放送人権委員会

放送人権委員会

2013年2月

東北地区各局との意見交換会

放送人権委員会は、2月20日に盛岡で東北地区の放送事業者との意見交換会を開催した。三宅委員長ら委員8人(1人欠席)と東北6県の民放とNHKの計22社48人が出席し、3時間20分余議論した。前半では震災報道と原発事故報道を取り上げ、まもなく2年目を迎える現在の取材・放送の取組みや問題点について岩手と福島の4局の報告をもとに意見交換をした。後半は過去の「委員会決定」をふまえ、事件・事故の報道で顔なしインタビューやモザイク映像を多用する「風潮」などについて議論した。
概要は以下のとおりである。

震災報道と原発事故報道・現在の取組みと課題

岩手、福島の4局の報告をもとに意見交換をおこなった。

【報告】IBC岩手放送 報道局報道部長 眞下卓也 「全社体制で被災者を支援」

私たちは地震発生の直後から「ふるさとは負けない」というキャッチフレーズを掲げてキャペーンを展開してきました。テレビ、ラジオはもちろん、Webですとか街頭での活動、いろんな形で広げていきました。それをまとめた映像をご覧いただきたいと思います。
(DVD視聴 約8分)
震災発生から2年近く経過し、沿岸のスタッフといろいろ話をする中で、一番課題として出てきているのが仮設住宅の取材です。岩手県内では応急仮設住宅というのは319か所ありまして、そこで1万2600世帯、2万9000人ほどの方々が生活をしています。
その仮設住宅の取材をする際に、カメラの前に出てこられる方とそうでない方たちが少しずつはっきり分かれてきているというんです。仮設住宅の中から出てこられない方たちが今何を考えて、何を望んでいるのか、非常に分かりづらくなっている、見えにくくなっています。 一方で、無理にと言うか、説得して取材をお願いすると、思い出したくないような記憶を呼び起こしてしまって、本当に嫌な思いをさせたりするんじゃないかとスタッフは本当に恐れていて、なかなか強気に出られない、難しい場面が増えてきていると言っています。カメラを担いで入ること自体、住んでいる方々にプレッシャーを与えてしまうのではないか思っています。そうした仮設住宅に暮らしている方々の思いとか、現状をどう伝えるかというのは1つの課題になっています。
それから、これは震災が発生してまもなくの頃から言われていますが、被災地と被災地の外の温度差というものです。岩手でも沿岸部と内陸部で温度差があると思いますね。現地の被災した方たちは「私たちの暮らしはどうなるんだろう」という現実のところを伝えて欲しいと思っているのに対して、外から取材にくる人たちは悲しみだとか前向きな気持だとか、そういうところにポイントが行って、知りたい情報ではないものが流れてきている。バランスよくという言い方はちょっとどうか分かりませんけれども、双方の思いがちゃんと伝わるようにと放送を出しています。そのひとつの例として、陸前高田の一本松の話をよく会社の中でします。津波に耐えた奇蹟の一本松というのは、非常に東京の注目度が高いですね。何回もニュースにもなっていますが、地元の記者たちは「あの一本松が地元の人たちにとってどれぐらいプラスになっているのか。それにお金をかけるぐらいだったら、もっと別な使い道はあるんじゃないのか」ということを常々言っています。非常に冷めた目で見ている部分もある、そういうような現実もあります。
私たちは、前に踏み出している方たち、走り出している人たちにスポットを当てがちですが、そうではない方たちもまだまだ数多くいらっしゃいますし、そうした方たちの思いを伝えていくのが地元局の役割だというふうに思っています。時間の経過とともに、このまま忘れられてしまうのではないかという不安を被災地の方たちは非常に持っていると聞きます。地元のメディアとして今後も被災者の方たちの声をしっかりと受け止めて、息の長い報道を続けていきたいと思っております。

