放送人権委員会

放送人権委員会

2019年1月29日

近畿地区意見交換会

放送人権委員会の「近畿地区意見交換会」が1月29日に大阪市で開催された。BPOからは、濱田純一理事長をはじめ放送人権委員会の奥武則委員長ら委員9名全員が出席し、近畿地区の民放15局とNHK近畿地区の放送局から90名が参加して3時間30分にわたって行われた。
意見交換会では、まず濱田BPO理事長が「BPOとは何か」と題し、「BPOにおいて、第三者が決定をしてそれで終わりではなく、あるいは第三者に丸投げして解決をしてもらうということでもなく、あくまで放送に関わる人たちが自律をするということ、それが根幹」だと強調した。
続いて奥委員長が、放送人権委員会の役割と「沖縄の基地反対運動特集に対する申立て」(人権委員会決定第67号)に関する委員会決定について、さらに市川委員長代行が、「事件報道に対する地方公務員からの申立て」(決定第63・64号)に関する委員会決定について説明し、それらを基に参加者と意見を交わした。また、参加者への事前アンケートで関心の高かった近畿地方での刑事事件2件についてとりあげ、被害者の実名報道や顔写真使用の是非、未成年の被害者に対する報道実態などについて質疑応答を行うなど、有意義な意見交換となった。

【BPOとは何か】

●濱田理事長
私からは、BPOが持つ意味や精神と、ジャーナリストの皆さんたちに期待したいことを簡単にお話します。
私は、「BPOは、市民社会における問題解決の望ましいモデルだ」というふうに言っています。社会の中で紛争が起きても、公的な力で解決するのは究極の方法で、一番いいのは自らの手で解決をしていくことです。それを実現しているのが、BPOという組織だということです。
BPOはよく、「自主規制機関か、第三者機関なのか」と聞かれますが、私は「BPOとは、第三者の支援を得て自律を行う仕組みだ」と考えています。つまり、重点は自律にあります。第三者が決定をして、それでお仕舞いではなくて、あるいは第三者に丸投げして解決をしてもらうことではなく、あくまで放送に関わる人達が自律をするということ、それが根幹です。それを第三者が助けていく、そういう構造だと思います。
大切なのは、そういう意味で自律が機能するということで、そのために、案件について委員会の判断が出たあとに、3か月経ってどう対応がなされているかといった「3か月報告」であるとか、あるいは案件が生じた局に対する「当該局研修」であるとか、あるいは今日のような「意見交換会」であるとか、あるいは毎年開催している「事例研究会」であるとか、「講師派遣制度」であるとか、こういったいろいろな仕組みがあります。ですから、裁判所のように、とにかく決定が出ればそれでいいという話ではなくて、委員会の判断を巡るさまざまな消化や議論の機会があって、それらが全体として、このBPOという自律の仕組みを機能させている、ということだと言えます。
したがって、委員会が決定等を出しまが、その読み方も、ともすれば数行を読んで「あ、決定の結論はこういうことだな」と頭に入れてしまうことが多いのですが、大事なことは、その決定についてどちらが勝ったか負けたかではなくて、どういうポイントをどういう筋道で考えなければいけなかったのか、そういうことをあらためて振り返ってみるためのメッセージが、その決定の中には含まれています。そうしたところを是非、読み取っていただきたいと思います。
なにか"べからず集"を作って、そのマニュアルに従っていれば、それで物事がスムーズに運ぶということではありません。何かルールを決めて形式的に物事を処理するのは、ジャーナリズムの本質、あるいは表現する者の本質に反することだと思います。決まっていることであっても、それをあらためて、それはどうしてかと、これでいいのかと、そういうことをしっかり考えるのが、表現に携わる者の姿かと思います。そうしたことを考える場として、今日のような機会も設けられているわけですが、こうした場では当然、いろいろな議論が出てきます。厳しいやり取りが出ることもあります。そのときに、お互いに信じ合わなければ議論というのは成り立たない。つまり、ジャーナリストの皆さん方、あるいは委員の皆さん方、それぞれに良心を持って、放送というものをよりよいものにしようという同じ思いを持って対話をしている、ということを確認し合う。そのようにお互いを信頼しながら率直な議論をして、問題をさまざまな角度から眺めて見ることがとても大切なことだと思います。
このBPOの各委員会は倫理の問題というものを取り扱います。で、何人か法律の専門家が委員にもいますが、ちょっと気になるのは、倫理ということをあまり強く言うことで、法律で規制されていないものまで何か自粛しなければいけなくなる、そういう問題はどう考えればよいのか、ということです。法というのは倫理の一部で、倫理を守るというのは法的制裁より広い範囲を意味することになりますが、あえてそういう幅広い倫理というものを自分達が守ろうと、それを巡って議論しようというのは、結局、自分達が持っている自由の質を高めていこうと、自分達の職業倫理というものを確認することで、自分達が放送人であるという自覚を高めていこう、そういうアプローチだと思います。ただ法律を守ればいいということではなくて、倫理というものを常に考えることによって、自らの職業、自らの役割というものの重さ、尊さ、そして作法というものを考えていく、これがとても大事なことであり、それがあってこそ視聴者の信頼を得られるのだと思います。
結局、そうした倫理を支える原点にあるのは、放送人としての誇りであり、緊張感です。そういうものがなくなってしまうと、いくら自由だ、自律だと言っても、社会的な役割は果たせない。そうした誇りや緊張感、そういうものを思い起こしてもらうのが、このBPOの役割だと私は思っています。
今日、一つ付け加えておきたいのは、BPOには青少年委員会もあって、その前委員長である汐見稔幸先生が、ちょっと面白いことをおっしゃっていました。今の子ども達は「スマホ的個人」と言われるようなものになってきている。つまり、自分が思ったことを、とにかく他人に伝えたい。ほかの人から何やかや言われるよりも、あるいは議論するよりも、とにかく言いたいことを言いたい。自分の言っていることが正しいかどうかということを振り返ってみることを、ちゃんとしない。スマホ世代というのは、そういうリスクをもつ傾向があるということを言っているわけですが、元々、表現というものはそういうものではないだろう、お互いに、より説得力があり、より実証性のある論理を懸命に組み立てて、それを即座にその場で論敵も含めてお互いに評価し合うという知的空間、こういうものがあるというのが本来の表現の場だということ、これをスマホ的個人というものに対置して語っておられます。
私は、ジャーナリズムも基本的にそのように双方向的なものだと、あらためてこの言葉を読んで思いました。特に最近、放送の役割、あるいはマスメディアの役割と、インターネットでの表現の役割、そこの差はいったい何なのかということが議論になることがありますが、その差というのは、まさにここにあるのだと思います。放送人の皆さまには、「スマホ的個人」にはなってもらいたくない。常に対話と緊張、誇りというものを持ち続けながら、表現という行為に携わっていただきたいと思います。

【放送人権委員会の役割】

●奥委員長
BPOには、3つの委員会があって、放送倫理検証委員会は番組内容について放送倫理上の問題を審議、審理する。我々の放送人権委員会は、放送によって名誉・プライバシーなど人権侵害を受けたという申立てを受けて審理し、人権侵害があったかどうか、放送倫理上の問題があったかを判断します。
放送人権委員会は具体的な申立てが入り口です。放送番組によって人権侵害されたと受け取った人がいる。その人からの申立て、その放送によって申立人の社会的評価が低下し、名誉を毀損したかどうか、放送倫理上の問題はなかったどうかを審理する。こういう枠組みです。
社会的評価が低下したかどうかを考える時には、その放送番組が申立人についてどのような内容を視聴者に伝えているか、どのような印象を視聴者が持ったかと。つまり、これが法律の言葉で言うと事実の摘示ということになります。要するに視聴者はどう見るかということがあるわけで、これは判例として定着していますが、「テレビ放送された番組の内容が人の社会的評価を低下させるか否かについては、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準として判断すべきである」ということです。専門家でなくて、一般の視聴者の普通の注意と視聴の仕方を基準とする。さらに「その番組の全体的な構成、これに登場した者の発言の内容、画面に表示された文字情報の内容を重視し、映像及び音声に関わる情報の内容並びに放送内容全体から受ける印象等を総合的に考慮して判断する」。これはテレビの特質と言っていいと思います。新聞の記事であれば、何回も繰り返して読めるわけですが、テレビだと流れてしまう。これは皆さんご存じの、テレビ朝日の所沢ダイオキシン報道についての最高裁判決です。我々も、いつも、基準にしていることです。
しかし、社会的評価が低下したから、すぐ名誉毀損になるかというと、そうではない。その報道が社会的評価を低下させても、名誉毀損罪に問われない場合の規定が刑法にあります。これが民事のレベルにも適用されます。公共性・公益目的があって、真実性、あるいは真実相当性-真実と考えたことに相当の理由ということです-認められるということになれば、名誉毀損には問われないことになっています。
我々は、いわば天秤を持って仕事をしています。片方の皿に人権という問題が乗っています。これがしっかり守られないと困るわけですが、人権を守っていれば良いかというと、報道は、そうも行かないです。公共性とか公益性があって、その上で真実性とか真実相当性が認められたならば、報道には自由があるんだと、こっちの皿の方が重いというわけです。この比較衡量、どっちが重いのかを考えながら、皆さんも、現場で仕事をしているのだと思いますが、我々も結果的にはこういうことで判断しているわけです。

