放送人権委員会

放送人権委員会

2019年11月26日

中部地区意見交換会

放送委人権委員会の「中部地区意見交換会」が11月26日に名古屋市で開催された。BPOからは濱田理事長、放送人権委員会の奥委員長ら委員9名が出席。また、9県の民放及びNHK放送局からおよそ70名が参加した。意見交換会は午後1時30分から午後5時まで行われた。
前半は人権委員会から最近の決定についての説明、後半は事前のアンケートを元に「実名匿名問題」や「モザイク・ボカシ」の問題などについて意見を交換した。

〇冒頭濱田理事長からBPOの役割について説明があった。

<濱田理事長>
社会の中では色々な問題が起きるが、それをお上の手を借りるのではなく、自分たちの手で解決するというBPOの仕組みは、市民社会における問題解決の望ましいモデル。
自主規制・自律を行う放送人を応援するのが第三者機関としてのBPO。委員会決定をマニュアル化するのではなく、自分たちの頭で考え、議論をすることが一番大切。決定は結論だけが報道されることが多いが、大事なことは結論に至るまでの議論。その過程も含めて決定文を読み、番組作りに当たって何が大切なのかを考えていただきたい。
放送人はある意味特権を持った存在。ネット時代で表現が非常に軽くなっているといわれる中、「事実に真摯に向き合う姿勢」「議論や思考の深み」「全体感を持った視点」「多様性に対するリスペクト」などを大切にし、緊張感を持って表現行為の手本に是非なってもらいたい。緊張感を持つとことは、しんどいことだが、それを持つことが放送に携わる者の誇りであり、矜持。それが放送の自由と自律を支える。第三者の目を借りて、この緊張感を保つ機会を持つところにBPOの根源的な役割があると思う。

〇直近の放送人権委員会の決定についての報告。

まず「芸能ニュースに対する申立て」についてVTR視聴後、廣田委員が決定について解説し、曽我部代行が一部補足した。

<廣田委員>
申立人は事務所からのパワハラを理由にした契約解除に対して地位保全の仮処分を申し立て、その主張が認められた。にもかかかわらず放送は事務所側の主張を強調して取り上げ、自分の名誉・信用が著しく毀損したと主張した。
番組は視聴者に対してパワハラがあったと思わせ、申立人の社会的評価を低下させたと委員会は判断した。しかし、本件は放送倫理上の問題として取り上げた方が、今後の正確な放送と放送倫理の高揚への寄与のために有益であると判断し、放送倫理上の問題の有無を審理した。
本件は仮処分決定に言及しなかったことによって、公平・公正性、正確性を欠き、放送倫理上の問題がある。また使用された過去の映像についても、パワハラが実際に存在したという印象を強める効果を持ち、これも放送倫理上の問題があると判断した。
芸能情報番組の中で、芸能人は多少不正確な放送でも甘受すべきだという考えもあるが、この件は申立人の芸能人生命に関わるとして、法的措置にまで訴えていることからすれば、より慎重な配慮が必要だった。
情報番組やバラエティ番組には、表現の自由の枠を広げるという役割もある。息苦しい世の中になり大変だと思うが、細部にまで注意を払って、これまでになかった番組を作っていただきたい。

<曽我部代行>
今回は、一つの事案を人権侵害の問題として扱うのか、放送倫理上の問題として扱うのかについて、事案全体を見て委員会が判断できるということを定式化した。今後はこのように事案全体を見て判断することになる。今回一般論的に示した点は重要な判断だと思う。

