放送倫理検証委員会

放送倫理検証委員会

2022年1月21日

差別問題をテーマに「意見交換会」を開催

放送倫理検証委員会と全国の放送局との意見交換会が、2022年1月21日千代田放送会館2階大ホールで開催され、事前に申し込みのあった放送局には双方向のオンライン配信を同時に実施した。放送局の参加者は、会場に15社19人、配信にて参加したのは 152社で、そのアカウント数は367件であった。委員会からは小町谷育子委員長、岸本葉子委員長代行、高田昌幸委員長代行、井桁大介委員、米倉律委員の5人が出席した。コロナ禍の影響を受けて2021年度に放送倫理検証委員会が意見交換会を開くのは今回限りで、オンライン配信を利用して全国を対象に実施したのは前年度に引き続いてのことである。

開会にあたり、BPO事務局を代表して大日向雅美理事長が「この意見交換会は、放送局の皆さまが抱いている疑問をBPOに直接ぶつける場となっている。BPOにとっても皆さまの本音を伺う貴重な機会だ。今回は、差別問題に関連する放送上の留意事項をテーマとして取り上げる。近年放送を取り巻く環境は大きく様変わりをし、人権問題や差別に関わる問題に対して社会の厳しい目が注がれるようになった。権利意識の高まりやインターネットの普及を背景に、今まで声を上げられなかった人たちが批判の声を上げるようになったためだと考えられる。今日は、差別に関連する問題や放送上の悩み、対処方法など実例を交えながら議論し、お互いに学ぶところの多い意見交換会にしたいと思う」と挨拶した。

意見交換会の最初は、前年7月21日に公表した「第41号日本テレビ『スッキリ』アイヌ民族差別発言に関する意見」と題した意見書について、以下のとおり、高田昌幸委員長代行が解説した。

日本テレビは、午前中の情報番組『スッキリ』で、毎週金曜日の番組終了間際に2分間程度「スッキりすの週末オススメHuluッス」のコーナーを放送し、系列の動画配信サイト Huluのお薦めの作品などを1本紹介していたが、そのコーナーで2021年3月12日問題が起きた。
普段このコーナーではドラマとか映画とかが紹介されていたが、この日紹介されたのは『Future is MINE -アイヌ、私の声-』という、各界の評価が高い35分間のドキュメンタリー作品だった。内容は、アイヌ民族の人がどうやって差別を克服しながら新しい自分を見出していくかというものだ。コーナーの前半で作品そのものが紹介された後、画面がスタジオに切り替わり、リスの着ぐるみを着た男性タレントが、定番の締めの言葉を「ここで謎かけをひとつ。この作品とかけまして、動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬!ワンワンワンワンワン!」と発話する。このシーンには字幕がついており、「あ、犬」の言葉にはルビのような位置にカタカナで「ア、イヌ」という言葉が入っていた。さらに、「ワン」を5回繰り返す箇所では、画面左からアニメーションの犬が小走りに走って、画面中央に向けて駆けていく。最後に男性タレントが「この作品を見てアイヌの美しさを堪能しよう」と言葉を続け「というわけで、今週もお疲れした〜っす」と語ってコーナーを終えた。
番組終了後、日本テレビの系列局の札幌テレビには、道内の視聴者から抗議の電話が殺到したそうだ。日本テレビにも、これは問題ではないかという連絡が視聴者などから来た。
問題になったのは、このコーナーで男性タレントが発した「あ、犬」という言葉だった。この言葉の一体何が悪かったのか。ダジャレも言ってはいけないのか。あるいは単なる言葉遊びも許されないのだろうか。
一般的に、問題となる差別表現は、ある民族や社会集団などが、歴史的、構造的、時には制度的、法的なものも絡まって虐げられてきたという問題を背景としている。このことは、単なる快、不快ということとは区別して、押さえておかなければならない。
2016年の内閣官房「国民のアイヌに対する理解度についての意識調査」によると、アイヌの人に対する差別は今も存在しており、「アイヌに関して関心を深めるためにはどうしたらよいか」の問いに対しては、テレビ番組や新聞を利用した情報提供という答えが圧倒的に多かった。差別されている側の人たちは、放送には差別を無くすための機能があると期待している。今回の問題は、その前提があってこの放送が流れてしまったということだ。
委員会がヒアリングや資料を基に事実関係を精査したところ、このコーナーには専任で担当するディレクターが1人もおらず、他のコーナーと掛け持ちで担当していることが分った。内容がグループ会社の番組宣伝的なものだったこともあり、コーナー自体あまり重要視されておらず、大きな問題は起こらないだろうという思い込みが事前にあったのではないかという印象を持った。
コーナーの制作に関わった担当者やチェックしたプロデューサーに、アイヌ差別問題は何かということを、知っている人がほとんどいなかったことも大きな問題だと思った。北海道、厳密にいえば東北の一部も、ということになろうが、アイヌという人たちがいるということと、アイヌ民族差別があったということは何となく知っているが、それがどういうものであって、どういった形で行われており、今も続いているのかどうか、そういったことを誰も知らなかった。
コーナーのチェック体制は、チェックして問題がなければ担当者に誰も何も言わず、無言、無反応は了承だとする流れでずっと運用されていた。最終的に番組をチェックする責任の所在と、誰がどのタイミングでチェックしたのかが曖昧なまま流れていったということもあったのではないかと感じた。
以上の点を踏まえて、委員会としては、チェック体制が非常に隙だらけだったことから、今回の事態は起こるべくして起きたと受け止めた。
また、コーナーで紹介したドキュメンタリー作品は尺が35分間と比較的短かったのにもかかわらず、作品を視聴者に紹介する前に見たスタッフは1人しかおらず、放送内容に関する局側のこだわりの薄さを物語っていると感じた。制作現場の上の人は「もし自分が35分間のこの作品を見ていたら、この『あ、犬』の部分は絶対通さなかった。この番組の訴えている内容と、この『あ、犬』の表現が、いかにかけ離れているのかがよく分かったから。自分が見なかったことが悔やまれる」ということをおっしゃっていた。
現場のスタッフは差別する意図は全くなかったと語っていたが、意図があろうとなかろうと、差別的な事柄を電波に乗せてしまったという事実は厳然としてあり、それを拭い去ることはできないと委員会は判断した。放送倫理違反があったという結論になり、主に日本民間放送連盟の「放送基準」の(5)、(10)に反したと判断した。
日本テレビは、1994年に大型クイズ番組の中で、出演したお笑いタレントがアイヌ民族の集団舞踊「イヨマンテの夜」の曲を流しながら踊ってみせた際、アイヌ民族の尊厳を著しくおとしめ、差別を助長したという苦い経験がある。アイヌ関係の団体の方などから激しい抗議を受け当時は勉強会も開かれていたようだが、現在社内にはこの経験が継承されていないそうだ。だから私は今回の事態は過去の過ちの再発だったのではないかと考えている。
知識がないと有効な判断は働かない。特に差別問題に関しては、歴史的、構造的なことを前もってきちんと知っておくことが必要ではないか。差別というのは歴史的な経緯がある。歴史を知ることの重要性を改めてこの場で強調させていただきたい。そのうえで、差別される側の立場に立って、一瞬立ち止まってでもその番組を放送前に見つめ直すことができるかどうかが大切だと思う。