【報告】NHK盛岡放送局 放送部副部長 渡辺健策「被災者に寄り添う震災・復興報道」

私は震災の時は報道局にいまして、すぐ福島の応援に出て福島と東京を1週間ずつ往復するような毎日が続き、その年の6月の異動で盛岡に着任しました。震災後のまだがれきも片づいていなかったような混乱の頃と、震災2年を前にしている最近では大きく状況が変わってきていると感じています。被災者の方々の状況もさることながら、われわれ取材者の置かれた状況、取材のアプローチも変わらざるをえないような、そんな変化を肌で感じています。
何かと言いますと、震災直後の頃はどの社もそうでしたでしょうが、待っていても次々といろいろ動きがあって毎日ニュースを出すのがフル回転でやっても追いつかないぐらいでした。それが、だんだん半年、1年、1年半と経つにつれて、いわば目に見える動きが減ってきて、今でもそれなりにはたくさんあるんですけれども、ネタをどう掘り起こすのかが大きな課題になっていると思います。目に見えない潜在化したような課題や問題をどう掘り起こしていくか、問われていると思います。 
例えば仮設住宅に住む人たちが、なぜ本来の自分の家を建てることができないのか、高台移転の計画があってもなかなか実現しないのはなぜか、一つ一つの地区ごとにやっぱり個別の課題があります。それは多くの場合切れ味鋭く全国ニュースにすぐになるような分かりやすい問題ではないんですけれども、一つ一つの地区が抱える課題はそれぞれの人たちにとっては最も深刻で重要な問題であり、それを伝えていくことが地域の被災地の人々のために役立つ放送だと考えています。
受け手の方々の反応も気になっています。初めの頃はローカルニュースの90%以上、95%ぐらい震災のニュースばかりで、殺人のような事件が起きてもよほどのことがない限りボツにするというような状況がしばらく続いていました。だんだんと視聴者の反応として「いつまで震災のニュースばっかりやっているんだ」という声がかなり目立ってくるようになりました。その後、かなり意識的に震災関連ニュースとそうではない内陸の一般ニュースの比率をちょっとずつ変えていきまして、今は五分五分ぐらいになっていると思いますけれども、受け手の側のニーズということを考えても、震災あるいは復興の報道をどう出していったらいいのか日々考えさせられています。
NHK盛岡放送局では震災後の5月から『被災者の証言~あの日あの時』の放送を始め、今まで320人ぐらいの方の証言をご紹介しています。3月11日に一般の方々がどんな生死の境をさまようような体験をしたのか、あるいはすぐ隣にいた人が亡くなって自分がぎりぎり助かったというような、そんなさまざまな体験からどんな教訓を学び、それを糧にどう変わりつつあるのかという証言のインタビューシリーズをお伝えしています。これも最近悩ましいのは、取材を受けてくださる方の中に「もう早く震災を忘れたい」という方もやっぱり大勢いて、特に九死に一生を得たような方の中には「その現場に行って語ることすらも恐ろしい」という方もいます。そういう方に無理をお願いすることはできないので、可能な方に限ってお願いしていますけれども、中には「辛いことだけれども、これを伝えていくことの大切さを考えて、今まで他の場では語らなかったことをきょうは語りましょう」というような方もいらっしゃって、そういう方々の思いを伝えるためにもこのコーナーは続けていかなければと思っています。その後、コーナー自体を福島、仙台、青森などNHK各局とも連携して全国放送のミニ番組で放送したり、あるいはWebにアップするような形に変えていったりしています。
もうひとつ最近感じているのが、取材拒否あるいはクレームが非常に多くなっていることです。被災地あるいは被災者全般に言えることなのかもしれませんけれども、先行きの見えない閉塞感の中で精神的に追い詰められているような方も大勢いるように見受けられます。例えば、催物で主催者の許可を受けて取材に入って、参加している方にちょっと感想を聞こうとカメラとマイクを向けようとしたところ、急に怒りだして「いったいなぜここにカメラが入っているんだ」というようなことを言われます。通常よりも更にもう一段きめ細かく取材の趣旨を説明したり、いろんな配慮をしながらやっていかないと難しい状況にあるのかなと感じています。 
最近、全国各局から応援に来た記者たちが自分の局に帰ってから、自分たちの地域でどんな防災対策をやっているか、何が課題になっているのか、そんな原稿をかなり多く出している、被災地で知りえた教訓を自分の局の取材に生かしていることを知りました。この被災地で学んだ教訓をどう全国や世界の防災対策に生かしていくか、われわれメディアとして伝えていかなければならないと思うようになりました。
(以上の報告を受けて、内陸部からは震災以外のニュースを求める声が強いというわゆる“温度差”と、津波映像の扱いをめぐって意見を交換した)

沿岸部と内陸部の"温度差"をどう考えるか

  • 仙台の中心部は経済的にも戻って逆に復興需要もあったりして、デスクにはそういうニュースをなるべく取り上げていこうという思いがあると思います。ただ被災地でニュースを見ていて現地の感覚からいくと、被災地のニュースの比重が明らかに落ちている、被災地の人たちにとっては、もう忘れられているという辛さではないかと思うんです。やはりどこまで気を配れるかじゃないかなとは思います。日々の業務の中での震災報道は、今は多分どこの社もいっぱいいっぱいなんですね。やはり課題を検証するにしても、マンパワー的にも減ってきているので、ある程度絞り込んでそれを継続させていくということではないかと思います。

  • 震災発生後、少し時間が経過すると、内陸の視聴者からは被災地のネタの中でも悲惨なニュース、大変だというニュースではなくて、頑張っている、あるいは復興の槌音が聞こえているというニュースを見たいという声も寄せられました。また、例えば「がれきの処理が始まりました」というニュースを流しても、それは一番最初ということでニュースにしているので、他のところは全然動いてないということもあるわけです。地元で取材している記者としては、現実を伝えていないのではないかと。そうしたことが、意識のズレを大きくしてしまった面があるかもしれません。