〇続いて「情報公開請求に基づく報道に対する申し立て」についてVTR視聴後、紙谷委員から解説があり、二関委員、奥委員長からから補足説明があった。

<紙谷委員>
大学の男性教員が、学生に対して侮辱的な発言をしたことが、アカデミックハラスメントと認定され、訓告になった。NHKは情報公開請求で入手した資料を元にこれをニュースにした。申立人は、ハラスメントの認定と措置が不当なものであり、そもそもの判断がが間違っていた。放送局はもっと調べて正確な放送をすべきで、放送の結果申立人は教育研究活動が困難な状況に置かれていると主張した。
放送では秋田にある国公立大学のどこかの職員ということで、学部学科、職位、肩書きは一切出ていない。NHKは個別の具体的な名前を知らなかった。
大学関係者にはこれが申立人であるということは容易に特定出来たと思われるが、放送では今まで知られていた情報に追加するような新しい情報はなく、この番組によって申立人の社会的評価が追加的に下がっている訳ではないと判断した。
大学外の人については、申立人自身も、外部に新しく情報が伝わって自分の評価が低くなったということは主張していない。
こうしたことから委員会としては、この放送が申立人について社会的評価を新たに低下させるものではなく、名誉棄損に当たらないと結論づけた。
次に放送倫理上の問題について。申立人は訓告の原因となった出来事は虚偽であり、その情報を元にした放送の問題は大きいと主張したが、放送局は情報公開請求で入手した情報に加え、訓告について判断変更や取り消しがなかったかなど追加の取材もしていた。対立する見方がある場合には、双方に取材すべきであるが、今回は名前が特定出来ていなかったのでそれはできなかった。放送局は基本的な事実関係の確認、新しい情報を求めるための追加取材を行い、単に情報公開で得たものを流している訳ではなく、正確性、真実に迫る努力などの観点に照らして、放送倫理上の問題もないと判断した。

<二関委員>
特定性の点につき説明したい。委員会としては一般視聴者は確かに分からないと判断したが、放送で取り上げられた場合、その人の生活圏の中で知っている人たちからどう見られ、受け止められるかが大事なので、一般の人が判断特定出来るかというだけが問題になるわけではない。ここは非常に大事なところだと思うので、改めて強調したい。

<奥委員長>
情報公開請求で得た情報によって、どうニュースを作るかという問題についてこの委員会が扱った初めての事例。
社会を良くしていくために情報公開請求はどんどん使う必要があり、報道に役立てるべきだが、出てきた情報を右から左に流すだけで良いわけではない。決定ではこの点についても指摘していることを補足したい。

〇続いて最近の人権委員会の事例について奥委員長から報告があった。

<奥委員長>
放送局、報道機関が人権という問題とどう立ち向かい、付き合うのかますます難しい問題になってきているということを指摘したい。
人権は進化する。かつては人権として把握されていなかったものが、ある時期になると人権という形で社会的に構築されてくる。
かつてはセクハラ、パワハラという言葉自体無かったし、昔は放送局の現場などでは今言うパワハラというようなことは日常茶飯事だったかもしれないが、人権問題として浮上することは無かった。それがある時期から浮上してきている。
一方でメディア・報道機関はそういう新しい人権を、いわば作り出して行くという立場でもある。そこが非常に両義的なところ。
例えば性的マイノリティの人たちの人権や権利問題もかつては埋もれていた。それを見出して世の中に広め、人権を進化させていくという役割は、やはりメディアにある。そういう両義的な存在としてのメディアは、すごく重要であると同時にますます難しくなってきている。
皆さんが直面するのは日々新しいこと。マニュアルがある訳ではない。放送倫理とは一体何なのか。見事に答える人はなかなかいない。私ももちろん分からない。しかし重要なのは、職業人としてここまで行ってはいけない。これはまずいというその感覚、その理性・感性。それを日々しっかり磨いていただきたい。皆さんは大変難しい仕事を担っているということを、改めて強調しておきたい。

〇後半は、BPOの見解を示すのではなく、事前のアンケートで関心の高かった「実名匿名報道」と「映りこみやモザイク」の問題について意見を交換した。

まず、「実名・匿名」問題について、曽我部代行から問題提起があった。

<曽我部委員長代行>
(参考資料)
新聞研究2019年11月(819)号16頁
曽我部「報道界挙げて社会と対話を ネット時代の被害者報道と実名報道原則」(コピーを配布)
曽我部「『実名報道』原則の再構築に向けて『論拠』と報道被害への対応を明確に」Journalism317号(2016年)83頁
・http://hdl.handle.net/2433/216654