次に、米倉律委員が「差別問題と放送人としての“感度”」というテーマで講演をした。

今回の意見書では、放送人としての感度ということが、ある種のキーワードとして使われていた。その感度の問題について差別問題との関係で考えたい。
今回の話を初めて聞いたとき、私は、こういう差別表現が過去にあったことを知らない現場で、うっかりミスのような形で発生してしまった比較的シンプルな事案ではないかと感じていた。その後、関係者の方に話を伺うなかで、この問題は、今のテレビを取り巻く現状、具体的には、制作現場の複雑な分業化や人員の不足、制作現場の繁忙化、スタッフの疲弊といったさまざまな問題が反映された、かなり複雑な問題ではないかと考えるようになった。昨今、価値観の多様化、グローバル化が進み、差別問題も非常に複雑化、多様化している。引いた目で見ると、テレビと社会との関係性や距離感が問われている問題でもあるのではないかと考えている。
高田委員長代行の話にあったように、制作現場の方々は、アイヌ民族の人々を犬という形で例える差別表現が過去に実際にあったことを誰も知らなかった。実を言うと私自身、アイヌ民族の歴史や差別の問題について、一定の理解や知識はあったと思うが、そういう差別表現が過去に実際に使われていたということ自体は知らなかった。世の中に情報を発信していく仕事に携わる者として、当然知っていなければならないと思っているにもかかわらずである。
他方、仮に知らなかったとしても、民族を動物に例えることについて「ちょっと待てよ。大丈夫だろうか」というふうに一度立ち止まって考えたり、ディスカッションしたりしようという感覚があったかどうかについても、併せて問われるべきではないだろうか。それがまさに放送人としての感度ということに関わる問題だと考えている。
では、放送人としての感度というものをどう磨いていったらよいのか、あるいは維持していったらよいのか。そのことを考えるうえで、テレビの制作現場、放送の制作現場が今置かれている厳しい状況について踏まえておく必要がある。
今回、日本テレビで関係者の方にお話を伺うなかで、今のテレビの制作現場がとても大変な状況に置かれていると再認識させられた。制作現場では非常に複雑な分業化が進んでいる。当該番組『スッキリ』の制作スタッフは、調査時点で180人を超え、このうち日本テレビの社員は12人、それ以外の人は制作会社の方やフリーランスの方が分業体制で仕事をしている。
当該コーナー「スッキりすの週末オススメHuluッス」には専従者がいなかった。逆の見方をすれば、全員がいろいろなコーナーを担当していて、兼任という形でこのコーナーの制作を担当するやり方になっていた。業務フローも非常に複雑で、収録後、プレビューの機会が何回かあるが、これもオンラインで行われていた。それに加えて、現場は多忙で、皆さん異口同音に日々の仕事に追いまくられて本当に余裕がないとおっしゃる。こういうコーナーで紹介する作品を見る余裕がないということだった。このコーナーで紹介したドキュメンタリー作品は、35分間とそれほど長い作品ではないが、事前に視聴した人は1人だけだった。そういう時間的余裕が現場から失われている。
そうしたなかで、あってはならないことだろうが、業務にある程度優先順位をつけ、物によっては後回しになって、いったん立ち止まって熟考したりみんなで議論したりすることがなかなかできなくなっている。最近、テレビの番組の劣化とか、いろいろな批判を時々耳にするが、私が非常に強く感じるのは、劣化ではなくて疲弊ではないかということだ。現場の疲弊が大きな問題を引き起こしているのではないかと感じた。
そういう状況で、危機管理的な発想がどうしても前面に出てくるということがあると思う。今回日本テレビも、再発防止策として、チェック体制の強化と社員やスタッフに警鐘を鳴らす施策の拡充をうたっている。その必要性は全く否定しないが、放送人としての感度ということを考えるときに、そういう危機管理的な発想だけでは十分ではないのではないかと私は考えている。
では、何が重要なのか。先程高田委員長代行が、知識が必要で勉強しなければいけないと指摘されていた。本当にその通りだと思う。他方、私が強調したいのは取材経験についてだ。日本テレビでヒアリングをした際、ある人が、当該コーナーに報道系のスタッフ、記者経験者や取材経験のあるスタッフが1人でも関わっていれば、今回の問題は起きなかったのではないかというふうなことをおっしゃっていた。
この話を聞いたときすぐに思い起こしたのが、2020年にNHKが放送した『これでわかった!世界の今』で問題になった事案だ。この番組は、Blacks Lives 
Matter(ブラック・ライブズ・マター)を取り上げ黒人の差別問題を紹介しており、その際、ツイッターに番組に関連したアニメーション動画をアップした。動画では黒人の男性を、筋骨隆々で少し怖く「俺たちは怒っている」というふうな形で描いていた。これが極めて典型的なステレオタイプ表現で差別的だと強い批判を招いた。
私はこの番組に関わっていた人にたまたま話を聞く機会があった。その人は、編集部に、アメリカで生活をした経験がある人かアメリカ人がいれば、こういうことは起きなかったのではないかとおっしゃっていた。つまり、黒人問題を取り扱う場合、アメリカの現実を肌感覚として知っている人が、どれ位制作現場にいるかどうかが非常に重要ではないかということだ。
先程も紹介したように、制作現場は分業化が進んでおり、いろいろな人たちが関わる形になっている。取材は取材、撮影は撮影、収録なら収録、そして完プロなら完プロという形で、専門化、分業化が進んでいる。そうしたなかで、社会の現場で取材経験を積み、いろいろな人とコミュニケーションを取るという経験が相対的に減少、あるいは不足していることが、こうした問題の背景にあるのではないか。
1つ紹介したい議論がある。イタリアの著名な哲学者ウンベルト・エーコによるネオTVという議論だ。どういう議論なのかというと、現代のテレビは、現実社会を映し出す窓のような機能ではなく、むしろ、テレビが自ら作り出したある種の現実、バーチャルな現実、テレビ的な現実というふうに言ってもよいかもしれないが、そういうものを映し出しているのではないかというものだ。
テレビは窓ではなくて、自分が作り出した世界を映し出す鏡のような機能を担うようになってしまっているのではないか。言い換えれば、テレビの自作自演というふうな状況になっているのではないかと、エーコは批判的に主張した。
それになぞらえて言うなら、全部が全部そうだというわけではないが、現場の制作者は、テレビが作り出した現実に住んでいる人、典型的な例を挙げれば芸能人と言われるような人たちとの間では接点があり、いろいろなやり取りがあるかもしれないが、現実世界との接点を次第に失いつつあるのではないだろうか。ゆえに、現実そのものとの接点を、取材を通して維持していくということが、放送人としての感度ということを考えるうえで重要なのではないだろうか。
視点を変えて、差別問題とどう向き合っていくべきかについて話をしたい。差別問題というものの特徴として、コンテクスト(文脈)によるということが挙げられる。どういう文脈の中で、誰が、誰に向かってどういう意味合いで表現しているのかということだ。それによって、ある表現は差別的だということになり、別の表現はそうではないということになったりすることが、さまざまな形でありえると思う。
その表現に、当事者がコミットして承認しているのかどうかということも、差別表現の構成要件として重要なポイントになると考える。例えば、関西人は声が大きいとか、関西人はセコイとか、お笑い芸人の人たちの言い回しによくある「関西人は何々だ」みたいな言い方は、当の関西人がいくら言ってもあまり問題にはならないが、東京の人が関西人はこうだというふうに言うと、その瞬間にそれは問題含みになるということが挙げられるだろう。
NHKが放送している障害者情報バラエティー『バリバラ』を例として挙げたい。この番組は、障害者の人たちがMC、あるいは自ら出演者となり、自分たちの障害のことをある種の笑いにするという非常にユニークなバラエティー番組だ。障害者の障害を笑いの対象にするということは基本的には有りえないことだが、当事者がコミットして、その人たち自身が笑いにするという限りにおいては成立するという、一つの例ではないかと思う。
現在の差別問題、これからの差別問題を考えるうえで、多様性の見地は欠かせない。現代社会は非常に多様化、グローバル化し、複雑化している。社会がそうである以上、番組の送り手の側も多様でなければならないということが、最近言われるようになった。
1つ紹介したいのがイギリスの公共放送BBCの例だ。BBCは、出演者、制作スタッフの人員構成における多様性を担保するために数値目標を設定している。出演する男女比率を50%ずつにすることを目指すフィフティ・フィフティということが、ここ数年よく言われるようになった。その延長線上で、BBCの場合、画面に登場する人をフィフティ・フィフティにするだけではなく、画面の向こうにいる制作者の人たちもフィフティ・フィフティであるべきだとしている。フィフティ・フィフティは通常ジェンダーの文脈で言われることだが、BBCのユニークなところは、女性だけではなく、非白人の人たち、障害者の人たち、LGBTの人たち、こういった人たちもそれぞれ数値目標を設定して多様性を担保しようとしている点だ。
私の聞いている範囲では、女性に関してはまだ数パーセントこの目標に届いていないそうだが、すごいと思うのは、非白人、障害者、LGBTについては、もうこの数値目標を達成しているということだ。
どうしたら差別をなくせるか、差別問題を防ぐことができるかについては、特効薬もマニュアルもない。日常の実践、取材活動を通した現実社会との接点、あるいは、その経験を蓄積していくことこそ重要だ。言い換えるなら、日々の実践からしか、放送倫理というものは形成、あるいは維持できない。
今回、放送人の感度の問題ということを考えるうえで、送り手の放送局と社会との距離が遠くなっていないかということや、放送局が視聴者にエージェントとして受け止められ、視聴者の知りたいことにちゃんと応えているか、あるいは、自分たちの主張や意見、立場をきちんと社会に伝えて共有する媒体になっているかということなど、いろいろなことを考えた。放送人の感度という問題は、重要な指標として位置付けられるのではないかと、今は思っている。