津波映像について

  • 必要なところに使うのはもちろんいい、ただし映像がないから、あるいはここへ津波の映像を入れれば何とかなるかなというのはだめだと。あの映像を見て非常に辛い思いをする人がいるだろうという想定です。ドキュメンタリーにしても、本当に津波の映像をそこで流す必要があるのかと非常に考えます。いろいろ考えてはみるんですけども、なかなか結論は出ないですけれど、相当の配慮は必要だとは思います。

  • 津波の映像に関しては、あくまでケースバイケースです。特に震災の教訓とか検証、私どもは毎週証言を映像で伝えたりしていますが、例えば津波というのはどういうものなのか、最初はちょろちょろ流れているぐらいの川でいきなりそれが濁流となって襲ってくる、こういうのはやはり映像でないと伝わらない、教訓として残せないという部分は明確にあると思います。その一方で、震災から1年ぐらいたって津波の映像を流したとき複数の被災者の方からこう言われました「自分たちの町がどういう津波に襲われて、どういう被害を受けたのかを初めて見た」と。被災地の人たちはテレビをそもそも3か月、長い人だと半年ぐらいほとんどまともに見ていなかったのです。少数派かもしれませんが。

  • 私は明治の大津波で浜辺に累々と横たわる遺体の写真を見て、その時初めて被害の大きさを実感しました。その時は岩手だけで2万人の方が亡くなっています。今回の津波の映像は、時を経て時代を積み重ねて後世に伝え防災にどう役立てるのかという観点でも大事にしなければならないと思っています。とりわけ各社の報道現場を見ると、震災後かなりの方々が転勤、異動をされていて、津波映像、資料などが今後どう使われて行くか不安があります。我々が報道現場からいなくなっても次の世代、またその次の世代が有効に活用出来るように整備しなければいけないと思っています。

  • 当社に契約カメラマンがいるんですが、彼が撮った津波の映像が非常に迫力があって、相当危険な取材をさせているんじゃないかという声までちょうだいしました。実は、事前に綿密ないろんな訓練、シミュレーションをして、あらかじめ想定してあった避難経路を確保しながら撮影した映像でした。あまりに迫力があるものですから、被災者や視聴者の方からフラッシュバックが起きるのでやめてくれ、そんなの流すなら『ドラえもん』を流してくれ、というふうな苦情がたくさん来ました。それ以来、必要最小限使わなければいけないという場合は事前に「今から流す映像は非常に刺激的なのでご注意ください」というテロップを流しています。

  • 山田委員
    今回の震災では、社で撮られたもの以外に数多くの持ち込み映像、写真があると思います。しかし、それらのなかにはきちんと肖像権処理をしていないものや、撮影者すら分からないものも少なくないと思います。だけど、それらは非常に貴重な歴史的記録なわけです。だからこそ是非、報道機関の経験とノウハウでスクリーニングをかけ、アーカイブや日々の報道の中で活用していただきたいと期待をしています。

  • 田中委員
    津波映像は防災の観点や教訓という意味で放送していただく場合であれば、使用目的を明確にした上で、やっぱり流して頂くことを視聴者は期待していると思います。先ほどの目に見える動きが減って来たという中で、被災地の皆さんが今考えていること、心の中で思っていることがこれから必要な情報になるので、是非このエリアから発信していただくことが非常に有効だし、それによって他の地域の人たちの気持ちや対応が変わったり出来るんじゃないかと感じたところです。ネットにはもう何でもあると言われていますが、すごく大事なことは私たちは言わないですし、一番大事なことは表に出ていなかったりする、そういう情報を集められるのは、やっぱり地域のテレビ、ラジオですので本当に期待したいと感じました。