【委員会決定第67号について】

「沖縄基地反対運動特集に対する」委員会決定第67号について説明していきますが、人権侵害というのは、我々の決定の中のグラデーションから言うと、一番上というか、重いというか、そういうレベルです。
申立人・辛淑玉さんの主張を整理すると、1つ目は「申立人は、反原発、反ヘイトスピーチ、基地反対運動を職業的にやってきた人物で、基地反対運動を扇動している黒幕だとの事実を断定している」ということ。後半のスタジオトークの中で、こういうことを確かにいろいろ言っていて、辛淑玉さんという名前も出しているわけです。2つ目はお金の問題です。「金銭で動機付けられた基地反対運動参加者に日当を出して雇っているのは申立人である」と。申立人が雇っているという言い方を直接はしていませんが、スタジオトークを普通の感覚で見ていくと、こうなるというのが申立人の主張です。カリスマで、反原発、お金がジャブジャブ集まってくるとか、そういうことを言っているという部分です。それから3つ目ですが、「申立人は韓国人で」、「親北派であることから基地反対運動を展開している」。このとおりの言い方ではありませんが、こういう意味のことを確かに言っています。4つ目は、かなり重要なところですが、反対運動そのものについて、「反対派が救急車を止めたとか、反対派が暴力を振るっているとか、振興予算が無法地帯に流れている等の事実を摘示し」、「反対派をテロリストと表現しており、視聴者は基地反対運動に参加する反対派は犯罪を行っている犯罪者集団であるとの印象を持つ」という主張です。地元の人という人にインタビューして、この人がテロリストと言っても過言ではないと話す部分がありました。犯罪を行っているという話も、そこにずいぶん出てきました。申立人はこういうことを主張して、これが名誉毀損だというわけです。職業的にやってきた人物、これは自分のことだというわけです。扇動している黒幕だという。それから日当を出して雇っているのは申立人であると。申立人は韓国人であると。この3つの部分は申立人その人についての話ですが、4つ目は、直接申立人のことではなく、反対運動のことを言っているわけです。
これに対して、当初、MXテレビの反論は、1つ目は、職業的という表現については、申立人は反原発、反ヘイトスピーチ、基地反対運動などに積極的に従事して、現在は沖縄の基地問題に取り組んでいるという事実を伝えただけで、申立人の社会的評価を低下させるものではない。申立人が黒幕だとは言っていない。確かに、申立人が黒幕だという表現は、直接はないです。もし仮にそう取られ、申立人の社会的評価を低下させたとしても、公共性や公益目的で行った放送であり、内容は真実である。実際、黒幕的な立場だという主張です。2つ目は、のりこえネットの集会のチラシに「5万円の交通費を支給する」とあることを放送で示しているけれど、財源は不明だとしており、申立人が出しているとは言っていない。しかし、普通に、あの流れの中で視聴をしていると、どういうふうに視聴者が受け取ったかという問題になるわけですね。お金を出している云々という話ですが、一般論としての見解であり、申立人を指して言ったわけではないと主張しました。3つ目は、確かに高江ヘリパッド建設反対運動の一部では強硬な手段が行われている。それについて、テロリストという比喩的な表現を使ったのであって、申立人をテロリストと名指ししたわけではない。こうMXは反論したわけです。
こうした主張を整理してみると、反対派の暴力行為で地元住民も高江に近寄れない状況があるという話。それから救急車をも止めるという話もありました。テロリストと言ってもいいなどの犯罪行為を繰り返している。それから、なぜ犯罪行為を繰り返すのか。これは、スタジオトークで言っていました。その裏に信じられないカラクリがあるというテロップが出る。これは重要な部分だと思います。のりこえネット主催の集会、お茶の水の何とか会館で、5万円あげますと書いてあるんですと。で、韓国の方ですねって。2万円と書かれた封筒を、これが、いわば、証拠だというように見せている。反対派は何らかの組織に雇われているのか、こういうトークもありました。こういうことから、全体的に視聴者がどう受け取るかというと、取材もできない過激さで、資金を出している団体がある、そこには韓国の方の名前がある、こういう事実を摘示しているということになるわけです。後半のスタジオトークの部分で辛さんの名前が初めて出てくるわけです。「のりこえネットの辛さんの名前が書かれたビラがあったじゃないですか」、「この方々というのは、元々、反原発、反ヘイトスピーチなどの、職業的にずーっとやってきて、今、沖縄に行っている」という発言があり、「沖縄・高江ヘリパッド問題反対運動を扇動する黒幕の正体は」とテロップでも流れるわけです。ここで、「辛さんていうのは、在日韓国・朝鮮人の差別ということに関して戦ってきた中ではカリスマなんです、ピカイチなんですよ」、「お金がガンガン集まってくる」、「親北派です」、「韓国の中にも北朝鮮が大好きな人もいる」と、こういうようなスタジオトークが展開されるわけです。韓国の方というのが実は辛さんだと言及されるわけです。扇動する黒幕の正体というのが、普通に見ていると、「あ、そうか、辛さんなのか」というふうに受け取られる。そう私たちは判断したわけです。
委員会の判断を少しまとめますと、実際に現地入りして取材したという放送が流れて、スタジオトークがあるわけです。これを全体の流れの中で判断しなければいけないということです。そうすると、申立人は過激で犯罪行為を繰り返す基地反対運動を職業的にやってきた人物で、その黒幕である。さらに、申立人は過激で犯罪行為を繰り返す基地反対運動の参加者に5万円の日当を出している。こういうことを摘示しているというふうに、我々は判断したわけです。これは明らかに申立人の社会的評価を低下させますから、名誉毀損が成立しますとなるわけです。
しかし、最初にお話ししたように、名誉毀損にならない、阻却されるかどうかということなので、この放送には公共性、公共目的、認められる。これについては、委員の中にもいろいろ意見があって、公共性も公益目的もないという意見もありましたけれども、一応、沖縄の基地反対運動の現状を取り上げているという意味で、これは、認められるでしょうということになりました。
問題は、真実性あるいは真実相当性の問題です。反対運動の過激性、犯罪性について、どういうことを辛さんが集会で言っているか、読んでみます。「だから、現場で彼ら2人が20何台も工事関係車両を止めた、それでも1日止められるのは15分」、「でも、あと3人行ったらね」と言っています。こうした発言を、MXは、実際、過激性、犯罪性があるんだという、いわばそれを立証するというか、その証拠というか、そういうものとして持ち出しています。実際、こういうことは確かに言っています。もう少し読みますと、こういうことを言った。「あともう1人行ったら20分止められるかもしれない。だから私は人をヘリパッド建設現場に送りたいんです。そして私たちは、私もね」と、これ、辛さんのことですね、「はっきり言います。一生懸命、これから稼ぎます」、「なぜならば、私、もう体力ない。あとは若い子に死んでもらう。で、それから爺さん、婆さんたちはですね、向こうに行ったら、ただ座って止まって、何しろ嫌がらせをして、みんな捕まってください」、「でも、70以上がみんな捕まったら、そしたら、もう刑務所へも入れませんから、若い子が次々頑張ってくれますので」。こういうことを集会で辛淑玉さんが言っている。これはまさに反対運動の過激性、犯罪性を物語っているのではないかということで、真実性があると主張したわけです。我々委員も、相当、辛さんは過激なことを言ったなと思いました。だけど、それは、反対運動の集会の中で、いわば、ある種のアジテーションで言っているわけで、これで、すぐに、反対運動全体の犯罪性だとか、そういうことはちょっと言えないのではないかということです。
それから黒幕の話です。確かに、往復の飛行機代相当5万円、支援します、あとは自力で頑張ってくださいと、のりこえネットの集会のチラシに、書いてあるわけです。だけど実際に黒幕ということで考えると、辞書で引くと、「自分は表面に出ず、影にいて計画したり人に指図したりして影響力を行使する人物」と出てくる。辛さんがそういうことだったのかというと、のりこえネットが交通費を支給したのは確かです。のりこえネットにカンパなり寄付なりがあって、それを、何十人かに支給はしたんですけれども、だからといって、のりこえネットと申立人個人と同一視することはできない。真実性は認められないということで、結局、名誉毀損が成立するということになったわけです。
以上が、この事案についての委員会の決定の骨子です。MXは、その後、やっぱり、まずい放送をしてしまったと、というふうに考え方を改めました。放送倫理検証委員会でも、持ち込み番組をそのまま使った考査が不十分だったと指摘しました。そういうことも含めて、私は、こういう人権侵害と我々が判断したような番組が放送されてしまったということを、少し別の角度から考えてみたいと思います。いったいそこで何が問われたのかということです。こういうことを考えないと、根本的な問題に入り込めないのではないかと思います。
私は、「メディアフレームの危うさ」と「テレビ放送の力というものへの認識の欠如」があったのではないかと考えました。MXは「本番組は、沖縄県東村高江地区のヘリパッド建設反対運動が、過激な活動によって地元住民の生活に大きな支障を生じさせている現状と、沖縄基地問題において、これまで他のメディアで紹介されることが少なかった声を、現地に赴いて取材し、伝えるという意図で企画されたものである」というふうに説明しました。「これまで他のメディアで紹介されることが少なかった声を現地に取材し伝える意図」、これだけ見ると私は、すごく正しいというか、メディアとして多様な情報が多様な形で流れることが必要で、こういう意図を持っている。この意図は、非常に評価できると思いました。
しかし、実際問題として、そういう番組になっているかというと、そうじゃない。ともかく、彼らは過激で、犯罪行為をする。そういう、最初からの枠組みがあった。取材者は、当初から出来事の全体を掴んでいるわけではない。取材に行く時に、どこに光を当てるかというふうな意味での枠組みとか視点とかがないといけないのですが、この番組の場合はどうだったか。本来は、かなり有効なメディアフレームだったと思います。ところが実際問題としては、現場へ行ってもほとんど取材しないで、最初から持っている、彼らは過激だというようなことを繰り返して、先入観で突っ走っている。これではダメであって、取材に行ったら、現場で見ていたら、そうではないのだなというようなことを分かったりする。それをフィードバックして、メディアフレームを修正するということがないといけないんで、それが全然ないというふうに思います。
だから、こういう取材をする時に、一定のメディアフレームを持つ必要はあるけれども、これを現場に行って取材して、いろんな情報を聞く中で、ちょっと違っていたりすると、修正してフィードバックしていく、そういう在り方が、この番組には、全然なかったと。先入観ですね。暴力的、過激であると。テロリストと言ってもいいと。そういうせりふが出てきました。で、沖縄県外から、韓国人はいるわ、中国人はいるわって、こういうような、ある意味で、非常に無責任なことを言っている。実際に事実を確かめているかどうか分からない。確かに、韓国人や中国人がいますけれど、それがどれくらいいるのかというようなことも、ちゃんと事実を取材しているわけではなく、こういう言葉だけ使っているわけです。それから、背景に資金を出している組織があると、これが事実なら反対派の人たちは何らかの組織に雇われているということを言っていて、のりこえネットと辛さんの名前を挙げているわけだけれど、のりこえネットに対して取材をしているかというと、そんなこと全然ないんです。あのビラ一枚、見せて、こういうことを言っているというわけです。それで辛さんという人はカリスマで、お金がガンガン入ってくるよと言っていて、当初持っている先入観で、そのまま突っ走った。そういうことを少し考えてほしいです。
テレビ放送の力ということで言うと、元々、インターネットに流すような番組として生まれた経緯があるようですね、『ニュース女子』というのは。もちろん、テレビ局でも、全国的にもいろいろなところで流していますけれど。MXの当事者は、テレビ放送が持つ力というものをしっかり認識していなかったと思います。人権委員会ではヒアリングをいつもします。ヒアリングに来た辛さんが、こういうことを言っていまして、非常に印象的だったのは、「自分はこれまでにもインターネットの世界で様々な誹謗や中傷を受けてきた。それらには、もちろん傷付いた。しかし、今回の放送は、それが地上波のテレビで行われたことに愕然とした。もう自分はこの国では生きていけないのかと思った」と。インターネットには無責任な言説というのはいっぱい出ていますが、やはり人々の感覚は、インターネットに出ている情報と、テレビで流れることとの、歴然とした差別をしているわけで、そのテレビの持つ力、それをしっかり把握していなかった、そういうことが問われたのではないかと考えました。

