真が載る載らないという案件もあると思います。つまり、たまたまこの件では、フェイスブックをやっていて、我々放送側にしてみれば、写真を入手しやすいシチュエーションがあった。しかし、それが結果的に起訴されなかったにもかかわらず、ここまでの顔写真が出てしまったことが、あまり問題視されていないというのは、どうなのだろうかと疑問に感じました。

(坂井委員長)
そこは、論点が食い違っているように感じます。ご質問は、名誉毀損になるかどうか、放送倫理上問題があるかどうかの結論が、起訴されたかどうかで変わるのか、というものでしたから、それで判断するのではありませんという答えになりました。
今、おっしゃったのは、もっと根っこのことで、被疑事実は何だったのかという話なんですね。被疑事実は抗拒不能の女性を、意識不明の女性を家へ連れ帰って、服をはぎ取って写真を撮った、ではなくて、意識不明の女性の裸の写真を撮ったというもので、しかも起訴猶予になった、ないしは不起訴になったということで、我々が分かるのは、検察も立件しなかったということ。ただ、このケースは、嫌疑がなかったのか、猶予なのか分かりませんけど、示談が成立したということは、何らかの問題があったようにも思われる。でも真相は分からない。そういう前提で、放送局が何をしなければいけないかというと、放送した内容の真実性の立証、相当性の立証をしなければいけないという話になるのです。
だから、結果として検察が起訴したかどうかということは、我々には判断する理由はなくて、名誉毀損を判断するには、真実性、相当性の立証であり、本件のように検察も起訴しなかったものについて、放送局は何をもってそれを立証するのかという議論になるわけです。
その後の放送倫理の問題としては、じゃあ被疑事実について、結果的に起訴に至らなかった事案について、放送のときの話はそれは分からない前提ですから。そうすると、起訴されるかどうか分からない段階で、こういう容疑事実について、こんな写真の使い方をするのか、こんな放送をするのか、という話になってしまう。放送したときの話というのは、まだ逮捕されているだけですから、その後起訴されるか不起訴になるかということは、その放送時点での判断には出て来ようがない。真実性立証絡みでは後付けで判断されるので、出てきますけど、放送時点では、検察も真実性立証をしていないという話になりますよね。容疑事実をはみ出した部分については、真実立証をしないと判断したのかもしれない。そういうレベルの話をしているので、ちょっと論点が食い違っているような気がします。

(D放送局)
分かりました。私見ですけども、今、この社会では、防犯カメラとか非常に映像も入手しやすい、フェイスブックも然りだと思いますが、そういう映像の入手しやすさ云々で、映像が取れたからと、私ども放送局が使いやすくなっていることは事実だと思います。
この事案でも、容疑者の社会復帰という一面もある中で、刑が確定してない時点で、入手しやすかった映像が、テレビ的に使いやすいからと言って、出してしまったことに対して、自戒も込めて、注意をしていかなければいけないと感じます。

(坂井委員長)
この事件の被疑事実で、この段階で、こういう写真の使い方をするのですかという、それは、おっしゃるとおりだと思います。

■ 長野放送(NBS)を訪問、視察

放送人権委員会は、長野での意見交換会に先立ち、10名の委員全員が長野放送を訪問し、外山衆司社長らと懇談したほか、社内を視察した。
懇談では外山社長から「人権や放送倫理は重要な問題であり、長野県での意見交換会開催は、そのことをもう一度意識し、倫理意識を向上させる契機となる」と挨拶があった。その後、船木正也常務、矢澤弘取締役報道局長らから、ローカル局の現状や仕事の状況などの説明を受け、委員からも「取材における在京局との違いは」、「ネットとローカル番組の比率、自社制作の割合は」、「スタッフ数の増減や記者クラブの状況は」といった質問などが出された。さらに、委員らは夕方の『NBSみんなのニュース』の放送現場や、報道局内での作業などを視察した。
委員会ではこれまで、在京局への視察を行っているが、委員会としてローカル局を訪問、視察するのは、これが初めて。地方局に対する申立てが増える傾向にある中、今回の視察は、ローカル局の現状に対する委員らの理解を深める貴重な機会となった。

以上