【報告】 ラジオ福島 編成局専任局長 大和田新「原発事故さえなかったら」

私は震災以降ずっとアナウンサーとして現場に行き、活動をして来ました。特にこの1年間の取材の中で一番多かった言葉が「原発事故さえなかったら」です。私たちの人生に「たら、れば」はないんですが、これほど多く福島県民が今「原発事故さえなかったら」と苦しんでいることをお伝えしたいと思います。
まず福島県は原発事故により、現在12万人がふるさとを追われ、5万5000人が県外に避難しています。そのうち1万5000人が子どもたちで、北海道から沖縄まで避難しています。昨日現在ですが、福島県内の死者・行方不明は3113人、内訳は行方不明211人、地震・津波による直接死が1600人、いわゆる関連死が1300人となっています。この関連死が福島県の場合は特に多い現状は皆さんお分かりと思います。これはまさに無理な避難、そこから来る運動不足、ストレス、高血圧、糖尿病の悪化、認知症などが進んで、いわゆる持病がかなり悪化しています。一番深刻なのは、将来このままだとふるさとに戻れないという不安から自殺する人が非常に多い現状です。
福島県は今健康管理調査を行っています。これはアンケート調査ですが、私が取材して思うのは、国や県がやるべきことは調査ではなく内部被曝などの検査だと思っております。そして、将来もし甲状腺がんが出たら、福島県の子どもたちに関しては100%国が医療費を持つべきだと私は思って福島県選出の国会議員たちにも呼びかけ、何とか議員立法をしてほしいという呼びかけをしています。
非常に問題になっているのが子どもたちのPTSDです。昨年12月7日に宮城県沖で津波警報が出る大きな地震がありました。あの時に取材したんですが、浜、沿岸の幼稚園、小学校、中学校はかなりパニックの状態で、泣き叫んでいる子どもたちがおりました。PTSDは余震が来ると2011年3月11日午後2時46分に戻るんです。もっと深刻なのは沿岸部の小学校の女の子たちが言うことです「放射能を浴びてるから、私たち赤ちゃん産めないんだよね」。これはもうまさに人間差別につながっているというふうに思っております。現在のこの低放射線量で、子どもが産めないとか結婚出来ないとか、がんになるなんていうことはあり得ないんですが、子どもたちがそういうふうに言うということは、何が必要かと言うとやっぱり教育と医療だというふうに私は考えています。 
2011年3月に相次いで福島第一原発が爆発したとき、原発から20キロ圏内は自衛隊も警察もご遺体の捜索をやめて撤退しました。ちょうど20キロの南相馬市原町区萱浜のAさんは、津波でご両親と8歳のお嬢さんと3歳の息子さんの家族4人を亡くしています。お父さんと息子さんの遺体はまだ見つかっておりません。自衛隊、警察が全部撤退した後、遺体の捜索をしたのはAさんを中心とした10人の消防団です。4月20日に自衛隊が入って来るまで毎日自分たちの家族の捜索を行い、1か月に40人のご遺体を見つけたそうです。
これがご自宅の写真です。海岸から1キロです。周りの家は土台しか残らなかったのですが、奇跡的に残りました。Aさんはマスコミが大嫌いでしたが、確か7回目にお会いしてようやくインタビューをさせていただきました。
(ラジオで放送したインタビュー音声 約3分)
震災から2年経って1万人いたら1万人の思いがそれぞれ違うんだということを私たちは確認して、その思いをちゃんと伝えて行かなければいけない、十把一絡げでは被災地、被災者というものを語って行けないと思っております。
大熊町から雪深い会津若松に避難している、ある中学生の作文をちょっとご紹介させて頂きたいと思います。
(作文朗読 省略)
昨年の3月1日、福島県で一斉に県立高校の卒業式が行われました。富岡高校は警戒区域にあるため100キロ離れた福島市飯坂町で卒業式が行われました。答辞を述べた生徒会長は神奈川県からサッカー留学で来ていたBさんでした。原発事故があった時、神奈川の家族は彼女に戻って来るように必死に説得しましたが、彼女は富岡高校で卒業することを選びました。答辞でこう言いました。
「人間のコントロール出来ない科学技術の発達によって、私たちは大切なふるさとを、母校を失ってしまった。しかし天を恨まず、自らの力で、自らの運命を切り開いて行きます」。これからも地元のラジオ局として、被災地、被災者に寄り添いながら福島の現状を発信して行きたいと思います。