【意見交換】

(A局)
『ニュース女子』を、毎週放送していて、毎週考査を行っています。出演者はジャーナリストや専門家が多く、視聴者がその発言を事実と受け取りやすいことから、どの程度まで事実確認が必要なのか、頭を悩ませています。
この回でも「マスコミが報道しない事実」という言葉がありましたけども、どうやって事実確認をしたらいいのか、いつも悩んでおります。今はインターネットなどで調べて、新聞で報道されているなら、ある程度、事実と言えるのではないかというような判断の仕方とか、そうした調べ方をしています。そもそも新聞もしくは週刊誌は、事実確認のエビデンスとしては使えないかなと個人的には思っていますが、新聞、週刊誌に掲載されているようなら、ある程度、信頼してもいいのか。それとも出演者、元官僚だったりとか、政治経済に精通した専門家だったりとか、ある程度、取材、個人的に取材もされているような方が、この『ニュース女子』、たくさん出ていますけども、彼らが自身の経験として発言していることを考査担当として事実確認がしづらい部分もあります。そういったことは、ある程度、個人の責任として放送してしまってもいいのか、いつも判断に迷いながら考査を行っています。

●奥委員長
非常に切実な問題だと思います。事実確認という言い方をされていましたけれども、テレビのニュースや情報番組は、実は事実だけを伝えるわけではない、コメントや論評もするわけです。報道の自由という中には、論評の自由というのも含まれていると考えていいと思います。ただ、その論評の仕方とか内容が問われるのであって、誹謗中傷に当たるとか、どう考えてもそれは間違っているというものは、考査のレベルで止めることは必要でしょう。専門家が、いろいろな意見を言うということについて、規制することは、表現の自由とか報道の自由とか、そういう観点から言っても決して望ましくないと思います。ただ、出演者にはちゃんとした自覚を持ってもらわないと困るわけで、『ニュース女子』に出てきた人たちは、MCは新聞の論説副主幹などをしていた方で、あと、経済評論家、軍事漫談家と称する人や元官僚の人たちもいましたが、彼らに、どこか番組について、バカにしているような感覚があったのではないかと私は思っています。もし、あれが視聴率の高い時間帯に行われる番組であったら、あの人たちはああいうことを言っただろうかと考えます。彼らは、発言に対してすごくルーズになっていた。それは考査のレベルでしっかり止めなければいけないだろうし、やっぱり、番組を作り出すプロセスの中で、しっかり議論していくということが、前段階として必要だったと思います。

●白波瀬委員
私は、法律家とか放送の専門家ではないので、委員の中では一番一般の視聴者の視線に近い立場で議論したいと思います。今、事実確認ということがありましたが、視聴者は、それが正しいかというよりも、放送という媒体から出た瞬間、一つのストーリーというか、これ、奥先生はフレームワークとおっしゃったのですけれども、何らかのストーリーなりメッセージ、あるいは論評として捉えるものと思います。今回、この内容自体が、今の日本の直面している大きな問題とも関連して、注意して取り扱うべきことであるということは、もし本当の意味の専門家であったら、そういう自覚と良心は、既にあったとは思いますが、テロリストとか、そういう言葉はそんなに簡単に使えるような言葉ではないと思います。

●曽我部代行
法律家の観点から補足すると、考査は何を目指すのかということがあります。最低限、法律的なリスクのお話で申しますと、名誉毀損とかプライバシー侵害とか、そういうので法律的な責任を問われるということがありうるわけです。これは、持ち込み番組であっても、放送した局が責任はそのまま問われます。持ち込み番組なので、うちではちゃんと取材はできませんでしたので、しょうがないので免責してくださいということには、全くなりません。これは、共同通信の記事に基づいて配信する地方紙の立場とは違って、こういう持ち込み番組を放送するテレビ局は、その内容の全部について法的責任を負うということですので、少なくとも名誉毀損とかプライバシー侵害、あるいは肖像権等々、権利侵害に該当しうるものについては、かなり綿密にチェックをされる必要があると思います。その上で、そうでない一般的な事実の誤りとか、あるいはコメントの行き過ぎとか、そういうのは直ちに法律的な責任を問われるものではないので、そういう観点から、自社で放送するにふさわしいかどうかをお考えいただいて、判断されることだと思います。例えば、この回なんかは、もう丸ごと放送しないという判断もありうること、そう判断された局もあったやに聞いていますけれども、という意味では、大きな判断も、時にはしないといけないのかなとは思います。少なくとも、その法律的な責任を問われるようなところは、少なくとも新聞記事は見るとか、可能な範囲で十分チェックをされないといけないのかなとは思います。

●二関委員
新聞で報道されていることとか、あるいは元官僚の方が語ったことであれば信頼していいかというご質問ですが、一概に、それだったらいいというふうには言えません。だから非常に難しい問題なんだということですね。そこで止まると、あまりに参考にならないので、一つ最高裁の裁判をご紹介します。1999年10月26日判決という最高裁の判決ですが、刑事の第一審の判決において示された結論とか、あるいは判決理由中の事情というのは、それが、地裁の判断が高裁でひっくり返ったとしても、ひっくり返る前に、その刑事の判決に則って報道したものであれば、それは間違っていても信頼しても構わないというような最高裁の判断です。それはなぜかというと、やっぱり刑事事件というのは非常に慎重な審理を経た上で裁判官が一定の判断を下しているものだから、それは信頼に値すると言っているということです。それとの比較において、じゃあ新聞報道は果たしてどうなのか、あるいは元官僚の人が自分の経験として語ったことはどうかを考えてみると、おそらく、自ずとですね、そうそう信頼していいものではないのじゃないかっていう考え方が、そこから導けるのではないかなと思います。

●曽我部代行
法律上の話ですが、二関委員が言われたように、持ち込み番組であっても、放送した内容については放送した局が全て責任を問われます。名誉毀損について言うと、新聞記事とか、あるいは専門家と称する人のコメントであっても、それだけでは通常は真実相当性というのは認められにくいので、先ほど、新聞記事などでチェックしたらどうかと申し上げましたが、それでは、多分、実際、訴訟になったらダメです。ただ、日常的にできることしては、それぐらいが限度かなというので申し上げました。なので、普段の考査で、新聞記事等でチェックされていても、いざ本当に訴訟になると、それでは不十分だと判断される可能性は十二分にあります。考査でいくらチェックしても、責任を免れ、完全にリスクを排除することは不可能だと思われます。その場合は、制作会社と放送した局の間の契約等で、事後的な、補償等の契約をするのが、多分、解決方法だろうと思います。