実名・匿名の問題は、放送局も含めて報道機関が改めてあり方を考える時期に来ている。考えた結果が実名原則維持だとしても、社会に向けてその理由を納得いく形で説明することが強く求められている。
きょうはルールを提案するのではなく、考えるためのきっかけ作りの話をしたい。
放送の自由、報道の自由、表現の自由は非常に重要なもので、国は容易に規制してはいけない。ただ、これは、報道・放送の自由に限界がない、無限界に自由があるということを意味しない。
最近被害者の実名報道が話題になることが多いが、この話は今に始まったものではなく、被害者支援は90年代頃から重要性が主張され、制度整備が進んできた。
「犯罪被害者等基本法」が2004年に制定され、警察や検察庁における被害者支援の体制も徐々に手厚いものになってきている。かつての刑事訴訟の考え方では、被害者には地位がなかった。刑事事件は、「国家が加害者を処罰する・・以上」と被害者が出る幕はなかったが今は様変わりしている。
被害者の痛みや苦痛の学問的解明も進んだ。被害者の痛みは多様で、時間によって変わるとも言われる。その中で、報道によってもたらされる痛みが少なくないということも明らかにされてきている。
インターネットの普及によって、被害が増幅することもある。またメディアが酷い取材、傍若無人な振る舞いをしたとツイッターに書かれ、バッシングされることもある。報道被害を受けた人が酷い仕打ちを受けたと広がることもある。

その一方、メディア側の「実名報道原則」は揺らいでいない。報道被害に対する問題意識の高まりとは無縁に実名報道原則は続いており、今臨界点に達しているのではないか。
もちろん報道側にも全く問題意識がなかったわけではなく、新聞協会では、『実名と報道』という冊子を作りその立場を示している。
※日本新聞協会『実名と報道』(2006年)
・https://www.pressnet.or.jp/publication/book/pdf/jitsumei.pdf

ここでは、警察が被害者や加害者、被疑者の名前を出すか出さないかという発表段階と、メディアが報道するかどうかの報道段階の2つの段階を区別している。
発表段階は、警察は基本的には全て実名で発表すべきだという立場。報道段階では、原則として実名で報道するものの、ケースバイケースで報道機関が責任を持って実名か匿名かを判断するという立場を示している。
その論拠が詳細に書かれているが、今問われているのはこれらの論拠に説得力があるのかどうかということ。
論拠の一つは取材を深める起点となるという話。実名がなければそれ以上取材ができないということを論拠としている。
メディアスクラムについては、各社とも、うちは節度を持ってやっているので問題ない言われるかもしれないが、1社1社に節度はあっても、何社も来られたら、相手方としてはどうなのか。自社が節度を持ってやっているかどうかとは別に、メディア全体で対処しないといけない問題。
次に、実名発表の判断権を警察が持つことが問題だという考え方について。「犯罪被害者等基本計画に関する 声明」が2005年に出されている(判断ガイドP449)。閣議決定された犯罪被害者等基本計画の中に、犯罪被害者の氏名については警察がプライバシー保護と公表の公益性を勘案して適切に判断するいう一節がある。
警察に判断権を委ねる形になったことに対して、メディアからは強い批判があった。当時のBRCもそういう立場で批判をしている。
しかし、警察も個人情報保護法に拘束されているので、無条件に実名を発表しろというのは現実的ではない。被害者の実名を発表するということは、警察側から見れば、自分の持っている個人情報を無条件で外の第三者に提供するということ。個人情報保護法の考え方からすると、到底説明できない措置で、警察の一定の判断が入るのは、個人情報保護法というものがある以上、やむを得ないのではないか。
ただ、プライバシー保護と公益性との間で適切な判断は必要。警察が必要以上に発表しないとなれば、メディア側から適正な判断を促すことが求められる。