【報告】福島テレビ 報道局報道部長 鈴木延弘「信頼される原発事故報道を目ざして」

今回の原発事故に関しては初めての経験で、どこまで取材するのかぶち当たりました。我々は事件事故が起きたらとにかく現場へ行けというのが普通で、今回も浜通りの津波の被災地に取材班を何班も出しました。その時私たちの本社には線量計が5本ありましたが、これを持って行けとも言いませんでしたし、そういう事故が起きるということも、もちろん考えなかったので、丸腰で出したという経緯がありました。
それから少し経って、どうも原発がだめだといった時に本社に線量計が5本しかありませんので、フジテレビ系列からかき集めて持たせるという話になりました。必要な線量計が揃うのに10日ぐらいかかったので、それまではちょっと取材に行くのは危ないだろうということで、避難指示が原発の20キロ圏内に出ていたので余裕を取って40キロぐらいまでにしようと。系列で話をしてそういう取材をしようということになりました。
そうなると、20キロから40キロまでは普通に人が生活しているところでしたので、何で取材に来ないんだと。電話取材をして様子を聞いたりしていましたが、避難所でも何でテレビの人たちは被災地に入らないんだと結構詰め寄られたりしました。そうした最初の部分で、初めての経験であったので安全面を考えた結果、現場に行けないというか行かないという選択が、何かマスコミというか私どものテレビ報道が信頼されない原因の一つになったのかなというふうに思いました。私たちはもちろん現場で取材するということと、後は本筋を知っているネタ元を作っておくことが求められますが、残念ながら東京電力にネタ元はありませんでしたし、政府にもありませんでした。
汚染されたわらを食べた牛が流通したという問題は、一方でその牛肉を販売した店名を発表することで回収を促したいというものでした。僕たちは食中毒の報道で原因者がその店だったら放送しますし、もちろん映像付きの方が理解を助けるため、店の映像を出そうとなるんですけども、今回同じ手法で店の映像を放送したところ、「我々も被害者なのに何でやるんだ」と店からクレームが来ました。人権上の配慮が足りなかったのかなということで、店の方にお詫びをしたという経緯があります。
除染の問題については、いわゆる災害の復旧作業というのは基本的には公共工事、公のものなので、事前の断りなんかしないで取材に行くのが普通だと思いますが、例えば自分の家が汚染された、庭が汚染されたというのは極めて高度なプライバシーだというような考え方もあって、取材に行くと必ず何で取材に来たんだというようなことを言われます。取材の主旨を説明すると、分かりましたと言う方と、いやいや私のプライバシーだと言う方とがいまして、これもケースバイケースと言うか、現場できちんと説明をしなきゃいけない、今までと違うなと感じています。
それから、放射線の問題については皆さん非常に勉強をされている、ネットにもたくさんの情報が出ていていろいろな考えをお持ちです。そんな中で、テレビとしてこの問題でどんな情報を出して行けるか非常に苦慮しています。ある学者はこう考えているけども、それが本当に正しいのか良く分からない。昔から私たちは専門家が言うことは正しいだろうというスタンスで取材し、放送してきましたが、専門家にもいろいろな考え方があるということを短い放送時間の中でどのぐらい表現するのか、正解がない難しい問題だなと思っています。
それから当社の報道部員だと今は2年間で4ミリシーベルトぐらい積算で行っている、多い人でそのぐらいだったと思いますが、最初の10日間ぐらいは線量計がなかったので、その時はもう少し強い放射線を浴びているはずなので、もうちょっと行っているだろうと思います。みんな取材に行きたい、例えば第一原発に入りたいというようなことを言うんですけども、許容できる線量は各人ばらばらだと思いますし、どうやって線量をうまく分担しながら、この先何十年と取材を続けて行くかは、多分報道部だけでは解決しないので全社的に考えなければいけない問題だと思っています。
先日、福島第一原発の構内を視察する機会があって現場を見て来ました。そこで2年経ってもなかなか収束作業が進まないという現状を見た時に、原発事故の責任は国とか東電とかいろいろ言われていますけども、私は大人全員の責任なんだろうなと改めて思いました。その責任をどうやって果たして行くかという中で、私たちマスコミの責任というものも、事故への準備がまったく出来ていなかったというところからすればで、かなり反省をして伝えて行く必要があるというふうに思いました。
(この報告にあった、汚染された牛肉を販売した店の映像使用について委員に考えを聞いた。そのあと、被ばくをめぐる視聴者の様々な考えにどう対処しているか福島の放送局に尋ねた)

放射性物質で汚染された牛肉を販売した店の映像使用について

  • 山田委員
    ちょっと言葉は悪くて適切じゃないかもしれませんが、嫌われても伝える義務が報道機関にはあると思っています。それは、報道するには報道する側にそれなりの覚悟を持つ必要があるということではないでしょうか。私としては、まずは目の前に起こっている問題から目を背けることなく、逃げずに報道するということがまず原則であって、その中で風評被害等、報道したことによって生じる影響を考えてどこまで配慮を示すのかということかと思います。ちょっと厳しい言い方になるかと思いますが、配慮を示したばっかりに、どういう問題なのか十分に伝わらない報道をしてしまったのでは、結果的には報道機関の役割が損なわれるのだろうと思っています。

  • 坂井委員長代行
    もともと県がお肉屋さんを公表しているんですよね、放射性物質が検出された肉がこういうお店で販売されたと。汚染されたものは食べない方がいいから当然のことで、店が放射性物質で汚染されたものを売って、そのお店が気の毒だから報道しないという話にはならないと思います。公共性がある話で、市民が食べるべきでないものを食べないようにするために報道する価値があると判断をするのであれば、きちんと話をして納得してもらう努力はするべきだけれども、納得してくれなかったから報道しませんというのでは、報道の責任を果たしたことにならない。段取りをちゃんとして必要な範囲で放送したのであれば、やるべきことをやったということになるのではないかと思います

被ばくをめぐる考え方の違いへの対応

  • 多分一番違いが大きかったのは、自主避難される方と避難されない方ですね。警戒区域の場合はしょうがないんですけども、例えば福島市とか郡山市は原発から60キロ離れていますが、比較的線量が高い。そうすると自主的に避難する小さなお子さんがいるお母さんと、残っているお母さんと2つに分かれています。そういう中で避難されている方に軸足を持って行くと、避難してない方からは当然なぜそれを報道するかという話がございます。ですから、なるべく機会を均等にするというか、一方でこういう事実もありますけども、こういう方もいらっしゃいますよとバランスを取るやり方しかなかったと思います。
    あと、第一原発が今どうなっているのかきちっときめ細かく伝える。政府情報を垂れ流しした反省の意味もあるんですけども、たまたま今ですと、大臣クラスが視察で原発構内に入るケースがあります。視察の情報ではなく、記者がついて行って、発表ではなくて自分が見たもの感じたものを伝える、そういう視点も大事かなと思っています。