(B局)
こうしたスタイルのトーク番組は、関西ではありがちです。対立構造みたいなのを見せて議論する演出は、分かりやすい一方で、ついセンセーショナルな方向に走りがちで、制作側としては、いい悪いでどっちかに結論を出してやらないと、番組が締まらないみたいなことがあって、そういう演出に行ってしまう場合があります。あと、出演されている人の発言を制限するというのも、どうかなと悩むところです。どう整理したらいいのか、どう判断して放送したらいいのかが常に悩ましく、社内でどうチェックをしていったらいいのか常に悩んでいます。

●水野委員
そのコメントなり何なりが事実に基づくか否かですかね。事実に基づいた上での発言であれば、フェアなコメントと大概の場合は言えるかと思いますので、極端な誹謗中傷、個人的な人身攻撃にならなければ、何らかの問題、事実に関するある種の批評なり感想なりということで、大方は問題ないのじゃないかと思いますが。皆さんは放送のプロなので、これまで、自分で体験し経験し培ってきた価値観、もしくは、これはちょっとまずいっていう、プロの勘、感覚っていうんですかね、プラス、これまで半世紀以上、積み重ねてきた日本の放送界の成果を総動員して、皆さんが意識する・しないにかかわらず、貯めてきたエキスというのを、基本的に信頼しています。そのプロの感覚で、これはまずいなっていうことでない限りは、だいたい深刻な問題になることはないだろうと考えています。そこで重要なのが、先入観みたいなものですね。これがあると、その勘が鈍ってしまう危険性が出てくるので、そういった時に危うい。なので、できるだけ決め付けない。もしかしたら、第一勘、第一印象とは違った可能性があるんじゃないか、そんな、自省、多少の謙虚さを持って日々の報道に当たっておられれば、大きな逸脱はないのではないかと、一視聴者としても考えています。

●曽我部代行
関西でよくあるタイプのトーク番組では、事実については、やっぱり同じように確認をしていただく必要があると思います。もう一つ、事実ではなくて、それに基づいていろんな意見を言うことは、水野委員の指摘のように、これはかなり許容の幅が広いということです。とりわけ、論争をしていて、こういう意見もあれば、ああいう意見もあるという形であれば、全体として、ある程度、バランスが取れている可能性がありますので、一つひとつの発言が、ある程度、過激なものであっても、全体として見れば、まあ論評の域に収まっているというふうに主張できる可能性も十分あるので、そういう線でまとめていただくことがいいんじゃないかなと思います。

【委員会決定第63・64号について】

●市川代行
まずテレビ熊本の事案ですけれども、事案の内容は、申立人は、放送は、警察発表に色をつけて報道して、意識がもうろうとした女性を連れ込んで、無理やり服を脱がせたというような事実と異なる内容を放送した。容疑を認めたと言うことによって、すべてを認めていたように誤認させている。それからフェイスブックからの無断使用。そして職場の内部とか、自宅の映像まで放送されているということが、非常にひどい扱いをされたということで、人権侵害だと訴えました。テレビ熊本は現職の公務員の準強制わいせつの事案なので、影響は大きいと考えて、報道した。適切な報道であると、こういう説明をしています。
事件の発生に沿って説明させて頂きます。警察からFAXで、この準強制わいせつ事件の被疑者の逮捕について、という広報連絡が入ります。この広報連絡には、通常逮捕で、準強制わいせつの罪名ですと書いてある。そして、事案の概要については、「上記発生日時場所において、Aさんが抗拒不能の状態にあるのに乗じ、裸体をデジタルカメラ等で撮影したものです。」という説明になっています。そうすると、まず警察広報担当者に何を聞くかとことですが、事案の概要の容疑を認めていますかと聞くと、広報担当は、間違いありませんと認めてますという。そして、皆さん疑問に思う抗拒不能とはどういうことですかということを聞いた。すると、それに対する答えとして、先ほど言った、タクシーに乗せて、容疑者の自宅に連れ込んだ。意識がもうろうとしていたAさんの服を脱がせて、写真を撮影した。そして、Aさんは、朝、目が覚めて、裸であることに気づいて、1か月ほどした後に、第三者から知らされて、容疑者が自分の裸のデータを持っていることを知ったと。そして警察に相談した。こういう道筋の話をしています。今の説明というのは、広報連絡に書いてあったことよりも、その周りの前後の事実も含めて、詳しく説明がなされています。そして、広報連絡と警察の広報の担当者の説明と合わせて考えた時に、被疑者は何を事実と認めているのか。先ほど、容疑を認めているということでしたけれども、その認めている内容というのは何なのかということですが、先ほどの事案の概要、骨組みの部分だけなのか、この広報担当が述べた、知人であったAさんと飲酒した後、Aさんを自宅に連れ込んだ。それから、意識がもうろうとしていたAさんの服を脱がせて、写真を撮影した。ここも含むのかというところが問題になります。この点について考えてみると、取材ではこれ以上突っ込んで聞いていません。
じゃあ、この範囲でどう考えるべきかということですが、まず、わいせつ目的で、Aさんが同意のないまま自宅に連れ込んだ。それから、Aさんの服を、意に反して脱がせたということは、この抗拒不能の状態で裸であったこととは、事実としては別のことです。しかも、事実、この事実というのは、非常に事件の悪質性に大きく関与するんですが、広報連絡には書いてない。そうすると、この今の上の点について、申立人が認めているというふうには、明言はしてないだろうということになります。それから、通常逮捕が10時で、その2時間後の説明。おそらく弁録が終わったばかりの状態です。道行きの部分、その後の部分も含めて、すべて理解した上で、弁録で事実に間違いありませんと言っているのか。この点も疑問です。それから、Aさんは申立人の知人であった。そして、翌朝に目が覚めて裸であったことを認識していたということも、説明されている。そういったことを考えると、果たしてどこからどこまでがAさんの意に反することだったのかということは、疑問が出てきます。
これに対して、放送が示している事実というのは、ここは放送内容を細かく区分けして書いてあるところですが、意識がもうろうとしていた知人女性を自宅に連れ込んで、という部分、これは先ほどの、次段の概要、ここに書いてあったことの前の段階の部分ですけれども、この部分を書いてある。それで、ABCと書いてあって、Dのところで容疑を認めているということになっています。で、その後、EとFで、事件当日の自宅マンションに連れ込んだということです。それから、女性の服を脱がせ、犯行に及んだということです、という、こういう説明になっています。で、語尾を見て頂くと分かるんですが、良くある、「ことです」というのは、事件報道の中で、警察がこういう調べをして、こういう見立てをしているようです、というような形で、良く、こういう語尾を使いますが、今回は、この間に、この容疑を認めているということです、というのが入って、その前後が、基本的に同じような語尾でつながっていて、見ている側とすると、この、容疑を認めているということです、ということが、前後すべてにかかってくるのだろうなと一般の視聴者は、見るのではないかなと我々は考えました。そうすると、容疑を認めていると放送していること。犯行の経緯の部分や対応と、直接の逮捕容疑となった被疑事実を、明確に区別せずに放送しているので、このストーリーに含めたすべてを、事実を申立人が認めて、したがってストーリー全体が真実であろうという印象を、視聴者に与えているというふうに考えました。そうなると、社会的評価を下げる。その上で名誉毀損にあたるかどう、真実性の証明を考える。もちろん真実性の証明は、逮捕段階ですので、明確な真実性の証明というのは難しい。では、相当性があるかどうかですが、相当性については、あるというふうに、委員会としては考えました。というのは、取材経緯と副署長の説明の不明確さということと、判例でも2つの考え方があって、平成2年の判決ですが、警察の捜査結果に基づいた発表に基づいての報道であれば、相当な理由があると考えるという判決。それからもう一つは、少しグラデーションが違って、被疑事実ではなく、客観的真実であるかのように報道したことによって、他人の名誉を毀損した時には、相当な理由があったとして、過失の責任を逃れることは出来ないということで、この辺りの広報の捉え方、それを信じたことによる相当性の有無というのは、グラデーションがあるということで、我々としても、名誉毀損の相当性がない、名誉毀損の要件としての相当性がないというところまで、ここで判断するべきではないだろうと考えて、名誉毀損の相当性はないとは言えないという形で考えました。
ただ、放送倫理上の考え方としては、これは大学のクラブでの犯罪事件、容疑に関する事案での放送倫理上の考え方、当委員会の考え方(放送人権委員会決定第6号から第10号)ですが、こういった考え方もある。それから、民間放送連盟の、これは裁判員制度が始まった時の、予断を拝し、その時の事実のまま伝えるという、こういう考え方(「裁判員制度下における事件報道について」)もある。それからもう一つ、新聞協会の、これは比較的、この段階のものに当てはまりますが、供述が多くの場合、変遷を重ねて、する場合もある。それから情報提供者の立場によって、力点の置き方、ニュアンスが異なる。そういったことを考えて、すべてがそのまま真実であるという印象を与えないようにすべきだという、こういう考え方を述べています。そう考えた時に、この広報担当者の説明部分の内、どの部分まで申立人は事実と認めていることなのか。そうではない警察の見立てのレベルのことが含まれるのか、ということについて、疑問を持って、その点について丁寧に吟味し、広報担当にさらに質問すべきじゃなかったかと。つまり、具体的に、どこからどこを、彼は認めているのか。容疑事実、広報連絡に書いてあった事実なのか。それ以外の部分の、警察の見立てについても認めているということであるのか。この点、もう少しきちんと吟味して、聞くべきではなかったのかということ。
仮にそこまでは困難であったとすれば、この段階での警察の担当者の説明が、真実そのまま反映しているとは限らない。留保なしに、容疑者が容疑を認めているとして、ストーリー全体が真実だというふうに認められる放送の仕方をするのではなくて、少なくとも、先ほどの、連れ込んだ、とか、裸にして、ということについて、疑いや可能性に留まることを、より適切に表現するように努める必要があったであろうと、こういうふうに考えたわけです。薬物使用の疑いについては、追及する、疑いもあると見て、容疑者を追及する方針です、というふうにしておりますので、何らかの嫌疑をかけるに足りる、具体的な事実、事情が存在しているように、印象を与えるという点で、放送倫理上の問題を指摘しております。肖像権プライバシー侵害の点については、この区役所の外観を放送して、部署等について、主事との役職を示したということですが、一般論として、公務員の刑事事件であるからといって、役職や部署に関わらず、一律にこういったことを放送することが、正当化されるとは言えない。やはり事案の重大性、公務員の役職、仕事の内容に応じて、放送の適用を判断するべきだろうというふうに、一般的な基準としては考えました。ただし、本件は準強制わいせつという重い法定刑ですし、区民課の窓口で一般市民とも接触する立場にある。そういう意味で、そういった事情などを考えて、許されない場合とは言えないだろうと考えております。それから、フェイスブックから取得した写真と、独自取得した写真2枚を使用しています。で、冒頭で1回出て、またアナウンサーのところでもう1回出てきて、それから最後のところでもう1回登場します。そのフェイスブックの写真は、カメラを持って、ちょっと微笑んだような感じの写真で、こういった写真をくり返し使っているとことが、申立人にとってみれば、非常にさらし者にされたという感覚を、持ったのかもしれないと思います。本件では、あともう一つ、フェイスブックからの写真を無断で使われた、というようなニュアンスのことを言っていますが、我々としては、フェイスブックでは不特定多数の者が写真を閲覧出来る扱いにはなっていますが、そうであっても、犯罪報道の中で被疑者を示すために使用されることまで予期しているとは言えず、報道目的から見て、相当な範囲を逸脱している時には、肖像権との関係が問題になる、との考え方もあり得るというふうには考えました。ただ、本件では、不必要に申立人を非難する印象を与えるような用い方とも言えず、報道目的から見て相当な範囲を逸脱しているとは言えない、というふうに結論付けました。ただ、曽我部委員の少数意見では、顔写真はともかく、マンション前のレポートとか、そういった点がやや行き過ぎではないか。ふさわしい取材がなされたと言えるのかという、こういう問題提起はされています。
あと、フェイスブックからの写真の使用については、この事案ではフェイスブックの彼のページの中に、ご親族の小さいお子さんの写真も、別のところに入っていて、フェイスブックに行くと、その家族とか親族の写真も紐付けされて、見られる状態だったということがありました。それで、その親族の方からの、テレビ局への連絡もあって、ネット上の放送からは、比較的短時間でニュースが削除された経緯もあったと聞いています。そういう意味で、フェイスブックというのは、そういう特殊な側面があるということには、留意する必要があると考えました。
次に64号ですが、64号も基本的に63号に近いですが、放送が示す事実のところです。放送についてはここに書いてあるように、ABCDという道行きの部分、それから実際の、連れていき、という道行きの部分と、女性の服を脱がせ、それから撮影した。そして、そういったものを全部受けて、調べに対して容疑者は、間違いありませんと容疑を認めているということです、ということで、これは非常に端的にというか、AからBの事実すべてを、被疑者が認めているというふうに印象づける。放送している側も、そういう認識で放送していたようです。
先ほどのテレビ熊本は、それに対して、少し間に容疑を認めているということです、ということがあってから、女性を裸にし、ということを説明しているということで、少し切り分けている部分があるんです。担当者に後で話を聞いたところでは、テレビ熊本の方は、事案の概要に書いてあった事実と、それ以外の部分というのを、少し意識して書いたと言う方がいました。県民テレビは、全部、これは事実だという前提で、全部認めているという前提で、放送されているんだなというふうに思います。だからちょっとそこら辺が、微妙に違うところがあるんですが、結果的には、すべてが事実というふうに捉えられるということで、すべての、一つのストーリーを認めている。この一つのストーリー性を与えたことによって、事案のイメージは非常に大きく変わってしまっているというのが、本件の特徴かなと思います。放送倫理上の問題としては同じということです。ただ、あと、薬物の使用については、テレビ熊本までは行かないということで、の書き方までは、グラデーション強くないということで、問題なしというふうに考えました。