次に実名報道の論拠。「実名による報道は訴求力がある」という主張。もちろん、一般的にはそう言えるが、どうしても匿名にして欲しいと言っている人に対して、実名のほうが訴求力があるから実名で行きますと説明できるのか。
報道機関の方々は、「結局、報道被害を受けているのはネットで叩かれているからだ」と言う。その裏には、報道の責任ではないという含みがあるようだが、そう言えるのか。
自社は節度を持って取材しているから良いという主張。あるいは、叩かれるのはネットのせいで自社のせいではないという、責任範囲を狭く捉える発想が透けて見える。そこは、もう少し大きな視点で考えることが必要だと思う。
実名匿名を判断するルールそのものは皆さんでお考えいただくことだと思うので、アプローチについて話したい。
1つは、「論拠を明確にすべき」ということ。例えば、神戸で起きた学校の教師のいじめの事件は匿名で報道されているが、「実名報道原則」の論拠からして何故匿名なのかという疑問は、視聴者から当然出てくる。これはどう説明するのか。神戸の事件は匿名だけど、京アニの被害者は実名ですと、これはどう整合的に説明できるのか。それに答えていく必要がある。
次に、ルールを明確化すべきということ。ルールを作ると何が良いか。判断の基準になるというのはもちろんだが、社会に向けての説明のツールにもなるわけで、透明性、説明責任を担保する意味からもルールは必要。あらゆるケースを当てはめれば機械的に答えが出るというようなルール作りは無理にしても、ある程度指針となるようなものを明文化して公にすることが望ましい。
また、ルールが破られた場合に担保するような仕組みや、被害者側の声や苦情に対応できるような仕組みや手続きを設けることも信頼を得る所以ではないか。
個々の社の取り組みだけではなく、報道界をあげて取り組みをすることが必要。こうした取り組みを通じて、社会の報道に対する信頼を繋ぎとめることが求められているのではないかと思う。

〇この後、出席者と委員の間で意見交換が行われた。

<愛知県の放送局>。
メディアの側も社会との対話、説明責任が求められていると実感している。取材の現場で人権についての抗議を受けたり、企業からも放送内容に対して激しい抗議を受けることがある。メディア環境が変わってきて、人権も進化していると実感している。
実名報道については、原則実名だとは思うが、一方で望まない人への判断をどうするのか考えさせられるケースは、京アニや座間の事件など色々あった。個人的なには曽我部委員の言われるようにメディアも説明責任が求められていると感じる。

<愛知県の放送局>
京アニ事件の被害者の氏名公表に関して、新聞各社が自社の考えを記事として掲載した。メディア側から実名報道に対する考え方を外に出すのは珍しいケースだった。
メディア側から発言すると、どちらかと言えば批判的な目で評価され、視聴者と共通の意識を持つことができない。どうせ放送局の方便だろうと思われてしまう。
個人情報が色々な形で収集され、データとして活用されていく中で、新たなリテラシーが求められるのではないか。これは、もちろん、放送局からのアプローチもだけでなく、ネットを含めた広く社会全体のアプローチすることが大きな課題になると思う。

<國森委員>
原則としては、公権力が名前も含めた情報を持つのではなくて、メディアのほうが情報を得た上で報道をどうするかは、各々の判断に基づいてするべきだと思う。
ただし、ネットの普及など社会が変わってきている中で、視聴者や一般市民のメディアに対する信頼が少し失われている部分もあると感じている。
名前も含めた公権力からの情報をどれだけ把握する権利がメディアにあるのかを考えないといけない。時代に合わせた透明性や説明責任を見せることが必要になってくると思う。
代表取材とか、苦情申立ての窓口など、色々なやり方があるとは思うが、事件や災害で命を失った方の遺族や、実際に報道被害に遭われた関係者の方々の意見も交えながら、放送界、メディア業界としての再構築のあり方を考える、そんなきっかけができればいい。

<愛知県の放送局>
京アニの実名報道については、社内や系列でも議論した。
原則実名ということを改めて確認はしたものの、それを貫けない現場の事情もある。一方で、世間に理解されないからといって匿名社会で本当に良いのか悩ましい。
我々の世代は原則実名と言っていれば済んだが、今は現場に行くと、人の不幸を飯の種にしているのか、このマスコミどもめ、などと言われ、若い記者は悩んでいる。
わが社では京アニ事件から1ヶ月という番組を放送し、実名報道についても取り上げた。放送後、視聴者から「言いたいことはわかったが、京アニの被害者を実名で出す以前に、話題になっていたあおり運転の容疑者のモザイクをとっとと外せ。」と言われて大変驚いた。
我々の考える人権と、世間の人達の意識が乖離してしまっているのではないか。そこを丁寧にやらないと、犯罪者はとっとと顔を晒せというような、過激な意見が広がりかねない。この問題については議論を進めながら色々な形で、実名報道の大切さを訴えて行きたい。