  • 当初はインターネットで流されている危機感とか、あおるような情報、そういったものにあまり耳を傾けないで自分たちの報道姿勢を貫くような形でいました。その後はネットの声などもある程度意識して、国が発表するから、東電が発表するから、それを鵜呑みにしてそのまま流すというのではなくて、地元の自治体の考え、一般住民の考え、またネットの中の意見とか、いろいろな立場を考えて報道しているということでしょうか。

【スピーチ】 大石委員「福島を撮って」

私は2011年の5月上旬から福島、宮城の方を取材しました。福島は風評を入れて四重苦ですが、原発となると、放射性物質は目に見えないですので、写真でどう撮るかはかなり厳しいと思いながらカメラを肩に歩き回りました。やっとつい最近、「福島 FUKUSHIMA 土と生きる」という写真集にまとめることができました。写真は音もなく動きもないだけに、想像力で補っていただきたいです。ご覧いただきます。
これは言うまでもなく荒れた田んぼです。土が原点。要するに農民ですから、自分の故郷、大地、田畑が汚染されたら何にもならない。「自分の原点が奪われた」と言って大声で泣く男性です。
仮設住宅ではなく借り上げ住宅に移ったおじいさん、おばあさんと孫2人です。「田畑に毎日出ていると、いい意味の緊張感もあるけれども、ここにいると何もできない、なんだか人間でなくなったような気持ちになってくる。孫がこうしていつも一緒にいてくれるということ、これまでも一緒に住んでいたけれども、今は狭いところですぐ近くにいてくれるからせめてもかな」と自分を慰めていました。
(写真説明 中略)
この人は川内村の農民で、線量が高いために、コメは作れないことになっている。けれど彼は、先祖代々からの田を荒すわけにはいかないと、合鴨農法でコメを作りましたが、「2011年に収穫した1トンは国によって埋めさせられた。去年は2トンの収穫があったが埋めた」と。こうした農民の魂というか、誇りというか、そういうものを私たち消費者もきちんと受け止めなければならないという思いを強く受けながらこの写真を撮りました。
福島には今年IAEAが調査に来ます。チェルノブイリではIAEAが90年ごろですが、「問題ない」と宣言したために、長いこと世界の目が集まらなかったという経緯があります。IAEAが、甲状腺がんとかいろいろ認めたのは8年ぐらい経ってからですね。福島でIAEAがどういう調査結果を出すのかわかりませんが、私たち、とりわけ報道をする人たちは、しっかりと見逃さないでいただきたいと思います。
学者の中にも、100ミリシーベルトでも大丈夫だと言って福島で問題になった例もあるし、2ミリシーベルトでも危ないと言っている人もいます。いろいろな問題が福島の原発の被ばくに関してはあります。丹念に時間をかけて伝えていただければ、視聴者でもある私もとても有難いです。

事件報道における実名と映像の扱い、人権への配慮

休憩をはさんで後半に入り、表題に関係する2事案の骨子の説明に続いて会場からの発言を受けて意見交換に入った。

「委員会決定」の骨子の説明(省略)
三宅委員長  第31号「エステ店医師法違反事件報道」
奥委員長代行 第47号「無許可スナック摘発報道への申立て」

(骨子を説明するなかで、三宅委員長と奥代行は以下の発言をした)

  • 三宅委員長
    決して、首なし映像をお勧めしているわけでございません。できる限りちゃんと首から上も付けていただいた映像にしていただかないと、テレビが率先して首なし映像でシェアされていきますと、日本社会全体が匿名社会になっていって、人と人との交流がそこで途切れてしまう。人間はやはり人と人との交流の中生きていく、成長していくという点からすると、できる限り全体像を伝えて、お互いの交流ができるようにするというのが本来のあり方だと思っております。

  • 奥委員長代行
    実名や顔がちゃんとある報道をしていただきたいという基本ですけども、ただし、行き過ぎるケースとして名誉棄損やプライバシーや肖像権の侵害とならないけども、放送倫理上さらに煮詰めていただくべきところがあるという、非常にきめ細かい判断が要求されてくると思いますけども、これをまた参考に取材で活かしていただければと思うところでございます。

  • (出席者から、映像の使用に関して2つの問題提起があった)