最後に、井桁大介委員が「差別問題 対応の視点」というテーマで講演をした。

はじめに、ある研修の場でいただいた1つの質問を紹介したい。「バラエティー番組などで、人を動物に例えることはよくあることで、今回の『あ、いぬ』というのもその中の1つとも思われる。バラエティーなど他の多数の例では許されて今回はだめだと言われても、線引きの基準が分からなければ、なかなか難しいのではないか」。この質問は、差別問題における線引きの難しさというとても重要な問題を含んでいると思われるので、これを題材に説明をさせていただきたい。
先程米倉委員が「関西人が自分たちで関西のことを何か言う場合にはOK」というふうに、コンテクストによってOKな場面があるとおっしゃったが。逆に言えば、OKかNGかはすべてコンテクストに依存してしまうように思われるので、悩まれると思う。つまり何らかの基準・物差しがないから常に手探りで対応せざるをえない。すべて総合判断、すべてコンテクスト依存ということになってしまうと、現場の対応力に任せざるをえず、悩み深き問題になってしまう。
この点について、高田委員長代行は「知識をしっかりインプットして高めていくことが大事だ」というふうにおっしゃっていたし、米倉委員は放送人としての感度が大事だとおっしゃっていた。いずれもおっしゃるとおりだが、私は法律家なので、こういった問題に関して法律家はどのように対応しているのかについて少し紹介したい。もちろん、法律と放送倫理というのは似て非なるものだということは当然の前提だ。また、今回紹介する視点は、国や自治体が何か差別的なことをしてしまって、それが訴訟になるような場合におけるものを典型とするもので、放送機関の皆さんのように放送の自由・表現の自由という憲法上の権利を行使した結果、差別的な取り扱い・表現をしてしまったという場面とは、当然同じようには考えられない。それでもなお、一つの視点として何らかの参考になるのではと紹介させていただく。
まず、差別問題に取り組む際には、差別は誰にでもあるということを前提にして取り組む必要がある。これについては最近、アンコンシャスバイアスという言葉がよく使われるようになっている。
自覚的な差別意識というのは実はあまりない。自分のことを非倫理的な人間だと思う人が基本的にはいないのと同じで、自分のことを差別的だとか、自分はここに関して差別的な意識を持っているとか自覚して明言する人は少ないと思う。
しかし、差別的なものの考え方というのは誰にでも少しは必ずある。例えば、私であれば、男女差別とか外国人差別とかはないのかと言われると、やっぱりあるのかもしれないというふうに思いながら生活をしている。友人や家族からそういう指摘を受けて、そういう差別的な意識があったのかなと気づくこともある。このように、個人レベルでは自分にも差別意識があることを前提に行動するというのが最初の前提になってくると思う。
そのうえで、放送機関という組織として、許されない差別的な放送をしないようにするには、構成員の各人に何らかの差別的意識があることを前提に、組織的な統制システムを作っていく必要が今後は出てくるだろう。その1つの手段として、先程米倉委員がおっしゃった多様性のある環境をしっかり作ることで差別的な意識を可視化する、もしくは共有化していくということが大事になってくるだろう。
そういった差別問題に取り組む際の、個人レベル・組織レベルの対策を踏まえたうえで、法律家はどのように差別問題に対応するかという視点を紹介したい。もったいつけて申し上げているが、実際のところは、法律においても差別問題に対応する具体的で万能の基準などというものはない。差別問題というのは非常に難しいということが、裁判でも法律業界でもある意味前提となっている。
どうしても差別問題の対応というのは基準が抽象的にならざるをえない。米倉委員がおっしゃったコンテクスト依存というのは本当にそのとおりで、判例が示している基準というのもせいぜいが、「事柄の性質に遡行した合理的な根拠に基づくものでない限り、差別的取り扱いを禁止するのが憲法の趣旨だ」と言っているだけである。不合理な区別は禁止しましょうと言うだけだ。これだけでは、何が不合理な区別で許されない差別なのかといえば、結局はコンテクスト依存ですねということになる。それを学説などにおいて、過去の膨大な裁判例・判例を検討し、少しずつ精緻な視点・基準が積み重ねられてきたので、それを紹介したい。