<奥委員長>
先ほど、曽我部委員が、警察の持っている個人情報を無条件で第三者に提供するのは個人情報保護法の問題で難しいといわれたが、これを認めてしまうと、実名にするか匿名にするかを警察が判断することになる。すると、報道機関が持っている役割が十分果たせるのかということが問題になる。
一方でメディアの側も考え方を再構築して市民の理解を得なければならない状況は確かにある。メディアスクラムを起さないようにするかとか、遺族に対しては、何日間かは直接取材しないとか、そういうことを報道機関の中で決める必要はある。しかし、実名か匿名かを判断するのは警察だと認めることはできない。

<廣田委員>
私も奥委員長と同様に考える。日弁連も、実名を報道するか否かは、警察から情報の提供を受けたマスメディアが自らの責任において自主的・自律的に決定すべき事柄であって、警察の判断で匿名発表を行うことは是認できないとの意見である。
大変だと思うが、メディアにはこの状況下でも実名報道の原則を貫いて欲しい。表現の自由は社会の有り様と直結している。どういう社会が望ましい社会なのか考えた時に、何もかもが匿名になってしまうのではなく、名前を出して物が言えるような社会でないといけない。どうか踏ん張って、説明をして、透明性を持って、実名報道を貫いていただきたい。
説明しても放送局の方便だと言われるということだが、社内での悩みを外に出したらどうか。皆さんは、ジャーナリストのプロとして、悩みは外に出さないという発想で来ていると思うが、今社内の議論も外に出して、真剣に取り組んで実名で報じるということを外に出して頂きたい。

<水野委員>
私が大学で接する学生たちに聞いた。京アニの実名・匿名の問題で遺族が匿名を求めたり、警察が実名の発表を躊躇したり、報道機関側が実名を報道することについてどう思うかと。9割程度が匿名でいいと答えた。警察がその判断権を持つのも当然だという意見。メディアの理屈と、普通の人たちの考え方は噛み合っていないと感じる。しかし、解決策のないまま放置すれば、その開きはさらに拡大する。説明の仕方を工夫する必要があるのではないか。
「知る権利」を実名報道の根拠としているが、これは理解しにくい。亡くなった方の実名を知りたいとは思わない。それを知る権利を主張する気もないと言われる。それに対して例えばこのように言ってみたらどうか。報道機関にも悲しむ権利があって、あなた方はそうじゃないかもしれないけど、一般視聴者の中には、実名を知ることによって悲しみたい人もいると。このほうに、少し感情を入れたような理屈で一般視聴者に近い形の理屈付けになるのではないか。
記録を残すために実名が必要だという理屈もあるが、これも突き刺さりにくい。単に記録を残すためではなくて、思い出す権利があると言ったらどうか。ある一定期間経ったあとに思い出して悼むには、実名が必要でしょうと。それは必ずしも遺族だけじゃなくて、関係者、友人、あるいは、その時には全く無関係だった人でも、数年後には当事者にかかわる立場になるかもしれない。その人たちの思い出す権利や悼む権利、悲しむ権利、それらを代表して、自分たちは報道していると。
今までの報道機関の理屈だけを繰り返していては、現状はなかなか改善には向かないのではないか。

<二関委員>
匿名と実名の問題は、情報の非対称性の問題。国家権力や企業は多くの情報を持っていて、一般市民だけが知らされていない。一方で自分の情報は知られているという、そうい立場に置かれる。自分の情報をコントロールする権利が本来のプライバシーの現代的意味だが逆転が進んでいる。情報を出すか出さないかを権力が決めるのはおかしい。

〇続けて「映像の映り込み・ボカシ」について意見を交わした。

<愛知県の放送局>
突然走ってきた男が車のフロントガラスを叩き割り、後日逮捕された。提供されたドライブレコーダーの映像を使う際に男の顔にモザイクをかける局とかけない局があった。
外部から提供される映像については信憑性の問題があるが、この場合には問題ないと判断できた。では果たしてモザイクをかけるべきなのかどうかと。また、例えば立て籠もりの取材で、犯人確保で出て来た時にモザイクをかけるのは多分現実的ではないと思う。