  • 車のナンバーなどのモザイク処理について

  • モザイクの件で、私たちは交通事故の現場に行って車のナンバーにモザイクをかけて放送するということはしないんですけども、最近なんでモザイクをかけないんだという苦情がかなり来るんですね。それに対しては、ナンバーから車の所有者が特定されることがないので、モザイクをかけないと説明するんですけども、あまりにも苦情が来ます。報道以外の番組を見ていると、かなりそういうモザイクがたくさん使われていて、そもそももう世の中モザイクがないとだめみたいな風潮になっているのかなと憂慮していますし、説明に苦慮しているという現実があります。
  • 事件事故の際の顔なしインタビューについて
  • 速報性が求められるというところも原因としてあるのかもしれません。事故現場、火事現場、とにかくすぐ撮って帰らなきゃいけないというところで、顔出しでしゃべってくれる人を捜し出せないという時間的な束縛もあるのかもしれませんが、顔が出ないならインタビューに答えてもいいという人がとても多い。特に事件があって周りに住む人とか、昨日まで一緒に普通に平和に暮らしていた隣人が事件を起こした場合、その人はどんな人だったかとかいう証言とか、特に顔を出すのはだめ、声だけならという方がほんとに多い。

  • 小山委員
    車のナンバーにモザイクをかける必要がないという理由は、警察でない限りナンバー照合することができないわけだからということだと思います。ただ、一般人にはわからなくても、その当事者の周辺の人間に分かる可能性というのはあるわけですね。そうした場合、プライバシー侵害になるという可能性がないわけではありません。『石に泳ぐ魚』というモデル小説の裁判で、原告になったのは普通の女性で、著名人でもなんでもない。ただ、あの小説を通じて分かる人には誰だかわかる。ちょっとなかなか難しいところかなという印象を持ちました。いずれにせよ、ナンバーが見えたから違法とか放送倫理違反ということではなく、放送内容自体に問題がある場合に、ナンバーを通じて特定個人のプライバシー等に対する侵害や、放送倫理違反が生じうる、ということです。
    それから顔なしという話ですけども、この前のグアムの殺人事件では、加害者に近い同級生とかみんな顔を出してインタビューに応じていますよね。文化の違いなのか、日本独自の変な慣習みたいものが形成されてしまったのかという感じもしますが、やはりできるだけ顔を出してもらうように努力するというのが基本だと思います。
    それからもう1つ、顔なしでもいいからとにかく映像を撮ったほうがいいのか、扱ったらいいのかどうかというところも1つ考えるべきことではないかとも思います。場合によってはそれを使わないという、そういった判断もありうるのかな。

  • 奥委員長代行
    お二人の発言は、基本的に同じことだと思うんですね。要するに風潮です。その風潮というのを作り出したのはたぶんマスコミ自身なんだろうと思うんです。しかし、よくない風潮はどこかで止めて、元に戻していかなければいけない。私はBBCのテレビを見る時期がありましたが、ほとんどちゃんと顔を出してインタビューに答えていますね、日本に帰って来てすごく違和感を持った。これは確かに日本社会の特質というか、人前に出てしゃべったりするのを嫌がるというか、恥ずかしいというか、顔がわからなければいいなという、たぶんそういうメンタリティがあると思うんですけれども、だから、速報性とかそういう時はしょうがないでしょうが、ちょっとじっくり取材できる時は顔を出してもいいという人を一生懸命探し出して話を聞く、そういうふうな地道な努力をして、こうした風潮を少しおしとどめていくという、そういうことが必要なんじゃないかと思います。

  • 林委員
    私からちょっとお伺いしたいんですけれども、例えば火事とか犯罪、要するに事件報道のあり方そのものを見直すことはできないのでしょうか。これまで、日本のマスコミは、どんな事件でもとにかく現場へ行く。被害者や加害者の写真を撮る。こうした反射的とも言える行動が、美徳のように考えられてきたような気がします。だから、長い報道の歴史で、「メディアに顔が出る」ことに、積極的かつ主体的に社会的意味づけをしてきたのはメディア側です。したがいまして、私は日本の人が顔を出さないのを、日本人論的な部分で解釈して終わってしまうということにはちょっと賛成できないんですね。
    今まで、現場のみなさんは、「顔出し、実名」で誰かにインタビューし、細かい報道をしていくこと自体が、ジャーナリズムの本質だと理解してきたと思うんです。それだから、ニュースの時間も、それがもっともやりやすい「事件事故報道」が多くなり、取材のリソースもそこに投下されてきた。しかし、そういう報道のあり方自体を見直して、ニュースの価値の基準を少し動かすことができないのかと。今回のこの場でも、東日本大震災の記憶の風化をどうやって食い止めていけばいいかという根源的問題を語りながら、他方で市井の事件報道のあり方をどうするか、という実践的問いがある。この二つの落差をどう埋めるのかなと思います。もしかしたら、東北のテレビ局は、震災によって、たとえば、ちょっと実名報道や顔出しの基準も変わったんじゃないか。さらに、報道の社会的意義の考え方にも変更があったのではないか。そんな期待があるのですが。
    つまり、現場の方は事件報道に対して、顔出す、出さない以上の問題として、事件報道そのものを減らす決断ができるのかどうか、そこがちょっと知りたいんですね。「この事件は、大した社会的意義がないから、今日はやめておこう。」って、そういう話ってありなんじゃないかなって思うのですけども、現場ではなぜそういうことができないのか、と思うことがしばしばあります。