検証委員会 図

大きく3つの視点が重要だと思う。1つ目の視点は区別の属性である。例えば放送において、特定の属性をひとくくりにして評価を下す場合、その属性が、容易に変更できないものかどうかがポイントになる。
容易に変更できない属性とは、例えば、憲法の条文では「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」といった要素が挙げられているし、多くの皆さまが仕事の現場で触れていると思われる個人情報保護法では「要配慮個人情報」という言葉が使われ、具体的には「人種、信条、社会的身分、病歴、犯罪の経歴、犯罪により害を被った事実その他本人に対する不当な差別、偏見その他の不利益が生じないようにその取扱いに特に配慮を要するものとして政令で定める記述等が含まれる個人情報」と整理されている。こういった属性をひとくくりにして、何か取り扱いを区別しているのかというところが、1つ目の目の付けどころとなる。
次に2つ目の視点は、そのひとくくりの取り扱いによって対象となる属性に生じるダメージである。法律業界では反従属、反別異といった用語が使われるが、端的に言うと、地位のレベルに関するダメージが及ぶものなのか、利益のレベルに関するダメージが及ぶものなのかということだ。ありていに言えば、その人たち、その属性の人たちやその属性そのものを馬鹿にしたり、地位をおとしめたりするようなものなのか。そうではなくて、あくまで利益的なものなのかということだ。
利益的なものというのは、分かりやすく言うと、例えば、女性には妊娠、出産があり、労働法において産前産後の法定休暇が認められる。これは、女性を区別的に取り扱っているわけだが、別に女性をおとしめる意図とか、ダメージが与えられるようなものがあるわけではない。こういうふうに、利益レベルのものなのか、地位レベルのものなのかというところで分けて考えてみようというのが、視点の2つ目だ。
3つ目の視点は、放送機関の皆さまが、なぜその報道、表現、放送を行うのか、その目的や必要性の検討だ。その報道、表現、放送において、なぜ属性をひとくくりにする必要があるのか、その必要な程度はどのぐらいなのか、どういう目的でやっているのかというのを、自己分析をしてみるということだ。
この3つの視点を持ち込むことで、検討の目を細かくしていきましょうというのが私からの提案だ。もちろん実際に裁判例などで議論される要素はより多岐にわたるが、まずはこの3つの視点を意識することで、「不合理な区別は許されない」という抽象的な基準を、具体的な事例に落とし込み検討に役立てようという知見が蓄積されつつあるというところだ。
整理すると、第1に差別された属性が、人種とか信条とか、性別とか、そういったものである場合には、アラートを出してほしい。また、差別によるダメージが地位のレベル、つまり馬鹿にする、尊厳をおとしめるといったものであれば、さらなるアラートを出してほしい。
これらが重なる場合、例えば民族をひとくくりにして馬鹿にするようなものであれば、かなり厳しくアラートして立ち止まっていただく必要がある。そのような場合には、その表現でなければ報道、表現、放送がどうしても成り立たないのか、そういう報道を放送することが本当に必要なのか、言い換えは難しいのかということを、慎重に検討していただいたほうがいいと思う。いわば、原則NGで、高い必要性がある場合や言い換えが極めて難しい場合には許容される、といった基準を持ち込むということとなる。
他方で、差別される属性が変えられる場合、例えば、スーツを着ているかどうかとか、メガネをかけているかどうかとか、そのぐらいであれば、その人の人格に根ざした変えられない属性というわけではない。そういった変えられる程度の属性に着目した報道、表現、放送で、かつ、それがその属性の人々の尊厳を傷つけるようなものではないならば、よほどの場合でなければ特に目くじらを立てなくても良い、ということとなる。
このように、表現によって、どのような属性にどのようなダメージが生じるのかという着眼点に根ざして分析をしていただくと、少し緻密な検討ができるのではないかというふうに考えている。
本日の資料末尾の参考に、放送基準、法令、裁判例など、差別の問題に関して参考になる資料を付けている。例えば、最近ヘイトスピーチなどに関しても少しずつ裁判例が出てきている。ヘイトスピーチは、総体としての民族や人種に対する差別というところで、法律学でもどうやって取り扱ったらいいのかが争われてきた分野だが、少しずつ議論が進展してきており、参考にしてほしい。

この後の意見交換での主な質疑応答は以下のとおりである。

Q: 井桁委員が説明した3つの視点を表にまとめた『差別表現のマトリクス』について、もう少し詳しく教えてほしい。
A: あくまで私が簡略化したものなので、本当の意味での正確性に欠けるかもしれないが、属性とダメージ、それぞれで、どれほど重い差別になるのかある程度の基準が動くということを表している。人種、性別、社会的身分のような変えられない属性に着目した区別的な取り扱いであれば、原則NGの方向で検討していきましょうという作用が働きやすいということだ。ダメージのところは、その表現によって、地位がおとしめられる、馬鹿にされる、社会全体で、その属性の人たちは馬鹿にしていい属性だというふうにメッセージを発信してしまうような表現の場合は、同じく、一旦立ち止まりましょうという方向に作用が働くでしょうということだ。そこの掛け合わせで、属性を変えられない人種などの属性に着目し、馬鹿にするなど、地位をおとしめるような表現をする場合には、原則NGだと思って立ち止まったほうがいいんじゃないかというふうに読んでいただければと思っている。
属性が変えられるレベルであれば、馬鹿にする表現をしたとしても、変えられない属性よりは少し緩やかな基準だとしていいのではないか。「メガネの人は貧乏だ」みたいなことを言ったとしても、貧乏だというのは馬鹿にした表現になるかもしれませんが、メガネをかけているというのは比較的、変えられる属性になるので、ある程度許容度が高まるのではないかというぐらいの話だ。
このマトリクスを、二次関数みたいにきれいな相関性で作れるかというと、そこまでではない。視点として、こういったマトリクスを頭の中に入れていただくと、何か現場で問題が起こったときに、少しだけ緻密な検討ができるのではないかということだ。
補足をさせていただくと、過去の委員会決定などを見ても、一言で言うと、地位をおとしめる、尊厳を傷付ける、馬鹿にするということに関しては、少し厳しい目が向けられている。そこはやはり、こういったマトリクスが検討の際に意識的にせよ無意識的にせよ作用しているのではないかというふうに思う。ですので、特に差別された属性が簡単には変えられない場合、地位のレベルで馬鹿にするような表現をするということについては、感度を高めていきましょうという視点になるかなというふうに思っている。(井桁委員)
  おさらいすると、このマトリクスは4象限あり、左上ほどアラート度が高く、右下は左上よりもアラート発令度が低いという、そういうグラデーションと見ていいのか。
(岸本委員長代行)
  その通りだ。では、右上と左下とではどちらのアラート度が高いのかというと、ちょっと難しい話になってくると思うが、個人的には、やはり地位のレベルのほうが、より厳しくなってくるかなというふうには感じている。(井桁委員)
  色分けをするとすれば、左上が真っ赤で、その右はオレンジ、一番右下になると黄色という、そんな色分けのイメージで、これを活用してみてもいいのか。(岸本委員長代行)
  最初はそういう色分けをしていたのだが、ちょっとどぎつくなるかなと思い自粛した。
(井桁委員)
  利益のレベルで、変えられない、変えられるというゾーンに入る具体的な例を挙げてほしい。(田中調査役)
  地位のレベルは、分かりやすくいうと、馬鹿にすると思っていただければよい。それ以外の区別的な取り扱いは、ほぼ全部、利益のレベルになる。実は、世の中にはたくさんの利益のレベルの取り扱いの差異があり、身近な例を挙げると、会社の近くに住んでいる人には近距離手当を支給する会社がある。一方で、遠くに住んでいる人には交通費しか支給していない。そういう取り扱いは、別にいつでも変えられる住所ですから、すぐに変えようと思えば変えられるものについて、利益のレベルでの取り扱いを変えているだけであったりするわけだ。同じように、放送表現のレベルでも、実はいろいろなところで、何かに着目して取り扱いを変えているということはたくさんある。属性について表現をするときには、ほとんど実はそういう表現を無意識にしている。その時に、地位のレベルでなければ、大体それは利益のレベルだというふうに思っていただければ いいと思う。そのぐらいの位置付けです。(井桁委員)
   