<石川県の放送局>
判断に迷った事例があった。交通事故で、1人がなくなり1人がけがをして救急車で運ばれた。ケガ人が搬送されたシーンを取材して放送した。映像は救急隊員が主で、ストレッチャーが少し映っているような程度だったが、亡くなった方のご遺族から、悲しい映像を流すのはいかがなものかという強い抗議があった。
事故のニュースをを放送するのは、こういう事故を起こしてほしくはないという使命感がある。ご遺族にはいろいろとご説明をして理解は得たが、どこまで事故の悲惨さを伝えていくか悩むところ。

<愛知県の放送局>
広めの映像や、本来の趣旨とは関係ない人が画面に映り込んでいる時にモザイクをかけるケースが増えている。ある程度の配慮は必要だが、どこまで配慮しなくてはならないのか。 人権は進化するというお話もあったが、かつてはそういうことはなかった。面倒臭いことにならないためにやっておこうと放送局の方が自主規制してしまっているのならば、我々の仕事として今後問題を感じる。過去の映像を使用する場合もあるが、過去の映像にも遡ってそういうことを対応すべきかなど。困惑している。

<市川委員長代行>
モザイクやボカシの問題は、先程の実名匿名問題と通底する。法律的に言うとプライバシー権、肖像権の問題。
人権委員会の判断ガイドに沿って言うと、プラバイシーの権利は、69ページ。「本人が、自己が欲しない他者にはみだりにこれを開示されたくないと考える権利」。肖像権については71ページ「何人もその承諾なしにみだりにその容貌肢体を撮影されたり、撮影された肖像写真や映像を公表されない権利」と記されている。
両方とも「みだりに」という言葉が入っている。色々な事情を含めて評価した上で、これが「みだり」なのどうか、同意のあるなしだけではなく、色々な事情を評価した上で権利侵害になるのかを判断する。
BPOの考え方を一般化するのは難しいが、一つの参考としては、「顔なしインタビュー等についての要望」(444ページ)ここでは、安易な顔なしインタビューについて、理由なく、ボカシを入れたり、顔を切ってしまうやり方はよくない。基本的には報道は真実性を担保するために、ありのままに全てを映すのが原則。したがって、ボカシや、匿名性についても行き過ぎた社会の匿名化に注意を促している。(145ページ)
ただ、一旦プライバシー保護が必要と判断した場合には、徹底して保護をする。モザイクをかけるのであれば、中途半端なモザイク、ボカシではない形にするべきという考え方。
先程の「みだりに」をどう評価するのか。一つの要素は同意の有無だが、撮っていいと明確に示されてなかったからといって権利侵害になるわけではない。しかし、明確な拒否があれば、その明確な拒否を乗り越えるだけの理由や公共性・公益性が必要になる。
その他に場所や状況の問題。公的な場所か、私的な領域か。その場所にいること自体が明らかになることが憚られるような特定の場所か、個人の秘匿性の高いような場所かどうか。さらに、何をしているところかということや時間の問題や。それに加えてテーマの公共性・公益性。こういったものを総合的に考えて、ここは隠す必要はないと判断すればそのまま映すべき。
映り込みについて。同意があったかどうかは明確ではないにしても、公道というオープンな場所で映りこむ場合。そこで映ったことによって何が明らかになるかというと、そこにその人がいたということしか分からない。その人にとっての不利益は大きくない。しかも通過する一瞬のこと。そう考えると、基本的にはその場面をいちいちモザイクをかけたり、ボカシを入れる必要はないのではないか。
一方、加害者や被疑者の場合についてはどうか。原則的には実名で顔出しだと思う。ただ軽微な犯罪の場合でも実名を出すのか。あるいは捕まって手錠をかけられて、引致されていくところをそのまま撮るのかということになると考えるべき点はある。
人権委員会の例でいえば「無許可スナック摘発報道への申立て」(判断ガイド253ページ)のケース。これは風営法違反で捕まった案件で、容疑者の顔や警察に連れていかれるところまで撮影され放送された。ちょっとやりすぎだという判断はあり得る。
被害者の場合も実名で顔出しが原則という基本は変わらないと私は考えている。最近は被害者の権利性が認識されるようになってきた。被害者のプライバシーや遺族の感情を何らかの形で保護するアプローチは必要だと思う。モザイクをかける必要があるかどうかについては、やはり事案による。例えば座間の事件などは殺された女性の遺族等のことを考えると、隠すのもやむを得なかったのではないか。具体的な事情を考えることが必要。
ネットとの関連について。ネットに上げると伝播しやすくなる。放送後、更に1ヶ月とか2ヶ月流れることになるとになると、放送だけの場合とは状況は違う。ネットに上げる場合の処理は、放送とは別に考える場面もあり得るのではないかと思う。