●奥委員長
私がなぜ少数意見を書いたかと言うと、容疑者は拘束されている。通常逮捕されたわけです。弁護人も選任されていない。事案の性質上、性犯罪ですから被害者への取材も出来ない。こうした場合、報道機関は警察当局の責任ある担当者の発表、説明に基づいて、事件の第一報を書くことになる。警察取材されている方は良く分かるでしょうけど、基本的に副署長が説明するということになるわけですね。本事案について警察当局は、逮捕に至るまでの捜査資料を把握した上で、直接調べに当たっている捜査官から得た情報によって、説明したはずです。通常逮捕してからは、2時間ぐらいしかないですけれど、その前にもいろいろ捜査しているはずで、実際に呼んできたのは、事件があってからずいぶん後ですからね。被害者から訴えがあってからもずいぶん経っているわけで、どこで酒を飲んだとか、当然、警察は、捜査しているだろうと考えるのが普通の警察担当記者の常識であろうと、私は思うのです。警察当局が個人的な憶測を語ったと推測する根拠はない。副署長さんが、記者の質問に答えて、いろいろ説明している。そういう場面は想定出来るわけです。決定文は、警察の見立てと、申立人が認めた容疑事実との区分けが不十分だということを指摘しています。副署長さんが捜査官にいろいろ聞いて、こういうことだよっていうことを説明したわけですね。取材する側からすれば、抗拒不能の女性の裸の写真を撮ったよと言われても、じゃあどうしてそうなったか、どうやって撮ったのかということを当然聞きますね。それに対して警察当局も、答える資料がなきゃいけないわけですから、それは当然そこで実際に調べた捜査官に、どうなっているのって、副署長さんは聞いているわけです。で、それを説明しているというふうに、私は考えたわけです。そういうことで、「警察からの広報連絡をもとに、警察当局に補充の取材を行い、その結果を本件放送とした。本件放送は容疑者の逮捕を受けた直後に事件報道の流れとして、一般的に見られるものである。内容的にも警察当局の発表、説明を逸脱した部分はない。私は本件放送に、放送倫理上、特段の問題があったとは考えない」。こういう少数意見を書いたんです。具体的にこの事件の新聞報道を参照してみると、少しずつちょっとニュアンスの違い、書き方は違うところはありますが、基本的にどの記事もこの放送と同じことを書いているんです。ということは、副署長さんは、多分、そんなに曖昧に説明したわけではなくて、ある程度ちゃんと流れを分かるように説明したんだろうと思うんです。そこでそれを聞いた記者たちは、おかしいなと、特段思わなかったと。そうすると、ああいうニュースになりますよということなんです。ということで、少数意見を書いた。ただし、少数意見には、もう一人、曽我部先生が書いているものがあって、これは重要な見解です。放送倫理上特段の問題があったとは言えないけれども、だからと言って、良質な報道だったとは言えないというものです。十分な取材があったかどうかは、分からない。ただし、一線の取材記者が、第一報の段階で、準強制わいせつと強制わいせつとの違いは何だとか、そういうことについて正確な法律的な知識を持つことを要求するのも、なかなか難しいだろうから、ああいうニュースにならざるを得なかったのは、認められる。ただし、あれでいいっていうわけじゃないと、少し釘を刺しています。私も事件報道は難問で、今回の報道が正解だというふうには思ってはいませんが、とりあえず、現在、いろんなところで行われている、事件報道のレベルから考えて、あれを放送倫理上、何かすごい問題があったと、特段の問題があったというふうにするのはまずかろうと、そういう少数意見であります。

【意見交換】

(C局)
現在、大阪府警を担当している現場の記者です。警察の広報連絡・広報メモは、毎日何枚も配られますが、概要がすごく短く、電話なり所轄に行くなりして、聞き取りをしっかりしなければ、通常のストレートニュースすら書けないような情報しか書いていない中で、この事案のようなことは、私が普段取材している中でも往々に起こりうるというか、私も多分、この事件を取材していれば、同じような原稿を、恐らく書いたと思います。その中で、逮捕容疑が何なのか。そして容疑者が自認しているのであれば、その逮捕容疑に限り自認しているっていうところまでを、明確に聞き取る意識が今自分にあるかと言ったら、正直言って、ありません。原稿の一番最後に、容疑者は容疑を認めているということです、というふうに締めることも、本当に良くあります。この事案が、放送倫理上問題あるということになるのであれば、新聞記事とかで良く最近目にする、冒頭に逮捕容疑はこういうことですと、もう明確に逮捕容疑はこれですっていうのを書いて、で、容疑者は逮捕容疑を認めています。尚、こうこうこういうこともあると見て、警察は捜査を進めていますというような、ここからここまでが逮捕容疑で、容疑者はここまでを認めていて、っていうのを、放送原稿においても、明確に区切ることが、テレビの放送において、これは必要だと考えていらっしゃるのか。今回のこれが倫理上問題あるのであるとすれば、そういうことをしなければ、恐らくあまり解決にはならないのかなというふうに思うんですけど、どのようにお考えですか。