Q: 福島県では、部落という言葉を、地区という意味で主に中高年の方が使うことが多い。うちの部落ではこうこうこういうことがあるというインタビューを撮ったときに、福島県内での放送ではそのまま流しているが、昨今ネットでのニュース発信が多くなっているので、全国で見るということを考えたときに、部落という言葉を外す対応をとっている。西日本の方は部落という言葉に対して、受け止め方が違うだろうと配慮して、そのような対応をしているが、この対応は妥当か。
A: 福島県で部落という言葉を使っているのは、その地域だけの共通認識事項だと思う。その地域外の方からすると、一瞬ギョッとする表現であることは間違いないだろう。そうすると、放送や配信をする地域が広範囲に渡るときには、ある程度一定の配慮をするのは、当然のことではないかと思った。むしろ、その言葉を使いつつ、傍らに何か注記をするというのも、わざわざ部落という言葉を取り出して強調するようになってしまうので、適切ではないような気がする。対応としてそういうことがあるというのを、改めて共有させていただいた。(小町谷委員長)
  部落という言葉自体は封建時代からあった表現で、当初は、部分集落というワードで、それを縮めて部落という言い方をし始めたと私は認識している。もしかしたら間違っているかもしれないが。戦時中までは、郡部の自治組織という意味合いでも部落という言葉が使われていた。
自治組織や人が集まっているという意味の部落という言葉に、被差別部落という言葉が重なってきたのは、戦後の部落解放運動の高まりのなかだった。そういう歴史的な背景があるのだというふうに私は思っている。
実は私は出身が四国の高知県で、学校教育の中で同和教育があったので、それこそ中学校ぐらいから、部落と言えば被差別部落とイコールだと言われて育ってきた。一方で、私の祖母の世代、祖父母の世代というのは、部落という言葉は被差別部落と必ずしもイコールではない。昔から、明治時代からもう普通に、あの辺、あそこの集落という意味で、部落という言葉を普通に使っていた。先程、福島テレビの方のお話にあったのと同じで、それを使っていいのかどうかというのは、まさに文脈で判断すべきことなんだろうと思う。
たとえば、自治体のホームページを注意深く見ていると分かるが、九州では、あくまで行政的な意味で部落という言い回しをするとき、それを集落という言葉に置き換えることは、同和関係団体の方と議論をした結果、逆差別に当たるということになったと断り書きをして、部落という言葉をそのまま使っているところもある。九州は、被差別部落の問題がたくさんあると思いますけれども。
だから、文脈でどう考えるかだと思う。一律、いいとか悪いとかという判断はなかなかしにくい。しかし、誤解を招く恐れがあるのだったら、あえてそれを突っぱねる必要もないのではないかというふうに、私は思う。(高田委員長代行)
   
Q: 考査の現場にいると、非常に細かな言葉の悩みというか、判断が非常に難しい面がある。例えば、女の子らしい服装をしなさいとか、男の子だから泣いちゃダメよとか、今まで当たり前のように使われてきた言葉について、これ大丈夫でしょうかみたいなことを相談されたときに、これからの時代ダメだよねという部分と、これまで使われてきたからある程度文脈の中で許容できるよねという部分と、どちらで判断するのか非常に悩ましい。
関西なので、やはり部落というと被差別という意味合いがくっついて回る一方で、放送局として、その言葉がそういう意味を持たないというのであれば、正々堂々と使うべきじゃないかと。一番懸念するのは、やはり言葉狩り、表現狩りというところに行き着いてしまうということ。その辺りに関して、委員は、どういうふうに考えているのか。
A: 私も日々このラジオ、テレビで話すとき、あるいは文章を書くときに、この言葉を使っていいのかと迷う。ラジオの生放送は考査で判断してくれる人がおらず、自分で判断しなければならない。その時の判断基準には、放送倫理的に沿うかどうかよりも、自分を守る本能みたいなものが働く。その本能の部分でこれはどうかというのを判断している。先程から感度をどう身に付けるかという話が出ており、知識や取材経験が必要だとの指摘があったが、私にとって感度を身に付けるきっかけになるのは、同時代の炎上案件だ。
オリンピックの前に、ある要人の発言が非常に問題になった。女性の多い会議は長いと。あの炎上騒ぎを見ていて私が感じたのは、何かある事柄とか傾向を、性別と結び付けて語るというのは、今は危ないということだ。その炎上案件を見てから、自分がものを書いたり話したりするとき、少し考えるようになった。
以前だったら、女性同士、今度温泉に行きましょうみたいなこと言っていたのを、これは、女性同士とわざわざ言う必要があるのかなと、その必要性と目的を考える。別に女性と言わなくても、自分の表現したいことは成り立つと思えば、なるべく性別のことは言わないようにする。ただ、温泉に行くことを話すときに、男女で行くのかといった、誤解を招く恐れがある時は自然に女性同士と言う。
考査に上がってくる男の子らしさ、女の子らしさについて、私だったら、今はなるべく使わないが、文脈で判断し、プラス、その時代の感度で判断する方がよいと思っている。男女のことを合わせて話したいときに私がとった具体策を1つ紹介したい。女の子がピンクの色を好むという話をしたいときに、下手をすると差別になるので、困っていたところ、ある人の経験を知った。子どもの遊ばせの世話をしている人が、折り紙を広げて、皆、好きな色を選んでいいよと子どもを走らせると、女の子は皆ピンクを取りたがる、不思議だよねというような話を聞いたのだ。女の子はピンクが好きという話をしたかったら、ある人が体験した出来事として、折り紙で好きな色を選ばせたらピンクを選ぶ女の子が多かったそうですと言えば、それは別に差別ではなく、その人が体験した出来事だから嘘ではない。
このように、危ないなと思う表現をあえて使うには、後々気にする人がいることを自覚して使う覚悟が要る。そして、気にする人が何か言ってきた場合に、いや、こういうことで言ったんですよと説明ができるかどうかというところが、最終的に大事だと思う。後は、説明はできるが、この言い方をしなくてもいいのであれば言わないという判断だと思う。
(岸本委員長代行)
  性別と色の関係で思い出したのだが、化粧室、トイレの表示は、女性は赤かピンク色、男性は青などに色分けされている。日本はそうだが、世界的に見ると非常に珍しい。他の国に行くと、マークは何となく女性っぽいマークがあったり男性っぽいマークがあったり、あるいは、言葉でウーマンとかマンとか書いてあるが、それは全部黒などの同じ色で表現されている。世界の中で日本は特殊だということをご紹介しておく。(小町谷委員長)
  先程井桁委員の差別表現のマトリクスというところで話があった、差別される属性ということで考える際、ジェンダーにおいて考えなければいけないのは、その属性というものが、不変のもの、全く変わらないものなのではなくて、どんどん変わっていくということだ。そして、今は非常に細分化されていっている。差別される属性、アイデンティティというものがものすごく多様化し細分化されている。しかもそれが、多くの人たちの間で意識化され、言語化されている。そういう状況があるということを前提に考えないといけないということだと思う。
放送はマスメディアだから、ある種の大衆メディアみたいなものだ。そして、大衆メディアだからこそ、社会のマジョリティに向かって、どうしても情報発信、メッセージを伝えるというふうな性格が今まで強かった。これまでのそういうやり方のままでは、おそらくいろんな問題が起きてしまう、通用しなくなっている、そういう状況があると思う。先程私が言った、オーディエンスが放送局、テレビ局やラジオ局を自分たちにとってのエージェントとして、見てくれるのかどうかということが、今非常に重要になっていると思う。
日本では、あまりマイメディアという感覚がオーディエンスの中にない。国際比較の調査を見ると、海外と比べて、そういう感覚がないというふうなことが言われている。理由はいろいろあると思うが、1つは党派性があまりないこと。諸外国では、そういう党派性のあるメディア、主張がはっきりしているメディアはあると思うが、日本の場合はそうではない。
それだけではなく、何となくマイメディアということを持てない背景として、テレビ局やラジオ局が大衆に向かって、マジョリティに向かってメッセージを発信してきているがゆえに、感覚が時代の変化について行けていないということが挙げられる。世の中では非常にアイデンティティというものが細分化され、多様化してきており、オーディエンスはいろいろなことをセンシティブに意識している。そういうなかで、放送局というのは、自分の価値観、自分の感覚と全然合わないことをやっていると受け止められてしまうというふうな問題があるのではないかと思う。ジェンダーの問題も、たぶん、そういう観点で捉えるべきではないか。
ジェンダーに対する感覚とか意識とかが、ものすごい勢いで変化し、ずっと変化し続けているというところがあるので、そういったことを常に意識し続けるということが、放送局の現場は問われているのではないかというふうに考えている。(米倉委員)
  アイヌの問題で言うと、先程申し上げたように、2016年の調査で、内閣官房がアイヌの人たちに放送に何を期待しているのかと質問したところ、差別を無くすために正しい情報を伝えてくださいという期待値が1番高かった。米倉委員のおっしゃる通り、視聴者、オーディエンスが一体テレビに今、何を期待しているのか、何を求めているかというのが極めて重要な問題だと思う。
ですから、考査の場でも、この番組は放送局として何を伝えようとしているのか、どんなメッセージをオーディエンスに送ろうとしているのか、その番組全体の趣旨に沿いこのシーンでこの言葉を使わないとダメなのか、番組全体として最終的にどんなメッセージを視聴者に伝えようとしているのかを十分吟味し、判断するべきだと考える。言葉尻で、これがいいとか悪いとかと言うよりも、視聴者側は、放送局なり、その番組なり全体のスタンスを、極めて鋭く敏感に読み取っているのではないかと感じる。
『スッキリ』のケースに戻れば、この「あ、いぬ」という言葉自体は、アイヌの問題を取り上げた社会的な番組、ノンフィクション番組で、きちんと説明したうえで使っているのであれば、何の問題もなかったと思う。
絵で犬がワンワンワンと出てきて「あ、いぬ」と言うこのシーンが、このコーナーに本当に必要だったのか。そういう検討が十分に加えられていないなかで、今回の問題が起きてしまったと考える。(高田委員長代行)
   