<城戸委員>
各局それぞれに映した理由があるはず。この映像を流すことに意味があると説明ができれば、映していいのではないかと思う。最近過敏になっている方が多い。例えば、街頭インタビューで後ろに映り込んでしまった人から抗議が来るというようなこともよく耳にする。それをぼかしている映像が多いが、それは歪な感じがする。
テレビは時代と共に変化していくもの。街頭インタビューでも、聞いている本人だけでなく、周りに映り込んでいる状況、場所や時間、こういう人たちが周りにいる中で聞いた意見だということも視聴者は受け取っている。受け手としては、周りに映り込んだ人たちも含めて伝えて欲しい事実ではないか。
今はあちこちに防犯カメラがあって、日々暮らしている中でも撮られているかもしれないと、一般の方々も映り込むことに対しての感覚は持っているはず。たまたま映り込んで抗議してやろうという人も中にはいるかもしれないが。カメラが多くある時代の中でどう振る舞うかということも、世の中全体が感覚として持っていて然るべきという気もする。
ある局の方は、只今撮影していますという看板を掲げながら取材をすると言われていた。もうそれが常識なのかもしれないが、気をつけていればそんなに萎縮する必要はないのではないか。抗議があったときに説明ができるようにしておけばいい。

<愛知県の放送局>
モザイクをかけるケースが増えれば増えるほど、逆になぜモザイクをかけないのかというクレームが増える。撮られたくない方たちを映してしまった時は、そのシーンは一切使わないが、全員に許諾がもらえるものではない。例えば渋谷のハロウィンや、湘南の海開きなどの映像にモザイクをかければ、画面の大半がモザイクだらけの映像になる。
もちろん嫌がる方は撮らないし、カメラがあることを明らかにするなどケアはしているが、その他の方はまあ受忍限度の範囲内でとして考えたい。

〇ネットとの関連について

<愛知県の放送局>
誤った情報を流してしまった時など、ネットからも消してくださいと言われる。自社の媒体を消したところで、ネットで拡散したものは消しきれない。誤っていなくても、マイナスの情報は永遠にネット上に残り続ける。そのインパクトの大きさと、報道側の言う実名報道の論拠との間のギャップが、今どんどん広がっていることが一端にあるのではないか。

<二関委員>
放送したものがネットに転載されるケース。これは難しい問題。誤った情報ということで、名誉棄損の問題として考えると、因果関係の範囲のことについての責任という話になるが、消せるとこまで消してもそれ以上残ってしまうことは、ある意味仕方がない。

<曽我部代行>
ネットとの関連で言うと、人権委員会で取り扱った案件で「大津いじめ事件報道に対する申立て」(判断ガイド277ページ)がある。
静止画がネットに載せられたこと自体は著作権侵害の行為なで、放送局は何ら関知していない。この点では放送局にはプラバイシー侵害の責任は問えない。名誉棄損についても同様で、これが標準的な法律論としての考え方。ただ法律論を離れて考えると、元々は放送に原因があるわけで、法的責任はないので知りませんと言えるのかどうか。できる範囲で削除等の協力、努力はするのが望ましい姿勢だと思う。

<奥委員長>
この案件は、テレビではわからないが、少年の名前が画面の端に出ていた。静止画にして拡大すると、実名が分かってしまった。
少年の名前にボカシをかけていれば問題がなかったわけで、テレビで見たら分からなかったといって、それをスルーたのはネット社会の報道の在り方としておかしいのでないかと指摘した。ネット時代なので、そういうことも考えながらテレビも作らなければならない時代になっている。違法アップロードなどネットに流れるものに、テレビ局がいちいち関与はできないけれども、そういう情報の伝わり方についても、頭に入れながら番組を作っていくっていくことが必要な時代だろうということを申し上げたい。

以上