●市川代行
なかなか一般論として、最後におっしゃったような書き方を全部すべきかどうか、言いにくいと思いますが、こと本件に関して言えば、抗拒不能の状態の女性の裸の写真を撮りましたということと、その女性を部屋に連れ込んで、その衣服を脱がせたということが加わった時の、その印象というのは、かなり違うと思います。それを警察のストーリーが、そういうふうに言っているから、そのまま流しますよと。で、それが、すべて認めているというふうになったものは、それは表現上、やむを得ないのではないかとは、やはり、言えないだろうなと思います。工夫としては、いろんな工夫はあり得るし、私どもがこういうふうにすべきだと、言う立場ではないですけれども、一つは容疑事実をきちんと区切る。警察の見立てとか、警察の調べではとか、警察の調べではこういう疑いを持っていますとか、こういう説明の仕方もありますよね。ですから、そこは短い文章、短い放送の中ではありますが、やはり切り分けるべきではなかったのかなと思います。容疑事実とそれ以外のことについては、裁判例なんかでも、意外と厳しく、ここはきれいに仕分けしていて、犯罪事実として逮捕された事実と、たとえば窃盗犯が誰々の家で物を盗んだという時に、忍び込んで、という住居侵入の事実を加えたことによって、これは名誉毀損が成立する。容疑事実に入っていないと指摘している判例もあるぐらいです。それは一つの判例に過ぎませんけれども、そこはやはり厳しく見て、違いがあるんだということは、理解して頂いた方がいいと考えます。

●曽我部委員
いくつか違うレベルの話をしたいのですが、まず、今の市川代行の説明した委員会の立場を補足すると、多分、本件の特殊性というのがあって、今回の逮捕容疑は、裸の写真を撮影したという逮捕容疑だったわけですけども、普通に考えると、写真を撮るよりも、脱がせるとかいう方が、常識的に見て重い、悪質な行為ですけども、何であえて、その写真を撮ったというのが、逮捕容疑として切り取られているのかというところに、疑問が持てれば、何かこの事案は、普通と違うんではないかというような意識が出てきたのではないかといった指摘も、含んでいると思います。ただ、私の少数意見にもあるように、こういったことは刑事弁護の詳しい弁護士とかであればともかく、記者一般に要求するのは、なかなか厳しいのではないかというのが、私の意見です。ただ、たとえばこれが名誉毀損事件として訴訟になった時に、判断するのは、裁判官ですので、当然法律家ですから、弁護士的な見方をする可能性も十分にある。つまり、委員会の決定にあるような区別をした上で、今回はちゃんとその辺の切り分けが甘いということで、名誉毀損だというふうに判断する可能性も、十分あることを、認識頂きたいと思います。記者の方も、法学部のご出身が少ないと思いますが、やっぱりそれなりに刑事手続きについて勉強して頂くことが求められるのではないかと思います。もう一つは、刑事事件報道というのは、もう構造的に、問題を含んでいます。つまり、普通、報道というのは、両者対立していればですね、両方の言い分を聞くというのが、報道の基本だと思うんですけど、こと事件報道は、警察の言い分しか聞けないですよね、通常。そういう中で、報道せざるを得ないので、やっぱり根本的に、構造的に、危うさ、リスクを含んでいるわけです。そこを認識しないと、いろんな行き過ぎなりが起きてしまう。たとえば諸外国では、捜査段階であんまり報道せずに、裁判の段階になって初めて本格的に報道するというような国も、あると思いますが、日本でそうしろというのは、非現実的なのは、承知していますが、捜査段階で詳細な報道をするということは、普通の取材の原則である、当事者双方から聞くということが出来ないという、構造的な問題があることを、ご認識頂いた上で、いろんな個別の配慮や工夫をして頂くことが、求められていると思います。

(D局)
多くのラジオ番組で、特に、朝のワイド番組とかですと、新聞をもとにパーソナリティがそれを紹介しつつ、その後で自分の主観みたいなことを話すものが、スタイルとして良くあります。いろんなネタを取り上げますが、前もって、その取り上げるネタを調べたり、確認していないケースも、多々ありますので、その日に新聞を読んで、その中から話をしてしまうケースもあって、あくまでも何々新聞によりますと、みたいな紹介の仕方にしています。その後で、何かコメントを述べる場合でも、私の考えでは、みたいな形の注釈を入れたり、最後に皆さんはどうでしょうか、どのように考えますか、みたいな形で少し逃げと言いますか、少し入れていますが、ちょっと踏み込んでしまうケースもあります。そういう場合、どこまでそのタレントさんに規制と言うか、発言を抑えて頂くようにご案内したらいいのか、ちょっと難しいと感じることが、良くあります。

●城戸委員
ラジオ番組の場合、やはりパーソナリティの個人的な意見を聞きたいと思って、その番組を聴く方が多いと思います。朝の番組でそういう新聞を見ながら、その方がコメントをするといった時に、杓子定規なコメントだったら、別にリスナーは聴きたいと思わない。あの人がこの事件をどういうふうに言うのかなということを、求めているというか、そういう考え方を聴きたいと思っているんだと思うんですね。そう考えると、あまり規制するような方向ではない方が、私は健全なような気がしていて、皆さんはどうお考えですかっていうことを付けるというアイディアも、非常に私は有効だと思いますし、あと、局のアナウンサーがいる番組であれば、そういう方が多少行き過ぎているなと感じた時は、何かフォローするとか、そういった役割を、担われるというのも、一つの方法ではないかと思います。報道番組ではない、朝の番組のような番組では、ある程度そういう許容範囲がないと、番組として面白くないし、放送する意味も、ちょっとなくなってくるのではないかなと考えます。

●水野委員
城戸委員に同感です。あんまり考え過ぎちゃうとつまんなくなるし、そうなっちゃうことって、BPOの本意ではなくて、皆さんがプロとして積み上げてきた嗅覚というのかな、勘と言うのかな、が、基本的には、僕は信頼出来るものだと思っているので、出来るだけ事実に基づき、多少留保を付けるとか、自分の考えでは、とか、もしこの新聞報道が事実であるならば、という、ちょっとこう、前提を付けるだけでも、ずいぶん印象も変わるのではないかなと考えます。

●奥委員長
テレビのニュース原稿の中で、新聞原稿のような書き方は、なかなかしにくいと私も思うんですね。ただし、これからはやはりそういう工夫に挑戦していかないと、だめだと思います。そういうふうに、やはり人権問題は、つまり進化しているのです。それに応じた報道の在り方を考えていかないといけないだろうと思います。

●白波瀬委員
我々の委員会は、申し立てがあって、それに対して判断をしていくプロセスですから、あの状況では、非常に公務員バッシングと言うか、公務員の不祥事があった背景もありました。そこでの事件報道で、申し立てた方に対して、事実というのを、出来るだけ切り分ける形で判断に至ったということで、少数意見が出たということは、かなり委員会の中で、議論が交わされたということでもあります。やっぱり時間的に余裕がないという現実と、事件報道という構造的なリスクっていう点については、常に考えて頂けるといいかなと思います。

●二関委員
テレビ熊本の表現というのは、もう少し考えてやれば、うまく説明やれたのかなと。ある意味では、技術的な表現の問題だったのかなと思います。そういう意味で教訓としてちょっと考えていただければということ。もうひとつは、警察発表に対して、確信部分で、容疑事実しか書くなとか、そういうこと全然申し上げるつもりはなくて、もっとぐいぐい食い下がって、いろんな事実を引き出して、それを放送に繋げていくことは、非常に大事なことだろうと思います。ただその一方で、今回は市の職員の不祥事が、非常にエポックになりやすかった背景があるなかで、イケイケで行かないようにしなければいけないという、1回ブレーキをかけて、警察の発表ほんとにこれで大丈夫かなっていう、チェックするという視点も、やっぱり必要なんじゃないかと思います。

【近畿での刑事事件2件について】

(1) 民泊女性死体遺棄事件

(E局)
警察発表も実名であり、当初、実名で報道していましたが、いろいろと取材していくなかで、続報を出す際に、どこまで実名でやるか、顔写真を使うかと、非常に悩んだケースです。取材指揮を取ったニュースデスクの話を聞くと、この続報については、実名1回だけで、その後は女性という言い方で実名を出さないとか、1回だけ使うとか、全く実名出さないとか。3回目以降にいくと、もう完全に匿名で続報を出していくとか、いろいろとケースバスケースで、判断をしました。非常に悩んだのと、あと、この事件でちょっと異例だったのは、裁判自体が匿名になりました。公判での審理も。それは非常に特殊なケースだと思っていまして、うちも裁判になってから、全部匿名でやっています。