Q: (オンライン)女性警察官がさほど珍しくなくなった今でも、女性白バイ隊員などの表現が時々ある。テロップをチェックする上司が女性である場合は、この点に気づけるが、男性である場合は気づかないという揺れが生じたことがあった。言葉狩りではなく、意識を改善するための対策はあるか。
A: 私は弁護士で、私たちの業界では女性弁護士という言い方をする。これはわざと言っている場合がある。どういう場合かというと、司法におけるジェンダーのバイアスを強調するために、女性弁護士の比率が少なく意思決定過程に入っていないということを強調するために、わざわざ言うことがある。
それとは別に、一般的な場で、女性弁護士という言われ方をすることも非常に多い。以前から私は、それは女性であるという属性をくっつけて、男性の弁護士と完全に区別して、ある意味貶めているというふうに思っている。女性は、そういうことに凄く敏感だと思う。恐らくその女性白バイ隊員の場合も悪気は全くないと思う。白バイ隊員というのは、基本的に男性が多いだろうと考え、そこに女性がいることが珍しいという趣旨で使っているのかなと思うが、女性と付ける必要性が本当にあるのかというと、ないだろう。やはり必要性ということが重要だと思う。もちろん文脈ということも関係するのかもしれないが。
もう1つ、女性を紹介するときに「美人の」と付く。新聞のラテ欄などを見て「美人の」という表記が目につく。一方で、男性に「ハンサムな」とはあまり言わない。やはり、女性を容姿で見ていることを示しているのだと思う。あまり意識されていないのかもしれないが、実は隠れている問題があると以前から感じている。
ジェンダーの問題というのは、米倉委員がおっしゃったように、加速度的な形で今、動いている課題なので、女性・男性と付けなくても表現できるのであれば、別の表現に置き換えたほうが良いのではないかと個人的には思う。(小町谷委員長)
  情報を提供する企業や公的な機関などが、いまだに「女性チームが出来ました」「女性役員が誕生しました」といったプレスリリースを出したり、あえて打ち出してきたり、そういうことが結構ある。恐らく、先程の女性白バイ隊員もそういう広報の一環ではないかと思う。そういうことを言ってきたら、あなたのところ古いですねと言ってあげるぐらいで、ちょうど良いと思う。
私がかつていた新聞社では、女性警察官とか、女性教員とか、女性何々と書くのは例外的なことだとしていた。そう書く場合は、なぜそうするのかをデスクに説明しなければいけないというルールがあった。
もう1つ、私が気になっているのは、女性を紹介するとき「家に帰れば二児の母」などと紹介されることがあるということだ。逆のパターンで男性を「家に帰れば三児の父」「家事と両立させている」と紹介することはほとんどない。非常にステレオタイプの表現が多いので、そういったことも再考されたほうが良いのかなと感じている。(高田委員長代行)
  先週、アジアからの留学生だけの大学院のクラスで、日本のバラエティー番組をジェンダーという観点から見ようという授業をして、生徒に「どういうふうに見ましたか」と聞いたところ、「古いですね」「昭和ですね」といった感想が異口同音に出た。私の感覚で言うと、これだけジェンダーということが言われているなかで、報道番組、ニュース、ドキュメンタリーといった番組では、比較的いろんな形で神経を使って作られているが、バラエティー番組など、いわゆる娯楽のジャンルにおいては、相当クレームも来ているだろうに、かなり内容がオールドファッションだと感じる。先程から話題に出ているルッキズムなどステレオタイプ表現というのがいろんな形で散見される。娯楽番組というのは半ば冗談みたいなもので、笑いの世界だということなのかもしれないが、実社会ではいまや、宴会の席だから冗談だからというふうなことは通用しないという状況だ。
そういう時代のなかで、娯楽番組のジャンル、バラエティー番組だけはなぜか、これぐらいは許されるだろうみたいな形で、今でもさまざまな表現がなされているというふうに、強く感じる。それを見て、人によっては、本当にテレビは古いと言い、放送は古い世界だというふうに受け止めてしまうということについて、十分に意識的である必要があるのではないかと考えている。(米倉委員)
   
