放送人権委員会

放送人権委員会

2011年 10月

中国・四国地区各局との意見交換会

今年度の「放送人権委員会委員との意見交換会」は、中国・四国地区のBPO加盟放送事業社を対象に10月4日広島で開かれた。広島では2005年5月以来6年ぶりの開催となり、前回の35人を大幅に上回る加盟14社・63人が出席した。委員会側は委員9人全員と事務局が出席した。また記者7人が取材に訪れ、テレビカメラ5台が入った。
当日は午後2時に開会し午後5時に終了の予定だったが、震災報道をめぐって議論が白熱したことから予定を延長して議論を続けた。このため、午後5時30分まで3時間半におよぶ長丁場の会議となった。

◆前半◆

  • 委員長冒頭挨拶
    堀野委員長は冒頭挨拶で東日本大震災と福島第一原発の事故に触れ、66年前に広島で起きたことが別の形で繰り返されたことは大きな悲しみだと述べた。この後、「放送人権委員会が発足して間もなく15年になる。この間39の事案で決定を出してきた。上記の震災など世の中の大きな変動の中で一人一人の人権を扱うことはミクロでマイナーなことと思われるかもしれない。しかし、報道は大局を正確に把握するとともに一瞬たりとも気を緩めてはならず、どんなに小さなことでも正しく公平・公正に伝え、国民に考える素材として価値あるものを提供していくことが任務だ」と指摘した。そして「我々が厳しい決定を出すことで放送局が自粛したり萎縮するとすれば、それは本意ではない。報道は日々の取材でもプライバシーや肖像権の問題が生じるし、不正や疑惑に切り込む調査報道では対象者の社会的評価を下げ、名誉にかかわる問題が生じることもある。それらを含め局は過ちを犯すことがある。しかしそれでも自粛してはならず、問題と正面から向き合い、自らの意図を正確に発信し、国民から支持を得るよう努めてほしい」と呼びかけた。
  • 東日本大震災報道について
    3人の委員が東日本大震災報道についてスピーチした。

    (1) 大石委員「被災地から考える~私が見て、感じたこと」
    私が最初に広島で取材を始めたのは1984年だった。86年にチェルノブイリの事故が起き90年に現地に入った。広島の被爆者たちはチェルノブイリの被災者を自分のことのように心配していた。当時、クレムリンは情報を伝えなかったため避難しない人が多かった。これまで何度か現地を訪れているが、病気の人は本当に増えているし、若い人が指で数えられないほど亡くなったという話も聞いた。
    いま福島で感じるのは報道が本当のことを伝えてくれていないのではないかという地元の苛立ちだ。なかには不安とストレスで眠れず自殺に追い込まれる人もいる。福島の人たちは見捨てられ棄民となっているのではないか。水俣でも感じ、広島や長崎の被爆者にも感じたのと同じことを福島でも強く感じる。
    ジャーナリズムで一番大切なことはどの立場に立って報道するかということだ。私は弱者の立場に立って伝えてほしいと思う。それは福島の人たちの立場に立つということだ。東電や政府の取材においても福島の人たちがどう思うかを常に考えながら伝えてほしい。
    報道の皆さんが寝泊りするところもない中で取材を重ねてきたことは本当にすごいと思う。目の前の悲惨な現実に何をどう伝えていいのか悩まれることもあると思う。その中で一番大事なことは被災した人の立場に立ち、その思いを共有していくことではないか。私も自分自身に何ができるかを考えながらそのことを深く突き詰めていきたい。

    (2) 山田委員「放送メディアの震災報道と被災者」
    ジャーナリズムは現実から逃げずに現実を直視し伝えることであり、想像力を働かせて番組を作ることだ。それが今テレビ・ラジオに問われている。
    テレビやラジオ、新聞等の伝統的なメディアは、最初は速報や一定の安心感の醸成、支援力の形成という点で大きな力を発揮したと思う。但しその後は政府等の公的機関の情報に頼らざるを得ず、”大本営発表”という批判を受けることになった。そこに従来型の取材報道体制への懐疑や批判が含まれていることが重要だ。
    たとえばあやふやな情報や凄惨な画像を流すとパニックになるので放送しなかったといわれている。アメリカの9・11の後にもエリートパニックという話があったが、視聴者は本当にテレビの情報を鵜呑みにしてパニックを起こすのか。それは局の驕りではないのか。改めて考え直してもよいと思う。また放送法第4条にある視聴者への多角的な論点の提示はできているか。たとえば政府は安心だとPRするが、それに対して安心と安全の違いを峻別し検証し伝えることが報道機関の役割ではないか。さらに被災者に寄り添う報道とはなにか。その言葉に放送局の自己満足はないか。最も困っている人、最も弱い人、あるいは東京発の情報に対抗できる地元の見方や意見をどう発信していくかが問われている。
    いま陸前高田市に行くと瓦礫の山は片付けられ、現地はきれいな草原となっている。その中でどう息切れせず、忘却せずに伝え続けていくか。そのためには覚悟が必要だ。中には被災者にとって不愉快で不都合な情報も入ってくるだろう。それも報道し切るという覚悟を持たなければ本当の意味で被災者に寄り添う報道はできないと思う。