●廣田委員
家族からの要望が増えているというのは、そのとおりだと思います。先ほど奥委員長から、人権問題は、進化しているというお話がありましたが、これはまさにそういうものの1つだと思います。犯罪被害者の権利というのが、スポットライトが当てられて、今まで刑事手続きの中で、隅に置かれてきた犯罪被害者の人権というのを、弁護士会の中でも、それを扱う委員会とかも出来て、犯罪被害者の意見とかを吸い上げて、いろんなことに反映していくようになっています。この犯罪被害者の実名匿名の問題については、やまゆり苑の事件と、あと座間の事件で、それは全部実名で報道されたのですけれども、弁護士会の中で、すごい論争が起きました。まず被害者委員会のほうから、これは警察発表の時に、遺族が弁護士を通じて、匿名にしてくださいとお願いをしていたということで、なぜ遺族が匿名だと言っているのに、報道機関が実名にするのかと、非常に強い抗議がありました。それで結局、座間事件に関して、日弁連も含めて8つか9つの弁護士会が、会長声明なり談話を出す事態となりました。声明は、大体同じ論調ですけれども、事件の内容と、犯罪の被害者の遺族が、出してくれるなと言っているんだから、配慮してほしいと。一方、実名で報道することによる意義。事件を深堀り出来るとか、歴史に残るとか、そういう意義があるのは、確かだろうけれども、遺族が匿名にしてくれと言っているんだから、配慮してくださいという、結構強い論調だったんです。それに関して、日ごろ表現の自由と人権を扱っている委員会などのほうが、かなり強い違和感を表明しました。遺族の意見、要望というのは、尊重しなければならないけれども、実名か匿名で報道するのかというのは、決めるのは、あくまでも報道機関側ではないかと。それを遺族がダメだから、ダメだって言いのは、なんか違うのではないかと、相当強く弁護士会の中で言ったんですけれども、なかなか、遺族がダメだからダメなんだという意見が大きくて、それは私たちが驚くぐらい大きかったんですね。それって、何か違うのではないかと、みんなで話したんですけれども、そこで出たのが、あくまでも判断するのは、報道の方であろうと。ただ実名で報道することに、みんなが疑問を持つような事件。自殺願望があって、もしかしたら性的な犯罪の被害も、受けているかもしれなかったり、凄惨な殺され方をされていたり、そういう事件で実名を出すのであれば、なぜ自分たちは、実名で報道したのか。なぜこの事件を実名で報道する意味があるのかっていうことを、一言言ってほしい。座間事件の時に、新聞では、すごく自分たちは悩んで、こういう理由で実名にしたというのを、書いていた新聞があって、テレビは新聞と違って、いちいちこういう理由で実名で報道しますというのは、難しいかと思いますが、判断するのは、報道機関の方だと個人的には、思っていて、その時になぜ自分たちは、実名なのか、匿名なのかということを報道して、伝えていただくのが、重要なのではないでしょうか。

●紙谷委員
今会場から、最初は実名で、それから追っていくたびに、匿名に変えていった。一時議論として、一度出ちゃったんだからという話も、いろいろなされていましたが、むしろやはり事件の内容が、もっとよく分かるにつれ、判断が的確になっていく可能性が高いという意味で、変わっていくということは、決して間違っているわけではないと思います。必要に応じて的確な判断をする。そのために常に検証していくということが、とても重要なんだという。大変良い例であるというふうに思います。いろいろな形で、被害者、加害者の実名について、周りの方からいろいろ要望が出てきているというのは、事実だと思いますし、多くの人たちが、そういうことを言っていいんだ、今まで出てしょうがないとか、例えばうちの兄が悪いことしたんだから、ずっと自分たちも、後ろ指指されるんだみたいな思いを持っていた人たちが、いややっぱり一蓮托生的なそういうのと違って、私たちの生活もあると思うようになった、そうした社会的な変化、人々の認識の違いが、すごくあるのだと思います。それに対して、じゃあなぜこれを実名にしなければいけないのか。実名にしなければいけない理由のトップは、公人の行動ですよね。あれは隠してはいけない。それに対して私人である場合には、名前が明らかになることによって、より問題が明らかになるようなことであれば、やっぱり出したほうがいい。けれどもそうではない。こういう類型があって、こういうことに気を付けなければいけないということであれば、2回目、3回目から、実名じゃなくても、こういうタイプの事件について、みんな気を付けなければいけないみたいな判断が、働くというところが、生きている報道になるのだと思います。性犯罪にかかるような場合には、やはり被害者に対する敬意を考えれば、匿名になっていいのかもしれないという判断はあると思います。名前や顔写真だけではなくて、犯罪現場などについての情報も、同じようなことが言えるのではないかと思います。

(F局)
今日的な問題として、ことが起きると、どこまでが真実か分からないようなことが、インターネット上で流布している状況があります。警察がこの方の名前を発表する前の段階から出ていて、それに対して、遺族の方が、非常に心痛めていました。各社でそれぞれ判断はあったと思いますが、私どもは、匿名報道を求めるという趣旨は分かりますが、その一方で、ご遺族側とマスコミ各社とが一生懸命コミュニケーションを取らなければいけないということを、非常に意識しました。結果としてご遺族、弁護士側から、どうしても使う場合は、ネット上で流布されているような写真ではなくて、彼女らしい表情の写真があるので、それを使ってほしいと。一見すると、非常に矛盾した状況なわけです。つまり匿名を求めつつ、写真は出してくるという状況があって、やっぱりそこは、しっかりコミュニケーション取っていかないと、ほんとに遺族側が求めていることというのは、分からないなと感じました。我々の方針としてはですね、当然、名前を使う頻度は、落としていくんですけれども、例えば逮捕とか、節目ごとには、しっかり実名を出して放送を出す判断をしました。当初裁判についても、初公判などは、実名でいくだろうと想像していましたが、取材を進めるなかで、裁判そのものが匿名になったこととか、犯行の状況が、だんだん分かってきましたので、そういう趣旨であれば、裁判については、今回は匿名にしようと判断を変えたところでありました。
あともう1点、申し上げたいのは、各社見ていると、紙面とウェブを書き分けている。新聞協会なども、よく議論になるそうですが、そこはどうなのかなと思っています。やっぱり実名出す意味合いっていうことを、先ほど委員の先生からも、ご指摘あったと思いますが、実名で出す以上は、我々は今のところの考え方は、ウェブも放送も、基本的には実名。ただ、要するに知らしめるという目的であれば、どのぐらい掲載しているかとか、そのへんは、都度、都度判断をしていく必要は、あるとは思いますが、そこで匿名実名の軸が、ぶれるようなことは本来あってはならないと考えています。そこは出す以上は、実名で貫くというような対応を、通常は取っています。

●曽我部代行
今のウェブとの使い分けという話ですけども、細かい話で恐縮ですけど、局によっては、映像出されて割と1週間なりで消しますよね。だけど新聞だと、もうちょっと長く出しているとか、そういう関係もあるのかなと思ったのが1つ。あと遺族とのコミュニケーションというのは、最近、被害者保護についての意識なり、支援の仕組みなんかも、大変進んできており、遺族に弁護士が付くというケースも増え、かつ弁護士のほうも、その種の事件について、経験を積まれた方も、だんだん増えてきている。とりわけ関西など都市部であれば、そういう傾向がある。代理人が付かれている場合と、全く何もない場合では、やっぱりやり方も、相当違うのだろうなと思います。今回はかなり、代理人の方も非常に優秀で1つのモデルケースなのかなと思いました。

(2) 寝屋川男女中学生殺害事件

(G局)
今大阪の裁判所の担当をしています。去年の11月から、裁判が始って、11回公判があり、各社毎回その内容を報道してきました。被害者が深夜徘徊をしていたこと、これは事件のきっかけというか、スタート地点になるので、報道せざるをえないと思っています。ただ、中学1年生2人が、深夜を徘徊していたという事実を触れるだけで、その2人が、被害者なのに悪く見えてしまう印象を与えかねないなと思っていて、事件発生当時にも、それを散々触れているので、裁判の段階で伏せることによって、どこまで影響力を抑えることが出来るのかという疑問もありました。まずそこを、深夜に2人が徘徊していたというところを出すべきかどうかっていうのを、伺いたい。もう1つ、一番大きく悩んだところが、被告人質問の内容を、どこまで忠実に出すかということです。この事件、そもそも直接証拠が、一切なく、要は被告が、この2人を殺害したかどうかも、その時点でよく分からない。殺害経緯も一切黙秘して、全く明らかになっていない状況だったので、この公判で被告が何を語るかが、一番注目ポイントでした。もちろん被告は否認をしていて、被告人質問で、かなり事件のことを詳細に語りましたが、果たしてそれが、事実かどうかが、こちらでは判断出来ない。被告が公判で話す内容としては、事実ですけれども、それが実際2015年の段階で、行われていたことなのかどうかというのが、分からない。淡々と話してくれたら良かったんですけれども、殺された被害者との具体的な会話の内容も法廷で話した。その発言自体が真実かどうかが分からない。でも公判の中では、述べられている。それを裁判のニュースを出すうえで、非常に悩みました。結局弊社としては、そのカギカッコは出さずに概要だけ、あまり細かく説明は、しませんでした。新聞報道とかでは、そのカギカッコが、そのまま出ていました。結局、裁判の判決では、被告は、嘘をつきやすい性格傾向にあり、公判で述べた供述内容は、虚偽だったという認定をされていますが、被告人質問の段階では、そういう判断もない。さらに遺族からのコメントも、その日に聞けないような状況で、それを出していいんだろうかと、非常に悩みました。