Q: (オンライン)米倉委員が関西人を例に挙げて説明されたことだが、地上波という甚大な拡散力のあるメディアの機能を考えたとき、当事者が言っているからOKだとしてそのまま放送することが、本当にOKなのかと最近疑問を感じている。例えば、女装家のタレントが自分のことをおかまと呼ぶ。当事者が言っているからいいということになっているが、それは当事者一人のことでしかない。そのタレントが属性の同じ人すべてを背負えるわけではない。属性の同じ人は、それを見て傷ついたり不快に思ったりする人もいるかもしれない。さらに言うと、出演している当事者が、その属性に対して悪意のある発言をするかもしれない。そのあたりを最近すごく悩んでいる、あまりそれを言い始めるとどんどん表現の幅が狭くなってしまうというのもあるが、当事者がOKなんだからというふうに、何となく業界的になりすぎているような気がする。そのあたりをどう思われるのか意見を聞かせてほしい。
A: 日本が批准している障害者権利条約に、私たちのことを私たち抜きに決めないでくれというくだりがある。呼称、表現、制度、システムなどに当事者が関わっているかどうかということは重要なポイントだと思う。しかし、今のご指摘のように、ケースによっては、それだけでは判断出来ないということがあるというのは、なるほどそうだろうというふうに思った。井桁委員の、何々のためにその表現、その言葉であるということが、どのくらい重要な意味を持っているのか。あるいは、公共性という観点からどうなのかということは、ケースバイケースで判断していかなければならないと思う。
また、そういう言葉を使う人が、アナウンサーとか記者といった放送局の社員なのか、それとも、出演者の芸能人なのか、街頭インタビューに答えた一般の人なのかといった立場の違いによっても、良いという場合もあれば、ダメだろうという場合もあるように、判断はいろいろ分かれるのではないかと思うし、それを放送の現場で考えるべきだと考える。
ジェンダーの関係でいうと、例えば、奥さんという言葉は、ジェンダー論的にはNGワードだと思うが、一般の方が「うちの奥さんは」と自分の妻のことを言ったときに、奥さんという言葉はダメだし、その言葉によって傷つく人もいるというふうに言いだすと、じゃあどこまでやるんだというふうなことになってくる。ケースバイケースだし、その発話者がどういう立場の方なのかということにもよるし、非常に難しい問題だと受け止めている。
(米倉委員)
   
Q: (オンライン)放送の機能と影響力を考えたとき、通常「これは当事者が言っているからOKとして放送している」という説明を付けていないので、世の中に、OKだという価値観を拡散してしまっている面があると思っている。それでいうと、マツコさんの「自分はおかま」みたいなことを、どんどん放送していいのかどうかというふうなことについても、ちょっと考えてみる必要があるのではないかと感じている。ありがとうございました。
   
  質問が出るまでの間のつなぎで話をしたい。皆様から寄せられた事前アンケートを読んでいると、何かの基準、マニュアルを求めているとひしひしと感じる。私が文章を書くときに使っているのは、共同通信社から出ている記者ハンドブックだ。これには差別語不快用語という項目があり、この言葉に関しては、こう言い換えたらいいでしょうという言い換え集が設けられている。私は物を書く際、これはどうかなと思うときに、この共同通信の記者ハンドブックを調べて、これは今、差別語不快用語に入るんだなというふうに、まずアラートを立てる。しかし、だからといってその言葉を使わないのかというと、そうではない。
例えば、この差別語不快用語には、町医者という言葉は開業医と言い換えましょうと書いてある。町医者が本当にダメなのだろうか。今のコロナ禍の状況で、大病院に行くのは怖いから、まず近所のお医者さんで診てくれればいいなという思いがある。そういうことを語りたいときに、開業医という言葉でその思いが伝わるだろうか。東京の開業医は割と小規模なところが多いが、鹿児島など地方では個人の病院が大病院で入院施設も備えているというのが現状としてある。だから、開業医と言い換えるのかどうかは、身近なお医者さんで診てもらいたいという思いが伝わるかどうかという観点から検討する。
差別語不快用語に町医者イコール開業医と言い換え例があるからといって、機械的に言い換えるということをしない方が、言いたいことが伝わる場合もあるのではないか。ただしその場合、町の身近な医療機関とか、町の身近なクリニックとか、そういった身近という評価を1つ付け加えることで、もしかしたら、身近な町医者でも許されるのではないだろうか。準マニュアルとしての本の紹介と、しかしそれだけではないという私の考えについて話をした。
八百屋だったら、八百屋という3音だけを切り取って、そこを生鮮食品店みたいな別の言葉に言い換えようとすると、すごく不自然になるし、本当にそこで伝えたいことが伝わらない場合がある。機械的な言い換えではなく、ここで何を伝えたいのかという、表現者としての原点に戻って考えることが必要だと思う。
また、先程のおかま問題で、私は、当事者が言っているからいいという基準に加えて、2つ必要なことがある気がする。まず、当事者が誇りを持って言っているかどうか。そして、その言葉を言うことが、そのシーンで伝えたいことに必要かどうかだ。本人の誇りと必要性ということが、当事者性に加わってくると考える。
例えば、おかまの人が「私たちおかまはね、助け合うのよ」みたいなことを言いたかったとしたら、そこでおかまという言葉を外すのはどうなのかなと思う。同時に、その場合であっても、あまりにも「おかま、おかま」としょっちゅう出てくるのではなく、回数を1回ぐらいにするとか、そういった微調整がとても大事なことだと思う。(岸本委員長代行)
   
Q: (オンライン)放送後に総務省から出された行政指導について伺いたい。以前、放送倫理検証委員会でNHK『クローズアップ現代』の際、番組内容を理由とした行政指導に対して、「放送法が保障する『自律』を侵害する行為で『極めて遺憾である』」という声明をわざわざ出した。今回のケースも番組内容に対する指導であって、全く同じ状況であるように思うが、今回の決定では、そもそも行政指導に関して何も言及されていない。なぜ言及しなかったのかということと、委員会の議論の中でこの指導についてはどういう位置づけだったのかということを伺いたい。
A: 今回の件については、アイヌ差別を禁止する法律に対して疑義があったということで、内閣官房が主導したというふうに認識している。それは、番組に対しての是正というよりも、基本的には、差別的な放送をしないでくださいねという要請だったというふうに受け止めている。そういう意味では、以前のケースとは若干異なっているのではないか。内部で議論をしたが、総務省から放送法に基づいて指導があったということではなかったと理解している。(高田委員長代行)
   
Q: (オンライン)今回のケースは、総務省から民放連、NHKに対して行政指導が出ている。高田委員長代行の見解によると、差別的表現だからダメだというふうな総務省の指導は許されるということになってしまう。それでは、国家権力の介入を許してしまうように思え、問題なのではないかと個人的には考えている。差別的表現だからダメだという指導は許されるということか。差別的表現かどうかということは非常に曖昧なところがあるので、そういった指導を許してしまうと、放送局の自立性が侵害されてしまうのではないかというふうに危惧を抱いている。
A: 『スッキリ』の意見書をまとめることについては、委員会の内部で、総務省の部分について特段議論をしていない。ヒアリングの過程で、内閣官房からの聴取に対して、テレビ局がどのように対応したかとか、どういうやり取りがあったかということについては検討し、その範ちゅうの中で判断は下しているということだ。(委員会は実際に放送された番組を対象に制作プロセスにどんな問題があったかを審議する場であるから)総務省の行政指導について、そこだけを取り上げて議論したということはなかった。しかし、それはイコールそれ(放送局の自立性の侵害)を看過しているといったことではない。(高田委員長代行)
   