    (3) 武田委員「原発報道とメディアへの一視点」
    私は事故の後は現地に行っていない。事故の後にしか行かないジャーナリズムに不満がある。ジャーナリズムは事故の前に現地に行くべきだった。たとえば事故直後、再臨界という言葉が飛び交ったが、知識を踏まえてその危険を伝えるものではなく、圧倒的に事故前の蓄積が欠けていた。いわば事故という抜き打ちテストに日本の報道は合格できなかった。
    地元と原発との関係、原発推進と反原発についても考えておくべきだった。両者の不幸な向き合い方が日本の原子力のリスクをむしろ高め、原発の事故率を高めてしまった側面がある。大本営発表等の批判についての検討も必要だが、事故前に日本の原子力をめぐる構造を分析し報道することができなかった、それがあの事故を招いたという意味でジャーナリズムには責任がある。この問題を考えないと後につながらないと私は思う。
    3・11以後の原発報道もいわば「東京目線」で行われてきたのではないか。たとえば原発の敷地外からプルトニウムが発見されれば大ニュースになる。しかし地元にとっては核種の如何以上に被曝するかしないか、これから生きていけるかが大事だし、避難すること自体がリスクになる人もいる。寄り添うとすれば、そうしたリスクを総合体として伝えないと原発報道は被災者のためにならない。そのあたりは反省すべき点が多い。
    日本のジャーナリズムには速報主義、事実主義、中立公正原則がある。しかし単に早ければよいわけではなく、戦前の原爆開発計画が報道され、原発と原爆の連続性が理解されていれば、日本の原子力史は変っていたかもしれない。またプルトニウムが検出されたという事実を報道するだけでよいのかという問題もある。中立公正原則をあえて踏み越えて寄り添い型の報道が必要な場合もある。
    3・11を経てこの3点を再検証すべき時を迎えていると思う。

◆後半◆

15分間の休憩を挟み、後半は「顔なし、モザイク映像の多用と報道の信頼性」「不正や疑惑の追及とその課題」、「東日本大震災報道」をテーマに委員と放送局出席者との間で意見を交わした。
このうち「東日本大震災報道」では、遺体映像について「日本のテレビでは遺体映像は出ていないが外国のメディアでは海に浮かぶ遺体の映像が流れたと聞く。どう考えるか」との質問が出た。
委員からは、「最初の3か月、半年という範囲では遺体映像を出す必要はないと思う。遺体映像がなくても今回は悲惨な状態についての情報の共有や共感できる絵作りはできたと思う」という意見に対し、「牛や豚が死んでいる映像だけでは真実は伝わらない。次世代にまで伝えるという点では、迫真のある映像を残すことをベースに且つ人間の尊厳を守っていくという観点からまず撮影し、そのうえでボカシを入れるかどうかを議論し、出すべきものは出すという方向性で行かないとメディアとしての意義はない」とする意見が出た。
また「欧米のメディアでは遺体を含むはるかに凄惨な画像が通常放送されている。それと日本での扱いとの間にあまりの段差がある。その理由は明確にし検証していく必要があると思うが、名前が特定できるとか親族には分ってしまう等の場合は別として、遺体であるから放送しないという一般的な原則が果たして有効かどうか、いま少し議論する必要があると考える」とする意見や、「広島の原爆の時も遺体写真がほとんどなかった。いま話を聞いていると66年前と全然変わらない、何を考えて私たちはここまで来たのだろうかと愕然とした思いだ。やはり撮らなければいけない、記録しなければいけない。それを記憶させていかなければいけないというのが私たちの仕事の宿命というか使命だ。そういう映像を撮らなくて済むようになることは大事だが、やはり記録のために撮っておくことは大事だと思う」という意見も出された。
堀野委員長は「原爆の時の黒焦げになったモノクロ写真や東京大空襲の際のおびただしい遺体のモノクロ写真は残っている。もう二度と戦争はいやだという思いはそのような写真を見ることでも継承されていく。災害でも同じことだと思う。特に人災が含まれる災害での死は後世に伝えるべき極めて大きな問題だ。それこそメディアの責任ではないかと思う」と述べた。