  • 山田委員
    最近の事例で言うと誤報がありました。PC捜査の誤認逮捕の問題、あるいは尼崎の連続変死事件の顔写真問題、誤報ととらえるかどうかは皆さん、各社で違うかもしれませんが、例えば尼崎の場合にはいくつかのテレビ局はお詫び放送をしました。けれども、PCの別件逮捕の報道に関して私の知る限りお詫び謝罪放送をした放送局はありません。要するに、警察発表で逮捕されたのだったら、もう顔写真、実名報道が当たり前で、間違えても何の責任もないというのが現在の放送局、もっと言うならば日本の報道界の慣習であり実態だと思います。
    あるいは、今回のアルジェリアの人質事件でヤフーのユーザーアンケートでは、7割は実名の公表に反対なわけです。実名報道が当たり前で、当然容疑者もそうだし、被害者も例外ではないという考え方は、もうすんなりとは受け入れられないという状況になっていることを、テレビ局はじめ報道機関はもっと自覚した方がよいと思います。ちょっと面倒かもしれませんが、実名報道の意義をきちんと丁寧に説明する時期に来ているのだろうなと思っています。それからすると、さらに一歩進めて「警察発表イコール報道」ということ自体も、一度、議論してみる必要があると思います。もう少しち密な基準作りというか、毎日の日々の取材あるいは報道の仕方の検討ということを、みなさんのなかでしてみていただけませんか。

  • 坂井委員
    小山委員がお話しになった『石に泳ぐ魚』裁判の原告側の代理人をやっていた立場から、ちょっと補足をさせてもらいます。
    決定的に違うのは、あれは小説だと柳美里さんが自分で規定しています。どのようにでも創作できるフィクションだから原告とつながりがないと言っているのに、原告とつながることを書いてしまっている。報道について刑法230条の2が名誉毀損の違法性阻却を定めるのは、事実を脚色せずにそのまま書かないと報道の意味がないという前提がある。そのうえで公共性があり、公益目的があり、真実だったらいいよとなっている、社会的価値が低下しても。だから、小説と報道とはちょっとステージが違うということがまずある。それから、あの小説では極めてセンシティブな個人情報が書かれていたので、車のナンバーとは性質がだいぶ違うんですね。プライバシーに関わるかもしれないけれども、情報の質が違う。
    例えば、交通事故でナンバーをそのまま流しました、でも本当にそれが必要あるでしょうかというチェックは必要です。ふつう分からないといっても、場合によってはプライバシー侵害になるケースがあるかもしれない。しかし北海道の雪の中で50台の高速道路の事故が起きたという時に全部ナンバー消していいんだろうか。これは事実として報道する価値が高いんだ、ナンバーは付けて走るものだということでいったら、それはもうある意味放棄しているということだって言えるわけですよね、例えばですけど。そういう個別の判断をしていかないといけない。
    あと、顔出しは嫌だと言うんだったら、じゃあ結構ですという選択だってあっていいと思うんです。取材、報道する側が、この事実を報道する価値がこれだけある、そして信用性を得るためにもちゃんと顔を出して言ってもらわないと困るということを言っていかないと。言っていけるのは報道する側の人しかいないと思うんです。

【三宅委員長の締め括りのことば】

私自身が、原発事故で避難している人たちに人権があったのだろうか、なぜ裁判所が今までの数々の原発訴訟の中でチェックできなかったのかという問題を考えなければいけないという立場にあります。こういうときに、放送メディアとしては、現場のリアリティある映像、音声を念頭に震災に対応できなかった原発の責任論みたいなのを考えないといけないだろうと思うので、ぜひそういう映像と音声を流していただく役割というものの大切さを持ち続けて、繰り返しいろいろな角度から伝えていただきたいと思います。
それから、実名報道のところで言いますと、報道機関の役割としては国民の知る権利に奉仕するという基本的な立場に立ちつつも、実名報道をした場合の弊害がどういうものかということを具体的に考えながら、できる限り開示をするという方向付けをはっきりしていただきたい。今の通常国会で多分まず最初に出てくるのが社会保障と税の共通番号制度の法案で、医療データと税金の情報は全部政府が握るけれども、当該個人についての重要な個人情報は、政府機関からはほとんど出ない。例えて言えば、匿名化社会で、いわば監獄の中心に政府があって、いろんなデータを持っているけど、周りに収監されている囚人は互いに知り合うことができない、そういう全方向型監視社会になってくるんじゃないかと、危険を感じています。ぜひ匿名化社会になるような映像を流し続けるのではなくて、絶えずチェックするというような視点で取材、放送していただくのが基本的なスタンス、報道機関のあり方ではないかなと思っております。

以上