Q: (オンライン)行政指導が問題ではあるということですか。看過していないということは、問題ではあるという認識ですか。
A: (行政の行為に対して見解を示すことは、個別の番組を審議する委員会の役割とは異なっているため)委員会として、その部分に結論は出していないということだ。
(高田委員長代行)
   
Q: (オンライン)情報番組などでタトゥーが入っている人を取材した場合、極力タトゥーが見えないように撮影したり、そのカットを外したりといった作業をしている。一方で、外国人の人たちがテレビに映っている時は、タトゥーを堂々と出している。自主的に、日本人だったらタトゥーは外すが、外国人はOKみたいな感じで何となく運用しているが、そのあたりについて、どういう基準で番組制作をやっていけばいいと考えているか。
A: 基準と言われると、基準はありませんというふうにお答えすることになってしまう。
日本人と外国人を分けているというのは多分理由があるのだと思う。つまり、外国人の場合は、おしゃれで入れており一種の洋服のようなものだが、日本人の場合は、別の意味があるというふうにみんなが受け取る。そういうことで区別されているのではないか。
今ではそれが若干変わってきて、若い方がおしゃれで入れるということもなくはない。
でも同時に、入れ墨を入れている人はお断りしますというようなことが、お店や銭湯、温泉を利用する際の条件になっている。それはなぜかというと、やはり反社会的勢力の根絶と関連しているはずだ。そこまで視野に入れて、どう対応するかを検討することになるのではないか。
また、入れ墨を入れている人を、そのまま映してしまうと、その方が反社会的勢力であるかのように受け取られてしまう可能性もある。そういうことも考えざるをえないのではないかというふうに思う。これは私の個人的な意見だ。特にBPOに基準というものはない。
(小町谷委員長)
  もしかしたら世代の問題もあるのかもしれない。個人の感想で大変恐縮だが、もちろん
反社会的勢力への対応ということは理解しつつも、そろそろ社会的にタトゥーを許容してもいいのではないかというふうに感じている。数年前、最高裁でタトゥーの彫師の人が医師法違反で起訴された事件で無罪というのがあった。そこで、彫師というのは1つのれっきとした職業であり、入れ墨というものは1つの文化的なものだという判断が下されている。
もちろん入れ墨を入れている一部の人が、反社会的勢力だったことは間違いないので、ある意味差別的な取り扱いが許容されてきた時代があったことは確かだ。しかし、おしゃれでタトゥーをしている人たちまで差別してしまうということが、属性に基づく差別と評価される時代がもう来るのではないかと感じている。今は過渡期だと思うが、私はタトゥーを許容する社会に近づいていってほしいと正直思っている。(井桁委員)
   
Q: 意見書27号『ニュース女子』事案以降、審議に際し、制作過程に加えて考査部署の対応についても言及することがやや増えているように感じている。2020年10月の委員長談話にあるとおり、30号36号のような案件では、そこに焦点を置かれることは理解しているが、その他の案件も含めて、各委員の考査部署への見方や考え方などに何か変化があったのであれば教えてほしい。
A: 考査部門に対する見方の変化はない。一方で、持ち込み番組、あるいは、営業サイドから働きかけがあった番組が増えているという事象がある。その場合、外部で制作されたものを放送局が放送する場合でも、直接的な制作責任はないが放送責任が生じ、考査は、放送するかどうかという判断の大きな要ということで、その役割を重く見た意見書が出た。
意見書は基本的には放送局に対して出すものだ。制作会社が作った番組について調査をする場合、放送局との覚書で動いているBPOとしては、直接その制作会社の人に協力いただくのではなく、放送局の方に、放送に至った経緯を伺うという形で調査をしている。
直接的な答えになっているかどうか分からないが、考査に対する見方そのものが変化したわけではない。ただ考査の比重が大きい案件が増えているという印象は持っている。
(岸本委員長代行)

小町谷委員長が「まん延防止等重点措置が東京都に適用された日にもかかわらず会場までお越しいただき感謝している。今日は、オンライン参加の人も含め多くの方と意見交換の機会を持つことができた。コロナが終息したら、また各地にお邪魔して意見交換をさせていただきたい。場の持ち方も、当初は大きなテーマ1つでやるのではなく、分科会でやったらどうかという話もあったが、運営上の観点から出来なかったので、これから工夫していきたい。いただいたアンケートの内容については、BPO放送倫理検証委員会で共有しており、今後の活動に役立てていきたい」と述べて意見交換の場を結んだ。

最後にBPO事務局の渡辺昌己専務理事が、「限られた時間の中ではあったが、視聴者に直接向き合っている皆さまに役立つ内容を提供出来たのではないかと思っている。きょうここにいらっしゃらない社員の人、あるいはスタッフの人にも、ぜひ社内で情報を共有していただき、今後の番組制作に生かしてほしいと思う。改めて日ごろのBPO活動へのご理解とご協力に御礼を申し上げる」と挨拶して閉会した。

【参考資料】

  • 憲法14条1項 、21条1項
  • 民法709条
  • 個人情報保護法2条3項 、同施行令2条
  • 京都朝鮮学校判決(京都地判H25.10.7)
  • 大阪ヘイトスピーチ条例判決(大阪地判R2.1.17)
  • 日本民間放送連盟 放送基準 第一章 人権 (2) (5) 、第二章 法と政治 (10)
  • 放送倫理検証委員会 委員会決定
    • 第4号 光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見 (2008.4.15)
    • 第13号 『ありえへん∞世界』に関する意見 (2011.9.27)
    • 第26号 『白熱ライブ ビビット』「多摩川リバーサイドヒルズ族 エピソード7」に関する意見 (2017.10.5)
    • 第31号 『かんさい情報ネットten.』「迷ってナンボ!大阪・夜の十三」に関する意見 (2019.12.10)
    • 第32号 『胸いっぱいサミット!』収録番組での韓国をめぐる発言に関する意見 (2020.1.24)
    • 提言 『ぴーかんテレビ』問題に関する提言 (2011.9.22)

終了後に実施したアンケートの回答から一部を紹介する。

  • 1テーマに十分な時間をかけ考察する機会は良いことだと思った。
  • 質疑応答に半分くらい時間を割いており質問も具体的で大変参考になった。
  • 差別に関する意識の変化を再認識することができ社内で共有していくべきだと感じた。
  • オンライン参加で多くの局員が視聴でき有意義だと感じた。
  • 放送現場の“劣化”は差別問題に限らず他の問題にもつながるという認識を持った。
  • ジェンダー問題についての質問に対して委員の様々な意見が聞けたのが役立った。
  • 視聴者から指摘を受けた言葉を使わないようにするだけでは何も解決しないと感じた。
  • 「差別表現のマトリクス」は客観的なものさしとして活用できると思った。
  • スタッフの感度を磨いても確実な再発防止策とはならないところが難しい点だと思う。
  • 事前に寄せられた質問に対して答えてもらえる時間がもっと長いほうがよかった。
  • 各局が抱えている懸念などを議論する時間をもっと多くとってほしい。
  • 在京、在阪局と地方局との課題は違う。地方局に関する事案を取り上げてほしい。
  • 全国から多数リモート参加していることを意識して率直な意見交換がしにくかった。
  • 夕方の自社制作番組の準備のため報道・制作の現業部門が参加しづらい日程だった。

以上