●二関委員
今の点、確かに被告人質問で出てきた話というのは、基本、人というのは自分がかわいいですから、自分をかばった話をする傾向は、あると思いますので、そこで初めて詳細な事実が、出てきたということ自体、ある意味ニュース価値があると思う一方、やはりそれが、被害者の方の名誉にかかわるような、亡くなってる方ではありますけども、遺族が当然いるなかでのお話ですので、そこは慎重な表現ぶりに変えられたというのは、そういう選択肢は、妥当だったのかなというふうに思いました。前のほうの、深夜の商店街、徘徊していたという点ですけども、そのあたりはある意味、先ほど出ていた被害者の実名報道についての、取り上げ方の時の考慮すべき点と共通するところが、あるようなところだと思います。要は当人なり、遺族等の方にとっても、不名誉な内容なものにあたる場合には、やはりそれなりの配慮が、あっても良いんじゃないかということだと思います。それはやはり個々ケースごとに、いろいろ考えたうえで決めることに、どうしてもなるんだろうと思いますが、本件、特に徘徊的な部分について言えば、二次被害を防止するというか、今後似たようなところでの防止という考慮も、一方であると思いますし、事件に確かに端緒として、かかわってるということからすれば、取り上げたこと自体が、それはそういう選択肢はあって、しかるべきかなと思いました。一方で描写する時に、例えば深夜だったのを早朝と言い換えるとかですね、それは事実を逆に曲げている感じがするので、むしろ端的に何時とか、客観的な表現で使うとか、それは別にそうしろという話ではなくて、そういう選択肢とかも、あったのかなと。事実を曲げる必要は、ないんじゃないかなと。あと徘徊っていう言葉は、ある意味ネガティブであるとすれば、別の表現というのはあると思いますし、いろいろ工夫のしようは、あるという感想を持ちました。

●曽我部代行
今のやり取り、私は非常に違和感があって、基本的に事件報道、ニュースは、真実を伝えるものであるわけですので、いろんな都合で、大きなポイントであるにもかかわらず、触れなかったりするのは、基本的に望ましくないと思います。とりわけ徘徊、言い方、判断のついた言い方をするのは、どうかという点は、そのとおりだと思うんですけど、徘徊というかどうかはともかく、その事実であること。あるいは法廷での発言。被告人質問での発言を、報道しないとか、そういうことは、基本的に望ましくないと思います。被告人質問でのことは、発言というのは、別にそのこと自体、事実かどうかは、あまり重要ではなくて、被告人がこういうことを言ったということがニュースなはずで、そのことについて真実かどうかは、二次的な問題というか、むしろ無意味なわけで、なので真実かどうか確認出来ないという理由で控えるというのは、あんまり筋ではないと思います。ただそうは言っても、裁判にあまり視聴者が慣れてないということであって、言ったこと、報道したこと全部、真実受け取れる恐れがあるということであれば、注意を喚起するようなことを言うとか、あるいはそのまま言うのは、あまりにも生々しすぎるということであれば、要約とか、そういう工夫はあると思いますが、事実かどうか確認出来ないという理由で、報道しないというのは、率直に言っておかしいと思います。日本では、あいまいですけれども、これまた外国の例では、法定で述べられたことを、そのまま報道する部分については、名誉毀損等の責任は、免責されるという法理が、確立しているところもあり、日本でも本来そういうものは、認められるべきだと。これは個人的な意見に過ぎませんけれども、いうことですので、そのへんは、あまり事実でないから、確認出来ないからと、何か控えるようなことは、望ましくないと思いました。

(G局)
ちょっとニュアンスが、違うように捉えられたように思ったので、少し補足しておきたいのですが、今曽我部委員がおっしゃったことで、私は全然異論はなくて、要は言い回し等の工夫は、ありえたんじゃないかというところです。

【その他事件報道について】

(1) 虐待事件での不起訴となるケースについて

(H局)
特に2年前ぐらいから、警察が積極的に虐待に関しては、摘発していこうということで、逮捕したものの、その後不起訴となるものが、うちで調べただけでも10数件中、起訴したのが4割ぐらいもあり、原則弊社の基準、内規として、虐待で死亡していない事犯については、逮捕しても起訴するまでの間は、匿名としています。もちろん個別の案件で、直接取材が出来ているもの。あるいは容疑を認めている。さらにその中でも、警察の取材の中で、真実相当性が見つかるとか、そういうものでない限りは、基本は匿名にして、起訴時に実名にしようという考えで続けています。ただ、せっかく容疑者に直接取材が出来ていて、映像が撮れているのに、逮捕時他社が出しても、うちは使わないという判断というのは、なかなか難しい点もありまして、どうしていこうか、常に悩んでいます。実質逮捕時点で実名報道して、その後不起訴になって、その当人から、名誉毀損を訴えられた場合、どうなるのかということについて伺いたい。

●市川代行
確かに、密室の中でとか、家の中での起きる事件というのは、不起訴になる確率は、結構あると思います。そういう意味で、警察発表は、そのまま疑いなく真実であるかのように書いてしまうと、後々問題になることは、十分ありうるとは思います。ただ起訴されるまでは、書かないでいいと、一律決める必要は、ないと思います。やはり容疑の度合いであるとかもある程度考えて放送すれば、それはそれで問題はないと思います。後々不起訴になったからといって、その理由もいろいろありますし、逮捕された時点で、もちろんそれは、社会的な評価は、下げる事実ですから、形式的には、名誉毀損になるわけですが、先ほど申し上げたように、真実性があり、真実と信じたことについて相当性があれば、名誉毀損にはならないわけですので、その疑いのレベルが、どれぐらいなのか。疑いという程度においては、それは満たされているのであれば、これは放送するという判断は間違いではないと思います。

●廣田委員
やはりその時その時に、流動的に変わっていくものだと思いますので、その時々に判断するしかなくて、不起訴になったからといって、最初に報道したものが、すべて名誉毀損になるわけではないので、やはり1つ1つの事件で、報道の必要性と、どこまで言うのかを判断されて、密室の中なんかですとどこまでがどうなのか分かりにくいのは、そういうものも意識されて、報道をしていただければと思います。

●奥委員長
今お話を聞いていたら、内規を作っていらっしゃるという。いくつかの段階で、どう判断するかということについて。大変素晴らしい。そういうことが、つまり報道の自主性というものだと思います。死亡の事案だったらば書くんだとか、いろいろグラデーションがあって、そういうなかで自主的に判断するという、それは非常に良いことだと思います。

(H局)
ありがとうございます。そう言われると非常に助かるんですけども、実際現場で取材している者にとっては、せっかく容疑者を割り出して、じかあたりを撮ったのに、放送されないのかと、モチベーションが下がるような問題も、現実としてはあるので、個別の判断で考えながら、出来る限り実名原則で、不起訴の可能性について、いろいろ考えていきたいと思います。

(2) 街頭での撮影について

(I局)
正月の初売りとか町ネタをよく取材に行きます。人がうわあっと集まるような。その中で、ほんの画面の隅にちらっと映っただけでも、後からクレームが来たり、「何勝手に撮っとんねん」みたいなクレームを受けることが多々あります。テレビ取材でその現場にいる方の許可を得るのは、当然なんですが、正直どこまで気を付けて、取材をすべきなのでしょう。

●二関委員
いわゆる映り込みとかいう表現をしますけど。そういった領域のものであれば、基本的に問題ないというか、何か言ってきたところで、ディフェンスは、可能なのかなと思っています。例えばことさらその人に何か焦点を当てて、フォーカスして、かつ長い時間流したとか、不必要な、相当の範囲を超えたような流し方をすれば、それは問題になることも、あるかもしれませんけれども、基本的に催事といいますか、催し物とかを撮っている過程で、入ってしまったということであれば、特に法的に何か問題になるような話ではないのかなと。簡単に申し上げるとそんな感じです。海外のテレビ局とか、映画会社なんかは、看板を用意したりして、ここで撮影していますので、この前にいる方とかは、撮影に同意したものとみなしますみたいなサインを用意しているようなケースもあるようです。

●水野委員
画面も鮮明になってきているし、そういった影響もあるんでしょうかね。むしろ僕は、逆に質問したくて、そういう場合って、工夫されているんですか?これ撮っているよって、脚立に乗って、いかにも撮影してるっていうふうなアピールをすれば、基本的に映りたくない人は、どいてくれるっていう、そういった暗黙の了解みたいな。

(I局)
混雑している時は、逆に危ないんで、脚立使えないんですけども、でかいカメラだと、テレビカメラがいるのは丸分かりなんで、気づかれると思うんですが、混雑する場だと、極力カメラは小さくしてくれと。大きいカメラは危険なので、割と小型カメラで撮っている場合もあるので、逆に気づかれにくい。技術の進歩と共に気づかれにくくなっているのは、あるかもしれません。

●水野委員
あくまで一般論かもしれませんが、クレームにも気に掛けるべきクレームと、ほっといてもいいクレームがあると思います。それを適宜ケースバイケースで、プロとして判断されれば、大方問題はないんじゃないかなと思っています。

●奥委員長
BPO人権委員会として、三宅委員長時代の2014年6月9日、「顔なしインタビュー等についての要望」という委員長談話を出しています。参照していただければ幸いです。私個人としては、一言で言えば、つまり基本的に公共の場なわけですから、そこにいた人間が映っているだけなら、何の問題はないのではないかと考えています。

どうも長時間にわたって、活発なご意見いただき、我々も日ごろ考えていることが、報道現場の中で、どういうふうに受け止められているのか、受け止められていないのかとか、いろいろなことがよく分かりました。
ありがとうございました。

以上